大延国に伝わる宮廷料理。
その一つに薬膳料理と言うものがある。
地球の中国に漢方料理があるように、異世界延国にも似たような料理が存在するのだ。
数億にも及ぶ多種多様な食材に含まれる成分は、それ単体でも人体に多大な影響を与える。
だが遥かなる時の中で、延国の厨士達はこれら食材の効能を掛け合わせる事で、より大きな効能を得る術を研究した。
数億の食材による組み合わせは無限に近く、その中から有用な情報だけを記した書の巻数だけでも宝物庫数部屋分に及んだ。
しかし光ある所必ず陰あり。
気の遠くなる歳月の中で、人を生かすための研究は、また、その対極とも呼べる忌み技、毒膳料理をも生み出してしまったのだ。
宮廷料理人のみが閲覧を許されるその料理書の数々は、真に極めれば一国を動かすことさえ可能であると言う。
故に毒膳料理を使う者を人はこう呼んだ。
傾国の料理人と…。
一級厨士、シーユー。
彼女が特級厨師選定試験で使った料理もまた、この毒膳料理だった。
「美味し! 」
宮廷料理人達が口々に感嘆の声をあげた。
ここは延皇帝朱王クウリの居城。
そこの庭で春と秋に行われる年二回の大イベント、特級厨師選定試験会場であった。
特設会場には多くの観客が押し寄せ、新たに生まれるかもしれない特級厨師を一目見ようと人集りを作っている。
そんな中行われる試験の概要はこうだ。
食の都延国には料理人を位分けする制度がある。
まず最も一般的な三級厨士の資格。
これは誰でも取れる資格で、王宮から「商売で人に食べさせる料理を作っても良いよ」と言うお墨付きを貰う、まぁ言ってみれば料理人として独立する為の第一歩となる資格である。
二級厨士以上の者が書いた推薦状を役場に持って行けば貰う事が出来る。
次に二級厨士の資格。
これは厨士の中でもより認められた者に送られる資格だ。延国市中を巡回している検査官が身分を隠し、抜き打ちで秘密裏に店を訪れ、勝手に交付して回る。
随分と良い加減な制度だが、地球でも三ツ星レストランを選ぶ時似たようなものなので、延国の料理人達は概ね納得している。
そして一般の厨士の中で最上位の資格である一級厨士の資格であるが、これを取る事は容易ではない。
年四回、季節毎に行われる王宮主催の選定試験に合格する必要があるのだ。
この試験が狭き門で、一般的に合格の倍率は50倍から80倍と言われている。
取れる者は数回で取れるが、取れない者は一生かかっても取れない。
取れればその名の通り一流の料理人であると誰からも認められ、どこの飯店にも文句なしに雇われるし、宮廷料理人に成れるのもこの資格を持つ者だけだ。勿論店を出せば繁盛間違いなしだろう。
その一級厨士の資格を持つ者だけが受ける事を許されるのが、王の料理を作る事を許される国定特別一級厨士、特級厨師の試験なのである。
特級厨師は延国広しと言えど僅か十数名程度しか居ない。
例え欠員が出ても有資格者が現れるまで補充出来ないし、選定試験も合格者が居ない事が殆どだ。
言わば全料理人達の憧れの的、世界中どこに行っても恥ずかしく無い料理人達の頂点と言えるのだ。
だがそんな超一流のトップエリートである特級厨師達でさえ憧れる存在があった。
それが神の料理を作る者、食神祭で金羅に捧げる料理を作る栄誉を賜った、延国全厨士達の中で「最も美味い料理を作る者」神膳厨師だった。
話を戻そう。
シーユーはこの神膳厨師を目指して日々料理の腕を磨く料理人の一人であった。
彼女は努力家で、一級厨師の資格を取るとすぐさま宮廷料理人の試験を受けこれに合格。
宮廷料理人のみが閲覧を許されると言う秘伝の料理書の秘儀を、貪るように吸収して行った。
しかし、いつの頃からか彼女には見えて来てしまったのだ。
それは例えれば子供の頃は天を衝く程高く感じた天井が、大人になりふと気づいた時、目の前に汚れや傷がハッキリとわかる程近く見えてしまった時の感覚。
自分の限界が解ってしまったのだ。
もうどんなに努力しても、自分では特級厨師になれない。
そう悟った時、彼女は立ち入り禁止の部屋のドアを開けた。
「しかし帝の料理を作るに値するかと問われれば如何なものか」
