――羽ばたけバタフライ、今、全てが書き換えられる


♠  ♥  ♦  ♣


「私がいなくてもいい世界のために」

彼女は、過去をやり直すことで、望む未来を観測しようとした。




牛丼に割りいれた生卵はまろやかさをプラスし、醤油の味付けの濃さを緩和してくれる。
そして日本人にとって、醤油と生卵は極めて相性の良い組み合わせの一つだ。
そんな牛丼を山盛りのマヨネーズで染め上げてしまうのは、いったいどういう了見なのだろうか。
サーヴァントのためにルームサービスから牛丼を注文するたびに、牧瀬紅莉栖はそう思う。

ちなみに、一人で泊まっているのに二人分を注文すると怪しまれかねないので(そしてさすがにビジネスホテルには自分で料理できる場所もないので)片方がルームサービスを頼むときは、もう一人はコンビニなどで買い置きしたものを食べることが多い。
そして紅莉栖が何を食べようとしても、そのたびにマヨネーズを勧められた。
今のところ全て断り続けている。紅莉栖自身も創作料理では『色々混ぜた方が美味しくなる』主義だけれど、あれは料理というよりもマヨネーズをメインディッシュにした何かだ。

「そりゃ人間じゃないやつもいるだろ、聖杯戦争なんだから」

その病的なまでのマヨラーサーヴァントに、牧瀬紅莉栖の仮説はばっさりと両断された。
それも、否定ではなく肯定の両断を。

「ちょっと、適当に言わないでよ。一般人の私には死活問題なん――」
「わぁーかったわかった、皆まで言うな。
 俺がファントムと戦ってきたって話はしたよな。あいつらだって元は人間だし人間の姿をしてるけど、人間とは別の生き物だ。
 それに、『魔法使い』だってちょっと変わってる。体の中にファントムを飼ってるんだからな」

そう言って、マヨネーズ牛丼を一気にかきこんだ。
紅莉栖はなるべくそれを直視しないよう、ベッドに腰かけ鏡台の方を見て話す

「確かにそうだけど、私が言いたいのは、同じ人間として話の通じない連中がいるってことよ。
 私たちの目的は聖杯の破壊。だから、殺し合いをできるだけ避けても――あなたに『殺人』を命令しなくても何とかなるって、どこかで思ってた。
 それが、相手が話の通じる相手なのかそうじゃないのか、後者だったなら人間なのか化け物なのかで、話が全然変わってくる」

戦うのはキャスターの役目とはいえ、それを依頼するのは紅莉栖だ。
そして彼女は、先刻の御目方教近辺で初めて人間離れした者同士の戦いを見た。
人間を生きたまま貪り食らう化け物たちと、その化け物たちの首魁であるかのように陣取って、刺すような獣の眼をした狂戦士の少女を見れば、嫌でも認識が甘かったと知る。
自分のこともそれなりに客観視できる性質である彼女は、その時に受けた恐怖がそのまま今後の不安材料になるのではないかと懸念している。

それに、本当はきっとそれだけではない。
あのバーサーカーや使い魔自体への恐怖もあったけれど、別の恐怖がある。
『ただの人間が限界を踏破して、行き着いた先であんな異形になる可能性がある』という事実が恐ろしい。
それは、牧瀬紅莉栖にとっては他人事ではない案件だから。

「じゃあ逆に聞くけどよ、何ができて何ができないのが『人間』なんだ?」

しかし、彼女のサーヴァントは、意外な切り口から問い返してきた。
紅莉栖もとっさには言葉が浮かばない。先刻の戦いで恐怖したところから考えていく。

「それは、例えば、人間はあんな風に人間を食べたり、食べさせたりしないし……」

例えば人間は、人間を捕食する生き物を生み出すことも、魂食いをして栄養源にすることもできない。
例えば人間は、死んだら生き返らない。過去に戻ってやり直すことさえ、本当なら望ましくない。
例えば人間は、大切な人が今夜に死ぬことが分かっていても、冷静に次のタイムリープをする算段を立てることなんか――

よく知っている青年のことを連想しかけて、その人を『そういう』例示にした自分自身に、猛烈に腹が立った。

しかし魔法使いは、紅莉栖が言いよどんだことに悪くないという風に頷いた。

「つまり、人間を魂食いできても、それをしない奴なら怖くないわけだ」
「それは、そうだけど……どういう意味?」
「あんたは俺が魔力を食ってたのはびびらなかっただろ。
 マスターがちゃんとそこを分かってるなら良かったってことだよ。
 魔法使いのことや賢者の石の話をしたした時も、普通に受け入れてたな」

賢者の石――それを動力源として娘を生き返らせようとした男の話も、紅莉栖は『魔術でできることの限界』としてキャスターから聞いている。
キャスターの最大最高のライバル――指輪の魔法使い、操真晴人の大切な人で、そしてキャスターにとっても大切な友人だった少女のことも。

「俺の知ってる子は、間違った方法で人間じゃないまま生かされてた。
大勢の人間を絶望させて、殺して手に入れた魔力で作られた子だった。
でもな、その子は色々あったけど人間として生きてた。
飯も食えない体だったけど、俺たちと一緒にランチタイムを囲んで、笑ってた仲だったんだ」

