【眇眇公主 四】

「それでぶーたれておるのですか」
「それでぶーたれておられるのです」
「それでぶーたれてんだ? ふーん」
「べつにぶーたれてなんかいません! みんなもうほっといてください!」
 顔を真っ赤にしながら、セイランは猛然と朝食にとりくんだ。かまずに飲み込んだ饅頭が喉に引っかかって咳き込み、脇に控えるレイレイが気遣わしげに背をさする。同席しているカンペイとシュウはいずれもニヤニヤ笑いを押し殺すのに必死である。
「公主様、もう少しゆっくりお召し上がりになったほうが」
「ほっといてください!」
「いけませんなぁ、やけ食いは実にいけませんぞ。味が分からなかったりで消化がうまくいかなかったりで百害あって一利なしですぞ。あと鼻にも入りますぞ」
「うっさいです! カンペイさんは黙っててください!」
「セイランちゃんご機嫌斜めだねぇ。朝からそんなにいらいらしてると一日だめな気持ちになっちゃうよ?」
「ちゃん付け止めてください! 私はもう一人前です! 子ども扱いなんて失礼にも程があります!」
 あっけに取られた様子のカンペイとシュウは顔を見合わせると、苦笑を交わして茶をすすった。
 大荒れである。セイランもまた、そのことは自覚していた。
 昨夜のやりとりから一夜明けて、セイランは大師と言葉を交わしていない。戻るや否や、大師は先に到着していたワン氏と躍書とを受け取り、自室にこもってしまっていた。朝食の席に現れないのをとがめたセイランがたずねていっても、出迎えたのは扉に刻まれた『禁』の躍字。声を掛けてもそっけない返事ばかりで、まさしくわき目もふらず躍書に取り組んでいるものであるらしい。そのことがまた、セイランの疎外感を煽る。
 ――ごはんも食べないってどういう事ですか。せっかく呼んであげたのに。
 大師を朝食に呼ぼうとしたことは、セイランとしては最大限の譲歩をしたつもりである。本来ならば口も利いてやらないところを譲ってみせることで大師に見直させようという判断もあり、さらには大師が食事を取っている間にちょっと部屋をのぞいてやろうという下心もなかったわけではなく、だからつれなくされたことがまるでもくろみを見透かされたように思われて、腹立たしさが止まらないのである。見透かされるほど浅はかな企みだったことにはわずかながら自覚もあり、悔しさはいや増すばかり。トドメとなったのは、扉がダメなら窓から呼びかけようとして失敗したことである。窓には板が貼り付けられ、締めとばかりにこれまた『禁』。悔しさのあまりどんどん叩いた手を『禁』の字にきっぱりと押しとどめられ、セイランは大師の周到さに舌を巻いた。
 すでにして打つ手なし。セイラン怒りのやけ食いである。
「お代わり!」
「あの、公主様、もうそのあたりにしておかれたほうが。昨晩もずいぶんお召し上がりだったそうじゃないですか」
「いいから持ってきてください! 怒りますよ!」
 もう怒っておられるじゃないですかとつぶやきながら、レイレイがお代わりをとりにいく。それを見届けると、セイランはシュウに視線を移した。饅頭を旨そうにほうばるシュウが、セイランににらまれてわずかに首をすくめた。
「何、セイランちゃん? 僕が何かしたかな?」
「いえ、別に。なんでシュウさんがそこにいるのかなって思っただけです」
 シュウが座っている席は大師の席である。大師の不在に文句をいいたかっただけのセイランだがシュウは知るよしもない。ぐるりと目を回して肩をすくめ、饅頭を飲み込んで一息つく。
「ごめんね、寝床用意してもらった上に朝ごはんまでもらっちゃって」
「いいんですよ、シュウさん。お客様をおもてなしするのは当然のことですから」
 お代わりを持って戻ってきたレイレイがシュウに微笑みかけた。
「それに、シュウ様は昨晩お仕事をされたではありませんか。ご立派ですわ」
「いやあ」
 昨夜、衛視の詰め所からワン氏を乗せた車を引いてきたのはシュウである。本来ならば衛視がやるべき仕事を何故手伝っているのかといえば、本人曰く「詰め所で暇そうにしてたらやれって言われた」。人一人乗せた台車を引っ張るのは途方もない重労働であったらしく、域も絶え絶えに倒れるようにしていたところをレイレイが収容した格好である。
「公主様もそんなに嫌味おっしゃらないでくださいまし。恥ずかしいですわ」
「そういうつもりでいったんじゃないです」
