【清霞追風録・真君偽匪 上】

 竹林の落とす影が、だんだんとその濃さを増してくる。
 馬車の荷台に積み上げられた穀物に背をあずけながら、スイメイはみるともなく頭上に目をやった。
 はじめのうちこそ道端におずおずと現れていただけだった竹は道を登るにしたがって大きく伸び上がり、今では林を成して三方を圧している。ここに至るまでに通り過ぎてきた畑や人家に降り注いでいるであろう陽光はいまや色を失い、弱弱しい木漏れ日となってひんやりと凝る。鳥獣の気配もなく静まり返った林の間を、車輪が道を噛むがらがらとした音だけが渡っていく。
 ただならぬ気配が、あたり一面に立ち込めている。いっそ出来すぎなほどだと、スイメイはわずかに笑った。
「あの」
 スイメイが目を向けると、そこにはトウエンが泣きそうな顔をしている。御者台におさまって馬車を操っていた男もまた、スイメイと同じものを感じ取ったものであるらしかった。
「そろそろ、この辺で出るって話なんですけどね」
「そのようだな」
「あの、本当に大丈夫ですかね、このまま進んじまっても」
 朴訥そうなトウエンの面持ちが、不安で大きくゆがんでいる。無理もない、とスイメイは思った。そもそもが、このトウエンという男はこの場に望んで来たわけではない。スイメイが無理に頼み込んだのだ。金子を積み、雇い主の穀物商と車の貸主の両方から口ぞえをしてもらい、万が一損害が出た場合には如何様にも償うと約定してようやくトウエンは了承した。それにしたところで、トウエンの態度は不承不承以外の何者でもなかったと、スイメイは間に入って運び屋を探してくれた塩客から聞かされている。まあ奴さんはごねてるだけで、もう九割がたは承ったようなもんなんだが――とその塩客は前置きした上で、トウエンの不安を解くにはスイメイ自らがお出ましになるのが一番だと言い添えたのである。その意味が分からぬようなスイメイではなく、かくしてトウエンはスイメイの頼みを喜んで引き受けるに至った。
 そして今もまた、ここにきて不安がぶり返し始めたと見えるトウエンの目を、スイメイは正面から覗き込んでいる。
「大丈夫だ。かねてから決めた通りにしてほしい」
 ひるんだトウエンは、そのままスイメイの眼に捉われている。十分に間をおいた上で、スイメイは引き締めていた顔をさっと緩めた。
「無理なお願いをしているのは重々承知している。それでも、貴方の働きが肝心なのだ。どうか、私を助けると思ってよろしくお願いしたい」
 柔らかく微笑み、頭を下げる。太岳の氷河のように透き通った美貌から、川面に煌く陽光のような温かみが現れる。少し困ったようにひそめられた柳眉をくぐるようにして、輝く瞳が上目遣いでトウエンを射抜く。
 トウエンの顔から、拭い去ったように不安の色が消え去った。
「はい! では、このまま進みます!」
「よろしく頼む」
 とどめとばかりにもう一度笑みを閃かせると、スイメイは穀物袋をのけて隙間を作った。その中に這いこみ、隠れる。やがて馬車はゆっくりと進み始めた。トウエンはいまや完全に自信を取り戻し、鼻歌すら歌っている様子である。己の笑みのもたらした霊験に、スイメイはわずかに顔をゆがめた。
 ――あの男も。
 スイメイの脳裏を、一人の男の姿がよぎる。精悍な顔立ちの狐人。スイメイの心の中で、狐人は不敵な笑みを浮かべている。スイメイがしなを作って見せると、狐人は眉をひそめて鼻を鳴らし、尻を叩いて消えうせた。
 ――これほど単純ならよかったのだが。
 眼前に迫る穀物袋とにらめっこしながら、スイメイは小さくため息をついた。


 追っ手の名はスイメイ。大延国の歴史に名を残す永代剣聖の一人にして、超絶剣技を操る美貌の剣士。
 追われる者の名はシキョウ。後の大延国七十五代皇帝にして、あらゆる武術の精髄を身につけた天稟の持ち主。
 スイメイに敗北したことを不服とし、約束された玉座を放り出して出奔したシキョウと、それを捕らえるべく追うスイメイ。二人は大延国全土を股にかけた追跡行を繰り広げ、幾度にも渡って刃を交えた。そうした戦いは多くの地で伝説として残っている。
 だが、中には人知れず行われた比武も当然数多く存在している。人目につかぬ深山幽谷で繰り広げられた勝負もあれば、人目を引くまでにも至らないほんの一瞬で決着がついたもの、確かに刃を打ち合わせながらも、余人には一見して比武とは見えぬ比武もある。
 辛州、光袁台は紅吠林における匪賊退治を巡る戦いもまた、そうした比武の一つである。 