「私は良いと思う。この二人のいずれかが、特級厨師に相応しかろう」
「ならば私はエンリョウを推す。エンリョウの料理は隙がなく完璧だ。それでいて食べる者を楽しませてくれる」
「シーユーの料理も味は申し分無いが、どこか面白みに欠けるな」
宮廷料理人が狸人のエンリョウと狐人のシーユー、どちらを選ぶか話し合っている。
その様子を固唾を呑んで見守る厨師達の耳には、エンリョウ優勢の話は聞こえない。
「よし、では結果は厳正なる審査の元、明日この場で日の出と共に発表する事とする! 一同解散!」
そうして解散した会場を去る厨師達の中で、シーユーだけが異様な自信をその顔に漲らせていたのだった。
「リハク様」
「なんだ? シーユー。珍しいな」
その晩、シーユーは珍しく師リハクの寝所を訪れていた。
いくら師が老齢とは言え、年若い乙女であるシーユーが男の寝所を訪ねるのは誤解されかねない行為だ。
勉強熱心で気になる事はすぐ師匠に聞きに行くシーユーであっても、こんな事は通常なら考えられない冒険だった。
「私は特級厨師になれますでしょうか?」
「……」
そう、シーユーは試験の結果が気になって、居ても立っても居られなくなりここに来たのだ。
料理を終えた時は自信満々であっても、人は時が経ち冷静になってみると、色々とその時は見えなかった失敗が見えてきてしまうものだ。
昼の勝負の後、さんざ考えあぐねた挙句、不安になってこうして頼れる師匠の元に来たとしても、それは仕方無き事だろう。
「なぁシーユー。料理とは何の為に作るものだ?」
「?」
そんな弟子の不安を知ってか知らぬか、師匠は頓狂な質問を弟子に投げかけた。
「それは当然、生きて行く為。少しでも生を楽しむ為でございましょう?」
シーユーは即答した。
ものを食べるとは生きる為であり、料理をするのは楽しく食べる為。それが当然の道理だと思っていたからだ。
だが彼女はこの時、一つ思い違いをしていた。
料理とは何の為にするのかではなく、誰の為にするのかと言う事を。
「料理とはそれを食べてくれる人の喜びの為、健康の為、ひいては幸せの為に作るものだ」
師匠であり特級厨師であるリハクは静かに、諭すように言った。
穏やかな口調は子供に言って聞かせるように易しい調子だったが、それが故に心に深く浸透する。
シーユーは師匠の言葉に耳を傾けた。
師リハクは今までどんな質問にも答えてくれた。この話の後、きっと自分が合格したと、祝ってくれると信じていた。
だがこの日、師の口から出た言葉は、シーユーにとって望まぬ答えだったのだ。
「お前は自分の為に料理を作ってはいないか?」
「っ!?」
心を見透かされたような気がした。
シーユーには家族は居ない。身寄りがなかった彼女には、自分を育ててくれた老齢の厨師、リハクだけが頼るべき者だった。
この頃、彼女は料理で人に認めてもらう事だけが、自分の存在価値だと感じていた。
師と仰ぎ親のように接するリハクでさえも、自分に料理の才能がなければ捨てられると思っていたのだ。
真の親の愛を受けずに育った彼女は、心から人を信じる事が出来なかったのだ。そしてリハクの言葉が、彼女の中の何かを壊した。
「結果は難しいだろうな。また明日から修行に励め、シーユー」
その言葉を聞いた時、彼女は転地が引っくり返るような感覚に襲われた。
誰よりも認めてもらいたかった人に、誰よりも味方してもらいたかった人に、自分の全てが否定された。
料理しかない自分にとって、それがどれほど残酷な言葉であるか、リハクは知っている筈なのに。
そんな思いが、彼女の心の中に悲しさや寂しさと同じくらい、理不尽な怒りとなって蠢き始めたのだ。
「……お師匠様は、私がご自分と並ばれるのが嫌なのでございましょう」
「そんな事はない。弟子の成長を喜ばぬ師が何処に居る。もう今日は休め、お前には未来がある」
「……」
シーユーの心の一部、まだ子供の部分が激しくさざめき立つ。
慰めてほしい時に何故師匠は慰めてくれないのか?所詮自分は赤の他人だからだろうか?それともこんな出来の悪い弟子はもう要らないからだろうか?
