Beautiful World 10章/魔法より続く
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§プロローグ
「柊かがみです、よろしくお願いします」
そう云って、その女の子は深々と頭を下げたのだ。
俺はと云えば、突然目の前に差し出されたその綺麗な藤色の髪の毛を、バカみたいに呆然と眺めていたのである。
前髪はサイドに垂らしながらおでこを出し、後ろに引っ張った髪の毛を後頭部で一つにまとめている。一分の隙もなくぴっちりとそろった生え際、知性の高さを示すように突き出た美しい形のおでこ。知的さと同時に堅さも感じるそんなイメージを、低めのポニーを括った紫紺色のリボンがお釣りがくるほど華やかなものにさせていて。
「あ、こ、こちらこそ。よ、よろしくお願いします」
俺はしどろもどろになりながら、そんな愚にもつかない挨拶を繰り出したのだった。
だって、仕方がない。
こんな子が突然目の前に現れたら、それは仕方がない。
一部のリア充なイケメンはともかく、この世にうごめく大多数のぐうたら男子大学生なら、きっとわかってくれるはずだと信じたい。
身体にぴったりと合った海色のボーダーTシャツは肩が少し膨らんだパフスリーブになっていて、袖口のカフスがきらりと光っている。ボトムはボトムでやたらとスキニーなデニムを穿いていて、これもまた綺麗な足の線を惜しげもなくさらけだしている。
女性諸君に石を投げられるのを覚悟で云えば、この手の格好は、少しでも身体にだらしないところがあれば途端にみっともなく見える物なのである。
けれど目の前の女の子は、さらりとそれを着こなしていた。
どこまでも細くスマートな手足。
ぴんと伸びた姿勢のいい背筋。
透き通るような白い肌。
きゅっと上がった形のいいお尻。
そうして、ああそうして。
丁度俺の手にすっぽりと収まるくらいの小振りの胸は、見る者全てを魅了するような魅惑的な曲線を描いていて。
見た瞬間、俺の目はそこに釘付けになってしまったのである。
世にうごめく健全ですけべな男子大学生なら、きっとわかってくれると信じている。こんなどこもかしこも綺麗な女の子が突然目の前に現れたら、誰だって俺と同じようにしどろもどろになるはずなのだ。
――ところで念のため云っておくけれど、俺がこんな風に女の子の身体ばかりを見ている男だとは思わないでもらいたい。
確かに俺はさっきから彼女の身体のことばかり見ているけれど、俺が何よりも衝撃を受けたのは、頭を下げる前にちらりとみた、彼女の顔立ちの綺麗さなのである。
そうしてきびきびとした動作で頭を上げた彼女の顔を見て、俺はその衝撃を再確認するのであった。
きりりとつり上がった形のいい瞳は綺麗な桔梗色をしていて、どこか優しげにゆらめいている。
ツンと上がった鼻はすっきりと鼻筋が通っていて、彼女が醸し出すスマートな印象を強くしている。
薄く切れ込んだ唇は愛らしい桜色をしていて、そこが物を食べるための器官だということがにわかには信じられないくらいだ。
そう云って、その女の子は深々と頭を下げたのだ。
俺はと云えば、突然目の前に差し出されたその綺麗な藤色の髪の毛を、バカみたいに呆然と眺めていたのである。
前髪はサイドに垂らしながらおでこを出し、後ろに引っ張った髪の毛を後頭部で一つにまとめている。一分の隙もなくぴっちりとそろった生え際、知性の高さを示すように突き出た美しい形のおでこ。知的さと同時に堅さも感じるそんなイメージを、低めのポニーを括った紫紺色のリボンがお釣りがくるほど華やかなものにさせていて。
「あ、こ、こちらこそ。よ、よろしくお願いします」
俺はしどろもどろになりながら、そんな愚にもつかない挨拶を繰り出したのだった。
だって、仕方がない。
こんな子が突然目の前に現れたら、それは仕方がない。
一部のリア充なイケメンはともかく、この世にうごめく大多数のぐうたら男子大学生なら、きっとわかってくれるはずだと信じたい。
身体にぴったりと合った海色のボーダーTシャツは肩が少し膨らんだパフスリーブになっていて、袖口のカフスがきらりと光っている。ボトムはボトムでやたらとスキニーなデニムを穿いていて、これもまた綺麗な足の線を惜しげもなくさらけだしている。
女性諸君に石を投げられるのを覚悟で云えば、この手の格好は、少しでも身体にだらしないところがあれば途端にみっともなく見える物なのである。
けれど目の前の女の子は、さらりとそれを着こなしていた。
どこまでも細くスマートな手足。
ぴんと伸びた姿勢のいい背筋。
透き通るような白い肌。
きゅっと上がった形のいいお尻。
そうして、ああそうして。
丁度俺の手にすっぽりと収まるくらいの小振りの胸は、見る者全てを魅了するような魅惑的な曲線を描いていて。
見た瞬間、俺の目はそこに釘付けになってしまったのである。
世にうごめく健全ですけべな男子大学生なら、きっとわかってくれると信じている。こんなどこもかしこも綺麗な女の子が突然目の前に現れたら、誰だって俺と同じようにしどろもどろになるはずなのだ。
――ところで念のため云っておくけれど、俺がこんな風に女の子の身体ばかりを見ている男だとは思わないでもらいたい。
確かに俺はさっきから彼女の身体のことばかり見ているけれど、俺が何よりも衝撃を受けたのは、頭を下げる前にちらりとみた、彼女の顔立ちの綺麗さなのである。
そうしてきびきびとした動作で頭を上げた彼女の顔を見て、俺はその衝撃を再確認するのであった。
きりりとつり上がった形のいい瞳は綺麗な桔梗色をしていて、どこか優しげにゆらめいている。
ツンと上がった鼻はすっきりと鼻筋が通っていて、彼女が醸し出すスマートな印象を強くしている。
薄く切れ込んだ唇は愛らしい桜色をしていて、そこが物を食べるための器官だということがにわかには信じられないくらいだ。
綺麗だった。
彼女は人形のように綺麗だった。
俺はその余りにも綺麗な顔を見て、呆けたように口を開けて佇んでいただろう。
けれどその日一番衝撃的な出来事は、そのすぐ後にやってきたのである。
彼女は人形のように綺麗だった。
俺はその余りにも綺麗な顔を見て、呆けたように口を開けて佇んでいただろう。
けれどその日一番衝撃的な出来事は、そのすぐ後にやってきたのである。
それは、晴れて大学三年生になった俺がこの春から通うようになった、慶央義塾大学見田キャンパス第一校舎102教室での出来事だった。大して友達もいない俺は指定されていた時間より随分早くゼミがある教室に来てしまい、これからどんな出会いがあるだろうかと胸をわくわくさせながら一人ぼんやりと座っていた。そんなところに現れた彼女は同学年の俺に礼儀正しく挨拶をして、そうして顔を上げると俺の心に爆弾を投下した。
――にっこりと笑った彼女の笑顔は、飛び上がるほど可愛かったのだ。
この世の全ての男子諸君が、俺の気持ちをわかってくれると信じている。
その瞬間、俺は彼女に恋していたのだった。
瑠璃色学舎
§1
――思い出した。
俺は、一年の頃から柊かがみのことが気になっていたようだ。
西校舎にある食堂『見田食』で名物のカレーライスを貪りながらふとそれに気がついた。
勿論、いくらなんでも突然思い出したわけではない。そんな風に四六時中彼女のことを考えているほど、俺はまだ色ボケしていないつもりだ。
それを思い出したのは、離れた席で楽しそうに友達と談笑しながら持参のお弁当を食べている、彼女の後ろ姿を見たからだ。
――違う。
ストーカーじゃない。断じてない。
たまたま同じ時間に同じ食堂でメシを食っているだけで、そこに彼女がいたのはただの偶然でしかないのである。ただ少し、彼女が階段を上っていったのを見て、なんとなく今日は地下の生協ではなく、こっちのカレーライスを食べたいなと思っただけなのだ。
だいたいにして、俺のような平凡で非モテなぐうたら男子大学生にとって、見田キャンパスでの昼飯なんて云ったらこの『見田食』か生協くらいしか選択肢がないのである。弁当持ち込みなんてもっての他だし、北館や南館にあるお洒落なカフェテリアなんて、俺のような男が足を踏み入れてはいけない場所なのだ。
むしろ彼女のような完璧な女の子こそ、北館や南館にいけばいいものなのに。どうしてこんなところでお弁当を広げているのだろう。相も変わらず一分の隙もない、すっきりと伸びた背筋を眺めながらそう思う。
――また笑った。
本当に可愛い笑い声だ。でも、笑っているときでもどこか優雅に見えるのはなぜだろう。ああもう、なんて綺麗なうなじなんだ、あれはもう芸術品に近い。ってか邪魔だ手前のデブ。どけ。
――忘れてた。いや、思い出した。
そうだ、俺は思い出したのだ。
一年の前期の頃、あの子の姿は講義でよく見かけていた。うちの大学は明確に教養課程と専門課程で別れているわけではなく、講義の取り方も人によって随分ばらばらだ。だから同じ学部であっても結構知らない奴ばかりだったりする。けれど一年の前期のうちは皆似たような講義を取るものだし、出なくていい講義であっても真面目に出たりする物だから、割と顔だけは見かけることが多かった。
そんな時期に、彼女の姿はよく見かけていたのである。
いつも最前列に座り、今みたいに凜とした姿勢で熱心にノートを取っていた。講義が終わると真っ先に教壇に向かい、積極的に質問することもよくあった。
けれどやがて後期になると同じ講義を受ける機会も減り、二年生になったときにはついぞ見かけなくなっていた。
そうだ、どうして忘れていたのだろう、あのうなじだ。あのころから俺は、彼女のうなじのことが気になっていたのである。
でもこのあいだ彼女に挨拶されたときは、すぐに柊かがみが彼女だとは思いつかなかった。どうしてだろうと過去の記憶を洗い直してみて、そうして俺は気がついた。
髪型が違うのだ。
あのころの彼女はうなじこそ出ていたけれど、頭の横で二つに結った、可愛らしいツインテイルの髪型にしていたのだ。
そうだ、正直大学生としてはどうかと思っていたあの髪型じゃなかったから、俺は即座に気がつかなかったのだ。
今遠くの席で揺れているポニーテイルを眺めながら、俺はあの頃のことを懐かしく思い出していた。あのころ俺にも夢があって、その夢にむかってがむしゃらに勉強しようとしていたのだ。社会に出たときに困らないように、ただ就職のためだけじゃない、しっかりとした知識を身につけようとして。
