見たこともないほど美しい顔に、セイランは思わず見ほれた。
抜けるように白い肌に、鮮やかな口紅。イタズラっぽく微笑む瞳は深い水の色をたたえ、結い上げた金色の髪の一部は流れて尖った耳に掛かる。延人とは違う、さりとて異世界人とも違う顔立ち。異国の姫だ。
「はじめまして、公主様。私は『英姫亭遊』、人物としての名はエリスです。お近づきになれて光栄ですわ。エリスとお呼びくださいな」
優雅な動作で一礼し、太陽のように微笑む。エリスはするすると歩んで長いすに腰を下ろすと、セイランにも座るように促した。穏やかな所作の一つ一つあちらこちらで、露出した肌がちらちらときらめく。セイランは思わずエリスから眼をそらし、恐る恐る長いすに腰を下ろした。エリスがおかしそうに口元を隠した。
「ごめんなさいね、公主様。これでも精一杯厚着しているつもりなのですけれど。私は
エリスタリアの
エルフを描き出した書ですの。エリスタリアでは、エルフはこのような格好をしているものだそうなのです。もっとも、一度も行ったことはない書家に書かれたので想像も混じっておりますけどね。お目こぼし願えれば幸いですわ」
「は、はい」
「本来ならもっとちゃんとしたおもてなしをしたかったのですけれど、なにぶん私は殿方をお迎えするように書かれていますわ。ですから、もてなし方といったら一つしか知らないのです。でも公主様のようなお方にはお気に召さないかもしれないと思って、他のやり方を試してみたんですけれど。偽装するつもりなんてありませんのよ。前にも、綺麗な方がいらしたんだけど、なんだか同じようにして怒らせてしまったみたいで。お恥ずかしい限りですわ」
「え? 綺麗な人って、狐人の」
「綺麗な方でしたわ。ちょっと表情が冷たいのが玉に瑕ですけれど。女の私から見てもため息が出てしまうほど美しい方」
「あの、ヒョウセイさんって言うんです。隊長さんです」
「あら、男勝りなのね。お近づきになりたかったですわ。どうも粗相をしてしまったようで心残りなことといったら。あ、公主様、よろしければ、私からのお詫びをお伝えいただけないかしら?」
「え、あ、はい。わかりました」
「まあ、ありがとうございます」
エリスがセイランにすりよるとセイランを抱きしめた。若草のような香りと密着した素肌の体温に包み込まれ、セイランはわけもわからずどぎまぎした。
「あの、分かったです。分かったから、離れてください」
「あら、これは申し訳ありません。ご迷惑でしたかしら」
「そんなことないですけど、その、お話が出来ません」
「ごめんなさいね。どうにもくっつくのが習い性になってしまっていて。それに、公主様は抱き心地がよろしいですわ」
エリスはくつくつと笑い声をもらす。セイランは頬をはたいて気を落ち着かせると、
「あの、さっきから言ってますけど、私はここに人を取り返しにきたんです」
「まあ、そうでしたの。てっきり無理やり引きずり込まれたものだとばかり」
「引きずり込んだって、引きずり込んだんですか? そうです、引きずり込まれました! 自覚あったんですか!」
「ええ、だって命の危機でしたもの。金炎で焼かれそうになって、思わず人質を取ってしまいましたわ。ごめんなさいね」
セイランは脱力した。あくまで人のよさそうに見えるエリスだが、どうにも一筋縄ではいかないようである。
「あんなに暴れてたら大師だってびっくりしますし、警戒すると思います。私だって、最初見たときは妖怪だと思いました」
「あの殿方、ご尊名は大師っておっしゃるの? まあ、素敵なお名前ね。ぜんぜん心を開いてくださらなかったから、お名前も伺えなかったの。誓って申しますけど、悪気はなかったのよ。あんまりつれなくされるんですもの、つい意地になってしまって」
「え、じゃあ取り込もうとしてたわけじゃなかったんですか?」
「取り込もうとしてましたわよ? ただ、もうちょっと穏便にお越しいただくつもりでしたけど。実際には、あの通り取り付く島もありませんでしたわ。それがもう悔しくって。正直、殿方のことなら手玉に取れる自信がありましたのよ、どんな堅物でも」
「大師は手玉に取れないと思いますよ、だって仙人です」
