【眇眇公主 五】

 笑いさざめくような声が、セイランの耳をひとなでした。
 眼を開けば、飛び込んでくるのは白木の床だ。磨き上げられた床材はひんやりとして冷たく、しかし手触りは不思議と柔らかい。体を起こしながら、セイランは目をこすった。
 ――ここは。
 セイランの脳裏に、押し寄せてくる躍字が閃いた。はっとして耳を立て、あたりに視線をめぐらす。あたりは乳色の霧に満ち、自分の足元より他には何も見ることが出来ない。霧を掻き分けようとすると、セイランの手にわずかな手ごたえが返った。手が湿ることもなく、わずかな温かみさえ感じられる。当たり前の霧ではない。
 ――書の中なんですね。
 茫漠とした景色の中で、セイランは座り込んだ。躍書に潜ったのはこれが初めてであり、中に何が待ち受けているかは想像するほかない。セイランはひとしきり駆け回り、全く代わらぬ周囲の光景に肩を落とした。この書に何が記されているにせよ、あまり派手な内容ではなかったらしい。セイランは途方にくれた。
 と、霧の向こうで何かが動いた。
 眼をやったセイランの視線の先で、人型の影がたたずんでいる。その手が伸び、おいでおいでをするように動いた。セイランが瞬きをした隙に、人影は三つに増える。どこからともなく取り出した楽器を爪弾き、奏でられた華麗な旋律に乗って影たちが歌いだした。異国を感じさせる不思議な歌詞は意味の分からぬ物ながら、聞くものを誘いかける響きも帯びている。セイランは思わず引き寄せられた。見る間に影は数を増し、代わりに霧が晴れていく。いつの間にか、セイランは池に囲まれた東屋のような場所へと踏み込んでいた。笑いさざめく女たちの影がセイランの周りで舞い踊り、手拍子をとってセイランを東屋へと案内していく。設けられた長いすに腰を下ろすと、進み出た影がセイランのとなりに腰掛けた。わずかな薄絹しか身につけていない女のほとんど裸に近いような姿の中で、顔ばかりは被り物によって隠されている。顔立ちも種族も知れぬ女はセイランを抱き寄せると、体を預けさせてセイランの頭を撫でた。やさしい手つきと伝わってくる体温が心地よく、セイランはぼんやりと異国の歌に耳を傾けた。恐れや不安はすでにして消え去っている。影の奏でる音楽と舞の美しさに、セイランはここが書の中であることすら忘れそうになった。
 ――悪い本じゃないのかも。
 尻尾の毛並みをやさしく繕ってくれる女を見上げながら、セイランはぼんやりとそんなことを考えた。格好こそ肌を露出しすぎて気恥ずかしくなるようなものだが、敵意は全く感じられない。それどころか、セイランをもてなそうとしているようにも見える。顔を隠す被り物の隙間からのぞくのは微笑みかける口元だ。抜けるように白い肌の美しさは、まるで真珠にも似ている。同性ながらセイランは見ほれていた。その被り物に手をかけて、顔を見たくなる衝動が湧き上がってくる。セイランが手を伸ばそうとすると、女はそれを優しく制する。
「意地悪しないでください。ちょっとだけ、ちょっとだけ見たいです」
 セイランの懇願にも女は首を振るばかり。セイランがさっと被り物に手をかけようとしてもするりと抜ける。しばし攻防とも呼べぬじゃれあいを繰り広げた末、セイランはふてくされて腰を落ち着けた。
「別に、いいじゃないですか。ちょっとぐらい見せてくれたって。私はこの書を読みたいですよ。だから、意地悪しないで――」
『書は私を受け入れませんでした』
