「成る程、そういうことでしたか」
薄闇おりる夕暮れ時の大路を、セイランはテンコウを引き連れて、大師とともに歩いていた。
家路を急ぎ、あるいは食事に繰り出す人々の頭上では、光精霊が航跡を引いて飛び回っている。家屋の中に入れてもらおうと人々の眼前をよぎり、あるいはまとわり着いて関心を引こうとすることしきり。そんな精霊の一体を捉えた大師が話しかけると、精霊はうれしそうに発光してセイランたちのゆくてを照らし出した。舞い踊る光精を適当にあしらいながら、十面大師はセイランにうなずきかけた。
「悪質な潜書屋のことは私も聞き及んでおりましたが、そんなところにいるとは想像だにしておりませんでした。公主様、お見事です」
「そんなに大したことじゃないですよ」
飛び跳ねたいほどの内心を押し殺し、セイランは精一杯のすまし顔を作った。
「いや、中々大したことですよ。日々の探索が実を結んだのですから。それに、屋根の上に乗っていたという異人の件も、ちゃんと出て行ったのはすばらしいことです」
「そうですか?」
「ええ。きちんと職責を果たしたわけですから。それも、衛視と揉めたりすることなくやり遂げて。正直、予想以上でしたよ」
「えへへ」
すまし顔はあっさり崩れたが、セイランは気にしていなかった。大師に手放しでほめられることなど、セイランにとっては日常というよりむしろ椿事に近い。ほめてくれる相手がほとんど全知にしか思えない存在ならなおさらである。だがその気持ちも、長くは続かなかった。大師が肩をすくめたからである。
「実は恥ずかしながら、あまり熱心に探すのもどうかとは思っていたのですよ」
「へ?」
「ですから、あの異人はほうっておくのがよいのではないかと思っていたのです。どうせ大した出来事に巻き込まれているわけでもなかろうと軽く考えておりました」
「え、でもでも、行方不明って」
「それはあの叔母御どのの言い分でしょう? 公主様ならいかがですか? あのような方がいるとあっては、里心がついてしょうがないというわけにもいかないのでは?」
セイランは異人の叔母の顔を思い浮かべて身震いした。やり取りを覗いていただけのセイランですら、近づくのも遠慮したいと考えてしまうほどの人物であった。大師が苦笑した。
「こちらで多少羽を伸ばすつもりでいるのなら、あまり大事にしてしまってはためにならない。そう考えていたのですよ」
「そうなんですか……」
セイランの気持ちが見る見るしぼんだ。軽かった歩みがのろくなる。後ろを歩いていたテンコウがセイランにぶつかり、抗議の唸り声を上げた。
「ですから、今回は反省しました」
え、とセイランは大師を見上げた。
「今回、ワン氏が余計な面倒ごとに巻き込まれてしまったのは、ひとえに私が対応を誤ったためです。偶然公主様が発見しておられなければ、より悲惨な事態になっていたかもしれません。私は公主様にお詫び申し上げなくてはなりません。職務に励むよう申し上げておきながら、自分はなすべきことを怠っていた。これからは、このようなことのないように努めてまいります」
足を止めた大師がセイランに向き直り、深々と頭を下げた。釣られて足を止めたセイランはうろたえたが、テンコウに脚をゆるくかまれて落ち着きを取り戻した。狼狽を隠すため、セイランはことさらにそっくり返ってみせた。
「そうですよ。おかしいなとはちょっと思ってたんです。大師が何かを本気で探してたら、見つけられないわけないですもん」
セイランの脳裏を、宮殿での在りし日々がよぎった。知略の限りを尽くして勉学から逃げに逃げたセイランであったが、逃げ切ったことは数えるほどしかない。一体どうやってかぎつけるものか、大師は常にセイランを発見してしまうのである。いわゆる仙術か何かであろうと見当をつけていたが、大師が実際に手の内を明かしたことはこれまでなかった。
「仙人なんですから、なんかこう術でぱぱーっと見つけたりできるんじゃないですか? 出し惜しみはよくないですよ、大師」
「お言葉ですが、何でもぱぱーっと見つけられるわけではございません」
大師がわずかに笑みをこぼした。
「確かにそのような事ができる仙人もおりますが、出来ぬ仙人もおります。私は出来ぬほうに属しております」
「そうなんですか?」
「意外ですか」
