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「そんなこともある」の?

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だれでも歓迎! 編集
 締め切り。
 それの順守は同人作家にとって死活問題である。
 そしてその言葉自体は、彼ら、または彼女らにとって悪魔のような意味を持つ。
 一体何人の作家がこの言葉に恐れ、そして苦しめられたのだろう。
「うー……あと5P……頑張れ私~……」
 机に向かい、鬼のような形相でペンを走らせているこの田村ひよりもまた、そんな作家のうちの一人だ。
「ごめんね、小早川さん、せっかく来てもらったのに」
「んーん、大丈夫、こっちで漫画読んでるから。終わったら呼んでね?」
 そう言ってゆたかはまた読みかけの漫画に目を落とした。

 ゆたかは今、ひよりの部屋に居る。
 しかし締め切りを間近に控えたひよりは何日か前から教室でもずっと絵を描いており、
 ゆたかと遊ぶ約束をしていたこの日曜日でさえも、
 ひよりは友人との安らげる一時を無下にし、その貴重な時間を原稿に割いている。
 友情と原稿、どっちが大事か、などという質問をゆたかはしないだろうが、
 もしされたとしたならば、ひよりはどう答えるのだろうか。
 よもや原稿、と答えることはないだろうが、今の時間に限って言えば、心情的にはそうなのだろう。
 そうでないとするならば、せっかく出向いてくれた友人に背を向け、
 ギリギリまで酷使された左手を尚も動かし続けているはずはないからだ。
 人間、追い詰められると力を発揮するというものだが、
 作家というのは追い詰められないと力を発揮できない人種が多いのだろうか。
 尚、これを書いている本人も、間違いなくそんな人種のうちの一人であることを明記しておく。
 しかし、ひよりとてさすがに友人を気遣えない人間ではない。
 少なくともひよりは、ゆたかと約束をしている日曜日だけは遊びに当てようと決めており、
 そのために、あと数時間で当日の日曜日になってしまうというギリギリの時間まで手を動かした。
 だが、締め切り前のひよりに、一日遊ぶ時間を作るという器用なことができるはずもなく、
 もう無理だと分かった瞬間にゆたかに電話を入れ、今度のイベントに出す本の締め切りがちょっとまずいということと、
 そういうことだから急なことで申し訳ないけれど、明日の約束をキャンセルしたいということを隠すことなく伝えた。
 しかしゆたかも次の日はすっかりひよりの家に行く気でおり、突然そんなことを言われても、
 特に勉強が忙しい時期でもない今、空いた一日を勉強に当てる気もおこらないので、
 ゆたかは迷惑でないならお邪魔したい、とひよりに伝えた。
 ひよりは教室で堂々と漫画を描くほどタフな度胸と集中力を持っているので、
 ゆたか一人が部屋に居ても気が散るということは無い。
 よってひよりがこのゆたかの申し出を断わることはなく、案の定喜んでOKしたのだが、
 実はひよりはゆたかにある『お願い』をしようと考えており、
 ただ単純に友人が家に来てくれるということ以上に、ひよりにとってそれは嬉しいことだった。
 そのようなことがあって今、ひよりが漫画を描き続ける音をBGMに、
 ゆたかがベッドで横になって漫画を読んでいるという珍妙な構図が出来上がっている。
 ちなみにかがみがこなたの家に遊びにきた時は、大抵このような構図になる。
 もっとも、かがみの場合はこなたのギャルゲー(時にはエロゲー)のBGMなのだが。
 尚、ゆたかがひよりの家に行きたかった理由は、ただ単に暇になるから、というだけではない。
 前にひよりの家に行ったときに見た漫画の続きがそれ以来少し気になっていたから、ということと、
 これはついでの理由だが、その漫画を読み始めた日にひよりの本棚の隅の方で見つけた、
 表紙に自分とみなみにどことなく似たような人物が書かれた薄い本を、もう一度見てみたいということもあった。
 そのときはひよりに「そ、それはダメーっ!!」と慌てた様子で言われ、すぐに隠されてしまったのだが、
 元の場所に戻っていないかな、とゆたかは漫画を本棚から取るときに隅の方を見てみた。
 しかしやはりどこかに隠されてしまったらしく、その本は姿を消してしまっていたが、
 そこまで気にしていたわけでもないので、ひよりにも聞くこともなく、すぐにそのことは忘れてしまった。

