「そう。つまり、鈴仙。あなたは消滅しなければならない。一カケラの肉片も残さずにね」
ゆっくり、はっきりと、説き伏せるように。
あくまで落ち着いた口調の、
八雲紫のヴィオラのように澄んだ声には、絶対の圧力が込められていた。
「……聞こえなかった訳ではないでしょう?
それとも、聞こえた言葉の意味を信じたくないのか」
天然溶岩の輝きで薄明るく照らされた地底の洋館――地霊殿の一室で、
八雲紫の視線は眼の前の床に転がる、濡れた毛の塊に向けられていた。
巨大な毛虫のように身をくねらせる紫色の塊を足で踏みつけ、紫は言った。
「『運命とは性格なり』とは、ある賢者の言葉よ。
この場で、あなたの性格はあなただけでない、周りの存在全てに破滅をもたらすわ。
だからチリひとつ残さず消え去ってもらう必要があるのよ」
八雲紫の足元で、紫の毛虫――鈴仙は一層激しくもがいた。
急な運動と、天然の床暖房と、そして何よりも恐怖でびっしょりと汗をかき、
長い髪が背中の素肌にじっとりと貼り付いていた。
彼女の手足は、既にこの空間から失われていた。
両肩、両腿の付け根に、布の裂け目を広げたような黒い穴が張り付き、その先は消失している。
八雲紫の作り出した空間のスキマが、鈴仙の手足をこの部屋から排除したのだ。
朝露をまとうスミレのような濡れ髪のベールの下から、
玉の汗が浮かべて紅潮した肌と、丸くて短い尻尾が覗いている。
鈴仙は、裸だった。
「その恰好、まるで子供の玩具のお人形、いいえ、大人の玩具のお人形ね」
鈴仙が尺取り虫のように胴体をたわませ、一気に伸び上がる。
そして反動で目一杯背を反らし、首を起こして、
私に死ねというのか、と叫んだ。
「だから何回もそう言ってるじゃない」
とうとう恐れていたことが起こってしまったと、鈴仙は悟った。
◇ ◇
暖かな黄金色の光に、体が照らされているのを感じた。
その心地よい波長はまぶた越しに目で分析するまでもなく、全身の素肌で感じ取ることができた。
地上の大地を照らす、朝日だ。
もう、起きる時間なのだ。
(ん、うう……起き、なきゃ……)
起きたらまずは、朝食の用意、庭と門前の掃除、それから洗濯に、薬売りの支度をして――
ああ、その前に井戸で水を汲んで、顔を洗わないと。
そうだ、毎日タケノコばっかりだとてゐ辺りから文句が出てきそうだから、
薬売りの帰りには山菜でも摘んでこよう。イノシシが罠に掛かってないかも見ておこう。
そろそろ塀の周りの空堀も掘り直さないといけない時期だ。
何しろ周りが全部竹林だから、空堀で防がないと竹が敷地の中まで芽吹いてきて大変なことになる。
あの異変で永遠亭の歴史が動き出して以来、私の仕事は増えっぱなしだ。
兎たちはサボるばっかりで、ぜんぜん働かないし。
つい最近に再び歴史の動き出した永遠亭で、私はやることが増えただけだった。
きっと私はそうやって天寿を全うするまで働くのだろう。
そうしなければ、XX様のきついお仕置きが待っている。
だけど、大人しく従っている限りはとりあえず身の安全は保証してくれる。
私なんかにとっては、十分すぎる待遇なのだろう。幸福とは、そういうものなのだろう。
これ以上の希望を持つのは、贅沢に過ぎる。
自分から、何かをしようなんて思ってはいけない。そう、思っていた。
さあ、とにかく朝だ、お天道様が呼んでるから、起きないと――。
そうして重いまぶたを持ち上げた鈴仙の目の前には、一人の少年の顔があった。
金髪の巻き毛、よく通った鼻筋、そして意志の篭った瞳の輝き。
心地良いまどろみが一瞬で消し飛んだ。
忙しくも幸せだったはずの日々は過去へと吹っ飛んでいたことを悟った。
というか、半分自分で放り捨てていた。
がばと身を起こし、指の銃を構え、辺りを見回す鈴仙。
「ディアボロはここにはいない。姿を変えて……地底のどこかにいるはずだ」
「……ここは?」
「地霊殿……という、地下に建った屋敷らしいけど」
ゆっくりと、鈴仙が状況を思い出す。
毒雨の中を突っ切って、倒れかけながら憎きディアボロの元に辿り着くも、
ディアボロは少女の肉体を乗っ取って地下へと消え、私の傍には両腕を切り落とされた金髪の少年と、
スキマ妖怪がいて――そこでとうとう全身に回った毒をこらえきれなくなり、意識が途切れたのだった。
「あなたが……私を助けてくれたの?」
鈴仙はシーツの上で手足の指をグーパーして、体に異常が無いことを確かめた。
つま先から兎耳のてっぺん、肩にふくらはぎに膝小僧、内腿に尻尾に乳首と、
全身至る所を毒蛇に噛まれ、毒ガエルの汁を浴びたのだ。
出血毒で噛み傷から流れる血が止まらず、筋肉毒と神経毒で体中が痛んで痺れて、
意識を失くす頃には呼吸することもままならなくなってきていた。
放っておかれていたら、死んでいた。
「……ありがとう」
「僕の方こそ、お礼を言わせて欲しい」
少年がどういう魔法を使ったのか、鈴仙の全身に回った毒の痛みや痺れはすっかり消え、
蛇の噛み傷がチクチクとした痒みに似た感覚として残るだけになっている。
つま先、兎耳のてっぺん、肩、ふくらはぎ、膝小僧。
鈴仙は噛み傷を一つ一つ、手で触れ、目で見て、指で肌を伸ばしたりしながら検めてみたが、
針に刺されたような小さな傷が点々と残るだけとなり、ほとんど目立たなくなっていた。
内腿、尻尾、乳首。
デリケートな粘膜に爛れはなく、尻尾は元々毛で覆われていて傷は目立たず、
ここ数年で膨らみが目立ち始めた胸の二つの盛り上がりの先端は、幸いにして貫通はされておらず。
「……ん?」
