春の香りは散りゆく桜の花弁と共に霞み、代わりに初夏の匂いが微かに到来し始める。
肌で感じる熱の度合いが増すにつれ日の入りの時刻は遅くなり、日の出の時刻も段々と早まりつつある。
まるで莫大な熱量を宿すエンジンの様子見の期間が終わったかのような。
温まったエンジンの熱さを感じ、アクセルへの踏み込みを徐々に強くするかのような。
ようは本格的な活動を開始する前準備がもうすぐ整うそんな日の出直後、
とある高校に通う少女は重い瞼を擦りながらも普段通りに身支度を整えた。
「ふあぁ~。眠い。昨日は小テスト尽くしだったからかねぇ…頭おもー」
少女の名前は
福百紀長。彼女を一言で表す言葉があるとすれば、それは『学園都市一のラーメン狂』を置いて他に無いだろう。
福百本人も自称しているところからして、ラーメンへの拘りは生半可では収まらない。学園都市中のラーメン屋を食べ歩くだけでは飽き足らず、自らもラーメンを作り、日夜自宅でラーメンの研究に明け暮れている程だ。
「まっ、それとこれとは話は別。麺作りに関しちゃ徹夜明けだって手を抜かないよ私は」
肌寒い空気で目を覚ましながら身支度を整えた福百が立つのは、第七学区の何処かにある『福百麺工房』という秘密基地。
隠れ家にして彼女が作り上げたラーメンのための研究所。現在、福百が営業の為に引っ張る屋台『
百来軒』のラーメンは全てここから生み出されている。
元々自宅でのラーメン作りに限界を感じ、設備の整った厨房を手に入れるために用意したもので、寂れた通りの潰れたラーメン屋の店舗だったのを貯めていた奨学金と屋台での売り上げを叩いて買って改造した。
小さいながらも二階建てで裏手には『百来軒』の屋台が停めてあり、裏口の表札に達筆な字で『福百麺工房』と書いてある。
「今日の晩は…あの裏通りか。珍しく予約が入ってるんだよなぁ。屋台で予約ってのもおかしな話だけど、初期からの常連さんたっての頼みとあっちゃ断る理由もないよね」
福百が経営する屋台のラーメン屋『百来軒』は学業の関係上、土日・祝日のみ営業である。
ラーメンの味は絶品だが周一で営業場所を移動している為、見つけようと思ってもなかなか見つからない為、巷では幻のラーメン屋として半ば都市伝説のような存在になってしまっている。
そのため彼女のラーメン屋台に通いたければ、インターネットの掲示板の目撃情報を頼りにしたり、 福百自身から次の営業場所を聞く必要がある。
しかし、テスト明けの今夜は普段とはちょっと勝手が違う。とある初期からの常連客たっての頼みで、今福百がいる第七学区とは別の学区に出向く事になっているのだ。
「さぁて、私にできるのはわざわざ『百来軒』のラーメンを食べにきてくれる客へ腕によりを掛けた絶品のラーメンを振舞う事だけ!そいやっ!」
両頬を手で叩き気合を入れた福百は今夜の為に早速麺作りに取り掛かり始める。ラーメンを食べにきたのなら、例え相手がスキルアウトでも客として迎える。それが福百紀長の流儀。
流儀という言葉が気取り過ぎと言うのなら心意気と言い換えてもいい。そんな福百が店主を務める『百来軒』の今夜の客はスキルアウトでも何でもない普通の客人だ。
故に気付く筈も無い。察知できるわけも無い。今夜の営業が数ヵ月先の未来の事象にどれ程の影響を与える事になるのかなど。誰も。誰も。
雲一つ存在しない眩い晴天は、それだけで人々の心を軽くさせる。そこへ後数日も経たない内に長期連休が開始するという事実が合わされば相乗効果は計り知れない。
特に、学業に能力開発に励む学園都市の子供達にとってゴールデンウィークとは課される宿題の存在を盛大に蹴飛ばせば待ちに待った楽しい楽しい時間である事は明白である。
「おはようございまーす!」
「おはようございまーす!」
「お早うございます!桜の季節から薫風が香る季節に移り始めた爽やかな朝ですね!皆さん、今日も一日頑張りましょう!」
薫風香るゴールデンウィーク前の、ある学び舎の校門前では学校における生徒の代表たる生徒会長が率先して声を張り上げ、校門をくぐる生徒へにこやかに、明るく声を掛けている。
時間にしてはもう30分以上もずっと挨拶活動を続けている。嫌な顔などせず、むしろ何処までも笑顔で。額に汗の粒を幾つも浮かべながら。
新学期を迎えて以降ずっとこの朝の挨拶運動を継続している生徒会長の頑張りに、生徒達も挨拶を返す事で応える。他の生徒会役員の多くも別の場所で挨拶運動を行っているだろう。
ここは第七学区に存在する名門進学校の一つ。ゴシック様式の堅牢な校舎と学生寮を持つ歴史ある学院。
その名の通り『ハッキリ物事を知る』ことをスローガンとしており、加えて明瞭な能力至上主義を掲げている学び舎…名は
明知中等教育学院。
「フフッ。この姉ちゃんもボインボインだな。あぁ、一度でいいからこんな胸を揉んでみてぇ」
学院の校門へ続く通学路はゴシック様式に沿った舗装が為されており、道の両脇には等間隔に桜の木が植えられている。
季節が進んだ事で桜は既に散っており、新たな青葉が生い茂りつつあるそんな木の一つに男はいた。正確には太い木の枝の上に寝転がり、片手にいかがわしい本を持ちながら眼下を歩く新入生をチラチラ見ている三十代中盤の男性。
