たっぷり十秒ほどの間、しわぶき一つなかった。スイメイはまずシキョウを見返し、地面を見、空を眺めて雲を数え、最後にガインの存在に今しがた気が付いたとでもいわんばかりに目を止めると、真顔で首をかしげて見せた。
「生憎だが、独狐求敗などという名前は聞いたこともない」
「もうちょい上手にごまかせよ」
言いかけたシキョウは、スイメイの笑顔に射すくめられて口を閉ざした。スイメイはシキョウに身を摺り寄せ、あわてて身を引くシキョウのつま先を踏みつけて押さえた。さも困ったように肩をすくめてみせる。
「どうもちょっとした行き違いがあるようだ。私はこの男の付き添いで湯治に来たスイメイという。ここは初めてだ。だから私に会いたがっているものなどいるわけもない。そもそも私は独狐求敗という名前など知らない。きっと人違いをされているのだろう」
見るものが見ればこわばっているとわかる笑みも、並の男ならば骨を抜き取るに十分である。スイメイは己より頭一つ以上大きい虎人を軽く押しのけ、シキョウを引きずって歩き出した。船が霧にぶつかることなどないように、スイメイもまた、群がる野次馬には頓着せずに進んでいく。だがただ一人、その前に立ちはだかるものがあった。
「見間違いなどあり得ません」
ガインと名乗った。虎人である。素早い動きで回り込み、きっぱりとスイメイを押しとどめる。引きずられているシキョウには目もくれず、ガインは再びまじまじとスイメイを見つめてため息をついた。
「これが独狐求敗さまのご尊顔でないというなら、俺は半年間道端の草だけ食ってやります。いや、本物のほうがずっときれいだ。生きててよかったです」
まじまじと覗き込むその有様は、並の婦人に対して行ったなら無礼のそしりは免れない。だがスイメイの方はと言えば文句を言うでもなく、魚の骨がのどに刺さりでもしたかのように顔をしかめて立ち尽くすばかりである。面白くないとばかりに、シキョウが割って入った。
「おい、そんなにじろじろみてくれんな。それにこいつは俺の連れだ。前に会いでもしたか? だったら挨拶してもらわねえとな」
「いや、直接お会いしたのは今が初めてだ」
「じゃあ見間違いだろ。なんだよ本物って。まるでこいつの偽物があたりでうろうろしてるみたいな言いぐさだな。そういやそこらの劇に出てるもんな。あれのことか?」
シキョウは舞台をたたみ始めた一座を指さした。ガインを呼んできた独狐求敗役の女は、身を隠すようにして様子をうかがっている。刺すような視線はスイメイに向けられたものであるが、それもだんだんと鋭さが鈍りつつあった。ガインはなぜか顔を赤らめて首をすくめた。
「いや、あんなものではない。もっとこう――綺麗だった」
「ああそうかい。兄さんよ、こいつを口説こうってんならやめといた方がいいぞ。とんでもないじゃじゃ馬だ」
「口説くなぞとんでもない。ただ――」
「ただ?」
ガインはスイメイに対し再び抱拳した。引き締まった顔立ちに宿るのは、強い使命感である。
「求敗さま、どうぞおいでください。あなたのためにもなることです」
「おいおい、口説いたあとはしけこみますってか。白昼堂々大胆なこった」
「お願いします。求敗さま、あなたの名誉にかかわることです」
「名誉だ?」
シキョウが素っ頓狂な声をあげ、スイメイの眉が小さく動いた。
「なんだよ名誉ってのはよ」
「ここで話せることではない。それに本人以外にもお聞かせできん。お連れ様、どうかご理解いただきたい」
「いいね。なんだか知らんがスイメイの名誉の問題なんぞめったにご相伴にあずかれるもんじゃない。いいよな、スイメイ? 俺が聞いても」
「お前、何者だ。邪魔するな」
ガインが怒気をあらわにした。丸太ほどもある腕に筋肉が盛り上がり、全身の毛が逆立つ。体全体が倍ほどにも膨れ上がったように存在感を増して、ガインはシキョウにのしかかった。
「道理をわきまえんバカたれが。少しよそに行ってもらおう」
「いやだ、つったら?」
「俺は弱い者いじめはせん。だから手加減してやる」
