【続・瓦上公主】

 吉風公主セイランの後見人は二人いる。常にはないことである。
 一端を担う十面大師は仙人であり、本来の職掌は主神金羅の補佐である。精霊宮のことども、わけても皇子の育成に関わることはきわめて珍しい。そのあり得ないことが行われているのは、本来セイランの教育を果たすべき後見人が機能不全に陥っているからである。
 もう一人の後見人はその名をテンコウという。風精である。


「テンコウ! ちょっと手伝ってください、追いかけっこです!」
 テンコウの返事はなかった。セイランとて返事を期待したわけではない。何しろ相手は犬である。
 真っ白な雲のように膨らんだ長毛の真ん中に、小さな目と突き出された舌がおまけのようにくっついている。へっへっへっと息をつきながら、テンコウは首を傾け、もどし、今度は反対側に傾けるとことんと寝転んだ。幸せそのものといった表情である。セイランは眉間をもんだ。
 見かけに反して、テンコウは犬ではない。精霊宮に住まうことを許されたれっきとした風精である。人語を発さず、人に化身するでもなく、時たま壁や空を歩き回るほかには完全にただの犬として生活している。セイランがテンコウの事を後見人だと意識することは少ないが、この気のいい風精のことは好いていた。
 好いているのだが、意思疎通がうまくいっているかというと、それはまた別の話である。
「テンコウ、ねえちょっと、ちゃんと話聞いてください! 困っているんです」
 へぇ? とテンコウが寝返りをうった。仕方なくセイランが腹を撫でてやると、テンコウはむあーと幸せそうに鳴き声をもらした。
「聞きなさい! おきてください! 大変なんですってば!」
 テンコウはセイランの怒りを気にするようすもなく、よろよろと起き上がってセイランに覆いかぶさった。見た目に反し、テンコウはほとんど重さがない。まさしく雲を掴むようなテンコウの体を押し返しながら、セイランは最後の手段をとることを決めた。
「テンコウ、私の言うこと聞かないんなら、白王様のところに連れて行ってもらいますよ」
 テンコウの動きがぴたりと止まった。
 精一杯無害そうな顔を作りながら、テンコウはセイランから離れると床に伏せ、ちいさくニャーと鳴いた。テンコウはほとんど犬であるが、鳴き声は別である。おっしゃることがよく分かりませんとでも言いたげに首を傾けるテンコウに、セイランはなおもいいつのった。
「私が連れて行くんじゃないですよ。テンコウが今がんばってくれなかったら、私は怒られて当分外出禁止になります。一緒に散歩にもいけなくなります。そうしたら、きっと大師がテンコウを散歩させることになるですよ、私の代わりに」
 テンコウが体を震わせた。セイランはトドメとばかりに言葉を継いだ。
「大師がテンコウを連れてお散歩に出たら、行く先はぜったい白王さまのところです。あの二人の仲がいいのは知ってますよね? 大師は白王様のところで一日中お茶を飲んで、テンコウはそのあいだずーっとお行儀よくしてないといけません。玉投げもかけっこもなしです。あ、でもひょっとしたら白王様が遊んでくださるかもしれないですね——」
 どんっ、という音とともに、衝撃波が部屋に走った。レイレイがきゃっと悲鳴を上げて顔を背けた。テンコウはいまや、テンコウに可能な限りのりりしい表情を作ってセイランを見下ろしていた。セイランは紐を取り出すと足元の衣を縛り、白紙の巻物を取り上げてさっと天窓をさした。
「テンコウ、さあ、一緒に行きましょう! 目にものみせてやります」
 にゃーとテンコウが応えた。テンコウの体から噴出する風が、セイランの衣をパタパタとはためかせた。
「あ、あの、公主さま」
「レイレイ、それではちょっと行ってきます! 兄上やジジイに何か言われたら止めても聞かなかったといってください!」
「は、はい、あ、あの、それではお気をつけて」
「はい!」
 セイランは勢いよく床をけった。巻き起こった一陣の風がセイランの体を持ち上げ、セイランとテンコウはともに天窓から外へと飛び出していた。


 俗に『道功術戯』という。精霊に働きかけて魔法を使う、その巧みさをあらわす言葉である。
