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 異世界にいくことを決めたとき、いくらか下調べをした。どんな国だろうと想像をめぐらせた。特に、彼の絵に描かれた塔については、幾通りもの空想をもてあそんだ。なぜか、風景画だと理解していた。

 今では、当たらずとも遠からずだったことを知っている。マセ=バズークには、いくつもの国があるのだ。宝石が角度によって輝きを買えるように、ページをめくった本が次々と物語をあふれさせるように。

 そしてこの構造こそが、あの絵を生み出した源なのだと、今の私は知っている。



 グレッグは層だ、と言っていた。まさしくその通りだった。

 一枚一枚の層は非常に薄い。意識を集中していなければ見失ってしまうほどにかすかで、息を吹きかけるだけでも崩れてしまいそうな弱弱しさだった。現に、驚きのあまり突き出した私の腕は、眼前に漂っていたレイヤをまるで薄絹のカーテンのように突き破ってしまっていた。何重ものレイヤはいともあっさりと敗れて私の手のひらに絡みつき、指の間を滑って空中に解けた。

 その事で、私は《真理鉱山》に充満する《ニーモニック》の雲に触れた。

 《レジスタ》はディルカカの神力の結晶だ。ディルカカは巨大なコンピュータのように振る舞い、いくつもの思考や計算を実行している。その過程で、計算実行に使われた神力の痕跡が残ることがある。職人が工芸品を作り上げた周りに材料のくずや使い古した道具が散らばるように、《レジスタ》はディルカカの用いる道具であり、計算過程が書き散らされた計算用紙なのだ。あまりに高次の計算が行われているため、神ならぬ身ではその全容を把握することはできない。しかし、それでも解析に堪える概念や情報が残されていることがある。マセ=バズークの民はこうしたディルカカの残滓をかき集め、神の領域にほんの少しでも迫ろうとする。万が一にも何らかの情報をサルベージすることが出来ればマセバズークの歴史に残り、あるいは解析不能な命題でも、上手く切り出すことができさえすればそれは貴重品として取引され、一部では通貨に当たる地位を獲得して流通する。これは《ニーモニック》と呼ばれ、いわばクジや宝箱に近いものだ。いずれ誰かが解き明かす秘密のこめられた《ニーモニック》は、ある程度論理層に重きを置く蟲人なら誰もが目の色を変える宝石なのだ。

 確かにこれは鉱山だった。私はなんとなく、地面の下に何かが埋まっているのだろうと考えていた。石の神だというディルカカが、地面のそこに何かを埋めているのだと。この《真理鉱山》の巨大な尖塔は、石油の採掘リグのように何かを吸い上げるものなのだと、そう漠然と考えていた。

 逆だ。この鉱山が掘り起こしているものは、大気の中にこそあふれている。この領域に濃密な雲を形成している《ニーモニック》を効率よく回収するために、この高度が必要だったのだ。

 まるではるか昔から知っていたことのように、全てがしっくりと私の心に位置を占めた。

『その様子だと、上手くいったみたいだな』

 私は首をめぐらしかけ、やめた。周囲を見回すのに、首を動かす必要などないことが理解できた。私の周りに揺らめくレイヤが、視線の先で姿を変えた。グレッグはそこにいた。彼は拡大していた。彼の周りに、彼を支える構造が存在していた。まるで外骨格のように堅牢なシステムが彼の全身を覆い、彼の身体の一部をなしていた。文字通り身体の一部だ。彼の地球人としての肉体の周りに、彼の拡大された精神が広がっているのだ。

『地球じゃ拡張皮質、なんて呼んでるらしいな。あんたのそれも、貸与された拡張皮質だよ。それと、そんなに大げさなもんでもないよ。心で命令できるコンピュータとネット接続デバイスの合いの子みたいなもん、翻訳加護のちょっと上等な奴だ。初心者は勘違いしがちなんだがね。思考も駄々漏れになりがちだし、付帯情報も取り込みすぎやすい』

 グレッグが何かを投げて寄越した。受け取ろうと差し出した私の手のひらに、それは素早くもぐりこんで消えた。

『コイツを使うといいよ。うちも開発に関わってる地球人向け自我殻プラグインだ』

 途端に、私の体が薄い殻に覆われていくのが分かった。グレッグの纏っているのと同じものだ。まるで身体にぴったりと合った服のように殻は私を包み込み、むき出しだった私の精神を閉じ込めて遮蔽した。私は安堵のため息を吐いた。

『うぇるかむとぅでぃすくれいじーわーるど! こっちのネットの味はどうです? そんなに悪いもんでもないでしょう』

 そんなメッセージが飛び込んできた。得意げな音声には、発信者を示す情報タグが付いていた。互いに独立した三重のふるいがより分けた自然数の直積集合は、個人識別のために使用される名前に当たるものだ。中心に鎮座した簡略シグネチャには、きちんと読み仮名が添付されている。シーヴだ。

 シーヴはこの事務所インスタンスの外に張り付いていた。垂直な壁に取り付きながら必死に笑顔を浮かべるシーヴの姿が、壁を透かして見えた。広げた羽も、その制御を行っている光輪のような拡張自我も、今でははっきりと見て取ることが出来た。そして、その必死な面持ちも。

『いえーいどうもー。ところでちょっとそろそろヤバイのピンチが危険地帯って所なんですけど! 具体的にはビスマスが寄ってきてるんですけど! ご覧になれます、あのビッグで破廉恥な分解酵素? あれで分解されるのは僕の希望する死に方ベスト300にはちょっと入ってないんですよご参考までにー。そういうわけで、そろそろおうちに入れていただけたらなーって思う次第なんですよ。別にこれって文書でお願いしないといけない要望とかじゃないと思うんですけど、就業規則見直せってうちの上司に伝えていただけません? 僕今ちょっと彼に期間限定の接続禁止命令受けててウギャー近い近い8時方向にビスマス環一体接近中! オープン! ライト! ナウ!』

