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『4seasons』 冬/きれいな感情(第三話)

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『4seasons』 冬/きれいな感情(第二話)より続く
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


§5

 放課後の学校は不思議なほどひっそりとしている。
 今までならば、授業は終わってもしばらくの間教室や廊下は騒がしいものだった。
 部活に向かう者や委員会の集まりがある者だけではない。どこかに遊びに行く算段をしている生徒たちや、ここぞとばかりに机を並べていちゃついている恋人たちや、なんとなく話に花が咲いてしまって立ち去りがたく感じている仲良しグループや。
 そんな生徒たちがちらほらといて、時折華やいだ声を上げるはずだった。
 私たちがその仲良しグループの最たるものだったからよくわかる。放課後の学校というものは、拘束から解放され、今日一日何をしようかと期待に胸を弾ませる高校生たちの高揚感で溢れているものだ。
 けれど今この高等部校舎三階の西翼を満たしているのは、静寂だけだった。受験生たちは、授業が終わったとしても、開放感などとはまるで無縁な生き物だ。いそいそと荷物を纏めて、足速に家路を急いでいく。英単語の一つでも、年号の一つでも覚えるため、自宅の机へ向かって急いでいく。
 本当についさっきまでここに四百人近い生徒たちがいたのだろうか。ふとそれが信じられなくなる。生徒たちがいない学校がこんなに寂しいものだとは思いもしなかったのだ。結局のところ校舎というのはただの容れ物で、そこに中身がなければ何の意味もないのだろう。そんなことを考える。
「そんなところかな。お前の方から他に訊きたいことはあるか?」
 灰色の進路指導室に響く桜庭先生の抑揚のない声は、静寂に吸い込まれて消えていってしまいそうだった。
 桜庭先生は、整った顔立ちをしているのにまるで外見に気を遣わない人だった。頭はぼさぼさで、いつも着ている白衣にはところどころスープでも跳ねたのか染みがある。靴のかかとを踏みながらペタペタと歩き、所構わず禁煙パイポを食わえだす。趣味は禁煙だということで、それを初めて聞いたとき私は『禁煙ほど簡単なことはない。私はこれまで百回は禁煙に挑戦した』というマーク・トウェインの言葉を思い出したものだった。
 普通ならば生徒に人気が出る類の先生ではなかったけれど、桜庭先生は不思議なほど生徒にもてた。それも、男子にも女子にも同じくらいに。
 その原因は、なんと云っても小学生みたいな低身長にあるのだろう。同学年の中でもかなり背が低いこなたと同じくらいの背丈で、とても成人女性には見えなかった。けれどそんな容姿でありながらも蓮っ葉な口調で筋の通ったことをづけづけと云う。そんなミスマッチが人気の秘密なのだと思う。
「――いえ、特には」
 私がそう云うと、先生は束ねた資料を机に立ててトントンと揃えだした。それが面談は終わったという合図だと受け止めた私は、椅子を引いて立ち上がろうとする。けれど腰を浮かしかけたところで、先生はつけ加えるように私に云った。
「――まあ、柊姉に関しちゃ私はほとんど心配していない。お前なら落ちてもそれをバネにしてまた頑張れるだろうからな」
「ちょ、ちょーっ! 待ってください! 私、落ちるの前提なんですかっ!」
「冗談だ。いやなに、一度は私も柊姉に突っ込まれておきたいと思ってな」
 云うに事欠いてその理由は一体なんだろう。そんなに私は突っ込みキャラとして名を馳せていたのだろうか。
 少しだけ厭な眩暈を感じながらも、律儀にお望みの突っ込みを返す私だった。
「それは夢が叶ってよかったですね! っていうか、云っていい冗談と悪い冗談があると思うんですが!」
「ああ、あるな。今のは云っていい方の冗談だ」
「とてもそうは思えませんけど……」
「だから云ったろう、お前に関しては私は何も心配していないんだ」
 そう云って先生はニヤリと笑った。
 なんだか上手く云ったようで、結局のところただトートロジーで誤魔化しただけじゃないか。
 そう云ってやりたいと思ったけれど、“上手く云ってやった”みたいな顔をして得意そうに目を細めている先生を見ると、つい毒気を抜かれてしまって私は苦笑する。
 そうか、こういう目に私は弱いんだな。そんなことを考える。
「……一応、ご期待に添えるよう頑張ります。ありがとうございました」
 けれど、深く礼をして進路指導室を出ようとした私の背中に、再び先生の声が投げかけられた。
「――本当に、他に訊きたいことはないのか?」
 その真面目そうな口調に思わず振り返った。灰色の部屋の灰色の椅子に座って、先生は私のことをじっと見つめている。眼鏡の奥、見開かれた大きな瞳。今までみたことがない表情だった。それは、今までずっと見せてきた教師としての顔ではないように私は思った。
「――ありません」
 云いかけた言葉をぐっと飲み込んで、私は答える。
「そうか。柊姉は私に訊きたいことがあるんだと思っていたが、気のせいだったか」
 唐突に私に対する興味が失せたように、先生は手元の書類に目をやり始めた。私はそんな先生にもう一度会釈をして扉を閉める。