牧瀬紅莉栖が言うところの、世界線の宿命とやらに反して生かされていた少女だった。
最後には、自らの意思で眠ることを選んだ。
しかし、魔法使いは『人間ではない状態のまま生きていたこと』自体を否定しない。

「あんな凶暴な連中を怖がるなってのは無理だろうけどな。本当に怖ぇのは人間やめてることじゃねぇんだ。
 だから、人間なのかどうかで考えすぎてもキリがねぇし、しんどいと思わねぇか?」

だから難しい話はほどほどにしとこうぜ、と言わんばかりにキャスターは関心が無さげだった。
しかし、その言葉でほつれていた思考の糸がすっとほどけていくような感覚がした。

確かに、そこじゃなかった。
正否を問うべきは、人の境界の外にいることではなく、自身の意思で選択的にその境界を超えたということ。
そして、その奇跡を得るために、多くの人々を傷つけ犠牲にしても構わないという考えだ。

「その通りね。私の論点がずれてた」

岡部倫太郎と牧瀬紅莉栖は、タイム・リープして過去を変えることで未来を変えようとした。
過去のどこかに正しい選択肢が存在して、それさえ選べば正しい未来がやってくるという考えのもとに、分岐の元を探し続けた。
しかし、過去を変えたことで無かったことにされた思い、失われた存在も間違いなくあった。

犠牲になることを受け入れてくれた仲間たちに感謝をしながら。
所詮はエゴでしかないと罪悪感を抱えながら。
それでも、自分たちにとってやさしい世界を目指して、再構築をしてきた。

「それにしても、グリフォンちゃんおせぇなぁ……」
「覗いてみたら? 使い魔の見てるものは、貴方の鏡に映せるんでしょ?」
「さっき見たんだが何か運んでるみたいでよ。荷物の影でぶれてはっきり映らねぇんだわ」

しかし。
話題を変えて会話を続けながらも、紅利栖の思考はまた別の方向を向き始めていた。

仁藤は、魔法の儀式で死後から無理やりに蘇らされかけた少女の話をした。
莫大な魔力と、それを注ぎこむ賢者の石さえあれば、その奇跡は起こせると信じた魔法使い達がいたこと。
ひとつの都市に住む人間すべての魔力を吸い上げて、そのための魔力として充てるという、エクリプスの指輪と魔方陣の儀式のこと。

仁藤の世界では、東京都全域に住む人々の魔力と、覚醒した魔法使い4人の魔力を利用しても、1人の少女を蘇らせる可能性が少しはあったかもしれないぐらいだそうだ。
では、それ以上の、『あらゆる奇跡を起こす』という聖杯によって、願いを叶えるための魔力はどこからやって来る。
無から有が生まれるように、誰も何も成すこと無くその奇跡が生まれるとは紅莉栖には思えなかった。
化学と魔法ではシステムが違うにせよ、仁藤の話を聞く限りでは、質量保存の法則らしきものはあるようだ。何もないところからエネルギーは生まれないし、エネルギーは消費されてしまえば別のものに置き換わる。
町から魔力を吸い上げて願いを叶えるのではなく、願いを叶える者を選ぶために一から町を作り上げるのでは、順番がまったく逆だ。

もしも。
聖杯戦争を開くことによって、奇跡を起こすための魔力が集められるとしたら。

仁藤攻介は、撃破したサーヴァントや使い魔の魔力を、エネルギー源として食らうという。
では、その仁藤攻介が敗退すれば、散っていった魔力はどこに行く。

――もしもこの町から膨大な魔力が発生するとしたら、それは敗退したサーヴァントの魂を吸い上げたものではないのか。

愉快な仮説ではない。
それはキャスターもまた、願いをかなえるための生贄の一人ということだから。

ちなみに、彼女の考察とそっくり同じことが市内の図書館の文献には書かれており、それをアドラーというマスターも確認しているのだが、常識的な性格の彼女は『まさか一般の図書館に聖杯戦争のことが書かれた本が普通にあるはずないだろう』という先入観からこれをスルーしている。
そのために、あくまでキャスターの証言と己の思考力だけを頼りに到達したというわけだ。

彼女はその確信を、未だ持たない。

「――おっと、うわさをすりゃあお帰りだな」

コツコツと、ガラス窓を爪でたたくような音がした。
窓べりから、帳簿のようなものをくわえたエメラルドグリーンの小さな使い魔が帰還を知らせる音だった。


♠アーチャー(ヴァレリア・トリファ

この儀式は、ひとつの町を生贄にして、願いを叶えるための儀式である。
それも、英霊の魂を殺し合わせることで、短期間のうちに莫大な魔力を充填する蠱毒である。

彼はその確信を、すでに持っていた。

「しかし、まさかこんなところに傍証が置かれていたとは……」

マスターと一時的に別行動をとり、アーチャーのサーヴァント――ヴァレリア・トリファはK市のやや郊外にある市立図書館に赴いていた。
なぜかと問われれば、マスターから指示されたからだ。

ヘンゼルとグレーテル、そのサーヴァントが活発に動くとしたら夜中から朝方にかけてになる。
そして、彼らを討伐すべくマスター達が活発に動き出すのも、やはり夜中だろう。
だから、青木奈美は今のうちに日没頃まで睡眠をとる。
プリンセス・デリュージは薬物の力に頼って変身する人造魔法少女だ。
人間体で過ごす時間もその分だけ長いし、それだけに完徹をするなら体力の充填時間はより必要になる。
そして、当然サーヴァントには睡眠は必要無い。
奈美が休息している間に、アーチャーは、ヘンゼルとグレーテルのこれまでの犯行現場を洗い出しておくように。
現場の洗い出しとは、と具体的に尋ねると、さらに淡々と説明される。