さまざまなマイナス思考が心の中に生まれては消え、また生まれてくる。
そして思うのだ。師匠でさえ、自分には敵わぬのだと。
こんな時の為に、アレを仕込んでおいたのだと。
「どうしたシーユー? 師の言う事が聞けぬのか」
師リハクが床に入り直しシーユーに背を向けた。
この時、彼女は自分がどんな顔をしていたのか解っていなかった。その時の彼女の顔――今にも泣き出しそうな子供のような顔を、リハクは可哀想で見ていられなかったのだ。
だがその考えは甘かった事を、リハクは次の瞬間知る事になる。
背を向けた弟子の口から発せられた言葉は、あまりに信じ難い悲しい事実を告げていたのだから。
「……毒膳料理を用いました」
「なっ!? なんだと!?」
リハクは床についた直後、弟子の衝撃の一言に飛び起きる事となった。
毒膳料理――リハク程の厨師なら、その恐ろしさを知らない訳がない。
この世には大変な珍味だが毒性故、食べる事が出来ない食材が山程ある。その珍味を用いて料理する事が出来れば、食した者は今まで味わった事もないような極楽浄土の味を堪能できる。
だがそれは命と引き換えの美味。正しい解毒料理――薬膳料理を極めていなければ、たちどころに食した者の命を奪ってしまう諸刃の剣なのだ。
故に、毒膳料理の中には強い中毒性を持つ物もあり、その珍味と相まって危険性の高さから作る事は禁じられ、その知識も封印してあった筈なのに……。
「師匠はお分かりになられましたか? 私がどのような毒を用いたか、その配合を」
「シーユー、貴様……」
師リハクは戦慄した。
己が毒を盛られ弟子に命を握られた事にではない。
弟子が己の欲望の為、同じ宮廷料理人――云わば同胞に毒膳料理を用いてしまう、外道となってしまった事実にである。
己が勝つ為に何人でも同胞を手にかける。それが恐ろしかったのだ。
「解毒の料理は私にしか作れません。師匠、どうか他の先生方を、命が惜しくば私を特級厨師に選ぶよう説得して下さい」
「うぬ……お前何と言う事を……」
「師匠達が亡くなられたら、明日からクウリ様のお食事は誰が作るのですか? 師匠、どうか賢明なご判断を」
「我欲に目が眩み、そこまで堕ちたか、シーユーよ……」
審査官達の命を人質に、合格を、資格を要求するわが弟子に、リハクは今まで彼女に注ぎ込んできた技も愛情も優しさも、全て無駄になった事を悟った。
今目の前に居るのは一人の反逆者に過ぎない。
泣き虫で一人可哀想だった、哀れな女の子はもう居なくなったのだと、リハクは思った。
思い出は捨て、特級厨師として行動しなければならない。リハクは死を覚悟した。
「我ら、既に料理にこの命捧げた身。腕前の至らぬ者の料理を、我が身可愛さにクウリ様にお出しする者など一人も居らぬ」
「し、しかしそれでは、クウリ様の食事はどうなるのです!? 職務を放棄する気ですか!?」
「エンリョウが居る」
「っ!?」
ここで出た名前を聞いて、シーユーの顔はいっそう曇った。いや、醜く歪んでいったと言った方が良いだろう。
エンリョウはシーユーの同期で、才能も人気も彼女より数段上だった。
その狸人の料理人に負けないよう、シーユーは人の何倍も努力してきたのだ。嫉妬、競争心、野心、自負心、色々な感情で自分を支えながら頑張って来たのだ。
それを今、ハッキリと師匠の口から敗北を宣言されたのである。
全て捨てて戦った上、一番負けたくない相手に負けたとあっては、シーユーの心は限界だった。
「あ、あのような……」
悔しさに掴んだ服の裾が、ビリビリと音を立てて破れ始める。
彼女は今にも、悔しさと嫉妬で気が狂いそうだった。それを繋ぎ止めたのは一本の包丁。その包丁が、彼女に次なる行動を指し示した。
「あのような狸に私が劣ると……!」
「毒膳料理とは、その魔性の味故、通常の料理より美味く感じる」
リハクは尋常ならざる気配を放つ弟子に、それでも気圧されず真っ直ぐ対峙している。