 ――訊けるはずがない。
 先生はレズビアンなんですか? なんてこと。

 口さがない生徒の間でよく話題になる。桜庭先生は養護教諭の天原先生とは幼なじみで、二人は恋人同士なんだと。
『レズなんだってー、なんかキモッ』
『マジで変態なんだ、ちょっとがっかり』
『どっちがタチでどっちがネコなんだろうな』
 クラスメイトがそう云っているところも一度だけ聞いたことがある。わりと勉強はよくできるグループの人たちだったけれど、他人に対する配慮が少し欠けていて、他の人の反感を買うことも多かった。
 案の定、そんな話を快く思わなかった正義感の強い子がいて、その三人の前にずかずかと歩いていって云いはなった。

「ちょっと、失礼なうわさ話やめなさいよ! 桜庭先生がそんなのなわけないでしょ!」

 ――あれは、確か九月くらいだったか。
 その言葉を聞いたときの衝撃を覚えている。
 心臓に錐を突き刺されてかき回されるようだった。

 ――“そんなの”なんだ、私は。
 そう云われるのが失礼になる。そんな存在なんだ。

 わかっていた。それはわかっていたはずだ。
 自分が同性に恋をできる人間だと気がついてから、その手の本はよく読んできたのだから。けれど知識として理解するのと、実際に現実として目にすることとはまた違っていて。
 私はそんな彼女の言葉に傷ついて、そうして慄然として青ざめた。彼女の言葉のその先にあるものに思い至って、少しだけ手が震えた。

 ――もし。
 あいつのことだからあり得ないとは思うけど、もし――こなたにそんな風に云われてしまったら。

 それ以降、私は生きていく自信がない。

 そう、思ったのだ。

 後ろ手に扉を閉めると、部屋を出た廊下は静寂で満たされている。
 聞こえる音と云えば、私の上履きがリノリウムの床を踏んで立てるコツコツという音くらいで。消火栓のランプが赤い光を投げかけていて、それが私を責めたてているように思えた。
 ――もし、私があの質問をしたなら、桜庭先生はどう答えただろう。
 訊いてみたかった気がする。二人が本当にビアンだったなら。
 幼なじみだった二人がどこでどうその気持ちに気がついて、どうやってそれを受け入れていったのか。二人共がそうなのか、それともどちらかは違うのか。違うなら、その関係はどういうものなのか。二人のことを誰が知っているのか。両親に告げたときどういう反応をされたのか。将来のことをどう思うのか。
 訊いてみたかったと思う。訊いても良かったのかも知れないとも思う。