「そりゃなんとも痛み入るねえ」
「いいから退け。それがお連れさんのためにもなることなんだ」
焦れたガインが、ついに動いた。爪の突き出さない両掌に力がこもり、その片方がゆらりとシキョウの肩に添えられる。扉を開くようにしてガインが力を込めるその動きは、まるで卓に乗せた徳利のようにシキョウをやすやすと吹き飛ばした。野次馬の中にどうと突っ込み、受け止めきれずに幾人かを巻き込んで倒れ姿を消す。ガインはその様子を一顧だにしない。スイメイに手を差し出し、ともに来るようにと促すばかりである。ともすれば膝すらつきかねないその恭しさは、シキョウに対する態度とは一線を画している。
「――ガインと言ったか」
スイメイの言葉に、ガインが背筋を伸ばした。スイメイはシキョウが吹っ飛ばされた方を眺めながら、ぽつぽつと言葉を発した。
「水妖が私を呼んでいるといったな」
「はい」
「私だとわかったのはなぜだ。見た目か」
「はい」
石臼が穀物を砕くように、ぐるりとスイメイが首を回した。ガインがすくんだ。
「見た目でわかったということは、似顔絵のようなものがあったということだ」
「お、おっしゃる通りで」
「名誉の問題と言ったな。つまりはそうしたことが問題になるような似顔絵か?」
「あの、絵じゃなくて、その、姿かたちでして」
「お前も見たということになるな」
「――すみません、俺は誓って、顔の部分以外はそんなに。しょうがねえんです」
「どれほどひどいんだ」
「その、装いといいますか」
スイメイが鼻を鳴らした。まるで鞭で打つかのような威力を秘めたため息は、しかし誰に向けられたものでもない。沈鬱そのものの顔でどうにか威厳を保ち、スイメイは再び野次馬に目を戻した。
「私は別についていくのに異存はない。何が問題になっているのかは薄々想像がつくし、お前が解決したいと願っているのもわかる」
「は、はい! ご理解いただけてこんなにうれしいことは」
「だが、あれを納得させるのが先だな」
スイメイはついと指さした。その先に視線を向けたガインが、驚愕のあまりに口を開いた。
「大したもんだなあ。え?」
人ごみをかき分けてシキョウが姿を現した。埃を払い、首を回し、不敵な笑みを浮かべて、シキョウはガインを指さした。
「いまの『劈開功』はまあまあだったな。『大安福虎』師はお前の何にあたる?」
ガインの眼がすぼめられた。まるで血のにおいを嗅ぎ付けた野獣のように、その毛がこととごく逆立った。
「お前がなぜその名を」
「そりゃおまえ、俺の師父だからな」
「嘘をつけ!」
びりびりと大気を震わせて、ガインが大喝した。
「福虎掌法は虎人のもの! お前のようなちゃらちゃらした狐人なぞが教われるものか! それも大師父の名前まで出すとはどういう料簡だ!」
「ほー、てことは俺の見立ても当たりか。お前は俺の甥弟子あたりってことになるわけだ」
シキョウがにやにや笑った。武術の教える側を師父と呼び、師父の師父は大師父という。親子関係と同様に孫弟子、師叔や師伯に甥弟子も存在し、目上の者には絶対服従である。一方で、他の門下の名を騙れば、それは家族を騙るも同然のことである。ガインが吠えた。
「お前はどこでその技を盗んだ?」
「人聞き悪いこといいなさんな。師はさっきも言った通り『大安福虎』のダイフク様だ。お元気か?」
シキョウがゆっくりと構えを取った。構えはまるで鏡写しのようにガインのそれと一致している。掌術のように見えながらも、両方の手をだらりと下げる奇妙な構えである。ガインの肩に力がこもった。
福虎掌法は、その名に表れる通り虎人の業である。狐人のシキョウが習得することなどあり得ず、ゆえに盗んだ技と知れた。当時の武林において、技を盗み見たものの両目をつぶすことは至極当然の処置であるとされていた。まして使うとなれば、これは許されざる罪である。
肩と頭から突き出すようにして、ガインがシキョウに襲い掛かった。己の体で隠した掌をゆるりと伸ばして経穴を狙い、あくまで爪も歯も使わない。応ずるシキョウも受け止めず、ただ大げさなまでに身を引き、腕の圏外に逃れるばかり。ともすれば惰弱と見える戦いぶりに、なぜかガインは脂汗を流す。対するシキョウは余裕綽々、ふと立ち止まり、小首を傾げて口を曲げた。