背後に隠し持った包丁の事は気付いていた。それを知った上で、恐れず相対しているのだ。
ここで弟子に刺されても良い。それでシーユーの気が済み、また真面目に道を歩み直してくれるなら。
そう思っていたリハクだが、現実はそう甘くはなかった。
「それをして尚、エンリョウの料理と互角とは……いや、一歩劣るとは。安易に毒に頼った己の未熟さを恥じよ! シーユー!!」
「わあぁぁぁぁ!」
シーユーは扉を蹴破りながら、弾ける様にリハクの部屋を出て行った。
目指す先はただ一つ。憎き競争相手エンリョウの命。
この日、延国一級厨師、天才と言われた一人の狸人がその若き命を散らす事となる。
「何処へ行く!? 止めよシーユー!」
「ならばエンリョウを抹殺すれば! この私を選ばざるを得ない筈!! あいつじゃない! 私こそが一番、特級厨師に相応しいんだー!」
そしてシーユーは反逆者として追われる身となり、夢も国も捨てる事になったのだった。
シーユーは当てもなく荒地を彷徨っていた。
そこは
新天地と呼ばれる未開の荒野。延の追っ手もここまでは追ってこない。
何処までも続く地平線を見渡しながら、シーユーは自分はこの世界で一人ぼっちなのだと実感していた。
人は所詮孤独な生き物。一人で生き、一人で死ぬのだと、この時は本気でそう思っていた。
「私はここで……死ぬのか……」
食料も水も底を尽き早四日、行けども行けども一向に人の集落に当たらぬ自分の不運と無謀さに腹を立てながら、怒るエネルギーも惜しいと我慢してきたがもう限界である。
シーユーはその場に倒れこみとうとう動けなくなった。
「食材が……なければ……料理人も形無し……だな……ハハッ」
シーユーは遠のく意識の中で、師の顔を思い出していた。
「目覚めたか? いやー良かった良かった」
「ここは……? 私はいったい……」
次にシーユーが目覚めたのは、粗末な小屋の床に敷かれた藁の上だった。
天井からは木の隙間から太陽の光が漏れ、小屋のぼろさを一層引き立てている。
そんな光景に彼女が漏らした感想に答えが返ってきたのは、彼女の頭のすぐ上からだった。
「ここはミズハ出身の者達が集まる集落だよ。お前さん、行き倒れたまま三日も目を覚まさなかったんだぜ?」
「三日も? ……と言う事は、あなた様方が私を助けて下さったのですか?」
「まぁ、助けたっつかそこはほら。当然の事をしたまでよっ」
男の言葉には確かに
ミズハミシマ独特の訛りがあった。性格も話に聞いていたミズハミシマの民そのもののようだ。
「……ありがとうございます」
シーユーはとりあえずのお礼を言った。
相手は当然の事と言っているが、こうして命を救ってもらった以上、ただと言う訳にも行かないだろう。
だが困った事に、着の身着のまま国から逃げてきたシーユーには、もうお礼に出せる物など何一つ残っては居なかった。
それでも話に聞くミズハミシマの民なら、お礼がなくとも何も言わないかもしれない。
だがそれではシーユーの気が治まらなかった。単に他人に借りを作りたくなかったのだ。
「あの、助けて頂いたのはありがたいのですが、私には今何も御礼できる物がないのです。ですが、このご恩は必ずお返しします。本当にありがとうございます」
「別にそんなのいらねぇって。困った時はお互い様ってよ。ま、元気になったら今度はあんたが、困ってる誰かを助けてやんなよ」
「ありがとう……ございます」
シーユーは少し狐に鼻をつままれた様な気分になった。
この人は、本当にこんなお人好しで今まで世渡りしてきたのだろうか?と。
だが思い返してみれば延国にもこんな人の好い人達が大勢居たような気がする。
誰だかの言葉に「歪んだ鏡には真っ直ぐな物も歪んで映る」と言うものがあった。
シーユーは思った。結局は自分が周りを敵と思っていたから敵だったのであって、もっと心を開いていれば、大勢味方や仲間も出来たのではないだろうか、と。
「うっ……うぅ……」