けれどだんだん出ないでいい講義があることに気づき、試験なんて直前にノートや過去問をかき集めて勉強すれば十分間に合うことにも気づき、気がつけばこんなぐうたら大学生になっていた。
灰色に淀んだ二年間という年月は、夢を抱いて大学の門を潜ってきたまっさらな青年を、すり切れたぼろ布のようにくたびれさせるには十分な時間だった。
けれど、彼女にとってこの二年間はどうだったのだろう。
――考えるまでもない。充実していたに決まっている。
今の彼女はあのころ持っていた凜とした雰囲気をそのままに、その真面目さをそのままに、すばらしく綺麗な大人の女性へと変貌していたのである。
ここ一、二週間ほど彼女のことを眺めてきて、俺はますます柊かがみのことが好きになっていた。毎日服装は違うけれど、どれもぱりっとした着こなしで、服に皺がよっているようなことは一度もなかった。いつもぴんと背筋を伸ばして自信ありげに歩き、いつでも身体の隅々まで気が配られていた。
更に信じられないことに、彼女は毎日のように弁当を持ってきていたのだ。なにより俺にとってはそれが一番衝撃を受けたことだった。俺の経験上、朝なんていうものは家を出る十分前までが睡眠時間のはずである。寝られるものならぎりぎりまで惰眠を貪っていたい、それが大学生にとっての朝という存在であるはずなのだ。
想像もつかない。毎日何時間も早く起きて、弁当を作って、身だしなみを整えて、完璧にメイクを施して。そうしてきりっと背筋を伸ばして学校に通う大学生なんていうものを。
そんな毎日を過ごせるのは、日々が充実しているからに決まっている。楽しそうに友達と喋っている彼女を眺めながらそう思う。
――彼女と一緒にいる友達は、その都度変わっていた。
大学は講義が違えば通う校舎も変わってくる。同じ講義で少し仲が良くなったとしても、人間関係に手を抜けばすぐに疎遠になってしまう。人が多い大学では色々な人間と知り合うチャンスがあるけれど、だからこそ俺みたいな駄目人間には中々友達が出来づらかったりもするのである。
けれど彼女の周りにはいつだって友達がいた。友達の数は多かったけれど、その誰とも打算的につきあっているという様子はなく、心から気を許しあっているようだった。それも、その友達のタイプも様々で、どんな相手とも分け隔て無く接しているように見えていた。
今彼女の周りにいるのは二人の女の子だ。いや、片方は女の子と云うのもはばかられる女性だ。恐らく三十代後半くらいだろうか、それは妙齢のマダムと云っていい年齢の人だったのである。
大学に入って一番びっくりしたのは、普通に同じ教室で学ぶ同期生でも様々な年齢の人がいることだ。託児施設なんてものもあって、子育てをしながら学ぶ学生もいるらしい。俺には想像もつかないことだけれど、彼女はそんな年上の人とも普通に友達づきあいが出来る女性らしかった。
ちなみにもう一人は、眼鏡をかけたちんちくりんの、なんだか垢抜けない感じの女の子だった。普通なら自分の引き立て役として友達にしているんじゃないかと邪推するところだが、彼女に限ってはそんなことはないだろう。
ずっと見てきた俺にはよくわかる。彼女はとことん気持ちが優しくていい子なのである。
「本当、素敵な女性よねー」
「ああ、そうだよなほんと。どこにすんでるのかなぁ。実家かなぁ、一人暮らしかなぁ、学生寮かなぁ」
「西横線沿いにアパート借りてるみたいよ。あたしはいったことないけど」
「そっかぁ、塾生の基本だよなぁって、うわぁっ!」
普通に会話を続けていて、今頃になって気がついた。
いつの間にか背後にきていた女が、知らん顔して俺に話しかけていたのである。
「お、いいねノリツッコミ。さすが落研」
「もう随分でてないけどな」
三年になってキャンパスが変わると、日良キャンパスでの活動がメインのサークルからは自然と疎遠になりがちだ。
「そういう問題じゃないのよ。あんたは存在が落研なの」
「なんじゃそりゃ」
そんな失礼なことをのたまうこいつは草野ともこと云って、経済学部に通っている、高校時代からの俺の腐れ縁の友達だ。脱色したショートカットに特に面白みもないストリート系のファッション。そこそこ整った顔立ちはしているけれど、柊かがみを見た後だと月とスッポン、鯨と鰯、提灯に釣り鐘だ。
「失礼なこと云うな」
勝手に人の心の中を読むなよ。
「顔に出てるのよ顔に」
「そうかい。……ってか、お前柊かがみと知り合いなのか?」
「うん。サークル一緒だよ」
「へ? お前が入ってるサークルって確か……」
「SF研究会」
――彼女が? 信じられん。
けれど、では彼女にどんなサークルが相応しいかと聞かれたら、俺にもよくわからなかった。テニスサークル? まさかそんなナンパな。登山サークル? いや、意味がわからん。“何か面白いことをする仲間”サークル? 絶対にない。
ありえるとしたら聖書研究会とか社交ダンスクラブとかボランティアクラブとかそんなところだろうか。いや、それもちょっとどうか。
そんなことを考えて悶々としていた俺に呆れたような視線を向けて、ともこはなんの逡巡も見せずに彼女の方に向かっていった。
「よーっすかがみ」
「わっ、ともこじゃない、ひさしぶりー」
「こっちじゃ会うの初めてだね。どうよ、そろそろ慣れた?」
「うん、なんとかってところよ。通学電車なんて乗るの、高校時代ぶりで大変だわよ」
「あー、だよねー。かがみは痴漢とか気をつけないとなぁ」
「や、もうね、あいつがね。心配だから見田駅まで一緒に乗ってくって云って聞かないのよね……」
「あ、おー? わはははははは」
「ちょっと、そこ笑うところじゃないわよ」
――って、なんの話だ。
あいつ? 大学まで行く? 痴漢が心配? ってことはもしかして、男と同棲しているのか柊かがみは。
遅まきならその考えに思いが至ったとき、俺は酷いショックを受けたのだ。一体なんということだろう。あんなにしっかりとした女の子が男と一緒に住んでいるなんて。
けれどよく考えてみたら、それもそんなにあり得ないような話ではないのである。そもそもあれほどの美人に彼氏がいないはずがないのだ。
なぜだか俺は、いままでその可能性を思いつかなかったのだ。それは俺が観察してきた限り、彼女はほとんどの男に対してまるで思わせぶりな態度をとらず、もっと云えばどこか淡泊に接していたからで、だから俺は彼女はそこらの男になんて興味がないのだと思い込んでいた。
俺はなんておめでたい奴だったのだろう。
それはきっと、彼女にはすでに決まった男がいるからに他ならないのだ。あれほどの美人のこと、すこしでも媚態のようなものを見せれば男は大抵勘違いして惚れてしまうだろう。これもまた大多数の男性諸君には首肯してもらえるだろうけれど、基本的に男は全てバカなのである。
それをわかっている彼女は、あえて彼氏以外の男に対して淡泊な、同性の友達に対してするような態度をとっていたのに違いない。それを勘違いして、俺はなんてバカなんだろう。
そんなことを思って落ち込んでいると、ともこが急に俺の方に話の矛先を向けたのだ。
「それはそうと、あっちの変な男がかがみに何か云いたいことがあるんだってよ」
「へ? 変な男って?」
不思議そうに小首を傾げながら、柊かがみはこちらにくるりと顔を向けた。
――うわ、正直隠れてぇ。
あの日以来、何度か顔を合わせる機会はあったけれど、俺は今まで一度も彼女と正面から眼を合わせることができなかったのだ。
「ああ、ゼミの――。って、なんで変な男なのよ?」
「べっつにー? ほら、こっちきなさいよ」
そう云って意地が悪いニヤニヤ笑いを浮かべながら、ともこは俺の方にひらひらと手を振った。
――こいつ、また俺で遊ぶ気か。
思えば高校時代も散々こいつにからかわれてきて、やっと解放されるかと思ったら大学まで同じで。一体どれだけこいつは俺を虐めるのが好きなんだと、諦観と共に思ったものだった。
「ど、どうも」
「あ、どうも」
――話が続かない。
柊かがみは、どんな話があるのかと問いかけるように小首を傾げながら俺のことを見上げていて、ともこは相変わらずニマニマと笑いながら腰に手を当てて眺めていて、柊かがみと一緒にいたマダムはなにやら慈愛に満ちた微笑みを俺に投げかけていて、めがねっ子はなんだか酷く厭そうな顔で俺のことを睨みつけている。
「あ、あのさ……」
「はい?」
頼むからそんな眼で俺を見ないでくれ、惚れてしまうじゃないか。いや、もうとっくに惚れているんだけど。
「えっと、そ、そう、柊さんって、海洋法Iとってるよね?」
「竹本教授の? それだったら確かに取ってるけど、なんで知ってるの?」
柊かがみが本当に不思議そうに呟いて、ともこはぶほっと吹き出した。
――こいつ、いつか絶対ぶん殴る。
こめかみがぴくぴくするのを感じながら、俺はなんとか冷静さをとりもどして彼女に云う。
「あー、いや、実は俺も取ってるんだよね」
「……あ、そ、そうだったんだ。ごめんなさい気づかなくて」
「いやいや、俺はいつも一番後ろのほうの席だし……」
なんだかあまりにも情けなくて、だんだん泣きたくなってきた。っていうか、考えてみればこれから云おうとしていることの方が一番情けないことだと思うのだ。柊かがみは、『ほら、勇気を出して』とでも云わんばかりに、優しそうな微笑を浮かべながら俺の言葉を待っていた。
「そ、それでさ」
「うん」
「よ、よかったらノートを貸してもらえないだろうか」
「――はい?」
あれ、なんだろう? なんだかドスが利いた声だ。
「い、いや、実は先週飲み会があったせいで寝過ごしちゃって、一限に出られなくって……」
あれ、なんだろう? なんだかジト眼で睨みつけられている。ああ、こんな顔も綺麗だなぁ、なんて人ごとみたいに俺は思う。
「――いいけど、ちゃんと講義には出ようよ」
「あ、うん。もう出る出る」
うわ、ちょっと上から目線で云われてしまった。やばい、なんか凄くいい――って俺はマゾか。
「仕方ないわね。明日持ってくるから、ゼミの後に渡せばいい?」
「あ、いや、昼休み前とかに渡してもらえれば、コピーしてすぐ返すから――」
「駄目よそんなの。せめて持って帰ってちゃんと理解しながら書き写すこと。コピーなんてしても、頭に入らないでしょう?」