「そもそも君の持ってきてくれたあの『糸』がなければ……」
鈴仙の全身が、凍りついたように強張った。
そして少年の顔と、自分の体を交互に見る。
少年は毒から回復した自分を見てほっとしてくれているようだった。それは良い。
だが自分の体。肌色だ。裸だ。全裸だ。
ブラウスもスカートも下着も靴下もネクタイも、何一つ身につけていない。
ピンク色の乳首も、口に出すのは憚られるような股間の部位も、
勢い良く飛び起きたせいで、シーツがはだけて丸出しだ。
「ふ……服は!? 私の服!! 私なんで裸!?」
しかも傷の確認のためとはいえ、局部を指で広げてまさぐったりしていた。
この少年の眼の前で。――最悪だ。
君の服なら、と平然と答えようとする少年から、
鈴仙が反射的に飛び退いたのは、『少女』であるならそれは自然な行動だった。
鈴仙が後頭部を壁に強打したのも、ベッドが壁際に据えられていたことを考慮すれば自然な事故だった。
鈴仙が壁に背を預けてずり落ちるのも、ぶつけた時の衝撃の大きさからすれば自然な反応だった。
鈴仙の上体がベッドと壁の隙間に落ち、腰から下だけがベッドの上で大股開きとなるのは、自然な体勢だった。
そして、少年が鈴仙を助けようとベッドに大きく身を乗り出すのも、至極自然なことで、
少年の口元が、鈴仙の股ぐらに。吐息の掛かるような、口づけするような至近距離に肉薄するのも――
自然だった。自然なケツ末なのだった。
「ど、どこ向かって話しかけてんのおぉぉぉぉ!
ていうか見るな喋るな触るな嗅ぐな息するなぁぁぁぁ!!」
股ぐらに息が掛かってこそばゆかった。不快ではない。――それがいけない。
これはダメなことだ。やっちゃいけないことだ。
名前も知らない、行きずりの少年と、してはいけないこと。
バチィィィィィン!
鈴仙は、その兎の妖獣らしい、ムッチリと肉づいた太腿を勢い良く叩き合わせた。
それは一歩間違えば少年の顔面を自らの股間にロックし、更なる誤解を生みかねない悪手だったが、
少年は素早い反応で身を起こし、兎の脚力の魔の手、いや魔の脚をからくも逃れた。
「あの……ホントに、頭は大丈夫?」
「うう……」
鈴仙は答えることができなかった。
見ず知らずの少年の前で全裸であんな姿やこんな姿を晒してしまい、
果たして大丈夫と答えて信じてもらえるのか。
顔も、耳も、全身の皮膚が熱くなっているのがわかった。
煮えたぎる兎鍋から脱出した直後のように体中が真っ赤なのは自分の目で見ても明らかで、
つまりそれは目の前の少年から見ても明らかということだった。
その上、少年は鈴仙が裸でいることに対してはさしたる動揺も見せずに「手を貸そうか」
などと爽やかな調子で訊ねてくるものだから、余計に少年の視線が突き刺さってきた。
羞恥が限界を振り切れて、未知の興奮に目覚めてしまいそうだった。
この場から姿を消し、透明になってしまいたかった。
「あっ」
鈴仙は、自分には『それ』が可能であることを思い出した。
最初からそうすれば良かったのだ。
鈴仙の瞳が一瞬淡く輝くと、彼女の体が手先、足先から胴体に向かって、周囲の物体に溶け込むように消失した。
光の波を操り、首から下を透明に見せたのだ。
そのままベッドの上に這い上がる鈴仙の姿は、ウサ耳の生えた生首が宙に浮いているようで、
裸には動じなかった少年も流石にぎょっとした。
「君のスタンド能力……なのか?」
「スタンドとは違う、私たちの種族が生まれつき持っている能力よ。
ここまで使いこなせるのは私くらいのものだけど」
鈴仙がふふんと鼻を鳴らし、長い髪をかきあげながら答えた。
が、その得意顔の視線を何気なく落とすと、鈴仙は再び全身(生首)を真っ赤に染め、
わざわざ透明化を解いてからベッドの上の毛布をひったくり、慌てて胸元から下に被せた。
透明化できる時間には限りがあるため、元々こうするつもりだったのだが、この慌てよう――
鈴仙は見てしまったのだった。
柔らかなベッドのシーツに、透明化した自分の腰を落とした部分(つまりお尻だ)が、
くっきりと細部まで『型取り』されてしまっているのを。
通常は決して見ることができないそれを他人に見られるのは、
実物を直接見られるよりさらに恥ずかしい気がした。
少年にまで見られたら、今度こそ未知の興奮に目覚めてしまう気がした。
穴があったら入りたかった。あるにはあるが、自分の穴には流石に入れそうもない。
「……今の見てないわよね?」
「見るも何も、見えなかったんだけど」
「扇情的[エロティック]とか、変態的[マニアック]を通り越して、
いっそ学術的[アカデミック]とでも表現したい光景だったわよねぇ」
突然響いてきた、聞き覚えのある女性の声。
この場で『知り合いを二人殺している』と報じられた者の声だ。
ハッとして鈴仙は立ち上がり、周囲を見回す。が、声の主の姿はない。
ジョルノも驚いているようだが、警戒する様子とは違う。
そういえばこの声の主は、少年と一緒にいた、気がする。――彼女も味方なのだろう。
ひとまず敵襲でないことに安堵した鈴仙がベッドに腰を下ろすと、壁の中から女性の首が生えてきていた。
長い金髪に、白いモブキャップ。金色の瞳に、紅玉[ルビー]の唇。
美しい姿形と声を持っていながら、その声や放つ波長には、どこか不安に感じさせる揺らぎが込められている。
「……八雲、紫さん?」
にこりと微笑みかけた紫の表情から、鈴仙は何の感情の波長も読み取ることができなかった。
○ ○
こうして、鈴仙と、鈴仙を助けた少年――
ジョルノ・ジョバァーナと、
八雲紫の3名がこれまでの経緯を共有することとなった。