 セイランははっとなった。そうだ。ヒョウセイもまた、この書に潜ろうとしたのではなかったか。そして、失敗したとも。その時、ヒョウセイは何を見たといっていただろうか。確か――
「……偽装した内容を読ませる、二段構えの、つくり」
 思わず口を付いて出た言葉に、女たちが動きを止めた。ぴんと張り詰めた緊張感の中で、セイランはすっと立ち上がり、こちらに背を向けようとする女の正面に回りこもうとした。
「隊長さんが言ってました。この書は罠を張るって。読んだ人に、最初は本当のことを言わないんだって」
 長いすの周りを駆け回り、東屋の柵に飛び乗り、セイランは必死で女の正面を取ろうとした。それがうまくいかず、セイランは周りの女たちに視線をやる。楽器や踊りを披露していた女たちは皆身を引き、池の水面からはさっきまで立ち込めていた乳白色の霧が復活し始めていた。たちまちのうちに、東屋は乳の海に浮かぶ島のようになってしまった。焦りを覚えながら、セイランはなおも女の周りを駆け回った。
「ほんとうの事をいいなさい! 捕まえてる異人さんがいるはずです。返してください!」
 女が困ったように首をかしげ、やがてぽんと手を打った。一枚の鏡をどこからともなく取り出すと、セイランに示す。セイランが警戒して近づかずにいると、女はころころと鈴を鳴らすような笑い声を上げて鏡の表面をひとなでした。さざめいた鏡面に、やがて像が浮かびあがった。女の膝を枕として、幸せそうに眠る異人の姿である。セイランはそこに、探していた異人の姿を認めた。
「そうです、この人です! 私はこの人を連れ帰しに来たんです。さあ、この人を返してください」
 セイランが詰め寄り、だが女は首を振った。
「どうしてですか! そんなに返すのいやですか!」
 女は答えず、ただセイランを抱き寄せる。身を硬くしたセイランの耳元に息を吹きかけ、驚いて身じろぎするセイランの様子を見てまたころころと笑い声を上げる。一言も発さず、被り物も脱がず、ただセイランを撫で回すばかりである。
 ――話にならないです。
 セイランはじれた。一体、どうすればこちらの話を聞き入れてもらえるだろうか?
 ――大師なら、一体どうしたでしょうね。
 セイランは大師の姿を思い浮かべた。めまぐるしく姿を変えつづけ、最後には金炎で書を焼こうとしていた大師。もう書を焼いてしまったのだろうか? いや、それならば書の中に取り込まれている自分もただではすまないだろう。きっと、セイランが取り込まれてしまったせいで手を出せずにいるのだ。ひょっとすると、大師自身も捕まっているのかもしれない。セイランは暗澹たる気分になった。
「あの、大師も来てたら返してください」
 女が首を振った。ひらひらと打ち振った手を虚空にかざし、また先ほどの鏡を取り出す。映し出されたのはこちらを覗き込む大師の顔だ。ぼんやりとぼやけたように見えるのは一時も姿が定まっていないためだ。濁流のように荒れ狂う顔のなかで、ただ二つの眼だけが燃え盛っている。セイランの目に映る大師は怒り狂っているように見えた。
「ごめんなさい、大師……」
 セイランは大師に頭を下げた。どうやら大師にはセイランが見えていないらしく、眼の険しさは変わらない。ころころと笑う女が鏡を消し去り、セイランの顔をうえから覗き込んだ。
 どうにも話が進まない。手玉に取られている。
「どうすればいいですか……」
セイランは頭を抱えた。女はひたすらセイランを抱え込み、あやすような異国の詞を歌っている。焦点の定まらぬ思考を必死につなぎとめて、セイランは打開策を探そうとした。どうすれば、書に受け入れてもらえるだろう?