――ちょっとだけ、怒ったような顔。
眼はつり上がっていて眉毛もつり上がっていて、でも瞳はどこまで優しくて。
頼むから、そんな顔で俺を見ないでくれ。
俺のためなんてこと、真剣に考えたりしないでくれ。
俺は、一年の頃から柊かがみのことが気になっていたようだ。
西校舎にある食堂『見田食』で名物のカレーライスを貪りながらふとそれに気がついた。
勿論、いくらなんでも突然思い出したわけではない。そんな風に四六時中彼女のことを考えているほど、俺はまだ色ボケしていないつもりだ。
それを思い出したのは、離れた席で楽しそうに友達と談笑しながら持参のお弁当を食べている、彼女の後ろ姿を見たからだ。
――違う。
ストーカーじゃない。断じてない。
たまたま同じ時間に同じ食堂でメシを食っているだけで、そこに彼女がいたのはただの偶然でしかないのである。ただ少し、彼女が階段を上っていったのを見て、なんとなく今日は地下の生協ではなく、こっちのカレーライスを食べたいなと思っただけなのだ。
だいたいにして、俺のような平凡で非モテなぐうたら男子大学生にとって、見田キャンパスでの昼飯なんて云ったらこの『見田食』か生協くらいしか選択肢がないのである。弁当持ち込みなんてもっての他だし、北館や南館にあるお洒落なカフェテリアなんて、俺のような男が足を踏み入れてはいけない場所なのだ。
むしろ彼女のような完璧な女の子こそ、北館や南館にいけばいいものなのに。どうしてこんなところでお弁当を広げているのだろう。相も変わらず一分の隙もない、すっきりと伸びた背筋を眺めながらそう思う。
――また笑った。
本当に可愛い笑い声だ。でも、笑っているときでもどこか優雅に見えるのはなぜだろう。ああもう、なんて綺麗なうなじなんだ、あれはもう芸術品に近い。ってか邪魔だ手前のデブ。どけ。
――忘れてた。いや、思い出した。
そうだ、俺は思い出したのだ。
一年の前期の頃、あの子の姿は講義でよく見かけていた。うちの大学は明確に教養課程と専門課程で別れているわけではなく、講義の取り方も人によって随分ばらばらだ。だから同じ学部であっても結構知らない奴ばかりだったりする。けれど一年の前期のうちは皆似たような講義を取るものだし、出なくていい講義であっても真面目に出たりする物だから、割と顔だけは見かけることが多かった。
そんな時期に、彼女の姿はよく見かけていたのである。
いつも最前列に座り、今みたいに凜とした姿勢で熱心にノートを取っていた。講義が終わると真っ先に教壇に向かい、積極的に質問することもよくあった。
けれどやがて後期になると同じ講義を受ける機会も減り、二年生になったときにはついぞ見かけなくなっていた。
そうだ、どうして忘れていたのだろう、あのうなじだ。あのころから俺は、彼女のうなじのことが気になっていたのである。
でもこのあいだ彼女に挨拶されたときは、すぐに柊かがみが彼女だとは思いつかなかった。どうしてだろうと過去の記憶を洗い直してみて、そうして俺は気がついた。
髪型が違うのだ。
あのころの彼女はうなじこそ出ていたけれど、頭の横で二つに結った、可愛らしいツインテイルの髪型にしていたのだ。
そうだ、正直大学生としてはどうかと思っていたあの髪型じゃなかったから、俺は即座に気がつかなかったのだ。
今遠くの席で揺れているポニーテイルを眺めながら、俺はあの頃のことを懐かしく思い出していた。あのころ俺にも夢があって、その夢にむかってがむしゃらに勉強しようとしていたのだ。社会に出たときに困らないように、ただ就職のためだけじゃない、しっかりとした知識を身につけようとして。
けれどだんだん出ないでいい講義があることに気づき、試験なんて直前にノートや過去問をかき集めて勉強すれば十分間に合うことにも気づき、気がつけばこんなぐうたら大学生になっていた。
灰色に淀んだ二年間という年月は、夢を抱いて大学の門を潜ってきたまっさらな青年を、すり切れたぼろ布のようにくたびれさせるには十分な時間だった。
けれど、彼女にとってこの二年間はどうだったのだろう。
――考えるまでもない。充実していたに決まっている。
今の彼女はあのころ持っていた凜とした雰囲気をそのままに、その真面目さをそのままに、すばらしく綺麗な大人の女性へと変貌していたのである。
ここ一、二週間ほど彼女のことを眺めてきて、俺はますます柊かがみのことが好きになっていた。毎日服装は違うけれど、どれもぱりっとした着こなしで、服に皺がよっているようなことは一度もなかった。いつもぴんと背筋を伸ばして自信ありげに歩き、いつでも身体の隅々まで気が配られていた。
更に信じられないことに、彼女は毎日のように弁当を持ってきていたのだ。なにより俺にとってはそれが一番衝撃を受けたことだった。俺の経験上、朝なんていうものは家を出る十分前までが睡眠時間のはずである。寝られるものならぎりぎりまで惰眠を貪っていたい、それが大学生にとっての朝という存在であるはずなのだ。
想像もつかない。毎日何時間も早く起きて、弁当を作って、身だしなみを整えて、完璧にメイクを施して。そうしてきりっと背筋を伸ばして学校に通う大学生なんていうものを。
そんな毎日を過ごせるのは、日々が充実しているからに決まっている。楽しそうに友達と喋っている彼女を眺めながらそう思う。
――彼女と一緒にいる友達は、その都度変わっていた。
大学は講義が違えば通う校舎も変わってくる。同じ講義で少し仲が良くなったとしても、人間関係に手を抜けばすぐに疎遠になってしまう。人が多い大学では色々な人間と知り合うチャンスがあるけれど、だからこそ俺みたいな駄目人間には中々友達が出来づらかったりもするのである。
けれど彼女の周りにはいつだって友達がいた。友達の数は多かったけれど、その誰とも打算的につきあっているという様子はなく、心から気を許しあっているようだった。それも、その友達のタイプも様々で、どんな相手とも分け隔て無く接しているように見えていた。
今彼女の周りにいるのは二人の女の子だ。いや、片方は女の子と云うのもはばかられる女性だ。恐らく三十代後半くらいだろうか、それは妙齢のマダムと云っていい年齢の人だったのである。
大学に入って一番びっくりしたのは、普通に同じ教室で学ぶ同期生でも様々な年齢の人がいることだ。託児施設なんてものもあって、子育てをしながら学ぶ学生もいるらしい。俺には想像もつかないことだけれど、彼女はそんな年上の人とも普通に友達づきあいが出来る女性らしかった。
ちなみにもう一人は、眼鏡をかけたちんちくりんの、なんだか垢抜けない感じの女の子だった。普通なら自分の引き立て役として友達にしているんじゃないかと邪推するところだが、彼女に限ってはそんなことはないだろう。
ずっと見てきた俺にはよくわかる。彼女はとことん気持ちが優しくていい子なのである。
「本当、素敵な女性よねー」
「ああ、そうだよなほんと。どこにすんでるのかなぁ。実家かなぁ、一人暮らしかなぁ、学生寮かなぁ」
「西横線沿いにアパート借りてるみたいよ。あたしはいったことないけど」
「そっかぁ、塾生の基本だよなぁって、うわぁっ!」
普通に会話を続けていて、今頃になって気がついた。
いつの間にか背後にきていた女が、知らん顔して俺に話しかけていたのである。
「お、いいねノリツッコミ。さすが落研」
「もう随分でてないけどな」
三年になってキャンパスが変わると、日良キャンパスでの活動がメインのサークルからは自然と疎遠になりがちだ。
「そういう問題じゃないのよ。あんたは存在が落研なの」
「なんじゃそりゃ」
そんな失礼なことをのたまうこいつは草野ともこと云って、経済学部に通っている、高校時代からの俺の腐れ縁の友達だ。脱色したショートカットに特に面白みもないストリート系のファッション。そこそこ整った顔立ちはしているけれど、柊かがみを見た後だと月とスッポン、鯨と鰯、提灯に釣り鐘だ。
「失礼なこと云うな」
勝手に人の心の中を読むなよ。
「顔に出てるのよ顔に」
「そうかい。……ってか、お前柊かがみと知り合いなのか?」
「うん。サークル一緒だよ」
「へ? お前が入ってるサークルって確か……」
「SF研究会」
――彼女が? 信じられん。
けれど、では彼女にどんなサークルが相応しいかと聞かれたら、俺にもよくわからなかった。テニスサークル? まさかそんなナンパな。登山サークル? いや、意味がわからん。“何か面白いことをする仲間”サークル? 絶対にない。
ありえるとしたら聖書研究会とか社交ダンスクラブとかボランティアクラブとかそんなところだろうか。いや、それもちょっとどうか。
そんなことを考えて悶々としていた俺に呆れたような視線を向けて、ともこはなんの逡巡も見せずに彼女の方に向かっていった。
「よーっすかがみ」
「わっ、ともこじゃない、ひさしぶりー」
「こっちじゃ会うの初めてだね。どうよ、そろそろ慣れた?」
「うん、なんとかってところよ。通学電車なんて乗るの、高校時代ぶりで大変だわよ」
「あー、だよねー。かがみは痴漢とか気をつけないとなぁ」
「や、もうね、あいつがね。心配だから見田駅まで一緒に乗ってくって云って聞かないのよね……」
「あ、おー? わはははははは」
「ちょっと、そこ笑うところじゃないわよ」
――って、なんの話だ。
あいつ? 大学まで行く? 痴漢が心配? ってことはもしかして、男と同棲しているのか柊かがみは。
遅まきならその考えに思いが至ったとき、俺は酷いショックを受けたのだ。一体なんということだろう。あんなにしっかりとした女の子が男と一緒に住んでいるなんて。
けれどよく考えてみたら、それもそんなにあり得ないような話ではないのである。そもそもあれほどの美人に彼氏がいないはずがないのだ。
なぜだか俺は、いままでその可能性を思いつかなかったのだ。それは俺が観察してきた限り、彼女はほとんどの男に対してまるで思わせぶりな態度をとらず、もっと云えばどこか淡泊に接していたからで、だから俺は彼女はそこらの男になんて興味がないのだと思い込んでいた。
俺はなんておめでたい奴だったのだろう。
それはきっと、彼女にはすでに決まった男がいるからに他ならないのだ。あれほどの美人のこと、すこしでも媚態のようなものを見せれば男は大抵勘違いして惚れてしまうだろう。これもまた大多数の男性諸君には首肯してもらえるだろうけれど、基本的に男は全てバカなのである。