鈴仙が意識を失っている間に、ジョルノと紫は既に情報を交換していたらしく、
まずは鈴仙が話し役に回ることとなった。
ディアボロがさとり妖怪を襲撃する瞬間の目撃、
永遠亭でのアリスとの遭遇(マミゾウもいたけど)、
ディアボロの襲撃と戦闘、アリスの死、そして、復讐の誓い。
復讐のため永遠亭の面々と別れ、優曇華院の名を捨てたこと。
ディアボロの足跡を辿るも、リンゴォ、シュトロハイムと知らない者に会うばかりで
追跡はうまくいかず、
八雲藍に襲われたこと、
さらに天気を操るスタンド使いには、復讐に備えて力を温存しようとした結果敗北し、
魔理沙の同行者である、徐倫なる女性の襲撃に協力させられたこと。
掲示板と魔理沙からの情報でディアボロの追跡を一旦取りやめ、
霊夢たちの救出に向かい、途中で小傘の残骸を見つけ、形見を拾い
(……口には出さなかったけど、ジョルノは少なからずショックを受けていたようだった)
ディエゴと青娥が転がっているのを目撃したあたりでディアボロのスタンドの発動を察知し――。
「雄叫び上げながらイノシシみたいに突っ込んできて、毒で倒れたという訳ね」
「刺し違えてでもあいつを殺(け)すつもりだった、だけど……」
事のあらましを鈴仙は包み隠さず話した。
藍や魔理沙のことは、話すべきか内心迷いもしたし、話すことはとても心苦しく感じた。
だが自分の命を助けた二人に対して不義理は働きたくなかったし、
その頭脳で知られる八雲紫の前で、その場しのぎの嘘は却って命取りと感じた。
ジョルノという少年も相当に頭が回るようで、こちらの思うことをすべて見透かされているように感じられた。
それに――魔理沙のことを、これ以上裏切りたくなかった。
「ところで、そろそろ服を着たらどうかしら」
話すことに夢中で鈴仙自身もすっかり忘れかけていたが、彼女は服をまだ着ていなかった。
元々着ていたブレザーやスカートや下着に至るまでが、
全身を毒に冒された鈴仙の手当のために切り裂かれてしまっていた。
今、それらは雨と泥と血と汗と毒ガエルの汁をたっぷり吸い込んだボロ布となって、部屋の隅に固められていた。
鈴仙が目覚めた時に紫の姿が見えなかったのは、
着替えを地霊殿の部屋から集めて回っていてくれたから、とのことらしい。
紫が支給品を収めていた例の紙を広げると、ベッドの上に何着もの衣服がこぼれ出てきた。
紫が目配せするとジョルノがうなずき、部屋を出ていった。
つい先ほどにあんな所まで見せてしまったのに、今さら着替えくらい、と鈴仙は思った。
それに鈴仙が気絶している間、ジョルノが治療を施してくれた時は、必要とはいえ、
耳にすればもっと恥ずかしいこともしたのだろう。
とはいえ、それでもまだ、鈴仙には異性の前で着替えを見せることへの羞恥心が残っていた。
だからひとまずは、この神出鬼没の妖怪の、らしくない気遣いを黙って受け取ることにした。
本当に、いつも人の事情にも構わずいきなり出てくるのに、らしくない。
鈴仙はベッドの脇に立ち、衣類の山を漁った。
出て来るのは当然、ここ地霊殿に住む面々の衣服だ。
これを着て出歩けば、窃盗行為になってしまう。
持ち主に遭遇した時の反応を思うと面倒だが、まさか永遠亭まで裸で着替えを取りに行く訳にもいかない。
竹林を全裸で闊歩する、ウサ耳女。誰かに見られてしまったら。
あるいは、見られてしまうかもしれないとビクつきながら、
真っ昼間の野山を何キロも歩かなければならないとしたら。
想像するだけで顔が熱くなってきた。
ここで着替えを失敬するほかない。
「……うすらでかい……」
だが、この地獄鴉の
霊烏路空[れいうじうつほ]――もっぱらお空[くう]と呼ばれている――の服は論外だ。
膝丈のスカートにブラウスと、ファッションの系統は鈴仙に最も近いのだが。
鈴仙とは体格が違いすぎる。彼女は鈴仙より頭一つは大きい長身だ。
もちろん、着るものも、何もかもが大きい。ブラのカップなど、どんぶり鉢並の大きさだ。帽子にもなりそうだ。
確かこいしという名前だったか、サトリ妖怪の妹の方の服は、明らかに鈴仙には小さすぎるようだ。
姉の方は別に――。こいしの姉のさとりの体が鈴仙と比べて大きいか、詳しくは知らない。
が、見たところは違和感なく袖を通せそうなサイズだ。
しかし、この服も鈴仙は避けたい、と思った。フリルが多すぎるのだ。
鈴仙とて少女、フリルがふんだんにあしらわれたこういう系統の、
いわゆるロリータ趣味の服に憧れがない訳ではない。
が、袖口までフリルが飾り立てられたさとりの服は、
指で銃をかたどった時、狙いを付ける妨げになるかも知れないと思った。
日頃から着慣れたさとりはともかく、
ブレザーなどの比較的シンプルなデザインの服に慣れ親しんだ鈴仙にとって、この服は邪魔くさく感じられた。
今は街に遊びに出るのではなく、戦わなければならない時だ。
さて、後はあのお燐と呼ばれる火車の服しか残っていない。
年中死体と懇ろにしている彼女の服を着るのは気が進まないが、裸よりはマシだ。
鈴仙と体格の近いお燐の服は、サイズは問題なさそうだが、これまた着慣れないワンピースだ。
コルセット付きのものと無いものがあるようだが――。
「あれ?」
衣類の山の中から不合格としたものをどけ、残った数着の中に見たことのない服があった。
生地は濃い紺色で、大きな襟には白いラインの意匠。
色は違うが、寺に住むムラサとかいう舟幽霊の服に似たデザインだ。
上着とセットであろう、同じ色のスカートもある。