漆黒のテンガロンハットを深く被る男性は手に持つ破廉恥な本に写る女性に鼻の下を伸ばし、今日も今日とて朝礼前の怠惰な日常を過ごしていたのだが、そこへ下方から幾筋もの細い線が飛び掛って来た。
「うおっ!?糸が絡まって…うおわっ!?」
「やれやれ。早朝から貴方は…何を不埒な言葉を漏らしているのですか来栖先生?」
細糸によって強引に地上へ降ろされ、怠惰な日常を終わらされた彼の名は
来栖治鵡。こう見えても明知中等教育学院で教鞭を執るれっきとした教師である。
しかし、普段の不真面目振りや怠惰さから生徒達によく舐められ、同僚の教師達からは痛い視線を頂戴している彼を能力で操作する細糸によって降ろしたのは学院の風紀を司る明知風紀支部の支部長であった。
「何だ貴道か。別に俺がどんな独り言漏らしてようが構わねぇじゃねぇか」
「それが、私達生徒の耳に入らなければまだ黙認しても良かったのですがね」
明知中等教育学院風紀支部長
貴道綱紀。肩にかかるくらいの黒髪をオールバックにしている彼が醸し出す厳正な雰囲気は、来栖より余程大人びていると断言してもいい。
支部長という要職に就く貴道はと来栖の関係は、実は最近まで殆ど無かったと言っても過言では無い。より正しくはいち教師といち生徒の関係を超えない間柄。
不真面目な来栖へ風紀委員である貴道が接触する機会など、それこそ教師と生徒という立場が逆転して来栖の堕落振りに苦言を呈すくらいである。
そもそも多忙な貴道が来栖へ時間を費やす事など無駄な時間、時間の浪費である。百人に聞けばおそらく百人全員がそう答えるであろう。
「いや、普通あの木の高さなら聞こえねぇだろ。お前が聞き耳立ててただけじゃ…あー、もしかしてやっぱお前も俺のエロ話に興味津々…」
「そんな事はどうでもいいんです」
「あーあ、どうでもいいで片付けられちまった」
論より証拠。百聞は一見にしかず。今も来栖が持ち掛けたいかがわしい話を一刀両断する貴道の姿を見れば、どうして真面目な彼がこんな不真面目教師にわざわざ接触したのか、その理由の意味不明さが浮き彫りとなる。
見方を変えれば。逆に言うと。冷静沈着な明知風紀支部の支部長が、早朝から来栖へアクションを起こしたのには並々ならぬ理由があるからだ。
「んで。現在の明知中等教育学院風紀支部長のお前が不真面目先生で有名な俺に何の用だ?」
「つい最近まで慌ただしかったから…というのは言い訳にもならないですが。来栖先生。遅くなりましたが、この度は本当にありがとうございました」
「……斗修の事か。礼なら俺よりあいつを応急処置してくれた近所の医者や、今も治療に当たってくれる医療スタッフに言ってやれ。俺は卒業式をサボっていた所に偶然犯人と出くわしただけだって」
来栖は頭を下げる貴道を見て頭を掻きながらいつぞやの大事件を想起する。あれは歴史ある学院史上前代未聞の事件だった。
生徒達の間では『伝説の卒業式』と名付けられた大抗争。その中心で瀕死の重傷を負ったとある女子生徒を救う鍵となったのが、他ならぬ来栖治鵡であった。
「それでも、貴方は斗修さんの命の恩人です。…たまには貴方のサボリも役に立つんですね」
「へっ、言うじゃねーの。そんな軽口を叩けるって事は…斗修の容態も大分回復したか」
「はい。医療スタッフの方々の治療の甲斐もあって」
『伝説の卒業式』。とある女子生徒の独裁とも言える取り締まりに反発した一部クラスの不良グループにより、卒業式の当日に勃発した大規模な校内抗争。
抗争へ参加した一部クラスの生徒は延べ100人を超える。卒業する生徒達、在校生として卒業生を見送る筈だった現三年生。学院の教師達。卒業式の運行を見守っていた現生徒会に風紀委員。
そのいずれもが突如発生した大抗争によって凄惨な現場に叩き落された。明知特有の文化とも言える多量の携帯武器を有する抗争グループ、
対抗する風紀委員や一般生徒の一部、泣き喚き逃げ惑う生徒達を誘導する教師達、誰もが混乱の渦に取り込まれていた『伝説の卒業式』において平常心を保っていた人物など極々僅かである。
その数少ない一人が来栖であった。学年行事をサボる事で有名な来栖は、いつものように人気の無い場所で卒業式をサボっていたのだが、そこに近くの建物の屋根から銃声が鳴り響いたのだ。
教え子の一人に教えられた木登りの極意を使って来栖は瞬く間に木を伝いながら銃声が鳴った屋根へ上がり、再び狙撃を敢行しようとしていた不良生徒を抑え込んだ。
生徒が持っていた狙撃銃のスコープを使って何が起こったのかを判断し、撃たれて瀕死の重傷を負っている女子生徒の為に来栖は外部への醜態など気にせずに近所の医者へ連絡し急行して貰った。
誰もが突然の事で混乱している最中ひとり部外者の立ち位置にいた来栖の機転もあり、医者による応急処置後救急車で運ばれていった女子生徒は一命を取り留めた。
この件を境に、『内部抗争により生徒死亡』という醜態としては最悪の部類に入る危機を“たまたま”食い止めた来栖の働きを評価した学院側からの視線は若干冷たさが軽減されるようになったと来栖は感じている。