かつて、ピュアエレメンツのメンバーの一人、プリズムチェリーは『敵(といっても研究者の自演だったが)』が出没する位置、時間を記録につけて、出現予測をしようとしていた。
もしヘンゼルとグレーテルを討伐しようとするマスターならば、彼等もこれまでの連続殺人の犯行を調べて、その傾向に則って動くぐらいのことはするだろう。
より手段を選ばないアプローチとしては、アサシンたちを見かけたという偽の目撃情報を流して待ち伏せたり、アサシンたちの仕業に見せかけるようにNPCを襲うなどして積極的にアサシン討伐者をあぶりだしていく策もあったけれど、
一歩を間違えればアサシンたちではなく奈美たちが本命として追われる側になってしまうので、強硬な策はまだ保留する。
いずれにせよ、アサシンたちのこれまでの犯行を正確に知れば、討伐者側の行動を追う一助にはなるだろう。

なるほど、半分以上は理屈として筋が通っている。
しかし、理由のもう半分は、アーチャーを面倒な作業でこき使いたいから、という嫌がらせだろう、たぶん。
マスターに手段を選ばず何でもやれと忠言をしたのだから、お前もサーヴァント(使用人)らしく使われるぐらいのことはやれ、というわけだ。
そして今朝の時点ですでに実体化したまま単独行動をして、ほかのサーヴァントと遭遇、マスター抜きの交渉までしてきた前科がある以上、『そんな公共の場所で作業するのはリスクもありますし嫌です』とも言えない。
だから彼は、先刻までここ一週間分の新聞紙とK市全図を見比べてのにらめっこをしていた。

「嗚呼。私には冷血で人使いの荒い女性に酷使される因果でもあるのでしょうかねぇ……」

よよよ、とぼやきながら洋書の書架を通りすがった時に、その『拾い物』を見つけた。
そして今、『聖杯戦争』に関する文献を紐解くまでに至る。
(裏表紙にはさまれた貸出者カードにはヒムラーという名前のみが書かれていたが、借りなかっただけで他にも目にした者はいるのかもしれない)

ともあれ、思わぬ形で、以前から確かめたかった『解』を得ることはできた。

その解とは、あまり好ましくないものだ。
すなわち、聖杯戦争には『聖杯を勝ち取った主従の願いを叶えること』以外にも別の目的――それも、願望機を狙う者達には伏せておきたい目的が、隠れているということ。

なぜなら、この儀式は、あまりにも似ていたからだ。
アーチャー――ヴァレリア・トリファにとって聖杯戦争は、否応にも『彼の悲願だった儀式』を思い起こさせるからだ。

諏訪原市の黄金錬成。
叶う願いは、死者の蘇生か、不老不死の実現。
市内にある八か所の生贄祭壇(スワスチカ)に莫大な量、充分な質の魂を捧げれば、黄金(ラインハルト・ハイドリヒ)を現世に降ろすための『産道』が起動する。
一般人を生贄に捧げるならば数百量の犠牲が求められるけれど、何百人分相当の魂を有している魔人ならば、一人だけでスワスチカ一つを開くに足りる。
また、闘争の中で死んだ魂の方が磨かれるため、単に処刑するよりも、殺し合わせることによって落命させる方が望ましい。

もっとも一度スワスチカが開いてしまった場所はもう殺し合いに使えない等、今回の聖杯戦争と異なっている制約もある。
しかし、『六騎の英霊の魂を取り込んで』『霊体である聖杯なるものを現界させるための呼び水とし』『それ自体を願望機の起動装置とする』という聖杯の在り方は、かつて彼が手中で育てた『太陽の聖遺物』と根本が似通い過ぎていた。
まして自らも『聖餐杯』の聖遺物を有しているトリファが、『聖杯そのもの』を降臨させるという儀式に対して思うところが無いはずもない。

しかし、似たような儀式を熟知しているから、電脳世界の聖杯についても信用できるかと問われれば、これが全くの逆だ。
その黄金錬成――限られた者しか知らぬ真実だが、実のところ、不老不死や死者蘇生の願いを叶える代物ではない。
あくまで、現世に呼び出される『黄金』が望みを叶えるついでに、彼が解釈した形での不死を為そうとするだけで、それは万人が思い浮かべる『不老不死』とはまったく異なった結果になる。

そして、おそらくは『本来の聖杯戦争』である冬木の聖杯戦争の知識を得たことで、この戦争にも『裏』があるという疑念は確信へと変わった。
なぜ、召喚された英霊の数が、本来の六騎よりもはるかに多いのか――それは、より多く召喚された分だけ集まった魂を使って、『勝者の願いを叶える以外のこと』を為そうとしているということではないか。

(そうなると、『エクストラクラス』という特殊枠が設定されているのが気にかかりますね……)

聖杯戦争のルールとして『そういったクラスも存在する』と頭に刷り込まれているだけで、具体的にどんな役職なのかも明かされていない。
それは、冬木の聖杯戦争には存在しなかったクラスだ。
単に、英霊の数を増やしただけではなく、召喚する英霊のバリエーションを増やした。それがヴァレリアにとっては気にかかる。