セイランは答えに窮した。意外な事実であったが、あっさり受け入れることにも抵抗がある。セイランに取り、大師はやはり大師なのである。
セイランが言葉を捜していると、大師が先に言葉を発した。
「それより公主様、すこし、お聞きしたいことがあるのですが」
「なんですか?」
「我々はどちらへ向かっているのですか?」
「あれ、言ってませんでしたっけ?」
「衛視の詰め所に、ワン氏を引き取りに行くのではないかと思っておりましたが」
「そうです」
「方向が少々違うのでは?」
「そうですよ? 詰め所に行くんじゃないです」
大師が首をかしげ、セイランを促した。
「あの、金黙星さんが」
「衛視の隊長ですか」
「そうです。隊長さんが、食事の席を用意するって」
大師の長いほうの眉が上がった。
「その、ワン氏の件で、大師にお願いしたいことがあるって言ってたんです。だから呼んできてくれって」
大師のもう片方の眉が上がった。押し黙る大師の顔を、セイランは恐る恐る見上げた。
「――あの、大師、もしかして怒ってます?」
「怒ってなどおりません。ただ、少々行き違いがあるような気がして参りましただけです」
「そ、そうなんですか」
「公主様、あなたは確か、『異人を見つけた。ヤミ潜書の手入れで衛視に捕まってた』とおっしゃられた。そう言って、私を連れ出されたのです」
「そうですよ」
大師が深いため息をついた。
「あの、わたしなにかまずいことしましたか、大師?」
「いいえ、私が早合点をしていただけです、公主様」
「はやがてんってなんですか?」
「私は先も申しましたように、ワン氏を引き取りに行くつもりでいたのです。衛視を説き伏せ、あるいは渡すものを渡して、拘留されているところを横から引き取る。こういうつもりでおりました。衛視が捕らえた者を貰い受けるのですから、横車を押してお願いするのは我々のほうということになります。頭も下げ、渡すべきものを渡してようやく成る事柄です。然るに、公主様は衛視の隊長どのが食事の席を設け、お願い事があるとおっしゃる。逆ではありませんか?」
「あの、それは――」
「考えられるのは、ワン氏を衛視がもてあましているという可能性です。潜書といえばいかにも面倒ごとの宝庫、頁を繰るごとに飛び出してくるといっても過言ではありません。誰かがその毒牙にかかったとなれば、衛視の手にあまるということもあるでしょうね?」
「そうですよ。言ったじゃありませんか。異人さんが――」
「生憎ですが、そこまでは聞いておりません」
「あれ、そうでしたっけ」
「水掛け論になってもいけませんからこれ以上申しませんが、聞いておりません。こちらが詳しく問いただしておくべきでした」
「う……その、ごめんなさい」
うなだれるセイランの前を、光精がよぎって瞬いた。悲しげなセイランの表情に思うところあったのか、光精はさまざまな色を発してくるくると回転する。セイランが手を伸ばすと、光精は指の周りにじゃれ付いてぱっと離れ、そのままテンコウの口に飛び込んだ。顔色一つ変えずに口を閉じたテンコウの体が内側から輝き、セイランは思わず笑みをこぼした。
「――詳しい事情に関しては、向こうに語らせるとしましょうか。さ、行きましょう。招待を受けているのですから、遅刻は厳禁です。席はどちらに?」
「そろそろだと思います――あ、いた」
セイランたちは暁光通に差し掛かっていた。市城の中でも特に名店と呼び声の高い酒家の立ち並ぶ地域である。呼び込みや団体客でごったがえするなかで、ぽっかりと空間が空いている。そこに探す姿を認めたセイランが手を振ると、人影は居住まいを正して敬礼した。客をもてなし、あるいは目を引くために、どの店の前でも客引きたちが口上を歌い上げている。そうして引き寄せられた光精たちがあたりを照らし出し、そうしたきらびやかな灯りの中にあってなお、ヒョウセイの美貌は全く色あせない。
店の構えを目にした大師が、ほう、とため息を漏らしてセイランに目をまわして見せた。
「これはどうやら、大層なお願い事になりそうですね」
「う……」
「そんな顔なさいますな。せっかくの食事が台無しになります。さ、行きましょう」
華湯館はその名から察せられる通り、湯が評判の名店である。