「聞いたぜ。学院長様直々に通告したそうじゃねぇか。一学期間の自宅療養…という名の謹慎処分に二部クラスへの降格、そして『天秤座(リブラ)』の剥奪か」
「……」
明知中等教育学院風紀支部エースにして、『黄道十二星座』の一角『天秤座(リブラ)』の称号を持つ二年生風紀委員
斗修星羅。これは前年度の彼女を言い表す単語の羅列である。彼女こそが『伝説の卒業式』の中心的存在であった。
二年次には既に支部のエースとして目に付いた『悪』を強大極まる精神系能力『倫理転換』によって片っ端から捕縛・矯正する事で知られ、ある意味ではそれ以上の『巨悪』として君臨する『女帝』又は『暴君』等と呼ばれ畏れられていた。
一部の者にとっては明知の『黄金時代』、また別の者にとっては『暗黒時代』と当時の評価は真っ二つに分かれるが、その実力は本物であり、 前リーダーの卒業と彼女の進級に伴い同支部の次期リーダー就任は内定していたという。
だが、『伝説の卒業式』により斗修は緊急入院を余儀なくされた。しかも、容態が安定しつつある最近見舞いに訪れた明知学院長直々に「謹慎処分」、「二部クラスへの降格」、そして「『天秤座(リブラ)』の剥奪」を通達された。
ここで言う「二部クラス」とは明知中等教育学院が掲げる能力至上主義の象徴、一流クラスである一部、二流の二部、落第クラスと呼ばれる三部という所謂『三部制度』における中間的クラスの事を指す。
また、『天秤座』とはこれもまた明知中等教育学院における象徴的存在、レベル4の能力者達へその能力―能力とは超能力の事や個々人の技能などを指す―に関連し宛がわれる黄道十二星座名の事を指す。
とはいえ、学院において12個の称号が存在する『黄道十二星座』が勢揃いする事は滅多に無い。レベル4が12人存在しなかったり、星座名に見合う能力では無かったりして。
「そして、内定していた明知中等教育学院風紀支部長の座も実質的に白紙となった。んで、お前がその座に就いた…と」
「いずれ斗修さんが復帰した暁には、支部長の座を彼女へお返しするつもりです。私は彼女の右腕で在りたい。常々そう考えています」
「お返しするって…あいつはまだ支部長じゃ無かっただろ。はぁ、まあ細かい事はどうでもいいか」
本来であれば斗修が新たな明知風紀支部長になっていたのだがそれもご破算となり、斗修の代わりというわけでは無いが総合的な実力を勘案した結果貴道綱紀が新支部長に着任する形に落ち着いた。
貴道当人としては、いずれ復帰する斗修へ支部長の座を明け渡すつもりだが周囲がそれを認めるかどうかはまた別問題である。
そして、来栖は中々本題へ入らない貴道へ少々イラついてくる。斗修の件で礼を言うだけでこんな早朝から来栖へ接触する事など、『伝説の卒業式』を経て多忙に拍車が掛かっている貴道に限ってそんな事は有り得ないと踏んでいるからだ。
「本題に入ろうぜ。わざわざ俺に何の用だ?お前は今だって忙しいんだろ?普通なら俺に時間を費やす暇なんてねぇだろ」
「実は、卒業式の一件を踏まえこれから私達明知風紀支部がどのような改善策を構築していくか色々模索していた中で、先日生徒会側から連携の申し出がありまして」
「へぇ。申し出たのはあそこで頑張ってる神輿庭姉か?」
貴道が語る本題。それは『伝説の卒業式』から学んだ教訓を次へどう活かすか、その模索案の一つを明知生徒会から提案してきた件についてである。
『伝説の卒業式』では斗修の他にも明知支部員に怪我人が発生した。今は療養中という事もあって支部に顔を出す事は殆ど無い。
『伝説の卒業式』を経験した生徒の多くは心身的に浅くない傷を負った。そんな彼らを支える為に風紀委員として何ができるか。
貴道もずっと考え、悩んでいた『有効策』に成り得るかもしれない案を明知生徒会から持ち掛けてきたのだ。
「いえ。神輿庭会長では無く、殊玉副会長です。風紀支部と生徒会の情報網を交わらせる事で、抗争などの喫緊な事態にすぐに対処するようにできないか…と。私としても、副会長の申し出は一考の余地有りと受け止めています」
「殊玉の奴か。あいつは会長がすげぇ目立つせいで陰に隠れがちだが、あれで結構頭が回る奴だからな。お前もそう思うだろ?」
「そうですね。抜け目が無いというか。非常に合理的な考えの持ち主だと私も思います」
危機感を募らせていたのは明知生徒会側も同様であった。現体制が発足してから数ヶ月後に起きた卒業式の一件。
大抗争が起きた理由を精査すれば、現生徒会側にそれ程大きな非は無かったと唱える人も多少なりと存在するだろう。
現体制の先代が生徒会を運営していた頃から斗修の取り締まりはずっと行われていたのだ。その時点で斗修へ取り締まりの一部見直しを働き掛ける事だってできた筈である。
二年次からメキメキ頭角を現し出した斗修だからこそ、当時の明知支部の対応を横に置いておくと先代の生徒会が『初動』において彼女と学院の治安についてきちんと話し合っても良かった。
今となっては机上の空論でしかないが、生徒会としての責任を考えると先代の運営体制の方が非の割合は大きい。しかし、少なからず現体制にも非はあった。
少なくとも現生徒会長であり、校門前で挨拶運動に精を出している
