【うしがえる】

蛙声


『第18回・阿房ウシガエルの鳴き真似祭り! 賞金二百万円!』
 昼飯時に吉原が差し出してきたチラシには、そんな文字が大書されていた。
「なにこれ」
「見たまんまだ」
 吉原は椅子を引きながら器用に肩をすくめると、僕の対面にどっかと腰を下ろして弁当を広げ始めた。学食で弁当を食べているのは吉原ぐらいのものだけれど、当人はそれを気に病む様子は無い。それをいうなら、吉原が何かを気にやむこと自体が珍しい。おおぶちのメガネに甲高い声のチビと、特徴だけ取ってみればその辺の雑魚Bに甘んじる運命にしか見えない吉原だが、実際には文武両道の上人懐っこく、おまけに面倒見がいい。必然的に吉原の周りには人が集まり、そういう人気の後押しを受けてできることは何でもやってみせる。いわゆるリア充を一人見繕えといわれれば、僕は迷わず吉原の名を挙げると思う。一方僕の立場はといえば、贔屓目に見てもその辺の雑魚Bと言ったところだ。そんな雑魚Bに吉原の方から声を掛けてくるのは珍しいことではないけれど、僕としてはどうしても構えてしまう。
 僕はチラシをためつすがめつした末、吉原に返した。このほんのわずかな間に吉原は弁当の三分の一ほどを腹に収めていた。いつ見ても吉原の早食いっぷりは常識の範囲を超えている気がしてならない。吉原の食べっぷりにすこし気おされながらも、僕は自分のうどんをもそもそとすすりこんだ。
「興味ないか?」
「興味って言うか、なんなのこれ。祭り?」
「かいてあるだろ。ウシガエルの鳴き真似大会だよ。優勝賞金二百万なり」
「よく分からないよ」
「公衆の面前でヴォーとか吠えるだろ、するとアラ不思議、諭吉さんが束になってでお前の財布にご来臨ってことさ」
「何をするのかは分かるけど、どうしてそんな祭りなんかやってるの? 二百万ってアホじゃないの?」
「祭りの経緯はちょっと長くなりすぎるからこんどな。金額については前年度の賞金キャリーオーバーが重なった末にこうなったんだと。それと、アホでも何でもいいじゃねえか。二百万だよ二百万。とにかく、としあきくんにおかれましては、今度の休みに執り行われるこのお祭りに参加してみる気はありませんかってことよ。もちろん来てくれるよな?」
 むやみに出汁をかき混ぜながら、僕はもう一度チラシをとった。
「んー、この阿房ってどこ」
「兵庫県俺の親戚の地元。こっからだとモノレールとバス合わせて一時間ってところだな。ちょっと山ん中だけど空気はいいし、メシはうまいぜ」
「んー」
「はっきりしないねぇ。としあきくんにおかれては一体何が不満なのかね」
「いやさ、吉原はこの大会に参加するつもりなんだよな」
「優勝するつもりだね」
「そりゃいいけど、俺はそこで何するの?」
「そりゃ大会に参加して二位か三位につけてもらうことかな。優勝しないと賞金ないけど」
「なんでもいいけど、俺は参加するつもりは無いよ」
「えーなんでだよ。楽しいぜ、ウシガエルの鳴き真似」
「いや、ウシガエルって言われても、俺ああいうの苦手なんだよ。言ってなかったっけ」
 吉原がわずかに眉をしかめた。いつの間にか平らげていた弁当をそそくさとしまいこみ、ひらひらと手を振った。
「まあ、ぶっちゃけるとお前が優勝できると思って声を掛けたわけじゃない。はっきり言って強豪ぞろいらしいからな」
「だったら止めとくよ。ぶっちゃけ、せっかくの休みによくわからないお祭り行くのも面倒だしさ」
「それは困る。今回の件、ぜひともお前には来てもらう必要があるんだ」
「なんでさ」
「我々の秘密兵器にご出動いただくにはお前の参加が必要不可欠とのご託宣がくだったのだ」
「託宣? 秘密兵器? 何の話さ?」