「どういう意味だったかは聞く側が決めることですわ。さ、シュウ様もお代わりどうぞ」
「あーどうもー」
「やや、これはありがたい!」
 今しもシュウの皿に収まろうとしていた饅頭を、横合いからさっと伸びた手が掻っ攫った。あっけに取られるシュウに、カンペイが高笑いで片目を閉じて見せた。
「いやはや、シュウどのこれはこれは、飢えてくたばりそうな小生にお慈悲をいただけるようでありがたい限りですぞ! なにぶん小生も連日連夜の大仕事ばかりで腹が減っておるのです。シュウどのにおかれては、昨夜の疲れもそろそろ癒えたころでしょう。余裕があるときに人に施すのは大事ですぞ」
 カンペイはそのまま一口で饅頭を貪り食ってしまった。あまりのことに一同言葉を失うなか、レイレイがため息をついて厨房へと戻っていく。なおも物欲しげに視線を彷徨わせるカンペイを、セイランは次の標的と思い定めることにした。八つ当たりにしても、道理はないよりマシである。
「あんまりがっつかないでください、みっともない」
「がっついておりませんぞ。むしろ普段より押さえておるぐらい。ところでお代わりまだですかな」
「ないです! 大体何が大仕事ですか。何にもしてないくせに」
「おっとっと、何にもしてないわけではありませんぞ、それ、小生の卓越した頭脳は常に休みなく働き、世のため人のために死力を尽くしておるのです。おい、女! お代わりまだか!」
「今日カンペイさんがしたことといったら、ここに来てごはんたかったことだけじゃないですか」
「左様」
 カンペイは動じる様子もない。
「これまでに何を成し遂げたかなど小さいこと、これから何を成し遂げるかこそが重要ですぞ。ただあるがままに生き、後世の者に評価を預けるのが大器というもの。結果を急いては実を失うばかりなのです。公主様にはまだ難しいかもしれませんが、わからぬのも無理ない話。小生が公主様ほどの歳だったころにはとっくに理解できておりましたが、ま、出来ぬ者のほうが世の中大半を占めておりますからな。気を落とされることなどありませんぞ」
「よ、余計なお世話です。なんですか、口ばかり達者で! 大体ですね――」
「その達者な口ぶりをもう一くさりご披露するなら、公主様だって今日はまだ何の仕事もされておられませんな。一段とお召し上がりのご様子にもかかわらずです。人を指弾しておる場合なのですかな。おい、まだお代わり出んのか! 待ちくたびれたわ!」」
「ぐぐぐっ」
「まあまあ、二人とも喧嘩やめなよ。リラックスしよう」
 シュウが割って入り、セイランは罵詈雑言を飲み込んだ。シュウは太平楽そのものと言った表情で空になった皿をつつきまわし、かと思えばセイランに向かってにっこりと笑いかける。人のよさそうな笑顔に、セイランの怒りがわずかに鈍った。
「べつにいいじゃない。セイランちゃん。面倒くさいことは人に任せて自分は何にもしないでいいって最高だと思うよ。それもさ、押し付けるんじゃなくて向こうが勝手に引き受けてくれるんならなおさらだよ。今日はオフだと思ってのんびりしたらどうかなあ」
「わたしはのんびりなんかしたくないです! きちんと最後までお仕事したかったです!」
「でもさあ、俺は大師のやり方正しいと思うなあ。自分だけでやるのも自信がないのにさ、人つれてけって言われたら困るのも当然だよ」
「だからって、露骨に足手まとい扱いすることないじゃないですか!」
「実際に足手まといなのではありませんかなぁ」とカンペイがしたり顔で言う。
「恥じることではありませんぞ、公主。凡愚には凡愚らしい生き方というものがあり、公主におかれてもそれは例外ではなく――おっふ」
 卓に置かれた布巾を顔に投げかけられてカンペイがもがき、のけぞった体は椅子を倒して悲鳴とともに卓の下へと消える。舞い上がった埃の中からあがったカンペイのうめき声にわずかに溜飲を下げながら、セイランは冷め切った茶をすすった。
 足手まとい。
 ――そんなこと分かってますよ。
 実のところ、セイランの怒りの核をなしているのはその自覚である。周りにあたり、やけ食いし、大師のせいにして罵り倒したところで、問題は何一つ解決しないことをセイラン自身が知っている。なるほど、自分はただの小娘であり、仙人の知恵と力には及ぶべくもない。突然書が読めるようになったりもしない。他の方法で大師を見返してやれるような方法も思いつかない。つまるところ、どうしようもない。自分は足手まといであって、足手まといの仕事はおとなしくしていることである。