 『戯』とは、文字通り精霊と戯れることをさす。およそ魔法とは精霊の力を借りて望みの現象を引き起こすことであるが、精霊戯はただ精霊とともにありながら、なにかの拍子に自分の望む現象が起きるのを期待することである。種を植えるときに土精を称えて歌うことで豊作を願ったり、物干し竿のそばに鈴をさげ、その音を好む風精に通り過ぎてもらうことで洗濯物を乾かしたりする工夫などが精霊戯に当たる。実際のところ、とても魔法とはいえないもの、精霊と共存する庶民の知恵でしかないものも多く含まれている。
 これが一段進めば『術』となる。『術』とは、要するに精霊に命じることである。これこれの事柄をせよと人が命じ、精霊が応えて行う。水を持ち上げ、大地を割り、虚空から火を生じあるいは風に乗って飛行するといった、いわゆる魔法らしい魔法が術と呼ばれる。
 『功』ともなれば命じる必要すらなくなる。精霊の力はみずからの手足の延長のごとくなり、心を合一するに至って精霊使いは精霊の欲するように行い、術者の欲するところもまた精霊の望みとなる。
 そして『道』を極めたとき、精霊使いは何かを欲することから離れ、ただ天然自然の一部になってしまうという。これは大延国の長い歴史においても、あまり類を見ない。
 今、セイランが行っているのは軽身風術なる魔法である。風に乗り、宙に舞いあがって一息に十足ほども翔ける。風精テンコウの力である。


 瓦の上にすとんと着地すると、セイランはすばやくあたりを見回し、逃げた躍字の姿を探した。
 ——そんなに遠くには行かないはずです。
 セイランには確信があった。躍字がもといた場所に戻りたがっていたのを見たためである。一時的に逃げ出しはするが、帰れなくなってもそれはそれで問題になるにちがいない。どれほど遠くに行けば帰れなくなるかはわからねど、先に戻ってきたときはそれほど時間が経っていなかった。今回も同じようになるはずである。セイランは巻物を握り締めた。これさえ握っておけば、勝ち目はこちらにあるはずである。
 ——いました。
 霊玉殿の門の上で、文字の群れがふわふわと漂っていた。こちらに気付いた様子はない。セイランはそっとほくそ笑むと、ゆっくりと第一歩を踏み出した。
 とたんに、この世の終わりのような爆発音が響き渡った。
 テンコウが精一杯無害そうな顔を作って周りを見回し、何今の音とでもいいたげに目を見開いた。セイランはといえばそれどころではなく、すさまじい勢いで降りかかってきた鼻水をぬぐうのに必死になっている。テンコウの生態はほとんど犬と同じだが、くしゃみの威力だけは別である。
 テンコウを怒鳴りつけるのを必死に我慢しながら、セイランは躍字のいたあたりに視線を向けた。影も形もなかった。
「よかったですねテンコウ、躍字にも耳があるってことがわかったですよ」
 テンコウはうなだれた。咳払いひとつ、セイランは気持ちを改めると、瓦の上を駆け始めた。テンコウも付き従い、周囲に風の流れを生み出していく。かっかっかと小気味よい音を立てて瓦を踏みしめ、セイランは隣の棟へと飛び移った。ひととびごとに距離はのび、ほとんど滑るように瓦の上を移動していく。先ほどまで躍字が漂っていたあたりにまで至ると、セイランは霊玉殿の門めがけて飛んだ。飛びながらぐるりと体をめぐらし、視界のすみに清栄殿のほうに向かって逃げていく躍字を捉える。屋根の縁にかすりざま、セイランは腕を伸ばして瓦を掴んだ。テンコウが下から吹き上げた風がセイランの体を押し上げ、衝撃を殺してセイランを屋根の上まで連れていく。躍字との距離は大いに縮まり、その気になれば捕らえられるほどの間となっている。
 ——ちょろいもんです。
 セイランは内心ほくそ笑んだ。こと逃げることについては、セイランは宮殿一の達人であると自負している。十面大師から逃げ続けた経験によって、セイランは宮殿内の建物や通路の配置に精通していた。清栄殿は宮殿のなかでも端に位置しており、たどり着くための道はいくらもない。加えて、建物も古いために出入り口がとても少ない。追い込まれたなら逃げ出すのは至難の業である。かつてのセイランが身をもって学んだ事柄であった。
