【清霞追風録・独狐求敗 五】

 戸口から流れ込む激流のように、トウカはスイメイにぶち当たった。
 体当たりざま首に縋り付き、勢いのままぐるりと一回転する。スイメイとトウカの体格に差はなく、それどころかトウカの足音からは見た目よりはるかに重量があることが伺える。だがスイメイは小動もせず、童子に対してするように受け止めている。水妖はなおもスイメイに抱き付いては頬ずりし、かと思えば感に堪えかねたように目を潤ませる。その体を構成しているのは乳白色に輝く泉水であり、形作るのは曖昧な衣をまとった手弱女の姿である。スイメイに瓜二つの顔を輝かせて、水妖はスイメイを再び抱きしめた。
「やっと来てくれたんだね、スイメイ!」
 声だけを聴けば、小さな女児のそれである。トウカはなおもスイメイの周りを巡り、袖を引いては肩をたたく。飼い主を見つけた迷い犬といった風情である。そんな風にまとわりつかれながら、しかしスイメイは一顧だにしない。ぴたりとシキョウに視線を据え、いつでも飛び出せる態勢を崩さない。他方、シキョウは構えを緩めていた。トウカの姿に目を剥いたのはほんの一瞬のこと、戸口の方にじりじりと足を移し、油断なくスイメイに気を向けながらちらりと外に目をやる。どすどすと近づいてきた足音の主が顔をだし、すぐさまひっこめた。ガインである。
「あの、すみません、お連れしました」
「みりゃわかる」
「へ、へえ」
「ご苦労だったな。今は立て込んでるから引っこんでろ」
「はあ」
「引っこんでろつったんだ」
「ねえ、ちょっと! そんな言い方駄目だよ!」
 シキョウが目を移せば、そこにあるのは眉を逆立てたトウカの姿である。スイメイにまとわりつくのを止め、腰に手を当ててシキョウを指弾する。スイメイが初めてトウカに目を向けたが、トウカの方は気づかない。首をすくめるガインと、傲然と見返すシキョウを交互に指さしながら、トウカは歯切れよくシキョウを罵った。
「その人はボクをここまで連れてきてくれたんだよ! スイメイが来たって教えてくれて、間違いなく本物だって一緒に喜んでくれたんだよ。そんないい人になんて言い方するの? バカなの?」
「生憎だが、俺はこいつにこういう言い方できる立場なんだ」
「知らないよ、そんなの。立派な人なんだよ。ボクより弱いし、変な目で見てくるときもあるけど。なんで偉そうにするの」
「お前が例の水妖か」
「今そんな話してない。謝ってよ。失礼なこと言ってごめんなさいって、そのベインさんに」
「ガインです」
「てめえで間違えてんじゃねえか」
「ちょっと忘れてただけだもん。とにかく、失礼なこと言ったらダメなんだよ。ねえ、スイメイ、人を見下して虚仮にしたらいけないんだもんね?」
「――ああ」
 スイメイが初めて口を開いた。トウカの顔に喜色がはじけ、飛び上がってスイメイに抱き付いたかと思うと得意げに胸を張る。実物よりもあらわな形で突き出された双丘に、シキョウもスイメイも同時に眉を上げた。
「らちが明かねえ。スイメイ、こいつが例の水妖だな」
「ああ」
「前からこれか」
 スイメイは答えず、片手を伸ばしてトウカの頭をなでた。白い湯の細流で形作られた毛並みに指が沈み込むと、トウカがくすぐったげに身をよじり、上目づかいにスイメイを仰いだ。
「ちゃんと忘れなかったんだよ、スイメイに言われたこと全部。姿を隠してたし、おとなしくしてたし、悪いこともしなかったよ」
「そうか。偉いな」
「ちゃんと百年待ったんだよ」
「――そうか」と応じるスイメイの声音は、ひどく平板である。
「お前は言いつけを守る子だものな」
「そうだよ! 百年ってね、すっごく長かったんだよ! でも頑張ったの。砂を一つ一つ数えて、外に出て行ってもいい日をずっと待ってたんだよ! それで出てきたら、スイメイに会いに行くって決めてたの。そしたらスイメイの方から来てくれてすごく嬉しい」