神輿庭麟子はそう考えている。ここにはいないが、明知支部長の貴道へ話を持ち掛けてきた生徒会副会長
殊玉竜胆のアクションを見ると、彼もまた麟子と同様の考えを持っていると察せるだろう。
「そこで来栖先生にお伺いしたいのです。あなたは数年前実際に風紀支部と生徒会が手を組んで秩序維持に努めていた際、当時の生徒会長と親しかったと聞いています」
「親しかった?俺の同僚にでも聞いたのか?どうせ『親しかった』って優しい言い方じゃ無くて『来栖がよくサボって昼寝していた時の話し相手だった』とか言われたんじゃねーのかよ?」
「……ゴホン!」
「マジで言ったのか。否定できねぇのが辛ぇなあ」
「嫌なら真面目な教師になって下さい」
忙しい貴道がわざわざ来栖へ話し掛けてきたのは、実は明知支部と明知生徒会がタッグを組むのはこれが初めてでは無い事を知った貴道が当時をよく知る来栖へ今後の活動に何か参考にできるものはないかと考えての事であった。
口を揃える来栖の同僚達の『来栖がよくサボって昼寝していた時の話し相手だった』や『来栖のエロ話に全く興味を示さなくて却って来栖の方がムキになっていた相手』などというお世辞にも褒められるような部分が存在しない語り振りから『あぁ、来栖先生は昔から不真面目だったのだな』と痛感していた事はこの際本題とは別なので、貴道はあえて口に出さない。
「そういえば、『天秤座』…だった斗修の先代だったなあいつは。もしかして、何か小言でも言われたか?『先代の「天秤座」ならあんな事は起きなかった』ってよ」
「……」
「気にすんな!貴道。俺は知ってるぜ。斗修がどれだけ明知の平和の為に骨身を削って頑張っていたかって事をよ。あんな頑張り屋を心無い言葉で貶す奴なんか俺がブッ飛ばしてやる」
来栖の問いに対する貴道の無言は果たして肯定を表しているのか、それとも否定を主張しているのか。どちらにしろ尊敬する斗修に対する心無い誹謗中傷があれば、それは貴道にとって腹立たしいものであると来栖は受け止めた。
一応これでも来栖は教師である。迷える生徒を導くのは教師の役目。そして、教師である来栖の目から見て斗修は真っ直ぐな少女でしか無かった。
『悪』を許せず、『悪』に怯える生徒達を守る為に粉骨砕身努力していた正義感の塊のような女の子。斗修のおかげで救われた生徒も数多くいる。
それを見ずにただ徒に悪い面ばかり主張して批判するのはおかしい。そう来栖は考えている。
「来栖先生…」
「そもそもあんだけ胸のでかい女子が頑張ってるんだぜ?嫌でも悪目立ちしちまうって、うん」
「貴方を一瞬でも尊敬しようと考えた私が愚かでした」
「いや、そこは尊敬しろって。俺、教師らしく良い事言っただろ?」
「だったら、全てを台無しにする不埒な単語を挟まないで下さい」
来栖の熱い言葉に感銘を受けていた貴道だったが、直後の不埒な言葉と何かを掴むように手を動かす来栖の言動によって急速に感動が消え失せる。
来栖は日常会話からいかがわしい言葉や動作を挟む。これさえ無ければまだマシだと貴道は常々思うものだが、当人が譲らない為にどうにもならないのだ。
「私は斗修さんが間違っていたとは今でも思っていません。彼女は彼女の信じる正義の下で弱きを助け、強きを挫いていました。彼女が去年度検挙した数は明知の歴代でも一、二位を争うものでした」
「みてぇだな」
「ですが、そんな素晴らしい彼女の働きの末にこんな事態が起きてしまった。その責任を斗修さんが半ば一人で背負う羽目になってしまった。ならば、失意の彼女を今後支える為にも私達は何かを変えなければなりません」
「その変化が風紀支部と生徒会のタッグか。なら、当時の事を知る風紀委員がお前のとこにいるだろ?現場の話は現場に聞くのが王道じゃねぇか?」
「江城先輩は何故か当時の生徒会長の事について話したがらないんです。同じく当時明知風紀支部長だった矯星先輩の事は何でも教えてくれるんですが…」
(あー、そういやそうだった。あいつは俺にも口止めするくらい学院時代の話を黒歴史扱いしてたな)
貴道は連々と言葉を紡いでゆく。斗修の働き振りを明知の『黄金時代』と称する彼は、未だに『伝説の卒業式』を咀嚼し切れずにいた。
起きてしまった事件とその理由について一応の理解はできる。頭脳明晰、冷静沈着な貴道が事の経緯と結末に至るまでの流れを把握できないわけが無い。
だが、納得など全くしていない。それもまた貴道の偽らざる本音だ。『悪』の手から皆を守っていた斗修が何故今のような事態に追い込まれてしまったのか。
納得できないのであれば、納得できるような環境を作らなければならない。責任を半ば一人で背負う羽目になり、失意のどん底に立ち尽くしているであろう斗修を今後支えていく為には自分達も何かを変えなくてはならない。
現状のままでは甚だ力不足。それが明知支部長貴道綱紀の判断。その為なら不真面目教師で有名な来栖にも教えを請う。今回は教えでは無く当時の話を請うだけだが。
「私は独自の判断で歴代の明知中等教育学院の治安状況について今一度徹底的に調べ上げました。そこで私は見付けました。今年度より三年前…私達三年生が入学する前の約1年間のみですが、現状を考えるととても信じられない程少ない抗争数に関するデータを。はっきり言ってあれは私達からすれば異常な数値です。抗争数が余りにも少な過ぎる」