 ——自分が負う側になるなんて思ってもみなかったです。
 セイランはちいさく笑うと、横にかしずくテンコウをぽんぽんと叩いた。再び駆け始めようとしたそのとき——
 ふいにあがったどよめきが、セイランの足を止めさせた。
 気を取られて、セイランはあやうく虚空に向かって飛び出すところだった。割り込んできたテンコウの体に受け止められてなんとか体勢を保ちながら、セイランは足元に群れる集団をまじまじと見つめた。
 大勢の兵士たちのあっけに取られたような顔が、セイランを見返していた。


 この瞬間になるまでセイランとテンコウが忘れ果てていた事柄の一つに、「兵士には耳がついている」ということがある。テンコウは尚書の執務室に入るにあたって、天窓を体当たりで粉砕して巨大な音を立てている。くしゃみの事は言うまでもない。そして、まともな兵士は異音がすれば正体を確かめに来るものであり、大延国の宮殿ほど兵士が巡回している場所もないのである。
 忘れ果てていた何もかもが流れ込み、セイランの頭は真っ白になった。
「くせものか?」「いや待てあれは公主さまでは」「大師がおっしゃってたとおりだな」「ほんとに屋根に登ってる……」
 どよめく兵士たちの間から、怪訝そうな顔をした隊長が進み出た。
「吉風公主さま、お怪我はございませんか」
「べ、べつに普通です」
「今はしごをお持ちしますので、どうかそのままで。おい!」
 指示を受け、二人の兵士たちが走り去っていく。虎人の隊長は兜を取ると、気遣わしげにセイランを見上げた。
「いいですよ別に、ちょっと散歩してたところです」
「そうは参りません。十面大師様よりご指示がありました。『ありえないとは思うが、万が一屋根の上にでも公主さまがおられたら、可及的速やかに自分のもとへお連れするように』とのことです」
「大師はへんなこと言いますね。私は屋根になんか上ったりしないです」
「自分もつい先ほどまではそう思っておりました。おい、はしごはまだか」
 『はしごなんかなくてもちゃんと降りれますよ』という言葉を、セイランは危ういところで飲み込んだ。話の焦点がずれている。どうにかこの場を脱出しなくてはいけない。セイランはテンコウに目配せした。テンコウがゆったりと頷き、ふあーと大口を開けてあくびをした。目は完全にあさっての方向を向いている。風精の気まぐれさを呪いながら、セイランはじりじりと兵士たちをにらみつけた。兵士たちはみな、こちらに興味津々の様子である。誰一人目をそらそうとはしない。
 ふっと視線を横にずらせば、躍字はじりじりと遠ざかっていく。セイランがテンコウを兵にぶつけることを考えはじめたとき、不意に遠くの躍字が弾かれたように伸び上がり、目にも留まらぬ速さで瓦を飛び越え、宙を走って八耀殿の方へと逃げ失せた。あれよあれよという間の出来事である。動揺したセイランが首をめぐらすと、先ほど走っていった兵士が戻ってきていた。その手にはしごは携えられていない。隊長が眉をひそめて怒鳴った。
「おい! はしごはどうした!」
「は、こいつが何かを見たというものですから」
「『何か』とはなんだ! 報告は正確にしろ」
「は、なんだかよく分からない模様であります」
「模様……?」
「は、清栄殿のほうに向かっていくのを見たのであります。空飛ぶ模様であります」
 隊長は黙り込み、髭をしごいてうなった。
「公主さま、ひょっとすると賊や妖怪の類が侵入した恐れがありますので、どうかはしごがくるまでそのまま——」
 セイランは聞いてはいなかった。一息にとなりの建物へ飛び移り、兵士たちを完全に無視してそのまま走り出す。一息遅れてあがったどよめきを背中に浴びながら、セイランは足を早めた。


 洸華苑から菱光台へ、目を白黒させる紀林の学者先生たちの前を走りぬけて三吼塔を登り、龍枕池を一息に飛び越して八耀殿へ。
 セイランは三度躍字に追いすがり、三度振り切られた。
 その過程で、セイランは躍字の新しい一面を発見していた。一言でまとめれば、『躍字ほどいやらしい存在はいない』ということになる。