 ビスマス環とは、《ガベージコレクタ》の一種だ。見た目は真っ青なムカデに似ている。ガス推進で空中を泳ぐ体長10メートルのビスマス環は生きたごみ収集業者である《ガベージコレクタ》の中でも、特に生物素材の分解に優れている。口腔に格納された鋏は必要になれば体外に露出し、分解酵素を分泌して生体からの老廃物をなんでも分解する。ビスマス環の行動規約が、いつのまにか私の記憶に刻まれていた。

 奇妙な話だった。彼らが分解するのは老廃物だけだ。シーヴは生きているはずではないか。

 その通りだと、グレッグがうなずいた。

『アホな話もあったもんだ。ビスマス環を怖がるのは死人だけだ。本来はな』

『でも僕は今死んでるんですけどー。法的な意味でー。このぼでーの使用期限をどさくさにまぎれて延長してるんでーす。どうだ参ったか』

 まだ更新してなかったのか、とグレッグがため息を吐いた。

『正規の申請が通らないわけでもないだろうが』

『出来るとするは別でーす』

『今はお前の金の出所がなんとなく分かってきた気がする』

『当ててみてもらえます?』

『税金滞納だろ』

『ハイ正解。ちょっとだけ死んだことにしておくと各種税金が安いんですよね。租税回避のためのプチ死亡が今ひそかなブーム……地球でもこれ通用するスキームだったりしません? 死人から税金は取れんじゃないかって秦の始皇帝も言ってましたよね? 今度時間の余裕があるときに是非検討したいですね! いや今検討したいですね! よかったら入れてもらえません? お時間取らせませんから! 先っちょだけ、先っちょだけですから!』

『そのまま食われろ。犯罪者はうちに必要ない』

『犯罪じゃないですーギリセーフの脱法ですー最先端の生きる知恵ですー。ところで開けて! 開けてってば、ねー! 解体ショーとかお目に掛けてもいいんですか! かくのごときものをご覧になりたいですか! 暗君!』

 グレッグは私を見た。視線を一つ動かして、グレッグの管理する権限の一つが私に委譲された。土精霊が形成したこの事務所インスタンスの、外殻をコントロールする権限だ。グレッグは何のタグも付与していなかった。それでも、この場でするべきことは分かった。これは練習だ。この街で暮らしていく上で、誰もがやっている行為を。

『ちょっとー! そろそろ奴らのセンサーに欺瞞しかけるのも限度がね――』

 私は壁面を操作し、シーヴを部屋の中に受け入れた。転がり込んできたシーヴは大きな目をしばたたかせると、私の足元にしがみついた。感謝を表す感情タグがシーヴの全身から湧き出し、私の周りにまとわりついた。

「助けてくれるって僕信じてましたよ! 心のそこから! なんでしたら僕のライフログご覧になってください! ここ20周期ぐらいで一番の感謝感激が激アツ――へーい! 見せもんですよ金払え!」

 言葉の後半は、壁の穴からこちらを覗き込んでくるムカデ頭に向けられたものだった。ビスマス環の頭部担当個体は部屋の中に胡乱げな走査を向けると、このあたりになんだか老廃物があったような――という趣旨のことをぼそぼそと言った。

「あー、それはきっと、こちらの地球人の方ですね。接続の練習をしてまして、誤情報が流れ出ちゃったんでしょう」

 何食わぬ顔をしてグレッグが言った。あーそうでしたかー、とビスマス環の頭部が答えた。ところでそこのアレは死んどるみたいなんですが――とシーヴを指しても、グレッグは眉一つ動かさなかった。

「ここは俺のドメインですんでね。清掃は自分で行うのでお引き取りください。どうもご迷惑をおかけしました」

 そうですか、こちらこそえらいすみませんでしたなあ、とビスマス環は言い、最後に私とシーヴに走査でひとなでしてから去っていった。グレッグが壁を閉じ、私もシーヴも、胸をなでおろした。確かにあれに食われて死ぬのがうれしいことだとはいいがたい。

「まあ、練習してたのは間違いないからな」

 グレッグが音声で言った。

「さて、感動の救出劇も終わったところで本題だ。あんたにはここらのローカルシステムの利用資格が発行されたことになる。準備が整ったってわけだ。じゃ、このアドレスにアクセスしてみてくれ。説明用の仮想環境だ」

 言われるがままに、私は渡されたアドレスにアクセスした。



 但し書き
 文中における誤り等は全て筆者に責任があります。

  • ヒャッハー!このイカレた世界へようこそ!君はタッボーイタッボーイ!シーヴさん超かわいい!死体かわいい! -- (名無しさん) 2013-08-21 19:30:07
  • キャラのアクの強さに目がいく以上に作者の中でのマセバ観の完成度に驚くばかり。どこまで国を構想しているのか覗いてみたい -- (とっしー) 2013-08-23 21:34:38
  • 冒頭からの電脳たる雰囲気の面白い分かり易い恰好の良い表現にうっとり。会話以前の風景や例えから確固たるマセバズークが作者の中で形成されているのを感じますね。緩い空気感はどこからが生でどこからが死なのかと曖昧さが広がっていきますね -- (名無しさん) 2017-02-26 18:06:18
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最終更新:2013年08月21日 16:49