「お前の師父はチョウウ師兄か? 歩法の破たんが直ってないと師父がおっしゃっていたのを思い出した」
「ほざけ!」
がむしゃらに繰り出された掌を、初めて前進したシキョウが押さえる。がっぷりと真正面から捕まえた掌は、まるで二匹の蛇が食いあっているかのように絡み合った。全身をこわばらせて力を込めるガインとは裏腹に、シキョウは涼しい顔である。
「ほらな。当てるのは最後の最後だけ。このまま押してみるか?」
言いながら、シキョウがわずかに手首を上げる。たったそれだけの動きで、まるで大樹が倒れるようにガインが膝をついた。反対の手を添えてシキョウの腕をはがそうとするもびくともしない。軋るような雄たけびを上げたガインが、ついに爪を出した。手負いの獣そのままに、シキョウののど元を狙う。下手な剣よりも鋭い爪は、しかしシキョウに届かない。わずかに身を引き、手のひらに込めた力で、シキョウはやすやすとガインの巨体を操っている。ついに耐えかねて声すら出なくなってきたガインを、シキョウはふいと解放した。信じられないとばかりに目をむいて息をつくガインに、シキョウは指を振ってみせた。
「『利剣尖爪、招災払福』。忘れたか? 爪も牙も、福虎掌法にゃ無用のもんだ」
まさしく福虎掌法の教えそのものである。ここにきて、ガインもついに観念した。息を呑んでいた野次馬たちが、示し合わせたように一斉にため息をついた。
とにかく一緒に来てはいただけないか――と繰り返すばかりのガインにシキョウははじめ業を煮やした。だが、路傍の石に注目することが人生最大の仕事であるかのように振る舞っていたスイメイが行くと言い出したことで、シキョウも引っこまざるを得なくなった。
ガインが先導して歩く間、シキョウもスイメイもほとんど口を利かない。先の騒ぎに味を占めたものか、好奇心丸出しの人々が後をつけてくる。時折ガインとシキョウがにらみつけて散らすものの効果は薄く、まるで祭りの行列のような有様である。
その先頭で、やおらシキョウが口を開いた。
「なあ、スイメイ」
「なんだ」
「お前、ここで何やったんだ」
スイメイは振り向かず、脚も止めない。わずかに首をかしげつつ、先を急げとガインをつつく。飛び上がって足を速めるガインを見送り、スイメイはぼそりと口にした。
「知らん」
「じゃあ独狐求敗って呼ばれてるのは?」
「知らん」
「すごい名前だよな」
「知らん」
「普通なら名乗れそうにない代物だ」
「知らん」
「だがお前なら何とか似合いそうな気もするな」
ぐるり、とスイメイの首が回った。凍てついたスイメイを見返しているのは、にやにや笑うシキョウである。
「スイメイさんよ、白状するなら今だぜ。前にここでやんちゃしてましたって」
スイメイは地面を見、空を眺め、シキョウを視線で押しつぶせないかどうか試して失敗した。
「なぜそう思う?」
「二と二を足すと答えはそうなるってわけよ。独狐求敗なんていかにもお前が名乗ってそうな名前だろ。それからもう一つはガインの言い草だな。一目でわかった、だとさ。お前の顔は印象に残る」
「そうか?」
「ほめてんだよ。思うに、ここらでサイヒョウが書き落とした事情がかかわってくると見たね。『水妖が出た。退治してほしいが事情はそちらで』なんておよそあいつのやり口じゃない。つまり、書かない方がいい何かがあったのさ
んじゃその書かない方がいい事情は何かって話で、そこでさっきの劇が浮かんでくるわけだ。美貌の女剣士、水妖を退治する! いかにも暇な時のお前がやってそうなことじゃねえか。スイメイ、お前は前にここへ来た。街を騒がす水妖を退治し、さっそうと立ち去った挙句忘れ去ってみたはいいが、ちょいとばかり詰めが甘かったせいでここ最近水妖が帰ってきたんじゃねえか? それで問題を起こしてる。復讐とか、忘れ物でも渡したいとか。細かいことはわからんね。
