【清霞追風録・独狐求敗 四】

 丁重に二階へ通されたスイメイが部屋に入ると、そこには仏頂面のシキョウと、目を丸くしたガインが待っていた。ぷいと目を背けたシキョウは部屋の壁に穿たれた大穴に腰かけて外をにらみつけ、一方でガインはひたすら小さくなっている。
「恐れ入りました。さすがです」
「そうだよな。まさしく求敗の名にふさわしいってわけだ」
「し、師叔」
 スイメイは倒れていた椅子を起こして座った。シキョウにちらりと視線を投げ、ガインに向きなおる。
「それでは話してもらおうか。今、ここで何が起きているのか」
「それと表にアホ共が集ってた理由もな。おかげでいらん怪我させられるところだった」
「――すべては、水妖の精なんでございます」


 およそひと月前のことである。この什川郷の水源の一つに水妖が現れた。特に何か前触れがあるでもなく、この街を差配する旅館連にも心当たりのない水霊であった。水霊はトウカであると名乗り、この地の温泉はすべて自分の力によるものであると告げた。大河を納める河伯しかり、泉の主しかり、およそ人の集うような水場には力のある精霊が宿るものである。什川郷は温泉を出する土地柄でありながらこの手の水霊の姿は絶えて見えず、したがって人々は度肝を抜かれた。意のままに水を止めて見せることでわずかな疑いも瞬く間に晴れ、トウカは水源の主として公認を得るに至った。
 温泉を止められては街が立ち行かぬということで、旅館連はトウカの機嫌をうかがいにかかった。どんな無理難題が飛び出すかと戦々恐々としていた旅館連は『手合わせをしたい』という要求に首をひねった。武芸者なら何でもよいということで、たまたま湯治に来ていた剣士が伝手で呼び出され、わけもわからぬまま対戦の場が設けられることとなった。
 実にあっさり負けたそうである。
 剣士は属する一門の中では中堅どころと見なされ、決して弱くはなかったそうである。それが手も足も出ない。これだけならば、単に水妖の気まぐれに付き合わされた剣士の顔が一つ潰れただけで終わっていただろう。だが事は、トウカの奇妙な振る舞いによって思わぬ方向にもつれ込んだ。
 ――独狐求敗という女の武芸者を知っているか。
 トウカはそう問い、剣士が首を振ると姿を変えた。腕と足と頭があると言った程度の曖昧な姿から、実にはっきりと狐人の女を模した姿へ。独狐求敗はこういう姿であるとトウカは伝え、存分に見て目に焼き付けるよう命じた。剣士は負けたのだから、トウカの言うことを聞かなくてはならない。そうした理屈のもと、剣士は独狐求敗探索を命じられて解放された。
 これが騒ぎのもととなった。
 トウカは次々武人を呼び寄せ、同様に打ち倒しては独狐求敗探索を命じた。探索の手がかりとしては自ら姿を変えて再現する独狐求敗の似姿が大いにカギを握るとトウカ自らも納得していたと見えて、姿をさらすにためらいはない。ところが、これが少々問題なのである。顔かたちや全体像に問題はなく、しかし服装に関して言えばトウカの記憶は曖昧であり、それがそのまま再現にも表れた。着ているのやらいないのやら、何とも判然としないのである。そうした姿を目に焼き付けるよう要求するのだ。
「自分も、その、相手を務めた一人でして」
 巨大な体躯を可能な限り縮めて、ガインがぼそぼそと言った。
 さらに、独狐求敗がなかなか見つからぬことに業を煮やした水妖の取った策が、混乱に拍車をかけた。武芸者を呼び込むだけでは飽き足らず、外に出歩くようになったのである。とにかく無差別に襲い掛かり、だが怪我をさせるでもなく、ただ求敗を探せと命じて立ち去るのだ。
 たちまちのうちに、街は武芸者であふれかえった。もともと湯治に訪れる者が多い什川郷であったが、今回のそれは大半がエセ、水妖に声をかけてもらうことだけを心待ちにするただのスケベである。気持ちだけはいっぱしの侠客を気取り、獣欲に目を濁らせて殺気立ったエセ武人たちは多くのもめ事を引き起こした。
 困り果てたのは旅館連である。事態の鎮静化を画策した旅館連はまず独狐求敗を血眼になって探したが見当たらず、そうする間にも水妖は出歩いて面倒の種を撒いている。熟慮の末にとられた善後策は、とにかく水妖をなだめすかして人目につかぬ場所に押し込める一方、独狐求敗を題材とした劇を演じさせることだった。あちこちの宿屋や酒家で水妖をかわるがわる引き受けつつ、それなりの武人に相手をさせて気を紛らわせる。艶笑劇は男たちの欲を適度に発散させ、また万が一には独狐求敗の名を知るものが聞きつけることも期待された。
「よかったな。もくろみ通りになってよ」
「へえ、おっしゃる通りで」
 劇があくまで昔話の体裁を取ったのは、現実に水妖が出ていることを知られてはならないからである。あられもない格好でうろつく水霊などいないのだ。工夫の甲斐あって、血走った餓狼たちは次第に鳴りを潜めつつあるという。