自分の歪んだ心の為に、同期や厨師として育ててくれた師匠まで手にかけてしまった、その事が今、彼女の胸を取り返しのつかない過ちを犯した自責と悔恨の念となって締め付ける。
償おうとも償いきれない大罪に、彼女は三日三晩泣き明かした。
やがて体力が回復したシーユーは、助けてくれた集落――村の人達の為に料理を作るようになった。
大量の料理を手早く効率良く、しかも毎日違うメニューにして絶品の味で作り出す彼女の料理の腕に、村の人々は大いに喜んだ。
彼女はたちどころに集落の人気者となり、女性達は彼女に料理を習おうと連日詰め掛けた。
「大変だー! メイルがまた熱を出したぞー!」
「なに? またか。あの子は体が弱いなぁ」
「ちゃんと育ってくれるか、心配だねぇ」
そんなある日、村の子供が病に倒れたと言う知らせが入った。
聞けばその子は捨て子だった所をこの村に拾われ、村長の家で育てられていると言う事だった。
龍人族らしいのだが金髪碧眼で、ミズハミシマの龍人とはどこか特徴が違う、不思議な子供だと言う。
その子供の話を聞き、シーユー――ミズハ名『時雨』は、他人事じゃない気がして、すぐその子供の下に駆けつけた。
「その子の容態は? いつ頃からこうなんですか?」
「おぉ、時雨さん。ちょうど良い所に」
家で待っていたのは年老いた龍人の村長と、手伝いに来ていた村の奥様方数名だった。
話を聞きつつ廊下を歩き、奥の座敷に行くと、そこには苦しそうに眠る女の子が一人。確かに龍人にあるまじき金髪と顔立ちの子供だ。
衰弱した様子から、目の前の子が話に聞く子供に違いない事が分かった。
「夕方帰ってから調子が悪くなり始めて、もうずっと下痢と嘔吐を繰り返して、高熱も出ておるのですじゃ」
(これは……)
「時雨さん、どうかこの子の為に、精のつく粥でも作ってあげて下さい」
「解りました。私がこの子を面倒見ましょう」
時雨はこの症状を見てすぐピンと来た。これは毒による症状だと。彼女の毒膳料理の知識が、こんな所で役に立ったのだ。
そしてこの毒を中和する食材も彼女は知っていた。問題はそれが新天地にあるのかと言う事……。
「すいません。この近くに毛氈菊はありますか?」
「え? えぇと……」
「白い花弁のタンポポのような花です。茎は捩れたような形をしています。どこかで見かけないでしょうか……?」
「あぁ、それなら見た事あるよ。確か村外れの丘の方に……」
時雨は村人の案内ですぐさま毛氈菊を採りに行った。
そして毛氈菊をせんじて混ぜた粥を食べさせると、その夜の内にメイルの体調は回復。
メイルを救い、村人達に感謝され、時雨はこの時ほど、毒膳・薬膳調理を学んでおいて良かったなと思った事はなかった。
「時雨ー」
「あぁ、こらこら。そんなに走ってはいけませんよ。転んでしまいます」
それから時雨はこの龍人達の村で暮らす事となった。
最早帰る所の無い身である。この村で生きていくしかない。時雨はあれ以来、自分に懐いているメイルをダシに使って、この村に留まろうと考えていた。
自分の料理技術は村人達に喜ばれている。だがそれだけではまだ弱い。この村にもっと馴染むには、村長に育てられる、この可哀想な少女を掴まえておく事が必要だ。
「あぁっ!」
そんな事を時雨が考えていると、草原を走り回っていたメイルが思いっきりずっこけた。
「だ、大丈夫ですか? どこも痛い所ありませんか?」
「うぅ~~~痛いよぉー時雨ー」
「はいはい、痛いの痛いの~飛んでいけー」
「なぁに? それ」
「私の……お父さんが教えてくれた地球のマジナイです」
時雨は養父であるリハクの事を思い出した。
リハクはどんな気持ちであの時、自分にこのマジナイをかけてくれたんだろう。私が泣いていたから?泣いている私が可哀想だったから?私の事が……大切だったから?
私はこんな気持ちでメイルに優しくしている。だがリハクはどうだったのだろう。私のように邪な気持ちで私に接していたのだろうか?