(『目的』を達成する上で、原型の聖杯戦争には無かった属性が必要だと考えたのか。あるいは、『本命として召喚したかった何者か』を招くための試金石なのか。
できれば、具体的にどのようなクラスが召喚されて、どのような補正がかかるのかを確認したいところですが……。
しかし、この戦争の『代行者殿』はこんな本を残しておくわりに、あまりにも語らないことが多すぎる)

故に、この聖杯戦争においても、アーチャー――ヴァレリア・トリファ(聖餐杯)の行動は変わらないだろう。
願望機(聖杯)の降臨は妨げない。
だが、その上で、彼が望む願いの成就は掠め取る。
儀式の本質が何であれ、結果のみ得られるならば彼にとってはそれでいい。

アーチャーが予選期間の段階からは積極的に攻勢に出ず、今でも同盟相手を模索している理由の一つにもそのことがある。
『他の聖杯戦争』を知る者――あるいは似たような儀式について魔術知識を持つ者とのつながりが持てれば最上ではあるのだが、
そうでなくとも、他にどのような主従が参加しているのかということについて、極力把握できるような繋がりを作りたい。

そして、討伐令の対象となっている主従に関心を持ち、青木奈美をけしかけるような言動を取った理由のもう一つにもそのことがある。
なぜなら討伐クエストは、現状で唯一の、ルーラーと接点をつくれる機会だからだ。
最終的におこぼれで願いを叶えるためには、まず『裏』の企みを為そうとしている者について知らなければならない。
聖杯には、英霊を招き寄せマスターを選定し、不要なものを排除する意思があるという。
だがしかし、杯が筆を執って手紙を書くか?
容器に過ぎないものが、その手紙を、一人ひとりに配達できるか?
否だ。
つまり聖杯には、人の形をした『代行者』が存在する。それが『ルーラー』とやらなのだろう。
そしてその代行者は、めったに姿を見せたがらない。
ペナルティを犯した主従の処分はほかの主従に任せ、戦争のルール説明はサーヴァントに知識を刷り込むことで押し付けて、本選が始まる段階になっても未だ姿を見せていないぐらいだ。
『討伐クエストに参加したものを背後から狙う』という邪道を推奨したのも、その方が効率的だからという以外に、ルーラーが引っ張り出せるかどうかを確かめたいという動機からだ。
これだけ姿を見せたがらないルーラーのことだから、普通に討伐を成功させても表には出てこないまま、『いつの間にか令呪がひとつ増えていました』だけで終わる可能性も高い。
なればこそ、『ルーラーの発令したクエストを妨害する』というロールから外れた動きを取ってみる。
それでルーラーが出てこないならば、また別の『引っ張り出す方法』を模索していくだけだ。

そして、ここまでの裏を読んでおきながら、そのことをマスターである青木奈美に対して伏せている理由も、当然、ある。

(聖餐杯は壊れない……しかし、我がマスターは、扱いによっては壊れるでしょう)

ただでさえ人間らしい良心を捨てきれていないマスターに「この戦争には裏があります。だからほかのマスターを皆殺しにしても、聖杯は願いを叶えないかもしれません」などと告げてしまえばどうなるか。
迷いを深くするだけの結果になることは目に見えている。
告げるとすれば、マスターが誰かを仕留めるなり陥れるなりして甘さを捨て去り、完全に退路が絶たれたその後だ。
……もちろん、サーヴァントとしてもその一線が早々に訪れてくれるように手助けはしたい。

そこまで考えを巡らせると、ヴァレリアは図書館の通路を歩き、案内板に蔵書庫と矢印を指された方角へと向かった。
一般の書棚にも、あっさりと聖杯戦争に関する文献があったぐらいだ。
あるいは、滅多に人が入らない場所――古書を保存している書庫なら、もっと深く書かれた文献が眠っているかもしれない。



「――おや?」



書庫の位置と規模だけ確認するつもりで、すぐに中に入って調べ物ができるとは期待していなかった。
この手の図書館の書庫は、おおむね職員だけが出入りを許されていて、閲覧したい本があっても取り出しは職員が行うことが多い。

それが、開いた。
まさかそのまま入室はできないだろうと思いながら回した書庫のドアノブは、何の障害もなくあっさりと回る。そして押せば開く。
職員が開けたのかもしれないが、それにしては開放されたままにしておくことに不用心さがある。
……どちらにせよ最初から開いていたのだから、侵入したところを見とがめられても言い訳はできるだろう。
どちらかと言えば、同じ考えで侵入した者がいた方が好ましい展開だと思いながら、神父姿の男は書庫にするりと入り、最低限の照明によって薄暗い書棚を歩く。



――そこで目に付いたのは、トランプのダイヤの札だった。



それと同じ柄の上衣を着た少女が二人、身を寄せ合うようにして書棚から古い本を何冊か取り出し抱えている。
答えのない間違い探しのように、どちらも同じ顔だ。

「これは、可愛らしい双子のお嬢さん。こんな暗いところで何をお探しですか?」

神父に声をかけられるや、同じ顔のトランプ兵士は表情を冷たく引き締めた。
ほぼ同時に空気が震えた。
ダイヤの二人を守るように、棍棒を構えたクラブの札の兵士が4人、霊体化を解いて出現していた。

