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【critical_path】

 旅することになると分かったとき、私は長期の休暇を取った。仕事に差し支えても一向に構わないと思った。

 異世界はこちらより不便だと聞いていた。公共交通機関もなければ店もない。大使館だってないのだ。普通の旅になるわけがない。苦しい旅になるだろうと覚悟はしていた。

 だがいざふたを開けてみれば、そんな心配は的外れだった。

 そもそも旅のやり方からして、私の予想とは大きく食い違うものだったのだ。




 仮想環境は海の中に似ていた。

『落ち着く』

 そんなコメントが、隙間から覗いた環境生成コードのあいだに残されていた。見つけたグレッグが手を振ってほころびを消し、苦笑した。

「実際似てるのさ。上方は慣れ親しんだ物理層、一方で光も届かない深層に住んでるのは得体のしれない深海魚やチューブワームみたいな奴らだ。海流や沈殿物なんかによる行き来もある。メタファとしちゃ悪くないと思ってるよ」

 環境が私の拡張皮質に張り付き、感覚を入力し始める。始めは視覚、聴覚や嗅覚が続き、最後は触覚だ。まるで水族館の水槽を眺めていたら、不意にガラスが割れて水が流れ込んできたようなものだった。透き通る青い水が揺らめき、時折上がっていく泡がぼこぼこと音を立てる。身体を満遍なく締め付ける冷たい水の圧力は、すこしもがいてみせると弱まり、背景ノイズの一部となった。

 私はいまや深い水の中に浮かんでいた。

「この環境はおれ自身のための地図でもあるんだ」

 私の横に浮かぶグレッグが言う。

「概念をそのまま飲み込むのにも慣れるべきなんだが、所詮俺も地球人だからな。いくら拡張皮質や翻訳加護があるからって限度がある。特に、地球には存在しないような概念はな。とはいえそんなんじゃ務まらないから、多少工夫はさせてもらって、それがこの環境と言うわけだ。さて、ではまず始めにあちらをご覧ください」

 はるか上方で何かが発光した。遠くから海面をつらぬいて届く光は暖かく、ひどく馴染み深いものだった。

「アレがゲートだ。こちらの世界と地球とをつないでる。どうだい、前に見たのと違うだろ?」

 確かに違っていた。私がくぐったゲートは光り輝いてなどいなかった。ゲートは陽炎のような枠組みの中で揺らめく大気だった。ゲートをくぐる感覚は砂嵐にも似ていた。一方で、この場所から見るゲートは太陽そのものだった。ゲートという穴から流れ込んでくる地球が、ここでは熱や光のような存在感を伴って感じられた。

「致死性って点では似たようなもんだ」

 グレッグが鼻を鳴らした。

「なんだかんだで、こちら側の世界も地球の事を読み取るのに苦労してるのさ。こればっかりは表層的な翻訳加護だけじゃ助けにならない。完全に異質な精神同士の接触はお互いを傷つけてしまう。あの熱や光はそれを表したもんだ。だからこそ俺みたいなガイドが必要になってくるわけだけどな。俺以外のガイドもいるよ。こっちの世界で育成されたガイドや翻訳者もいる。後で話してもらうことになるかもな。んでだ」

 グレッグが腕を一振りすると、深い水の中に、一条の光線が走った。海面付近で輝くゲートから差し込んできた光線は私たちを掠め、深い海の底へと伸びて消える。輝く細光にはところどころに節があり、節の周りには影絵のような付帯タグがつけられていた。

「データの経路だ。あんたが見た絵が、こっちのネットからインターネットに入るまでの。ご覧のとおりデータは深海、要するに論理層の奥の方からやってきて、いくつかのノードを経由し、最終的にこっちのプロバイダに渡された。つっても、これはあくまで一例だ。投稿、あんたとのメールのやり取り、そのほか同一人物からの通信と思われるもの、それを一度に表すとこうなる」

 海が、閃いた。

 無数の光条が海面から降り注ぎ、あるいは海底から飛んできてあたりを埋め尽くした。途方もない数の通信経路はまるで光のすだれのように視界を埋め尽くしていた。一本一本の経路にはタグがつけられていた。同じ経路をたどる通信は一本も存在していなかった。

 グレッグがうなずいた。

「地球で言うと、一回一回ケーブル引いて、使い終わったら引き抜いて捨ててるようなもんだな。とんでもない非効率だが、実際にこれ以外の方法がないことも間違いないんだ。相手は移動してる。ここの比喩で言うと、潜水艦みたいなもんだと思ってくれ。論理層のとんでもない深み、既存の通信経路を一切利用できない場所から、それでも力技で連絡してきてるんだ。正気の沙汰じゃないよ」

