この瞬間になるまでセイランとテンコウが忘れ果てていた事柄の一つに、「兵士には耳がついている」ということがある。テンコウは尚書の執務室に入るにあたって、天窓を体当たりで粉砕して巨大な音を立てている。くしゃみの事は言うまでもない。そして、まともな兵士は異音がすれば正体を確かめに来るものであり、大延国の宮殿ほど兵士が巡回している場所もないのである。
忘れ果てていた何もかもが流れ込み、セイランの頭は真っ白になった。
「くせものか?」「いや待てあれは公主さまでは」「大師がおっしゃってたとおりだな」「ほんとに屋根に登ってる……」
どよめく兵士たちの間から、怪訝そうな顔をした隊長が進み出た。
「吉風公主さま、お怪我はございませんか」
「べ、べつに普通です」
「今はしごをお持ちしますので、どうかそのままで。おい!」
指示を受け、二人の兵士たちが走り去っていく。虎人の隊長は兜を取ると、気遣わしげにセイランを見上げた。
「いいですよ別に、ちょっと散歩してたところです」
「そうは参りません。十面大師様よりご指示がありました。『ありえないとは思うが、万が一屋根の上にでも公主さまがおられたら、可及的速やかに自分のもとへお連れするように』とのことです」
「大師はへんなこと言いますね。私は屋根になんか上ったりしないです」
「自分もつい先ほどまではそう思っておりました。おい、はしごはまだか」
『はしごなんかなくてもちゃんと降りれますよ』という言葉を、セイランは危ういところで飲み込んだ。話の焦点がずれている。どうにかこの場を脱出しなくてはいけない。セイランはテンコウに目配せした。テンコウがゆったりと頷き、ふあーと大口を開けてあくびをした。目は完全にあさっての方向を向いている。風精の気まぐれさを呪いながら、セイランはじりじりと兵士たちをにらみつけた。兵士たちはみな、こちらに興味津々の様子である。誰一人目をそらそうとはしない。
ふっと視線を横にずらせば、躍字はじりじりと遠ざかっていく。セイランがテンコウを兵にぶつけることを考えはじめたとき、不意に遠くの躍字が弾かれたように伸び上がり、目にも留まらぬ速さで瓦を飛び越え、宙を走って八耀殿の方へと逃げ失せた。あれよあれよという間の出来事である。動揺したセイランが首をめぐらすと、先ほど走っていった兵士が戻ってきていた。その手にはしごは携えられていない。隊長が眉をひそめて怒鳴った。
「おい! はしごはどうした!」
「は、こいつが何かを見たというものですから」
「『何か』とはなんだ! 報告は正確にしろ」
「は、なんだかよく分からない模様であります」
「模様……?」
「は、清栄殿のほうに向かっていくのを見たのであります。空飛ぶ模様であります」
隊長は黙り込み、髭をしごいてうなった。
「公主さま、ひょっとすると賊や妖怪の類が侵入した恐れがありますので、どうかはしごがくるまでそのまま——」
セイランは聞いてはいなかった。一息にとなりの建物へ飛び移り、兵士たちを完全に無視してそのまま走り出す。一息遅れてあがったどよめきを背中に浴びながら、セイランは足を早めた。
「なんとまあ、今朝目覚めたときには、今日という日が歴史に残ることになろうとは思いもせなんだものだが」
庭の一角に設けられた東屋で、皇帝クウリはからからと笑った。
齢八十を超えていながら、クウリの外見は壮健そのものである。白く長い髭をしごきながら、炯々と輝く眼でセイランを見据える。セイランにはその奥に潜む感情が読めなかった。読めたためしもなかった。父親ではあるのだが、めったに顔を合わせることはないのである。
言葉をなくしたセイランに向かって屈託なく手を振ってみせる。その脇ではハンリョウが苦笑いしていた。卓の上には茶がこぼれ、椅子の一つは蹴倒されている。大師がさっきまで座っていたのだと、セイランはぼんやり考えた。
「朕の知る限りでは五人目になるのか。そうだな、ハンリョウ」
「はい。飛火双星公のお二人、初代
ミズハミシマ通信使、それと五代前の玄王様がこれまでの顔ぶれでございます」
「かくも蒼々たる面々にわが娘が加わることになろうとはな。いやはや」
眼を白黒させているセイランに向かって、クウリはいかめしい顔を作った。