「おや、六つ子のお嬢さんでしたか」




苦労してクッキーやホットケーキを焼けば、世界一幸せそうに眼を輝かせてくれた。
パフェやデコレーションケーキを休日のカフェでごちそうする時間が楽しみだった。
そんな楽しみを、聖杯戦争の真っ最中でも続ける必要はないし、それ相応のリスクもある。

だからこれは自分がまだ甘いのか、あるいは彼女を甘やかしているのか、その両方だろう。

「■■■■」

大きな窓から日差しが柔らかくそそぐ白い内装のレストランで、ランチを食べ終えたキリカが大きなパフェをスプーンですくっては口に運んでいた。
理性をなくした彼女が、それでも満喫している。
思考を削がれたサーヴァントの身体で、変わらず幸せそうにを食べているのが、どれほど織莉子の心を救っているかわからない。

「あら、くれるの?」

細長いスプーンの先にイチゴのアイスと生クリームをのせて、織莉子の口をつけやすい位置に差し出したまま、こくこくと頷かれる。

「ありがとう」

あーんと口をあけてスプーンをくわえると、キリカの指が緊張したように震えるのが伝わった。
大胆な性格のようで恥ずかしがり屋なところは、理性をなくしても変わらない。

「うん、美味しい」

笑顔でそう答えれば、うれしい感情を隠しきれないようにソワソワとした。
彼女も、覚えてくれているのだろうか。
二人で甘いものを食べるときに何回か実践した、『美味しいものをもっと美味しく食べる』食べあいっこ。

NPCのクラスメイト達にでも目撃されたら――聖杯戦争の関係者でさえなければそんな人目など気にしないけれど――今の美国織莉子にこんなに親しく接する同年代の少女とは何者だと驚かれることだろう。
ここ数日は学校に行っていないが、今のところ学校側から不審がられている様子はない。
ロールプレイに従わない生活をしていても、周囲の方で勝手に『父親のことからまだ立ち直れていないのだろう』と解釈してくれるのだから、ある意味で彼女の生活にはゆとりがあった。
……もっとも、学校側の本音としては、校名を傷つけないためにも関わりたくないといったところだろうけど。

(『魔法少女』としても、もう少しゆとりがほしかったところだけどね……)

調べることは山積みだ。
御目方教のこと。ヘンゼルとグレーテルのこと。
未来予知の魔法で他のサーヴァントが事件を起こしていれば、それも確認しにいかなければならないし、≪白い男≫の都市伝説、≪永久機関≫のニュース……どれもこれも、マスターの関与を疑いだせばきりがない。

これじゃあ、まるでK市のためにパトロールしているみたいだ。

そんな感覚に陥りそうになって、織莉子は苦笑しかけた。
今回の戦争では、呉キリカと自分のためだけに戦うつもりだったのに、まるで魔法少女になったばかりの頃のように、町の異変を突き止めることに奔走しているのは皮肉というべきか。

かつては、世界を救済することが自分の使命だと定めてきた。
でも、いつの間にか、そしていつだって、世界の中心にはキリカがいた。

そして今や、世界を守らなければ――

(――問題は、守りきるまでに『持つ』かどうかだけれど)

掌中に置いたソウルジェムを見下ろして、その濁りを観察する。
複雑な思考が苦手になってしまったキリカは首をかしげて、考え込む織莉子を観察していた。

予選期間の数週間で、あらかじめ持ち込んでいたグリーフシードはほとんどを使い切ってしまっていた。
そして、この電脳世界に魔女はいない。新しいグリーフシードは手に入らない。
元から、予知の魔法はあまり燃費がよろしくない。意識して出力を小さめに制御しておかなければ、近隣の未来を無差別にランダムに順不同に啓示してしまう。そんな状態で戦っていては、何日も持たずにソウルジェムが割れて終わりだ。
織莉子は見滝原市にいた頃からそれなりの苦労をして、予知魔法をコントロールすることに成功している。
また、キリカというサーヴァントを維持するだけならば、聖杯が召喚から現界までそこそこの魔力は負担してくれたし、キリカ自身も予選期間の間に倒したマスターを使い魔に食わせることで、多少は魔力を自給できているからバーサーカーのクラスにしては負担は大きくない方だ。
しかし、織莉子自身が予知魔法を使うことで、ソウルジェムが濁っていくのはどうしようもない。
そして予知の魔法は、美国織莉子がこの聖杯戦争の中で勝ち残る戦略を立てる上で、必要不可欠なものだ。
キリカが狂戦士のクラスでなければよかったのに、と思ったことは一度もなかった。
聖杯戦争では、マスターがサーヴァントに魔力供給をすることは自然にできても、その逆はできない。少なくとも、やり方を知っているサーヴァントでなければできない。そして、同じくソウルジェムを持つ魔法少女であるキリカでは、魂喰いなどの手段で魔力を補給しても、それで織莉子のソウルジェムを浄化することはできない。

(今のところまだ濁りは大きくないけれど、これからも未来を変えるために、予知には頼る……いっそのこと、魔力供給が可能な誰かと同盟を組むしかないのかしら)