私がリハクに毒を盛った時だって、あの人は自分の命の事は言わなかった。私の事ばかり……
「時雨? 泣いてるの? どこか痛いの?」
「少し胸が……痛むだけですよ……メイル」
時雨はメイルから顔を背けた。恥ずかしいかった。こんな年端も行かぬ子供に、心配される事が。
そして触れさせたくなかった。こんな罪に塗れた涙に、この純真無垢な少女を。
「いたいのいたいのーとんでいけー」
「メイル?」
「これで痛いのなおった? もう大丈夫?」
時雨は、もう我慢できなかった。
戸惑うメイルを抱きしめて、声をあげて泣いた。どうか私のこの涙を、少しでも浄化して下さいと願いながら。
「何をしているのですか!?」
それから1年、時雨はメイルの実の姉のように過ごした。時雨はもう自分が取り返しの付かない過ちを犯した事に気付いていた。その罪の重さにも。
だがその罪に正面から向き合う事を恐れていた。償い切れない程重い罪だから、自分が死ぬくらいではとても償い切れない程重い罪だから、時雨は恐れていた。
時雨はまだ、メイルの姉を務めて善人ぶる事で、罪の意識から逃げていたのだ。
「これは孟宗茸と言って幻覚作用のある危険な茸なんです! 分かっているのですか!?」
そんなある日、時雨はメイルがよく遊んでいた村の子供達に、キノコを食べさせられそうになっている所を見かけた。
そのキノコは毒膳料理にも用いる程危険な物で、そんな物を子供が食べたら死んでしまうかも知れない、危険な物だったのだ。
「うっ、ご、ごめんなさい……うぅっ、うえぇぇぇん」
「わあぁぁぁん」
「ほらほら、もう泣かないで。これでもう反省したでしょ? 今度からは知らない物を無理に食べさせようとしたり食べてはいけませんよ?」
『はーい』
子供達は時雨に叱られて、ひとしきり泣いた後、散り散りに去って行った。
残ったメイルは、時雨の顔を見ぬまま時雨に礼を言った。
「ありがとう時雨……」
その様子におかしなものを感じ、時雨はメイルに尋ねた。覚えがあるのだ。自分にも似た様な事があった事を。
子供はまだ善悪の区別が付かない事が多い。危ないと分かっていても、面白そうだからやってしまう事があるのだ。
そしてそんな時、ターゲットにされるのはいつも弱い者だった。
「どうして断らないんですか。ダメですよ、もう少ししっかりしなくては」
「だって……」
「うん?」
時雨は嫌な予感がした。
冷たい汗が背を伝った。
「だってみんなが……これ食べないともう遊んでやらないぞって……」
「え、それって――」
メイルはイジメられていたのだ。それもきっと、時雨と出会うもっと前から。
思い返せば時雨が初めてメイルを助けた時、メイルは毒草を食べた時に起こる症状を起こしていた。
あの時からメイルは、ずっとこんな目に遭っていたのか。時雨はメイルを思い切り抱きしめた。それと同時にメイルの目から大粒の涙が溢れ出した。
「わ、わたしが……家族いないから……言うこと聞かなきゃ一人ぼっちになるぞって……それで……」
「……」
時雨は何も言う事が出来ない。同じように家族がいなかった自分にはリハクがいた。それでも自分は、コンプレックスから何も信じる事が出来なくなり、最後はあんな事までした。
時雨には何も言う権利がないのだ。
「わああぁぁぁぁぁぁぁ」
メイルは時雨にしがみついて、とうとう堰を切ったように泣き出してしまった。
転んで痛くても、毒に苦しんでも泣かなかった子供が、ずっと我慢し続けてきた涙のダムが決壊したかのように泣きじゃくった。
「わたしどーして家族いないの? ママもパパもどこ行っちゃったの? わたし……わたし……寂しいよ~」
痛さや苦しさには耐えられても、人は寂しさには耐えられない。
どんなに強くても、人は一人きりでは生きられないのだ。
時雨はその事が痛い程分かっていた筈なのに、この自分と似た少女の苦悩に気付いてもあげられなかった。
結局自分の罪から逃れる事ばかり考えて、この寂しい少女に真っ直ぐ向かい合って居なかったからだ。