無論貴道自身、来栖へ話を伺う前に調べられる事は全て調べ上げてきた。故にどうしても来栖へ話を伺いたいと考えたとも言える。
かつて明知支部と明知生徒会がタッグを組んでいた頃、つまり今年度よりおよそ三年前の時期に発生した抗争数のデータを目にした時は、貴道は数十秒間呆然としてしまった。
とてもじゃないがデータに記されてある数字を信じる事ができなかった。それ程までに抗争数の数値が少なかった。現状を考えると異常なまでに少な過ぎた。
「江城先輩にも尋ねましたが、確かに当時の明知支部の働きも有効だったそうです。ですが、その中心にいたのは三年前の明知生徒会会長にして斗修さんの先代にあたる『天秤座』を務めた…」
「はい。彼は一体どのような人物だったのかと少々気になりまして。斗修さんの先代にもあたる人ですし、生徒会長を務めた程の人ならさぞかしご立派な先輩だったのかと」
(少々どころじゃねぇ関心の高さだけどなぁ。やっぱ、帝白と斗修を比較して貶した連中がいたのか?それともわざと貴道を煽ってる奴でもいるのか…はぁ)
余りにも少ない抗争の数値は、つまり当時の治安体制がかなり優秀だった事を示している。名門
白帝学園高校へ進学しながら現在も明知支部に籍を置いている先輩風紀委員
江城椎野にも問い質した。
当時の状況を知っている風紀委員が江城だけだからだが、先輩は明知支部の働きについては詳細に説明してくれるものの貴道が知りたい肝心な核心については話をはぐらかす。
わざわざ来栖の所へ貴道が赴いたのもこれが原因と言えば原因だ。貴道が知りたいのは。三年前の生徒会長にして斗修の先代の『天秤座』でもあった先輩。三年前の明知の風紀維持の中心人物であった帝白紫天についてである。
一方、貴道の関心の高さぶりに怪訝な表情を浮かべる来栖は目の前の生徒が抱く焦りのようなものを感じ取る。
『伝説の卒業式』を経たとはいえそこまで付き合いが深いわけでは無い貴道の態度の奥に見え隠れする焦燥感。
普段からして落ち着き払っている貴道が焦りや危機感を募らせる事など早々無い。あるとすれば。例えば…斗修の評価に関わる事。
「貴道。お前の期待を裏切るようで悪いが、あのじじくさい先代は斗修に及ぶべくもない奴だったぜ?」
「えっ?」
「例えば帝白と斗修が決闘したら十中八九斗修の勝ちだろう。斗修はマジで強いからなぁ。決闘の立会いに参加したがらない俺が言っても説得力ねぇかもしれねぇけどな」
常とは様子が違う目の前の生徒の態度から嫌な予感がする来栖は、貴道が抱く幻想をさっさとぶち壊した方が良いと判断する。
諸事情があって明知特有の評価制度である“決闘”―決闘の枠組みの収まるのであれば抗争さえ正式に許可される―に余り立ち会わない来栖だが、実力を測る物差し代わりにはなるだろうと考え説得力が然程無いにしろ自分の見立てを貴道へ告げていく。
「正義感にしても、圧倒的に斗修が上だろうよ。斗修は正義の権化みたく一直線に突っ走ってたが、あのじじくさい先代は不良連中とも喧嘩友達のようにつるんでいたし」
「…では、質問を変えます。同じ生徒会長として神輿庭会長とはどのような違いがあるでしょうか?」
「それこそ比較にならねぇんじゃねーか。ほれっ、見てみろよ」
加えて斗修を斗修足らしめていた正義感の強さについても言及する。はっきり言って、同じ『天秤座』経験者であっても両者が対峙すれば戦闘能力でも正義感の強さも斗修の圧勝である。
おそらく来栖で無くとも同じ台詞を告げる者達は多い筈だ。自身の見立てにコクコクと頷きながら説明する来栖だが、貴道はそれでも納得がいかないようで。
今度は『天秤座』では無く生徒会長という立場から麟子と帝白との比較を貴道は迫ってきた。
「おはようございまーす!」
「おはようございまーす!」
「お早うございます!よく晴れた気持ちのいい朝ですね。今日も一日明知の名に恥じないよう、誇りを持って頑張りましょう!ほら皆、もっとお腹の底から声を出して、元気よく! せーのっ、お早うございます!!……あっ!麒太郎!貴方も生徒会執行役員なんだから私と一緒に…!!」
「悪ぃ姉貴。雑魚の魚交じりってやつだよ。俺の居場所は…そこには……」
「麒太郎!」
来栖と貴道は同時に校門の方を見やる。笑顔で挨拶を返してくれる生徒達へ満面の笑みを浮かべながら言葉を掛ける麟子の傍を、彼女より頭一つ大きい男子生徒が通り過ぎていく。
生徒会長神輿庭麟子の双子の弟で、一応生徒会執行役員の一人でもある
神輿庭麒太郎は姉の呼び掛けに冷めた言葉と態度で応えながら足早に校門をくぐっていった。
後方から何度も自身の名を呼ぶ姉を振り返りもせずに去っていく弟。彼が何故このような態度を取るようになったのか、理由は少々以上に複雑だったりする。
「あらら。神輿庭弟は相変わらずのやる気の無さだなー」
「『根拠のない自信を並べる割に動こうとしない口だけの奴』と陰口を叩かれているようですが、叩く人間は論外として彼も甘んじてその評価を受け入れてる節があるのが神輿庭会長としてもやりきれないでしょうね」