 それからしばらく進んだ後の事である。
 無音の何かが、不意に音もなくぴりりと震えた。わずかに遅れて、馬車を引く馬が足を止めた。
 大気を鋭く切り裂いて何かが飛来し、馬車の荷台に何本も突き立つ。一、二、三、四。五本目はわずかに遅れて御者台に突き刺さったとみえて、うろたえたトウエンは沸き立った薬缶のような悲鳴を漏らす。だがトウエンに逃げ出す様子はない。荷台の穀物袋の中に身を伏せながらにして、スイメイの耳はその理由をはっきりと捉えている。ことさらに土を踏みしめる、一人の男の足音。精悍な顔立ちの狐人である。
 男は足を止めると、すぅ、と息を吸い込んだ。
「――上古の玄王ケイエンの著した『大山流布』を紐解けば、旅には三難が付きまとうとある!」
 朗々たる声を張り上げて、男がすらりと剣を抜く。殷々と震える剣をゆっくりと振るい、不意に手首を凛と締めて正面を突く。気力の乗った一撃は大気を絡めとって押し出し、鋭い風切音を立てながらトウエンの額を打つ。のけぞったトウエンが恐る恐る額に手をやれば、そこには傷一つない。剣風は寸前で解け消えている。否、解け消えるように力を絞ったのだ。呆然と額をなでるトウエンに、男はからからと笑って見せた。
「三難のうち、一つには風害。一つには関所だ。どんな旅路も、向かい風一つで悪路に変わる。関所で難癖を付けられて留め置かれれば、旅どころじゃなくなる。まあまあ、わからんでもないよなあ、え?」
 トウエンががくがくと頷く気配。
「だが俺に言わせりゃ、この辺はタダの数合わせ、残る一つに比べりゃ屁も同然よ。おい、お前、残る一つは何だと思う」
 ひ、とトウエンが息を飲んだ。身をすくませるトウエンに、男が剣の腹でぽんぽんと己の肩を叩いた。
「ま、言うまでもないわな。そうとも、一番難儀なのは山盗匪賊の類に決まってる。つまりはお前の目の前にいるような、な」
 周りの竹林が、葉を震わせて鳴きはじめた。下ばえを踏みしめる足音がいくつも現れ、じわじわと馬車を包囲していく。匪賊たちが拳や得物を竹に叩きつけて威嚇する音が、他の全ての音を圧した。
「た、たす、たすけ」
「さて、そいつはお前さんの心がけ次第って奴だな」
 狐人はあくまでも快活そのものである。狐人がだんっと足を踏み鳴らせば、周囲の賊たちが竹に拳を叩きつけて和する。沈黙が十分に広がるのを待って、狐人は再び口を開いた。
「通りたければ、荷を置いていけ。と言っても、全部じゃなくていい。食い物は足りてるからな。その袋の陰に隠れてる奴を置いていけばいい」
 スイメイは体を動かし、袋の隙間から外をうかがった。荷台に振り返りかけたトウエンは、あわてたように目をそらしていた。
「さて、何の事やら分かりかねます。これはただ穀物を――」
 だんっ、と狐人が足を踏み鳴らし、剣をさっと打ち振って竹林の一点を指した。がさがさと葉を巻き込みながら竹林の中で何かが落下し、綱に引っ張られてがくんと跳ね返る。死骸。吊り下げられた肉体のあちこちは無残に裂け、遥か頭上にあって尚、死臭を届かせるほどに腐り果てた亡骸が、竹林の間で虚ろに揺れている。
「お前の前にも、こちらの言うことに従わなかった奴がいた。あれがその末路だ。で、だな」
 狐人が再び剣を打ち振って今度は地面を指す。と、竹林の中から何かが投げ出されて道に転がった。ぼろきれに絡めとられた白骨がぶつかり合ってからからと音を立てる。頭蓋骨の数は三つ。それぞれ犬人、豚人、狸人のものと見て取れる。
「そいつらがその前にいう事を聞かなかった奴らだ。おっと、その前の前だったかな。まあ、どっちでもいいか」
 冷え冷えとした色が、男の声音に加わった。
「もう一度だけ言う。荷台に隠れてる奴を置いていけ」
 事ここに至り、トウエンはガクガクと震えるばかりである。狐人は顔をしかめ――次の瞬間には御者台のトウエンを飛び越え、荷台に跳び乗っている。風術と軽功の驚くべき冴えである。
「直接言うか。おい、お前、聞こえてるんだろ」
 狐人は穀物袋の山に視線を据え、こともなげに言う。
「一つ良いことを教えといてやる。俺達は真っ当な商売人からは通行料をいただくだけで通してやってる。それも、役人どもが建てる関所に比べりゃ良心的なもんだ。ましてや、作物売りに来た農家のばあちゃんから大根もぎ取るようなつまらんまねもしないぜ、お役人どもと違ってな」
 がんがんがん、と賊たちが竹を打った。
「だが金持ちと、お前みたいな護衛を連れてる奴は別だ。そんな余裕があるんなら俺達に払えば済むだけなのに、妙な意地を張った挙句身を滅ぼす。俺はそういう奴らの相手をするのが大好きなんだ。小ざかしい真似して安心しきってる阿呆に、己の無力さを思い知らせてやるのが楽しくて仕方がねえわけよ!」
 がんがんがん、と賊たちが再び竹を打った。
「お前がどれほどの腕前か知らないが、ここに俺達が大勢待ち構えていることなんか先刻承知の上だろう? よっぽど腕に覚えがあるのか、さもなきゃ尻尾の先までお気楽で、見つかるわけがないとでも思ってたのか。実を言うと最近多いんだぜ、そういう間抜けが。こっそり光袁台に入ろうって目論見の塩客だの拳法家だのが案外大勢いらっしゃるのよ。どいつもこいつも、向こうの殿様に請われて集まって来てるんだとよ。大方、この『紅吠林』に巣食う匪賊どもを一掃しようなんてそういう腹なんだろな」
 がん、と賊たちが三度竹を打った。狐人の首領が高笑いした。
「だが無駄だ。そういう木っ端どもがいくら集まったところで、この『大鳴剣』のゴウエン様には傷一つ付けられやしない。いつでも相手してやれるが、こそこそ隠れるその根性が気に食わないから、こうしていちいち見つけては相手をしてやってるわけだ。どうだ、卑怯者。姿を現して己の武を示すか、さもなくば自分の見につけた技は見せるにも値しないゴミだと認めるか、さあ、どっちだ!」
 賊たちが雄たけびを上げ、足を踏み鳴らしながらてんでに竹と得物とを打ち鳴らした。下卑た言葉を発しながら、ケダモノのように吠え声を上げる。腐りきった性根から流れ出る腐臭が、周囲を圧していく。
 と、穀物袋の一角が、ゆっくりと崩れた。
「――声を聞くまでは、ひょっとすると人違いかもしれんとは思っていたのだ」
 ゴウエンがいぶかしげに眉をひそめ、次の瞬間息を呑んだ。
「紅吠林に潜む山賊どもの頭目が最近代替わりして派手に働きはじめた。護衛やら塩客やらによく絡み、勝負を挑んでは打ち負かして喜んでいる若い狐人だと。まさしく噂どおりのようだな」
 ことさらに表情を殺したスイメイは、ゴウエンのまん丸に開ききった眼を正面から捉えた。
「その口上は自分で考えたのか。それと、その名前も。なにが『大鳴剣』だ、バカらしい。それに死骸のまがい物までこしらえて」
 袋を押しのけ、スイメイが立ち上がると、ゴウエンはわずかに身を引いた。周囲にかすかなどよめきが走った。
「見損なったぞ、シキョウ。そんなに大都に帰るのがいやか。盗賊に身を落とすのが、お前のやりたい事なのか」
「勘弁してくれよ……」
 ゴウエン――シキョウの口から漏れた言葉には、混じりけのない驚きが溶け出していた。


 凝固しきった時間のなかで、初めに動いたのはシキョウである。
「はーっはっはっは! これはまたなんとも見目麗しいお嬢さんのお出ましだ!」
「突然何を言いだすんだ、お前は」
 かすれた笑い声を上げるシキョウに、スイメイは呆れた眼を向ける。と、その耳に囁きかける声があった。
『手下向けの演技だよ。頼むからちょっと調子を合わせてくれや。事情は説明するから』
 シキョウの口元がわずかに動き、風を伝って声を運ぶ。自在に音や声を曲げる投声術の技法である。スイメイは眉をひそめた。

『さぞや込み入った事情なのだろうな』
『今は時間がないから後で――おい、気のせいかな、お前が口を開けずに喋ってる気がする』
『お前だってそうしているではないか』
『あのなあ、俺のはこれでも投声術の奥義なんだよ。なんでお前があっさり真似できる』
『以前に一度見たからな』
『勘弁してくれよ』
『ところで、口上のほうは続けないのか。手下とやらが不審がっているようだが』
『はいはい、ご指摘痛み入ります』

「お嬢さん、一手ご指南いただけますかな? それとも、こちらが仕ろうか。たっぷりかわいがってやるぜぇ」
 下卑たあざけりの滴る口上に、スイメイは鼻を鳴らしてこれに応える。佩剣に手をかけながら、スイメイは再び声を投げた。

『かわいがるのか』
『そっちはまじめに取り合わなくていいんだよ。それより、事情を説明してる暇はないんだ。この場は黙って引いてくれないか』
『そんなわけにいくものか』
『頼む、三日でいいんだ。その後は比武でもなんでも付き合ってやるし、盗賊稼業だって辞めるよ。だから今は引いてくれ』

 スイメイはシキョウをにらみつけ、佩剣を抜いて構えた。顔をかすかにこわばらせながらも、投げる声はわずかに柔らか味を帯びている。

『――安心した』
『何がだ』
『心のそこから盗賊を志しているわけではなかったのだな』
『んなもん当たり前だろうが』
『それはどうかな。当たり前が通用するなら、お前は今頃玉座についているはずだからな』
『うるせえよ。大体なんだよ、隠れるなんてだまし討ちじゃねぇか』
『私が最初から姿を現していれば、お前はどうせ出てこなかっただろう?』
『――っとっとっと、口上いわねえとな』

「おっと、やる気かよ。いいねえ、気に入ったぜ」と顔をそらしたシキョウが声を張り上げ、不自然な沈黙を塗り隠した。スイメイはいまや、呆れ顔を隠すのに苦労を覚えていた。