「分かってますよ、そんなこと」
 ぼそりとセイランは言った。
「大師の邪魔しちゃいけません。それぐらい知ってます。知ってますよ」
「セイランちゃん……」
 シュウは気遣わしげにこちらをのぞきこんでくる。その目を見つめ返して、セイランは飛び切りの笑顔を作った。
「シュウさんの言うとおり、今日はおやすみにします。何しようかな、あ、そうだ。寝るのがよさそうな気がしてきました」
「セイランちゃん、知ってると思うけどまだ朝だよ……」
「そうですわ、公主様。こんな天気のいい日に不貞寝なんておやめくださいまし」
 厨房からようやく戻ったレイレイが、セイランとシュウの前に湯気の立つ饅頭を置いて微笑んだ。
「せっかくなのですから、今日は遊びに出られたらいかがです? 大師のことも忘れて、ぱーっと羽を伸ばしましょうよ。それに、六僧通りで新しい芝居が掛かるって話を聞きましたわ。なんでも演目は『黒衣侠』だとか」
「なんか面白そうだねえ。セイランちゃん行こうよ。俺も見たいよ、そのなんとかって芝居」
「うーん……じゃあまあ、行ってみますか」
「お出かけですか。よろしいのではありませんかな。まあそれこそ大師の思う壺ですがなあ」
 足元から声が上がった。一同が卓の下を覗き込むと、カンペイがむき出しになった腹をかきながら歯をむき出している。
「まあ凡愚の公主におかれましては、事の次第が分からぬほうが幸せかもしれませんが」
「どういう意味ですか!」
「公主が出て行けば厄介払いになるということですぞ。そんなことも言わねばわかりませんかな」
「なんてことおっしゃるんですか! 厄介払いだなんてひどすぎじゃありませんの」
「そうだよカンペイさん、厄介払いってちょっといいすぎじゃない?」
「ぶふふ、凡愚の考え休むに似たりですなぁ。状況をかんがみれば、大師が何故公主を遠ざけたかなど火を見るより明らかだというのに。公主には無理としても、シュウ殿には分かっていただけると小生は愚考しますぞ」
「なになに、どういうこと?」
「ほっほっほ、小生が見抜いた真相をご披露したいのは山々なれど、生憎小生腹が減っておりましてなあ」
 セイランはため息をつくと自分の皿をとり、寝そべるカンペイの腹の上にそっと置いた。カンペイの腕がひとなでしたかと思うと饅頭は消え去り、もごもごと満足げに顎を動かしながらカンペイが指を振った。
「では申し上げましょう。大師がセイランさまを遠ざけたのは、一人でゆっくり躍書を楽しみたかったからなのです」
「知ってますよ。邪魔が入ったら書にとりこまれるかもしれないんでしょ」
「それは表向きの理由でしょう。まったくどこまで騙されておるのやら」
「なんですか、騙されてなんかないです」
「ここまで言わぬとなりませんかな。つまり、躍書の中身についてですが。小生の聞くところによると、件の妖書だかなんだかは色本の類だそうではないですか」
「ああ、なるほどねぇ」
 シュウがぽんと手を打った。合点がいかず首をひねるセイランに、シュウは困ったような目を向ける。足元でのたうつカンペイは満面のしたり顔である。
「ではご説明申し上げますか。あのよくわからん顔の仙人とて、男であることは間違いありますまい。お楽しみが手に入ったなら、こっそり楽しみたいと思うのはオスの本能! しかも仕事にかこつけて行えるとなれば励んでしまうのも致し方ない。口ではやれえらそうなことを言っておきながら、結局その行動は下半身によって操縦されておる。大師もまた、一人の男であったのだとこういう次第ですぞ」
「いいなあそれ。俺もエロ本眺めるだけでお金もらえる仕事に就きたいなってずっと前から思ってたんだ」
「小生もです。気が合いますな!」
「こっちでも男の夢って同じなんだねえ」
「ですなぁ」
 わははははと笑い交わす二人の下卑た顔を見ているうちに、言葉の意味がセイランにもしみこんできた。大師が色本を楽しむためにセイランを遠ざける。そのために、セイランを足手まとい扱いする。さも心配するような事を言っておきながら、その裏では独りよがりな欲求しかない。カンペイは大師をそういう存在だと言っているのである。あまりにもあまりな言い草である。セイランは言葉を失った。