『私は書は苦手なのです。流れる砂に字を刻むことが難しいように、躍字は私に意味を載せることが出来ないのです』
 ――流れる砂。
 セイランは書を読んでいた大師の姿を再び思い浮かべた。あの変身は一体何のためだったのだろう? ただ読むだけなら、あんなことはしなくていいはずだ。あれはまるで、まるで――
 ――身を守っているみたいです。
 次から次へと違う姿をとると、躍字から身を守れるのではないだろうか? 逃げたり動いたりする文字が読みづらいように、付け入る隙を少なくしてくれるのでは? 大師が書を読もうとしている間、躍書もまた、大師を読もうとしていたということになりはしないか。
 こくり、と女が頷いた。セイランは驚き、女の顔を凝視した。
「あなたも、わたしのことを読んでいるんですか? 私が、あなたのことを読んでいるみたいに」
 また女が頷いた。女はセイランから離れると、膝を突いてセイランの顔を正面から覗き込んだ。花のような香りがセイランの鼻を撫でる。被り物に手をかけた女が、思いなおしたように手を戻した。困ったように、試すように、女はセイランと相対している。セイランもまた、女の顔を見返した。理解が、セイランの中ではじけた。
「まだ、私のことがよくわからないんですか? だから、あなたも私に本当のことを教えられない。そういうことでしょう?」
 女は答えない。だが、セイランには伝わっていた。思った通りなのだ。どこかよそよそしいのは、セイランのほうが距離を置いていたせいなのだ。ただ自分のいいたいことだけいい散らすセイランをあしらおうとしたのだ。思えば、当然のことだった。何しろ、まだお互いに名も名乗っていないのだ。
 なすべきことは自明だった。
 セイランは折り目を正すと、懐から指輪を取り出した。刻み込まれた躍字、セイランのために生み出された文字の刻み込まれた公印だ。公印をかざすと、あたりを取り囲む霧にゆれが走った。被り物の下で、女が眼をみはる気配がした。
 指輪をかざし、セイランは高々と声を張り上げた。
「これが私です! 界門通関司長官のセイランです! さあ、あなたも名乗ってください! 本当の姿を教えなさい!」
 霧がセイランめがけて殺到した。全身をもみくちゃにされながらも、セイランは指輪をかざし続けた。霧が女の姿を覆い隠し、かと思うと強烈に発光して消えうせ――
「これはこれは、ご丁寧な挨拶、痛み入りますわ」
 女が、被り物を床に落として頭を上げた。



 見たこともないほど美しい顔に、セイランは思わず見ほれた。
 抜けるように白い肌に、鮮やかな口紅。イタズラっぽく微笑む瞳は深い水の色をたたえ、結い上げた金色の髪の一部は流れて尖った耳に掛かる。延人とは違う、さりとて異世界人とも違う顔立ち。異国の姫だ。
「はじめまして、公主様。私は『英姫亭遊』、人物としての名はエリスです。お近づきになれて光栄ですわ。エリスとお呼びくださいな」
 優雅な動作で一礼し、太陽のように微笑む。エリスはするすると歩んで長いすに腰を下ろすと、セイランにも座るように促した。穏やかな所作の一つ一つあちらこちらで、露出した肌がちらちらときらめく。セイランは思わずエリスから眼をそらし、恐る恐る長いすに腰を下ろした。エリスがおかしそうに口元を隠した。
「ごめんなさいね、公主様。これでも精一杯厚着しているつもりなのですけれど。私はエリスタリアエルフを描き出した書ですの。エリスタリアでは、エルフはこのような格好をしているものだそうなのです。もっとも、一度も行ったことはない書家に書かれたので想像も混じっておりますけどね。お目こぼし願えれば幸いですわ」
「は、はい」
「本来ならもっとちゃんとしたおもてなしをしたかったのですけれど、なにぶん私は殿方をお迎えするように書かれていますわ。ですから、もてなし方といったら一つしか知らないのです。でも公主様のようなお方にはお気に召さないかもしれないと思って、他のやり方を試してみたんですけれど。偽装するつもりなんてありませんのよ。前にも、綺麗な方がいらしたんだけど、なんだか同じようにして怒らせてしまったみたいで。お恥ずかしい限りですわ」
「え? 綺麗な人って、狐人の」
「綺麗な方でしたわ。ちょっと表情が冷たいのが玉に瑕ですけれど。女の私から見てもため息が出てしまうほど美しい方」
