学生や社会人が足早に駆けていく朝。誰もが立ち止まり、何事かと思うような轟音が、一件の民家から聞こえてきた。
木製の家具がけたたましい音をたて床に叩きつけられる。椅子は倒れ、机が床を滑り、衝撃に合わせて棚より何枚かの食器が落っこちてきた。
壁に投げつけられた少年は、ぐぇ、と短い呻き声をあげた。視界が一瞬で真っ白になり、心臓を止められたかのように呼吸ができない。
地面に落下し、二度目の衝撃を受けても、呼吸は戻ってこなかった。まるで息をする方法を忘れてしまったようだと、康一は空気を求めて喘ぎながら、思った。

パリン、と陶器が割れる音が聞こえる。砕けた細かい破片を踏みしめる音。
パキ……、パキ……、パキ……。足音に合わせ、倒れた康一に近づく一つの影。
彼を投げ飛ばした少女、山岸由花子が迫りくる。

由花子は興奮を抑える様に深呼吸を繰り返していた。ゆっくりと息を吸い、大きな扉を押し開けるかの様に、肺の奥にためていた空気を吐き出す。
彼女は必死で冷静になるよう、言い聞かせていた。
まだよ、まだ漏らしては駄目。ここからが本番じゃない、と。自身に言い聞かせるように、そう呟いた。

左まぶたの痙攣が止まらない。彼女の高ぶり、残虐性を知らせるように目元の筋肉が収縮を繰り返す。
ピクピク、ピクピクと。震えが大きくなるに従って彼女の中で、大きなさざ波が生まれる。それに呼応するかのように、彼女の美しい黒髪も震えた。
獲物を前にした蛇のように、ざわめき、首をもたげ、凶暴な目で康一を見下ろす。少年はごくりと唾を飲み込んだ。


「……それで」


弱弱しい声が沈黙を破る。康一の声は震えてはいなかったものの、懇願するような声音だった。
隠しきれない恐怖と戸惑いの色が漂い、由花子の心の震えを更に大きくする。憐れむような視線と声が、彼女の中の何かを刺激した。
少年は続きを言おうと口を開くが、途中でそれをひっこめる。代わりに短い、押し殺した唸り声が漏れ出た。
彼が言葉を言いきる前に、由花子の長く、獰猛な髪の毛が少年の体を宙吊りにしていた。

「一体、僕に……なんのようだっていうんだい…………?」
「よくもそんなセリフが吐けるものね……私に、あんな仕打ちをしておきながらッ」

ぎゃ、と短い悲鳴に続き、轟く衝突音。康一の体は弾丸のように弾き飛ばされ、もう一度壁へと叩きつけられる。
耳を覆いたくなるような音が聞こえた。グシャリと音を響かせ、少年の体が折れ曲がる。見ているほうが、聞いているほうが痛々しく思えるほどだ。
康一の体は何度も何度も、床に、壁に、そして天井に叩きつけられた。出来の悪いピンボールのように、少年の体は何度も跳ねかえり、はずみ、由花子はそんな様子を薄笑いを浮かべ眺めていた。

最後に一段と派手に食器棚を吹き飛ばし、そこでようやく由花子は一満足する。埃が収まらぬうちに、瓦礫の中より足だけ突き出た少年を引きずり出した。
由花子は彼を逆さ吊りにしたまま、改めて少年の顔を眺めてみた。愛する恋人と見つめ合うような至近距離で、彼の顔を見つめてみた。
青あざ、切り傷、水ぶくれ。傷だらけの泣きべそ。そんな表情を浮かべた彼は、大層ひどく、醜く見える。
由花子は笑う。情けない男ね、と少年を鼻で笑い、そしてそんな彼に向かって手を伸ばす。
少年への処刑はまだ終わっていない。由花子の高ぶりは、この程度では収まらなかった。

康一の悲鳴が宙を切り裂いていく。手入れのいき届いた尖った指先が、彼の傷口を抉りとっていく。
目に鮮やかな赤い肉、その奥底までずぶりずぶりとその指を射し込んでいく。康一が身をよじらせ苦痛にもがくが、由花子は一向に意に介さない。
爪が丸ごと埋まるぐらいまで、女は指を進め、長く轟く少年の痛みの叫びに身体を震わせた。心地よい興奮が彼女を満たしていた。