 ゆたかが来てから順調に聞こえていたように思えたカリカリというペンの音はいつからか止み、
 不思議に思ったゆたかがひよりをちらりと見てみると、ひよりは頭を抱えて机とにらめっこをしていた。
「大丈夫? 田村さん」
 ゆたかはいつまでも動かないひよりが心配になり、声をかけた。
「う、うん……いや、大丈夫じゃないかも……」
 ひよりは搾り出したような声で返す。
「何かあったの?」
「うーん、ちょっと構図取りが上手くいかなくて……」
 ゆたかは自分でも絵本を描いてみたりすることはあるが、
 画力において、ゆたかはひよりには到底及ばないと思っている。
 それ故、ゆたかは絵のことについて自分が手伝えることはないだろうなと思っていた。しかしひよりは、
「し、仕方ない……こうなったら奥の手を使うか……」
 と呟いた後、
「ごめんっ、小早川さん、ちょっと手伝ってくれる?」
 とゆたかに向かって両手を顔の前で合わせた。
「ええっ、私?」
「うん、そう。ちょこーっとポーズをとってほしいんだよね。……ダメかな?」
 ひよりは手を合わせたまま、片目だけを開け、窺うようにゆたかを見ている。
 ゆたかは最初、絵の手伝いを頼まれるのかと思い、驚いたが、
 ひよりの話を聞いて、それなら自分でも手伝えそうだと思い、
「そういうことだったら、もちろん協力するよ!」
 と、いつもの屈託のない笑顔で言った。
「ありがとう小早川さん、これで結構進むよ。
 でもなるべく頼らないようにしたいとは思ってたんだけどね……。
 なにせ一人じゃちょっと無理があるポーズで……」
 そう言ってひよりは視線を逸らし、人差し指で頬の辺りを掻く。
「どんなポーズなの?」
「えーと、それじゃあ、ちょっと顔を上げてくれる?」
「顔を? うーんと、こうでいいのかな」
「もうちょっと下かな……そうだねぇ、大体岩崎さんくらいの人を見上げる感じで……」
(みなみちゃん、かぁ……)
 ゆたかはいつもみなみと話すときに見上げるくらいの位置まで顔を動かした。
 みなみのことを思い浮かべると、それは不思議なほどに上手くいった。
「そうそう、そんな感じ!」
「これだけでいいの?」
「ううん、それから、目を閉じて。それで、ちょーっと唇を突き出してくれると嬉しいかなーなんて……」
「唇……? って、ええええっ!?」
 ゆたかはひよりの言うとおりにしかけたが、何かに気付いて思わず目を開けた。
「これって、キス、してるみたいになるんじゃ……」
 それもみなみちゃんと、と続けようとしたが、少し恥ずかしくなって止めた。
「あ、あはは……やっぱり、わかっちゃった? なんとか誤魔化せないかなーと思ったんだけど……」
 ひよりはこうに「ひよりん、原稿出来た?」と言われて「いやー、それがまだなんですよ~」と言うときのような、
 すっかりお馴染みの愛想笑いを浮かべた。
 目を閉じて、少し顔を上げて、そして唇をほんの少し突き出す。これでキスだと気付かないほうが難しいわけだが、
 まさかゆたかに「じゃあ、岩崎さんとキスするみたいな感じでお願い」と言えるはずもなく、
 なるべく遠まわしに頼もうと思ったのだ。結局、バレてしまったわけだが。
「やっぱり、恥ずかしいよね……?」
「ううん、大丈夫。確かにちょこっと恥ずかしいかもしれないけど、田村さんのためだもん、協力するよ」
「よかった、ありがとう、小早川さん」
 ゆたかが協力してくれると聞いて、ひよりはほっと胸を撫で下ろした。
 今回の新刊は例の如くみなみとゆたかがモデルの百合モノである。
 一般向けのため、二人のカラミのシーンは無いが、それだけに、ひよりは物語を締めくくるキスシーン、
 特にゆたか――がモデルの人物の顔のアップには一番力を入れたいと思っていた。
 しかし、日常的な表情なら学校でいくらでも観察出来るのだが、そういう顔はさすがに見ることが出来ず、
 いっそ参考となる資料を見たり、想像で描いてもいいのだが、出来れば直に見て描きたいと思っていたので、
 こうしてゆたかの協力が得られたことは非常に大きい。
「えっと、こう、でいいんだよね?」
 ゆたかはさっきひよりに言われたとおりに顔を上げ、目をつむり、ほんの少し唇を突き出した。
「うん、バッチリ! なるべく早く終わらせるからね。もう少し我慢してね」
 ひよりは今度ゆたかに何かお礼をしないといけないな、と思いながら、スケッチを始めた。
(なんか、ドキドキするな……)
 目を瞑ってからというもの、ゆたかは落ち着かなかった。