『お前がここで何をやっているのか知らないが、ご苦労なことだな』
『邪魔してくれるなよ、後三日の辛抱なんだから』
『三日後に何があるというのだ』
『おっつけわかる。それよりお前をここから逃がす方が先だな』
『逃げることなど簡単だが』
『そりゃお前の手にかかればそうだろうな。だがそれじゃ困るんだよ。この『紅吠団』の威信に傷がつくのは構わんが、今だけはまずい。一騎当千のつわものぞろいってところまで評判を持ち上げるのはずいぶんな手間だったんだ。あっさり逃げられて面目つぶされちゃやってられねえよ』
『その評判とやらがそんなに大事か』
『今回の件の肝と言っても過言じゃないぐらいだな。そんなわけで、なにか筋書きが必要だ。ひょろひょろの女剣士が、泣く子も黙る『紅吠団』の包囲を突破して逃げ出せるような小理屈が、な』

「にしてもずいぶんなへっぴり腰だな、お嬢さん? 俺もその綺麗な顔に傷を付けたくはないからなあ、剣を収めた方がお互いのためになると思うんだがなあ。何しろ俺の『大鳴剣』を食らわせちまったら真っ二つどころの騒ぎじゃないからな」
 再び、シキョウがことさらに大声を出す。スイメイがわずかに剣を引いた。

『そうなのか』
『まあ、ここいらじゃ剣風泣き叫ぶがごとくって触れ込みでとおってるよ。岩なんかも斬れることになってる』
『そっちではなくて、綺麗な顔を、のくだりだ』
『何言ってんだ、お前』
『そんなお世辞もいえるのだなと思ってな』
『ああ? そりゃお前、俺が脅かす、お前がかわいそうなぐらいびびって投降する、連れて帰る途中でお前が逃げ出すってそういう流れで行く布石だよ。お前もちょっとは協力して怖がるフリしろよ。そんな仏頂面じゃ説得力に欠けるだろうが』
『――なに?』
 スイメイの表情にわずかなひびが入ったが、シキョウは特に目も留めない。いかにも女人を嬲る悪漢にふさわしい顔を作りながら、いかにも困り果てたように声を投げる。
『もうちょっとこう、手弱女が慣れない剣を構えてがんばっては見たもののやっぱり無理でしたって絵面がほしいんだよ。こちとら男所帯だからな、女が涙を流して拝めばスケベ心も出すし、その分油断もする。捕まえたお前をねぐらに連れ帰る途中で、玉でも蹴飛ばされて逃がすなんてどじを踏むのもやむなしという寸法だ。だから、お前もたまには女の武器を持ってることも思い出して、有効活用してみろよ』
『有効活用、ね』
『ダメだダメだ、なんだその目つき。今にも殺し合いが始まるんじゃないんだぞ。そうでなくても取り付く島なさそうな面構えしてるんだから、少しは眉間のしわ緩めろよ』
『眉間の皺、か』
『無理させてるのは知ってるよ。媚びるのに慣れてないのもしょうがない。でも何とかがんばってみてくれよ。顔のつくりは悪くないんだから、こわばってない笑顔だけでも上々ってもんだ。ほら、色目の使い方だって思い出せないわけじゃないんだろ? いい加減手下どもも焦れてきてるからいっちょまともな奴を――』
 銀光、二閃。だがその輝きを目に留めることが出来たのは、わずかにシキョウのみである。
 遥かな高みから、ふと陽光が差し込んでくる。竹の落とす薄暗い影から姿を現した賊たちが、てんでに上を見上げて悲鳴を上げる。根元から切り落とされた何本もの竹がゆっくりとずれ、かと思うと葉を鳴らしながら賊たちめがけて倒れこんだ。襲い来る竹に頭を打たれ、盗賊たちは散り散りに逃げ惑い始めた。あっけにとられているのはシキョウである。声を投げるのも忘れはて、涼しい顔で剣を構えたままのスイメイをぼんやりと見やった。
『おい、なんだ今の』
『さあ? 竹の根元が腐っていたのではないか?』
『とぼけるな、お前の仕業だろうが!』
『知らん。きっと竹林のほうで気を悪くでもしたんだろう。お前らのようなろくでなしに辺りをうろうろされたんではとんだ迷惑だということかもしれないな』
 轟音を立てて、太い竹が何本も根元から倒れる。折れた竹は倒れる途中で二つにへし折れ、逃げ遅れた賊の一人をしたたかに打ち据えた。声も無く倒れ臥す賊に駆け寄った仲間に、更なる竹が降り注ぐ。混乱の巷の中で、スイメイだけが冷静である。剣を収めて御者台に飛び乗り、化石していたトウエンを助け起こして手綱を受け取る。おびえていた馬たちをあっという間に落ち着かせると、スイメイは荷台に呆然と立つシキョウに振り返った。
「なんでもよい。ちょうどいいから、これに乗じて逃げる事にする。否やはないな」
「あ、ああ」
「それと、この場でお前を叩きのめして連れ帰るのはいとも簡単だが、今は気分になれない。だからお前の言うとおり、三日後まで見逃してやる。感謝するがいい」
「ああ、うん、すまん」
「そういうわけだから、どこへなりとでも行け。首を洗って待っていろ」
「いや、別にどこへもいかねえしけどよ」
「そういえばそうだったな」
「なあ、どうしたんだお前、大丈夫か」
 スイメイは空を仰ぎ、嘆息し、シキョウにちらりと目をやるとさっと腕を突き上げた。掌によって捕らえられた大気はスイメイの力を内に孕んで槍のごとく空を貫き、一本の竹の頭を切り落とした。己が絶技をいともあっさりと真似されて目を剥いたシキョウが振り仰ぐその顔面を、切り落とされた竹が強かに撃つ。たまらず荷台から転がり落ちるシキョウの姿を視界の隅に捕らえ、スイメイは笑みを浮かべた。清冽な中にも凄みを孕む、深み百間に至る湖のような笑みである。
「私なら大丈夫だとも」
 手綱をとったスイメイが、馬車を駆って山道の向こうに消える。道に転がり落ちてようやく顔を上げたシキョウの脳天に再び竹が落下し、シキョウは地に崩れ落ちた。