 みだしなみに気を遣っていないはずの桜庭先生の爪は。
 きれいに深爪されてヤスリがかけられていた。


§6

 一旦誰もいない教室に戻って荷物を手に取ると、念のためB組の方も覗いてみることにした。けれどやっぱりそこもがらんとしていて、薄暗い教室の中、何かの遺跡のように机が立ち並んでいるだけだった。
 ここにもいないと云うことは、まだ会議中なのだろう。そう思って長い廊下を奥に進んでいくと、案の定K組の教室にはまだ灯りがついていて、中から人の気配がしていた。
 丁度会議が終わったのだろうか、折しも後ろの扉を開けて何人かの生徒が教室から出てくるところだった。その中の一人は我がC組の学級委員で、私は片手を上げて挨拶をする。
「おーっす。おつかれさま、今終わったところ?」
「ああ、柊さん進路指導だったんだっけ。うん、今終わったところ。高良さんなら中にいるわよ」
 別れの挨拶をしてから教室に入ると、果たしてみゆきはそこにいた。お互いの顔が見えるように四角く並べた机の中でも中心の席に座っていて、何人かの生徒たちと談笑している。
 ただの学級委員会とは云っても、十三クラス分ともなれば総数二十六人の大所帯だ。一人二人全然知らない人がいてもおかしくはないのだが、幸いそこにいたのは全員見知った顔だった。
「あら、かがみさん、そちらも終わったのですね」
「うん、一緒に帰ろうって思ってね。あ、そんなに急がなくていいわよ。なんの話してたの?」
「ええと、この一年間楽しかったですね、と。そのようなことです」
 そう云ってみゆきは立ち上がる。背もたれのコートを羽織って帰り支度をするところをみると、本当に話は終わっていたようだった。 残りの学級委員たちに手を振って教室から出ると、みゆきと二人で歩きだす。リノリウムの床を踏んで立てるコツコツという音が、今度は二人分、廊下に響いては消えていく。
「――なんだか信じられない気がします。つい先日入学したように感じますのに」
「――そうよねぇ」
 長身のみゆきは私より歩幅が大きくて、のんびり歩いているように見えるのに、ともすれば私は遅れがちになる。普段私たちと歩くときにはつかさと一緒に後ろの方にいることが多いけれど、ずっと気を遣って合わせていたのだろうな。そんなことを考える。
 桜色の長髪が踊っているその背中は、不思議と普段より大きなものに見えていた。思えば私は、ずっとこんな風にこの親友の背中を眺めてきたのかもしれない。
「――あ、ちょっと速すぎましたか? すみません、考え事をしてしまって」
 ふと気がついた風で振り返り、顔を赤くして歩幅を緩めるみゆきだった。
「ううん、気にしないでって、みゆき、前っ!」
「は?」
 慌てて前を向いたときには遅かった。目の前の障害物に思い切りぶつかったみゆきは、きゅぅ、と変な声を発して私の方へ倒れ込んでくる。ずしりと重い――それはあくまで私やつかさやこなたと比べての話で、BMIで云うなら平均値だ――みゆきの身体を受け止めて、私は足を踏ん張った。
「すいません、すいません」
 ずれた眼鏡を直そうともせずにひたすら謝るみゆきだったけれど、まずは眼鏡を掛け直して何にぶつかったのかを確かめる方が先決だと私は思った。
「――みゆき、あんたが謝ってる相手、それ下駄箱だから」
「あ、あう」
 それでもこういうドジなところは昔から変わらない。
 眼鏡をかけ直してほっと吐息を漏らすみゆきを眺めながら、そう思った。
「よかった、ぶつかった人はいなかったのですね」
「……おい、どこのウィスキーのCMだそれは」
 思わず私はまた突っ込んで。
 二人で顔を見合わせて笑った。
 そうするだけで、殺風景だった昇降口も少しだけ華やいだ。 