たとえばキャスターのクラスならば、ソウルジェムに直接に魔力供給をするようなことができるかもしれない。
それこそ今朝、邂逅したサーヴァントは、魂食いだけでなく撃破した使い魔の魔力をも吸収していた。
魔力を直接に吸い取ることができるなら、あのサーヴァントはその逆のこともできるのでは……?
そんな閃きを得たけれど、しかし目の前にいるキリカが心なしか心配げに黙っているのを見て、口に出すことは避けた。
織莉子が己以外のサーヴァントに頼ったりしたら、まずキリカは快い思いなどしないだろう。
そして美国織莉子のパートナーはキリカしかいないと確信している織莉子自身にとっても、それは本意に沿った選択ではなかった。

「大丈夫よ。今予知を使うから、その後で探索を再開しましょう」

キリカの頭をひと撫でし、予知の光景を思い描くために瞑目する。

……どっちにしても、まずここで一度は未来予知を使う。
同盟を検討するにしても調べものをするにも、討伐令のクエストを優先するにしても、まずは近隣のサーヴァント、近辺の未来を把握してからだ。

午前中に怪しんでいた連中の一人でも補足できればいい。
そんな期待だけをこめた、ここ数日と同じような午後の始まりのはずだった。



「これは――?」



しかし、この時に初めて、魔法少女の織莉子は、



『絶対的な暴力と悪意が形成したもの』を見た。




『信者  (ビジネスホテル・ホテルマン)
 御目方から放たれたという緑色の動物が、ホテルの窓から中に入って行くのを目撃。
 窓の位置から部屋を確認したところ、516号室だった。』

「くすくす……同じ使い魔を使う魔術師(キャスター)なのに、ずいぶん普通のところに泊まっているのね」

昼でもなお暗い座敷牢の中で、椿は獅子身中の虫があっさりと潜り込んだことに笑みをこぼした。
念のために、市内各地でホテルや旅館の近辺に居住している信者に、緑色の小生物が飛んでいくところを見たら報告するようにと伝えておいたのは正解だった。
さすがに市内すべての宿泊施設を網羅していたわけではないので、『当たったらもうけもの』程度の考えだったけれど、こうも見事に当たると笑い声をおさえられない。

「平日も休みを取れる信者を使って、同じホテルに宿泊させておきましょうか?
 マスターを簡単に暗殺できるとは思わないけど、グリフォン以外にも監視の目はほしいでしょう?」
「それがいいね。もしほかの主従と同盟関係にあるようなら、まとめていぶりだせるかもしれない」

キャスターが同意をしてくれたことで、彼の役に立てることがまた一つ増えたのが椿にはただ嬉しかった。
それに乗じて、もっと話がしたいと彼に質問をする。

「でも、あんな台帳を渡してしまってよかったのかしら。
 あなたのことだから深く考えてのことなのでしょうけど……リスクもあったんじゃなくて?」
「そうだね。こちらの手札を幾らか送ったようなものだから。
 けど、それをリスクじゃなくてリターンにするために、ティキと……君の千里眼日記がある」

グリーングリフォンの帰還が遅れたのは、一度帰還しようとしたグリフォンがまた御目方の屋敷へと戻ってきたためだった。
グリフォンは言葉を話すことができない。何か伝えたいことがあれば、己が視覚をマスターにリアルタイムで中継することで伝達する。
つまり一度も教団で見たものを中継することも無く、また何の成果も持ち帰らずに手ぶらで言い訳することもできず主人のもとへ帰ったところで、教団で危害を加えられたのではないかと怪しまれるに決まっていた。
そんな彼の立場をキャスターと椿も察したために、彼等はグリフォンへと『偽の手がかり』を掴ませることにした。
教団の信者を入団の順序から記載した台帳(リスト)のうち、一冊を咥えさせたのだ。
それも、丁寧に『禁魔法律家にした信者たちはこいつらですよ』と言わんばかりに、名前のところどころに反逆者のマークを付けている。
もちろんそれは偽造されたものだ。実際はすべての信者が禁魔法律に手を出しているし、その名簿に書かれている名前にも、『信者だと誤認すれば面白い名前』が多数混じっている。
例えば、今朝がたに高校教師を送り込んで撃破された高校の生徒の名前も何人か入れている。高校教師の妻だった信者から、教師の使っていたパソコンのデータを覗かせて把握した名前だ。
『信者』のマークを付けた者の中には、当然、マスターと確定した少女『吹雪』の名前も入っている。それも、かなり以前から入信した古株の信者という扱いで。
さらに言えば、その名簿の中にフェイクとして混じっている本物の信者も、『探りを入れられた時』の対処法をしっかりと刷り込んだ者ばかりだ。
その名簿を近侍の信者たちに用意させるのに、少々時間を取られていた。

「でも、あの台帳が偽造だと気付かれてしまったら……高校にいるマスターたちと、使い魔のマスターが手を組んでしまうのではないかしら?」
「そうなっても問題ないように、こちらも学校には次の手を送れるようにしておきたいんだよ。
 ティキに直接に赴いてもらう手もあるけれど、信者にもマスター同士の妨害工作をさせたり、できることは多いからね」
「ああ、私の『千里眼日記』があれば、というのは、そういうことね……」

高校で殲滅すべきは、吹雪というマスターだけではない。
ティキの言によれば、最後の最後で横やりを入れてきたマスターがいるとのことだった。
また、高校に潜んでいるマスターがその二人だけとも決まったわけではない。
そして、高校がティキに襲撃された以上、潜んでいたマスターたちも今頃は探り合いながら再襲撃に備えて手を組もうとするような段階に入るだろう。
よって、高校については吹雪という確定マスターがいる以上、彼女を釣り餌として他のマスターが表に出てくることを狙う。
その間に、こちらもマスター達の各個撃破もしくは一網打尽ができるよう、罠や伏兵を用意しておくということだった。