「よく聞け、吉風公主セイランよ。そなたは今しがた、『禁裏に空から押し入る』という、大延国の歴史に残る偉業を成し遂げたのだ。誰にでも出来ることではないのだぞ。最初にやり遂げた双星公は二人とも風道を究めた魔法の達人であり、当代の皇帝に挑まれて『いかなる場所にも押し入って見せる』と豪語し、見事やってのけた。ミズハミシマの通信使は彼の地における作法をことのほか気に入ったそうでな。なんでもミズハミシマでは水底にも建物があり、水底では屋根に入り口を設けるそうだ。五代前の玄王はあー、長年仙人境に身をおかれ、なんというか様々なものから解き放たれたお方だったと聞いておる。三百年もフラフラ——おほん、自由に生きておられたそうだから無理もないと思うがな。とにかくセイランよ、そなたはそんなお歴々と肩を並べることになったというわけだ。どう思うか?」
「は、はい」
「申し訳ございません!」
ごん! と音を立てて、十面大師が地面に頭を打ちつけた。
「此度は私の監督不行き届きにてこのような不祥事を引き起こしてしまいました! いかなる処分をも受け入れる所存にございます!」
「面を上げよ、大師」
クウリの声音がわずかに冷えた。
「処分などするつもりはない。だいたい処分して何が解決するというのだ。そなたはよくやっておる。ただ、我が不肖の娘が予想をはるかに超える粗相をしでかすだけのことである」
「しかし……」
「さらに言うなら、もし大師の監督責任を問わねばならんとしてだな、そうすればもう一方の後見人のほうも責任を追及せねばならぬということになる。向こうのほうが責が重いぞ。なにしろセイランがここまでこれたのは彼の力あっての事だからの」
「お言葉ですが、テンコウ殿は……」
「うむ。テンコウはこの場におらぬし、何より彼はあのように犬になってしまっておるから話にならぬ。つまり、このことは犬と飼い主のように考えるのがよかろう。犬のしでかしたことは飼い主が責任を取るものだから、セイランがテンコウの手を借りてしでかしたことはセイランの責任だ。あー、セイランがテンコウの飼い主であるかどうかは微妙なところだが、どうしても厳密にやらねばならん話でもなかろう」
「それはいかがなものでしょうか」とハンリョウが口を挟んだ。「仮にも精霊宮の住人たるテンコウ殿を飼い犬扱いするなど、精霊宮のものたちはいい顔をしないのでは」
「犬として振舞うのをやめるよう、そのものたちにテンコウを説得させてから文句を言わせるとしよう。何なら後で本人の意見を聞いてもよかろう。大師がおらぬときにな。あれも別に逃げずともよかったのだがな。まとにかく、此度のことはセイラン本人に責任を問う。それが結論だ。異論はあるまいな」
「——陛下のご厚情に心から感謝申し上げます」
大師がごんごんと頭を打ちつける。セイランもまた頭を地面に擦り付けたが、内心は全く穏やかでなかった。
「さて、そろそろ本題に入るとしよう。セイランよ」
「は、はい!」
「どうしてまた、禁裏に空から入ろうとした? 一体何用があって空など飛んでおったのだ?」
「おそらくそれは——」
口を挟もうとした大師を、クウリは手を振って制した。
「朕はセイランに聞いておる。さあ、答えよセイラン。お前は一体何をした? というよりも、自分では何をしでかしたと思っておる?」
「あ、あの」
セイランは冷や汗をぬぐった。
「禁裏にその、入ってはいけないところから入ってしまって——」
「違う」
クウリの鋭い声が、セイランの言葉を切って捨てた。
「別に空から禁裏に入ってはならぬという法はない。考えてもみよ、セイラン。これが禁裏でなくただの家であったならどうだ? 屋根から入ってはならぬという決まりなど定めるものがあろうか? わざわざ好き好んで屋根やら天窓やらから入ったりするものなどおらぬであろう? もちろん、お前が読んでおるような小噺の類では別かも知れぬが、それにしたところで、屋根から入るのが当たり前だと書かれておるわけではあるまい。空から押し入ってはならぬというのはな、セイラン、むやみに人騒がせなことをしてはならんというだけのことなのだ。そこがお前の勘違いである」
「あの、でも」
「そういう時は『お言葉ですが』というのだ」
「はい。あの、お言葉ですが」
「うむ。聞こう」
「あの、空からじゃなくても、禁裏には入ってはいけないのに、私は入ってしまって——」