 光袁台の城門をくぐり、手綱を渡して別れようとしたところで、スイメイはトウエンに捕まった。
「お美しいだけに留まらず、盗賊どもを退けてくださいました。今日の事は一生忘れられません」
 トウエンの心酔ぶりはあまりにも素直に表されていた。そっけなく聞き流して立ち去ることも叶わず、スイメイは命の恩人にご馳走したいと言い張るトウエンに付き合って酒家に席を得ていた。その席ですっかり酒の入ったトウエンはスイメイの活躍ぶりを声高に言い立て、周りもまたこの美しい剣士の武勇伝に喜んで耳を傾ける。始めのうちこそ、聴衆に擦り寄られて気のない様子で菜をつまんでいたスイメイが、やおら思いなおしたかのように控えめな笑みを振りまき始めるに至ると場の興奮は頂点に達し、時ならぬどんちゃん騒ぎの奔流となって店から人々をあふれさせる。やがて混沌とした一座に不意に鋭い警笛が鳴り響き、事態の収拾を試みた兵士たちが酔っ払いどもを押しのけながらスイメイの元に至る。鎧兜に身を固めた兵士達はいずれも硬い面持ちながら、周囲を飛び交う野次の意味するところが染みとおってくるにつれて顔からは威圧と警戒が剥がれ落ち、畏敬の視線が瞳に灯る。年嵩の兵士の一人が進み出ると拱手し、スイメイもまたそれに応じた。
「剣士様、ご尊名は」
「スイメイだ」
「スイメイ様、ぜひとも我らが主の下へお越しください」
「いいとも」
 そうしてスイメイは兵士に守られて、光袁台を治める知事の邸宅へといざなわれた。客室で待つスイメイの元に現れた狸人は知事の秘書を務めるガクシュウと名乗り、かと思えばスイメイが礼を返す暇も与えずにその場で叩頭しはじめた。流石のスイメイもあっけにとられ、ガクシュウの被る絹の帽子が転げ落ちるのをなすすべもなく見送る。ガクシュウは立ち上がって居住まいを正すと、いかにも感極まったといわんばかりに涙を流した。
「ああ、貴方のようなお方がまさにこの時にこの地を訪れてくださるとは、天も我が君を見捨てたわけではなかったのですね」
 何の事やら、とも聞きかねるスイメイをよそに、ガクシュウは滂沱の涙を流してスイメイを拝まんばかりである。ガクシュウが興奮しきってスイメイを讃える合間にいくつか質問をさしはさんで得た答えをつなぎ合わせ、スイメイは大まかな事情を見て取った。
 およそこの光袁台という地は、その名の通り台地の上に街が形成されている。出入りするには限られた道を使うほかはなく、それゆえに道を匪賊に抑えられれば街はなすすべもない。かつては匪賊の跳梁跋扈を許していた光袁台だが、二十年ほど前に先代の知事が派遣されてからは状況が変わった。先代の知事リュウテイは南蛮において大黒白を屠った経験もあるという生粋の武人であり、兵を組織しては賊を討ち、光袁台の安寧を確保して住民から大いに感謝された。わけても、匪賊達の親玉であったゴウエンなる狐人とは何度も刃を交えた末、遂には追い散らしてのけたという。
「およそゴウエンの剣の冴えと来たら、剣風泣き叫ぶが如し、人呼んで『大鳴剣』という使い手でございました。なんでも岩すら一刀の元に叩き斬るとか」
 ちらり、と脳裏をよぎったシキョウの顔を追い払い、スイメイは先を促した。
 先代知事リュウテイの活躍によって、光袁台にはようやく平和が訪れた。
 かに、見えた。
「ところが、リュウテイ様がお亡くなりになると、事情は変わってまいりました」
 そもそも光袁台に至る道は、山賊どもにとってはこの上なく住みやすい土地なのだという。豊かに茂る竹林は潜むにたやすく守るに堅く、黙って口を開けていれば獲物が飛び込んでくる。これまではリュウテイの雷名に恐れをなして離れていた不逞の輩も、リュウテイの死後は群れを成し始めたのだという。それもなんとも恐ろしい事に、群れには頭がいるのだとか。
「頭?」
「はい。何でも、かのゴウエンが帰ってきたというのです」
 非の打ち所のない武名を誇るリュウテイといえども、ゴウエンの首を取ることだけはどうにも叶わなかった。配下もろとも追い散らされたゴウエンの名はしばらくの間絶えていたが、リュウテイが身罷り、子のリュウエンがその地位を引き継ぐと、まるで待ち構えていたかのように再びゴウエンが跋扈し始めた。罪咎に穢れているとは言えゴウエンの武名もまた大層なものであり、芳しからぬ輩を集める旗印としては充分である。
 かつて光袁台の民の肝を寒からしめた『紅吠団』が、いまや復活を遂げつつあるのだ。
「――もちろん、我々とて手をこまねいていたわけではないのです。討伐軍を組織し、兵を訓練し、また腕に覚えのある武林の達人にご助力を賜ろともしてきたのです。ところが、ゴウエンどもと来たら狡猾この上ない事に、この地に武人が入る事を許さないのです。どうやってか武人を嗅ぎ分け、一騎打ちで退けてしまうのです。少なくとも、移送の協力を頼んだ商人どもは皆そういうのです。しかるに!」
 目を血走らせたガクシュウはスイメイの足元に身を投げ出して叩頭した。
「ようやく一人の武人がこの地にたどり着いてくださった! それも、貴方様のような帝国に二人といない剣の達人が! これはまさしく天のお導きに違いありません! 我々の命運いまだ尽きず! 万歳!」
 珍しい、とスイメイはいぶかしんだ。
 スイメイの剣技は卓越したものであるが、名声はまた別である。武林が全土に広がる社会として成熟する以前の事、スイメイは武名を誇る性質ではなく、人との付き合いに構うことも薄い。その顔をそれと見分けられるものは、武林においても限られる。ましてや眼前にひれ伏す老秘書は、生涯筆より重いものは持つことのない根っからの文官といった風情である。そのことをスイメイが問うと、ガクシュウは顔を輝かせた。
「私は先代からここにお仕えしております。その折に、リュウテイ様から貴方のことを聞き及んでいたのです。かつて行われた塞王南片移設の際、ここぞとばかりに攻め寄せる南蛮を追い散らして格段のご活躍をした剣士様がいらっしゃったと。リュウテイ様は塞王にて軍務を果たしておられた折に、その活躍をつぶさに見聞きされたそうでございます。貴方様はまさしく話に伝え聞いていた通りのお方でございましたので、一目でわかりました」
「――昔の話だ」
「その時と変わらずお美しいようですね。およそ武術を極めれば、そのように若さを保つことも出来るのでしょうか」
 眉をひそめるスイメイに、妙なことを申すようですが――と老秘書は声を潜めた。
「あの忌まわしいゴウエンも、このところは往時の姿を振り捨て、いまや若さを取り戻していると聞いております。にわかには信じがたいことですが、貴方様を見ていると、そうした事もあるのかもしれないと思わざるを得ません」
 そんな事はない、なぜならあれは件のゴウエンが若返ったのではなくて、ただの偽者にすぎないからだ――とは、スイメイも口には出せない。偽者の正体を明かせば、余計な事柄までずるずると明るみに出る。白王位および皇位の継承が内定している君子が行方をくらました挙句、山にこもって賊を率いているとなれば、これは歴史にすら残りかねない醜聞である。
 ――全く、面倒なことをしてくれる。
 スイメイは内心嘆息した。どうやら、シキョウはかつてこの地を脅かした匪賊のふりをしているらしい。いかなる意図があるのかは全く持って理解不能である一方で、手際としては実に上手くやりおおせている様子ではある。道理の通らぬことに限って達者にこなしてのけるシキョウの面を思い浮かべるほどに、スイメイはこめかみを揉み解すのをどうにかこらえた。
「スイメイ様」
 ガクシュウが表情を改め、スイメイの前に膝をついた。
「お願いがございます。ぜひとも我々に力をお貸しください。貴方様の比類なき武でもって、紅吠林に巣食う山盗匪賊どもを退けてください! どうか、伏してお願い申し上げます!」
 スイメイに否やは無かった。老秘書にこれ以上叩頭させるのも忍びなく、もとよりシキョウを連れ帰るには山賊退治が不可避であることは自明である。ガクシュウを助け起こし、それでは今からでも行ってくると言いかけたところで、シキョウの必死に訴える声がスイメイの脳裏をよぎった。