「あの、ヒョウセイさんって言うんです。隊長さんです」
「あら、男勝りなのね。お近づきになりたかったですわ。どうも粗相をしてしまったようで心残りなことといったら。あ、公主様、よろしければ、私からのお詫びをお伝えいただけないかしら?」
「え、あ、はい。わかりました」
「まあ、ありがとうございます」
 エリスがセイランにすりよるとセイランを抱きしめた。若草のような香りと密着した素肌の体温に包み込まれ、セイランはわけもわからずどぎまぎした。
「あの、分かったです。分かったから、離れてください」
「あら、これは申し訳ありません。ご迷惑でしたかしら」
「そんなことないですけど、その、お話が出来ません」
「ごめんなさいね。どうにもくっつくのが習い性になってしまっていて。それに、公主様は抱き心地がよろしいですわ」
 エリスはくつくつと笑い声をもらす。セイランは頬をはたいて気を落ち着かせると、
「あの、さっきから言ってますけど、私はここに人を取り返しにきたんです」
「まあ、そうでしたの。てっきり無理やり引きずり込まれたものだとばかり」
「引きずり込んだって、引きずり込んだんですか? そうです、引きずり込まれました! 自覚あったんですか!」
「ええ、だって命の危機でしたもの。金炎で焼かれそうになって、思わず人質を取ってしまいましたわ。ごめんなさいね」
 セイランは脱力した。あくまで人のよさそうに見えるエリスだが、どうにも一筋縄ではいかないようである。
「あんなに暴れてたら大師だってびっくりしますし、警戒すると思います。私だって、最初見たときは妖怪だと思いました」
「あの殿方、ご尊名は大師っておっしゃるの? まあ、素敵なお名前ね。ぜんぜん心を開いてくださらなかったから、お名前も伺えなかったの。誓って申しますけど、悪気はなかったのよ。あんまりつれなくされるんですもの、つい意地になってしまって」
「え、じゃあ取り込もうとしてたわけじゃなかったんですか?」
「取り込もうとしてましたわよ? ただ、もうちょっと穏便にお越しいただくつもりでしたけど。実際には、あの通り取り付く島もありませんでしたわ。それがもう悔しくって。正直、殿方のことなら手玉に取れる自信がありましたのよ、どんな堅物でも」
「大師は手玉に取れないと思いますよ、だって仙人です」
「あら、自慢じゃありませんけど、私、仙人のお相手したこともありますのよ。たしかに、もうちょっと能天気な方でしたけど」
「大師は全然能天気じゃないです。すごくまじめです」
「そういう方をとろかすのがいいんじゃありませんか」
「……よく分からないです」
「そうですわね」
 エリスはころころと笑い声をあげた。柔和に微笑む口がきゅっと結ばれ、生真面目な表情を形作った。
「それで、誰かを取り返しにいらっしゃったとのことですけれど」
「そうです。さっきからはぐらかされてばっかりです」
「はぐらかすつもりなんてございませんわ。こんなにきちんと名前を名乗っていただいたのなんて初めてですもの」
「そうなんですか?」
「ご自分のお名前をお見せくださったでしょ?」
 エリスがセイランの指輪を指差し、あきれたように口の端を吊り上げた。セイランが指輪を示すと、エリスはセイランの指ごと手のひらで包み込んだ。
「私が申し上げるのもなんですけど、あまりあけっぴろげにするのも考え物ですわよ。知らない相手に名乗るときには、よくよく考えてからになさいな。特に書の中では、ね。私がその気になれば、公主様を害することだってできるんですから」
「……気をつけます」
「そんな顔なさらないで。私はうれしかったですわ。信用していただいたってことですもの。例の大師様と違って」
 ぺろりと舌を出したエリスが手を一振りすると、その手に鏡が現れた。セイランが鏡を覗き込むと、再び寝そべるワン氏の姿が写っている。
「でもどうかしら。この人、帰りたがらないかも知れませんわ」
 セイランの脳裏を、あの恐るべき叔母の姿がよぎった。
「そ、それはそうかもしれないですけど」
「なら、無理強いしないほうがいいんではなくて?」
「ダメです。体が弱っちゃいます。それに、待っている人がいるんです」