 ポーズがポーズだけに、もしかしたらキスされてしまうんじゃないか、などと、
 あり得ないことだろうが、そんなことを考えてしまって、
 ひょっとしたらひよりの顔が近づいてきているんじゃないと、度々薄く目を開けて前を確認した。
 もちろんそんなことはなく、ひよりは黙々と自分のことをスケッチしているのだが、
 再び目を閉じるとどうも気になってしまい、また目を開けてしまうのだ。
 御幣があるかもしれないが、ゆたか自身は、ひよりにキスされることが嫌なわけではない。
 人間、目を瞑るとどうも不安になってしまうものなのだ。
 ゆたかは子供の頃、ゆいと歩いているときに、「ゆたか、目を瞑って歩いてみない?」と言われて、
 遊びのつもりで二人で目を瞑って歩いてみたことを思い出した。
 前方に何も危険がないことを確認した上で目をつぶり、まっすぐ歩いていたつもりでも、
 どこか不安になって、結局はすぐに目を開けてしまったのだ。
 ゆたかは今の自分の感覚が、なんとなくそれと似ているなと思った。
 しかしゆたかも最初は何度か目を開けたり、閉じたりを繰り返していたが、
 何も不安に思うことがないと分かると、目を開けることは無くなっていった。
 ただ、やはりこのポーズは慣れないらしく、少しだけドキドキする感覚はいつまでも治まらなかった。
(うぅ、小早川さん、やっぱり可愛いな~……)
 ひよりは何度キスしてしまいたくなる衝動に駆られたか分からない。
 自分が男で、目の前でこんな表情をされたら、キスしないはずがないだろうと思った。
 しかし今はゆたかにキスすることが目的ではない。ましてや自分は女だ。
 ゆたかに対してキスすることなど、許されるはずがない。
(でも、女だからこそ……?)
 ひよりは百合や薔薇といった同性愛間の恋愛モノを好む傾向があるが、
 自身がそういう嗜好なのかといえばそうではない。
 しかし、今はゆたかにキスすることに、何の嫌悪も感じていなかった。
 スケッチが終わっても、ひよりはゆたかにそのことを告げず、目を瞑り唇を突き出すゆたかのことを見ていた。
 きっと、自分が同じポーズを取ってみても、ここまで魅力的にならないだろう。
 ひよりは自分の胸が、なぜか普段よりも数割増しで早く鳴っているのを感じながら、そう思った。
「た、田村さん、まだかな……?」
 ゆたかは自分の心音だけがいやに響き渡る奇妙な静寂に耐え切れず、口を開いた。
「う、うん……もう少しだから……ごめんね」
 そう言ってひよりはとっくにスケッチの終わった紙を置き、
 そして、ゆたかに気付かれないように、ゆっくりとゆたかの前に移動した。
 ゆたかとひよりの身長差は十センチ強といったところで、丁度ゆたかのおでこの上あたりにひよりの口がくる。
 このまま自分が少し顔を下げれば――そこまで考えて、ひよりはようやく自分がしていることに気が付いた。
(わ、私、何してるんだろう……)
 しかし、冷静さを取り戻すまでには至らない。
 相変わらず心臓は大きく自分の胸を打ち、軽い風邪でも引いたのかと思うほど呼吸も深い。
 目の前には、所謂「キス待ち」状態のゆたか。そして自分は、そんなゆたかの目の前。
 なぜ、自分はこんなことをしているのだろう。
 しかし、ひよりはその理由を考えなかった。
 また、理由など初めからないのかもしれない。
 ひよりは甘い蜜に誘われる蝶のように、今こうしてゆたかの前に居る。
 性別という枠を超えて、人間の本質的な欲求を刺激するほどに、ゆたかは“あまりにも可愛すぎた”。
 敢えて理由を付けるとするならば、そういうことだろう。
 ひよりはゴクリ、と自分が生唾を飲み込む音を聞いた。
 そして、ゆっくりと顔を下げ、ゆたかとの距離を縮めていった。
 もう、自分が何をしているのかは考えなかった。
 ただ、ゆたかと唇を重ねることにしか頭は回らず、
 少しづつ、少しづつゆたかとの距離が小さくなるごとに、自分の心臓は大きく高鳴っていく。
 そして、もうあと数センチで二人の唇が重なる、そんな時だった。
「!!」
 スケッチの音が聞こえなくなっておかしく思ったのか、目を開いたゆたかと、ひよりはバッチリと目が合った。
 ゆたかは声こそは出さなかったが、驚いた目で固まったままのひよりを見つめている
 ひよりはショートしたようになって、何も考えられなくなった。
 ただ、「キスしようとしていたことが気付かれた」という事実が、ひよりに突き刺さっていた。
 時間にして数秒、しかしその何倍もの時間を体感し、ひよりはようやく顔を遠ざけようとした。

