空には鉛色の雲が垂れ込めている。河野瑤子は部屋のシャッターを上げ、頭を掻き、その空を見つめる。空気は冷たく、乾燥していて、彼女の咽喉の痛みは恐らくそこに起因していた。横では小さな鼾をかきながら、夫が寝ている。彼を起こさないように寝室を抜け、瑤子は下の階へ降りた。リビングに入ったが、いつもストーブの前で寝転がっている筈の息子の姿がそこにはなかった。まだ眠っているのだろうか。
◇
こういう言い方が許されるのなら、俺と彼女が出会ったのは大体今から一年ぐらい前のことである。当時、高校一年生だった俺は、よく自分の限界について考えていた。
詰まるところ、この世は競争と不平等の世界だ。生まれてからの十数年間、俺はあらゆる領域でそれを嫌というほど思い知らされてきた。中産階級の家に生まれた俺にとって、経済的な悩みというのは殆ど無縁の存在だった。しかし、世間には普通の生活すらままならない、俺と同世代の人間だっているはずだ。俺が彼らの苦労を理解することは本質的に不可能である。けれど、彼らと俺の間に一体、どれだけの距離があるというのだろう?
何かの面で敗者に回らなければ、こんな考えを持つことはない。俺が負け組に振り分けられたのは、主に人間関係――もうちょっと絞って言えば恋愛においてだった。
断言するが、恋愛というシステムが生み出す不幸の量は、それが生み出す幸福の量よりも圧倒的に多い。大抵の人間は恋愛から幸福と不幸の両方を五分五分の割合で受け取るし、それ以外の人間は何も受け取らないか、不幸のみを受け取る羽目になるからである。そんな生産性皆無のシステムが何で未だに生き残っているのかといえば、それが経済や文化、社会などに密接な関わりを持っているからだ。とはいえ、そのことは恋愛それ自体の正当性を何一つ保証しない。それが保証するのは一旦定着したシステムを――それがいかに馬鹿げた代物だったとしても――破壊するのは困難を極めるということだけである。
性格、容姿、クラスの構成人員、その他諸々の、挙げていったらキリがない要素の絡み合いによって、俺は生徒内ヒエラルキーの最底辺にぶち込まれた。由々しき事態だった。それ以降の俺の人生は、重松清の小説の主人公の境遇を二倍に薄めたようなものだった。あいつの作品は暫く読んでるとうんざりしてくる。それと同じで、俺も毎日を生きていくうちに段々、自分の人生にうんざりしてきた。
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彼の自殺を知ったとき、私は他の人たちほど衝撃を受けなかったように思う。元々、私の中での彼の存在感は希薄なものだった。他の人たちにしたって、彼らの受けた衝撃を構成しているのは、喪失感ではなく罪悪感か危機感だっただろう。
先生が「秀嗣が亡くなった」と告げたとき、私の頭に浮かんだのは、彼が私を見るときのあの怯えるような目だ。それはまるで、得体の知れない生命体を目撃したような表情だった。断っておくが、私は彼に何もしていない。そもそも、関わること自体が殆どなかったのだ。何かちょっとした迷惑をかけたときに、謝罪の言葉を交わす程度の関係。
結局、彼がいなくなった今も、私の人生はそれほど変わっていない。せいぜい変わったのは、学校が暫く休みになったことと、話のネタが一つ増えたことと、駅前で何処かの民放の人間にインタビューされたこと――進学校である学校側からは、答えるのを止められていたけれど――ぐらい。挙げてみると、自分でも「少し冷たいな」と思うが、実際問題、その程度のことなのだ。
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彼女はいつも僕のことを慰めてくれる。僕が落ち込んでいると、彼女は何処からか現れて、僕に生きる希望を与えてくれる。
想像力が現実を振り切ると、それは妄想と呼ばれるようになり、医学治療の対象になる。個人にとっての「現実」とは、その人が「現実」だと信じているものの集合である。たとえば、子供はサンタクロースの実在を信じており、だからこそ彼らにとってサンタクロースは「現実」の存在となっている。それなのに、何故、妄想は治療されなければならないのか?妄想もそれを抱いている人自身にとっては「現実」であり、それを何故消滅させる必要があるのか?それは恐らく、妄想の存在が、その人に普通の社会生活を遅らせることを困難にさせるからである。つまり、実生活に影響を与えない程度の利用なら悪いことではないのだ。直視したくない現実からの一時的な避難場所として、時々活用する程度なら何も問題はない。しかし、その二つの境界を見極めることは難しい。