 床に寝そべったカンペイのしたり顔を眺めているうちに、冷え切った心が急速に熱を帯びてきた。何か投げつけるものはないかとセイランが視線をめぐらしたその瞬間、横合いから振り下ろされた皿がカンペイの顔面を直撃した。
「めふぅ!?」
 顔を押さえてのた打ち回るカンペイの脇では、皿を構えたレイレイが第二撃を打ち込もうとしていた。ごろごろと転がってかわそうとするカンペイの衣を踏みつけて拘束しながら、
「なんてことおっしゃるんですかこの豚! 恥を知りなさい!」
「な、なんだお前、主人に逆らっていいと思ってるのかこの使用人風情が!」
「勘違いもほどほどになさいまし! 私の主人は公主様ただお一人ですわ! あなたに命令される筋合いなんてございません。これまでは公主様のお客様あつかいということで我慢してまいりましたが、今日という今日は限界ですわ! 大師を侮辱した上に公主様まで凡愚よばわりして!」
「事実だろうが! それにな、こんな行儀のいい客もおらんのだぞ? お訪ねくださってありがとうございますと涙を流して迎えるのが至当というものだろうが! そうですよね公主、はいと言えはいと!」
「大体前から気に食わなかったんです! そのでっかい口を開くたびに痰だのよだれだのこぼして! 今寝そべってらっしゃるその床も、一体誰が掃除すると思って!?」
「そりゃお前だろう、使用人の仕事はそういうものだろうが。それに、鋭い舌鋒からは澄んだ雪解け水が滴り落ちるという言葉を知らんのか! おい、さっさと脚をどけんと首にするぞ。ですよね公主?」
「公主様!」
「は、はい」
「私、塩を取ってまいります。ので、公主様はこちらをお願いしますわ」
 あっけに取られているセイランの手を取ると、レイレイは皿を握らせて力強く頷きかけた。
「公主様、くれぐれもこんな豚の言うことになんか耳を貸してはいけませんわ。私の分までどーんとやっちゃってくださいまし。シュウ様もお手数ですがお手伝いを」
 そのままレイレイは足音も高く厨房へと走り去った。セイランとシュウは互いを見交わすと、足元でもがくカンペイをともに見下ろした。もがくうちに自分の衣に絡まり、まるで袋につまった猫のような有様でうめき声を上げるカンペイと持たされた皿とを見比べて、セイランはなんとも途方にくれた気分を味わっていた。シュウもまた、それは同感のようであった。
「ええと……」
「気が進まないねえ。どうするセイランちゃん、一発いっとく?」
「ぷふぁ! 絶対拒否! 暴力で解決できる問題なんて何一つありませんぞ! 召使の教育はアレでも、公主には慈悲の心が備わっていると小生愚考しますぞ! だからほら、その皿を置きなさい! 置かないとひどい目にあいますぞ! 小生がひどい目にあうなんて世界の損失ですぞ!」
 ようやく顔を出したカンペイが唾と痰とを吐き散らす。セイランは手を出しかねて皿を置いた。怒りはすでに冷め切り、なんともいえぬやるせなさばかりが残る。何を言われても相手するほうが空しくなる。そういう手合いがいることをセイランはすでに学んでいた。それに、なるほど大師を侮辱されたのは腹が立つが、面白い見方であったことも間違いない。色事に目を血走らせる大師を想像して、セイランは思わず笑みをこぼした。
 ――あんなにまじめなのにね。考えただけでお笑いです。
 冷え切った心に、小さな明かりがともる。改めて皿を持ち直すと、セイランは飛び切りの笑顔でカンペイににじり寄った。
「カンペイさん、一応お礼いいますね」
「は? ああ、何のですかな?」
「ちょっとすっきりしました。鬱憤晴らしに協力してくれてありがとう」
「小生別に協力する気など――は、まさか本当にやる気ですか! わ、わわわ、おやめくだされ、恨みますぞ!」
「ごめんなさーい」
 中々に小気味よい音であった。




 いつのまにやらともに出かけることになっていたレイレイとシュウとを見送り、ほうほうの体で逃げ出したカンペイを見なかったことにすると、セイランは大師の部屋へとあがっていった。
 邪魔になるだけであることはもう納得していた。今セイランの頭にあるのは、純粋な好奇心である。
 ――潜書はできなくても、やってる人を見学するのは別にいいですよね。
 とんとんとんと調子よく階段を登り、廊下を進んで一番奥の部屋を目指す。目に入る扉にはあいも変わらず『禁』の文字が輝き、その下ではテンコウが寄りかかってすうすう寝息を立てていた。大師を苦手とするテンコウには珍しいことである。脇にしゃがみこみ、背中をかいてやりながら、セイランはテンコウに呼びかけた。