「そうか」
「――なーにが百年だよ、ばかばかしい」
 投げかけられたシキョウの言葉に、トウカもスイメイも凍り付いた。シキョウはトウカをにらみつけ、これ見よがしに舌打ち一つ。あきれ果てたと言わんばかりに肩をすくめて、シキョウはトウカに指を振った。
「あのな、水妖さんよ、そこにいる女は確かにスイメイって名前だし、お前の知り合いかもしらんが、百年前からうろついてるような手合いじゃねえよ。大げさな言いぐさで同情誘おうなんざけちなやり方だぜ」
「おおげさじゃないもん」とトウカが声を荒げた。「本当に百年だもん!」
「おーおーさすがは温泉の精霊様、のべつのぼせて道理がわからんと来た。じゃあ聞くが、スイメイのどこが百歳にみえんだ。こいつみたいなババアがいるか?」
「前からずっとこうだもん。ねえ、スイメイ?」
「話にならねえな。なあスイメイ?」
 スイメイはどちらにも応じない。シキョウとトウカとを交互に見比べながら口を引き結び、眉根を寄せてため息をつく。口を開いたかと思えば言葉を飲み込み、深い苦悩をにじませたかと思えばすぐさまひっこめて何事もない。ようやくスイメイが発したのは「そうだな」の一言だった。
「そうだよね、ボクが正しいよね?」
「じゃねえよバカ」
「スイメイ、言ってやってよ、こいつのほうがバカだって」
「そっくりそのまま返すぜ」
「何こいつ。むかつく」
「お前こそ何なんだ、え?」
 顔を近づけにらみ合う。シキョウが毛を逆立てて牙をむき出せば、トウカは全身を泡立たせて舌を出す。スイメイを模した美貌が稚気にあふれたふくれっ面を浮かべるさまは常ならぬ見ものであるが、シキョウに感ずるところはない。縄張りを争う野良犬同士といった有様である。
「その辺で泣いて謝っといた方がいいんじゃねえか? ごめんなさいほんとは百年じゃないんですってよ」
「ほんとだもん!」
「じゃあ聞くが、百年前の皇帝の名を言ってみろ」
「知らない」
「そらみろ! いい加減なこと言うとすぐ尻尾が出るもんだな」
 シキョウは勝ち誇って拳を突き上げたが、それもトウカが首をかしげるまでのことである。
「こうていってなに? スイメイは知ってる?」
「――こいつのご先祖様のことだ」
「ふーん。そんなの知るわけないじゃん。自分の知ってることを他人も知ってるとは限らないんだよ。そんなことも知らないなんてバカじゃないの」
 一般的に、精霊とは世俗の常識にとらわれぬものであるが、それにしても大延国における天地の代表者たる皇帝を知らぬことは稀である。シキョウは頭を抱えた。
「あのな、なんでもいいけどな、スイメイは百年前にはいなかっただろ。大げさに言うなってだけの話がなんでここまで」
「シキョウ、話が脇道にそれている」
「んなこたわかってんだよ、おいお前、その格好のことでちょっと話が――」
「本当に百年だもん!」
 トウカが張り上げる抗議は、シキョウの声を容易く掻き消した。
「スイメイまで何言ってるの? 百年だよ、百年! すごく長かったんだよ! それをしっかり我慢したんだ。こんなわけのわかんない奴に嘘つきだなんて言われたくない!」
「ほー、そうかい」とシキョウが嗤った。「いいぜ、信じてやろう」
「ほんとに? 見た目ほどバカじゃないんだね、えらいえらい」
「だがそうすると」シキョウはにやにや笑いを浮かべた。
「お前の言うスイメイは別人ってことになるなあ」
 ぶしゅ、とガインがくしゃみをした。シキョウがすさまじい目つきでにらみつけ、こそこそとガインが退散しても、部屋に落ちた沈黙にはひびの一つも入らない。凍り付いているスイメイをちらりと見上げて、ようやくトウカが口を開いた。
「何言ってんの」