風によって緑の葉が枝から地面へ落ちる中、神輿庭姉弟の一連のやり取りを眺めていた来栖と貴道は各々麒太郎に対する評価を口にする。
込み入った事情は知らないが、それでも麟子の心情を考えると溜息の一つも吐きたくなるというものだ。
「見ろ、貴道。自分の弟が不真面目な態度に終始するにも関わらず神輿庭姉の評価には何ら影響が無いどころか『不真面目な弟を持って会長も大変ねー』みたいな同情の視線すら集めてやがる」
「会長頑張ってー!」
「弟君は相変わらず感じ悪いよねー」
「……神輿庭会長の特筆すべき力…所謂カリスマですね。私もあれだけのカリスマ性を持つ人間をこの目に映したのは斗修さんに続いて二人目です」
去っていった弟を見送った麟子の顔がどんどん曇り出したが、そこへ周囲の生徒から励ましの声が掛かり始める。
実の弟への批判も耳に届く中、生徒会長は励ましの声に応えるように再び挨拶運動を開始する。すると、以前より生徒から返ってくる挨拶の声量が大きくなった。
挨拶だけでは無く応援や励ましも混じり始め、それが一つのうねりとなって校門前の空間を覆っていく。
現生徒会長神輿庭麟子が持つ特質。個性。素質。それは比類無きカリスマ性。まさしく生まれ持った才能、天からの授かりものとしか言い様のないそれを以て彼女は学生の長の座に君臨している。
「話を戻すけどよ、帝白にあんなカリスマはねぇぞ。『女帝』だ何だ囁かれる程すげぇ実力を振り撒いていた斗修にも劣る。神輿庭姉程校外の慈善活動に参加しなかったし、そもそも普段のあいつの頭の中は趣味のサーカスでパンパンだったしな」
「…ッ!」
来栖は改めて麟子と帝白を比べてみる。間違い無く、かつての教え子にあんなカリスマ性は存在しない。『女帝』と謳われた斗修にだって劣るだろう。
彼女達の才覚、素質はまさに天性と称するべき代物だ。それに対して単純な比較論を持ち出すなど、話をややこしくするだけのお邪魔虫でしかない。
「だからよ、帝白を神輿庭姉や斗修と一々比べんな。二人共、あのじじくさい先代に勝る点は幾つも持ってる。誰に言われたか知らねぇが、くだらない意見に振り回されんな貴道…」
来栖は、現在の貴道が斗修や麟子と帝白を比較する事に拘ってる節があると考え、その比較論に然程意味が無い事を暗に告げる。
斗修も麟子も、帝白に勝る要素や優れている点は幾つも持っている。そもそも過ごして来た環境も違えば、各々の性格も全く異なる。
そこに単純な比較論を当て嵌めても有益な回答は出ない。出る筈が無い。ここまで言えば。明知風紀支部長を務める程の実力を持つ貴道綱紀なら理解も納得もしてくれる。
そう来栖は考えていたが、現実は彼の想定通りにとはならなかった。
「では……来栖先生はこう仰いたいのですか?斗修さんや神輿庭会長は、さして特筆すべき力を持たない三年前の生徒会長にすら劣るのだと!?」
風の気の向くままに空中を漂いながら地面へ落ち掛けていた葉が、目に映らない何かによって木っ端微塵に切り刻まれる。
乱暴なまでにズタズタに刻まれた葉を視界の焦点を合わせていた来栖が再び貴道に焦点を合わせる頃には、彼は普段では絶対に拝めないような表情を浮かべていた。
理解もできず、納得など絶対にせず。顔色から伺える貴道の感情はそんなところ。来栖は、一度だけ貴道のこんな表情を見た事がある。
『伝説の卒業式』で狙撃された斗修を抱えながら必死に言葉を掛けていた時の焦りと怒りに染まった表情を狙撃手から奪ったスコープ越しに見ていた来栖は思い出す。
「……貴道」
「……はい」
ならば。視野狭窄に陥っている教え子にどう応えるのが最善手か。これを見誤る程、明知中等教育学院の創立に関わった神輿庭家などと並ぶ御三家の一角である来栖家の現当主来栖治鵡が歩んできた人生は浅くない。
「お前は斗修や神輿庭姉を帝白と比較されたくないのか、帝白と比較して斗修や神輿庭姉の方が絶対有能だと証明したいのかどっちだ?」
「……ッ!」
「俺の知ってるじじくさい先代『天秤座』ならこう言ったろうぜ?『矛盾を抱えるおぬしが拙速に結論付けようとしている今回の比較は、おぬしから見てどんな価値が映っておる?』ってな」
きっと、こんな貴道を目に映せるのは斗修関連だけなのかもしれない。それ程貴道にとって斗修は大切な人間なのだ。
だから、来栖は心を鬼にして断言する。明言する。『お前は視野狭窄に陥っている』と。『お前の比較論は間違っている』と。
説得力の有無などどうでもいい。真面目不真面目など知った事では無い。必要なのは、言葉を受け取る迷える教え子がどう感じるのか。その一点のみ。
「何焦ってんだよ貴道。お前斗修の右腕だろ。あいつが帰ってくるまであいつの居場所を守らなきゃいけねぇんだろ。卒業式からこの方ずっとバタバタしてるのはわかるけどよ、意味が不明な比較論に陥るくらいなら帝白の実績を参考になんかするな。お前には…お前等今の明知支部ならではのやり方ってのがあんだろ。それを着実にこなしていったらいいんじゃねぇか?」
怪我が完治し、再び学院へ通うようになった暁には斗修への風当たりがキツくなるのは想像に難くない。