「大丈夫……大丈夫ですから……私が絶対あなたの側に居ますから……何があっても、絶対あなたの味方ですから」
時雨はメイルの為に生きる事を誓った。
メイルを救う事が、自分をも救う事に繋がると感じたからだ。この寂しい少女は合わせ鏡だと、時雨は思った。
「世界中敵に回したって、何があっても私だけは、ずっとあなたの味方ですよ……メイル……」
だが今度は自分の為に、この少女を利用したりはしない。
時雨は絶対に、何があっても永遠に、メイルの味方であり続ける事を決意したのだった。
メイルは、拾われた時から不思議な剣を持っていた。鞘から抜けない剣。それほど装飾が凝っている訳ではないが、作りはとても丁寧な、一目で良い品だと分かる剣を。
メイルはその剣を後生大事に持っていたが、抜けない剣だから鈍らだ、錆付いていると、村人の間ではガラクタ扱いされていた。
そんな剣だったが、メイルは自分と本当の親とを繋ぐ、たった一つの絆と思い大切にしていたのだ。そして、その事を時雨だけが理解してあげていた。
「メイルのその剣が抜けたら、私と一緒に仲間を探す旅をしませんか?」
ある日、時雨がメイルにかけた言葉。
その言葉を信じて、神通力も精霊魔法も使えなかったメイルは、剣の修行に明け暮れたのだ。
やがて時は経ち、メイルが乙女と呼べる年齢になった頃、事件は起こった。
「時雨……どうして裏切ったの時雨?」
その頃、新天地では元老院と聖騎士と名乗る一派が、新天地全土を統一しようと動きを活発化させていた。
彼等は自らを中央政府と名乗り、半ば強引なやり方で周囲の村々を、軍事力を以って従わせていった。
「噂は本当だったんだ」
「あいつ、やっぱり人殺しだったんだ」
「裏切り者だ。あいつは裏切り者だ!」
そんな中、元老院に従わぬ者達と元老院との間で戦争が起きたのは当然の成り行きだろう。元老院は、従わぬ村を聖騎士達に襲わせ始めたのだ。
そしてとうとう聖騎士の魔の手は、メイルの居た村にまで迫ったのである。元老院に従って搾取されるか、逆らって皆殺しにされるか、村はその瀬戸際に立たされた。
(何か深い理由があったんだよね? 仕方ない理由があったんだよね? 時雨)
そんな中、
聖騎士団と秘密裏に密会して、村に火を放ち自分は聖騎士団の仲間になった者が居た。時雨である。
時雨は命を救われ、お世話になった村に火を放ち、多くの村人を焼き殺したのだ。そして村は地図上から消滅。生き残った者達は、彼等の新たな地を求めて流浪の旅に出る宿命を強いられたのだった。
「自分一人助かる為に俺達を売りやがったんだ!」
「ちくしょう……助けてやったのに恩を仇で返しやがって……!」
「みんな死んじまったぁ……もう村は終わりだぁ」
聖騎士達は去って行った。もう潰すべき村はなくなったと。村人達を追ってこなかった。
時雨はメイルに何も言わず、一人で村に火を放ち抜け出して、聖騎士団に入ってしまったのだ。メイル達のような村を苦しめる聖騎士団に。
「教えてよ時雨……時雨ぇーーーーー!!」
メイルの聖剣が鞘から抜けたのは、その次の日の事だった。
しかしメイルは、もうあの時の約束を、時雨と一緒に仲間を探す旅に出る約束を、果たす事は出来ないのだ。
もう一生、出来ないのだ……
『私は、あの娘を守れればそれで良かった。その為なら私は、永遠の反逆者でいい……』
やがてメイルはシグレの真実を知るだろう。シグレが、どんな気持ちで村を裏切ったのか。そして、どんな気持ちで自分と戦っていたのか。
メイルは旅に出て、そして仲間を見つける。その仲間と共に父が成れなかった、真(神)なる聖騎士として全ての間違いを正した時、彼女の罪もまた……
- 富と名声と責任から人の数だけの志を背負う職人でもあり己の人生を戦い抜く戦士でもあるような大延国の料理人。厳格に役付けされることで実力さえ伴えば皇帝との接点も生まれるというのは厨師個人意外の思惑もその人生に大きく関わるのを実感しました -- (名無しさん) 2015-10-18 19:20:17
最終更新:2013年01月06日 14:57