「並み居る強豪を押しのけて二百万を確実に手に入れられる逸材ってことさ。地球人であの子に勝てる奴はいないだろうな。はっきり言ってズルみたいなもんだけど、まあ仕方ない」
「地球人って何その大げさ――あ」
 吉原がにやりと笑った。
「読めてきたか? そう、その通り。二組のイズミさんにご登場願おうってわけさ」
 大体事情が飲み込めてきた。確かにこれ以上の人材はいないだろう。なにしろ、二組のイズミさんはカエル人間なのだから。



 僕や吉原が通っている学校の名前はとつくに学園という。普通の学校とちょっと違っている点があって、それは異世界からの留学生を受け入れているということだ。
 十年前、世界中に突然開いた異世界からのゲートをくぐってやってきた異世界の人たちは、別にハリウッド映画のように侵略を仕掛けてくるでもなく、お気楽そのものの態度で地球とかかわってきた。そんな交流のひとつとして、日本の文化を学ぶためにやってくる人たちがいる。イズミさんもその一人だ。
 イズミさんは日本にゲートを開いたミズハミシマという国の人だ。ミズハミシマは鱗人と魚人の国で、地球人のような顔つきに鱗が生えているだけのような人も地域によってはいるらしいけれど、イズミさんは人間大のカエルそのままな顔をしている。握りこぶしぐらいの大きさがある今にも飛び出しそうな目玉と、バレーボールぐらいならひと呑みにできそうなサイズの口の持ち主だ。時々図書館に本を借りに来ることがあって、そんなとき僕のところにたまたま図書委員の当番が回ってきていると、貸し出しの手続きついでに二言三言言葉を交わすこともある。口の大きさとは裏腹にやたらか細い声で話すイズミさんはとても引っ込み思案な性格のようで、クラスでなじめているのかどうか他人事ながら心配になってしまうが、所詮は違う組の出来事なのでなんともいえない。
 そんなイズミさんの力を借りれば、カエルの鳴き真似大会を制することなんか朝飯前みたいなものだろう。何しろ本職みたいなものだし。
 とは言え、一つ気になることがあった。イズミさんを連れて行くには僕が必要という吉原の言い分だ。


「大体もくろみは分かったけど、だったらイズミさんに声かければ済む話じゃないの?」
「とっくに済ませてある。だが向こうが条件を出してきた。俺と二人っきりで行くのは気が進みませんということだ」
「それもそうだろうね」
「俺は別に構わなかったんだが、嫁が物言い付けてきてな。『嫁入り前の女の子連れ出して妙なことにでもなったらどうするの』だとさ。それもそうだと言う事で、大勢で行くならどうだとお伺いを立ててみた。それならよしというわけで、今は人数集めに入っている段階というわけだ。どうだいとしあきくん、納得したかな?」
 納得できなかった。要するに人数あわせという奴ではないか。吉原はきっと手当たり次第声を掛けて、誰にでも同じように調子のいいことを言っているんだろう。そう思うと、とたんに興味が色あせていく。
 そんな僕の考えを見透かしたのか、吉原はこんなことを言い出した。
「念のため言っとくけど、お前は人数合わせ要因じゃないからな」
「どういうことさ」
「誘ってる面子には御堂が入ってる。イズミさんたってのご希望だったし、本人も快諾ということで参加は確実だ。どうだねとしあきくん、若干興味がわいてこないかね」
「――ふーん」
 興味がわいてくるなんてものではなかった。御堂さんと一緒に行けるなら炎天下の草むしりだって歓迎だ。けれどすぐそれを認めるのもなんだか乗せられているようで悔しくて、僕は興味の無いふりを装おうとした。
「あの二人知り合いなんだ?」
「知り合いなんてもんじゃないぞ。始終べったりだ。もとは演劇部と文芸部の交流会みたいなもんで知り合ったらしいな。好奇心が旺盛な御堂のほうから声かけたらしいが、案外ウマがあったんだと。昼休みは一緒にメシ食ったりしてるみたいだぜ」