 まず、すべての方角が見えている。テンコウとともに直上から襲い掛かったところあっさりかわされ、危うく地面に叩きつけられそうになった。めげずに立ち上がり、宙をふらふら漂う字に下から追いすがってもするりと抜けられる。何の前触れもなく向きを変えたように見えることがあれば、必ず反対側から兵士が走ってくる。仕方なくきびすを返すと今度はセイランをあざ笑うかのように再び目の前に現れる。隠れても見抜かれ、兵士を引き離すためにわざと距離をとればこんどは近寄ってくる。
 ——さすがは大師の書いた文章ですね。
 視界の隅をふらふらする躍字を懸命に捉えようとしながら、セイランは歯軋りした。
 混迷である。
 躍字はセイランから逃げる。セイランは読み手としてふさわしくないからである。
 そしてセイランは兵士から逃げなくてはならない。これはセイランの思うところ、大師の嫌がらせによるものである。
 なおかつ、躍字は兵士からも逃げようとする。このことはセイランにとって都合がよく、また悪くもあった。公文書を逃がしてしまったことがばれずにすむのはよいのだが、兵士は躍字を捕まえる邪魔にもなっている。セイランが躍字にとびかかりたいところを一生懸命我慢して近寄り、さあおいでと巻物を広げて見せさえすれば捕まえられるはずなのだが、足を止めることは兵士に捕らえられることに直結している。なんとしても避けたいことである。
 あちらを立てればこちらがたたず。起死回生の策も思いつかぬまま宮殿中を駆け回った結果、全員がセイランを追いかけているのかと思えるほどに兵士が集まってきてしまっている。だれも報告に行っていないのか、いつもなら真っ先に飛んで来る大師の姿は見えないが、それも時間の問題だと思われた。散歩の時間が近づいてきたテンコウの注意力は限界に近く、時折天空に恋焦がれるような眼を向けては大げさにため息をつく。テンコウは犬のようなものであるが、散歩にかける情熱は犬をはるかに上回っている。
 八耀殿の屋根に身を伏せ、セイランはあせりにあせっていた。
 ——もういっそ大師に全部白状してしまいましょうか。
 敗北感まるだしの考えを打ち消すことすら難しい。大師にかかれば、セイランを探し出すことなど造作もないことに違いない。こっぴどく叱られはするのだろうが、今のこのイライラに耐えることに比べればなんと言うことはない気がしてくる。いっそ諦めてしまおうか、ごめんなさいしてしまおうかと考えて、セイランは目の前の瓦をぼんやりと見つめた。
 ——この瓦がたまたま大師の変身したものだったりしないですかね。
 そんなふざけた考えが頭をよぎり、セイランは乾いた笑いを押し殺した。何で瓦なんかに化けているのかといえば、それは十面大師がとんでもない意地悪ジジイだからだ。セイランがゲンナリしているところを眺めるためなら手段なんて問わないのだ。レイレイに化けたのを見た時点で、セイランは大師に対する手加減や気遣いを捨て去ることを決意していた。仙人というだけの事はあって、大師の考え方はわけが分からないのだ。実を言えば、この騒動だって実はセイランに意地悪するために仕組んだことなのだ。大師はセイランが試験問題を逃がしてしまうことなどお見通しで、その上であえて放置しているのだ。だから、すぐ来てもおかしくないはずの大師がいつまでたっても現れず、セイランはこうして屋根の上で途方にくれるハメになっているのだ。なんてひどい。信じられない、大師のアホ、鱗顔、変顔——。
 柔らかい綿毛に顔を撫でられて、セイランはふと正気に返った。心配そうに顔を近づけてきたテンコウが、こんどはセイランの顔をぺろりと舐めた。冷たくざらざらした舌の感触が、セイランの頭を冷やした。
「ありがとう、テンコウ」
 テンコウはにゃーと応えると、無造作にセイランを咥え、驚くセイランを飛び上がると隣の屋根に降りた。たちまちどよめきが上がり、下では兵士たちが空を見上げて右往左往し始める。居場所がばれそうになっていたところをテンコウに救われたことに気付き、セイランは安堵のため息を漏らした。やはり捕まりたくはない。
 そのまま兵士を振り切るべく駆けはじめたセイランの頭に、ふと疑問がきざした。
 ——どうして大師はまだ出てこないんでしょう?