「それは瑣末なことである。むやみに入ってはいけないのは、単に静かにしておいてほしいからだ。ここは朕や金羅様が暮らし、あるいは気を休めるところである。お前とて、自分の部屋にずかずか押し入られるのは御免であろう? きちんとした用があるなら別に入ってきてもいっこうに構わぬのだ。ま、できれば扉からな」
「はい」
——それじゃどうして怒られているんでしょう。
セイランは困惑した。見透かしたように、クウリが髭をしごいて笑った。
「どうもお前は質問をきちんと聞いておらなんだようじゃの。特別にもう一回言うぞ。セイラン、お前は自分が何をしでかしたと思っておる?」
「それは——」
「先も言うたぞ。『きちんとした用があれば、禁裏に入っても構わぬ』と。セイランよ、お前はいかなる用向きがあったのだ?」
そこでセイランは、つっかえつっかえ経緯を話した。躍字が逃げてしまったこと、テンコウとともにそれを追いかけたこと、兵士が寄ってきたので躍字を上手く捕まえられずにこまったこと、禁裏なら、兵士を振り切れると思ったこと——
「それで、テンコウと一緒に飛んで禁裏に入ろうと思ったら、大師が出てきて、テンコウがいなくなって、それで——」
「そこまででよい」
クウリがうなずいた。
「要するにお前は、自分のせいで逃がしてしまった文書を取り戻そうとしておったのだな。成る程、殊勝な心がけである」
「はい!」
「だがやり方は最低だったな」
「え……」
一瞬晴れかかったセイランの心に、再び暗雲が立ち込めてきた。クウリは面白そうに笑いながら、セイランに向かって指を振った。
「捕まえようとするから逃げる。ほうっておけばそのうち帰ってくる。セイランよ、知らなかったとは言わせぬぞ。なにしろ一度は戻ってくるところを見ておったのだからな。お前がやるべきだったのは、白紙になってしまった巻物を広げておとなしく待っておくことだったのだ。お前がいらぬかんしゃくを起こすから、このように宮殿中追いかけて回る結果となった」
いかにもその通りだった。実際、一度はそうしようと思ったのだ。だけどレイレイが——と思いかけて、セイランははっとなった。危うくレイレイのせいにするところだったことを、セイランは恥ずかしく思った。だが、言われっぱなしというのも気が済まず、セイランは顔を上げて決然と言葉を発した。
「確かにやり方を間違えました。でもその時はそうするしかないと思って」
「ことが定まったあとからやれあれがまずい、ここを間違えたと言いたてるのは、言う側にとってもあまり気持ちのいいものではない。特に、当人が一生懸命やっておったとなればなおさらのこと。だが覚えておけよセイラン、一生懸命やることと、最善を尽くすことは必ずしも等しいとは限らぬ。これしかないと思い定めてやったことが最低の結果を招くこともある。何かをなそうとするなら、それなりに考えてからにすることだ。この教訓は覚えておけよ」
「——はい、分かりました」
セイランは殊勝にうなずいてみせた。だが、クウリのニヤニヤ笑いはやまない。それどころかますます笑みは深まり、横に控えるハンリョウもまた重々しい表情を浮かべたままだ。居心地が悪くなってセイランが脇の大師に目をやると、大師もまた苦虫を噛み潰したような顔をしてセイランをにらみつけていた。わけが分からず、セイランはクウリに向かって問いかけるような目つきを送った。
「さて、セイラン。お前はまだ大事な事を言っておらぬ」
「へ? あの、でも」
「お前が今しがた申したのは禁裏に入った用件であった。だがお前にはもう一つやらかしたことがある。むしろそちらのほうについて聞きたかったのだ。その顔からするに、自分では分かっておらぬようだな」
「はい。あの、私はまだ何かしたのですか」
「うむ、そこまで言うとはいっそすがすがしいほどだな。ハンリョウと大師を見ておってもまだなんとも思わぬか」
セイランは二人を見比べた。ハンリョウはあきれたように笑い出し、大師は沈痛な顔で地面に目を落としている。わけが分からず、セイランは再びクウリに顔を向けた。クウリがため息をついた。
「セイラン、朕がさきほどからお前に気付かせようとしていたことはな、お前が言いつけられた勉強を怠けておるということなのだ。本来勉強しておるべきときに、あたりを走り回っておったことだ」
「あ」