 なかなかにショックだった。イズミさんとそんなに親しくしているというのに、僕はそのことを全く知らなかった。改めて僕は御堂さんのことをなんにも知らないのだということが身に染みてきた。
「おいおい、そんな気を落としなさんなよ。俺だって嫁から聞くまでは何にも知らなかったんだからよ」
 吉原のいう「嫁」とは穂積涼子のことだ。文武両道かつ才色兼備に母性と父性まで完備した完璧超人で、当然というべきか委員長なんかやっている。僕が知らないだけできっと裏番長や影の大番役なども兼任しているだろうとおもう。当然顔の広さは吉原の比ではなく、他愛のない噂話も大好きと言う事で、学内の情報のあらかたは彼女のもとに集まってくる。穂積涼子が知っていることはその恋人であるところの吉原だって知っているのだ。
「さて、好きな人のことを何にも知らないでショックを受けているとしあきくん、今こそはそんな彼女とお近づきになって色々知るチャンスだとは思わないかね。言っとくが御堂は今回の祭りにむっちゃ乗り気だぞ。鳴き真似大会にも参加するそうだぞ」
 僕はウシガエルの鳴き真似を披露する御堂さんの姿を想像した。御堂さんは演劇部だけあって声が良く通るし、きっとカエルの鳴き真似だからといって変なウケを取りに走らず一生懸命やるだろう。御堂さんはそういう人だ。見たい。ぜひとも見てみたい。
「あとな、これはおまけの情報だが、今回女性陣は全員浴衣だそうだ。嫁が着付けるからな」
 すでに心は決まっていたから、これは余計なダメ押しだった。僕は吉原に手を差し出し、力強い握手を交わした。そんな次第で、僕は得体の知れない祭りに参加する運びと相成った。
 結局、どうして僕でなくてはならないのかとちゃんと聞くのは忘れてしまった。もしちゃんと聞いていたら参加することはなかっただろう。だが、何しろ僕は浮かれていた。



 集合場所はモノレールの駅だった。よく晴れた日曜の昼時とあって、島の外に出かける人たちの姿もけっこう見える。待ち合わせたロータリーのベンチに向かうと、独り腰掛けていた吉原がよう、と手を挙げた。
「おや、お早いお着きで。なんだかんだで乗り気なのかね、としあき君」
 ぐうの音も出なかった。ごまかすために吐き出した言葉は、ちょっと不自然な早口になった。
「他の奴らは?」
「女性陣におかれては準備があるってことなんで、到着はもうちょっと待ってくれたまえ。男のほうは六号がくるよ」
「六号ってだれだよ」
「一組に蟲人いるだろ、蟻頭の。あいつ。ほんとはもっと名前長いらしいんだけど六号でいいとよ」
「……お前あいつと接点あったの」
「ついこないだまでそんな奴がいたことも知らなかったよ。ついでに言うと、六号くんにおかれましては今日の参加者全員との接点が皆無だと思うね。嫁はどうかしらんけど」
「なんでそんな奴が来るの?」
「どこかで聞きつけてきたらしい。で、地球の祭りに興味があるから混ぜてくれって話を嫁のほうにしてきた。まあむげに断るのもどうかと思ってな。俺も何話せばいいのか全然見当つかないけどどうにかなるだろう。そら、噂をすればなんとやら、おー……い?」
 吉原が怪訝な顔になって言葉を切った。僕も吉原の見ているほうを見た。するとそこにはちょっとした見ものが立っていた。木刀を差した着流しの蟲人だ。
 あっけに取られた僕と吉原の反応を尻目に、蟲人はすべるような足取りで僕たちの元にやってきた。そのまま懐からスマホを出すと、慣れた手つきでぽんぽんと何かを打ち込んでいく。鉤爪がぴっと画面をなでると、意外に流暢な合成音声が流れ出した。
『お初にお目にかかる。拙者=この個体の名は六号でござる。今日はよろしくお願い申し上げる』