「あの、少し寄り道してもよろしいですか?」
「いいけど、どうしたの? みゆきが寄り道なんて珍しいわね」
「ええ、実はちょっと」
 みゆきが私を連れてバスを降りたのは、大池公園前のバス停だった。ここは、この周辺としてはかなり大きい公園だ。その名に反して少々こじんまりとした池の周辺には遊歩道や芝生が敷き詰められていて、市民の憩いの場になっている。
 私たちが降り立ったバス通り沿いには、公園の外周に沿って長い長い藤棚がしつらえられていて、今はその面影もないが、藤が咲く季節には紫色の綺麗な花を咲かせていたものだった。
「懐かしいわねー、藤祭りのときにみんなで来たわよね」
「ええ、まるで昨日のことのように思い出します。こなたさんが、かがみさんとつかささんの髪を藤に見立てて色々と仰ってましたよね」
「……変なことばっかり覚えてるわね、あんたは」
「ふふ、そうではないことも覚えてますよ」
 そう云って微笑んだみゆきに私は苦笑する。この子なら本当にどんなことでも覚えていそうで、何を云ってもやぶ蛇になってしまいそうだったからだ。
「あの日は花曇りの曇天でしたけれど、藤の花やパレードの華やかさは少しもそうは感じさせませんでした。かがみさんはこなたさんがからかって云う言葉にいちいち赤くなったりそっぽを向いたり口調を荒げたりしていて、私は普段のかがみさんより少しだけ敏感だな、と思ったのです」
「――悪かったわね、私だってどうしていいかわからなかったのよ」
「ええ。やはりあのころからでしたか。かがみさんがこなたさんへの思いに気づかれたのは」
 何も云わなくても、やぶ蛇なのだった。
 みゆきはその話をするためにここで降りたのだろうか。そんなことを考える。
 移動販売の屋台でクレープを買って、行儀が悪いと思いながらも歩きながら二人で食べた。私は生チョコバナナを、みゆきはミックスフルーツを買っていた。
 うららかな休日には賑わっているであろう公園も、平日の薄曇りともなれば閑散としている。
 常緑樹の緑は弱い陽射しを浴びて空に溶け込むように滲んでいて、梢を枯らした落葉樹の灰色がそこかしこに突き出ている。鈍色の空を写した池はそよともゆらがず鏡のように佇んでいた。
 女子高生の姿なんて、私たちぐらいだ。その他にみかける姿と云えば、散歩をしている年配の方や、ベビーカーを押している若い母親などだった。
 なんとなく喋りながらなんとなく歩いて、なんとなく自販機で買ったコーヒーを啜りながら、なんとなくベンチに座って池を見下ろした。
「――やはり、少し寒かったですね」
 そう云って、身を縮ませるみゆきだった。
「今年の冬は例年より寒くなるって云ってたわね」
「そうみたいですね。なんだか本当に地球が温暖化しているのかどうか、疑問に思ってしまいます」
「そりゃねぇ。いくら温暖化って云っても、数年での変化なんて微々たるものでしょうよ。年ごとの揺らぎ幅の方が大きくて当たり前じゃないの」
「ええ、そうなんでしょうね。なにせ、つい三十年前までは毎年気温が下がっていたようですし」
「え、そうなの? 産業革命以降の温室効果ガスの増加が温暖化を引き起こしているなら、長期的には緩やかに上がっているはずじゃない」
「そう思いますよね。実際温室効果ガスが温暖化に果たしている割合はやはり大きいようで、今年の気候変動に関する政府間パネルによる第四次評価報告書では、人間の活動により温暖化が引き起こされている確率はかなり高いとのことでした。この報告は信頼できます」
「ああそう、それそれ、九割以上の確率で温室効果ガスが主要因になってるってやつよね。……でも、それじゃなんで三十年前までは気温が下がってたのかしら?」
「不思議ですよねぇ。千九百三十年代から七十年代までは例年気温が下がっていっていて、気候学者たちは真剣に地球が寒冷化していくのかもしれないと話し合っていたようですよ」
「……むう」
「まあ、気象なんて複雑系の最たるものですから、ちょっとしたことで変わってしまうのでしょう。百年後の未来予測なども出ているようですけれど、一週間後の天気もよくわからないのですからねぇ」
「まあねー。ってか百年後なんていいから、せめて二ヶ半後の未来のことを誰か教えて欲しいもんだわね」
「あら、でも今それを知ってしまったら、合格しているにしろそうでないにしろ、これからの行動に影響が出てしまって、未来が変わってしまいませんか?」
「それはほら、努力して未来を変えたってことで――って、そうするとその未来はもう未来じゃないから、未来をみたことにはならないのか」
 ――そうですよ。
 みゆきはそう云って、ころころと笑った。