それをわかっている彼女は、あえて彼氏以外の男に対して淡泊な、同性の友達に対してするような態度をとっていたのに違いない。それを勘違いして、俺はなんてバカなんだろう。
そんなことを思って落ち込んでいると、ともこが急に俺の方に話の矛先を向けたのだ。
「それはそうと、あっちの変な男がかがみに何か云いたいことがあるんだってよ」
「へ? 変な男って?」
不思議そうに小首を傾げながら、柊かがみはこちらにくるりと顔を向けた。
――うわ、正直隠れてぇ。
あの日以来、何度か顔を合わせる機会はあったけれど、俺は今まで一度も彼女と正面から眼を合わせることができなかったのだ。
「ああ、ゼミの――。って、なんで変な男なのよ?」
「べっつにー? ほら、こっちきなさいよ」
そう云って意地が悪いニヤニヤ笑いを浮かべながら、ともこは俺の方にひらひらと手を振った。
――こいつ、また俺で遊ぶ気か。
思えば高校時代も散々こいつにからかわれてきて、やっと解放されるかと思ったら大学まで同じで。一体どれだけこいつは俺を虐めるのが好きなんだと、諦観と共に思ったものだった。
「ど、どうも」
「あ、どうも」
――話が続かない。
柊かがみは、どんな話があるのかと問いかけるように小首を傾げながら俺のことを見上げていて、ともこは相変わらずニマニマと笑いながら腰に手を当てて眺めていて、柊かがみと一緒にいたマダムはなにやら慈愛に満ちた微笑みを俺に投げかけていて、めがねっ子はなんだか酷く厭そうな顔で俺のことを睨みつけている。
「あ、あのさ……」
「はい?」
頼むからそんな眼で俺を見ないでくれ、惚れてしまうじゃないか。いや、もうとっくに惚れているんだけど。
「えっと、そ、そう、柊さんって、海洋法Iとってるよね?」
「竹本教授の? それだったら確かに取ってるけど、なんで知ってるの?」
柊かがみが本当に不思議そうに呟いて、ともこはぶほっと吹き出した。
――こいつ、いつか絶対ぶん殴る。
こめかみがぴくぴくするのを感じながら、俺はなんとか冷静さをとりもどして彼女に云う。
「あー、いや、実は俺も取ってるんだよね」
「……あ、そ、そうだったんだ。ごめんなさい気づかなくて」
「いやいや、俺はいつも一番後ろのほうの席だし……」
なんだかあまりにも情けなくて、だんだん泣きたくなってきた。っていうか、考えてみればこれから云おうとしていることの方が一番情けないことだと思うのだ。柊かがみは、『ほら、勇気を出して』とでも云わんばかりに、優しそうな微笑を浮かべながら俺の言葉を待っていた。
「そ、それでさ」
「うん」
「よ、よかったらノートを貸してもらえないだろうか」
「――はい?」
あれ、なんだろう? なんだかドスが利いた声だ。
「い、いや、実は先週飲み会があったせいで寝過ごしちゃって、一限に出られなくって……」
あれ、なんだろう? なんだかジト眼で睨みつけられている。ああ、こんな顔も綺麗だなぁ、なんて人ごとみたいに俺は思う。
「――いいけど、ちゃんと講義には出ようよ」
「あ、うん。もう出る出る」
うわ、ちょっと上から目線で云われてしまった。やばい、なんか凄くいい――って俺はマゾか。
「仕方ないわね。明日持ってくるから、ゼミの後に渡せばいい?」
「あ、いや、昼休み前とかに渡してもらえれば、コピーしてすぐ返すから――」
「駄目よそんなの。せめて持って帰ってちゃんと理解しながら書き写すこと。コピーなんてしても、頭に入らないでしょう?」
――ちょっとだけ、怒ったような顔。
眼はつり上がっていて眉毛もつり上がっていて、でも瞳はどこまで優しくて。
頼むから、そんな顔で俺を見ないでくれ。
俺のためなんてこと、真剣に考えたりしないでくれ。
つい、本気になってしまうじゃないか。
――ふと眺めると、ともこは彼女の後ろで声を出さずに爆笑しているのだった。
§2
それをきっかけにして、俺は彼女と仲良くなっていった。
――繰りかえす。
俺は彼女と仲良くなっていった。
信じられない? ああ、正直俺が一番信じられない。どこまでも綺麗で、凛々しくて、顔立ちもシャープで、そして少しだけきつい物云いをする超絶美人。そんな彼女と、俺は普通に話せるくらいに仲良くなっていたのだ。
そうして普通に話せるようになって気がついたことがある。彼女はただ見た目がいいだけじゃなく、その頭の方もとんでもなく優秀だったのだ。
何度か借りたノートはやたらと綺麗な字で丁寧に書き記されていて、俺は感激したものだった。板書をほとんどしない教授の講義でも、口頭で一度しただけの説明が見事に順序よくまとめられていた。
そうして俺がノートを見せてくれと云う度、彼女はいつでも呆れたような顔をして。けれど少しだけ嬉しそうにしながらあれこれと小言を云ってくれるのだ。
『わからなかったら聞いてね』なんて云った彼女に遠慮無く色々訊ねてみたら、今度は『少しは自分で考えなさいよ』なんて云われたこともあった。けれどそんな憎まれ口であっても大抵はどこか優しくて。結局のところ彼女は、鈴が鳴るような声で丁寧な解説をしてくれるものだった。
正直に云って、ノートなんてそんなに頻繁に借りる必要はなかった。前期試験はまだ先だったし、試験直前になって誰か他の友達から借りてもよかった。
けれどそんなに頻繁に彼女にノートを借りにいったのは、ただ単に彼女と話すきっかけが欲しかったからに他ならない。なんだかんだと厭そうなことを口ではいいながらも、けれど頼られて嬉しそうにする彼女を見るためなら、講義なんていくらさぼっても何の痛痒も感じないのであった。
「――失敗だったわ」
一緒に東館の前を歩きながら、ともこがそんなことを呟いた。見田キャンパスの東館は、赤煉瓦と白い花崗岩を資材にしたゴシック式西洋建築で、戦前からある図書館旧館の建築様式を真似て建てられたものだった。完成したのは二〇〇〇年でありながらすでにして古めかしい佇まいで聳え立ち、今もこうして塾生たちを見下ろしているのだった。そうしてそのアーケードに刻まれたラテン語の文句はHOMO NEC VLLVS CVIQVAM PRAEPOSITVS NEC SVBDITVS CREATVR――「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず」というものだ。
――本当に、今の俺にはこの言葉の意味が身にしみてよくわかるのである。
季節は初夏。銀杏並木の梢が強い陽射しに影を落としていて、行き交う学生たちの肌をまだら模様で染めている。暑くもなく寒くもなく、吹く風はどこまでも爽やかに俺の心の中を渡っていくのである。
「何が失敗なんだよ」
「かがみの性格。あの子、あんたみたいな奴のこと放っておけないのよね」
「ほうほう、俺みたいな格好も頭も性格もいい奴のことか。そりゃ放っておけないだろうな」
「じょーだん。ぐうたらでだらしがなくていつも他人任せな癖に、不思議となんか一生懸命に生きてるように見える奴のことよ」
「誰のことだ」
「あんたのことよ」
「俺、そんなに一生懸命に生きてるように見えるか?」
「何かの間違いで慶央に受かっちゃった奴が必死でアップアップしながら生きてるように見えるね」
「ひどいな」
「違うの?」
「合ってるからひどいんだ」
俺がそう云うと、ともこは盛大なため息を漏らして目をそらした。なんだか近頃こいつは機嫌が悪かった。いつも眉をひそめながらため息を吐き、肩を怒らせながら風を切って歩いていた。一体何がそんなに気にくわないのかと訊ねたこともあるけれど、訊くと大抵ひっぱたかれるものだからそれ以降訊くのはやめていた。
「云っとくけど、本当にあんたに望みなんて一ナノミクロンもないからね。とっとと諦めた方がいいよ」
「そ、そんなことはわからないじゃないか。だってあいつ、彼氏いないんだろう?」
そうなのだ。
柊かがみに彼氏はいなかったのだ。
これは直接聞いたことだから憶測でも伝聞でもなんでもない。確定された事実なのである。
勇気を振り絞って訊いてみた俺の前で、柊かがみは頬を紅く染めながら『彼氏なんていないわよ』と云っていた。そのとき俺は初めて、もしかしたら脈があるのかもしれないと思ったのであった。だって、俺に対する好意が少しでもなかったならば、彼氏がいないということを告げるときに頬を赤らめる理由がないではないか。
「そりゃいないわよ、彼氏はね。でもうーん……こういうのは勝手に教えられたら厭か……」
ともこはなんだかよくわからないことをぶつぶつと云っていた。東館で講義があるともことそこで別れて、俺は第一校舎に向かっていく。これからそこでお楽しみのゼミがあるのである。それはつまり、柊かがみのことを間近で見られる時間であるということだ。
――繰りかえす。
俺は彼女と仲良くなっていった。
信じられない? ああ、正直俺が一番信じられない。どこまでも綺麗で、凛々しくて、顔立ちもシャープで、そして少しだけきつい物云いをする超絶美人。そんな彼女と、俺は普通に話せるくらいに仲良くなっていたのだ。
そうして普通に話せるようになって気がついたことがある。彼女はただ見た目がいいだけじゃなく、その頭の方もとんでもなく優秀だったのだ。
何度か借りたノートはやたらと綺麗な字で丁寧に書き記されていて、俺は感激したものだった。板書をほとんどしない教授の講義でも、口頭で一度しただけの説明が見事に順序よくまとめられていた。
そうして俺がノートを見せてくれと云う度、彼女はいつでも呆れたような顔をして。けれど少しだけ嬉しそうにしながらあれこれと小言を云ってくれるのだ。
『わからなかったら聞いてね』なんて云った彼女に遠慮無く色々訊ねてみたら、今度は『少しは自分で考えなさいよ』なんて云われたこともあった。けれどそんな憎まれ口であっても大抵はどこか優しくて。結局のところ彼女は、鈴が鳴るような声で丁寧な解説をしてくれるものだった。
正直に云って、ノートなんてそんなに頻繁に借りる必要はなかった。前期試験はまだ先だったし、試験直前になって誰か他の友達から借りてもよかった。