 さっきまでは時間の問題と思っていたが、よくよく考えれば大師の不在は不思議である。これだけ兵士がいればとっくに連絡がいっていてもおかしくないはずなのだ。となれば大師本人がその辺りから湧き出してきてもおかしくないはずなのだ。
 なのに、いない。
 ——兵士が大師を見つけられないなんてことあるでしょうか?
 疑問の答えは、ふとめぐらした視線の先にあった。セイランは思わず、あっと声を漏らして足を止めた。
 宮殿は兵士であふれているが、ただ一箇所だけ、いかなる兵士も立ち入れない場所がある。禁裏だ。金羅さまと皇帝その人が生活する場所であり、立ち入るためには精霊術や仙術などの強力な使い手であることが条件となっている。守る側より守られる側のほうが強くては本末転倒だから、警備の兵も置かれることはない。セイランもまた、立ち入ることは許されていない。
 だが大師なら、禁裏に立ち入ることができる。
 兄ハンリョウも同様だ。確か二人とも、皇帝に内密な話で呼びつけられたと言っていた。なら、二人の居場所は禁裏ということになる。兵士が入れないから、ご注進だって届かないのだ。
 兵が入れない。
 禁裏なら、兵士を振り切ることができる。躍字を捕まえることに集中できる。
 セイランは即座に決断した。
「テンコウ!」
 応えて跳んだテンコウの首筋を掴み、そのまま飛び上がる。見上げる兵士たちの目が追ってくるのを意識しながら、セイランは天を目指して舞い上がり、視界の中に躍字を探した。よろよろと這うようにして、躍字がセイランを追いかけてくるのを眼にしたとき、セイランは上昇をやめた。人が親指ほどにしか見えぬ高さから見下ろした宮殿の姿ははじめて眼にするものだった。セイランは思わずため息をついた。
 落下に転じ、胃袋がひっくり返るような浮遊感に叩かれながら、セイランは頭から禁裏めがけて落ちた。テンコウの毛をしっかりと掴み、小さな庭の一角を見定める。風を切りながら、東屋にぶつからぬよう、池にも落ちぬよう慎重に角度を調節し——
 その時、、庭で何かが動いた。
 はじめは小さかったそれが、ぐいぐいと大きさを増していく。瞬き二つほどの間に、それの正体が明らかになった。地面からとびだった巨大な鳥。片側だけでもセイランの身長ほどもある大きく真っ白な翼を力強く打ち付け、セイランめがけて一直線に迫ってくる。その瞳に燃えている怒りを見てとってセイランは悲鳴を上げた。ともに落ちていくテンコウの毛を引っ張り、軌道をそらそうと試みた。
 手ごたえがなかった。
 セイランの手のひらに綿毛だけを残し、風精の姿はどこかへと消えうせていた。
 事態に気付き、悲鳴を上げる暇もあらばこそ。
 巨鳥のくちばしが迫り、セイランは思わず眼を閉じた。


 浮遊感がセイランを押し包んだ。セイランはゆっくりと眼を開けた。
 巨鳥はセイランを受け止めていた。落下の勢いを羽ばたいて殺し、反転してゆっくりと高度を下げる。くちばしで襟首をつかまれているセイランはただなすがままになるだけである。巨鳥はやがて禁裏の庭に舞い降りると、セイランをぽいと放り出した。
「あいた、ちょっと、なにするですか」
 投げ出されてしりもちをついたセイランが抗議の声をあげても、巨鳥は一顧だにしない。翼を広げてゆっくりとはためかせ、何を思ったか一本の羽を引き抜く。おもむろに空を見上げて一声鳴いた。セイランも釣られて顔を上げた。
 視線の先では、躍字がふらふらと高度を下げつつあった。