自分のことを侮辱したこのガキを、今確かに自分は蹂躙している。踏みつけ、屈服させ、懇願させている。他でもない彼を。この私が。
加虐心が空っぽの体へ流れ込む。素晴らしい感覚だった。満ち足り、充実感が、彼女を包んでいた。
由花子はしばし時間を忘れ、その高揚感に身をよじらせていた。康一のすすり泣きと絶叫が、民家を包むように響いていく。

やがて満足したのか、由花子はその指を引き抜いていく。
些か名残惜しい気持ちもあったのだろう。突き刺した時の倍以上の時間をかけ、引き抜く際には関節を曲げ、爪でひっかき、彼の内側を徹底的に痛み付けるのを忘れない。
康一は几帳面に刺激を与えるごとに悲鳴を上げ、身をよじる。それが由花子にはたまらなく心地よかった。


「なんで……」


涙声の少年が哀れっぽく呻いた。依然逆さ吊り、宙づりの彼の頬を、傷口から流れ出た血が濡らしていく。
由花子は血で真っ赤に染まった指先を口で含み、唇を朱に染める。
口の中に広がる鉄苦さ。生温かく、張り付く様な弾力のある液体が口の中に広がっていく。
広瀬康一の血で自分が汚れることに嫌悪感はなかった。それを上回る満足感が、少女の中を満たしていたから。

反対向きの少年の頬を両手で包み、優しく撫でる。涙で潤み、問いかけるような少年の視線を受け止めながら。由花子はゆっくりといとおしむ様に康一の頬を撫でる。
血が筋になって少年の頬をすっと流れていく。赤い線が無数に走り、彼自身の血で肌が染まっていく。

今度はその両手で、十本の爪で、由花子は少年をいたぶり始めた。
万力の力で全ての爪を喰いこませていく。プツリ、プツリと肌を突き破る音。ジワリと赤の液体が滴り、零れてくる。
そしてそれに調和するように、少年の長い、長い呻き声がこだましていた。由花子は夢中でその行為を続けた。時間を忘れるほど、それに熱中した。


どれほどの間、そうしていただろう。どのぐらいの間、由花子は康一をいたぶっていただろう。
気がつけば由花子は肘まで真っ赤に染まっていた。少年の顔には無数の傷跡が蟻塚のように空いている。
二人はともに、制服の元の色がわからないぐらい、血まみれになっていた。

正気に戻った由花子はそっと康一をその場におろしてやる。
トスン、と軽い音が響き少年は久方ぶりに大地に降り立つ。彼にその事を喜ぶ余裕は既になかったが。

辺りが急激に静まり返っていった。しんと冷える民家と、誰もいない街並み。聞こえるのは康一が痛みに喘ぐ声と、彼の荒い呼吸音だけ。
由花子は彼を見下ろす。康一はうなだれ、その体を小刻みに震わせる。沈黙が二人を包み、しばらくの間、時だけが過ぎていった。


「山岸、由花子さん……なんだよね?」


康一が口を開いた。少女は返事を返すことなく、口を開いた少年を突き刺すように見つめる。
少年はそれを肯定と受け取ったようだ。彼は話を続ける。

「なんで、僕に、こんなことを」
「……殺し合いで誰かを殺すのに理由が必要とでも?」

由花子は少し間をおいてから楽しげな声でそう言った。ゾッとするような声だった。
氷のように冷たく、鉄のように頑なな声。であるのにその声は確かに喜びに満ちていた。
楽しくて仕方ない。幸せでどうにかなりそう。そんな感情が手に取って確かめられそうなほど、少女の声は朗らかで透き通っている。
相反する二つの感情をその声に乗せ、由花子の言葉が康一の鼓膜を震わせた。
少年の胃がぐらりと揺れる。確かな恐怖を、彼は感じ取る。