『頼む、三日でいいんだ。その後は比武でもなんでも付き合ってやるし、盗賊稼業だって辞めるよ。だから今は引いてくれ』


「――引き受けよう」
「本当ですか!」
「ただし、三日間ほど時間を頂きたい。よろしいか」
「三日、ですか」
 喜びに輝いていた老秘書の表情に、瞬く間に雲がさした。
「あの、このようにずうずうしいお願いをするなどとんでもない事だとは重々承知しておりますが、どうか明日にでも取り掛かっていただくわけには頂けないでしょうか、せめて、せめて二日」
「三日後ではまずい理由でも」
 老秘書は首を振った。曰く言いがたい表情を浮かべ、瞑目して思案した末ようやっと口を開く。その口ぶりはいかにも重い。
「三日後、我々は軍を仕立て、ゴウエン討伐に向かうことになっております。出来れば、その前に倒してほしいのです」
「いかにも、軍を出すのが不都合であるかのようなおっしゃりようだ」
「ご明察です。なんとしてでも、討伐軍そのものを出さずに済むようにしなくてはなりません。軍を出せば――」
「出せば?」
「――私の口からは、申し上げる事はできません」
 ガクシュウは言葉を切り、スイメイに苦渋にゆがんだ目を向けた。
「明日の早朝、討伐に向けた練武が行われます。我が君、リュウエン様も参加することになっております」
「リュウテイ殿のご子息か」
「はい。ぜひともリュウエン様にお会いください。そうすれば、私のお願いについてもご再考いただけるものと存じます」
 変わった物言いであるが、スイメイはこれに構わなかった。その場を辞したガクシュウの後に現れた召使に案内され、客室に落ち着き、水で喉を湿らせて寝台にもぐりこむ。
 スイメイは天井を眺めながら思考をめぐらそうとしたが、浮かぶのはシキョウの間抜け面ばかりである。むやみに沸く腹をなだめすかし、スイメイは目を閉じると、水底に沈むように深い眠りについた。