「とはいえ、さっきの奴らみたいなあきらめの悪い連中がしつこく探り当ててきやがるわけで」
「なるほどな。てことはその水妖はここにいるってことでいいんだな」
「はい」
「なるほどな」
 シキョウの表情は硬い。瞑目しているスイメイを横目で見ながら、手のひらを開き、握る。なんでもない所作に、奇妙な力がこもっている。
「一つ聞きたいことがある。水妖のところにはまだ人が送り込まれてんのか」
「そうするようにと。このところだいぶ焦れてきていまして」
「止めさせる」
「はい、求敗さまがおいでくださったからにはすぐに止むものと」
「そうじゃねえよ。俺がやる」
「は? いや、しかし」
 シキョウはやおら立ち上がり、部屋に飾ってある調度の一つに目を止めた。シキョウたちが投げ込まれた時に破壊をまぬがれていた壺の一つに手を当て、小さく気合いを発する。ただ触れていただけに見えた壺に、たちまちのうちに無数のひびが走り、砕け散った。ガインが目を見開いた。福虎掌法は虎人の武術でありながら、あえてその最大の武器である爪も牙も封じる。過ぎた暴力は多くのものを傷つけ悪をもたらすという哲学によるものだが、これが問題の種となることもある。腕の立つ武術家が見るならいざ知らず、爪も牙も使わぬ虎人など世人にはただの愚か者に過ぎないのだ。徒に侮られれば、いらぬ悶着が引き起こされることは世の習いで、それゆえに福虎掌法は示威威嚇の技をも教わる。あえて力を誇示することによって場を収めるのである。施震頸はそうした技の一つである。接触により掌力を流し込むこの技は、無機物を容易に破壊すると同様に生体も容易く傷つけるが、禽獣にさえも用いればたちまち破門となる。例外は邪仙や妖獣など、この世の理の通じぬものだけである。
「さすがです、師叔」
 じろり、と見返すシキョウの瞳は、底知れず濁っていた。
「その水妖を呼んで来い」
「は、しかし」
「いいからとっとと呼んで来い!」
 不意の爆発から一転、シキョウの声は低く低く抑えられた。知らぬげに床の埃を数えているスイメイにきっと一瞥をくれると、今度はガインをねめつける。
「いいか、その水妖が何考えてるのかはわからん。だがはっきりさせとこう。その水妖はスイメイの姿形をしてる。それも服着てるんだか着てないんだかよくわかんねえようなのが。それで何だと? 来る日も来る日も人を引っ張り込んじゃ、その姿を目に焼き付けさせてるとこういうわけか。さぞや印象的な眺めなんだろうな。何しろお前だって一発でスイメイを当てたわけだからな」
「し、師叔」
「黙れ。そういうおふざけも今日で終いだ。俺が水妖をぶちのめす。そして下らねえ求敗探しもやめさせる。お前を含む間抜けどもには思いつきもしなかったことだろうが、俺は、今日、ここで、水妖をぶんなぐって何もかも終わりにする。いいな!」
 シキョウの怒鳴り声に追い立てられるようにして、ガインが這う這うの体で姿を消した。そうして、二人の間に残されたのは沈黙である。
「許せねえ」
 シキョウが口を開いた。
「そうか」
「こんなバカな話はねえ」
「そうか」
「何が水妖だ。おれが一発で片づけてやる」
「そうか」
「そうか、じゃねえよ!」
 シキョウが拳を振り回した。
「なんだその他人事みたいな態度は? 見世物にされてるのはお前なんだぞ! 涼しい顔してる場合か?」
「まさしくその他人事にそこまで怒ってくれて、こちらとしては痛み入るばかりだ」
「寝ぼけたこと言ってんじゃねえよ。とっとと片付けるぞ」
「一つ不思議なことがあってな」
「なんだ」
「さっきから聞いていると、お前が手を貸してくれるかのような言いぐさだな」
「はあ?」
 シキョウが背筋を伸ばして眉を逆立てた。スイメイが浮かべる嫣然たる笑みも、その心をとろかすには至らない。
「どういうことだ」
「トウカの件はこちらの身に覚えがある。あとで気が向いたら説明してやるが、すべて私の不始末から起きたことだ。見世物になっているのも私。だから私が片づける。これほど筋の通った話もないと思うが?」
「……いやだ、と言ったら?」
 スイメイは眉をひそめた。
「お前が手を出すということか」
「お勧めしません、てか」
「ああ。何しろ――何しろ私のあられもない姿が拝まれてしまうからな」
 わずかにシキョウがひるんだ。その機を逃すスイメイではない。甘やかな言葉が滑らかに流れ出した。
「ガインの話によれば、トウカはそれはもう私に似ているそうだな。着ている服以外は、ということだが。そういう相手をじろじろ見るのはいかがなものか、と本人である私としては思うわけだ」
「じろじろなんかみねえよ」
「目をつぶって戦う気か」
「俺はただ、水妖を叩きのめすだけだ」
「それは私がやるといった」
「けどよ」
「シキョウ、お願いだ。私の気持ちも考えてくれ」
 蚊の鳴くような声が途切れ、スイメイの目は伏せられた。しおれきったスイメイの様子に、さすがのシキョウも動揺を隠さない。苛立たしげに歩き回り、シキョウはスイメイを指弾した。