これだけの大がかりなことにNPCを動かしながら、それでもルーラーが何も言ってこない現状に、椿は確信する。
やはり、この世界にも正しい神様なんていないのだと。

単純な被害者総数で言えば、ヘンゼルとグレーテルのそれよりも、御目方教の禁魔法律に犯された人数がよほど多い。
にも関わらず、椿たちがいまだに討伐令どころか警告のひとつも貰っていないのは、あくまで『犠牲者たちが自ら志願した』ことによるものではないかと、椿は推測していた。
ティキは言った。
高校教師だった彼は、操られて改造されたのではなく自ら力を望んだのだと。
つまりそういうことなのだろう。
人を殺すことに比べたら、とにかく力を持って暴れまわりたいと潜在思考している人間が手の届く位置にナイフを置いてしまったことは、ずっと罪が軽い。
爆弾を積んだ車に人を乗せて事故に遭わせるのは殺人罪だが、『この車に乗れば遠からず死にますけどそれでも車に乗りたいですか』と意思確認をして車に乗せたならば、死んだ責任はそのNPCにある。
そして、気に入らない人間を排除したいという意思は、禁魔法律に染まることを良しとする穢れは、椿の両親を殺した者たちのように誰もが持っているものだ。
なんてすばらしい、醜いものだらけの世界。

仮に信者が殺害されたとしても、その場合にペナルティを受けるのはおそらく椿たちではなく殺害した方の主従だ。
ただ偵察をしては無残に撃退されるだけの連中にさえ、情報をくれることと、相手の主従に失点をひとつ付けられるという役に立ってくれる。

「不思議ね……眼が見えない私の方が、汚いものがたくさん見えているのだから」

椿自身には、身を食らう禁魔法律以外に力はない。
どころか、手元ぐらいしか視力の効かない、どこにも行けない社会的弱者だ。
しかし、彼女は『眼』を持っている。
このK市という土地の中ならどこにでも、人の行ける場所である限りは。

「あら……ねぇキャスター。また、おかしな未来が予知されたわ」

禁魔法律家の傀儡という、千里眼。
千里眼とは、どこまでも遠くを見ること。
そして、人間ならば見えない、人の身を超えたものを見ること。

誰にも分からない未来を観測したり、その未来を捻じ曲げること。


『信者   (小学校用務員)
 学校の用事で買い出し帰りに喫煙中、異常事態発生。
K賀海水浴場にヘドロの化け物がたくさん出現した』



――その日記は、未来を決める分岐点を観測し、そして、世界線(うんめい)を変える。



『信者  (ビジネスホテル・ホテルマン)
 516号室に宿泊していた女性宿泊客が、やや慌てたような様子で鍵を預けて外出した。
 フロント係は、宿泊客のことを『牧瀬様』と呼んでいた。
 牧瀬がホテルの正面入り口でタクシーを捕まえて、運転手に『K賀浜海水浴場へ』と伝えていたのが聞き取れた。
 上空を、緑の生物が先導するように飛んでいるのが見えた。』




そう言えば、サンダル履きのままだった。
家を出るにはちょっとよろしくない。

松野家へと帰宅したのは、それだけのためだった。

それだけのための行程で、いろいろな者を見た。

方角で言うと中学校に向かう道路を、慌てて走って行くパトカー達とか。
Y高校にテロリストが入ったとか、教室ひとつが爆弾でも破裂したようにぶっ飛んだとか噂する主婦達とか。
しばらく引きこもっていた間に、ご町内はずいぶんと物騒になっていたらしい。

……聖杯『戦争』なのだから当たり前か。

学校の教室が吹き飛ぶなら、我が家なんて簡単に壊れるだろうな、と思ってしまった。
そんな想像をしてしまうほど、『待ち受ける死』を肌で感じてしまう自分が嫌だった。
本当は、戦争にも、自分の身の振り方にも興味がないなんて嘘だ。
できることなら死にたくなんかない。いざその時がきたら、ガタガタブルブル震えてみっともなく命乞いをするかもしれない。
レンタル彼女の金を稼ぐときは命懸けの場所にも行ったけれど、あれも童貞拗らせた執念と六人で一緒にやるというテンションがあればこそできたことだ。
本当は嫌だ。
高校で起こったという爆破テロに、自分が巻きこまれて一瞬で塵になったら思うと陰鬱になる。
ただ、俺はこんなところで死んでいい人間じゃないはずだと吠える自信も、度胸もない臆病者なだけで。
諦めずがんばったら何かできるかもしれないという自意識を地面に埋めてクールぶっている、ゴミみたいな人間だ。

【置き手紙とか、いいの?】
【いい。下手に探さないでくださいとか書いて怪しまれても面倒だし】

自宅に戻り、残してはもったいないと二階に隠していた煮干しを荷物に追加する。
屋根裏から、『読む時や使う時はシップを追い出さなければいけない本』も回収する。
今度こそ家を出ようと、スニーカーに履き替えた。
家を出る決め手になったのは、猫と戯れていた時のシップの言葉だ。