山海からくまなく集めた材料から注意深く取り出された出汁は各種の具材と組みあわされ、千変万化の味わいと食感とを生み出して客の舌を飽きさせない。特に流水宴と呼ばれる趣向は実に二十種類もの湯が次から次へと出されるという趣向を凝らしたもので、シャキシャキした葉物野菜の食感を楽しむ青葉湯から、タレを焼き付けた焼肉を泳がせて味わう炙油川、ひたすらに出汁の旨みだけを味わうための粥やとろみをつけた餡を味わうおこげ料理に至るまで、とにかくあらゆる湯料理を取り揃えて客をもてなす。流水宴を生み出したバクシャはやがて流水宴で食神祭をも制し、金泉一門を創始して厨林にその名をとどろかせた――
「およそ、汁物という料理は万能だとバクシャは唱えています。付け合せとしての役割もちろん重要ですし、そのまま主菜となることもできる。料理を素材の旨みを抽出して舌に届けるという過程とするなら、湯こそはもっとも不純物が混ざらぬ調理法だというのです。汁物のみで完結して見せるこの流水宴は、バクシャのそうした精神の集大成だといえるでしょう。お分かりですか、公主様?」
「え、あ、はい。聞いてます。おいしいです」
セイランは蓮華を置いて姿勢を正した。だがそれも長くは持たず、セイランの視線はうろうろと彷徨う。目の前に並べられた湯に目移りして上の空である。これまでに食べてきた料理はいずれも、どちらかといえばこってりしたものばかり。ここらで舌を休めるために薄味の粥を選んでおきたくもあり、一方では歯ごたえに飢えてきたという感触もあって、串状の揚げ焼きそばに絡めて食べる針麺湯も気にかかる。豆のさやを小船に見立てて小さな池を模した八船遊池湯の細工からは目を離しがたく、気を落ち着かせるために深々と息を吸い込めば、卓の向こう側から漂ってくるのは香辛料の効いた紅辣湯の香り。もはや考えることを放棄して手近な料理を味わえば、口の中に広がるのは乾した貝柱から取った極上の旨みである。心行くまで堪能した湯を飲み下すと、満足そのものがため息となって現れる。セイランはご満悦であった。
大師もまた、ため息をついた。こちらは呆れ顔である。
「公主様、食はただ口に入れればよいというものではございません。一心不乱に味わわれるのもけっこうですが、具材の地理・歴史的背景や調理法、作法の意味や由来などにも注意を払わなくては真に味わったとはいえないものです。なおざりにしては食に対して失礼に当たるのですよ」
「別に、なおざりになんかしてないです。ちゃんと全部味わって食べてます」
「それは見れば分かりますが」
卓の反対側では、ヒョウセイが口元を覆って微笑んでいる。大師が苦笑した。
「申し訳ない。浅薄な知識ばかり振りかざしても食事の邪魔になるばかりと分かってはいるのですが、なにぶん言わずにはおれぬものでして」
「こちらこそ申し訳ありません。本来でしたら、私のほうが料理についてご案内申し上げるべきですのに。十面大師さまはずいぶんお詳しいのですね」
「かつて金衛五科に属しておりました折、金羅さまに随行して各地の食を巡る機会に恵まれました。その時、華湯館の本店を一度だけ訊ねたことがあるのです。当時はまだバクシャ殿がご存命でした」
「それはそれは。今日のものはさすがに開祖の技には劣りましょうか」
「いや、驚きました。あの時味わったものに比べて全く見劣りしません。バクシャ殿もよい弟子たちに恵まれたものと見えます」
「それは何よりです」
テンコウが卓の下でぷひゃーと声を上げた。無理を言って出してもらった屑野菜の煮浸しを貪り、仲良くなった光精にじゃれ付いてご満悦である。セイランも大師もヒョウセイも手を止め、しばし卓の下を覗き込んで笑いを交わす。
テンコウがすっかり皿を平らげたのを見届けたセイランが再び食事に戻ると、大師が座りなおしていた。
「隊長殿、本日お招きに与りましたことは公主にとり、得がたい経験となったことでしょう。公主は今少々立て込んでおりますので、僭越ながら私が代わって御礼を申し上げます。それと、テンコウ殿のぶんも」
「お喜びいただけて何よりです。なにぶん、仙人や皇族の方をおもてなしするのは初めてですので、粗相の段は平にご容赦願いたく」
「仙人にとっても人界の食は楽しみの一つですし、今回の料理はどれも食神祭を制したものですから、公主様の口にもあうでしょう。。それに、今回の席は気楽なものだと受け取っております。何しろ急なお話でしたものですから、着の身着のままで参ってしまいました。礼を失したことにならなければよいのですが」