裏地には『ぶどうヶ丘高校』の刺繍。外界の学生が着る服のようだ。
動きやすそうで、サイズもぴったり。うん、これにしよう。
サイズの合う下着と靴下も見つかった。
あとは――
「人間に尻尾は生えてないからね……」
鈴仙はスカートのお尻の部分を慎重に裂き、尻尾を通す穴を開けた。
玉兎の尻尾は短いので、服の中に隠しても問題ないのだが。
変装の時以外は、こうして尻尾を外に出した方がラクなのだ。
「鈴仙。確認したいことがあるのだけど」
背後から、今まで衣服を物色する鈴仙をじっと見守っていた八雲紫の声が聞こえてきた。
かがみ込んでいた鈴仙がギクリと反応すると、手にしていた下着をベッドに落とし、
ぴんと背筋を伸ばして体を強張らせた。
今まで黙って着替えを物色する鈴仙を見守っていた彼女から、えもいわれぬ圧力を感じたのだ。
「……何ですか?」
鈴仙は振り向かず、ゆっくりと両手を顔の高さまで上げた。
手のひらは背後の紫に向ける。ホールドアップの構えで敵意がないことを示した。
冷や汗が喉を伝い、なだらかな双丘の谷間からへそのくぼみに向かってしずくが流れた。
「聞きたいのは、二つ。鈴仙、あなた…………」
「……………」
「…………………………」
「………………………………………」
「………………………………………………………」
「………………………………………………………………………」
「………………………………………………………………………胸、大きくなった?」
「………………………………………………………………………は?」
「胸よ。バスト。永夜異変で初めて見た時は、もっと、真っ平らじゃなかった?」
「……ええ、昔の下着はもうだいぶキツくなってきましたが、それが何か」
「……そう」
鈴仙は大きく息をつく。何だ、そんなことに、大げさな。
ホールドアップのままだった腕を下ろしかけた所に、
「…………へ? 本人ですよ。間違いなく、本人です。
さっきも話した通り、優曇華院、とはもう名乗れませんが。
だいいち、気絶している間も別人に化け続けるなんて、普通だったらできないでしょう」
「やっぱりそこは……信じるしかない、のでしょうね。いきさつを話す時の様子からしても。
では、スタンド攻撃か、何か精神に作用する攻撃を受けたりはしなかった?」
「……あの天気男に反射された私自身の攻撃だけです、今は影響はありませんが。
……いったい何が言いたいんですか」
「ここで最初に遭った時のあなたの行動が、あまりにも不自然だったのよ。
どうして貴女はあの毒の雨の中、雄叫びを上げながらディアボロに向かって突進していったのか」
「奴を……ディアボロを殺(け)すために、決まっているじゃないですか。
毒蛇や毒ガエルが怖くて、復讐ができる訳ないでしょう!」
「本当に、ディアボロとやらを殺したかった?」
「本当です。……さっきの私の話、聞いていなかったんですか」
「聞いていたわ。あのディアボロという女、ああ、元は男だっけ、をたいそう憎んでいることも。
だからこそ、聞きたいのよ。あなたがそこで、何を考えていたのか。思い出して欲しいのよ。
まず、まともに浴びれば死に至りかねない毒の雨、あなたならどう防いだ?」
「毒雨を防ぐ障壁[バリア]を張ることができますし、
毒虫が嫌がる音波を発して遠ざけることだってできます。
存在の位相そのものをズラして、毒虫に全く触れないでいることだってできたかもしれません。
……この方法は試してないので、『制限』とやらでできなくなっているかも知れませんが。
あの中に無策で突っ込むのは、馬鹿のやることです」
「そうね。何の対策も打たないのは、馬鹿のやること。
……まさに、あの時のあなたのことよ。あなたを一度負かした天気男にも無警戒だったし。
ディアボロに近づくのも、色々降ってきてたにせよ
姿と音を消せば逃げられる確率はグッと下がったはずよ」
「奴は……急に姿を現したんです。考えつかなくても仕方ないでしょう」
「貴女、あそこに偶然ジョルノ君が居合わせていなければ、確実に死んでたのよ? それを理解していて?
死ぬかもしれない危険が迫る場面で何も対策を打たないなんて、
あなた、知能に『制限』を掛けられているのではなくて?
貴女が能力に制限を受けていたとしても、今挙げた内のいくつかの対策はできたハズよね?
少なくとも、姿を消すことはできたみたいだし」
紫はさらに続けて言った。
「……ねえ、鈴仙。あなたはどうしてあんな行動をとったの? 誰かに脅されてあんなことをしたの?
ディアボロにも貴女の能力は知れているのでしょう? 近寄れば逃げられると、わかっていたのに。
あの場で毒虫を防ぐ策を打たず、ディアボロを確実に仕留めるために姿を隠そうともせず、
ディアボロ以外の敵には全くの無防備で、あまつさえ存在をアピールするかのように大声で叫んだ。
貴女の行動は『無謀』にも満たない、『迂闊』とさえ評価できない。
……目的も手段も、完全に破綻した行動だった。
火の中の飛び込む虫のように、何の意志も感じられない、操り人形のような行動だった。
ただ『破滅』へと向かってまっすぐに突き進んでいくように思えたわ」
「……もう、だから、何だというんですか」
「……鈴仙、もう一度聞きましょう。
貴女は、本当に精神に異常をきたしていない? 誰かに操られていたりしていない?
ジョルノ君から聞いた話では、『嘘しか喋れなくなり、本当のことを言葉でも書き文字でも表現できなくなる』
というスタンドが存在するらしいわ。あなたも、気づかないうちにスタンド攻撃を受けたりしていない?