けれどそんなに頻繁に彼女にノートを借りにいったのは、ただ単に彼女と話すきっかけが欲しかったからに他ならない。なんだかんだと厭そうなことを口ではいいながらも、けれど頼られて嬉しそうにする彼女を見るためなら、講義なんていくらさぼっても何の痛痒も感じないのであった。
「――失敗だったわ」
一緒に東館の前を歩きながら、ともこがそんなことを呟いた。見田キャンパスの東館は、赤煉瓦と白い花崗岩を資材にしたゴシック式西洋建築で、戦前からある図書館旧館の建築様式を真似て建てられたものだった。完成したのは二〇〇〇年でありながらすでにして古めかしい佇まいで聳え立ち、今もこうして塾生たちを見下ろしているのだった。そうしてそのアーケードに刻まれたラテン語の文句はHOMO NEC VLLVS CVIQVAM PRAEPOSITVS NEC SVBDITVS CREATVR――「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず」というものだ。
――本当に、今の俺にはこの言葉の意味が身にしみてよくわかるのである。
季節は初夏。銀杏並木の梢が強い陽射しに影を落としていて、行き交う学生たちの肌をまだら模様で染めている。暑くもなく寒くもなく、吹く風はどこまでも爽やかに俺の心の中を渡っていくのである。
「何が失敗なんだよ」
「かがみの性格。あの子、あんたみたいな奴のこと放っておけないのよね」
「ほうほう、俺みたいな格好も頭も性格もいい奴のことか。そりゃ放っておけないだろうな」
「じょーだん。ぐうたらでだらしがなくていつも他人任せな癖に、不思議となんか一生懸命に生きてるように見える奴のことよ」
「誰のことだ」
「あんたのことよ」
「俺、そんなに一生懸命に生きてるように見えるか?」
「何かの間違いで慶央に受かっちゃった奴が必死でアップアップしながら生きてるように見えるね」
「ひどいな」
「違うの?」
「合ってるからひどいんだ」
俺がそう云うと、ともこは盛大なため息を漏らして目をそらした。なんだか近頃こいつは機嫌が悪かった。いつも眉をひそめながらため息を吐き、肩を怒らせながら風を切って歩いていた。一体何がそんなに気にくわないのかと訊ねたこともあるけれど、訊くと大抵ひっぱたかれるものだからそれ以降訊くのはやめていた。
「云っとくけど、本当にあんたに望みなんて一ナノミクロンもないからね。とっとと諦めた方がいいよ」
「そ、そんなことはわからないじゃないか。だってあいつ、彼氏いないんだろう?」
そうなのだ。
柊かがみに彼氏はいなかったのだ。
これは直接聞いたことだから憶測でも伝聞でもなんでもない。確定された事実なのである。
勇気を振り絞って訊いてみた俺の前で、柊かがみは頬を紅く染めながら『彼氏なんていないわよ』と云っていた。そのとき俺は初めて、もしかしたら脈があるのかもしれないと思ったのであった。だって、俺に対する好意が少しでもなかったならば、彼氏がいないということを告げるときに頬を赤らめる理由がないではないか。
「そりゃいないわよ、彼氏はね。でもうーん……こういうのは勝手に教えられたら厭か……」
ともこはなんだかよくわからないことをぶつぶつと云っていた。東館で講義があるともことそこで別れて、俺は第一校舎に向かっていく。これからそこでお楽しみのゼミがあるのである。それはつまり、柊かがみのことを間近で見られる時間であるということだ。
――今日も今日とて、柊かがみは絶好調だった。
襟元が四角く空いたスクエアカットのチュニックはウエストがしまっていて、身体の線は見えないまでも、そのスタイルのよさを見る者に感じさせる装いだ。ギャザーつきのふわふわしたチュニックに合わせたのか、今日はショートパンツを穿いていた。普段はデニムが多くてあまり見せてくれない白磁のようなおみ足が、薄暗い教室の中光り輝いていた。
そんなガーリーな装いで、柊かがみは今後五十年間において想定されうるあらゆる新しい家族の形について、教授と激論を戦わせているのだった。
正直、半分くらい何を云っているのかわからない。教室を見渡してみると、レジュメを作成したレポーターも含め、学部生のほとんどが俺と同じようにぽかんとした顔をして二人の女性を眺めているのだった。ただ、よく手伝いにくる講座の院生だけが、ふむふむと感心したような顔つきでうなずいていた。
高槻教授を指導教官とするこの高槻ゼミは、民法の、それも家族法を専攻分野とした研究会だ。俺がここを選んだのは本当になんとなくだったのだけれど、高槻教授はその道では有名な権威らしかった。
男と女と子供という累計的な家族のありように対して疑義をぶつけ、ありとあらゆる家族の様態を想定し、それを成立しうる法体系の整備を目指す。この人の研究領域はそのようなもので、日本においてオレゴン州で行われているような『ドメスティック・パートナー』制度を導入しようという活動の中心人物となっているのだそうだ。それも全部、このゼミに参加してから知った話なのだけれど。
肩口で切りそろえられたボブヘアーの高槻教授と、ひっつめにしたポニーテイルの柊かがみは、二人ともぴんと背筋を伸ばしながら討論を続けていく。
両者の口からは、なんだかよくわからない外国の研究者のなんだかよくわからない論文の話がよく飛びだした。内容なんてまるでわからないばかりか、その論文タイトルの意味すらよくわからない。英語ならともかくドイツ語やらフランス語やらタガログ語やらを持ち出されてしまったらお手上げだ。っていうか読んでるのかそれ、原語で。そもそも何で大脳生理学の論文の話になるのか本気で意味がわからない。どうして法律学科の学生がそんなものを読んでいるのか、まるで意味がわからない。
――まるで意味はわからなかったけれど。
気がついたら前期最後の本ゼミは『将来にわたって子供ができる可能性がない同性パートナーシップに対する法的支援のありようについて』を行うことに決まっていて、レジュメ作成の主担当は俺と柊かがみがやることになっていた。
そんなガーリーな装いで、柊かがみは今後五十年間において想定されうるあらゆる新しい家族の形について、教授と激論を戦わせているのだった。
正直、半分くらい何を云っているのかわからない。教室を見渡してみると、レジュメを作成したレポーターも含め、学部生のほとんどが俺と同じようにぽかんとした顔をして二人の女性を眺めているのだった。ただ、よく手伝いにくる講座の院生だけが、ふむふむと感心したような顔つきでうなずいていた。
高槻教授を指導教官とするこの高槻ゼミは、民法の、それも家族法を専攻分野とした研究会だ。俺がここを選んだのは本当になんとなくだったのだけれど、高槻教授はその道では有名な権威らしかった。
男と女と子供という累計的な家族のありように対して疑義をぶつけ、ありとあらゆる家族の様態を想定し、それを成立しうる法体系の整備を目指す。この人の研究領域はそのようなもので、日本においてオレゴン州で行われているような『ドメスティック・パートナー』制度を導入しようという活動の中心人物となっているのだそうだ。それも全部、このゼミに参加してから知った話なのだけれど。
肩口で切りそろえられたボブヘアーの高槻教授と、ひっつめにしたポニーテイルの柊かがみは、二人ともぴんと背筋を伸ばしながら討論を続けていく。
両者の口からは、なんだかよくわからない外国の研究者のなんだかよくわからない論文の話がよく飛びだした。内容なんてまるでわからないばかりか、その論文タイトルの意味すらよくわからない。英語ならともかくドイツ語やらフランス語やらタガログ語やらを持ち出されてしまったらお手上げだ。っていうか読んでるのかそれ、原語で。そもそも何で大脳生理学の論文の話になるのか本気で意味がわからない。どうして法律学科の学生がそんなものを読んでいるのか、まるで意味がわからない。
――まるで意味はわからなかったけれど。
気がついたら前期最後の本ゼミは『将来にわたって子供ができる可能性がない同性パートナーシップに対する法的支援のありようについて』を行うことに決まっていて、レジュメ作成の主担当は俺と柊かがみがやることになっていた。
「凄いな、何云ってるのかまるでわからなかった」
ゼミが終わった空き教室で、ニコニコと嬉しそうに弁当を広げ始めた柊かがみに声をかける。
それにしてもこの女の子は本当に嬉しそうに弁当を食べるなと、いつも俺は思うのだ。普段は凜とすました顔が、弁当箱を開けるその瞬間だけふにゃりと笑み崩れるのである。
けれどそんな顔をするのも少しだけ納得できる気もする。柊かがみの弁当はいつも本当に豪華で、料亭の仕出し弁当もかくやと思わせるほど手間がかかっていた。
そうしてその弁当を見る度、俺は彼女と自分との格の違いを思い知るのである。家事も料理も完璧にこなして、教授と討論できるほどの知性を持っていて、しかも目を見張るほどの美人。天は二物を与えずと云うけれど、今目の前に二物も三物も持っている完璧超人がいる以上、そんなことわざはなんの意味もない世迷い言にすぎなかった。
「そう? ありがとう、ふふ」
柊かがみは可愛らしく笑ったけれど、その漏れ出たようなふふ、という声は、俺に対して向けられたものではなかった。弁当箱の蓋を開けた瞬間、彼女の視線はすでにその中身に固定されていた。その小さな笑い声は、ただ箱の中にちんまりと鎮座していた色とりどりのおかずたちに対して向けられたものだったのである。
食事って、そこまで楽しいものなのだろうか。
ほこほこと笑顔を浮かべながら箸を動かす柊かがみを盗み見て、そんなことを考えた。
正直に云って、この女の子は少し食い意地が張っているのではなかろうか。以前一度だけおかずをわけてもらえないかと無心してみたことがあったけれど、もの凄い勢いで否定された上、まるで盗まれるのを恐れるようにしてがばりと弁当箱を抱え込まれてしまったのだ。いくら手間暇かけて作った料理だと云っても、そこまですることはないだろう。よっぽど大食いなのだろうかと、その時俺は思ったものだった。
けれど、それにしては彼女のスタイルの良さは奇跡的なのである。これだけ食べていてどうしてこんなにスレンダーで健康的な身体を維持できるのだろう。よっぽど栄養バランスに気を使っているのだろうかと、俺は少しだけそれが気になっていた。