 翌朝、スイメイの姿は城壁のそばに設けられた練武場にあった。
 訓練用の模擬武器を打ち合わせ、兵士達はわき目も振らず訓練に励んでいる。ガクシュウを伴ったスイメイが合間を巡っても、ちらりと視線を向ける者すらほとんどいない。気合とともに武器を突き出し、打ち合わせては互いを地面に引き倒して土に塗れ、また立ち上がっては始める。まれに見る熱心さに、スイメイは舌を巻いた。
「元は徴用した農民や若者達です」
 誇らしげなガクシュウの言葉に、スイメイは感嘆をあらわにした。技術こそ荒削りなところも目立つが、士気は正規の軍人に迫る水準である。徴用された市民というものは戦を厭うのが性というものであるから、これは驚くべき事だった。
「リュウエン殿はとても優秀なようだな」
「ええ。リュウテイ様の跡継ぎという仕事を大変立派にこなしておられます。今回の匪賊退治も、リュウエン様自ら陣頭に立ち、指揮を取られるのです」
 そう答えるガクシュウの顔立ちは奇妙に優れない。目顔で問いかけるスイメイに、ガクシュウは黙って道を促す。そうして練兵場に満ちる兵士たちを二つに断ち割りながら進む二人の前に、ひときわ大きな人だかりが現れた。
「よいか、お前達よく見ておけよ、『双牙合従』の型はまずこのように相手を打つ」
 ごん、という鈍い音に続いて、甲高い金属音が鳴り響く。いかにも刀が地を叩くような音である。若い男の声は、決まり悪げに上ずっていた。
「よいか、このように落とすのは型には含まれん。そそっかしい奴は勘違いせぬように」
 遠慮がちな笑い声は、兵士達が視線を交わすにつれて次第に大笑へと変わる。巻き起こった爆笑の渦のなかパンパンと手が打ち合わされると、笑いはさっと消えうせた。
「さて、よく覚えておけ、もう一度やる。絶技を目にして学ぶがいい」
 ごん、と鈍い音に続いたのは、今度は人が地に倒れる音である。どよめきの広がる人だかりは、スイメイとガクシュウの姿を目にするとさっと左右に割れていく。兵士達の中心でスイメイが目にしたのは、起き上がろうとする若い狐人である。
 訓練用の木人を支えとして、やっとの事で立ち上がる。いかにも人のよさげな丸い目に、狐人の貴族特有の整った毛並み。黒と白の毛皮を配した印象的な皮鎧を見に着け、これまた白と黒に刀身を彩られた双刀を拾い上げて両手に提げる。白刀のほうを腰の鞘に戻そうとして失敗し、しばらく悩んだ末、黒刀を地面にそっと置いてようやく白刀を鞘に収める。再び手にした黒刀を背の鞘に戻そうと悪戦苦闘しながら、狐人はスイメイとガクシュウにちらりと目をやると、努めて何事も無かったかのように声を張り上げた。
「言うまでもないと思うが、転ぶのも技のうちには入らん。もう一度やってやるからな」
「リュウエン様」
「後にしろ。今は兵士達に稽古を付けているところだ。見てわからんのか」
 黒白の鎧を纏った狐人――リュウエンは声を荒げた。
「リュウエン様、こちらはスイメイ師です」
 スイメイは進み出て拱手した。胡乱げに眉をひそめたリュウエンの視線がすべり、頭を垂れるガクシュウを捉えた。
「スイメイ師? 父上の話にあったあのスイメイ師か?」
「いかにも左様と存じます」
 丸い目が眇められ、視線がスイメイを射抜いた。遠慮がちにスイメイを眺め回した末、リュウエンは鼻を鳴らした。
「ありえん。若すぎる。父上がスイメイ師とお近づきになったとき、父上はわたしより年若かったと聞き及んでいる。もしこの女人がスイメイ師だというなら、私の祖母ほどにも年老いているはずだ。おい、お前、どんな目論見があるのかは知らないが、他人の名をかたるのは関心せんな」
 リュウエンが黒刀でもってスイメイを指した。勢いよく突き出された黒刃はスイメイの鼻先を掠めたが、その事で顔色を変えたのはむしろリュウエンのほうであった。刀を引き、再び背の鞘に収めようとして取り落とす。さりげなく刀を拾い上げながら、リュウエンは傲然と胸をそらした。
「ふん、なりすませるだけの度胸はあるようだな」
「リュウエン様、このお方は間違いなく、父上のおっしゃるスイメイ様です。お若く見えるのは、きっと常識を超えた鍛錬のなせる業に違いありません。金炎児や仙人と呼ばれる方々の中には、そうした方も大勢いらっしゃるのですよ」
「だからといってこの女を信じろというのか。他人の名を騙るのはまだよい。だが名乗るに事欠いてスイメイ師の名を、それもよりによってこの私に対して騙るとはな。他の場所でならそれで偽りの尊敬を勝ち取ることも出来たのだろうが、生憎我が父上はスイメイ師をよく存じ上げていたそうだ。でっち上げの武名でわたしに近づくつもりだったのなら、もう少し下調べをしておくべきだったな」
「リュウエン様、このお方は大層な技の持ち主で――」
「どうだかな。お前は実際にその技とやらを目にしたのか?」
「それは……」
「ガクシュウよ、お前はよく仕えてくれているが、所詮は文官だ。武の事はわかるまい。一方私にはわかる。父上の血を受け継ぐ私は、武の天稟をも受け継いでいる。その天稟が教えるのだ。この女は大した腕前ではない」
「リュウエン様――」
「おい、女。正体を現せ。正直に申せば許すぞ」
 苦渋に顔をゆがめるガクシュウを、スイメイが制した。やおら進み出で、後ずさったリュウエンの前に跪くと、スイメイは頭を地に打ち付けた。
「申し訳ございません! リュウエン様のおっしゃるとおり、私はスイメイ師の名前を騙っておりました! お許しください!」
 そのまま地に頭を擦る。うろたえるガクシュウをよそに、気を取り直したリュウエンが咳払いをした。
「やはりか。よかろう、許す」
「スイメイ師!」
「ありがとうございます! 寛大な処置に、心洗われる思いでございます!」
 スイメイは目を潤ませ、歓喜に満ちた表情でリュウエンを見上げた。頬に輝く涙の跡は、まるで雨上がりにさす虹のように爽やかな美しさである。魅入られたように顔を緩めたリュウエンは、素早く口元を覆って顔つきを正すと、ガクシュウに視線を向けた。
「ガクシュウよ」
 ガクシュウが頭を垂れた。
「お前が我が軍の戦力を増そうとして、各地の名高き武人に救援を要請しているのは知っている。それが失敗していることも、お前がそのことを気に病んでいることも。大方、これもお前の考えた事なのだろう。父上の話にあった伝説の武人がこの地に姿を現し、我らを嘉してくれたならば、我らの士気は大いに上がり、勝利は疑うべくもなくなると、そういう筋書きなのだろう。違うか?」
 ものいいたげなガクシュウを、スイメイはひそかに目顔で制した。リュウエンは気付く様子もなく、上機嫌で言葉をついだ。
「こんなことはすぐにわかる。スイメイ師は父上の話を聞く限りではおよそ途方もない武人だというが、帝国全土に名が響き渡るほどには有名ではない。少なくとも、この地においては、出しただけで大の男がなぎ倒されるような名声ではない。僭称するなら、スイメイ師よりもっとよい名がいくらでも選べたはずだ。それにこの女のような美貌ならば、武人の名をかむる必要も薄かろう。人に千金を請うに当たってすら苦労するようには見えんからな。ガクシュウよ、お前がこの女にスイメイ師の名を吹き込み、スイメイ師として仕立て上げようとしたのだろう。そうだな?」
「――ご明察でございます」
「お前の考えはわからんでもない。だが、我々には必要ない。スイメイ師とやらの助けを借りるまでも鳴く、我らの士気は充分高い。匪賊どもを蹴散らすことなど、我々には朝飯前だ。なんとなれば、我らは強いからだ。私が組織し、鍛えあげた兵士達は我が街を守るために全力を尽くす。断じて盗賊などに遅れは取らん。そうだな、お前達!」
『応!』
 リュウエンがさっと手を打ち振ると、兵士達が背筋を伸ばした。一声を発し、武器や拳を打ち合わせて脚を踏み鳴らす。熱気は瞬く間に練兵場全体に広がり、あがった鬨の声は耳を聾せんばかりに大気を満たした。
 リュウエンが再び手を振ると、兵士達は声を止め、己が訓練に戻っていく。その様子を見やりながら、リュウエンは満足げに顎をなでた。
「まあ、それはそれとして、ガクシュウよ、お前の考えにもよいところは一つある。どこで見つけてきたのか知らないが、この女は中々の上玉だ。剣を持たせ、訓練にでも参加させるがいい。きっとよい見ものとなろう。兵士達には息抜きも必要だ」
 ガクシュウが力なくうなずいた。神妙に顔を伏せるスイメイに、リュウエンは微笑んで見せた。
「といっても安心しろ、女。兵士達には断じて粗暴な振る舞いなどさせぬ。そうだな、父上から受け継いだこの『墜黒』と『屠白』の双刀にかけて誓おう。お前の役目は、我らが兵士達を元気付けることだ。どうだ、思っていた役目とそれほど変わるまい? そうだな、そのためなら、当初の予定通り、スイメイ師を名乗るのもまたよいだろう。今日と明日、兵士達の間を巡り、なんなら適当な武勇伝でもいくつか語って見せるがいい。現実に技を見せるのは荷が重かろうが、必要とあれば私が一手授けてもよいぞ」
「もったいないお言葉にございます」
「よいよい。どうせ兵士達にも技を見せようとしていたところだからな。ちょうどよい、お前も見て、スイメイ師のふりをするのに役立てるがいい」
 リュウエンは『墜黒』を構えなおした。思わせぶりに刀をスイメイに示し、木人との間合いを計ると一息に踏み込み、打ち下ろす。袈裟懸けに打ち込まれた一撃は木人の肩に当たり、いともあっさりと弾き返された。体勢を崩したリュウエンの体が泳いで木人に正面から突っ込み、『墜黒』はその手を離れて宙に舞ったかと思うと、倒れこんだリュウエンの背中に過たず落下した。悲鳴が上がるも、黒白の皮鎧は『墜黒』の刃を滑らせ、傷を負わせるには至らない。舞い上がった砂埃の中で立ち上がりながら、リュウエンは『墜黒』を拾い上げて咳き込んだ。
「そう、そうだな」
 助け起こすスイメイに向ける瞳は、気恥ずかしさを完全に隠し切るには至っていない。『墜黒』を鞘に収めようとして失敗しながら、リュウエンは決まり悪げに笑って見せた。
「お前が兵士の間を巡るときに技を見せてみろといわれたなら、このようにしくじって見せるのもよいだろう。笑いは兵士達を安らがせる。おい、お前達も遠慮せず笑ってよいのだぞ。今のはこの女のために、わざと失敗してやったのだからな。気を使う必要などないのだ」
 控えめな笑い声が、兵士達の間に満ちる。スイメイは頭を下げ、リュウエンに感謝の言葉を囁く。リュウエンはうなずいた。
「討伐まであと二日だ。頼んだぞ、スイメイ師よ」
 その顔に、さっと影が落ちた。人のよさそうな丸い目に、鋭く硬質な光が宿った。
「我らは必ず勝つ。私自らが先頭に立ち、賊の首魁をこの手で打ち倒してみせる。父の代から続いた因縁を断ち切り、この地に安寧をもたらすこと、それが私の使命だ。そのためなら命すら惜しくはない。
 だが我らが兵士達は徴募兵だ。これが終われば日々の暮らしに戻る。この者達を待っている暮らしがあるのだ。無論、戦いとなればこちらとて無傷では済むまい。この中のいくたりかは、二日後に死ぬかもしれんのだ。だが、私は一兵たりとも失いたくはない。誰一人として、ここで果ててよい命などではないからだ。だから私は兵を守るためならどんな努力でもするつもりだ。女よ、そのことをどうか覚えておいてくれ。お前はお前なりのやり方で、我らの戦いを祝福してほしい。出来るな?」
 スイメイはうなずいた。
 兵士の群れを断ち割り、見送る敬礼に答えながら、リュウエンはその場を離れた。黒白の鎧が完全に見えなくなったところで、老秘書はスイメイに首を振って見せた。なんともいえぬ表情を浮かべた兵士達が、ガクシュウの支持を受けた上官達に追い散らされる。あとに残されたガクシュウの姿は、スイメイには一回りほども小さく見えた。
「――ご理解いただけたでしょうか」
 スイメイはうなずく事はしなかった。シキョウがリュウエンを害することなど万が一にもありえない。だが、リュウエンを戦場に出すと考えるほどに、老秘書の心労が重なることもたやすく理解できる。リュウエンが武器を構え損ねる姿をちらりと思い返しながら、スイメイは剣の柄を軽く叩いた。
「明日の朝には片をつけておく。昼はリュウエン殿の言うとおり、皆を元気付けて回るとしよう。案内を頼む」
 顔を輝かせて叩頭しようとするガクシュウを、スイメイは周りを示す事で制した。傍目にはよろけたガクシュウを支えたように装うと、スイメイは遠巻きに見つめる兵士達に微笑んで見せた。