『無意識が破滅願望に満たされて、衝動的に自殺行為を行ってしまう』とか、
『ただ一つのことしか考えられなくなり、他の事に対する注意を全く失う』とか、
『目的に到達する意志を破壊されて、どこにも向かえなくなる』とか
……もっとストレートに、『救いようのない程の馬鹿になる』とか」
「私は……正気です。……信じてくださいよ。
そんなスタンド攻撃……私の気づく限りでは、受けていません。
酷い……あまりに、酷い言い草じゃないですか。あなたに関係ないことで」
「ふうん……あくまであなたは正気[シラフ]だと、そう言い張りたい訳ね」
「もう……何なんですか、さっきから。そうです、私は、正気です」
「……では、その言葉信じましょう。……信じるしか、ないのね」
「……はあーー…………気は済みましたか? いい加減、服、着ても……」
「………………それが、私の最も怖れていたことなのよ」
その一言で、部屋の気温が一気に30度も下がったように感じられた。
「……えっ」
「えっ、ではないでしょう。あの場であなたが異常な行動をとったという事実は、消えようがないのよ?
その原因が、スタンドか何かの、外的な要因によるものなら、それを取り除けば正気に戻るでしょうから、
ある意味、対処は楽とも言えるわね。
そうでないとすれば、貴女自身の精神が壊れているのよ。自分では正気だと思い込んでいるだけで」
「……どこが壊れている、というんですか。私の」
「貴女、あの気象を操るスタンド使いと戦って負けたわよね?」
「ええ。……最初から本気でいけば、少なくともあんな結果にはならなかったハズです。
……面識がないとはいえ、魔理沙の仲間を売る裏切る破目になるなんて」
「……そう。あのとき貴女は、このバトルロワイヤルで能力を出し惜しみすることは、許されない。
人間と言えども、あなたより遥かに格上の相手が、ディアボロ以外にも大勢存在するのだから。
戦うにせよ、逃げるにせよ、目の前の行動に死力を尽くさなければ、簡単に命を落とす。
それどころか、友人を巻き込む、情報を吐かされる、敵に武器を奪われる、と、
自分一人が死ぬより酷い結果になるかも知れないと、その時に後悔して学んだ……はずよね?」
「……はい」
「はい、ではないのよ。あなたは結局何も学んでいなかったのだから。
あなたが最善を尽くせば可能だった毒の雨を防ぐ手立ても、ディアボロを確実に仕留める方法も、
何一つ実行しなかったじゃない。
学習する能力を、何者かに剥奪されてしまったのかしら?」
「………………………………」
「……あなたの話を聞いていて、苛立ちが抑えきれなくなってきていたの、わからなかった?
あなたが物語の登場人物だとすれば、真っ先に退場しなければならないキャラクター。
主役だろうと敵役だろうと脇役だろうと、成長も学習もせずに何度も同じような失敗を繰り返す人物は、
読者を苛立たせ、興ざめさせるだけだもの」
「……どうする気ですか、私を」
鈴仙はホールドアップ体勢のままゆっくりと腰を落とし、
じりじりと、裸足で床を踏む感触を確かめた。――逃げる、べきか?
「どうしようもないわ、あなたは。
あなたが一人で壊れたゼンマイ人形みたいに破滅に突き進むのは勝手だわ。
好きに彷徨って、好きに野垂れ死になさい」
「じゃあ、もう放っておいて……」
「……と、してあげたい所だったけど、そうもいかない事情があるのよ。
このバトルロワイヤルにはDIOという外界の吸血鬼が参加している。
私たちの身体など、単なる輸血パックくらいにしか見ていないのがね。
奴は私たち幻想郷の妖怪の血を大いに気に入ってしまった上に、
肉の芽という自身の細胞の塊を他人の脳に植え付けて、忠実なしもべにしてしまうのよ。
そして、ディエゴという、小傘を死体も残さず切り刻んだ男。
奴は、傷つけた相手を恐竜に変えて、手下にすることができるのよ。
……今の貴女が彼らと遭遇すれば、間違いなく負ける。そして奴らの手駒にされてしまうわ」
「……奴らには近づくな、と。ご忠告、ありがとうございます。
『私・鈴仙は弱いから、DIOとディエゴに遭遇したら、その瞬間に敗北します。
そして、さっきまで友達だったヒトたちを殺して回る操り人形にされます。
ですから、絶対に奴らには近寄りません。姿を見たら、全速力で逃げることを誓います。
たとえ、あなた、八雲紫が襲われている状況でも。』
……で、良いですか」
「良く言えました。実際に遭った時に憶えていられるかまでは期待しないけど。
もう一つ、あなたの頭でこれ以上記憶するのは厳しいかも知れないけど、よーく、聞いてね?
あなた耳が四つもあるんでしょう? 私もついさっき知ったけど。
で、話というのは、
霍青娥……知っているでしょう?