 こんな風にちょっと真面目な話をできる相手なんて友達の間ではみゆきだけだったから、久しぶりに二人きりで話せて楽しかった。けれどこれはやはりどう考えても雑談で、一体みゆきはこの公園にきて何がしたかったのだろうと気になった。
「ねえ、それで何しにここにきたのよ?」
「あ、目的ならもう達成しました。おつきあいいただいてありがとうございます」
「へ? 何よそれ」
「ええと、笑わないでくださいね?」
「そりゃ、内容によるわね」
 そう云って、口元に手を当ててニシシと笑う。みゆきはそんな私を見て、なぜだか頬を桜色に染めていた。
「えっと、お友達と歩きながらクレープを食べてみたかったんです」
「――へ? そんなこと?」
「はい。さきほど会議が終わった後の雑談で、この辺りにはいつもクレープ屋さんがいて、美味しかったと仰っていた方がいらっしゃいましたので」
 そう云って恥ずかしそうにうつむくみゆきを見ていると、私も同じように恥ずかしく感じてしまって、頬が赤らんでいくのを自覚する。
「そういえば、みゆきとはあんまりこんな感じの出歩き方はしなかったものね」
 家が遠かったから。
 田園調府からみゆきを呼び出すには、それなりのイベントが必要だったのだ。
 ちょっとした買い物なら大宮あたりで済ませていたし、こなたの家は自転車でいける距離だったから埼玉近辺で遊ぶことが多かった。学校帰りに買い物に行ったりはよくしたけれど、糟日部駅前のお店に入った後にファストフードでお喋りをしていくくらいで。
 クレープ屋で買い食いするようなことも、こなたやつかさとはした覚えがあるけれど、そういえばみゆきとはしたことがなかったかなと思う。
「いざ終わりが近づいてみると、なんだかやり残したことが沢山あったように思えてしまいまして……」
「……みゆき」
「億劫がっていないで、もっと積極的にみなさんと遊びに行っていれば良かったと。今更ながらに後悔の念が襲ってくるのです」
 こんな風に寂しそうにしているみゆきを見るのは初めてだ。
 みゆきはいつもにこにこと笑っていて、なんでも穏やかに受け止めて、膨大な知識量に裏打ちされた智慧でどんなことも乗り越えていって。
 そう、みゆきは私のカミングアウトにもまるで動じずに、さも当たり前のこととして受け止めてくれていた。性的指向や性自認が環境によらず生まれつきの“特徴”なのだと知っていて、それを殊更に重く受け止めることをしなかった。ただ髪の色や背の高さが違うのと同じような感覚で扱って、そうしてずっと私とこなたのことを見守ってくれていた。
 思えばそれは、なんと得難きことだったのだろう。そんな親友を持っている性的マイノリティなど、一体この国にどれだけいることか。
 今も何十万人という女の子や男の子が、自分の感情に戸惑って、家族にも友達にも云えずに、きっと一人で泣いている。自分は異常なのだと、変態なのだと自分で自分を責めて、他人にも責められて、世界に押しつぶされそうになって泣いている。
 そんな中、私には何もかもわかってくれる親友と、自分も同性を愛せればよかったのにと云って一緒に泣いてくれる妹がいるのだ。
 私はきっと、世界一幸せな性的マイノリティだろう。
 そうしていつも私を幸せにしてくれるみゆきが寂しそうにうつむいているのを見ていると、私は胸が締めつけられるような気持ちになるのだった。
「別にさ、これで終わりってわけじゃないじゃない。やり残したことがあったなら、これから全部一緒にやっていこうよ。私たちはずっと友達なんだから」
 そう云って、みゆきの手を取って撫でさする。その感触はつかさのものともこなたのものとも違っていて、ふわふわと柔らかくてどこまでも沈んでいってしまいそうな、そんなみゆきの手だった。
「――はい、ありがとうございます。ふふ、これからもよろしくお願いいたしますね」
 ぺこりと頭を下げて。
 顔を上げたみゆきはいつも通りのふわふわした笑顔をしていて、私は少しだけ安心する。
「よろしくね。ってか、どうせまたずっと私とかつかさとかこなたがよろしくされる日々なんだろうけどなー」
 私がそう云うと、みゆきもそれが満更でもなさそうで、口元に手を当ててころころと笑っている。
 そんなことを離しているうちに、気がつけばいつのまにか陽も落ちかけていた。オレンジ色の暮色が斜めに差し込んで、こじんまりとした池を黄金の海に変えている。どこもかしこも黄金に輝いて、私たちは今光の国にいる。
「――ですが」
 ぽつりと、みゆきが云った。
「ですがきっと、大学生になった私たちは、みんな今とはちょっと違っているのでしょう。あの灰色の校舎に同じ服を着ておしこめられて、同じ物を見て泣いたり笑ったりしながら、少しずつ他人と違う自分だけのものを見つけていって、やがて一人ずつ違っていく。少女だった、子供だった、思春期だった私たちとは――」