「どうしたんですかテンコウ、番犬ごっこですか?」
 テンコウはむひゃーと鳴くと、扉に体を擦り付けてよだれをこぼす。セイランは思わず微笑んだ。世の中で最も番犬に向かない犬がいるとすれば、それはテンコウのような犬に違いない。こんどは腹を撫でてやっていたセイランは、ふとテンコウの毛並みに目を留めた。ふわふわの綿毛が、わずかになびいている。
「テンコウ、なんか風が出てますよ?」
「みゅひー」
 テンコウはこう見えて風精である。その身から風が噴出したところで特に不思議はない。だが、セイランには何かが気にかかった。テンコウを抱えて扉から離してみると、その原因が明らかになった。テンコウは身をよじってセイランの腕を抜け出したかと、再び扉の下に張り付いて寝そべるのだ。セイランはこれと似た様子を見たことがあった。建物の間の細い隙間に挟まって、間を吹きぬける風を気持ちよさそうに味わうテンコウの姿である。まねしたせいで抜け出せなくなり、大騒ぎになった記憶があった。
 セイランはためしに、扉の隙間に手を当ててみた。手のひらにわずかな風が感じられる。大師が窓を開けているのかと考えて、セイランは窓が閉まっていたことを思い出した。
 ――じゃあ、一体これはなんでしょう?
 まるで部屋の中で風が巻き起こっているかのような現象である。考えられる原因は一つしかなく、故にセイランは頭をひねった。書を読むぐらいで、風が巻き起こるものだろうか?
 ――案外あるのかもしれません。
 セイランの脳裏にあるのは、この地を訪れることになったきっかけの事件である。あの時は逃げ出した書の勢いで巻物の山が崩れるほどだった。ならば、いま大師が読んでいるという書もまた、大暴れしているのかもしれない。読むのは不得意だという大師が手を焼きながら文字を押さえつけているのかもしれない。あるいは、大師自ら大立ち回りも。
 ――見たいです。
 中をのぞこうとしてセイランが扉の隙間に顔を貼り付けた、まさにそのときである。
 どうっと音を立てて、扉が揺れた。おもわず体を引いたセイランの眼前で、扉がなおも大きく震える。まるで内側から何者かによる体当たりを受けているかのような有様である。テンコウもまた身を震わせ、飛びずさって口を大きく開けている。テンコウとセイランが目を見合わせているうちにも揺れは収まらない。化と思えば突然揺れは止まり、静寂が戻った。セイランはしりもちをついた。
「な、なんですか、今の」
 恐る恐る扉に触れても、何も起こらない。こわごわと伸ばしたセイランの指をさえぎるように、『禁』の躍字が扉を滑った。刺すような痛みがセイランの指先に走ったが、どうにも力の足りない。眉をしかめるセイランの前で、『禁』の字は激しく発光したかと思うと、自らの中に折りたたまれるようにして消え去った。
 扉は依然、沈黙を守っている。なんとも不気味である。
 セイランは字に刺された指と、詰まらなさそうなテンコウとを見比べた。テンコウは興味を失ったらしく、廊下を歩み去ろうとしている。その尻尾を掴んで引き寄せると、セイランはテンコウの顔を掴んだ。
「テンコウ、あの、さっきみたいな揺れ方ってずっとしてたんですか?」
 テンコウはへっへっへと息をつき、やがて首を振った。
「さっきだけですか? 大師がここに入ってからずっと、風みたいなのが吹いてたんですよね?」
 テンコウは扉とセイランを見比べるとうなずいた。その体がセイランの腕をすり抜け、テンコウはどさりと音を立てて床に落ちる。もう一度やってと足元にまとわりつくテンコウを適当にあしらいながら、セイランは思案した。
 ――何かやな感じです。
 『禁』の字が消え去ってしまうというのはどういうことか。用が済んで扉を閉めておく必要がなくなったのか。それにしては、大師が部屋から出てくる様子もない。消すつもりもないのに消えてしまったということか。セイランの脳裏に、大師に習ったある詩がよぎった。出征した兵士が妻の元に自分の字を残していき、妻は毎日それを夫と思って大事にしていたけれども、ある日字が薄れて消えてしまって妻は夫の死を知るという内容だった。
 死ぬと、字が消える。
 書に取り込まれたらどうだろう? 意識がなくなって起き上がらない。それは死んだも同然のことでは?