 時代劇から抜け出してきたと言うには少々変わった頭をしている蟲人は、頭の触覚をぶるぶると震わせながら深々と礼をした。
 先に自分を取り戻したのは吉原のほうだった。爆笑しながら、吉原は六号の肩をばしばし叩いた。
「やあこりゃどうもはじめまして、六号さん。いいねぇ、そんなキャラだったとはサプライズだね」
『いや、これは今回の催しにあわせて選択したペルソナでござる。普段は別のテンプレートを採用しており申す』
 僕は早くもこの蟲人とのコミュニケーションを放棄しつつあったが、吉原は違った。むしろ食いつきさえしている様子だった。吉原の周りに人が集まるのはこれが理由だと思う。
「なんだそりゃ? キャラ作ってるってこと?」
『左様。現地の文化を理解することが拙者=この個体およびこの個体が代表する副自我群に与えられた優先目標でござる。それで、今回は文化的衝突のリスクを避けるために、現地の文化に融和的な行動様式を採用することが必要と判断され申した。その判断を受けて、ローカルライブラリから必要なデータを集めてデザインしたのがこの装束および行動テンプレートでござる』
「ようするにコスプレしてきたってことね。いいんじゃん、似合ってるぜ」
『左様。浪人の格好でござる。拙者=この個体のIDとも関連を見出すことができ、中々よい装束でござる』
「そうなの? 六号ってなんか浪人と関係あるんだ?」
『この世界にはプリズナーNo.6なる映像作品が存在すると聞き及んでいるでござる』
「あー、なるほどねー。わかるわー」
 一体何がなるほどなのかは全く分からなかったし、表情から察するに吉原も何一つ分かっていないに違いない。それでも吉原は気に病むことなく会話を続けている。正直まねできない才能だと思う。
「それで六号くんにおかれましては普段はどんなキャラなの」
『普段は女性型でござる』
「マジかよ。それじゃなんだ、わざわざ性転換してきたの?」
『左様、といっても肉体を乗り換えたわけではなくて、単に表面的な振る舞いのテンプレートを替えただけの事でござるし、肉体ももとから無性型でござるから大した違いはござらん。穂積どのとはいわゆる茶飲み友達でござるよ』
「へーそうなの。知らなかったねえ。あれ、でも普段から男の制服着てなかったっけ?」
『それは多分18-E-fosnakの事でござろう。拙者=この個体とは同巣で同期でござる。同巣ゆえ肉体も同じものを採用しているので、判別はしづらいかもしれないでござるよ』
「じゃあひょっとして六号は一組にいるほうじゃなかったりする?」
『拙者=この個体は五組でござる』
「ありゃ、一組にいるほうだと思ってたよ」
『一組にいるほうが必要なら、fosnakの副自我を複製して連れてくることも可能でござるが』
「うーん、よくわかんないからそれはいいや。もともとあんまり親しくないしね」
『左様。これを機にお近づきになりたいものでござる』
「おーけーおーけー」
 なんともフランクなやりとりをしている六号をと吉原を眺めれば眺めるほど、自分が何故呼ばれたのかと気にしていたときのことがあほらしく思えてくる。この六号さんだか君だかぐらいずうずうしいというか向こう見ずに行動しても、周りは案外しっかり受け止めてくれる。変な遠慮をするほうがバカを見るのかもしれない。
 よく分からない話に花を咲かせ始めた二人を眺めながらそんなことを考えていると、視界の隅に見覚えのある姿が目に入った。ポロシャツを着た鋭い目つきの猫人、見間違いようも無いうちの学校の火乃先生だった。
 火乃先生は異世界から来て歴史を教えている先生だ。教える歴史は向こうの世界のこともあるしこちらの世界のこともあって、どちらにもうんざりするほど詳しい。普段はどちらかといえば厳しい先生だ。休みの日に、それもこれから遊びに出かけようとしているときに出くわしたい相手ではない。僕は努めて気配を消し、先生が自分の用事を思い出してどこかへ行ってしまうのを待った。