んで事態を役人の報告書あたりで聞きつけたサイヒョウはお前の関与にあっさり気づいて尻拭いをさせることにした。あいにくお前は俺の追跡任務中だが、そんなもんは俺が一緒に行きゃすむ話。謎めいた手紙で釣りだして、お前と合わせて現地に入ればあとは流れでどうにかなると踏んだんだろう。見立てはこんなところだな。ああそれともう一つ。細かい事情を伏せといたのはもう一つ理由がある。それは――」
シキョウの笑みが大きくなり、今や爆発寸前である。
「そのお前のこっぱずかしい名前だな! 独! 狐! 求! 敗! まあ知らんぷりしたくなる気持ちはわかるよ。若気の至りってやつだよな! そういう時期あるもんな! ダハハ! すまんすまん笑うつもりはないんだ。でもまあなんだ、わかってくれ。お前みたいな澄ました奴がそういう名前ってのはもうほんとダハハハ!」
「――他人の空似かもしれない」
「お前みたいなのがもう一人いるってか。いつから大延国はそんなおっかないところになったんだ」
「ここに来たことはない。来ればすぐわかったはずだ」
「度忘れなんて誰にでもある」
「あれは百年前の話らしいが?」
「ああ? ああ、劇のあれかよ。んなもん脚色だ、脚色。ほんとはいつだ? 俺と会う前だよな」
スイメイはついに顔をそむけた。がっくりと肩を落とし、足を引きずるその様は常にはない狼狽ぶりである。深々としたため息ひとつ、スイメイは弱弱しく微笑んだ。
「お前は勘が鋭いのだな」
「水臭いぜ、スイメイさんよ。お互い隠し事は無しでいこうや。特に――特にこっぱずかしい秘密の時は!」
しかつめらしい表情も、そう長くはもたない。こぼれだしたにやにや笑いは瞬く間に笑いの奔流と化して流れ出した。先行するガインがぎょっとした顔で振り返ってもどこ吹く風である。しばらくの間シキョウを見つめていたスイメイも、つられて力なく笑み崩れた。
「そんなに笑うな」
「すまんすまん。気にするなよ。誰にでも若気の至りぐらいあるもんだ」
「そうとも。大都で出会った頃のお前のように」
「言うと思ったぜ。だからってわけじゃないがスイメイ、気にすんな。ちょっとものすごい名前を名乗ってたぐらいなんだってんだ。そういうのは時々思い出してのたうち回っときゃいいのさ」
「そうだな。意地悪な知り合いに知られてばつの悪い思いをするのも仕方がないというものだ」
「独狐求敗なんて名前を考え付いた自分を呪えよ」
「敗北を知りたいのは事実だ」とスイメイは鼻をつんと差し上げた。「あいにくまだ願いはかなっていない。敗北の味というのはどういうものなんだろうな。専門家の意見を聞きたいところだ」
「何なら今すぐご教示差し上げてもよろしゅうございますよ、求敗さま」
「ほう」
ふと、シキョウが足を止めた。シキョウはもはや笑っていない。気づかわしげにスイメイを覗き込んだ末、シキョウはよしと体を伸ばした。
「調子が戻って何よりだ。なんだよ、さっきまでの有様。日向に三日置いといた魚かと思ったぜ」
「そんなにか」
「そんなにだよ。お前もうろたえるなんて上等なまねができたんだと胸が熱くなったのもほんの一時、こりゃ天変地異の前触れに違いないってんで俺のほうも青くなった。頼むぜスイメイさんよ、お前がしゃきっとしてくれないと大延国がお先真っ暗だぞ」
「いかにもそうだな。お前を連れて帰れぬようでは、国が傾くのも遠くあるまい」
「おっと、俺が勝ってもいいってことを忘れんなよ。とりあえず目先の水妖退治、次はお前って段取りに決めた。あのガインとかいうやつがどこに連れてくつもりかにもよるが、水妖にはお目通りできんだろ。どんな奴なんだろな、全く」
「トウカは、そうだな。子供、というのが近いだろうな」
「トウカね、それが水妖の名前ってわけ――うお」
シキョウが立ち止り、前方を指さした。みれば、口を引き結んだガインの姿がある。その大きな体をこれでもかとばかりに膨らませ、スイメイの視線を遮るように移動する。だがそれでも背後の光景は隠しようがない。首をひょいと動かして、スイメイもまた顔をしかめた。