「大師!」
 いても立ってもいられなくなり、セイランは扉を蹴飛ばすようにして開いた。中に飛び込んだセイランを出迎えたのは、部屋中を飛び回る黒い塊だった。ぶんぶんと音を立てる躍字の一つがセイランに体当たりを仕掛け、セイランは目を庇いながら大師を探した。もやのように視界をさえぎる躍字の群れの向こうに、すっくと立つ大師の姿があった。
 尋常の様子ではなかった。大師は脈打っていた。
 大師の輪郭が次々にゆがみ、固まり、と思えばぱっと一部が飛び出してまた戻っていく。それがすさまじい速さで繰り返される変身だと見て取り、セイランは息を呑んだ。大師はまるで万華鏡のように明滅しながら、片手で持ったちいさな書物に懸命に目を凝らしているようだった。その足元では、異世界の服に身を包んだワン氏が倒れている。無音の嵐のように飛び回る躍字たちを全身に打ち付けられながらぴくりともしていない。張り詰めた空気の中で、大師の口から漏れる低い詠唱だけが聞こえている。
 あまりにも常軌を逸した光景にセイランはすくんだ。いまや抱いていた甘い期待は完全に吹っ飛び、セイランは大師の言い分が完全に正しかったことを理解していた。これはセイランごときが脚を踏み入れてよい領域ではなかったのだ。
 立ちすくむセイランをよそに、大師の詠唱は続いていく。その後頭部には、いつの間にかいくつもの眼が生じていた。ごそごそと動き回りながら書を追いかけ、一文字一文字を読み取っているのだ。大師の工夫に、セイランは諦めにも似た驚嘆を覚えてため息をついた。
 と、動き回る眼の一つがセイランを捉えた。驚きのあまり開かれた眼がぱっと閉じられると、眼は毛並みの中にもぐりこんで消える。首をめぐらした大師がセイランを見つけてうめき声を上げた。
「公主様……」
「ご、ごめんなさい大師。その、心配で」
「早くお下がりください!」
 部屋の空気が変わった。隙をうかがうように大師の周囲を飛び交っていた躍字たちが急に動きを早めたかと思うと、大師を押し包むように集まり始めた。応ずるように大師が身を縮めると、大師の体がめまぐるしく形を変え始めた。一時たりとも決まった形を取らぬ雲のような大師の体の中で、わななく口だけが位置も形も変えない。それこそは、セイランの見慣れた大師の口元だった。
「公主様! 早くお下がりください!」
「でも!」
「私なら大丈夫です。さあ、早く! 私がひきつけている間に外へ――」
 ガクガクとうなずいて後ずさったセイランの背が、ふと何かに突き当たった。恐る恐る振り返ったセイランは、そこにあるべきものを見失っていた。部屋の入り口はもはや存在していない。代わりにあるのはまるですだれのように垂れ下がった躍字の列が、見る間に濃度を増していくさまばかり。大師に眼を戻すと、大師は何本もの腕を生み出していた。その手のひらに金色の輝きが生まれる。神の炎、金炎だ。空を走った輝きが飛び交う躍字を飲み込み、躍字はまるで虫のように焼き落とされていく。ぱっと距離を取った躍字の群れは隙をうかがうように大師の周りをうろつきまわり、セイランはその一部始終から目を離すことが出来ずにいた。瞬きしてもそれが消えない。それが、まぶたの裏に這いこんだ躍字のためだと知ったセイランは絶叫した。視界の隅から何かが広がってくる。大師が文字を焼き落とし、文字が無音の叫び声を上げ、大師の腕がセイランめがけて伸ばされ――
 爆発的に広がった躍字が、セイランの意識を刈り取った。
(続く)


 但し書き
 文中における誤りは全て筆者に責任があります。
 独自設定についてはこちらからご覧ください。


  • ぷりぷりしているセイランの子供らしさと他人を気遣う器を持っていると感じる冒頭。国や常識を把握しきらない旅行者が空気をあまり詠まない性格だと問題も多そうで…テンコウの笑ってしまう本能から繋がる展開というのも上手いと思いました。急転直下で次回が楽しみです -- (名無しさん) 2014-06-08 17:35:39
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最終更新:2012年05月02日 14:32