 セイランはあわてて懐の巻物を探った。このよく分からない鳥のことも気になるが、助けてくれたぐらいだから危害を加える気はないのだろう。それよりも今はさっさと字を捕まえてしまうほうが先決だった。なにしろ本当は禁裏に立ち入ってはいけないのだ。用事を済ませてさっさと出て行くにこしたことはない。この鳥はきっと禁裏に住んでいる霊鳥か何かなのだろう。精霊かもしれない。精霊は大抵人の形を取りたがるものだけど、テンコウみたいに動物になりたがる精霊だっていてもおかしくない。あとで口止めでもしておけば何とかなるだろう。ああ、それにしてもテンコウときたら、本当肝心なときに役に立たないですね——
『招』
 視界の隅で突然発光した何かが、セイランの思考を断ち切った。
 眼をやったセイランは、息を呑んで硬直した。
 鳥は姿を消していた。名残のように一枚だけ残された羽が突き出され、「引き寄せ」を意味する躍字がその表面で波打っていた。羽を掴んで宙に掲げている腕には白い毛が密生していた。宙を漂っていた躍字が羽に向かって突進し、決して充分とはいえない広さのなかにぎゅうぎゅう詰めになって収まっていく様を、セイランは呆然となって見守った。
 十面大師の背中では、翼が溶け込んで姿を消していくところだった。大師は体をぶるりと振って息をつくと、そのまま何も言うことなくセイランの手から空になった巻物を取り上げ、羽とともに懐にしまいこんだ。
 そうして、うろたえるセイランの手を引いて庭の一角にある東屋に向かって歩き出した。近くまでたどり着くと膝をつき、セイランにもそうするように無言で促した。
 わけもわからず従ったセイランが見たものは、あきれたように笑う大延国皇帝の姿だった。

「なんとまあ、今朝目覚めたときには、今日という日が歴史に残ることになろうとは思いもせなんだものだが」
 庭の一角に設けられた東屋で、皇帝クウリはからからと笑った。
 齢八十を超えていながら、クウリの外見は壮健そのものである。白く長い髭をしごきながら、炯々と輝く眼でセイランを見据える。セイランにはその奥に潜む感情が読めなかった。読めたためしもなかった。父親ではあるのだが、めったに顔を合わせることはないのである。
 言葉をなくしたセイランに向かって屈託なく手を振ってみせる。その脇ではハンリョウが苦笑いしていた。卓の上には茶がこぼれ、椅子の一つは蹴倒されている。大師がさっきまで座っていたのだと、セイランはぼんやり考えた。
「朕の知る限りでは五人目になるのか。そうだな、ハンリョウ」
「はい。飛火双星公のお二人、初代ミズハミシマ通信使、それと五代前の玄王様がこれまでの顔ぶれでございます」
「かくも蒼々たる面々にわが娘が加わることになろうとはな。いやはや」
 眼を白黒させているセイランに向かって、クウリはいかめしい顔を作った。
「よく聞け、吉風公主セイランよ。そなたは今しがた、『禁裏に空から押し入る』という、大延国の歴史に残る偉業を成し遂げたのだ。誰にでも出来ることではないのだぞ。最初にやり遂げた双星公は二人とも風道を究めた魔法の達人であり、当代の皇帝に挑まれて『いかなる場所にも押し入って見せる』と豪語し、見事やってのけた。ミズハミシマの通信使は彼の地における作法をことのほか気に入ったそうでな。なんでもミズハミシマでは水底にも建物があり、水底では屋根に入り口を設けるそうだ。五代前の玄王はあー、長年仙人境に身をおかれ、なんというか様々なものから解き放たれたお方だったと聞いておる。三百年もフラフラ——おほん、自由に生きておられたそうだから無理もないと思うがな。とにかくセイランよ、そなたはそんなお歴々と肩を並べることになったというわけだ。どう思うか?」
「は、はい」
「申し訳ございません!」
 ごん! と音を立てて、十面大師が地面に頭を打ちつけた。
「此度は私の監督不行き届きにてこのような不祥事を引き起こしてしまいました! いかなる処分をも受け入れる所存にございます!」
「面を上げよ、大師」
 クウリの声音がわずかに冷えた。