 ――しかし、ゆたかはひよりとは全く逆の行動を取った。

 ゆたかは、その大きく見開いた目を、また先ほどのようにゆっくりと閉じていった。
 ひよりは、何故ゆたかが目を閉じたのか分からなかった。
 ひよりはてっきり、ゆたかに拒絶されると思っていたからだ。
 しかし、ゆたかが取った行動は、少なくとも拒絶ではない。むしろ、自分に対する許容だ。
 ひよりは少し躊躇した後、確かめるようにゆっくりとゆたかに顔を近づけた。
 そして、二人の柔らかな唇が優しい音をたてて一つに繋がった。

 ゆたかは、どうして自分が目を閉じたのか分からなかった。
 目を開けたとき、ゆたかは確かに自分が今にもひよりにキスされようとしていることを理解した。
 しかし、そこに拒絶の気持ちは生まれなかった。
 何故、と問われれば、答えは明確である。ゆたかは、ひよりとのキスを嫌だと思わなかったからだ。
 ただ、ゆたかはそれが不思議だった。
 どうして自分はこんなにもすんなりと、ひよりを受け入れられたのだろうと。
 はっきりとした答えは分からない。
 ただ、少なくともゆたか自身にも、ひよりとキスしたいという気持ちがあったことだけは確かである。
 ゆたかは気付いていないかもしれないが、その思いが、ゆたかに目を閉じさせた確かな一因なのだ。

「んむ……」
 ゆたかとひよりは、長い間唇を重ねていた。
 数秒程度の軽いキスではない。数十秒、おそらくは数分間も触れ合っていたかもしれない。
 その間、ずっと二人は一つだった。
(小早川さんの唇、柔らかくて、温かい……)
 ひよりは初めて触れた友人の口先の感触に、そんなことを思った。
 あまりの心地よさに、いつまでも触れていたかった。
 手持ち無沙汰な手が寂しくなってゆたかをそっと抱きしめると、先ほどまでの距離がさらに縮まり、
 ゆたかの小さな体の温もりが洋服を通り越して自分の中に入りこんで、体の奥底にまで浸み込んでいった。
 触れている唇はじっとしていられず、
 ゆたかの頼りない吐息とシャンプーの甘い香りに惑わされながら、ゆたかを求めてその口先を何度も撫でた。
 二人の時間は過ぎていく。
 二人の空間は、誰にも邪魔されない。
 高鳴る心臓とは裏腹に、二人の周りは穏やかだった。

 やがて、どちらともなく二人は二人になった。
 火照った顔を見合わせ、湿った口元から震えた息を零し、そのまま数秒間見つめあった。
 しかし時間が経ち段々と冷静になるにつれて、ひよりは自分の血の気が引いていくのを感じた。
「ごっ、ごごごごごごめんっ!!」
 ひよりは言い訳を考える前に、ゆたかに向かって深々と頭を下げていた。
「え、えーと、何でこんなことになっちゃったか分かんないんだけど……その、とにかく、ごめんなさいっ!!」
 ひよりがそう大声で謝ったので、しばらくぼんやりとしていたゆたかもどこかから戻ってきたようにはっとして、
 ようやく自分に頭を下げているひよりに気が付いた。
「う、ううんっ、謝らなくていいよ、田村さん。嫌だったわけじゃなかったし……。
 えと、そんなことより、スケッチは出来た? 役にたったならいいんだけど……」
「あ、う、うんっ、バッチリだよっ! ありがとうね、小早川さん」
「よかった、どういたしまして」
「じ、じゃあ、私は残りを仕上げちゃうから、もうちょっと待っててね」
 少しぎこちない会話を終え、ひよりはまた愛想笑いをしながら机に向かった。
 しかし、描きかけの原稿はいつになっても完成する気配はなかった。
 ペンを取り、原稿に筆先を付けても、ひよりの頭の中には先ほどのゆたかとのキスのことばかり浮かんでくる。
 生まれて初めて、あんなにも長い間キスをした。
 そのときの唇の感触、感じたことのない心地よさは、すぐに忘れられるものではなかった。