その中で俺は上手くやってきた方だと思う。
俺は彼女を抱きしめる。彼女はやわらかくて、温かで、いい匂いがする。俺は彼女に口付けをする。彼女は崩れるようにして俺に身を任せてくる。
とりあえず、高校生活も三ヶ月を過ぎた辺りで、俺は自分には恋愛はできないと見限った。大抵の人間は一生のもっと早い時期に、自分が負け組と勝ち組のどちらに属するのか気づくのだろうが、俺は自分でも気がつかないうちに自分のことを過信していたらしい。その次に俺は、他の領域での成功を掴もうと決心した。何かみんなから尊敬されるようなことをしようと考えた。帰宅部で、その上運動神経もなかったため、スポーツで何かを成すのは不可能だった。絵は描けなかった。そもそも、音符が読めない時点で、音楽方面も無理だった。色々と考えた挙句、俺は小説を書くことにした。しかし、それも結局実を結ばなかった。一見、小説の執筆というのは簡単に思えるが、実のところ想像以上にそれは難しいものだった。自分がいかに絶望的な文章力しか持ち合わせていないか、一文考える毎に思い知らされるのだ。おまけに話作りの才能も俺にはなかった。漸く完成したものを、学校内の生徒の作品を載せる会誌に投稿してみたが、何の反響もなかった。適当な賞にも送ったが、音沙汰はある筈もなかった。
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「やばくね?」
「何が?」
「河野の話だよ」
「別に問題なくね?」
「何でだよ。あいつが遺書とか残してて、そこに俺らのことが書いてあったらどうすんだ」
「俺らだけがああいうことしてたわけじゃないし。それにどっちかっていうと悪いのはあいつだろ。うざいし、空気読めないし」
「まあ、それはそうなんだけどさ。でも、そんなこと外部の人間にはわからないじゃん」
「やめてほしいよね。事情もわかってないくせに、偽善者ぶってそういう行動責めるのとか。お前らだって同じ状況にいたら、俺らと同じことやってただろっつーの」
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小説を書き始めて以来、俺はよく本を読むようになった。創作の参考にするつもりだったのだが、それは寧ろ、自分には文章を書くことによって他人を見返すことは不可能だという思いを強化するだけだった。何なのこいつら?何でこんな凄いものをしかも何冊も書けるの?意味がわからない。とはいえ、俺は小説それ自体よりも、何冊かの本の大体のあらすじを纏めて、一冊にしたようなものを読むことの方が多かった。そっちの方が効率よく情報を得られるような気がしたからだ。けれど、世間ではそういう本の読み方はあまり好ましいと考えられていない。本を読むのならちゃんと自分で、最後まで読め、という暗黙のルールのようなものが存在するのだ。研究してるわけじゃあるまいし本の読み方くらい自由にさせてくれ、とも思うのだが、何となくそのルールのことを気にして、俺は誰にも本の話をしないようにしていた。そうすれば、少なくともボロが出て、人に笑われることはない。そんな中、俺はアーサー・ミラーの「セールスマンの死」という戯曲に出会った。「成功」に取り憑かれた、一人の年老いた男の話だ。
当たり前のことだが、究極的には人に存在意義なんて存在しない。とはいえ、それでは人の精神が耐えられないので、俺たちは何らかの生きがいを見つけることを余儀なくされる。一番、楽なのは宗教だ。それは手っ取り早く生きる意味を与えてくれる。しかし、俺は無神論者だった。次に人が辿り着くのは誰かに自分のことを認めてもらうことだ。そのための手段の一つとして「成功」がある。
最終的に「セールスマンの死」の主人公は息子に、自分たちは成功者ではない、と諭され、それを受け入れる(いや、その後自殺するので、もしかしたら受け入れることができなかったのかも知れない)。俺と殆ど同じ状況だ。俺の場合、他人に諭される前に、自分で気づく羽目になったが。
けれど、俺には別の手段があった。現実の中で誰にも認めてもらえないのなら、俺を認めてくれる人間を想像の世界に仮構すればいい。
彼女は僕を慕ってくれる。彼女は僕が此処にいてもいい存在なんだって言ってくれる。
俺は彼女を押し倒す。彼女は少し不安そうな表情を浮かべているが、抵抗はしない。彼女は俺を信用しきっている。そうだ、彼女には俺しかいないのだ。
僕には彼女しかいないように。
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