「だから、スイメイは百年前にはいねえだろうが。実はせいぜい四、五年前ってとこだろ、どうなんだ、スイメイ」
「ああ」
「本当に百年だもん!」
「だったら、その百年前にお前があったとかいうスイメイはスイメイちがいだろうよ。よく似た他人のふりして話を合わせてるってわけだ。お前にしては小細工したな、スイメイ」
「ああ」
「違うよ!」
 トウカが悲痛な叫びをあげて、スイメイにしがみついた。
「本物だよ! だってスイメイは真名を教えてくれたんだもん。スイメイも何とか言ってよ! 四、五年前なんかじゃないですってこいつに言ってやってよ! 大体こいつなんなの?」
 トウカが首に抱き付くと、スイメイの体が傾いだ。ついに構えを取るのもやめて、二人のやり取りの一言一言を身に刺さる矢のように受け止めている。沈痛そのものの面持ちでシキョウにしきりと目配せし、だがシキョウはそれどころでない。
「なんだと」
 シキョウの口から言葉が滑り落ちた。
「スイメイがお前に真名を教えたってか。はっ、そりゃずいぶん吹いたな」
「ほんとだもん」
「嘘こけ」
「嘘じゃないもん」
「ほーう。なら証拠を見せてもらおうじゃねえか!」
 ついに抑えの利かなくなったシキョウが水妖に詰め寄った。穴もあけとばかりに鋭い視線でトウカをにらみつけ、苦々しげに言葉をつなぐ。
「この場で書いてみろよ。その真名とやらをよ。そうすりゃこんな水掛け論すぐにでも終いだ。いいか、百年がどうのって大ぼらのほうは見逃してやってもいい。だが真名はやりすぎだろうが。大体、お前みたいなぽっと出がそうそう教わってたまるかってんだ。なあ、スイメイ」
「ぽっと出はお前の方じゃないか!」
「あーあー、少しぐらいは話を聞いてやるつもりだったがこれ以上は聞くに堪えねえ。スイメイ、お前の言うとおりだったな。こいつはガキだ。分別の足りないクソガキだ。げんこつのひとつもくれてやらねえとな」
「うるさい! 大体そっちこそスイメイの何なの? なんだか小汚いし、それに弱そうだし。ねえスイメイ、どうしてこんなやつ連れて歩いてるの? 先に喧嘩売ってきたのは向こうだよね? シメていいよね?」
「できるもんならやってみろ」
「手加減しないからね」
「止めてくれ、二人とも」
 シキョウもトウカもピタリと止まり、だがそれはほんの一瞬のことに過ぎない。
「スイメイ、お前の姿で裸踊りされるだけじゃ足りないってのか?」
「スイメイ、こいつスイメイの何なの? 根性曲がりを直してあげてるの? だったらボクが代わりにやったげるよ」
「大ぼら吹きがまた一発。そら、さっさとその真名とやらをかいてみろよ。スイメイも構わねえよな? どうせどこかの他人の名前が出てくるだけだもんな?」
「いいよ! ほえ面かくとこよーく見せてもらうからね!」
 トウカが腕を振り上げた。その指先から乳色の湯が滑り出し、空中に模様を描いていく。真名とは、その人そのものを表す躍字である。意味するところを余すところなく伝える神の文字であり、真名を他者に教えることはすべてをさらけ出すことに等しい。言うまでもなく、本人以外が書いてよい機会は限られる。
 躍字は瞬く間に精緻さを増し、自らを組み上げていく。輪郭がそろい、軸が伸び、そうして今にも完成かと思われたその時、スイメイの手がさっと動き、躍字を掻き消した。
「ああ!」「おい!」
 怒号を上げる二人を前に、しかしスイメイは動じない。超然たるたたずまいを崩すことなく、びいんと刃を震わせる。まるで部屋中に張り巡らされた不可視の鋼線に這わせでもするかのように剣を動かすと、存在しない鋼線が軋る。たちまちのうちに冷え切った空気の中で、ただスイメイのまなざしだけは熱く、そして容赦なくトウカとシキョウを刺し貫く。たじろぐ二人のうち、スイメイはまずシキョウに目を向けた。
