気の荒い風精の戯れで荒れた海と、それに立ち向かうにはそうでなければならないと言わんばかりに荒々しい気性の者達、時に蛮人などと陰口を言われることも多い北海の船乗り達の母国
ドニー・ドニー。
北の果てに≪永久氷の女王≫の領域を抱えるこの国は、冷気の精霊が集まってくる冬の時期は吐いた息でさえすぐさま氷つくほどの寒さとなり、その国土のほとんどは雪と氷に覆われる。
そんな中で唯一海が凍てつくことのない不凍港である王都テクレンには、一年を通して多くの船が寄港し通年を通して多くの船乗り達で賑わう。
長い航海を終えた者、またはこれから長い航海へと向かおうとする者が、陸で楽しみとするもの一つと言えば酒であり、テクレンには船着き場を中心に大小無数の酒場がある。
名のある船長や有名海賊団の幹部クラスが利用する高級酒場から、金のない下っ端水夫が安酒を煽る立ち飲み屋まで、その形態と客層は様々だ。
そして、王城から港までを貫く大通りの港側、大通りから一本脇に逸れた裏通りにその店はある。
最近は何かと過剰な装飾で客を引こうという傾向のある新興の店とは一線を隔した落ち着いた
店の名前は『姫琴』、ここ最近出来た比較的新しい店だ。
「いらっしゃいやせ」
押し引きするのではなく横に滑らせる作りのこのあたりではあまり見ない扉を開けて中に入ると、入口近くに控えていた壮年の
オークが声を発して客の来店を店の奥に知らせる。
「お一人様でしょうか?」
隻眼に顔を横断するように三本の引き裂かれたような傷のあるオーク、彼はこちらの人数を確認してきたので、今は一人だが後から連れが来ると伝えで箱席が空いているかと尋ねる。
「一部屋空いておりやす」
では、そこで頼むと言うと彼は「わかりやした」と言い、ちょうど手の空いた女給を呼び止め、俺を部屋へと案内するように言う。
「い、いらっしゃいませ」
まだ若い女給は俺のことをがわかったのだろう、やや上擦った声でそう言って引きつり気味に愛想笑いを浮かべる。
この前来た時には見かけなかった顔なので恐らくここ最近働き始めたのだろうが、俺の顔を見てこんな反応をするとはな……同族としては少々複雑だ。
「いらっしゃいませぇ」
女給の案内でチラホラ見知った顔が疎らに座るカウンター席の前を横切ると、この店の女主人が柔らかな声をかけてくる。
「あら、また来てくださったんですねぇ」
そう言って女主人が朗らかな笑みを向けてくる。店の中の客の何人かが俺のほうに意味ありげな視線を向けて来るのがわかるが あえて無視する。
「今日は活きのいいガラ貝が入ってますよ」
この女主人は俺の好物をよく心得ている。もちろんそうなのは俺に限らずここの常連は皆そうなのだろう。
俺は以前食べたガラ貝の酒蒸しと酒に合う料理を女主人にまかせて頼み、二階の箱部屋へと上がる。
「おまたせしました。ガラ貝の酒蒸しとクカのタタキです」
先に運ばれてきた
エリスタリアからの白果酒をチビチビやりつつ、部屋に空いた丸窓から裏通りの様子を眺めていると注文した料理が運ばれてきた。
「今日もお仕事ですか?」
部屋に料理を運んで来たのはこの部屋に俺を案内したあの女給ではなく、この店の女主人だった。
俺はその問いに半分仕事、半分遊びとだけ答える。
「そうなんですか、またお綺麗な人が来るんでしょうね」
女主人が楽しそうにそう言いながら俺の前に料理を並べ、俺が食べたことのないクカのタタキについては食べ方を説明する。
「こうやって薬味を乗せて、タレをかけてお召し上がりください」
この店の料理の多くは女主人の故郷の料理をこの土地の者の舌に合うようにしたものだ。
俺がこの店を度々利用しているのはそうした物珍しい料理と、この店の落ち着いた雰囲気も込みで気に入っているからだが、この店の常連には毎日のようにここの料理を食べに来ているのもいるらしい。
「それでは、また何かありましたら、そちらのヒモを引いてお呼びください」
そう言って料理の説明とちょっとした会話をした女主人は部屋から出ていく。