「待ち受けている人、の間違いではなくて?」
「……それであってますけど、とにかく返してあげてください。お外で大騒ぎになってるんです」
「ですから、本人が帰りたがらなかったら? 私は無理やり引き止めているわけでも何でもありませんのよ。出て行きたいなら、別に邪魔立てなんてしませんわ」
「うう~。じゃ、じゃあ会わせてください。本人の意見を聞きたいです」
「ええ、でしたら――」
「手間を省いて差し上げましょう!」
 怒気に満ちた声が、あたり一面にとどろいた。
 周りに立ちこめる霧が揺らめき、金色の筋が何本も走った。まるで紙が焼けるように霧が破れたかと思うと、その向こうには裸の異人がしりもちをついて後ずさっている。傍らに立つ異相の仙人に、セイランは思わず歓声を上げた。
「大師!」
「公主様!」
 進み出た大師の握りこぶしから金炎がもれる。身を引いたエリスとセイランとの間にすばやく割り込むと、大師は金炎を突きだした。
「妖書よ、異人を取り込むのみならず、公主まで手にかけるか」
「大師、ちょっと待ってください、悪い人じゃないみたいですよ」
「人ではありません。気を確かにお持ちください」
「でもエリスさんが――」
「もう結構です公主様。エリスとやら、公主とワン氏とを貰い受けていく。邪魔立てするなら容赦はしない。一文字残さず焼き尽くしてくれる!」
 エリスは曖昧に微笑むばかりである。さっと差し出された手がひねられると、大師の背後で呆然としゃがみこむワン氏に虚空から生じた毛布が投げかけられた。大師は油断なくエリスを見張りながら、ワン氏に向けてさっと手を一振りした。
「ワン氏ですな? 迎えに参りました。さあ、ここから出ましょう」
「い、いやだ」
「なんと?」
 大師が眼を剥いた。
「私は帰らないぞ!」
「助けに来たのです」
「嘘だ! 私のエリスにひどいことをしているじゃないか! 信用できるか!」
「これは妖書なのです! あなたに害をなしているのですよ」
「なんだろうがなんだろうが知ったことか! 現実には帰らないぞ! お前は何にも知らないだろうが私には叔母がいるんだ。きっと前世で祖先が何かした報いに違いないってそういう叔母が!」
「存じています。その叔母様の依頼を受けてきたのです」
「叔母の手先ってことじゃないか! どうせ叔母に引き渡すつもりなんだろう? 自分がどれだけ無慈悲な事をしようとしているのか分かっているのか! 情けがあるならほうっておいてくれないか!」
 エリスが嫣然と微笑み、悠々と歩むとワン氏のそばにしゃがみこんだ。ワン氏は泣きじゃくりながらエリスの膝にすがりついて泣き始めた。大師が困り果てたようにワン氏とエリスとを見比べ、拳を開いた。金炎が消えうせ、手のひらはだらりと開かれるばかりである。セイランはといえば、ワン氏の言葉を反芻していた。
 ――叔母さんがいるから、現実には帰らない。
 ふと、セイランの心に閃くものがあった。
「あの、大師」
 大師がセイランを見返し、首を振った。
「公主様、申し訳ありません。かくなる上はせめて公主様だけでもお救いせねば」
 大師の全身から金炎が噴出した。飛び出した火炎が触れるもの全てを焼き焦がしていく。
「大師! 何をする気ですか」
「全てを焼きます。ワン氏が生きて帰れるかどうかは保障できませんが、他に方法がありません」
「止めてください!」
 セイランは大師に抱きついた。金炎の勢いは止まらないが、セイランを焼くことはしない。わずかに暖かい金炎にくすぐったさを感じながら、セイランは大師に必死に訴えかけた。
「大師、いまちょうどいいところだったんです。私に任せてください。きっと、説得して見せます。今のでちょっと説得できそうな気がしてきたんです」
 金炎が、止んだ。
 セイランを見下ろす大師の表情は硬く、エリスをにらみつける眼には怒りが宿っている。それでも、大師は金炎を引込めていた。セイランは大師にぺこりと頭を下げると、身を硬くして見つめるワン氏のそばにしゃがみこんだ。
「あの、こんにちわ。私はセイランっていいます。あの人の仲間なんですけど」と大師を指差し「あの、あなたは、叔母さんと会うのがいやになって、こっちの世界に来たんですよね?」
 ワン氏が頷いた。
「それで、この書の中に逃げ込んだ。逃げ込んだって事でいいですよね?」