「不躾な真似をしました。本来ならばあらかじめご連絡を差し上げてから席を設けるべきでしたことは承知しております。お楽しみいただけたなら至上の喜びです」
「公主をごらんいただければ、どれほど満足しているかは容易にご理解いただけるでしょう」
「何よりです。次の料理を持たせましょうか、それとも少し休憩を入れたほうがよろしいでしょうか」
「ふむ。いかがされますか、公主様」
「あ、私はどんどん持ってきてもらっても別に――えっぷ」
セイランは腹を撫でてため息をついた。
「――すこし、茶をいただくことにしましょうか、公主様」
「うう、そうします」
ヒョウセイがさっと手を挙げると、給仕が皿を下げ、碗に茶を注いだ。全員がしばし手を休め、セイランも人心地ついてようやく周囲を観察する余裕が出来た。ヒョウセイに顔を向けると、わずかな微笑みが帰ってくる。会釈を返し、今度は大師に目をやると、大師は目を閉じ思案顔である。大師の長いほうの耳がぴくぴくと微動している。大師が思考をめぐらすときの癖である。満腹で霞の掛かったセイランの頭でも、いかにも重要そうな話が始まりそうであるというのは見て取れた。
「――それでは、本題に入りましょうか」
「お恥ずかしい。見透かされましたか」
「いやいや、単なる思い過ごしだとおもうのです。今日の席はすばらしいものですが、私までもてなしの対象に入っていたというのが少々気にかかります。なにしろ、私は公主と違って、あなたに何事か貸しがあるわけでもありませんからね。果たしてこの美食を能天気に味わってよいものか、少々心もとなかったのです」
「大師ほどの碩学にご挨拶申し上げる機会は逃したくなかっただけでございます」
「けっこう。これほどのおもてなしを受けておいて、力添えを拒むほどの冷血漢ではありません。問題を伺いましょう」
ヒョウセイがセイランをちらりとみた。一泊置いて、ヒョウセイは意を決したように言葉を発した。
「公主様からお聞き及びかもしれませんが、異人が一人、躍書の中にとらわれてしまったのです」
異人の名はワン・ウェイ。違法な潜書屋の手入れで発見された。
「同じ店にいた客から詳しい事情を聞いて照合したところ、この男は我々が踏み込んだ時点ですでに二日ほど滞在していたようです。その間ぶっとおしで潜書を行っていたということですね。昏睡状態が続き、目覚める気配は今のところありません」
「二日も潜れば、それだけでも体に大きな負担が掛かるでしょうな」
「ええ。ですから、昏睡状態に陥っているのはそのためかと思い、医者に見せました。城内の複数の医者を呼びましたが、いずれの診立てでも体に異常は見つかりません。眠っているも同然の状態だと。もともと異世界で病を患っていた可能性もありますが、城内での足取りをおったところ、何かしらの持病を患っていたような振る舞いは見られなかったようです。あくまで状況証拠ですが、異人の健康状態に問題はなかったと考えられます。それで、尋常の沙汰ではないと知れました。なにしろ、どれほど呼びかけても戻ってこないのです」
「あの、ちょっといいですか?」
思わずセイランは口を挟んだ。
「なんでしょう、公主様」
「あの、ワンさんの足取りって、お店で見つかる前の足取りですか?」
「そうです。ひと月ほど前に界門をくぐってからの足取りですね」
「どうやったんですか? あの、私も聞いて回ってたんですけど、全然分からなくて」
異人が発見されてからどれほど経ったかは知らないものの、空振りに終わり続けた探索の日々を思えば、いともあっさり確認できたというヒョウセイの言葉はにわかに信じがたいものである。大師の方をうかがいながら、セイランはヒョウセイの答えを待った。ヒョウセイの目がわずかに細くなった。
「衛視はこうした調査に慣れておりますし、人数もおります。衛視の権勢を振りかざしてようやく口を開くような相手も多く、そしてそういった輩ほど多くの物事を見聞きしているものです。ですから、公主様お一人で聞いて回られたのでしたら、手ごたえがなかったのも致し方ないことかと思われます。気に病まれることではございませんよ、公主様」
「そうなんですか。なんだ」
返事の代わりに、ヒョウセイは柔らかな笑みを返す。水面に花の開いたような笑みである。大師がひらひらと手を振り、話の続きを促すと、笑みはすぐさま掻き消えた。