「シキョウ」
 シキョウは返事の代わりに片眉を跳ね上げた。
「シキョウ、少し落ち着け。野良犬のように吠えるのは止めてもらおう。見苦しい。それから」と何事か言いたげなシキョウを制し「それから、どうしても気になるようだから一つ機会をくれてやろう。もし今、お前が私に勝てば、私の真名を教えてやろう。私を倒してもよいし、私より先にトウカを黙らせてもよい。のるか?」
「何を急に――いいぜ、のってやる」
 口ごもったシキョウが腰を落として構えを取り、スイメイは満足げにうなずくとトウカに向きなおった。
「トウカ」
「うん。はい」
「まず言っておくが、仮に私がお前に真名を教えてやっていたとして、それを他人に軽々しく教えるとはどういうことだ」
「それは――それはこいつがいろいろ言うから」
「言い訳はいい。お前はずいぶん考えなしだった。今もだ。そんなみっともない格好をして、私が嬉しがるとでも思ったか」
「だって、だってボクは」
「それに、私が別人かもしれないと疑いもしないのだな」
「へ?」
 理解できないとばかりにトウカが口を開けた。
「だって、だってスイメイはスイメイだし」
「さあて、それはどうかな。あいにく真名はきちんと拝めなかったからな」
 スイメイはシキョウを見ない。ただほんのわずかに、口の端をゆがめるばかりである。
「何しろ私も記憶がずいぶんあいまいだが、百年というのは何ともいえん。ひょっとすると、お前が真名を知っているのは別人かもしれないぞ」
「でも、でもスイメイは」
「だったら、確かめてみるがいい。以前と同じように遊べば、私の方でもきちんと思い出すかもしれないからな」
 にい、と笑うスイメイは、まるで深海のように底が知れない。
「実を言うと、今回はお前を退治しに来たんだ。退治というと大げさだが、要は負けた方が勝った方の言うことを聞く。そういう決まりで構わないだろう? たしか以前もそうだった気がするからな。ついでのお楽しみと言っては何だが、そこのとうへんぼくも巻き込んでいいぞ。叩きのめせば言うことを聞かせていい。いいな、シキョウ?」
「できるもんならな」
 食いしばった歯の隙間からシキョウがうめく。トウカもまた、全身に白いさざ波を走らせていた。初めはシキョウに、次いでスイメイに目を向ける。ぐいと顎を引き、手を突き出すと、小さな流れがその体内に透けた。初めは緩やかに、次第に早く蠢き始める流れの動く様は、トウカの体に蓄えられた力の動きそのものだ。ゆっくりと動くトウカの体が描き出すのは独特の構え。体を開き、重心を移し、ぐいと練られた力を両掌から打ち出す。湯気とともに飛び出した水滴ともども引き戻した掌を素早くぱんと打ち合わせ、トウカは優雅に一礼すると不敵な笑みを浮かべてみせた。
「いいよ、二人まとめて遊んであげる!」
「ほざけ!」
「行くぞ!」
 そうして、三者は同時に動いた。


 但し書き
 文中における誤りは全て筆者に責任があります。
 独自設定についてはこちらからご覧ください。
 また、以下のSSの記述を参考としました。
 【続・その風斯く語りけり】


  • 何という水掛子供論とどうしたもんだのスイメイさん。 しかしなんと解決どころか更にややこしくなったどうなる次回 -- (名無しさん) 2014-11-07 01:34:00
  • このシリーズでこんなギャグやってくるとは予想外。大人気ないシキョウに皇帝の器が見えねぇ~。真名あたりでスイメイがふくむから真相が見えない -- (名無しさん) 2014-11-07 20:52:41
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最終更新:2014年11月06日 23:31