戸が閉まり、部屋の中に再び一人になった俺は杯に残った酒を飲み干し、運ばれてきた料理に手を付ける。
「あらぁ、この料理なかなかのものねぇ」
美食家としても知られる彼女はそう言って新たに運ばれてきた料理に舌鼓を打つ。
今日の商談相手は予定より少し遅れてやってきた。仕事の場合は普段のルーズさとは打って変わって時間に厳しい彼女としては実に珍しい。
彼女が店に現れたことで一階の客の気配が明らかにざわついたのは二階からでもよくわかり、俺と同じようにこの部屋へと案内した女給はお礼ついでに耳元で何事か囁かれ、それを見ていたこちらも哀れに思うほど顔から血の気が引いて全身が小刻みに震えていた。
「……ねぇ? さっきの子、どこの子か知ってる?」
勝手知ったるなんとやら、挨拶もほどほどに彼女の杯に白果酒を注ぎ、まずは仕事の話を片付けてから料理と酒をそこそこに楽しんだあたりで、彼女は俺に他愛もない酒の席の世間話のノリでそんなことを言ってくる。
いくつか思い当たるところはある。あるが特定するところまでは情報の持ち合わせがないと正直に答える。
「ふふふ……ザムラのところの子よ。この店に来る客が何を話してるか知りたかったんでしょうね」
あぁ、あの爺さんかと、俺の頭の中に全身に刺青をした下町の顔役の老
オーガの姿が思い浮かぶ。
老齢となって表向きすっかり丸くなったと言われているが、実際はこうして王都の至る所に自分の目と耳になる連中を潜ませて金になる情報を常に集めているのは知ってはいた。
おそらくあの娘もザムラの爺さんとここの給仕の仕事の口利きと、ここで見聞きした情報を買ってやるという条件でも結んでいたのだろう。
「ちょっと脅しておいたから、おかしな真似はもうしないと思うわぁ」
彼女は俺の注いだ酒をまるで蛇人のように青い舌でチロチロと舐めるように呑みながら話す。
あれでちょっとね……彼女が本気になったらどんな恐ろしい目に遭うかなんて想像さえしたくもないな。
「さて、それじゃそろそろお暇しようかしら……」
ん? ずいぶんと早いんじゃないのか?
「もっといたいのは山々なんだけどぉ、実は仕事の途中で抜け出してきたのよねぇ……」
珍しいこともあるもんだと思う反面、何か嫌な胸騒ぎがする……
「そうそう、貴方もそろそろ帰ったほうがいいかもしれないわよぉ?」
表まで送っていくと言った俺の申し出をやんわりと断った後、部屋から出ていくついでと言う何気ない感じで一言実に気になる言葉を薄い笑みを浮かべながら俺に残して彼女は部屋を出て行った。
俺は再び一人になった部屋で白果酒の注がれた杯を覗きこみながら考える。
彼女がああいう時にはすでにもう手遅れなのだろう。問題は何が手遅れになっているかだ。
思い当たる事柄と、それらが思いつき限りもっとも最悪な状況となった場合の対処を考える。
すでにどうしょうもない状況になっていると言うのなら、ここで慌ててもしょうがないことだ。それよりは落ち着いてどうするかを考えるべきだ。
そうこうしていると階下がにわかに騒がしくなりはじめ、下から数人の慌ただしい足音が近づいてくる。
「大変よ! 北航路に船喰いが現れたわ!護送船団が丸ごとやられて3隻うちの積荷を載せてた船もやられたわッ!」
そうか、3隻分なら想定していた最悪の被害に比べれば無視はできないがまだ取り返しのつかない被害には程遠い。
「何悠長に酒なんて飲んでんだよ! これからどうするか指示をくれって下の連中大騒ぎだぜ!?」
俺がいなくてもなんとかなるようにしてきたつもりだが、さすがに今回はそうもいかないか……
俺は杯に残った酒を一気に飲み干すと、不安げに俺の顔を見てくる部下達に指示を出した。
- 海賊の作法や一流と言われる部類の貫禄を見た -- (としあき) 2014-01-25 22:45:53
- オンとオフをはっきり分けてるあたり暴れるだけの海賊たちじゃないってのが分かる -- (名無しさん) 2014-04-18 22:26:03
最終更新:2014年01月25日 22:44