 そのとき私が目を細めていたのは、夕陽が眩しかったからではない。
 夕陽を浴びて陰を曳いている、みゆきの横顔があまりにもきれいだったからだ。

 私はそのとき、アンドレ・ジイドの言葉を思い出していた。

 ああ! 青春!
 人は一生に一時しかそれを所有しない。
 残りの年月はただそれを思い出すだけだ。

 青春や思春期を詠んだ言葉は多かったけれど、その渦中にある私にはどれもいまいちピンとこなかった。この言葉も正直よくわからなかったけれど、思い出したのはその最後の一文のことをふと考えたからだ。

 ――私は、この三年間のことを時々思い出しながら、ずっと生きていくのだろう。

 その言葉を詠ったアンドレ・ジイドは、同性愛者だった。


§インテルメッツォ

 そんな記憶が次々と浮かんでくる。
 ともすれば降る雪に紛れてしまいそうな、そんな記憶が思い浮かぶまま、私は走っている。
 あやのも、みさおも、つかさも、みゆきも。私だって。
 みんな懸命に三年間生きてきた。自分にも他の誰かにも、自分の未来や人生にも、せめてできるだけ誠実に。きっとそう思って、懸命に足掻きながら生きてきた。

 ――なのに、なんであいつは逃げてるんだ!

 わかってる。こなたが背負っているものを、私は全部知ることはできない。それは私の物よりも重いのかもしれない。わからない。つかさの物よりも重いのかもしれない。わからない。みゆきの物よりも重いのかもしれない。わからない。
 けれど、云ってくれなければ、わかりようがない。
 思えば夏のときもそうだった。
 あいつはすぐ一人で溜め込んで、何も云わずに勝手にぐるぐるして、誰にも頼らずに傷ついて。

 そうしてある日激情を爆発させて、たった一人で逃げるんだ。

 これだけ周りに頼れる人がいるのに。私はともかく、みゆきや、そうじろうさんや、ゆいさんや。つかさやあやのやみさおだって、きっと喜んでこなたを支えるはずなのに。
 いつも無理して、なんでもないふりをして、笑ってる演技ばかり上手くって。

 ――けれど、声をかけたこなたの背中は泣いているように見えていた。

 あの日。あの夏の日に、私は泣きながら逃げるこなたを追いかけることができなかった。私は自分のことで精一杯で、うちのめされてただ路地に倒れ込むだけだった。
 けれど今はもう違う。みゆきに助けられ、つかさに励まされ、そうじろうさんに託され、かなたさんの墓前で誓った。
 だから私は走っている。だから私は走ることができている。

 角を曲がると、公園が見えてきた。
 次々と空から落ちてくる雪が世界をほの白いグラデーションに染めていて、視界はどこまでも悪かった。けれどあの街灯の下に揺れている青い髪のことを私が見間違えるはずもない。公園の入り口で柵に手をついてうずくまっているのは、私が追いかけてきた相手、泉こなたに他ならない。大きく揺れている背中は、乱れた呼吸を整えようと深呼吸しているせいか。
 ――運動不足ね。
 こなたが慣れない受験勉強に身を入れていて助かった。おかげでこうしておいつくことができたのだ。

 ぐっと足に力を篭めてラストスパート。

 ――待ってろこなた。
 私が、全部許してやる。

 十二月二十四日。
 冬の夜を、私は走った。


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『4seasons』 冬/きれいな感情(第四話)へ続く




















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  • 本当に羨ましい。
    私はネットでしか同性が好きなことを
    公言できないです(´ω`)
    1人でも話せる相手がいれば…って思うけど
    チキン故に結局誰にも言えないで
    友達として好きな子と一緒にいます。
    異性が好きになればよかったのになぁ -- 名無しさん (2012-11-20 00:04:50)
  • 「文学」の定義なんて考えるだけ無駄だけど、
    それでもあえて言いたい。
    この作品は「文学」だと。 -- 名無しさん (2008-06-05 00:13:53)
  • 読む度にこの作品にあえて良かったと思います
    -- 名無しさん (2008-06-04 20:46:57)
  • 結末を知りたいけど終わってほしくないような…何度も頭から読み返してしまう -- 名無しさん (2008-06-04 15:32:41)
  • いよいよクライマックスも近いのかな… -- 名無しさん (2008-06-04 13:00:30)

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