「恥ずかしながら、自分にはわずかに書の心得があります。そのため、自ら書に潜っての救出も試みました」
「あの、隊長さんも読んだんですか?」
「なんと」
「無謀でした」
ヒョウセイは顔色一つ変えない。
「書は私を受け入れませんでした。正確には、中身を読ませるのではなくて、偽装した内容を読ませる二段構えのつくりになっていたのです。そうして読み進めるうちに、仕掛けられた罠が読み手を捕らえる。私自身も危うく取り込まれてしまうところでした」
「危ういところでしたな。そのような書にはいくつか心当たりがあります。大抵は秘密を守るためにあらかじめ組み込まれるものです。ほかの事例もありますが――少々心得がある程度では、手玉に取られるのが落ちです」
「ええ、油断しておりました。私では手も足も出ませんが、かといって他に人材はいません。城外から書家を呼び寄せることも出来ますが、時間が掛かります。今のところ異人の体に衰弱の兆候は見られませんが、それもいつまで持つか知れたものではありません。できるだけ早期に解決したいのです」
「それで、私の力を借りたいと」
「仙人の方々はいずれも神力を宿し、超常の力を行使することができると聞き及んでおります。常人の何倍もの時を生き、多くの知恵を蓄えておられるとも。異人を救い出すため、どうかご助力を賜りたいのです」
大師は答えず、ただ茶をすするばかり。ヒョウセイはただ大師の出方を待っている。セイランは大師を見上げた。セイランにとっては見慣れた顔だが、冷静になってみれば表情の読みにくい顔には違いない。そんなよくわからない顔ににらまれているのだから、ヒョウセイはさぞかし居心地が悪いだろう。セイランはヒョウセイに同情した。
茶碗を乾して卓に置き、大師はなおも答えない。ヒョウセイを悠然とうち眺め、ぴりぴりとした緊張感が周囲に充満していく。二人を見比べて、セイランは蛇が獲物を見定める様を連想した。ヒョウセイはしかし、うろたえている様子もない。その凛とした居住まいに、セイランはかつて大師に受けたお説教を思い出した。まだ逃げ始めのころ、筆とすずりを池に投げ込んで魚を殺してしまったときだ。あの時も、大師はひたすら黙り込んでセイランが謝るのを眺めていた。セイランが本当のお説教には言葉など必要ないのだということを思い知ったのはこのときである。
――それにしても、早く答えてあげればいいのに。
セイランは焦れていた。大師がさっと身を乗り出し、セイランは固唾を呑んだが、単なる茶のお代わりであった。ヒョウセイもまるで何事もなかったように淡々とそれに応じ、そうしてまたにらみ合いに戻る。不可解な時間である。試しているのか、怒っているのか、それとも別の意図があるのか。セイランは大師の意図を読もうとしたが、考えは乱れてまとまらない。沈黙の降りた席で、一人テンコウだけが無邪気に寝そべっている。その呆けた口から流れるよだれを見ているうちに、セイランは腹を決めていた。
「それではいくつか質問を――」
「引き受けます!」
大師が口を開くのと、セイランが声を上げたのは同時である。大師が怪訝そうに眉をしかめてセイランを見た。
「公主様、申し訳ありませんが――」
「引き受けます。隊長さん、この大師が何とかします。出来ますよね、大師」
「お待ちください公主様。聞くべき話を聞いてからでなくては返事をしかねます」
「じゃあ聞いたらいいじゃないですか。何ですか、さっきから黙ってばかりで。お願いされる側だからって、あんまり偉そうにするのは良くないですよ」
「別に偉そうにしてなどおりませんよ。ただ、熟考が必要だったというだけです。待たせたことについては詫びますが」
「でもでも、そんなに考えることってありますか? ぱぱーっと助けてあげるだけじゃないですか。なにか仙人のすごい力でどーんと」
「――助けて上げられぬかもしれないとしたら、いかがです?」
「え?」
セイランはあっけに取られ、ヒョウセイもまた眉をひそめた。
「お恥ずかしい話ですが、潜書はあまり得手ではないのですよ」
「ホントですか、だって大師は仙人じゃないですか。大体なんでも知ってるんでしょ?」
ヒョウセイがうなずいた。
「ご造詣がおありだとばかり思っておりましたが」