餓狼の群れ。
狐人、狸人、犬人、猿人、兎人。老若を問わず入り混じって目を血走らせる、そのいずれもが男である。『湯華楼』なる看板を掲げ、決して小さくはない構えの温泉宿には似つかわしくないほどに殺気立った男たちは、時折焦がれるような視線を宿に向ける。声を荒げ、何事か宿の者たちを怒鳴りつけては、不承不承と言った様子で後に引く。酒売りや串売り、ばくち打ちなどがちょろちょろと立ち回っては、男たち相手の商売に余念がない。応ずる男たちはどこかけだるげで、何とも言えずだらしない。
と、そのうちの一人がスイメイに目を止めて顎を落とした。連れの肩をたたき、すると連れがすすっていた椀を落とす。たちまちのうちに静寂が広がり、何十もの丸くなった目がスイメイに集まった。
「なんてこった、ここももうばれたか――お前ら、見世物じゃねえぞ!」
ガインが大喝したが、それでも男たちは納まらない。帰って堰を切ったように声を荒げ、怒号を上げてスイメイを指さす。だらしなく口を開けて卑猥なヤジを飛ばすその様にはまぎれもない獣欲がたぎっている。自制の利かない輩が飛び出してきては、ガインの掌に打たれて倒れふし、それがかえって獣たちの闘争心を掻き立てる。たちまちのうちに、三人は男たちに包囲されてしまった。
「おいおい、なんだこりゃ」
「面目ない、これを何とかするために、求敗さまにおいで願いたい次第でして」
「獣どもの相手をしろってんなら、お前の考えてるのとは違う方法になりそうだぜ、なあ、スイメイ?」
「あの、事情があるんです――お前ら、いい加減にしろ、さもないと」
不意に突きだされた棍棒を叩き落としてガインが吠える。男たちはすでに武器を取り出すものが増え始め、一線を越えつつあった。シキョウが好戦的に牙をむき出した。
「まあいいさ。この程度おやつにもならねえや。スイメイさんよ、俺が片づけちまってもいいよな? それともお前が――」
スイメイの返事は、シキョウの首元をぐいとつかむ手であった。横ではガインもまたスイメイに首根っこをつかまれ、目を白黒させている。凍てつくような目であたりを睥睨していたスイメイが、二人には一転して暖かい笑みを浮かべて見せる。しかしながら、細められたその眼だけは、一向に温度の上がらぬままである。
「少し変わったやり方で行こうと思う。悪く思わないでくれ」
返事を待たず、スイメイはガインを放り投げた。スイメイの三倍はあろうかという重量の体は音もなく宙を飛び、湯華楼の二階に突き刺さって姿を消した。
誰もが言葉を失う中、一人平静なのはスイメイである。巨漢を投げるのは日課だとでも言わんばかりの態度で周囲を見返し、ついでシキョウに目を向ける。ぎくしゃくと頭を回したシキョウが、ようやくとばかりに口を開いた。
「スイメイ、俺は自分で何とかする」
「遠慮しなくていいぞ」
「壊しちゃ宿に悪いだろ」
「サイヒョウ殿に手紙を書いて、お前につけておいてもらう」
「なあスイメイ、独狐求敗って名前だけどな、そんなに悪くないんじゃないかって」
「ああ、そのことか?」
初めてスイメイの瞳にぬくもりが宿った。まぎれもない許しのしるしに息をついたシキョウは、しかし一向に首元が解放されないことに気づいて血相を変えた。いとも晴れやかそのものに、スイメイは腕に力を込めた。
「別に気にしていないとも」
「本当かよ」
「そんなには、な」
シキョウは、ガインの隣に穴をあけた。逃げ去っていく男たちの方を、スイメイは気にも留めることはない。
「名前の方など、別に秘密でもなんでもないからな」
ただ小さくつぶやいて、スイメイは宿の中に歩みを進めた。
但し書き
文中における誤りは全て筆者に責任があります。
独自設定については
こちらからご覧ください。
また、以下のSSの記述を参考としました。
【続・その風斯く語りけり】
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最終更新:2014年11月02日 00:00