『伝説の卒業式』のインパクトは絶大だ。良かれ悪しかれ、あの一件の影響は斗修へ押し寄せる。むしろ復学してからが本番なのだ。
その時に斗修を支える貴道が視野狭窄に陥っていてどうする。斗修の居場所を守れるのは貴道達明知支部を置いて他に誰がいる。
今度はちゃんと言葉に出して来栖は貴道の焦燥感を指摘する。そして、真摯な意見を受けていつまでも呆然としている程貴道は鈍くは無い。
「…………そう、ですね。私とした事が、どうやら未だ卒業式の一件から立ち直ってはいなかったようです。醜態を晒してしまいました。申し訳ありません」
「いいって事よ。俺なんか日頃から醜態を晒しまくりだからな。たまにはカッコイイとこ見せないと、学院長様に学院からトバされるかも」
「ハハッ……」
最後に冗談を交えながら普段のような会話に戻った貴道と来栖。どうやら来栖の思いは貴道へ伝わったようだ。
理解も納得もした貴道は笑い声を漏らしながら少しばかり逡巡した後、意を決して来栖へ問い掛ける。
「では、これは比較論では無く純粋な興味としてですが、帝白先輩は斗修さんや神輿庭会長とはどのように違っていたんですか?」
三年前『天秤座』や生徒会長を務めた帝白紫天は斗修星羅や神輿庭麟子とはどう違っていたのかを。単純に比較する為だけに問うのでは無い。
あれだけ抗争数が少なかったのには絶対に確たる理由がある。そして、中心人物たる帝白に理由の根幹が存在する筈である。
物事の本質を見極める為に比較する。単純に優劣や好悪を競い合う為では無く、将来へ活かせる何かがあって欲しいという願いを携えて。
「……楽しかった」
「『楽しかった』…ですか?すごく抽象的ですね。それが斗修さんや神輿庭会長との違いですか」
「そうだ。貶すわけじゃねぇが、あいつが斗修や神輿庭姉より優れてる点があると言えばあいつが生徒会長だった頃はマジで楽しかったってとこだな」
いつもの調子を取り戻した貴道の問い掛けに来栖が出した答えは、ひどく抽象的な代物だった。人間の感情の代表ともされる喜怒哀楽。
その内の一つである『楽しさ』。それが帝白の本質であり、斗修や麟子との差異であり、抗争数を抑え切った要因であると来栖は捉えている。
「斗修はお前が言う『悪』側からすりゃ余りにもやり方が横暴だった。そこに誰も口を挟めなかったのは教師である俺にも責任が無いとは言えねぇ。だから悪目立ちしたし、反発を生みやすい土壌を作ったのは否めない。斗修が正しい事をやってるってのを前提に言ってんぞ?誤解すんな」
「その言い分には納得はしていませんが…続きを」
斗修が悪手を打った部分を指摘するならば、やはり取り締まり方の強引さだ。『悪』に走る輩の思想など無視してもいいという意見は確かに存在する。来栖も一理あると受け止めている。
被害者からすれば加害者の事情など関係無いから。『悪』に走る事自体が罪だから。反論の隙さえ存在しない言い分だ。
とはいえ、情緒が不安定になりがちな思春期を送る子供達全てにその考え方を当て嵌めてしまうと何処かに必ず歪みが発生する。反発という形で顕現する。
斗修の取り締まりが水面下で大きな反発を生み出していたのは間違いない。そして、『斗修が動けば事件は解決する。学院も安泰だ。斗修に“一任”すれば全てが収まる』という考えが秘かに『善』側の無意識下に潜んでいた事は否定できない。
だから、先代の生徒会も現体制の生徒会も明知支部も斗修に反論しなかった。『できなかった』のでは無く『しなかった』。『できなかった』と言ってしまえば、それは唯の逃げである。責任逃れである。
結局、積もり積もった歪みによって崩壊を向かえたのが『伝説の卒業式』であり、責任は加害者を除けば半ば斗修一人に押し付けられた。そんなところまで“一任”されたのだ。
「神輿庭姉はな、まさに天に選ばれし人の上に立つカリスマを持った才女ってヤツだな。でもなぁ、何でかあいつ一部の友達を除いて他人へ踏み込む事を恐れてる節があるんだよなぁ。やっぱあいつの能力が関係してんのかねぇ?」
「…精神系能力は色々誤解を生みやすい性質がありますからね」
「そうだな。そのせいか、自分を排斥しようとするグループと擁護するグループの間で抗争が勃発しても主体的に関わらないだろ?おそらく『信託領域』で洗脳されたとか何とか言われる切欠を作らないようにしてるんだろうがな。きっと、本心では心を痛めてるだろうに。今だって卒業式に在校生代表として参加していた手前、胸の内は凄く苦しいだろうに、それでもあんなに声出して皆を元気付けようとしてくれてる。頭が下がるわマジで」
在校生代表として卒業式の運行に関わっていた現生徒会へも批判の矛先は向けられた。しかし、それも今や消滅し掛けていると言っていい。
生徒会長神輿庭麟子が主体となって動揺が広がっていた生徒に学院の協力を得てカウンセリングなどの措置を取った事が始まり。
緘口令が敷かれた事で外部へ口外できない生徒に対し新学期開始当初からずっと朝や放課後の挨拶運動を実行し、休日は独自に学院内の警備体制や施設の老朽化の度合いなどつぶさにチェックしている。
その途上で生徒からの要望があればすぐさま生徒会の議題に上げ真剣に取り組むなど、生徒の為にありとあらゆる事をすると言わんばかりの働き振り。