湧き上がった感情を誤魔化すかのように、康一は言葉を繋げる。
焦燥感、危機感。二つの感情に突き動かされ、彼はこう付け加えた。


「でも、由花子さんは僕の……―――」


恋人だったんじゃないの、と。

だがその言葉を遮るように黒色の光が彼を襲い、少年はまたも黙らされた。
それを言えばどうなるかは先で嫌というほど味わったはずなのに、それでも康一は思わずそうこぼしてしまったのだ。
ひょい、と気軽な感じでラブ・デラックスが彼の体を締め上げ、そして康一の体が縛りあげられる。
これ以上ないほど痛みつけられているはずなのに、それでも痛覚だけは彼の体を離れていない。

ギリギリと、骨まで軋む髪の圧力。ひきつぶすように胃が、心臓が。内臓全てが圧迫されていく。
康一はもう言葉も出ない。身体中が激痛に溢れ、どこがどう痛いのかすら曖昧なほどに彼の身体は全身痛みで支配されていた。
しばらくの後、由花子が拘束を緩めた。絞りあげられた雑巾のように、惨めで汚い少年の残骸が、床に崩れ落ちる。
康一は低く、唸るように、泣いた。

「アンタのその図々しい話は聞きあきたわ。一度でも充分なのに、二度もそんな話は聞きたくない」

そこにはからかいの響きはなかった。しかし同時に温かみもなかった。
この民家に来てから始めて、由花子の顔に怒りの色が灯った。殺意や愛情、憎しみ以外の初めての感情だ。

由花子が康一を連れ去って真っ先に口にしたその話。それは彼女にとって侮辱以外の何でもなかった。
彼曰くこの舞台は様々な人々たちが集められ、その中には時間軸の違いあるとのこと。
曰く康一は由花子と知り合う前から呼び出され、故に由花子とはこれが初対面であるし、どんな感情を持てばいいかわからない。
将来の恋人と言われてもピンとこないし、由花子の気持ちに対しては戸惑い以外の何も持てない。
要約すれば、康一の言っていたことはこんな感じであった。そしてそれは由花子の中で暴力という感情を膨らませ、結果二人はこうして蹂躙し、蹂躙されている。

由花子にとってもその話はどうでもいいことばかりだった。
時代を超えていようがいまいが知ったことでない。康一が過去から来ていることに対してはそう、としか言いようがない。
他の参加者なんて知ったことでないし、だいたい殺し合いなんて話もべつにどうでもいい。
彼女にとって大切で重要なのは終始一貫して広瀬康一のみだった。彼女にとって広瀬康一以外は何一つ興味をひくものはなかった。

そして、だからこそ! だからこそ、なによりも!
これ以上ないほど! 異論の余地を挟めないほどに彼女が気に入らなかった事は!
それは!

「げフッ」

康一を次に襲った衝撃は締め上げるような痛みでもなく、叩きつけられるような苦しみでもなかった。
山岸由花子と言う少女自身が振るった拳による殴打。由花子の鋭い拳が直接、真正面から、康一の頬と脳を揺らした。
骨と骨がぶつかり合う音、鈍くこもった打撃音。少年の眼から火花が散る。
由花子は手を緩めない。熟年のボクサーのように、彼女は拳を振るい、そして同時に彼の身体に刻みつける様に言葉を吐いた。

「なんで、アンタは私のことを知らないのよッ! 時代を超えた? 過去から来た? 未来では恋人?
 ふざけるんじゃないわよッ! ならッ! そうなるはずだって言うのならッ! なんでアンタはッ!
 私のことを『知らない』だなんていうのよッ!」

一言一言、区切る度に腕が伸び、康一の口から血へどが噴き出る。
一度は収まりかけた左まぶたの痙攣。残忍性が少女の中でずるりずるりと影を伸ばしていく。
濁流のように溢れかえる凶暴な気持ちが、由花子を突き動かした。彼女に拳を振るわせていた。