 むしろ、忘れたくない。もう一度、ゆたかを感じたい。

「小早川さ……」
 ひよりがもう一度「お願い」しようとゆたかのほうを向くと、
 ゆたかは先ほどの緊張が解けたからか、心地よさそうな顔を枕に埋め、静かに寝息をたてていた。
 時計を見るとキスした後からすでに十分近く経っており、ゆたかが眠ってしまうには充分な時間だったのだろう。
 ただ、その行為は「あまりに危機感がなさ過ぎる」とひよりは思った。
 仮にも目を瞑っているゆたかに無断でキスしようとした自分に対して、もう少し警戒する等あってもいいだろうに、
 そんな無防備な顔で眠られては、悪戯な心を芽生えさせるなというほうが無理な話だ。
「小早川さん……」
 ひよりは椅子から降り、ゆたかを起こさないようにようにそっとベッドに上り、
 寝ているゆたかの体の両側に肘を付いて、その無垢な寝顔を覗き込む体勢になった。
 間近で見るゆたかの顔は、綺麗だった。
 肌を汚すものは何もなく、どこを見ても真っ白だった。
 幼い外見と相まって、じっと見ていると赤ちゃんのようにも見えてくる。
 すべすべの柔らかそうな肌にひよりは思わず手を触れてみたくなったが、
 ゆたかを起こすといけないのでぐっと我慢した。
 そして一しきり美しい肌を見つめ終えた後、
 ひよりはさっき自分と長い間触れ合っていたゆたかの唇に目を向けた。
 キスしたときの感触で分かっていたのだが、やはりゆたかの唇は少しふっくらとしていた。
 病弱な子だとは思えないほど血色もよく、リップを塗っているのかと思うほど艶々としている。
 この唇と自分の唇が触れ合っていたのだと思うと、急に贅沢なことをしていたんだなという気になった。
 そしてこの先ゆたかの唇に触れる輩がいるのかと思うとなんだか腹立たしくなってきて、
 ずっと自分一人のものに出来ればいいのになどど、勝手な空想すら描いた。
 寝ている隙にキスをするということはしたくないが、
 このままずっと見ていると、いつかは吸い寄せられてしまいそうだった。
 いっそ、軽くでもいいからキスしてしまおうか――そう考えたとき、
 不意にゆたかが寝返りを打ち、体が自分の腕に当たって目を覚ました。
「ふぇ……田村さん……?」
 寝ぼけ眼で自分を見上げるゆたかは思ったほど動揺しておらず、
 むしろ動揺していたのは自分のほうだった。
 前科があるにも関わらず、懲りずにこんなことをしているのだ。もし嫌われても仕方がないと思った。
 しかしゆたかはあの時、キスを終えた時に、確かに「嫌ではなかった」と言った。
 それが本当なら、もしかすると今こうしていることも許されるのではないか。
 そればかりか、ゆたか次第では、もう一度――そこまで考えて、ひよりはゆたかを見た。
 ゆたかは相変わらず自分をまっすぐ見上げており、若干、普段よりも顔が赤くなっている気がした。
 口元は何かを言い出そうとしているが、声にはならない。
 見つめ合う時間がだけが過ぎ、ようやくゆたかは意を決して、しかし初めて目をそらしながら言った。

「田村さん……キス、したい……?」

 誰と、とそこまで頭が回らないほど冷静さを失っているわけではない。
 しかし、その問いはひよりの頭を一瞬真っ白にするのに充分な威力を持っていた。
(これって……誘われてるってことなのかな……?)
 所謂「誘い受け」。そんな言葉がひよりの頭の中を過ぎる。
 もしゆたかがキスしたいと思っていなければ、おそらくこんなセリフは出てこないだろう。
 ただ、優しいゆたかのこと、自分を気遣ってそう言ってくれているという可能性もある。
 ひよりは無理強いはしたくないという自分の意思を伝えようと、口を開いた。
 しかし、
「私は――」
 先に言葉を発したのはゆたかだった。
 そらされた目は再びひよりの目をまっすぐに見つめている。
「田村さんと……したい、な……」
 そう言ってまた恥ずかしそうに目を伏せるゆたかに、ひよりはもう自分の気持ちを抑えることが出来なかった。





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