『おや』
「ん? どうしたの六号」
『火乃先生がお越しでござる』
 六号は首を動かしもせずに自分の背後にいる火乃先生の姿を認めたらしい。複眼の視野の広さに感心するやら、余計な事をするなと歯噛みしたくなるやらしながら火乃先生にこっそり目を向けると、火乃先生はこちらに向かって大股で歩いてきた。ロータリーのベンチに座る僕らを見下ろすと、火乃先生は髭をしごいて一人ひとりに視線を向けた。
「あー火乃先生どうもー」
『こんにちわでござる』
「こんにちわ」
「うむ」
 先生は片手を上げて僕らの挨拶に答えると、あろうことか自分もどっかとベンチに腰を下ろした。吉原も六号もそれを当然といわんばかりの態度で見守っている。火乃先生は特に何かしゃべるでもなく、鞄から文庫本なんか取り出して読み始めた。理解不能な事態だった。座るところに困っている様子もなく、普段から生徒の間になれなれしく入ってくるような先生でもない。僕はひそかに吉原をつついた。
「何」
「なんで火乃先生がいるんだよ」
「え? ああ、言ってなかったっけ。先生はね」
「引率だ」
 火乃先生は本に落とした視線を動かすことなく言った。
「引率?」
『左様。引率でござる』
「そうそう。いやー助かりますよ先生、お願い聴いてくださってありがとうございます」
「別に構わん。こちらの祭りにも興味があるからな」
 先生は当たり前のように同行するつもりらしいが、理由は全く分からない。僕の困惑がなんとなく伝わったのか、先生はため息をついてメガネを押し上げた。
「異世界からの留学生はこの島から許可無く出られないのだ。余計な面倒ごとを起こさないようにという配慮で、自主的に協力してもらうことになっている。どうしても島外に出たければ、しかるべき立場のものが引率する必要がある」
「へぇ、そうなんですか」
『左様。生徒単独でも申請できないことはないのでござるが、目的が文化交流などもなどといったどうでもいい用事だったりすると、なかなか外出許可が下りないのでござるよ』
「お前に許可が下りんのは文化交流が目的だからではなく、単に遊びに出たいだけだからだろうが」
『心外でござる』
 初耳な情報だった。この島はそれほど小さな島でもないし、いろいろな設備もそろっているから不自由はしないのかもしれないが、窮屈そうといえば窮屈そうだ。僕は着流しの蟻人を眺めた。よくよく考えてみれば、六号は口調といい格好といい、現れたときからテンション最高潮という感じだった。どうやら外出したくてしょうがなかったようだし、今回の吉原の企画は彼にしてみれば千載一遇のチャンスだったのかもしれない。僕は六号にちょっと親しみを覚えた。
 火乃先生は肩をすくめると、僕たちを鋭い目つきで眺め回した。
「まあ、面倒ごとを起こすような顔ぶれでもなかろうとは思うが、決まりだから誰かが付いておらねばならん。今日暇なのは私と黒部先生しかいなかった。だから私が来た。悪く思うなよ」
「とんでもないですよ、先生」
 黒部先生が付いてくるかもしれなかったという可能性に僕は思わず身震いした。吉原も六号も火乃先生ですら、黒部先生が引率にきたらとんでもないことになるという点では一致しているようだった。一応弁護しておくと、黒部先生は悪い先生ではない。見方によっては中々面白い人だと思う。けれど、黒部先生は変な人でもある。ちょっと目を離すと、その隙に百人一首を大声で暗誦しながらサンバのリズムで踊りだしかねないような人なのだ。