空になった弁当箱を袋に仕舞っている柊かがみは、なんだか酷く悲しそうだった。その弁当袋は紫と青のタータンチェックになっていて、遠くから見ると紫がかった深い青、瑠璃色のように見えていた。
「――ごめんね」
突然聞こえてきた真剣な声に思わずはっとして顔を上げると、柊かがみが真顔でこちらを見つめていた。
「な、なにがだよ」
まさか、本当は彼氏がいるだとか、そういうことだろうか。反射的にそんなことを考えて、そうして心の中で苦笑する。例え彼氏がいるからと云って、それが俺に謝らないといけない理由になんてなるはずがない。彼女にとっての俺は、どうひいき目に見積もっても、精々がとこ無駄に手が掛かるゼミの知り合い程度でしかないだろう。
「うーん、さっきの“何云ってるのかわからなかった”っていうところよ。私、みんなのこと無視しているように見えるかな?」
何を云いだすかと思えば、そんなことか。
「いや、仮にそうだとしても自業自得だろう。純粋に学問してる世界なんだから、ついていけないのはそいつが悪いだけだと思うが……。それでへそを曲げるような奴なら、柊がわざわざ気に病むほどの価値もないと思うぞ」
俺がそう云うと、彼女は少しだけ困ったように眉を下げながら、笑った。笑いながらこう云った。
「そっか……。ありがとう、あんたって意外といい人よね」
――意外と、は余計だ。
その発言は、本来そう受けるべきだった。落研として、非モテとして、ぐうたら大学生として。けれどそのとき俺は呆けたように彼女の顔を眺めることしかできなかったのである。
“いい人”なんてこと、恋人の座を狙っている男としては、云われて喜んでいてはいけないのだろうけど。
ゼミが終わった空き教室で、ニコニコと嬉しそうに弁当を広げ始めた柊かがみに声をかける。
それにしてもこの女の子は本当に嬉しそうに弁当を食べるなと、いつも俺は思うのだ。普段は凜とすました顔が、弁当箱を開けるその瞬間だけふにゃりと笑み崩れるのである。
けれどそんな顔をするのも少しだけ納得できる気もする。柊かがみの弁当はいつも本当に豪華で、料亭の仕出し弁当もかくやと思わせるほど手間がかかっていた。
そうしてその弁当を見る度、俺は彼女と自分との格の違いを思い知るのである。家事も料理も完璧にこなして、教授と討論できるほどの知性を持っていて、しかも目を見張るほどの美人。天は二物を与えずと云うけれど、今目の前に二物も三物も持っている完璧超人がいる以上、そんなことわざはなんの意味もない世迷い言にすぎなかった。
「そう? ありがとう、ふふ」
柊かがみは可愛らしく笑ったけれど、その漏れ出たようなふふ、という声は、俺に対して向けられたものではなかった。弁当箱の蓋を開けた瞬間、彼女の視線はすでにその中身に固定されていた。その小さな笑い声は、ただ箱の中にちんまりと鎮座していた色とりどりのおかずたちに対して向けられたものだったのである。
食事って、そこまで楽しいものなのだろうか。
ほこほこと笑顔を浮かべながら箸を動かす柊かがみを盗み見て、そんなことを考えた。
正直に云って、この女の子は少し食い意地が張っているのではなかろうか。以前一度だけおかずをわけてもらえないかと無心してみたことがあったけれど、もの凄い勢いで否定された上、まるで盗まれるのを恐れるようにしてがばりと弁当箱を抱え込まれてしまったのだ。いくら手間暇かけて作った料理だと云っても、そこまですることはないだろう。よっぽど大食いなのだろうかと、その時俺は思ったものだった。
けれど、それにしては彼女のスタイルの良さは奇跡的なのである。これだけ食べていてどうしてこんなにスレンダーで健康的な身体を維持できるのだろう。よっぽど栄養バランスに気を使っているのだろうかと、俺は少しだけそれが気になっていた。
空になった弁当箱を袋に仕舞っている柊かがみは、なんだか酷く悲しそうだった。その弁当袋は紫と青のタータンチェックになっていて、遠くから見ると紫がかった深い青、瑠璃色のように見えていた。
「――ごめんね」
突然聞こえてきた真剣な声に思わずはっとして顔を上げると、柊かがみが真顔でこちらを見つめていた。
「な、なにがだよ」
まさか、本当は彼氏がいるだとか、そういうことだろうか。反射的にそんなことを考えて、そうして心の中で苦笑する。例え彼氏がいるからと云って、それが俺に謝らないといけない理由になんてなるはずがない。彼女にとっての俺は、どうひいき目に見積もっても、精々がとこ無駄に手が掛かるゼミの知り合い程度でしかないだろう。
「うーん、さっきの“何云ってるのかわからなかった”っていうところよ。私、みんなのこと無視しているように見えるかな?」
何を云いだすかと思えば、そんなことか。
「いや、仮にそうだとしても自業自得だろう。純粋に学問してる世界なんだから、ついていけないのはそいつが悪いだけだと思うが……。それでへそを曲げるような奴なら、柊がわざわざ気に病むほどの価値もないと思うぞ」
俺がそう云うと、彼女は少しだけ困ったように眉を下げながら、笑った。笑いながらこう云った。
「そっか……。ありがとう、あんたって意外といい人よね」
――意外と、は余計だ。
その発言は、本来そう受けるべきだった。落研として、非モテとして、ぐうたら大学生として。けれどそのとき俺は呆けたように彼女の顔を眺めることしかできなかったのである。
“いい人”なんてこと、恋人の座を狙っている男としては、云われて喜んでいてはいけないのだろうけど。
それでも俺は、その言葉が飛び上がるほど嬉しかったのだ。
「でも、あんたはもう少し真面目にやった方がいいわよ? やればできるはずなんだから」
なんて、云わずもがなのセリフもくっついてきたけれど。
なんて、云わずもがなのセリフもくっついてきたけれど。
§3
「あー、そこの学部生」
研究室のパソコンでレジュメを作成していたら、高槻教授から声をかけられた。
うん、まあそうだろうと思う。
ゼミに通う目立たない一介の学部生の名前なんて、覚えていなくても仕方がないかな、と思う。
「すまんがちょっと頼まれてもらえないだろうか」
「はい、なんでしょうか」
「ちょっと図書館旧館まで人を探しに行ってくれないか。柊に調べ物を頼んでいたんだが一向に戻ってこない」
うん、まあそうだろうと思う。
柊かがみの名前なら、それは当然覚えているだろうと思う。
それにしてもいつのまにか個人的に用を頼まれるくらいに教授と親しくなっていたんだな。自分のことでもないのに、なんだか俺はそれを誇らしく感じていた。
「ケータイ掛けてみましょうか?」
俺は近頃やっと柊かがみからアドレスを聞き出すのに成功していた。訊ねるときはまるで華厳の滝から飛び降りるような思いだったが、彼女はにっこりと笑って当たり前のように教えてくれたのである。
もちろん、その番号にかけたこともメールを送ったことも、まだ一度たりともなかったのだが。
「いや、掛けたが電源を切ってる。だから多分、まだ図書館にいるのだろう」
うん、まあそうだろうと思う。
個人的に用を頼まれるくらいに親しくなっていれば、教えていて当たり前だろうなと思う。別に悲しくなんてない。本当にない。
わかりましたと俺が云うと、高槻教授はほっとしたような表情を浮かべて、隣接した自室の方に戻っていった。柊かがみは、教授から随分大事にされているようだった。
それにしても、どうしたというのだろう。時間に正確で約束を破ったことがない柊かがみにしては珍しいことだと思う。
そんなことを考えながら研究室がある南館から外に出ると、キャンパスはすでに夕陽に照らされて茜色にくすんでいた。それほど広くない敷地にやたらと建物が建ち並ぶ見田キャンパスは、こうして眺めてみると少しだけ息苦しさを感じるものだった。
それはもしかしたら、私大最高峰の学府に偶然紛れ込んでしまった、俺だけが抱いている息苦しさなのかもしれないけれど。
それでも銀杏並木に囲まれて佇む中庭は、開放感を感じるほどには広かった。夕陽を眺めながら、俺は大きく伸びを一つ。デスクワークに固まった背中の筋肉がばきばきと音を立てて軋み出す。
中庭の中心に聳え立つ大銀杏はこのキャンパスのシンボルともなっていて、周囲を囲むベンチは塾生たちの待ち合わせのメッカとなっている。今も一人の羨ましい野郎が、彼女とおぼしき女の子に膝枕をしてもらって寝っ転がっていた。
このところ随分暖かくなってきたけれど、それでも夕暮れに吹く風はひんやりと肌に寒くって。ざわりと梢を揺らす風に少しだけ身震いしながら、俺は歩いていく。
図書館旧館は、戦前から変わらぬその赤煉瓦の体躯を、今日も変わらず夕暮れ空に聳えさせていた。正面高く掛けられた美麗な大時計には「TEMPUS FUGIT」――光陰矢の如し――というラテン語が掲げられていて、行き交う塾生たちの心に今もそのアフォアリズムを投げかけている。
内部に入れば、ホールの大階段の壁にうがたれた豪奢なステンドグラスが塾生たちを見下ろしていて、そこに刻まれた文句は『ペンは剣より強し』だ。歳月の重みを受け止めて飴色に光る手すり。黄昏色に染まった白い漆喰壁。国の重要文化財に指定されているのもむべなるかなと思う。図書館旧館は、確かに壮麗な建築物なのだった。
司書に尋ねてみれば、柊かがみは確かにこの館内に入ったまま出てきてはいないらしかった。
けれど普通に考えれば入るときには入館証を見ているはずだけれど、出るときにはわざわざチェックするはずもない。どうして柊かがみがまだ出て行っていないことがわかるのだろうと首を捻ったけれど、少し考えただけで腑に落ちた。その司書は若い男性だったのだ。
柊かがみはあれだけの美人なのだから、見た瞬間そのビジュアルが頭の中に叩き込まれているに決まっている。もし彼女が館内から出て行ったなら、男性司書は当然それを覚えているに決まっているのである。
果たして柊かがみはまだ館内にいた。
四階の、洋書の棚に囲まれた長机に突っ伏して、すーすーと寝息を立てていた。
高い天井まで届く出窓から、差し込んでくるのは黄金色の光。古びた木材がセピア色にくすんでいて、壁に浮き彫りされた紋様はゴシックらしく葉蔓紋様だ。据えられた棚やチェストが夕陽に照らされてできる影は、室内に長く長く尾を引いて。そこらのくらがりをのぞき込めば妖精の一匹や二匹見つかりそうな、まるで絵本の中にでも紛れ込んだような光景だった。