 ワン氏が再び頷いた。
「逃げ込んで、エリスさんと一緒にいて幸せですか?」
 ワン氏が三度頷き、エリスを抱き寄せた。セイランはエリスに向き直った。
「あの、エリスさん、ワンさんが来て、エリスさんは受け入れてましたよね? 私や、大師のことも」
「押し入ってこられた方もいますけど」
「じゃあ、何かの間違いでこの人の叔母さんがエリスさんのところに来たらどうなりますか? 『英姫亭遊』を読んだら?」
「止めろ! そんな不吉なこと口にしないでくれ!」
 ワン氏が悲痛な叫び声をあげ、その一方でエリスは思案顔になった。
「どうなりますか?」
「かくまってくれるんだろう?」
「そうしてあげたいのは山々ですけれど、私に書かれているのは私自身と、この東屋についてだけです。かくまってあげるといったって限度があるかも知れませんわ」
 途方もない裏切りに会ったといわんばかりにワン氏が宙を仰いだ。セイランは勢い込んで言葉を継いだ。
「じゃあ、叔母さんがここに入り込んできたら逃げられないし、入り込んでくるのを止める方法もないって事ですか?」
「そういうことになりますわね」
 セイランはワン氏に向き直った。魂の抜けきったような有様のワン氏に指をふって注意をひきつける。
「あの、もううすうす気付いているかもしれないですけど、私たちが外の世界に帰って、叔母さんに知らせたら、ワンさんここにいたら逃げ場ないですよ。しょっちゅう逃げてる私から言わせると、隠れるのはいいですけど、ずっと同じところに隠れるのは最低のやりかたです。絶対見つかっちゃいますよ」
 ワン氏の全身がわなないた。かと思うと、ワン氏はエリスを抱き寄せてセイランたちを指差した。
「エリス! こうなったら篭城するしかない! こいつらを捕まえてくれ!」
「出来ませんわ」
 あっけらかんとエリスが言う。
「無理にお引止めすることは趣味じゃありません。どうせなら心から求めていただきたいですもの。それに、あのお方の炎をさえぎることも出来ませんし」
 エリスがひらひらと手を打ち振ると、大師は応ずるように炎を閃かせた。絶望のうめき声を上げるワン氏に、セイランは微笑みかけた。心に浮かんだ渾身の名案が、セイランの笑顔を輝かせていた。
「あの、それで、ちょっと提案があるんです。逃げることには自信がある私からの、ちょっとしたお手伝いです。まずですね――」


 出発は翌日の夜明けになった。どうせなら早いほうがいいというワン氏の決断によるものである。
 セイランは大師とともに、ワン氏の旅立ちを見送りに来ていた。あくびをかみ殺しながらワン氏に手をふり、ワン氏が隊商の最後尾にくっついて市城の門をくぐるところを見届ける。肌寒い朝の空気に身を震わせるワン氏の顔が光精に照らし出されるのを眼にしたセイランは、そこにどことなく晴れやかな面持ちを見て取った。
「お見事でした」
 ワン氏の一行が視界の外に消えると、大師はセイランに向き直り、深々と頭を下げた。
「今回、私は公主様の邪魔ばかりしていたように思われます。公主様はお一人で何もかも解決してしまわれた」
「そんなことないです。大師だって、いっぱい紹介状書いてくれたじゃないですか」
「一応、充分なものを渡したつもりです」
「おかげで、大延国ならどこでもいけますよ。叔母さんからいくらでも逃げられます。書物から出てこられないのが問題なんですから、書物の外に出てればいいかなって。それに、行く先々で手紙を書くそうです。叔母さんもきっと安心するし」
「もし安心できなかったとしても、さすがに延国中を追い回すようなことはしないでしょうからね」
「ちょっと広すぎますよね。絶対見つかりっこないですよ」
「そうですね」
 セイランは大師と笑みを交わした。小さく微笑む大師の口元が、やおら真一文字になった。
「公主様が書と話を付けてくださったおかげで、この件をうまく解決することが出来ました。私なら、書を焼いてしまっていたでしょう。ワン氏を救い出せていたかどうかも定かではありません。面目次第もございません」
「大師……」
 セイランは大師を見上げた。その横顔は硬く、冷たい微風にたてがみが揺れるばかりである。セイランは戸惑い、ことさらに明るい声で大師に呼びかけた。