 ふと、六号が僕のわき腹をつついた。六号の指は体のほかの場所と同じようにキチン質になっていて、尖ったそれがTシャツを貫通したものだから危うく声を上げてしまいそうになった。六号はなにやら不思議な動作で、本をにらむようにして読んでいる先生をこっそり指差しながら、しきりとスマホの画面を僕に向けてくる。ナイショ話がしたいのだということを悟るまでにしばらく掛かってしまった。画面にはこうかかれていた。
『ああは言っても、先生も楽しみでしょうがないはずでござるよ。ほら、その証拠に』
 甲殻に包まれた指が画面をさっとなでると動画が再生された。画面にはなにやら毛むくじゃらなものがゆらゆら揺れる様子が映っていた。それがこっそり撮影された火乃先生の尻尾だと気付いた僕は、笑いをこらえるのに懸命になった。火乃先生の尻尾はそれはもうご機嫌そのものといった感じで揺れていたのだ。厳かな顔つきで澄ましている顔のほうとはひどいギャップで、それがまた笑いを誘う。僕は必死に笑いをこらえると、六号とわき腹をつつきあった。怪訝そうな顔をしている先生にばれないように笑いを押し殺そうとすると、余計におかしくなってくる。何とか笑いをこらえながら、僕は六号に気を許しきっていることに気がついた。見た目は虫だし言っていることはわけが分からないしでどうしようもない異世界人だけれど、コミュニケーション不能と言うわけではないのだ。ひょっとしたらこの大はしゃぎな態度も、なじもうとして気を使った結果かもしれない。僕はひそかに反省した。六号は案外いい奴かも知れない。
「お」
 吉原が声を上げた。立ち上がり、両手をひさしにして遠くをにらむ。吉原の視線の先にはバスが来ていた。
「お待たせしました男性諸君。女性陣のご到着だ」
 ついにこの時がやってきた。どんな第一声をかけたものか、昨日の夜に散々繰り返したはずのシミュレーションはすっかり頭から流れ去っていた。真っ白になった頭を抱えて六号を見ると、六号は何もかも分かっているといわんばかりに深々と頷いていた。それで、すこし緊張が薄れた。
 僕は深呼吸して服装を正すと、努めて自然に見えるように表情を作った。
 バスが止まった。降りてきた人影を目にして、僕らは思わず歓声を上げた。


(続く)


 但し書き
 文中における誤りは全て筆者に責任があります。
 独自設定についてはこちらからご覧ください。


  • 兎に角キャラが多くて毎日が驚きと惰性で彩られている学生の雰囲気が弾けている。 ただ吉原君に関しては学生を通り越してすでに裏の口利きかマフィアの会計士のような貫禄が感じられた -- (名無しさん) 2012-07-25 23:55:16
  • 鳴き声の真似だけで200万、これはどう考えても裏がありそう。 学生同士のやりとりに上手く異世界と交わった世界観が加味されていて楽しい -- (とっしー) 2012-07-31 14:22:16
  • 六号くんのキャラも、漏れ出る蟲人っぽい話も面白い -- (名無しさん) 2012-08-16 21:23:32
  • 種族のるつぼ!異種族も学校の中にいると学生っぽくなっていくものなんだろうか -- (名無しさん) 2014-05-13 22:51:56
  • 交流が進んだ世界はどうなっているのか?というのがよく分かるふとしたイベントに心躍る日常でした。しかし賑やかしかし鳴き声で200万は太っ腹 -- (名無しさん) 2014-10-26 17:04:39
  • 世界の交わった感じがよく出てる日常。話の転がし方と見所の持って行き方が上手いなー。続きは? -- (名無しさん) 2016-02-06 00:21:30
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最終更新:2012年07月23日 00:16