「未来なんてどうでもいいわ。過去から来たなんて言い訳よ。時間? 時空? 私たちには関係ないじゃないッ!
 なんでアンタは私を見てないの? なんでアンタは私を知らないの?
 こんなにも私は康一君を見てきたというのに。アンタがそうしてた間にも私はアンタを見ていたというのに。
 康一君の魅力に気づいて、康一君の良さに気づいて、康一君のことばかり考えて。
 なのに康一君はその時私のことさえ知らなかったっていうのッ!? 私に対して何の感情も抱いていなかった、そう言うのッ!?」
「がハッ…………!」
「私が康一君を想い、康一君を呪い、康一君を愛し、康一君を憎み!
 康一君のために動いて、康一君のために走って、康一君のためにかけずり回って、康一君を殺そうとしていた時に!
 アンタは私のことを『知覚』すらしていなかったッ! アンタは私の名前も、顔も、存在自体を知らなかったッ!
 なんでなのよッ! 可笑しいじゃないッ! 私のことを何だと思っているの!? 舐めるんじゃないわよッ!
 このクソガキがッ! アンタにとって私って何なのよッ! アンタにとって私はその程度の存在だとでも言いたいのッ!?
 ふざけんじゃないわよ、この屑がッ!」

由花子の感情の高ぶりは、一向にとどまる気配を見せなかった。
無抵抗の康一をいたぶる行為は続いてゆく。康一は気を失うことも、逃れることも、そしてそのまま死ぬことすらも叶わない。

「私の中にいる康一君の分、康一君の中に私がいないなんて可笑しいじゃないッ!
 どうして私が愛した分、愛してくれないの? どうして私が呪った分、呪ってくれないの? どうして私が憎んだ分、憎んでくれないの?
 私が費やした時間の分だけ費やしなさいよ。私が殺したいと思うだけ私を殺したいと想いなさいよ。私が愛おしいと思ったぐらい私を愛おしいと想いなさいよ。
 どうして康一君はそうしてくれないの? なんで、なんで、なんで? ねぇ、なんで、なんで? なんでなのかしら、康一君?」

一向に終わる気配の見えなかった暴力の嵐。ようやく拳の動きが止まった。少女の美しかった手は血でまみれ、手の甲は慣れない殴打に腫れあがる。
少年の顔はもはや判別不可能なほどに損なわれていた。コブと膨らみ、青あざと血に染まった肌。
幾つもの影が彼の顔を覆い、そして濃淡混じった無数の彩りが浮かび上がっていた。

康一は息を吸い込んで、それを耳障りな音として吐きだした。
何かを言おうと彼は口を動かしたが、それすら不可能なほどに彼の顔は由花子によって破壊されてしまっていた。
ただそれでも底のない彼の深い眼は、じっと少女に注がれていた。何かを訴える様に。

また深い沈黙が訪れた。潮時だろう、と由花子は思う。
もう充分だ、もういいだろう。これ以上耐えられない。
殺してしまおう。広瀬康一を殺し、そしてそれでおしまいだ。
彼女は髪を震わせ、康一の腕や足を押さえつける。そして腕を伸ばし、その首に手をかけた。
じわりじわりと馴染ませるように、由花子が康一の首を締めあげていく。ゆっくりと時間をかけて、少年の気道が塞がっていく。

「…………」

少年の澄んだ目線はずっと彼女にそそがれていた。
責めるわけでもなく、恨みを込めたでもなく。
康一の視線は、ただひたすら真っすぐに由花子の中へと突き刺さっていた。
由花子が呟く。


「……何よ、戦う気なの?」


緑色のスタンドは控え目に姿を現していた。康一の上に馬乗りなった由花子、その脇三メートルほど離れた場所に、ふわりと浮かんでいる。
由花子は少しだけ力を緩めると、汚らしい昆虫を眺めるかのよう眼でエコーズのほうを向く。
康一が何を考えているのかはわからないが、そのスタンドは由花子に対峙するでもなく、ただそこに浮いているだけだった。
攻撃の姿勢を見せるでもなく、逃走の準備をするわけでもなく。エコーズは時折身体を揺すり、首を傾げるようなしぐさを見せた。
いちいち癪に障るやつだ、と少女は思った。

死ぬならさっさと死ねばいい。戦うならさっさと戦えばいい。
いちいち反発するガキだ。何故こうも無駄に抗うのか。どうして人がこうしようとした時に、それを邪魔するようにたてつくのか。
ああ、いらつく。黙って従えばいいものを。アンタは黙って私の言う通りにすればいい、それだけでいいのに……ッ。
そんなこともできないのか! そんなことすら邪魔しようというのか!