そうしてそんな光景の中、本を開きながら力尽きて居眠りしている絶世の美少女がいる。
こんなところに出くわしてしまったら、一体どうすればいいのだろう。昏々と眠る白雪姫を見つけてしまったぐうたら大学生は、一体どうすればいいのだろう。
とりあえず、彼女の近くによってみる。気配で目覚めてくれるのを期待して。けれどよっぽど疲れているのだろうか、彼女はぴくりとも動かず夢の世界から帰ってこなかった。
よくよく見てみると、あどけない顔をしている。いつも張り詰めた表情をしているから大人びて見えるけど、こうして見ると本当に可愛い顔をしているんだなと思う。けれどこんな無防備な姿でもどこか凜とした佇まいは残っていて、俺はなぜだかそれが悲しいと思った。
どうしてこいつはここまで頑張れるのだろう。どうしてここまで日々を全力で過ごせるのだろう。
こんなに毎日張り詰めたままで。
居眠りするときにすら背筋を伸ばしたままで。
いつかこいつは壊れてしまうじゃないだろうか。いつかこいつは崩れてしまうんじゃないだろうか。俺みたいなぐうたらにそんなことを思われたくはないだろうけど、そのとき俺は本気で彼女のことを心配していたのだった。
「う……ん……」
そんな悩ましい声を上げて、彼女は少しだけ身じろぎをする。そうするとふわりと周囲にフローラルの香りが漂って、夕暮れの図書館は薔薇園のように華やかなものになる。
――一体どんな香水をつけているのだろう。
どこか痺れたような頭でそんなことを考えていた俺の前で、柊かがみの目蓋がぴくぴくと動きだしていた。
ああ、これはもう半ば起きているのかな。
起きたときに隣に無言で突っ立っている男がいたら彼女もきっと驚くだろう。そう思って俺は柊かがみに声をかけてみる。
「――柊」
「うーん、あと五分……」
柊かがみは寝ぼけたような声でそう云って、そうして隣にあるなにかを抱え込むように左手をぱたぱたと動かした。何だろう。一体何を探してるんだろう。けれどそこに何もないことに気がつくと、柊かがみはなんだか酷く悲しそうな顔をした。
「もう五分経ったぞ」
「……じゃ、あと四分……」
「切りがない、おい、起きろ」
「……やだ。ちゅーしてくれなきゃ起きないもん」
ガタン、ガラガラ、ドスン。
慌てて飛びずさって椅子を盛大に蹴倒し、バランスを崩して倒れ込んだ俺の頭に、机に載っていた本が落ちてきた。
ちゅーって。
ちゅーって。
誰だこいつは。こいつは誰だ。
俺は今、明らかに見てはいけないものを見て、聞いてはいけないことを聞いてしまった気がする。でも俺が悪いわけじゃない。聞きたくて聞いたわけじゃない。云ってしまえばこれは不可抗力以外の何物でもありえない。
そうして、そんな風に自分に云いわけしていた俺の目の前で、彼女はぱっちりと目を開けた。
「……お、おはよう」
「……おあよ」
柊かがみは、茫洋とした眼差しで俺を見て、周りを見て、そうして考え込むように動きを止めていた。ここがどこで今がいつで自分が誰なのか、そんな基本的な情報を周囲の状況から構築しなおしているのだろう。
「あ、私寝ちゃってたんだ」
うん、正解。
「教授に云われて来たんだよ。柊が戻ってこないって」
「あー、うー。やっちゃった、教授からの評価落としたかなー……」
手鏡を取り出してメイクをチェックする柊かがみだった。机に押しつけていた左のほっぺが真っ赤になっているのをみて、がっくりと肩を落としていた。その様子からすると、先ほど寝ぼけて口走ったセリフは、彼女の脳に記銘されてはいないらしい。
「そんなことないだろ。秘書やってるんじゃないんだし」
「だといいけど……。あ、ありがとう」
そうして散らばっていた洋書や学術雑誌を整理する柊かがみを手伝いながら、俺は意識的に真面目な口調をして釘を刺す。生意気だろうとは思ったけれど、この子のことが本当に心配だったのだ。
「ちょっと、頑張りすぎなんじゃないか? そんなにずっと気を張ってて、身体壊したら元も子もないだろう」
「そう、かな? 私、そんな風に見える?」
「見えるな」
「そっか……。私としてはあんまり無理してるって気分じゃないのよね。でも心配してくれてありがとう、気をつけるわ。先は長いし」
「弁護士か検事か判事か。何を目指してるかはわからんが、お前ならそこまでやらなくても何にでもなれると思うぞ」
――俺は。
やはりぐうたらに過ごしてきた二年間から抜け出せていなかったのだろう。なんとなく社会に寄りかかって生きてきて、誰かに頼る甘ったれた考え方を直そうともしなかった二年間から。
結局のところなるようになるし、なるようにしかならないのだ。そんなただ頑張りたくないだけの云い訳を、諦観という衣に包むことで自分を慰めて。
なりたいものなんて、それになれた時点からが出発点なのだ。
なれたからと云って、そこで目的が達成されるわけじゃない。その職業に就いてその後どうするか、それが一番問題であるはずなのに。なんと云っても、そうやって働いている沢山の大人たちによって、この社会は回っているのだから。
そのとき俺は、そんな当たり前のこともよくわかっていなかった。ただ就職することだけを目的として単位を取得していく日々に、俺の心は曇りきっていた。
――けれど柊かがみは違っていた。
研究室のパソコンでレジュメを作成していたら、高槻教授から声をかけられた。
うん、まあそうだろうと思う。
ゼミに通う目立たない一介の学部生の名前なんて、覚えていなくても仕方がないかな、と思う。
「すまんがちょっと頼まれてもらえないだろうか」
「はい、なんでしょうか」
「ちょっと図書館旧館まで人を探しに行ってくれないか。柊に調べ物を頼んでいたんだが一向に戻ってこない」
うん、まあそうだろうと思う。
柊かがみの名前なら、それは当然覚えているだろうと思う。
それにしてもいつのまにか個人的に用を頼まれるくらいに教授と親しくなっていたんだな。自分のことでもないのに、なんだか俺はそれを誇らしく感じていた。
「ケータイ掛けてみましょうか?」
俺は近頃やっと柊かがみからアドレスを聞き出すのに成功していた。訊ねるときはまるで華厳の滝から飛び降りるような思いだったが、彼女はにっこりと笑って当たり前のように教えてくれたのである。
もちろん、その番号にかけたこともメールを送ったことも、まだ一度たりともなかったのだが。
「いや、掛けたが電源を切ってる。だから多分、まだ図書館にいるのだろう」
うん、まあそうだろうと思う。
個人的に用を頼まれるくらいに親しくなっていれば、教えていて当たり前だろうなと思う。別に悲しくなんてない。本当にない。
わかりましたと俺が云うと、高槻教授はほっとしたような表情を浮かべて、隣接した自室の方に戻っていった。柊かがみは、教授から随分大事にされているようだった。
それにしても、どうしたというのだろう。時間に正確で約束を破ったことがない柊かがみにしては珍しいことだと思う。
そんなことを考えながら研究室がある南館から外に出ると、キャンパスはすでに夕陽に照らされて茜色にくすんでいた。それほど広くない敷地にやたらと建物が建ち並ぶ見田キャンパスは、こうして眺めてみると少しだけ息苦しさを感じるものだった。
それはもしかしたら、私大最高峰の学府に偶然紛れ込んでしまった、俺だけが抱いている息苦しさなのかもしれないけれど。
それでも銀杏並木に囲まれて佇む中庭は、開放感を感じるほどには広かった。夕陽を眺めながら、俺は大きく伸びを一つ。デスクワークに固まった背中の筋肉がばきばきと音を立てて軋み出す。
中庭の中心に聳え立つ大銀杏はこのキャンパスのシンボルともなっていて、周囲を囲むベンチは塾生たちの待ち合わせのメッカとなっている。今も一人の羨ましい野郎が、彼女とおぼしき女の子に膝枕をしてもらって寝っ転がっていた。
このところ随分暖かくなってきたけれど、それでも夕暮れに吹く風はひんやりと肌に寒くって。ざわりと梢を揺らす風に少しだけ身震いしながら、俺は歩いていく。
図書館旧館は、戦前から変わらぬその赤煉瓦の体躯を、今日も変わらず夕暮れ空に聳えさせていた。正面高く掛けられた美麗な大時計には「TEMPUS FUGIT」――光陰矢の如し――というラテン語が掲げられていて、行き交う塾生たちの心に今もそのアフォアリズムを投げかけている。
内部に入れば、ホールの大階段の壁にうがたれた豪奢なステンドグラスが塾生たちを見下ろしていて、そこに刻まれた文句は『ペンは剣より強し』だ。歳月の重みを受け止めて飴色に光る手すり。黄昏色に染まった白い漆喰壁。国の重要文化財に指定されているのもむべなるかなと思う。図書館旧館は、確かに壮麗な建築物なのだった。
司書に尋ねてみれば、柊かがみは確かにこの館内に入ったまま出てきてはいないらしかった。
けれど普通に考えれば入るときには入館証を見ているはずだけれど、出るときにはわざわざチェックするはずもない。どうして柊かがみがまだ出て行っていないことがわかるのだろうと首を捻ったけれど、少し考えただけで腑に落ちた。その司書は若い男性だったのだ。
柊かがみはあれだけの美人なのだから、見た瞬間そのビジュアルが頭の中に叩き込まれているに決まっている。もし彼女が館内から出て行ったなら、男性司書は当然それを覚えているに決まっているのである。
果たして柊かがみはまだ館内にいた。
四階の、洋書の棚に囲まれた長机に突っ伏して、すーすーと寝息を立てていた。
高い天井まで届く出窓から、差し込んでくるのは黄金色の光。古びた木材がセピア色にくすんでいて、壁に浮き彫りされた紋様はゴシックらしく葉蔓紋様だ。据えられた棚やチェストが夕陽に照らされてできる影は、室内に長く長く尾を引いて。そこらのくらがりをのぞき込めば妖精の一匹や二匹見つかりそうな、まるで絵本の中にでも紛れ込んだような光景だった。
そうしてそんな光景の中、本を開きながら力尽きて居眠りしている絶世の美少女がいる。
こんなところに出くわしてしまったら、一体どうすればいいのだろう。昏々と眠る白雪姫を見つけてしまったぐうたら大学生は、一体どうすればいいのだろう。
とりあえず、彼女の近くによってみる。気配で目覚めてくれるのを期待して。けれどよっぽど疲れているのだろうか、彼女はぴくりとも動かず夢の世界から帰ってこなかった。