彼女が、死体からキョンシーを作ることができるのを。
これから『確実』に犬死にするであろう貴女の死体を、彼女に与える訳には……」
――その後に続く言葉は、鈴仙には予想がついた。
鈴仙がやおら振り返り、駆け出そうとする。――が、できない。
脚をいくら動かしてみても、地に足が付かない。
全力で稼働しているはずの両脚は寒々とした空間をかき混ぜるだけで、一向に体のほうが付いてこない。
視線を落とすと――鈴仙の両脚が消失していた。
鈴仙の腿の付け根に取り付けられた空間の『スキマ』が、彼女の脚を奪っていた。
「逃げようだなんて、私の言いたいこと、なんとなく分かったのかしら。
ただ死ぬにしても、あの邪仙の術でキョンシーにされて暴れられては堪らないわ。
死ぬ時はなるべく五体不満足で死んで貰いたいのだけど、そう都合よくもいかないわよね」
両脚の支えを失った鈴仙の胴体が、床に落ちる。落下の途中で、腕も『スキマ』に奪われた。
受身を取ることもできず、尻尾の付け根を強かに打ち付け、鈴仙がうめいた。
「鈴仙、あなたは、この地に蔓延る悪意のエサ、【P】[パワーアップアイテム]に過ぎないのよ。
だから、そうなってしまう前にあなたに引導を渡し、
死体も、この下の溶岩で焼却しておきたいと思うのよ。灰も残さずに」
「そんな……私は、あいつを……ディアボロを殺(け)さなきゃならないんです!」
「あなたに、できると思うの?」
「できる、できないの問題じゃないんです。やらなきゃならないんです……。
アイツはもうアリスの仇ってだけじゃない。
私が……私が正しいと信じたモノを、目の前で簡単に叩きつぶしていった奴を、許せないんです」
「無理よ。あなたには」
「なぜ!? 一度は追い詰めた相手です、今度こそやってみせます」
「だからよ。手負いの虎ほど、手強いものはない。傷を負った経験を元に、学習し、成長している。
……それが人間という生き物の強さ。例えに挙げたのは虎だけど。
現に奴は命をチップに賭けに出て、そして勝利した。
奴の敵対者・トリッシュの殺害と、二つ目の体、という対価を勝ち取って、ね」
「じ、実の娘の体を奪うなんてやり方が、成長であるものか……!」
「ジョルノ君から話に聞く過去のディアボロの人物像から考えると、あの行動は考えられないわ。
過去のディアボロは、自分の正体を隠すために別の人格を作り出し、実の娘さえ消そうとした。
そんな臆病な男が、もう一人の人格の方に身体を明け渡し、娘の身体を乗っ取るなんて。
奴にどんな心境の変化があったかは知らないけど、奴もまた、成長しているのよ。恐らくね。
成長することに『制限』を掛けられているようにしか見えないあなたでは、
絶対に、絶対に勝利することはできないわ。
あなたごときがディアボロに勝利することは、一種の不当、不条理でさえあると思う
一度あなたがディアボロを撃退したのだって、何かの間違いだったんじゃない?」
「不当……!! 私が奴に挑むことそのものが、間違いだっていうんですか!?
ヒトの命を、娘の命まで、平気で踏みにじっていくあいつを倒そうとすることが!?」
「どの口でそんなこと言うのかしら。私たちは妖怪。
人を恐怖させなければ存在できない。人肉だって喰らう。
ディアボロが悪で、こっちが善だから勝てるって理屈は通じないのよ。
だいたい兎なんて、飢えたら妊娠中のお腹の子供まで吸収[たべ]ちゃう生き物じゃない。
善悪の天秤に掛けるなら、あなたはディアボロと大差ないのよ」
「……私は、人間なんて食べたことありません! 食べたいとも、思いません!
子供も作ったことなんてない! お腹の子なんて吸収[たべ]たことあるわけない!
それに、私だって成長したい! 成長したいのよ! アリスの仇を討ちたいし、友達だって助けたい!
成長しなきゃ、こんな風に、足手まといだって言われて、師匠に、見知った誰かに、見捨てられるって!
私が生まれついてのクズだって、そんなのわかってるわよ! 嫌ってほどに!
でもそんなの、もう嫌なんです……嫌なんですよ……嫌だから……変わりたかった、のに……」
「ふーん。……その想いまで、私は否定しようと思わないわ。
だけど、今は非常時。あなたの成長をゆっくり待つ時間があるかしら?
あなたの成長したいという願いは、痛いほど理解できた。
理解できたからこそ、今のあなたの体たらく……とても残念に思うの。
……だから、本当に心苦しいのだけど、あなたには、この戦いを降りてもらいたいと思う。そう――」
八雲紫はまっすぐこちらを見て、嘘偽りのない言葉で話している。鈴仙はなぜかそう感じた。
床に伏せっている鈴仙に、紫の様子を伺うことはできないが、本心からの言葉に聞こえた。
「つまり、鈴仙。あなたは消滅しなければならない。一カケラの肉片も残さずにね」
――――――
――――
――
とうとう恐れていたことが起こってしまったと、鈴仙は悟った。
死神の鎌は、再び鈴仙の喉元に突きつけられた。今度は敵ではなく、味方だと思っていたハズの人物から。
味方だと思っていたのはこちらだけで、向こうにとっては自分は敵、
いや、それより厄介な、無能な味方だということなのだろう。
こうなってしまえば、ただひたすらに、鈴仙はただひたすらに臆病、ただそれだけの存在だった。
罠に掛かってもがいている最中に猟師の足音を聴いた野ウサギは、きっとこんな心境なのだろう。
今はただ、復讐のことも友のことも忘れ、死にたくないの一心だった。
正しさも守るべきものも全て忘れ、ただただ死の恐怖に怯えてしまうのが嫌で嫌で仕方なかった。
結局、私は我が身がかわいいだけなのだ。心の中で仔ウサギが嘲笑った。
必死に否定したくても、否定し切れなかった、自分の浅ましい本質を白日のもとに晒されている気がした。
この浅ましい本質を乗り越えたいがために、鈴仙は『大地』に降り立ち、成長することを望んでいた。
だがそんな自己嫌悪は僅かに脳裏をよぎるだけで消え失せ、
今はどうにかして紫を説得する言葉を絞り出そうとしていた。
死にたくない。その一心だった。
「そんな……横暴にも程がある! ジョルノ君が、こんなこと許すとでも……」
「ジョルノ君の事は、貴女が心配することではないわ。
私が貴女の行動を不自然に感じたことを彼に話したら、
目を覚ました後の貴女の処理は、ひとまず一任してくれる、と」
「貴女は……妖怪を守りたいんじゃないんですか?
その為に幻想郷を創ったんでしょう!? 私はその住民と認めないとでも!?」
「確かに、貴女は月の生まれで、この郷で生を享けた訳ではない。
けど……貴女も今はもう、幻想郷の住民よ。それは認める。
それでも、貴女はこの場で処断しておくのが最善だと、私は判断するわ。
既に妖刀に憑かれた半霊の剣士と、戦いに狂った鬼で、この手は穢れてしまっている」
「やっぱり、あの記事は本当だったんですか!