真意の見えない行動は彼女を惑わせる。エコーズの無機質な顔。何も浮かべない康一の顔つき。
その二つの曖昧さは少女を戸惑わせ、苛立たせ、そして怒らせた。
もしかしたらそれこそが康一の策なのでは。そう思ったが感情は押し殺せなかった。

由花子は緩めていた両手を完全に離し、スタンドを展開していく。
逃げ道を塞ぐように、ゆっくりと、だが広範囲に真黒な髪の毛が伸びていく。
四方八方、縦横無尽。部屋を、そしてそれどころか民家を丸ごと包むように、由花子の髪は張り巡らされていった。

エコーズはまるで蜘蛛の巣に迷い込んでしまった蝉のようだった。
逃げ道は塞がれ、自由に動くスペースはほとんどなく、視界はもはや真黒に染まっている。
時刻は早い時間だというのに室内は薄暗く、電気をつけなければとてもじゃないが廊下を進むのも困難だろう。

挑発にのっても構わない。やるっていうのであれば徹底的に、体の芯から刻みつけてやろう。
エコーズを切り裂き、同時に本人の首をへし折ってやる。
肉体的だけではなく精神的象徴としてのスタンドまでをも、彼女は切り刻み、八つ裂きにしようとしていた。
それほどまでに由花子は、猛烈に、そして容赦なく、康一の全てを破壊つくそうとしていた。

「…………」

エコーズが動きをピタリと止める。ラブ・デラックスが伸ばしかけていた末端を宙で留めた。
戦いはしんとした空白の後に起こる。短い間だった。その一瞬の間の後に、静寂が引き裂かれた。

緑色のスタンドが風のように動いた。その尾を丸め、解き放つ。狙いを定め放ったその一撃、弾丸のように一直線に向かっていく。
なだれ込む髪の毛は一部の隙間もなく、空間を押しつぶす。まるで堤防が決壊したかのように、黒い影が部屋中を覆い尽くした。

ズシン、と揺れる音。パリン、と割れる窓。床に倒れていた康一は突如跳ね起き、由花子を突き飛ばす。直後、少年が痛みに呻く声が聞こえた。
二人がいる民家はなんとか崩れ落ちるのを堪えていたが、ラブ・デラックスがトドメとばかりに柱を叩き折り、家は壊滅状態へと追い立てられた。
天井が崩れ、床は割れ、屋根が大きく傾いた。なんとか全壊はしなかったものの、崩れた民家の外観は同情を誘う。

少女は訝しげに暗闇を見つめた。半壊の民家で、自らを髪でクッションのように包み込んでいた少女に傷はない。彼女のその浮かない顔は痛みからではなかった。
不可解だったのだ。
康一のエコーズが最後に放った攻撃が、少女を突き飛ばした康一の行動が、彼女の心を乱していた。

エコーズの攻撃は由花子目掛けて放たれていなかった。彼女から大幅に逸れ、背後にあった窓をねらったのだ。
康一は唯一といっていい攻撃の機会を放棄して、彼女の後ろの窓を破壊した。何故? 何のために?
少年には由花子を突き飛ばせるほどの余裕があった。ならば彼は何故あれほどまでに無抵抗だったのだろう。
突き飛ばした時もそうだ。あんなことする必要なんてなかった。その時間で、逃げたり、或いは攻撃に対処できたはずだというのに。

由花子にはわからなかった。
何をしたのかはわかっても、何故そうしたのかがわからなかった。
何が起きたかはわかっていても、どうして彼がそう動いたのかがわからなかった。

少女は、ふぅと息を吐くと、少し離れた場所に位置する康一の傍で片膝をついた。少年の脇腹に鋭く空いた傷口。それは由花子がつけたものではない。
何者かが、つい今しがたナイフで刺しぬいたような傷だ。彼女はラブ・デラックスを展開し、包帯のようにその傷口を覆ってやる。
治療とまではいかないが、これで多少出血は抑えられる。何もしないよりはましという程度の施しだったが、今はそれで我慢するしかない。