「隊長さんもお礼言ってました。良かったですね、大師。『恩に着ます』ですって」
「ええ、これで以後は衛視たちと協力体制を築きやすくなったでしょう。それに、衛視にとってはまだ全てが解決したわけでもないでしょうね。書の出所を探り、問題を根元から断たねばならないでしょうから。そのときには、かの書と通じた公主様の力添えが必要になることもあるでしょう」
「あ、じゃあ、エリスさんは――」
「焚書処分もありえましたが、厳重保管でカタをつけることになるでしょう。できるなら、我々の手で保管したいものです」
「そうですか。よかったです」
 セイランは胸をなでおろした。
「これから後にも、かの書を紐解く必要が出てくるかもしれません。そのときには、大変心苦しいのですが、公主様にお出ましねがうことになるかもしれません。本来はあのような書は、妖書であるということを差し引いてもあまり――」
 大師はいいにくそうに口をつぐんだ。セイランもまた、エリスのあられもない格好を思い出して顔を赤らめた。だが、最後に勝ったのはエリスの肌ではなく、笑顔であった。セイランは胸を張った。
「大丈夫ですよ。私だってあれぐらい平気です。恥ずかしくなんかないです」
「ならよろしいのですが」
「それに、向こうだって気を使ってくれてました。だから、焼くなんていわないでください。わたしが責任持ってちゃんとお世話します」
「頼もしいお言葉です」
「えへへ」
 夜明け間近の城門は人通りも少ない。セイランが口をつぐむと、辺りには音一つない。静まり返った朝の大気を吸い込み、セイランは傍らの大師に眼をやった。あいも変わらず黙り込む大師を見上げ、セイランは大師に向き直った。
「大師、あの、お話があります」
 大師がセイランを見下ろした。セイランは襟を正すと、この時のために考えておいた言葉を腹の中で復唱した。事件が片付いてからずっと、大師にいいたかった言葉だ。
「わたしだって、ちゃんとできることあります。そりゃ、足手まといになっちゃうこともありますけど、そういう時はちゃんとおとなしくしてます。今回はおとなしくしてなかったですけど、次からちゃんと納得します」
「公主様――」
「その代わりに、どんな些細な事でもいいからわたしにもお仕事ください。大師が部屋にこもりきりになって、なんにもしてあげられないうちに片付いちゃうのはいやです。適当な嘘でごまかされるのもいやです。わたしだって、何か出来ることあると思うんです。
 次からはちゃんと大師の言うこと聞きます。だから、いろいろやらせてください。お願いします」
 セイランは大師にすがりつかんばかりにして訴えかけた。大師は困ったような面持ちで、セイランをただ見つめている。その口の端が釣りあがり、苦笑を形作った。
「本来なら、私のほうがお願いする立場だというのに。失敗した私を見限らないでくださいと」
「大師……」
「仰せのままに致します、公主様。私からもひとつよろしいですか?」
「何でも聞きます!」
「今回のように、私の力が及ばぬ事態になりましたときには、ご助力を賜れますでしょうか?」
「もちろんです!」
「ありがとうございます。よろしくお願い申し上げます、公主様」
「はい!」
 朝日が城壁に掛かった。差し込む光に眼を細めながら、セイランは胸を張って吹き渡る朝の風を全身で受け止めた。火照った頬に冷たい風が心地よく、セイランは駆け出すと振り返って大師に満面の笑みを見せた。
「さあ、早く帰りましょう、大師。わたしお腹すいちゃいました」
 苦笑する大師を後に残して、セイランは大路をかけていく。新しい一日の始まりである。


 (了)

 但し書き
 文中における誤りは全て筆者に責任があります。
 独自設定についてはこちらからご覧ください。


  • セイランの潜書初体験!ハニーな緊迫状況や一個の生命として人格を持つような書は奥深いですね。ワンさんのだめっぷりが逆に痛快でしたが事件解決お見事でした。次のセイランの活躍に期待します -- (名無しさん) 2014-06-15 18:28:12
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最終更新:2012年05月02日 20:21