貴女の友人がかわいがってた半霊の子まで……」
「……その事についての批判も中傷も、甘んじて受け入れましょう。
私自身も、DIOに敗れ、ディエゴに人質に取られ、霊夢の敗北という結果を生んだ。
狂っていると罵られようと、八つ当たりと詰られようと、
二度とあんな結果を繰り返させないために、最善を尽くす必要があるわ」
「……本当に、私は生きちゃいけない存在だと?
私がただ生きていることが、それだけで霊夢や魔理沙たちの害になる、と?」
「くどい。あなたの身勝手によって、大事な幻想郷の住民たちをこれ以上失う訳にはいかないのよ。
……どうしてこんなことを、DIOでもディエゴでも青娥でもディアボロでもなく、
最初にあなたなんかに言わなければならないの?」
「私は……あいつらと同じレベルなんですか……幻想郷にとっての『悪』なんですか……!」
「そうよ。確かに、貴女は『悪』だわ。生まれ持った性質をコントロールできず、
自覚なしに次々と周囲に破滅をもたらす……かなり最悪なタイプの『悪』なのかも」
首筋に突き立てられた死神の鎌が、そのまま食い込んでいくようだった。
頭蓋骨をなまくらのノコギリで、ゴリゴリ刻まれているような気分だった。
胸骨に手廻しドリルがグリグリとねじ込まれ、心に穴を空けられていく感覚だった。
潰れそうだった。何が、と表現はできないが、とにかく、潰れそうなほど苦しい。
私が死ぬのは、きっと正しいことだと、理解していた。――理解していたのだ。
だけど、それを仲間から告げられることはないと、どこかで油断していた。
それを言葉に出してしまっては、仲間同士で戦争になってしまうから。
甘かった、その懸念は前もって無条件降伏させられた状態から、現実となっていた。
私は死ぬしかないと、この上なく正しくて賢い人に無力化されてから告げられて、
それでも死ぬのが怖くて、板挟みなのだ。
「……だけど、あなたの命をつなぐ方法が一つだけある」
その言葉が、気を失いかけていた鈴仙の意識を現実に引き戻した。
「鈴仙。あなた、私の式になりなさい」
しき。鈴仙が、鼻声でその言葉を繰り返した。
しき、式。命令文を妖獣などの頭に貼り付けて、操るという――。
そういえば、レストランで襲ってきたあのキツネも――彼女は、式に命令されて、私を襲ったのか?
「先の放送で、八雲藍、橙の名が呼ばれた。
私との合流が叶う前に、二人とも何者かに殺されてしまったらしいわ」
「だから、私に彼女らの代わりを……」
「……務まる訳がないでしょう。今、手元にあるのは、急ごしらえの式よ。
貴女が目を覚ますまでの短い間にでっち上げた、ね」
紫が身を屈め、足元で転がる鈴仙の目の前に、紙切れを差し出して見せた。
数式らしき何かが細かい字でびっしり書き込まれた、手のひら大の黄色い御札だ。
「急造だから、当然、単純な命令しか聞けない。自分からは言葉も発せられない。
思考は一切できなくなる。声で動くラジコンに毛が生えた程度の存在になるわ。
……それでも、今の貴女を野放しにしておくよりは随分とマシ」
「……でも、そんな状態では」
「囮か、弾除けとしての働きが限度。次に敵に遭った時に九割がた死ぬわ。
いやその前に、崖から落ちたり、水に溺れたり、つまんない事故で死ぬかも。
あ、私が死んだら式の方も死体を残さず自殺するように、
そこだけはしっかりプログラムしてあるから、私のことは死ぬ気で護りなさい。
もっとも、死ぬ気で、という思考さえさせずに死ぬまでコキ使うけど」
それのどこが『命をつなぐ方法』なのか――と問うことは、今の鈴仙には不可能だった。
「万が一にもありえない可能性だけど、……だけど、このバトルロワイヤルで
私のことを式として護り通して、生還できたならば。
……貴女は自由の身よ。永遠亭に戻るなり、月に帰るなり、私の式を続けるなり……好きになさい」
本当にありえない。だけど、一切の思考が奪われるということは――
「いずれにせよ、式を受け入れれば、貴女はこれ以上の痛みも恐怖も感じずに済む。
万に一つの生還の可能性に賭けてみるのは、悪い選択ではないと思うけど?」
その通りなのだ。式となって、紫の操り人形になれば、何も感じずにすむ。
死に怯えることも、死に怯えて誰かを裏切る罪悪感に苛まれることも、
上っ面だけの、空っぽな自分自身の心の在処に悩むことも、ない。
天文学的な確率で生還できる可能性がある、というおまけ付きだ。
「あとは貴女が私の式を受け入れる、と誓ってさえくれれば、貴女を私の式にできる」
『受け入れます。この瞬間から、私めは紫様の式となることを誓います。』思わず声に出そうになる。
――が、出なかった。出せない。だって、式になってしまえば――。
「時間が惜しいわ。私が5から0まで数える間に決めてくれるかしら。決められないなら首を落とす」
「なっ!?」
「5」
――式になってしまえば、結局死ぬのだ。死の瞬間に苦しまずに済むだけで。
だが、式にならずとも、結局は死ぬ。今ここで、八雲紫に殺される。
今ここで紫が私を殺すというなら、脱出するしかない。
四肢が奪われていようと、紫を押しのけて、ここから逃げなければならない。
私が生きようとすること、それ自体が、間違いなのだろう。それでも、私は――。
「4」
鈴仙が首を振ってもがき、必死に周囲を見回した。
大量に汗をかき、床は水たまりのように濡れて不快だ。だが気にしている場合ではない。
まず鈴仙の『眼』で、背中を踏みつけている八雲紫を直接攻撃することはできない。
首が180度回る訳ではないのだから。
そして、鏡やガラスのような反射物も、視界の中で見つけることはできなかった。