由花子はじっと康一を見つめた。自分の拳で、風船のように腫れあがった少年の顔を見つめた。

「……どういうつもりよ」
「…………」
「私はアンタを殺そうとしていたのよ?」
「…………」
「首に手をかけ、絞め殺そうとしていたのよ?」
「…………」

沈黙。康一は何も言わない。
だが間違いないだろう。何も言わなくても由花子にはわかっていたことだ。
だがどうしてもそれを受けいれられなかった。それを認めると自分が惨めで、情けなく思えて。それは彼女にとって許されざることで。

エコーズが文字を投げつけた瞬間、走った閃光。彼女を突き飛ばしたと同時に、抉られた康一の脇腹。
視界の端、窓に映った怪しい影。包帯巻きの怪しいスタンド。舌打ちと同時に聞こえた、うすら寒い男の笑い声。

由花子は叫んだ。康一の肩を掴むと、彼女はその体を揺すり、彼に向って怒鳴った。

「なんで助けたのよッ!? なんで今、私を庇ったのよッ!?」

考えてみればおかしなことだった。
由花子が康一をさらった時も、彼は暴れることなく無抵抗だった。
民家にたどり着き話をしている最中も、由花子が暴力を振るった際も、康一はスタンドを出さなかった。

冷静になればわかることだった。
康一は由花子をなだめようとしていた。由花子を落ち着かせ、辺りに注意を向かせようとしていたのだ。
彼女に向けられていた視線は二つの意味を持っていた。
辺りを警戒するようにという無言のメッセージ。そして康一自身の眼で、彼は彼女が危機に巻き込まれることのないよう、常に警戒していた。

エコーズを出現させたのは口を開けなかったのもあるが、相手のスタンドを視界に捕えたから。
由花子を挑発するようにスタンドを動かしたのは、彼女が攻撃の対象にならぬよう。

広瀬康一は最初から“そうしていた”のだ。彼は“既に”由花子に出会った時から彼女を守っていた。
彼は理解していた。由花子がどんな人間かを。どんな激情家で思い込みが激しく、一度思い込んだら他人の意見を聞こうとしないかを。
無駄にもがけば二人もろとも屠られる。下手に刺激したなら殺人鬼に隙を見せることとなる。
康一はそれがわかっていたので、ああしたのだった。全ては自身と、由花子の安全のためだった。

犠牲になろうだなんて、そんな気持ちはなかった。
広瀬康一にとってそれはただ単にすべきことをしただけのこと。
未来の世界で自分が幸せにし、自分を幸せにしてくれるであろう少女をみすみす殺すことなんて、彼にはできるはずがなかった。

だから我慢した。痛くてもこらえた。言いたかったけど言わなかった。襲われる直前、彼女を突き飛ばした。
ただ由花子が気づくのが遅れただけのことだ。全てはそれだけのことだった。


「正直気の強い女の子とは聞いていたけど……まさか問答無用でここまでされるとは思ってなかったよ」


苦笑いを浮かべ、少年はそうこぼす。
腫れがすこしおさまったのか、もごもごとした声であったが、彼の口は言葉を紡いだ。
少女はまるで怒鳴られたようにその言葉に身体を固くする。
怒りは既に去っていた。殺意もいつのまにか、どこかに飛んでいた。

あるのは戸惑いと脅え。こんなことをした後でも、広瀬康一は笑った。自分をリラックスさせるように微笑んだのだ。

どうしてそんなことができる。何故そうまでしてくれる。
由花子はわからなかった。だがそのわからないという気持ちは、決して嫌ではなかった。
冷たく、黒く尖った殺意でなく、温かな濁流が彼女の中を駆け巡った。
罪悪感とそれ以外の“何か”が彼女の心を満たしていく。心を振るわせ、締め上げた。

「いきなりは無理かもしれない。やっぱり僕には初対面の女の子といきなり仲良くなるのは難しいや」

場所も忘れ、時も忘れ、康一は笑った。
そうしている場合でないとはわかっている。包帯巻きの謎のスタンド使い、彼の気配はまだ残っている。だがそんなことよりもやらねばいけないことがあるのだ。
罪悪感と戸惑いで、どんな顔をしたらいいかわからない。
そんな山岸由花子を放っておいていいわけがなかろうが。どうして彼女をこのままにしていられようか。