 私は手を伸ばし、あたりに降り注ぐ光の一本を引っ張り寄せた。つるつると手を滑らせると、光はバイオリンの弦の様に震えて心地よい音を立てる。私の要求に応えて、はるか上方からタグが滑ってきた。私はタグを摘むと、細い管を割って開くようにして光線に縦の切り目をいれ、指を突っ込んでいっぱいに広げた。

 景色が書き換わった。

 ここに来るまでに、私は何度も何度も彼の作品を見直した。彼の描く巨大なオベリスクは私の目に焼きつき、まぶたを閉じて手を伸ばせば手ごたえを感じられるほどになっていた。水を吸い込む砂地のように、私は彼の絵を余すところなく貪欲に味わってきたはずだった。

 間違いだと分かった。この絵を本当に体験するためには、この世界に来ることが必要だったのだと、私ははっきり理解した。

 絵そのものは私が見てきたものと同じ、ただの二次元の絵だった。私を酔わせたのは莫大な付帯情報のタグだ。絵に添付され、インターネットに流し込む際にはオミットされることが指示されたメタ情報。そこには描いた存在の息吹が宿っていた。絵を生み出した何者かが抱いた崇拝や陶酔や怒り、現状の私には理解することが不能な感覚がそこかしこに埋められている。時系列順に配置された絵の成長手順や捨てられた分岐は積み重なって地層をなし、三次元的な絵の化石となって凍り付いている。傍らで眠りについているのはこの絵を輸送する際につけられたパッケージ管理タグだ。深緑色の小さな蜂のように見える管理タグは私に気づくと、羽を震わせて浮かび上がり、私の腕に取り付いて針を突き刺した。管理タグは毒と言う形で私の自我殻に記号化された経路の情報を流し込み、それはまるで正座したあとに足に残るような痺れと、走馬灯のように私の視界をよぎる光景となって現れた。モノも情報も目一杯詰め込まれた《バス》とごった返したターミナル、長距離通信を担う共鳴蛍の双子が放つきらめき、パリティ検査官に命じられて予定とは違う経路をとらされた蜂の困惑、大きな蜘蛛のような姿をしたこちらの世界のインターネットサービスプロバイダは、旅の終着点だ。

 そして、旅の出発点の記録も残されていた。描きあげたときの満足感が、不安げにパッケージを包む腕が、荷物を乗せて送り出したカプセルを見送る時の息遣いが感じられた。それから、彼が見上げたオベリスクの光景、それが表す意味も残されていた。

 オベリスクは移動していた。

 天に届くほどの威容が、その巨大さにあるまじき速さで運動していた。強大な力がオベリスクの周囲で逆巻き、雷や爆撃のような奔流となって周囲を抉り取っていた。これこそは、ディルカカから直接流れ出す神力そのもの、《レジスタ》などとは到底比べ物にならない純粋な塊だ。

 絵を描いた彼は、そんなオベリスクの表面に取り付いて生きる無力な存在だった。いや、非常に強力な力を持っているのだ。凡百のマセ=バズーク人や地球人には想像もつかないような知性と意志を備えていた。だが、周囲の環境はそれを上回るほどに厳しいものなのだ。

 私は漠然と、オベリスクは神殿のような場所に打ち立てられたオブジェクトだと思い込んでいた。だが実際には、回遊する艦船や彗星にも似た存在だったのだ。だからこそ移動している。だからこそ通信線の確立が不可能なのだ。

 不意に、誰かが指を鳴らした。オベリスクの威容が収縮し、消え去り、その下に展開していた海の仮想環境も消えうせた。

 私は今、グレッグの事務所に戻ってきていた。

 崩れそうになった私を、誰かが支えてくれた。シーヴだった。気遣わしげながらも胡乱げなシーヴに礼を述べて、私は自分を立て直した。

「そういう場所だよ」

 グレッグが静かに言った。

「そこがあんたの行きたい場所だ。人間の精神に耐えられる可能性もなくはない。たどり着けるかどうかは更に別の問題になる。あのオベリスクの居場所を特定して、しかも追いつくにはかなり工夫が必要になるだろう」

 本当にあんなところへ行きたいか?

 言葉に出さずに、グレッグはそう問うていた。

 行きたいだろうか?