姉妹と一緒に死んだ方が良かったか、生き延びた方が良かったのかと尋ねて、彼女は答えた。

【正直なところさ……あー、戦争やってると、死に場所に選択の余地とかなかったから。沈んじゃ駄目だったから】
【だって『軍艦』って貴重でしょー……変な話だけど、あの頃の軍人一人の命の値段より高かったんだわ。お前だけでも生き延びろー、が当たり前っていうかさ】
【だからさ、『きっとこれで良かったんだ』って思うようにしてたわ。仕事ならやまほどあったから】

きっとこれで良かった。

少なくとも、一松には無い。生きてこれをやるべき使命など、何も。
だったらせめて、『きっとこれで良かった』と思えそうな方に従うことにした。
流されるまま浮浪者まっしぐら、な予感がしないでもない。
とりあえず、この先何があっても彼女のことは恨まないようにしようと思った。どちらかと言えば、自分の方が彼女のハンデになっているようなものだから。
ちょっと名残惜しそうに、松野家の中をきょろきょろと見回すサーヴァント――エクストラクラスの、シップ。
最初にエクストラクラスとは何だと聞けば、他にもっとスタンダードなクラスが七種類あるのだけど、なぜかそのどれでもないクラスとして召喚されたために、その影響で能力値やスキルが色々と変わったことになっていると説明された。
つまり、マスターがこんな戦う覚悟に欠けたクズだから、望月も弱くなってしまったのかもしれない。
他のサーヴァントは見たことないけれど、Eというアルファベットばかりが並んでいる彼女のパラメーター(これ絶対に、上はAから下はEで、下手すりゃその上にSだとかEXみたいなのもあるヤツだ)が、どう控えめに見ても高くないことは一目瞭然だった。
だとしたら、シップがかわいそうだった。
こんな自分がマスターでさえなければ、アーチャーとかいうやつとか、もっと強いサーヴァントとして、轟沈を恐れることなく第二の人生を満喫できたかもしれないのに。

玄関を開けようとした時に鳴った黒電話をわざわざ引き返して取ったのは、そうぐだぐだと考えてぼーっとしていたせいだろう。
どう考えても時間のロスになる行動だったけれど、通話するうちにその話に乗り気になってしまった。
それが、ある金持ちの知り合いからのアルバイトの依頼だった。
妙にタイミングがいい、と不思議に思わないではなかったけれど。
旗付き社員の口振りではさも簡単なバイトのように聞こえたし、その仕事料があればそれなりのホテルでしばらくは連泊してゴロゴロして過ごせるなぁとも思ったら、
……まぁ、やっぱり楽はしたかったから、誘惑に負けた。
【ますます怪しくない?】とシップは突っ込んできたけれど。
とりあえず、もう自宅には電話をしないよう、特に他の兄弟にはこの事を教えないようやんわりと頼んで、根暗なりにやる気を示す返事をした。
旗付きのSPはすぐに迎えの車を寄越すと言ってくれたので、家から少し離れた道路に――さすがに自宅前に高級車が停まるのは目立ち過ぎると思ったので――横づけして待ってもらうように頼む。
通話終了。今度こそ玄関の敷居をまたぐ。これで残したものは何もない。

だというのに、最後に出くわしてしまった。

「「「あ」」」

ギターを持った黄色のパーカーと、革ジャンサングラス。
小さな頃からいつも一緒にいたすぐ下の弟と、いつの頃からか色々と気に食わなくなり塩対応が当たり前になった二番目の兄。

「一松にーさんどこ行くの? もうお昼だよ?」
「フッ……当ててやろうか。また一松キャッツとの逢瀬だろう?」

うぜぇ。最後の最後までクソ松うぜぇ。つーか人の親友になにイタイ呼び名つけてんだ殺すぞ。
ギロリと睨んで黙れクソ松とドスを効かせるのはいつものことだったが、あいにくと今はやり過ごさなければならない時だ。

「あー……ちょっと、野暮用」

歯切れの悪い言葉ですれ違い、とにかく家から離れようとする。
しかし、足を止めさせる者はまだいた。
隣家の建物で、そいつは日向ぼっこをしていた。
黄土色の毛並みで、大きな青いメガネをかけて、しっぽに手当した跡がある親友だ。
一松と目を合わせ、小さく鳴いた。猫の鳴き声だ。もう人の言葉は喋らない。
言わなきゃ分からないよ、と言われた気がした。

「待って」

振り絞ると、呼び止める言葉が出た。
玄関の敷居の上で、ギターをその手に、ほとんど同じ顔の二人が振り向いた。
ギターのせいで、いつだったか聞いた歌を思い出した。

「俺、六つ子で良かった」

一息にそう言って、返す言葉を聞かずに走り出した。
色んな意味で、それ以上は居られなかった。

ほどなくして黒いリムジンが見えてきたので、あれに違いないと確信して乗りこめば(目立たない車で来てくださいと言っておくべきだった)、「松野おそ松様ですね」と旗付きの運転手が確認してきた。
車中で以前のように自罰の拳銃自殺をやらかされては敵わないので、否定せず曖昧に頷く。

その瞬間に、やっと思い出した。
この世界の六つ子が、NPCと言われる存在だということを。
どんなに素直になっても、兄弟の誰にも届かなかったということを。

走り出した車の中で、たぶんこの世界に来てから初めて、一松は泣きそうになった。


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最終更新:2016年06月04日 11:49