「あら、自慢じゃありませんけど、私、仙人のお相手したこともありますのよ。たしかに、もうちょっと能天気な方でしたけど」
「大師は全然能天気じゃないです。すごくまじめです」
「そういう方をとろかすのがいいんじゃありませんか」
「……よく分からないです」
「そうですわね」
エリスはころころと笑い声をあげた。柔和に微笑む口がきゅっと結ばれ、生真面目な表情を形作った。
「それで、誰かを取り返しにいらっしゃったとのことですけれど」
「そうです。さっきからはぐらかされてばっかりです」
「はぐらかすつもりなんてございませんわ。こんなにきちんと名前を名乗っていただいたのなんて初めてですもの」
「そうなんですか?」
「ご自分のお名前をお見せくださったでしょ?」
エリスがセイランの指輪を指差し、あきれたように口の端を吊り上げた。セイランが指輪を示すと、エリスはセイランの指ごと手のひらで包み込んだ。
「私が申し上げるのもなんですけど、あまりあけっぴろげにするのも考え物ですわよ。知らない相手に名乗るときには、よくよく考えてからになさいな。特に書の中では、ね。私がその気になれば、公主様を害することだってできるんですから」
「……気をつけます」
「そんな顔なさらないで。私はうれしかったですわ。信用していただいたってことですもの。例の大師様と違って」
ぺろりと舌を出したエリスが手を一振りすると、その手に鏡が現れた。セイランが鏡を覗き込むと、再び寝そべるワン氏の姿が写っている。
「でもどうかしら。この人、帰りたがらないかも知れませんわ」
セイランの脳裏を、あの恐るべき叔母の姿がよぎった。
「そ、それはそうかもしれないですけど」
「なら、無理強いしないほうがいいんではなくて?」
「ダメです。体が弱っちゃいます。それに、待っている人がいるんです」
「待ち受けている人、の間違いではなくて?」
「……それであってますけど、とにかく返してあげてください。お外で大騒ぎになってるんです」
「ですから、本人が帰りたがらなかったら? 私は無理やり引き止めているわけでも何でもありませんのよ。出て行きたいなら、別に邪魔立てなんてしませんわ」
「うう~。じゃ、じゃあ会わせてください。本人の意見を聞きたいです」
「ええ、でしたら――」
「手間を省いて差し上げましょう!」
怒気に満ちた声が、あたり一面にとどろいた。
周りに立ちこめる霧が揺らめき、金色の筋が何本も走った。まるで紙が焼けるように霧が破れたかと思うと、その向こうには裸の異人がしりもちをついて後ずさっている。傍らに立つ異相の仙人に、セイランは思わず歓声を上げた。
「大師!」
「公主様!」
進み出た大師の握りこぶしから金炎がもれる。身を引いたエリスとセイランとの間にすばやく割り込むと、大師は金炎を突きだした。
「妖書よ、異人を取り込むのみならず、公主まで手にかけるか」
「大師、ちょっと待ってください、悪い人じゃないみたいですよ」
「人ではありません。気を確かにお持ちください」
「でもエリスさんが――」
「もう結構です公主様。エリスとやら、公主とワン氏とを貰い受けていく。邪魔立てするなら容赦はしない。一文字残さず焼き尽くしてくれる!」
エリスは曖昧に微笑むばかりである。さっと差し出された手がひねられると、大師の背後で呆然としゃがみこむワン氏に虚空から生じた毛布が投げかけられた。大師は油断なくエリスを見張りながら、ワン氏に向けてさっと手を一振りした。
「ワン氏ですな? 迎えに参りました。さあ、ここから出ましょう」
「い、いやだ」
「なんと?」
大師が眼を剥いた。
「私は帰らないぞ!」
「助けに来たのです」
「嘘だ! 私のエリスにひどいことをしているじゃないか! 信用できるか!」
「これは妖書なのです! あなたに害をなしているのですよ」
「なんだろうがなんだろうが知ったことか! 現実には帰らないぞ! お前は何にも知らないだろうが私には叔母がいるんだ。きっと前世で祖先が何かした報いに違いないってそういう叔母が!」
「存じています。その叔母様の依頼を受けてきたのです」
「叔母の手先ってことじゃないか! どうせ叔母に引き渡すつもりなんだろう? 自分がどれだけ無慈悲な事をしようとしているのか分かっているのか! 情けがあるならほうっておいてくれないか!」