「じゃあほっとけってか。そんなのありかよ。そりゃお前だって愉快じゃないだろうが、俺だってはらわた煮えくりかえってるんだぞ。どこの馬の骨とも知らない屑どもに――これが黙ってられるか? それに」とシキョウは何かを思い出したかのようにぽんと手を打った。
「それにだな、お前は裸みられたぐらいでうろたえるタマじゃないだろうが。いつぞの山の中を忘れたか? 俺に隙を作るためだけに脱いでたあのスイメイさんはどこ行ったんだ」
「あれは――あれは、お前しかいなかったからな」
「じゃあ俺に見られる分にはべつにいいってことになる――とにかくだな、俺は水妖をぶちのめす。何もかもその水妖のせいだからな。それとも何か、お前のほうにゃ、俺が出張ってこられると困る理由でもあるってのか」
 スイメイは眉ひとつ動かさず、身じろぎもせず、ただゆるりとシキョウを見返すのみである。だがこの瞬間には、両者の間にはっきりと伝わるものがあった。シキョウがいきり立った。
「そらみろ! 何か隠してやがるな? どうも俺とそのトウカって水妖と戦わせたくない理由がありそうじゃねえか! いったいどういう――は!?」
 シキョウの怒りが凪いだかに見えた。口を閉じ、背を丸め、血走った眼でスイメイを穴のあくほど見つめる。さしものスイメイも居心地悪さに身をよじり、それをきっかけにシキョウが再び爆発した。
「お前まさか、俺がその水妖に負けると思ってんじゃないだろうな!」
 ほとんど悲鳴である。ひっくり返りそうになりながら金切り声をあげるシキョウの有様に、スイメイはあっけにとられ、ついで小さく笑い出した。一方のシキョウはと言えば、火がついたように怒り狂うばかりである。
「だからか? 何だか知らんがそれなりにやるみたいじゃねえかその水妖ってやつは。俺が負けでもしたら大惨事だって思ったのか? そうでなくてもスイメイさんに手も足も出なくてくさってるところに負けが込んじゃ話がこじれるってか? 余計な世話だ!」
 ぴたり、とシキョウが動きを止めた。
「こうなりゃ、どうあっても俺がやる。スイメイさんよ、お前の方こそ引っこんでろよ。俺がやる。俺がやるんだ。邪魔するなら容赦しねえ。水妖とお前と、片付ける順番が変わるだけだからな」
 無制限に放出されていた怒気は今や抑制され、圧縮され、シキョウの全身を対流している。鬼気迫る様相である。
 一方でスイメイもまた、たたずむことを止めている。雪解け水の如く背列な気をまとい、超然とシキョウを見下ろして胸をそらす。わずかな笑みを貼り付かせて、スイメイは剣に手を掛けた。
「実を言うと、お前が考えているような理由ではない。だがトウカと顔を合わされると少々困ったことになるのも事実だ。説得されてくれれば、お互い面倒はなかったのだがな」
「抜かせ」
 シキョウが構えを取った。両の掌をだらりと下げる、福虎掌法である。柄から手を離しかけたスイメイに首を振り、そのままでいいと促す。音もなく剣を引き抜いて、スイメイは切っ先を泳がせた。
「一つ、言っておくことがある」
 シキョウが片眉を上げた。
「恥ずかしいのは事実だ。前の山の中のことだって、今は後悔している。それだけだ」
 シキョウがもう片方の眉を上げたが、構えは解かない。何事もなかったように両者とも動かず、じっと機会をはかる。二人の間に埃が一つ落ち、二つ落ち、三つ目が床に触れようとしたときである。床に落ちた木端が震えはじめた。決して作りの甘くはない建屋が、迫りくる何かに揺さぶられている。震動のもとは動きを伴って徐々に近づき、二人のもとへ迫っていることをうかがわせた。
 そうして――
「スイメイ! ほんとうにスイメイなの?」
 水妖、トウカが部屋へ飛び込んできた。
【清霞追風録・独狐求敗 五】

 但し書き
 文中における誤りは全て筆者に責任があります。
 独自設定についてはこちらからご覧ください。
 また、以下のSSの記述を参考としました。
 【続・その風斯く語りけり】


  • シキョウとスイメイの温度差とシキョウの思わぬ独占欲っぽい面に人間味を感じた。 今編は数話構成にしたことでそれぞれまとまりができて順序立てて事件を追えるのも嬉しい。なるほどどうなる水妖 -- (名無しさん) 2014-11-04 21:58:14
  • 1から読んでみたけど水妖がどうってのが半分でもう半分はシキョウとスイメイとその関係者の紹介みたいなお話。ちょっとした台詞の中にも大延国が詰まってる -- (名無しさん) 2014-11-05 13:35:51
  • 加熱する二人のやりとりがなんとももどかしいむずがゆい。 思い切った分かり易い引きで次回読まずにいられない -- (名無しさん) 2014-11-07 01:00:11
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最終更新:2014年11月03日 00:40