「公主様には先も申しましたが、仙人にも得手不得手があります。躍書の扱いに関しては、私は大きく劣るほうです」
「でもでも、いっぱい勉強してるって。それに、自分でも書くじゃないですか」
「苦手だからこそ学ぶのですよ、公主様。それに、知識だけあっても、実践が伴わなくては生きた知恵とはいいがたい。実践が伴っていたところで、理解が及んでいなければ無意味です。それに、勉学だけでは乗り越えられぬ課題もあるのですよ」
大師の顔面にさざなみが走った。異相がゆがみ、部品が次々と組み代わる。その顔がセイランの顔へ、ついでヒョウセイの顔へと移り、かとおもえばすぐさまもとの顔にもどった。
「私はこの通り、変身でしたら誰にも負けませぬ。変化こそは私の本質です。しかし、そのために躍字と正面から相対することは苦手です。流れる砂に字を刻むことは難しいでしょう? それと同じように、躍字は私に意味を載せることがうまく出来ぬようなのです。追い使うようにして多少書き付けることは出来ます。だが、深い交感となるととても難しい。同様の理由で、潜書もあまり経験がありません」
「そうなんですか……」
「ですから、即答しかねていたのです。安請け合いをするわけには参りませんからね。とはいえ、放っておくわけにもいきますまい。よろしい、引き受けましょう。ただし、いくつか条件があります」
「何なりと」
「まず、件の躍書がどのような経路でこの地にもたらされたのかについて知りたい。本来なら、そこらの簡単に手に入れてよい代物ではないはずですし、人に害をなしているとなればなおさらのこと。潜書店を運営していたものに尋問はしていますね?」
ヒョウセイが顔を曇らせた。
「申し訳ありません。一応捕らえてはいるのですが、どうも要領を得ないのです。書をどこから手に入れたかと聞いても『いつの間にか持っていた』と繰り返すばかり。同様の店は他にいくつか摘発していますが、いずれも同じような供述です」
「なるほど。先に伺った罠のことといい、どうやら一筋縄では行かない件のようですね」
「もう一度証言を洗いなおすつもりでいますが――」
「それはお任せします。ではもう一つのお願いを」
「なんでしょう」
「作業は私の手元で行いたい。ついては、異人をこちらへ搬送していただきます。なにぶん、人一人市城を横断して運ぶのは少々面倒ですからな。それから、これまでに押収した他の書も一緒にいただきたい。手がかりになるかもしれません」
ヒョウセイの柳眉がわずかに緩んだ。
「そんなことでよろしいのでしたら」
「お願いします。それと、躍書の由来が分かったならばすぐさま連絡を」
「心得ました」
ヒョウセイが手を叩いて給仕を呼び寄せ、何事か囁きかける。下がった給仕はすぐさま、器を載せた盆を持って現れた。湯気を立てる白菜湯からしょうがの風味が香り立ち、セイランの鼻腔をくすぐる。腹をなでさすって唾を飲み込んだセイランに、大師が苦笑をもらした。
「腹も充分休まったでしょうから、続きをいただくことにしましょうか、公主様」
「ええ、どうぞお召し上がりください、公主様」
「いいんですか。なんか何にもしてないのに悪い気がしてきました」
「それをいまさらおっしゃるのですか」
「ごめんなさい、なんかお皿を目にしたらよく分からなくなって」
「よろしいのです。今回の席は公主様にお礼を申し上げるためでもあるのですから」
「お礼?」
「捜査協力です。さあ公主様、こちらの皿はいかがですか? 」
「ええと、はい。いただきます」
ヒョウセイに押し切られ、その場はどうやらうやむやになった。
その席の帰り路のことである。
ヒョウセイが手配した車に揺られて、セイランと大師は家路をたどっていた。隣り合って座り、澄み切った夜空を眺めながら、セイランは膨れた腹をさすってため息をついた。
「おいしかったですね」
「そうですね」
みゃーと車の外のテンコウが和した。はじめのうちこそ一緒に車に揺られていたテンコウだったが、いつの間にか席から飛び出し、今では車輪にぶら下がっているような状態である。すっかり仲良くなった光精とともに車にしがみついて鳴き声を上げ、車引きが笑い声を上げた。釣られてセイランも笑った。
「テンコウもおいしかったですって」
「よかったですね」
「はい」