 その日一日を、スイメイは兵士達の間を巡る事ですごした。多くはただ微笑むだけで用が足り、時には何手か披露することもあった。無害だが人目を惹く型を選び、即興の歌を合わせて舞い踊る。思いつめた様子で訓練に励む兵士達の雰囲気が、だんだんとくつろいだものに変わっていく。瞬く間に出来た人だかりをようよう抜けて、素質のありそうな兵士にいくつか要訣を授けることもあった。飲み込んだ途端見違えたようによくなった兵士の動きに、周りも目を輝かせた。誰もが、スイメイに感謝を述べた。
 そうした訓練の合間を縫って、スイメイはリョウエンの評判を聞いて回った。名君だと、誰もが口をそろえた。リョウテイの後を継ぐにふさわしいと。一方で、武の腕前に関しては誰もが言葉を濁した。まとう鎧は南蛮の巨獣、大黒白の皮で作られ、担ぐ双刀『墜黒屠白』はまさにその皮を剥ぎ取るのに使われた代物なのだと男達が我が事のように胸を張る一方で、その使い手については話をそらす。「リョウエン様が武器を取るまでもなく終わらせるのが我らの仕事だ」と上官がしかつめらしく言うと、誰もがその通りだと和した。
 そうして、スイメイは今客室へと戻っている。窓を開き、星灯りを部屋の中に導きいれる。夜の清らかな風を頬に受けて、スイメイは小さくため息をついた。部屋着に着替える事もなく、窓の外をひょいと覗き、佩剣に手をやり、脚絆を巻きなおして立ち上がる。そのままひょいと窓枠に飛び乗り、スイメイはもう一度空を見上げた。
『止めとけよ』
 耳に届いた声に、スイメイは鼻を鳴らした。
「おやおや、山賊の親玉さまのお出ましか」
『そろそろお前が動き始める頃合だと思ってよ。来てみりゃ案の定だ。どうだ、例のガクシュウ爺さんの頼みを聞く気になったか』
「なったとも。今からでも出て行ってお前を倒し、大都まで引きずって帰る。頭がいなくなれば賊どもは散り散りになるだろう。リュウエン殿の手を煩わせることも無くなる」
 くくく、とシキョウがあざ笑った。
『なるだろな。そして差し出がましい横槍でリュウエン殿の顔は潰れる、と言うわけだ』
「どういう意味だ」
『俺が何のために盗賊の頭のふりなんかしてるのかってことさ』
 スイメイは窓枠を掴み、一息に脚を跳ね上げた。逆上がりの要領で逆さまに飛び上がり、瓦の上にふわりと降り立つ。屋根の上では胡坐をかいた先客――シキョウが、呆れたようにスイメイを見上げた。
「ちぇっ、しばらくはごまかせると思ったんだがなあ」
「声を曲げても無駄だ。お前、よくこんなところに顔を出せたものだな」
「生憎だが、ここにはしょっちゅう邪魔してるよ。目端の利いた山賊ってのはな、近場の街には目や耳をおいとくもんなんだ」
 スイメイは辺りを見回し、耳をそばだて、シキョウを見下ろして眉を上げた。シキョウが肩をすくめた。
「ハイハイご明察、俺しかいませんよ。俺がわざわざ見に来てるんだよ」
「頭領自らが偵察役とは、勤勉なことだ」
「任せられるような奴がいないんだからしょうがないだろ? 全くどいつもこいつも、威勢がいいだけでまれに見るごく潰しばっかりだからな」
「一騎当千の強者ぞろいなのだろう?」
「言っただろ、そういう噂を立てるのに死ぬほど苦労したって。麗々しく飾り立てたって中身は空だよ」
「わからんな」
「何がだ」
「何故そうまでして、山賊の脅威を演出せねばならんのかということだ」
「そりゃお前、その方が討伐したときに重みがでるってもんだろ」
「自作自演ではないか」
「なんか悪いかよ、自作自演で」
 いかにも軽く投げ出された言葉の終わりを、宿る重みが虚空に沈めた。シキョウの脇にスイメイが腰を下ろすと、シキョウは遥か遠くの山の端に視線を投げた。
「なあ、スイメイ、ここの殿様の話は聞いただろ。先代の話も」
「ああ」
「ここの家は先代が一代で打ち立てた武門の家柄だ。この地の支配権を与えられたのも先代が塞王で立てた武功のおかげだし、根を張れたのだって山賊退治を首尾よくこなしたからのこと。親父殿がそんなもんだから、子だって似たような事を考える。自分も何か武功を立てないといけない、そうしなければ人々の上に立つ資格がない。そんな風に考えるわけだ」
「まるで見てきたきたような物言いだな」
「見てきたさ。ここに初めて来た時、リュウエン師の部下の息子になりすましてな。墓にも挨拶させてもらった。その時に散々聞かされたよ。自分も早く武勲を立て、冥府の父を安心させなくては、てな」
 くつくつとシキョウが笑った。
「だがお前も見ただろ。あの若様じゃ武勲なんて到底望めない。刀を鞘から抜くのにだって苦労してる有様だ」
「私はそうは思わん」
「ほう?」
「確かに本人の腕前は見るに堪えないかもしれない。だが、指揮官としての能力は格別だ。これほどまでに将軍を慕い、士気も高い兵士達を私はみた事がない。よい機会を与えられれば、必ずや軍師として大成するだろう」
「そうだな。ま、一つには、そこに気付かせてやろうってのもあったのさ」
「――どういう意味だ?」
「恐ろしい盗賊団が現れれば、すわ軍隊の出番ってことになるだろ。そうすりゃ指揮官が必要になり、自称ボンクラの若様に任せてみたら思いのほか使えることが判明する、とこういうわけよ。お前も聞いてるかもしれないが、事態がこんな風になる前の若様ときたらすさまじいもんだったらしいだぜ。早く父のように認められたいって気負いと焦りに追い立てられて砂を噛むような日々を送りながら、周りには気を遣わせまいと四苦八苦だったとよ」
「わたしが聞いたのと違うな。誰もがリュウエンは名君だと言っていたが」
「周りの評価と自分が思いつめてるのとは違うんだよ。あのまん丸おめ目がずいぶん血走ってるの見ただろ。視野がこーんなに狭くなっちまってるのさ」
 顔の両側に掌を立て、シキョウは目を思い切り見開いて口を尖らせた。これでもかとばかりに崩された面持ちに、スイメイも笑みを返した。
「そこまでとは言わないが、思いつめているのは違いないな」
「だろう。その思い込みを断ち切るにゃ、どうしたって手ごろな脅威が必要だった。若様でも平らげられて、その上自分でも納得できる成果となるような脅威がな。実績の一つも打ち立てれば自信がつく。虚ろな器に中身が入る。今までも周りが評価してきた通りの立派な殿様として、名実ともに完成するというわけよ」
「だから、自作自演の盗賊騒ぎをぶら下げてやったというわけか」
「いっとくが、俺が勝手にやってることだ。若様どころか賊どもだって何にもご存知ねえよ。だから自作自演ってのはあたらねえな」
「そうか」
「まあ、そういうわけだから、余計な手出しは無用だ。俺を大都に連れて帰るんなら、きっちり討伐が済んでからにしてくれや」
「成る程な」
 ぼそりと一言つぶやいて、スイメイは夜空を見上げた。清澄な大気にしばし鼻先を預けると、スイメイはこらえきれぬというように笑みを漏らした。
「成る程な」
「何がなるほどだ」
「なあ、シキョウ」
「なんだよ」
「いや、ずいぶんはしゃいでいるなと思ってな」
「まあ、細工は流々だからな」
「いいだろう。乗ってやろう」
「思ったより聞き分けいいな」
「その代わり事が済めば、お前も本当に大都に帰ってくれるのだろう?」
「お前が俺をきっちり捕まえていられるもんならな。まず言っとくが、宿場を三つ抜けた頃には俺の姿はないと思えよ」
「捕まえておかねばならないか?」
「当たり前だ。俺が大都に帰るのは、自分が納得したときだけだ。納得できなきゃ逃げの一手よ」
「事が成った暁には、逃げる理由など無くなっているはずではないのか」
「何言ってやがる」
「ここの騒ぎに手を貸す事で、少しは考えが変わったかと思ったのだ」
 スイメイは立ち上がり、座するシキョウに手を差し出した。いぶかしげに手を返すシキョウを引っ張って立ち上がらせると、スイメイは佩剣の柄をたたいた。きん、と鋭い音が、場に目に見えぬ糸を張った。