 恐ろしかった。通信に残されていたのはほんのわずかな残滓だ。それでもあれほどの力と印象にあふれていた。地球人がどうやって適応していけるものか、私には全く見当も付かなかった。ここは紛れもない異世界であり、その中でもオベリスクは極めつけだ。

 人間のままで理解できる、たどり着ける領域ではないのだろう。そう、はっきりと分かった。

 だがそれでも、私は行きたかった。

 あの絵の真実を知りたいという衝動が、オベリスクを見てしまったことによってかきたてられ、消しようもないほど燃え盛ってしまった。

 いかなる犠牲も払える。そんな確信が、すとんと私の中に落ちた。

 グレッグが鼻を鳴らした。

「一応聞いただけだ。気を悪くしたなら謝るよ。じゃあ、今後は準備に入らせてもらう」

「あのー」

 シーヴが素っ頓狂な声を上げた。グレッグが眉を上げてシーヴを見やった。

「なんだ」

「なんだか置いていかれてる気がしてるんですけどー。さっきの環境にも入れてもらえませんでしたし」

 シーヴが不満げに目をしばたたかせる。そういえば、海の中にはシーヴの姿はなかった。グレッグがまた鼻を鳴らした。

「お前はもう見ただろうが」

「えー、じゃあひょっとしてアレ見せたんですか。うわー引くわー」

 シーヴが眉をひそめた。

「あんなもの見せたら即地球に帰るに決まってるじゃないですか。私でも漏らすような代物なのに。商売っ気とかないんですかねー本当に。すみませんねえ気の利かない上司で。ここは一つ《ニーモニック》採掘ツアーでもいかがですか? もしくは大型種族の幼生とふれあいの旅地上すれすれ編とか。あ、その前にアーマイトに先祖代々伝わる歓迎と相互貿易許可の踊りでお口直しを――」

「いらん気遣いだ」

 グレッグがシーヴの発言を遮断し、シーヴが抗議の感情タグをばら撒いた。そのタグも封じられると、シーヴは不満げにしゃがみこみ、恨めしげにグレッグをにらみながら床に模様を描き始めた。じわじわとあふれ始めた涙がこぼれ、頬に筋を描き、筋はあっという間に太さを増して小さな川になり、滝になった。水量のあまりに水平に飛び出し始めた涙を振りまいて無言の抗議を繰り返しているシーヴに呆れたような目を向けると、引き起こして私に引き合わせた。

「今度の件にはこいつにも手伝わせてもらうよ。うちの貴重な戦力なんでね。ちょっとばかり順法精神には欠けるが、まあ贅沢は言えない」

「違法じゃないですー脱法ですー。そこのところ大事な違いなんですー。それに、うちの女王の定めた法なら抜け道を探すのだってやりませんよ。破るのはよそ者が勝手に決めたルールだけです。あーあと役に立つのは間違いないですよ。自分で言うのもなんですが能力は折り紙つきですフフフ。では早速自己アピールも兼ねたライブを五時間ほどお聞きください」

「その涙を止めてから言え」

「そういう意地悪やめてください。ご近所で性格の悪さが取りざたされて社会スコア激烈低下しますよ」

「好きにしろ。お前が一人騒いで終わるだけだ」

「それもそうですね」

 シーヴが微笑み、ようやく涙の奔流が止まった。よろしくおねがいしますと差し出された手を握り、グレッグにも握手を求める。にやりと笑って握り返すグレッグの手は、とても力強いものだった。自信と活力にあふれた握手だ。

「それじゃ、今日の宿にご案内するよ。それと飯もな。出発は明日だ」

 事務所ががたんと音を立てて移動し始めた。向かうのは、この《真理鉱山》の中心区画だ。



 但し書き
 文中における誤り等は全て筆者に責任があります。

  • グレッグが時々怖く感じるんだよなー。シーヴはマセバから送られたスパイなんじゃない?とか思ったり -- (名無しさん) 2013-09-02 20:44:46
  • 大きな目的がありそうなグレッグ。やばい空気は話毎に強くなっているような -- (としあき) 2013-09-06 00:35:58
  • 現実がしっかりある前提で思考世界を電子とファンタジーのちゃんぽんで描いているのは面白い -- (とっしー) 2013-09-14 21:25:47
  • 人間が作る仮想空間と異種族が異世界で作る仮想空間とではどのような違いがあるのかと読んでいると考えてしまいます。求めるものや理想に彩られたというよりは効率の果てに少しの美の安らぎを加味したというような作中の風景の中で脳が泳ぎました -- (名無しさん) 2017-04-02 17:41:14
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最終更新:2013年09月08日 18:13