冷たい夜風がセイランの火照った頬を撫でる。体に流れる熱気は食事のためばかりではない。ここにきて初めて得た手ごたえによるものである。書にとらわれた行方不明の異人を救出する。セイランは湧き上がるわくわくを押さえることができなかった。もともと物語好きなセイランのこと、書に潜るという行為が現実となることに興奮せずにはいられないのである。ましてそれが人助けとなればなおさらであった。
考えるほどに、期待と意気込みは膨らむばかり。それが、ついに言葉となって飛び出した。
「あの、大師、これからどうするんですか?」
「そうですね、とりあえず詰め所から件の書が届き次第、下準備に入りたいと思います。遅くとも明日の夜には潜書を開始し、可及的速やかにワン氏を救出する。地球にお返しするのは、しばらく養生してからでもいいでしょう。心身ともに衰弱している恐れがありますから」
「なるほど。それじゃあの、下準備って何をするんですか?」
大師が怪訝そうに眉を上げた。
「そうですね、まずは装丁などから作者を特定する作業でしょうか。書き手が分かれば、内容の傾向がつかめる場合がございますので」
「なるほどー」
「それから、本来は食事などの支度が必要ですが、今回はよろしいでしょう」
「あれ、そうなんですか?」
「ええ。長時間に及ぶかもしれませんが、多少の絶食など仙人にとっては朝飯前ですよ」
「でも私のぶんは用意いりますよね。どれぐらい掛かるんですか? 潜ってみないと分からないんですか? あの、湯浴みとかもしておいたほうがいいんでしょうか」
大師が黙り込んだ。セイランを見下ろし、困ったように眉をひそめている。ふと、セイランの脳裏にいやな予感が閃いた。
「あの、大師、もしかして今回の潜書って――」
「もちろん私一人で行います。公主様には留守番をお願いします」
「なんでですか! 私も入りたいです!」
「だめです。危険すぎます」
「だって『六書行』の主人公だって何にもしらなかったけど――」
「お話と混同してはいけません。今回の書はおそらく悪意をもって書かれた妖書の類です。経験のない公主様に太刀打ちできるわけがありません。ですから、だめです」
「いやです! だって私が異人さん見つけてきたのに! 最後までちゃんと面倒みたいです!」
「お気持ちは大変ご立派ですし、意気込みも分かります。しかしダメです」
「うう~、潜ったって何ともないかもしれないじゃないですか」
「万が一ということもございます。もしそういうことになれば、皇帝陛下に顔向けできません。それに、先ほども申し上げましたが、私は潜書の経験が浅い。面倒ごとが起きた時に、公主様をお守りできない可能性があるのです」
「……どういう意味ですか、それって」
「ですから、公主様は経験が浅く――」
「足手まといだって事ですか!?」
気色ばんだセイランに、大師は答えを返さない。ただじっとセイランを見つめ返すばかりである。そのことが、セイランをいともたやすく打ちのめした。面と向かって役立たずだといわれるより、気を使って何も言わないほうがはるかにつらいものであるとセイランは思い知った。
無論セイランとて、自分に力量がないことは百も承知である。だが、膨らんだ期待と意気込みの持って行き場はどうすればよいのか。この街にやってきた当初のような無力感に押しつつまれ、セイランは涙をこらえた。
「ふんだ。じゃあいいです。大師だけでやってください。私は知りません」
「公主様……」
「知りません。しりませんーんだ。ふん」
席に体を預け、そっぽを向いてセイランはだんまりを決め込んだ。ものいいたげな大師の様子を努めて無視しながら、セイランは残りの家路を空の月をにらみつけて過ごした。月に掛かる雲がいかにも鬱陶しく思われて、気の晴れぬセイランである。
(続く)
但し書き
文中における誤りは全て筆者に責任があります。
独自設定については
こちらからご覧ください。
- 精霊の甲斐甲斐しさと華湯館にはじまる解説が鮮明に風景を浮かばせました。役目を理解していてもやっぱり歳相応の面があるセイランと本能の塊のテンコウはいい組み合わせですね。想像以上に複雑な躍書に危うさと面白さを感じました -- (名無しさん) 2014-06-01 17:56:49
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最終更新:2012年05月02日 14:34