「処分などするつもりはない。だいたい処分して何が解決するというのだ。そなたはよくやっておる。ただ、我が不肖の娘が予想をはるかに超える粗相をしでかすだけのことである」
「しかし……」
「さらに言うなら、もし大師の監督責任を問わねばならんとしてだな、そうすればもう一方の後見人のほうも責任を追及せねばならぬということになる。向こうのほうが責が重いぞ。なにしろセイランがここまでこれたのは彼の力あっての事だからの」
「お言葉ですが、テンコウ殿は……」
「うむ。テンコウはこの場におらぬし、何より彼はあのように犬になってしまっておるから話にならぬ。つまり、このことは犬と飼い主のように考えるのがよかろう。犬のしでかしたことは飼い主が責任を取るものだから、セイランがテンコウの手を借りてしでかしたことはセイランの責任だ。あー、セイランがテンコウの飼い主であるかどうかは微妙なところだが、どうしても厳密にやらねばならん話でもなかろう」
「それはいかがなものでしょうか」とハンリョウが口を挟んだ。「仮にも精霊宮の住人たるテンコウ殿を飼い犬扱いするなど、精霊宮のものたちはいい顔をしないのでは」
「犬として振舞うのをやめるよう、そのものたちにテンコウを説得させてから文句を言わせるとしよう。何なら後で本人の意見を聞いてもよかろう。大師がおらぬときにな。あれも別に逃げずともよかったのだがな。まとにかく、此度のことはセイラン本人に責任を問う。それが結論だ。異論はあるまいな」
「——陛下のご厚情に心から感謝申し上げます」
 大師がごんごんと頭を打ちつける。セイランもまた頭を地面に擦り付けたが、内心は全く穏やかでなかった。
「さて、そろそろ本題に入るとしよう。セイランよ」
「は、はい!」
「どうしてまた、禁裏に空から入ろうとした? 一体何用があって空など飛んでおったのだ?」
「おそらくそれは——」
 口を挟もうとした大師を、クウリは手を振って制した。
「朕はセイランに聞いておる。さあ、答えよセイラン。お前は一体何をした? というよりも、自分では何をしでかしたと思っておる?」
「あ、あの」
 セイランは冷や汗をぬぐった。
「禁裏にその、入ってはいけないところから入ってしまって——」
「違う」
 クウリの鋭い声が、セイランの言葉を切って捨てた。
「別に空から禁裏に入ってはならぬという法はない。考えてもみよ、セイラン。これが禁裏でなくただの家であったならどうだ? 屋根から入ってはならぬという決まりなど定めるものがあろうか? わざわざ好き好んで屋根やら天窓やらから入ったりするものなどおらぬであろう? もちろん、お前が読んでおるような小噺の類では別かも知れぬが、それにしたところで、屋根から入るのが当たり前だと書かれておるわけではあるまい。空から押し入ってはならぬというのはな、セイラン、むやみに人騒がせなことをしてはならんというだけのことなのだ。そこがお前の勘違いである」
「あの、でも」
「そういう時は『お言葉ですが』というのだ」
「はい。あの、お言葉ですが」
「うむ。聞こう」
「あの、空からじゃなくても、禁裏には入ってはいけないのに、私は入ってしまって——」
「それは瑣末なことである。むやみに入ってはいけないのは、単に静かにしておいてほしいからだ。ここは朕や金羅様が暮らし、あるいは気を休めるところである。お前とて、自分の部屋にずかずか押し入られるのは御免であろう? きちんとした用があるなら別に入ってきてもいっこうに構わぬのだ。ま、できれば扉からな」
「はい」
 ——それじゃどうして怒られているんでしょう。
 セイランは困惑した。見透かしたように、クウリが髭をしごいて笑った。
「どうもお前は質問をきちんと聞いておらなんだようじゃの。特別にもう一回言うぞ。セイラン、お前は自分が何をしでかしたと思っておる?」