「シキョウ、お前は何故帝位から逃げる」
「なんだよ、藪から棒に」
「答えろ。お前は何故逃げる」
「――お前を自分の力で倒すその時まで、俺は帝位にも霊王位にもつく気はねぇ」
「霊王と六部尚書の過半数に羽林全軍、先代の皇帝陛下に至るまでがお前を皇帝として支持しているというのに、か?」
「それがどうした。俺は頭も悪けりゃ愛想もない。帝位につけるなら他にふさわしいのがごまんといるだろうが」
「国中のあらゆる武術を身につけた天才ではないか」
「そうとも。お前に子供みたいにあしらわれる天才様だ。どうだ、恐れ入ったか」
「駄々をこねるな、シキョウ」
 シキョウの目つきが険を帯びた。
「駄々じゃねえ。お前のその分かった様な物言いごときを黙らせられないような器に、帝位なんか盛り付けたってこぼれて仕舞いになるだけだって言ってるんだ」
「そう思っているのはお前だけだ。お前ほど帝位にふさわしい者はいない」
「俺はそうは思わん」
「だからか」
「何がだ」
「だから、わざわざリュウエン殿を助けるのか」
 風が凪いだ。凝固しきったシキョウの顔を、スイメイは正面から見据えた。
「自分と同じ悩みを抱いているから。どれほど苦しい日々を送っているか知ってしまったから。周囲の人間からは持ち上げられる一方で、それに見合うだけの自信を抱くことができない。どれほど自分を磨いたところで、遥か遠くの影に追いつく事が叶わない。そんな苦しみを共有する仲間を見つけたつもりなのだろう。だから、助けてやろうとしたわけか」
 シキョウは黙して答えない。ひたすらに顎をかみ締め、スイメイを血走った目でにらみ付ける。その視線を真っ向から受け止めながら、スイメイは更に言葉を継いだ。
「さぞや楽しかったのではないか。何しろ人助け、それも、自分と同じように苦しんでいる人間を助けるのだからな。まるで自分が救われたような気分に浸れたことだろう。そんな暇と余力があるなら自分を救えばよさそうなものだが、そっちのほうは叶わないらしいからな。はけ口としては手ごろだったのだろうな。
 だがシキョウ、お前は一つ誤解をしている。リュウエン殿はお前の仲間などではない。悩みの種は同じでも、向き合う方法が全く違う。お前は向き合ってすらいない。単に逃げていただけだ。お前とリュウエン殿を一緒にするのは途方もない侮辱だ」
「――抜かせ」
 死体から血を搾り出すように、シキョウが声を漏らした。
「俺は逃げてんじゃねえ。お前を倒せる技を探して、全土を巡って」
「ほう? では聞くが、お前はこの地で何の技を学んだというのだ。例の岩をも断つとか言う触れ込みの大鳴剣か? それとも詐術か?」
「俺は」
「そもそも、本当に私を倒せば満足できるのか、シキョウよ」
「どういう意味だ」
「私を倒したところで、お前は次の理由を見つけるだけではないのか。スイメイには勝った、だが相変わらず山も破れぬし河も断てぬ、だから皇帝にはふさわしくないと、そんなことを言い出すだけではないのか」
「そんなことは――」
「ないか? 分かるものか。お前は自分で思っているより遥かに愚かなのだぞ、シキョウ? 本来ならお前は皇帝になる男だ。義務を負い、それを果たすだけの能力にも恵まれ、誰もがお前を支持している。だのに、納得がいかないなどという自分の都合で全てを擲つ。これが愚か者でなくてなんだというのだ。リュウエン殿とお前の違いはそこだ。リュウエン殿は器ではないと自認していながら、それでも己の責務から逃げる事は無かった。なるほど今回のお前の自作自演のおかげで解き放たれた部分もあるのだろう。だがそんなものがなくとも、いずれは折り合いをつける事が出来ていたはずだ」
 シキョウが鼻を鳴らし、口元を醜くゆがめた。
「ずいぶん言いたい放題言ってくれるな、え? 無敵のスイメイ様はなんでもお見通しってか」
「お見通しだとも。お前が向き合うべきものから目をそらし、余計な事に首を突っ込んでいることなど誰の目にも明らかだ。ほかならぬお前以外は」
「ほかならぬお前がそれを言うんだな、スイメイさんよ」
 低く小さなささやき声は、だが確実に大気を掴み揺さぶった。全身から湧き上がる怒りに煽られるように、シキョウの体毛が逆立った。
「向き合ってないだと! それをお前が言うのか、お前が言うのかよ! どっちを向いてもお前がいる。寝ても醒めてもお前の顔がちらつく。ああそうさ、逃げてるさ。こんなもんに向き合ってたまるもんか。こちとらな、どこまで追って来るお前の影から抜け出そうと必死なんだよ」
「ならば抜け出して見せろ。今すぐにでも」
「そんなことは――」
「出来ないか? それこそほかならぬ私の前で、そのことを認めるのか。冗談交じりの戯言ではなくて心のそこから、私に勝つことは金輪際出来っこないと、そう認める気か? もしそうだというのなら、私も、お前を皇帝に推す全ての人間も、ずいぶんな見込み違いをしていたということになるだろう。それだけではない。お前がこれまでしてきた事もすべて無駄になるのだぞ。
 だが私としてはそれでも一向に構わん。お前が本当にやるべき事から逃げつづけていたとしても、とっくに出ていた結論から目を背け続けていただけだとしても、同じ悩みを抱えたお仲間の一人も一方的に救ったつもりになって、それで少しでもお前が満足したのならば、それで別に構わん。
 構わんから、シキョウ、事が済んだら大都へ戻れ。それがお前の為すべき事だ。帝位に就き、お前の人生を取り戻せ。そうすればいずれ――」
 踏み込みは、いっそ軽いほど。
 だがその軽やかな踏み込みには全身の系力が余すところなく流し込まれ、シキョウの足元から頭の天辺に至る一点の破綻もない流れを形作る。瓦を踏みながらもわずかな音すら立てることなく、高く高く飛び上がる。シキョウは放たれた矢のようにどこまでも飛んで着地し、瞬く間にその姿は闇の中に消え去った。
 スイメイは、シキョウをただ見送った。目を閉じ、シキョウの顔を思い浮かべる。瞳を血走らせ、歪みきった顔。飄々と吹き渡る風のように生きる男が、ただ一人スイメイの前でのみ見せる表情は、心の奥底に凝った怒りそのものだ。
「――いずれ、私から逃げるのではなく、真正面から向き合える」
 夜風が、スイメイの尻尾をはためかせた。震える体をかき抱き、小さく首を振りながら、スイメイは目を細めた。
「必ず、その日が来るはずだ」



 但し書き
 文中における誤りは全て筆者に責任があります。
 独自設定についてはこちらからご覧ください。
 また、以下のSSの記述を参考としました。
 【続・その風斯く語りけり】


  • なぜか脳内cvは沢城先輩で再生されるスイメイ師。そしてなにこの両想いな関係 -- (名無しさん) 2013-05-06 09:49:33
  • 武の求道と色恋沙汰のなんともいえない混ぜ具合…これは男女どちらにも人気が出そうな物語 -- (名無しさん) 2013-05-14 23:24:13
  • スイメイ師匠いいなあ -- (名無しさん) 2013-05-16 17:52:06
  • 今のスイメイとは違ったユーモアさという人間味が新鮮です。大仰にぎこちなく半分笑い話のように進む慣れない画策が微笑ましい。敵うものなしという立場が揺らぎないと思われていたスイメイに迫る力の存在がいい味付けになっていると思いました。何だかんだで話の真ん中に飛び降りるシキョウと彼への思いを僅かづつながらも意識していくスイメイが床転げそうになるむずがゆさでした -- (名無しさん) 2016-08-07 19:58:22
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最終更新:2013年05月22日 19:48