私が
エリスタリア領「春の国」を訪れたのは、もう随分と昔の話だ。
当時の私は何の社会的責任も負わぬ風来坊であり、ただの旅人であった。
エリスタリアを訪れたのも、ただ暴れたいからという理由でイギリスに渡り
ルールも知らないのにサッカーの応援チームに入り浸っては、フーリガン紛いの行いをしていたからだ。
楽しく愉快な日々であったが、終焉の日というのはやがてはやって来るものだ。
わかりやすく言えば、その行為ゆえに国家権力に束縛される前に異世界へと渡ったのだ。
そういう経緯もあり、別段異世界には興味は無かった。
ほとぼりが冷めた頃に戻る事ばかり考えていた。1ヶ月ほど経った頃だったろうか。
暇を持て余した私は、暴れる先を求めてエリスタリア全域を旅し始めたのだ。
エリスタリアとはどうやら
世界樹というものから薬を作り売りさばいて国家を成していると聞き、
それならばドラッグの一つでも無かろうかと期待はしてみたのだが、私の気に入るものは残念ながら存在しなかった。
ならば気に入るものを見つけるまでは放浪してやろうじゃないか。
森の生い茂る「夏の国」食べ物も豊富なつまらない国「秋の国」寒々とした不毛の荒野「冬の国」を抜け、
そうして訪れたのが「春の国」だったという訳だ。
名前だけ聞けば随分と陽気で過ごしやすそうな印象があるが、実態はそんなものではなかった。
確かに都市部は近代的で、霧がかった街並みはロンドンのそれを想い出させるものがある。
街には
エルフが多数暮らし、極めて文明的と言えた。
が、そんなものは都市の中だけだった。
街から一歩足を踏み出せば、そこは「冬の国」から流れ着く、凍てつくような冷たさの雪解け水で溢れる薄汚れた川と
その周囲の痩せて凍えた土で作物を作らねば生きてはゆけぬ極貧の
ホビットや樹人達の姿があった。
川は気まぐれに氾濫し、貧しく飢えた人々を飲み込む。それでもそこで生きていくしかないのだろう。
ホビットなど「秋の国」にしかいないのかと思っていたのだが、そこを追われでもしたのだろう。
何とも哀れな人々であった。
人によってはその農業すらも諦め、偉大なる魔法大都市から廃棄されるわずかばかりの食物や物品を糧として生きていた。
ゴミ捨て場の遺棄口付近に、まるでスラム街のように貧民が募って暮らしているのだ。
私はかつて暮らした地球の街を思い起こすその地を気に入り、しばらくそこで過ごした。
そこで出会ったのが、樹人のシロガナックだった。
そもそも木が動くという事自体がありえない現象に見えていた頃のことだ。
当然私の目にうつるシロガナックの姿は、化け物としか言いようがなかった。
ただ、シロガナックはこんなに酷い生活環境の中にあっても優しい男だった。
あるいは彼らの種族というのは、そうした温厚な心情の者が多いのかもしれない。
自分は水があればいい。自分は土があればいい。自分は光があればいい。
霧の立ち込める中、そう言ってはわずかばかりの残飯を、ホビットの子や私に分け与えてくれていたのだ。
シロガナックは定期的に瓦礫の山を掘っては、まだ使えそうな品を見繕っていた。
彼が掘り当てた精霊暖炉が無ければ、肌寒い日々に命を落とす幼子も多数あったろう。
ある日、シロガナックは私に珍しい物を見つけたと言って、ガラクタを手渡してきた。
それは一目見ただけで地球製の腕時計と知れたが、メイドインジャパンの品が何故こんな所に落ちているのだろうと、
私はその不思議さゆえに素直に礼を述べて受け取った。
シロナガックは洞穴に吹く風のようなビュウビュウという笑い声をあげたものだ。
思えば彼の愉快そうな様子を見たのは、それが最後だったのかもしれない。
その年の暮れ、どういう訳か知らないが河川の水量が異常に増大していた。
水はみるみるうちに溢れかえり、河川沿いの畑を全て飲み込み水浸しにして、その勢いのままスラムへと押し寄せた。
私はスラムに作り上げられた『瓦礫の城』の頂上でホビットの子供らとその光景を目にし、
自分の人生はここで終わりなのだなと薄ぼんやりと考えていたものだ。
その時だ。シロガナックをはじめとして、畑やスラムで暮らす樹人達が一斉に暴れ川に突入しだしたのは。
彼らはまるでラグビーのスクラムのように腕を取り合い肩を組み合い、自らの体で水をせき止め始めたのだ。
無謀にしか思えない行為であったが、他の樹人達もそれに習い集結し始めた。
一体幾日がたったのだろうか。
河川の氾濫はまだ治まってはいないようだったが、スラム街とその周辺の畑地は水に浸かる事なく生き延びた。
無論、そこで生きる追われホビット達もだ。
私の目の前には、樹人達が身を挺し、命を捨てて作り上げた堤防がそびえ立っていた。
彼らの犠牲によって、この地に生きる小さきものの命は守られたのだ。