「それは——」
「先も言うたぞ。『きちんとした用があれば、禁裏に入っても構わぬ』と。セイランよ、お前はいかなる用向きがあったのだ?」
 そこでセイランは、つっかえつっかえ経緯を話した。躍字が逃げてしまったこと、テンコウとともにそれを追いかけたこと、兵士が寄ってきたので躍字を上手く捕まえられずにこまったこと、禁裏なら、兵士を振り切れると思ったこと——
「それで、テンコウと一緒に飛んで禁裏に入ろうと思ったら、大師が出てきて、テンコウがいなくなって、それで——」
「そこまででよい」
 クウリがうなずいた。
「要するにお前は、自分のせいで逃がしてしまった文書を取り戻そうとしておったのだな。成る程、殊勝な心がけである」
「はい!」
「だがやり方は最低だったな」
「え……」
 一瞬晴れかかったセイランの心に、再び暗雲が立ち込めてきた。クウリは面白そうに笑いながら、セイランに向かって指を振った。
「捕まえようとするから逃げる。ほうっておけばそのうち帰ってくる。セイランよ、知らなかったとは言わせぬぞ。なにしろ一度は戻ってくるところを見ておったのだからな。お前がやるべきだったのは、白紙になってしまった巻物を広げておとなしく待っておくことだったのだ。お前がいらぬかんしゃくを起こすから、このように宮殿中追いかけて回る結果となった」
 いかにもその通りだった。実際、一度はそうしようと思ったのだ。だけどレイレイが——と思いかけて、セイランははっとなった。危うくレイレイのせいにするところだったことを、セイランは恥ずかしく思った。だが、言われっぱなしというのも気が済まず、セイランは顔を上げて決然と言葉を発した。
「確かにやり方を間違えました。でもその時はそうするしかないと思って」
「ことが定まったあとからやれあれがまずい、ここを間違えたと言いたてるのは、言う側にとってもあまり気持ちのいいものではない。特に、当人が一生懸命やっておったとなればなおさらのこと。だが覚えておけよセイラン、一生懸命やることと、最善を尽くすことは必ずしも等しいとは限らぬ。これしかないと思い定めてやったことが最低の結果を招くこともある。何かをなそうとするなら、それなりに考えてからにすることだ。この教訓は覚えておけよ」
「——はい、分かりました」
 セイランは殊勝にうなずいてみせた。だが、クウリのニヤニヤ笑いはやまない。それどころかますます笑みは深まり、横に控えるハンリョウもまた重々しい表情を浮かべたままだ。居心地が悪くなってセイランが脇の大師に目をやると、大師もまた苦虫を噛み潰したような顔をしてセイランをにらみつけていた。わけが分からず、セイランはクウリに向かって問いかけるような目つきを送った。
「さて、セイラン。お前はまだ大事な事を言っておらぬ」
「へ? あの、でも」
「お前が今しがた申したのは禁裏に入った用件であった。だがお前にはもう一つやらかしたことがある。むしろそちらのほうについて聞きたかったのだ。その顔からするに、自分では分かっておらぬようだな」
「はい。あの、私はまだ何かしたのですか」
「うむ、そこまで言うとはいっそすがすがしいほどだな。ハンリョウと大師を見ておってもまだなんとも思わぬか」
 セイランは二人を見比べた。ハンリョウはあきれたように笑い出し、大師は沈痛な顔で地面に目を落としている。わけが分からず、セイランは再びクウリに顔を向けた。クウリがため息をついた。
「セイラン、朕がさきほどからお前に気付かせようとしていたことはな、お前が言いつけられた勉強を怠けておるということなのだ。本来勉強しておるべきときに、あたりを走り回っておったことだ」
「あ」


タグ:

ss
+ タグ編集
  • タグ:
  • ss
最終更新:2011年10月07日 23:36