手足をスキマから引き抜くことも、当然できない。
スタンドも発動できない。『サーフィス』の発動に必要な人形は、
部屋の隅、かつて鈴仙が着ていた布切れの山の中に紛れていて、触ることはできない。
「……3」
あと3秒も残っているのに、早くも私の詰みは確定してしまった。
残るは、命乞いしかない。『死にたくない』。『見捨てないで』。逆効果だ。
私の口から出れば、それは『すぐに殺してくれ』と同じだ。
顎の骨を通じて床から、ごろごろと地下の溶岩が煮えたぎる音が聞こえる。
私は、これからあの中に叩き落され、骨まで焼かれるのだ。跡形もなく。
――あの、化け傘と同じ、いや、断じて違う。彼女に失礼だ。
――私を助けてくれる人なんて、誰もいない。
たとえこの場に輝夜様かてゐが居たとして、私が助けを求めても、
彼女らは紫と一緒に私の体を踏みつけに掛かるだろう。
いや、私が裸でダルマにされている原因が、紫でなく、彼女たちになっているかもしれない。
ましてや八意様がこの場に居たとしたら、私はこの部屋で目を覚ますことなく即殺害されていただろう。
「…………2」
『師匠、二人組の方が勝ちました。人間と、そうでない奴のコンビです』
『一対二なら、数の多いほうが勝つのは当然……か。
信じがたいことだけど、本当に人間とそうでないのが協力しているとは』
脳裏を過るのは、過去の光景。今にしてみれば、随分と平和な光景。
踏み潰された毛虫のように絶望的な気分なのに、頭だけは冴えていた。否、暴走していた。
思考の波が狂ったように奔り、嫌でも思い出してしまうのだ。
死に瀕した者が、過去の思い出を次々に思い出すという――。
もう思い出すまいと、思い出したくないと思っていたことまでも。
「……………………1」
『ここ、永遠亭にまっすぐ向かってきます。……扉の封印を急ぎましょう。
奴らを姫様に会わせる訳にはいきません』
『てゐを時間稼ぎに向かわせたけど、あの二人が相手では殆ど持たないでしょうね。
ウドンゲ……封印に加えて、アレをやっておきなさい。私の言ったとおりに』
結局、最期まで『あんた』と一緒かよ。
――ああ、私は八意様のことが嫌いだったんだ。
そしてそんな彼女の言う通りにしか生きることのできない自分は、もっと嫌いだった。
なのに最期が、どうしてよりにもよって『あんた』なんだ――どうして。
「………………………………………………0」
『……私に、できるのでしょうか。やはり、姫様に頼んだ方が』
『ウドンゲ、姫の存在をアレに気取られるマネはしたくない……解らない訳ではないでしょう?
私が教えるべきことは教えた。貴女の理解もひとまずは十分。事前の練習でも成功した。
……なら、今回も、私の言ったとおりやればいい……そうでしょう?』
結局、私は『あんた』の敷いたレールを外れたら即死する運命だったということなのか。
私の心、私の意志、『あんた』という強大な存在の前では、何一つ無意味で、無駄なのだ。
そうだ、私は――。
ガゴン、と、鈴仙の顔面を石の床板が強打した。
鈴仙の体ごと跳ね上がる勢いで、床板が、鈴仙の顔面を叩き上げた。
死の直前、鈴仙の脳裏を過ぎったのは、もう何年も前の、地上での記憶。
永遠亭に侵入する者を迎え撃つため、空間の波長を操作して、廊下を『長く』した時の記憶。
空間の波長を伸ばせば距離が離れ――逆に縮めれば距離も近づく。
鈴仙は眼の前の空間――床板までの空間の波長を一気に縮め、
その勢いで床板を自分の顔面にぶつけて、跳んだ。
鈴仙の尻を押さえ込んでいた紫の左足さえ跳ね除け、手足を封じられた鈴仙が跳び上がる。
体重を乗せた軸足を押し上げられ、後ろにのけぞった紫の鼻の頭に、鈴仙の後頭部がめりこむ。
そのまま二人が、あおむけで重なり合って倒れる。
同時に、鈴仙は手足が戻ったことに気づくや否や、体を裏返して右腕を紫の首に回し、
そのまま腕を軸に、尻もちを突く紫の背後に素早く回り込んで、左手で紫の後頭部を抑える。
スリーパーホールド、文字通りの裸締めの体勢。
(ごめんなさい――それでも、私だけは、私を見捨てられない。
見捨てたら、そこで本当に終わりだから)
涙声でつぶやいて、鈴仙は腕に力を込めた。
どんな妖怪だろうと、人の形を取っているなら頸動脈の血流を止めれば意識を奪えるはず。
だが、おかしい。
紫が、抵抗しない。
抵抗の必要などなかったのだ。
先ほど鈴仙を助けてくれた少年が部屋に突入し、彼の出現させたスタンドが傍まで迫ってきていた。
黄金色のスタンド像は、鈴仙に目掛けて鋭く拳を突き出し、側頭部を――指で、弾いた。勢い良く。
要は、ただのデコピン。こめかみにデコピンを受けた――ただそれだけだった。
ただそれだけのはずが――痛い。気を失いそうな程、痛い。痛みの波のピークが、止まらない。
デコピンの直撃の瞬間のほんの一瞬の痛みが、何秒も、何十秒も――ずっと止まらない。
こめかみを、スタンドの指で抉り取られている、衝撃が脳まで達して、死ぬ――。
鈴仙が一瞬の間にそう錯覚し、我に帰った時、八雲紫は鈴仙の腕の中にいなかった。
こめかみを抑えて座り込む鈴仙の前に立ちはだかるように並ぶ、ジョルノと紫。
鈴仙は、巣穴に火炎放射器のノズルを押し込まれたアナウサギのような気持ちで二人を見上げた。
「……私は、どこにも行けなかった。初めから、何もしていないも同然だった……」
鈴仙は、正座だった。なぜだか、正座していた。
体の震えと涙が止まらなかったが、なるべく体の力を抜き、苦しまずに逝けるよう務めた。
最終更新:2017年07月20日 05:25