合間を縫って校外の慈善活動にも積極的に参加しており、今や明知の中で最も多忙な生徒という噂も流れている麟子の頑張りを目の当たりにする事で『伝説の卒業式』で傷を負った生徒の多くに笑顔が戻り、ゴールデンウィークを間近に控えた今日では卒業式前の空気が大方戻ってきたとの評判である。
麟子のカリスマ性を支えるのは彼女自身の努力。それがカリスマを更に高めるという相乗効果、好循環を生み出し続けている。
そこに彼女だけの苦悩があり、本当の意味でその本質に誰も近付けず、それでも麟子は気丈に振舞い続けるという悪循環を抱えながら。
「誰しもが完璧では無い事の証明であると言ったところですかね」
「あぁ。そこで帝白はどうだったかと言うと…カリスマも人の上に立つ資質もロクに無い、自分で自分の事を『選ばれた者なんかじゃない』なんてのたまいやがるじじくさい人間。だが、あいつは人を楽しませる事に関してはマジで凄かった。そして、実際すげぇ楽しかった。その辺は今の斗修や神輿庭姉じゃとても真似できねぇ芸当だったぜ」
そんな二人と帝白との違いを一言で表すのに相応しい言葉こそが『楽しさ』なのだ。帝白を含めた誰もが楽しんだ学院生活。
一年間だけだが抗争数を抑え切り、皆が充実した思春期を送れた主要要因であり中心的人物帝白紫天の手腕は、今の斗修や麟子では到底真似できない。
「あいつが会長だった頃の生徒の顔はどれも充実したもんばかりだった。学年なんか関係無い。あいつが無風選挙で会長に選ばれたのも『帝白なら俺達私達を立派に導いてくれる』なんて期待があったからじゃねぇ。『帝白が会長になったら絶対俺達私達の学院生活は楽しくなる』みてぇな空気が充満してやがったからだ」
「楽しみ…充実……そうか。だから、あれだけ抗争数が少なかったのか。目に見える検挙数の高さが斗修さんの有能さを示す指標なら、抗争すら殆ど起こさなかった目に見えない貢献度の高さが帝白先輩の有能さを示す指標か」
「別に全て帝白の力なんかじゃねぇ。あいつはよく人の手を借りてたしな。人たらしってヤツだよ。ここにあいつがいたら『わしの力など微々たるもんだのう。皆のおかげじゃ』とかほざくに決まってるぜ?」
他人の力を借り、自分の力を示し、全員が楽しい学院生活を送れるよう努めた帝白は斗修や麟子とはまた違った魅力を持っていたのだろう。
そこに単純な優劣や好悪は持ち込むべきでは無い。単なる比較論や結果論を掲げるべきでは無い。斗修も麟子も帝白も皆努力していた。自分なりの価値基準に従って励んでいた。
将来へ活かせるものを探る観点から強いて言うならば、帝白は斗修や麟子より他人の力を借りる事が多くて、他人へ本音をきっちり明かす事もできて、他人に怒られまくって、それでも自分を含めた全員が楽しめる環境作りが上手かった。それくらいである。
「だからよ貴道」
「はい」
「学院生活の充実度とか何とかはいずれ本領を発揮してくれるだろう神輿庭姉に任せるとして、お前等の課題は斗修に頼るだけじゃ無くてお前等支部員全員の実力向上で斗修の出る幕すら無くすくらいに励む事なんじゃねぇか?」
突出した実力を持つが故に孤立に類似する立場に立っていた斗修の為に今からできるのは、彼女を支えるだけでは無く彼女を追い越せる程までに明知支部員の実力を向上させる事。
木の葉を隠すなら森の中では無いが、目立ち過ぎるのが悪循環の一端を担っていたのであれば皆が目立てばいいという結構強引なやり口である。
来栖がこんな事を貴道へ言ったのは発破を掛ける意味もあった。貴道なら自分の言いたい事を見抜いてくれると信頼して。
「それは困りますね。私はあくまで斗修さんの右腕を希望します。まぁ…彼女の負担を減らす努力を積まなければならないですね。副会長の提案も前向きに考えてみます」
「頑固だなぁお前」
「えぇ。筋金入りです」
「まっ好きにやれよ。…もういいよな?」
「はい。お手間を取らせてしまいすみませんでした。では、これで失礼」
返答は来栖の予想を少し外したものとなった。貴道の斗修へのゾッコン振りは筋金入りだ。そこに恋愛だの何だのといった感情があるのかどうかもイマイチ読み取れないのが貴道綱紀という男なのか。
とにもかくにも来栖との会話で憑き物が取れたような貴道は副会長の打診に有益性を感じながら、抱える仕事もあって来栖へ礼を述べてから校門へ向かっていった。
貴道が去った後一人桜の木の下に残った来栖は、いかがわしい本を閉じ眩い晴天を見上げながら一つ溜息を吐いた。
「……今日という日に帝白の話をする事になるなんてな。偶然ってのは恐ぇな。まぁ貴道のおかげで俺も決心は付いたかな」
人間誰しも予想だにしない偶然に遭遇する時があると言うが、来栖にとっては今このタイミングがそれなのかと考えさせられる程に貴道の問い掛けはタイムリーであった。
予言ではあの雲一つ無い空模様も今晩からどしゃぶりの大雨となる。それは、来栖が待ち望んだ時期でもあった。
「さて、俺も職員室に行きますか。今日は定時で上がらねぇと。……頼んだぜぇ、矯星」
…to be continued
最終更新:2015年12月26日 01:13