康一は床に腰を下ろしたまま、由花子の眼を見つめる。

だからさ、そう少年は言葉を繋ぎ彼女へと笑いかけた。朗らかで眩しいくらいの笑顔が彼の中で咲き誇っていた。

「まずはお友達から……始めませんか?」

それで由花子さんが満足してくれたら、の話だけど。
そう康一が慌てて付け加えた言葉を、彼女はもう一度口の中で繰り返した。
由花子は思わず脱力してしまいそうだった。指や、肩や、首や、足から一つ、また一つ力が消えていく気分だった。

少女はその時、自らの敗北を知った。広瀬康一には敵わない。自分は一生この男に勝つことはできない。

肉体的にという意味ではない。精神的にということでもない。
由花子は恥じた。自らの未熟さ、そして正眼のなさを恥じた。それは同時に広瀬康一への称賛でもあった。
自分の行為を許した、この少年の懐の大きさ。少女はそれを認めた。小さいけれど、なんて大きな男なのだと由花子は思った。

「……お友達も何も、まずはここを切り抜けないことには何も始まらないわ」

どうしたってキツイ口調になってしまう。ついさっきまで殺そうとした相手なのだ。今さら彼の存在を認めたところで、どう対処を変えればいいのかわからない。
いや、認めたからこそ、それを相手に知らせるようなあからさま態度の変化は由花子にとって照れくさかった。
自然とぶっきらぼうな口調になり、視線は周りへ向けられる。警戒すべき敵がいることを、どこかで歓迎していることは否めなかった。

「そうだね。じゃあ、僕と協力してくれる?」

康一は何も言わなかった。その変化に気づいているのか、先より少しだけ笑みを深めると彼はそうとだけ言った。
由花子は黙り、すぐには返事を返さない。そしてふんと鼻を鳴らし、彼に早く立ちあがるよう腕を貸す。少年は痛みに顔を歪ませながらもその手を取った。




山岸由花子、広瀬康一。
ガール、ミーツ、ボーイ。少女は少年に二度恋をする。
今、スタンド使い最凶のカップルが、一人の殺人鬼と対峙する。

はたして愛は障害を乗り越えるのか?



                                   to be continue……



【B-5 南部 民家/一日目 午前】
【J・ガイル】
[能力]:『吊られた男(ハングドマン)』
[時間軸]: ホル・ホースがアヴドゥルの額をぶちぬいたと思った瞬間。
[状態]:健康、イライラ
[装備]:コンビニ強盗のアーミーナイフ
[道具]:基本支給品、地下地図
[思考・状況]
基本行動方針:生き残る。
0.カップル死ねよ。
1.思う存分楽しむ。ついでにてワムウの味方や、気に入りそうな強者を探してやる。
2.12時間後、『DIOの館』でワムウと合流。
3.ワムウをDIOにぶつけ、つぶし合わせたい。
4.ダン? ああ、そんな奴もいたね。

【広瀬康一】
[スタンド]:『エコーズ act1』 → 『エコーズ act2』
[時間軸]:コミックス31巻終了時
[状態]:全身傷だらけ、顔中傷だらけ、血まみれ、貧血気味、ダメージ(大)
[装備]:なし
[道具]:基本支給品×2(食料1、水ボトル少し消費)、ランダム支給品1(確認済)
[思考・状況]
基本行動方針:殺し合いには乗らない。
1.とりあえずこの場を切り抜ける。

【山岸由花子】
[スタンド]:『ラブ・デラックス』
[時間軸]:JC32巻 康一を殺そうとしてドッグオンの音に吹き飛ばされる直前
[状態]:健康、血まみれ、???
[装備]:なし
[道具]:基本支給品×2、ランダム支給品合計2~4(由花子+アクセル・RO/確認済)
[思考・状況]
基本行動方針:広瀬康一を殺す?
1.康一くんをブッ殺す? まずはここを切り抜けてから。





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095:Panic! At The Disco! (前編) J・ガイル 132:マイ・ヒーローとラブ・デラックス (前編)
115:死亡遊戯(Game of Death)1 広瀬康一 132:マイ・ヒーローとラブ・デラックス (前編)
115:死亡遊戯(Game of Death)1 山岸由花子 132:マイ・ヒーローとラブ・デラックス (前編)

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最終更新:2014年06月09日 23:08