エリスが嫣然と微笑み、悠々と歩むとワン氏のそばにしゃがみこんだ。ワン氏は泣きじゃくりながらエリスの膝にすがりついて泣き始めた。大師が困り果てたようにワン氏とエリスとを見比べ、拳を開いた。金炎が消えうせ、手のひらはだらりと開かれるばかりである。セイランはといえば、ワン氏の言葉を反芻していた。
――叔母さんがいるから、現実には帰らない。
ふと、セイランの心に閃くものがあった。
「あの、大師」
大師がセイランを見返し、首を振った。
「公主様、申し訳ありません。かくなる上はせめて公主様だけでもお救いせねば」
大師の全身から金炎が噴出した。飛び出した火炎が触れるもの全てを焼き焦がしていく。
「大師! 何をする気ですか」
「全てを焼きます。ワン氏が生きて帰れるかどうかは保障できませんが、他に方法がありません」
「止めてください!」
セイランは大師に抱きついた。金炎の勢いは止まらないが、セイランを焼くことはしない。わずかに暖かい金炎にくすぐったさを感じながら、セイランは大師に必死に訴えかけた。
「大師、いまちょうどいいところだったんです。私に任せてください。きっと、説得して見せます。今のでちょっと説得できそうな気がしてきたんです」
金炎が、止んだ。
セイランを見下ろす大師の表情は硬く、エリスをにらみつける眼には怒りが宿っている。それでも、大師は金炎を引込めていた。セイランは大師にぺこりと頭を下げると、身を硬くして見つめるワン氏のそばにしゃがみこんだ。
「あの、こんにちわ。私はセイランっていいます。あの人の仲間なんですけど」と大師を指差し「あの、あなたは、叔母さんと会うのがいやになって、こっちの世界に来たんですよね?」
ワン氏が頷いた。
「それで、この書の中に逃げ込んだ。逃げ込んだって事でいいですよね?」
ワン氏が再び頷いた。
「逃げ込んで、エリスさんと一緒にいて幸せですか?」
ワン氏が三度頷き、エリスを抱き寄せた。セイランはエリスに向き直った。
「あの、エリスさん、ワンさんが来て、エリスさんは受け入れてましたよね? 私や、大師のことも」
「押し入ってこられた方もいますけど」
「じゃあ、何かの間違いでこの人の叔母さんがエリスさんのところに来たらどうなりますか? 『英姫亭遊』を読んだら?」
「止めろ! そんな不吉なこと口にしないでくれ!」
ワン氏が悲痛な叫び声をあげ、その一方でエリスは思案顔になった。
「どうなりますか?」
「かくまってくれるんだろう?」
「そうしてあげたいのは山々ですけれど、私に書かれているのは私自身と、この東屋についてだけです。かくまってあげるといったって限度があるかも知れませんわ」
途方もない裏切りに会ったといわんばかりにワン氏が宙を仰いだ。セイランは勢い込んで言葉を継いだ。
「じゃあ、叔母さんがここに入り込んできたら逃げられないし、入り込んでくるのを止める方法もないって事ですか?」
「そういうことになりますわね」
セイランはワン氏に向き直った。魂の抜けきったような有様のワン氏に指をふって注意をひきつける。
「あの、もううすうす気付いているかもしれないですけど、私たちが外の世界に帰って、叔母さんに知らせたら、ワンさんここにいたら逃げ場ないですよ。しょっちゅう逃げてる私から言わせると、隠れるのはいいですけど、ずっと同じところに隠れるのは最低のやりかたです。絶対見つかっちゃいますよ」
ワン氏の全身がわなないた。かと思うと、ワン氏はエリスを抱き寄せてセイランたちを指差した。
「エリス! こうなったら篭城するしかない! こいつらを捕まえてくれ!」
「出来ませんわ」
あっけらかんとエリスが言う。
「無理にお引止めすることは趣味じゃありません。どうせなら心から求めていただきたいですもの。それに、あのお方の炎をさえぎることも出来ませんし」
エリスがひらひらと手を打ち振ると、大師は応ずるように炎を閃かせた。絶望のうめき声を上げるワン氏に、セイランは微笑みかけた。心に浮かんだ渾身の名案が、セイランの笑顔を輝かせていた。
「あの、それで、ちょっと提案があるんです。逃げることには自信がある私からの、ちょっとしたお手伝いです。まずですね――」