よくよく見てみると、あどけない顔をしている。いつも張り詰めた表情をしているから大人びて見えるけど、こうして見ると本当に可愛い顔をしているんだなと思う。けれどこんな無防備な姿でもどこか凜とした佇まいは残っていて、俺はなぜだかそれが悲しいと思った。
どうしてこいつはここまで頑張れるのだろう。どうしてここまで日々を全力で過ごせるのだろう。
こんなに毎日張り詰めたままで。
居眠りするときにすら背筋を伸ばしたままで。
いつかこいつは壊れてしまうじゃないだろうか。いつかこいつは崩れてしまうんじゃないだろうか。俺みたいなぐうたらにそんなことを思われたくはないだろうけど、そのとき俺は本気で彼女のことを心配していたのだった。
「う……ん……」
そんな悩ましい声を上げて、彼女は少しだけ身じろぎをする。そうするとふわりと周囲にフローラルの香りが漂って、夕暮れの図書館は薔薇園のように華やかなものになる。
――一体どんな香水をつけているのだろう。
どこか痺れたような頭でそんなことを考えていた俺の前で、柊かがみの目蓋がぴくぴくと動きだしていた。
ああ、これはもう半ば起きているのかな。
起きたときに隣に無言で突っ立っている男がいたら彼女もきっと驚くだろう。そう思って俺は柊かがみに声をかけてみる。
「――柊」
「うーん、あと五分……」
柊かがみは寝ぼけたような声でそう云って、そうして隣にあるなにかを抱え込むように左手をぱたぱたと動かした。何だろう。一体何を探してるんだろう。けれどそこに何もないことに気がつくと、柊かがみはなんだか酷く悲しそうな顔をした。
「もう五分経ったぞ」
「……じゃ、あと四分……」
「切りがない、おい、起きろ」
「……やだ。ちゅーしてくれなきゃ起きないもん」
ガタン、ガラガラ、ドスン。
慌てて飛びずさって椅子を盛大に蹴倒し、バランスを崩して倒れ込んだ俺の頭に、机に載っていた本が落ちてきた。
ちゅーって。
ちゅーって。
誰だこいつは。こいつは誰だ。
俺は今、明らかに見てはいけないものを見て、聞いてはいけないことを聞いてしまった気がする。でも俺が悪いわけじゃない。聞きたくて聞いたわけじゃない。云ってしまえばこれは不可抗力以外の何物でもありえない。
そうして、そんな風に自分に云いわけしていた俺の目の前で、彼女はぱっちりと目を開けた。
「……お、おはよう」
「……おあよ」
柊かがみは、茫洋とした眼差しで俺を見て、周りを見て、そうして考え込むように動きを止めていた。ここがどこで今がいつで自分が誰なのか、そんな基本的な情報を周囲の状況から構築しなおしているのだろう。
「あ、私寝ちゃってたんだ」
うん、正解。
「教授に云われて来たんだよ。柊が戻ってこないって」
「あー、うー。やっちゃった、教授からの評価落としたかなー……」
手鏡を取り出してメイクをチェックする柊かがみだった。机に押しつけていた左のほっぺが真っ赤になっているのをみて、がっくりと肩を落としていた。その様子からすると、先ほど寝ぼけて口走ったセリフは、彼女の脳に記銘されてはいないらしい。
「そんなことないだろ。秘書やってるんじゃないんだし」
「だといいけど……。あ、ありがとう」
そうして散らばっていた洋書や学術雑誌を整理する柊かがみを手伝いながら、俺は意識的に真面目な口調をして釘を刺す。生意気だろうとは思ったけれど、この子のことが本当に心配だったのだ。
「ちょっと、頑張りすぎなんじゃないか? そんなにずっと気を張ってて、身体壊したら元も子もないだろう」
「そう、かな? 私、そんな風に見える?」
「見えるな」
「そっか……。私としてはあんまり無理してるって気分じゃないのよね。でも心配してくれてありがとう、気をつけるわ。先は長いし」
「弁護士か検事か判事か。何を目指してるかはわからんが、お前ならそこまでやらなくても何にでもなれると思うぞ」
――俺は。
やはりぐうたらに過ごしてきた二年間から抜け出せていなかったのだろう。なんとなく社会に寄りかかって生きてきて、誰かに頼る甘ったれた考え方を直そうともしなかった二年間から。
結局のところなるようになるし、なるようにしかならないのだ。そんなただ頑張りたくないだけの云い訳を、諦観という衣に包むことで自分を慰めて。
なりたいものなんて、それになれた時点からが出発点なのだ。
なれたからと云って、そこで目的が達成されるわけじゃない。その職業に就いてその後どうするか、それが一番問題であるはずなのに。なんと云っても、そうやって働いている沢山の大人たちによって、この社会は回っているのだから。
そのとき俺は、そんな当たり前のこともよくわかっていなかった。ただ就職することだけを目的として単位を取得していく日々に、俺の心は曇りきっていた。
――けれど柊かがみは違っていた。
「――夢があるのよ」
柊かがみは宙を見上げながら呟いた。
「――夢がある?」
俺はその単語のことがよくわからずに、バカみたいに相手の言葉を繰りかえしながら呆然と佇んでいた。夢、夢とはなんだろう。少なくともそれは、夜に見るあれとは違うものなのだろう。ついさっきまで柊かがみが見ていたような、眠るときに見る幻とは。
「そう、夢。私が生きている間に、私たちが生きている間にどうしてもそれを実現させたい、そんな夢。私は、そのために今しないといけないことをしているだけなのよ。だからあんまり頑張ってるってつもりじゃないのよね」
「――それって? その夢って?」
俺がそう云うと、柊かがみの眼差しがすーっと遠くなっていく。それはここにはいない誰かのことを見つめるような眼差しだ。頬はぽっと朱に染まり、うるうると濡れそぼった瞳が、窓から差し込む夕陽を反射させてきらきらと光っている。
そうして俺は、否応なくそれを実感することになったのだ。
そうして俺は、否応なくそれを実感することになったのだ。
――柊かがみは、俺が知らない誰かに恋をしているのだと。
ほんの少しの諦観と共に、そのとき俺はそれがわかった。
この綺麗な女の子にそんな表情をさせる奴は一体誰なんだろう。
その眼差しの先にいるのは、一体誰なんだろう。
俺は素直にそいつのことを羨ましいと思った。けれど不思議なことに、そいつに嫉妬することはなかったのだ。
こんな表情をする彼女は凄く綺麗だったけれど。
こんな表情を彼女に向けられたら、きっとそれだけで幸せになってしまうと思ったけれど。
それでも俺は、そんな彼女をこうして横から盗み見るだけでも、十分に幸せだったのだ。例えばその眼差しが俺に向けられていたとしたら、きらきらと目を輝かせて何か素敵なものを思い浮かべている柊かがみのことを、こうして眺めることなんてできなかったはずだ。そう考えると今の俺の立ち位置は、申し分のないところだろうと思うのだ。
そう、俺はきっと。
その、まだ見ぬ誰かに恋し、何かを夢見ている柊かがみのことを、きっと好きになったのだ。
この綺麗な女の子にそんな表情をさせる奴は一体誰なんだろう。
その眼差しの先にいるのは、一体誰なんだろう。
俺は素直にそいつのことを羨ましいと思った。けれど不思議なことに、そいつに嫉妬することはなかったのだ。
こんな表情をする彼女は凄く綺麗だったけれど。
こんな表情を彼女に向けられたら、きっとそれだけで幸せになってしまうと思ったけれど。
それでも俺は、そんな彼女をこうして横から盗み見るだけでも、十分に幸せだったのだ。例えばその眼差しが俺に向けられていたとしたら、きらきらと目を輝かせて何か素敵なものを思い浮かべている柊かがみのことを、こうして眺めることなんてできなかったはずだ。そう考えると今の俺の立ち位置は、申し分のないところだろうと思うのだ。
そう、俺はきっと。
その、まだ見ぬ誰かに恋し、何かを夢見ている柊かがみのことを、きっと好きになったのだ。
――そうして、柊かがみはその夢を口にした。
頬を真っ赤に染めて、けれどしっかりと前を見つめながら、その夢を口にした。
けれどその夢は、俺にとってまるで予想外なものだった。
予想外過ぎてなんと云ったらいいのかわからなくて、そうしてまた、俺は黙り込んだのだ。
俺は、やっぱり少しバカなんだと思う。
そのヒントは最初からずっと転がっていたし、今も柊かがみはこれ以上ない形でそれを表にだしていたというのに。
『私たちが生きている間にどうしてもそれを実現させたい』
そう云った柊かがみの言葉をちゃんと考えてみれば、すぐにそれとわかったはずなのに。俺は『私たち』という言葉を『今生きている私たち皆』という意味だと取り違えていたのである。
予想外過ぎてなんと云ったらいいのかわからなくて、そうしてまた、俺は黙り込んだのだ。
俺は、やっぱり少しバカなんだと思う。
そのヒントは最初からずっと転がっていたし、今も柊かがみはこれ以上ない形でそれを表にだしていたというのに。
『私たちが生きている間にどうしてもそれを実現させたい』
そう云った柊かがみの言葉をちゃんと考えてみれば、すぐにそれとわかったはずなのに。俺は『私たち』という言葉を『今生きている私たち皆』という意味だと取り違えていたのである。
その翌日になって、ようやく俺はそれを理解できたのだった。
§4
――柊かがみが壊れた。
俺も含め、その日に本ゼミに参加した全てのゼミ生がそう思ったことだろう。
『将来にわたって子供ができる可能性がない同性パートナーシップに対する法的支援のありようについて』のレジュメを作成したのは、ぶっちゃけた話ほとんど柊かがみだったのだけれど、彼女は使い物にならないと判断したゼミ生たちの質問は俺に集中していった。
俺はしどろもどろになりながらなんとか返事を返していく。やろうと思えばなんとかなるものだ。作成しながら柊かがみが俺に説明してくれた話を、まんま覚えていただけだったのだが。
やがて討論の舞台もゼミ生同士やそれに対する教授のつっこみにシフトしていって、ようやく俺はほっと胸をなで下ろしたものだった。
けれどそうやって討論を進めながらも、教授も含めたゼミ生たちの意識の何割かは、確実に俺の隣にいる柊かがみに対して向けられていた。それほど彼女の様子は常と違うものだったのである。
――暗い。
とにかく暗い。
漫画なら額に垂直線が沢山描き込まれていそうなほど、見るからに落ち込んでいる様子なのだった。説明を求めてみても、ぼそぼそとやる気がないように喋ったかと思うと突然黙り込んでしまって、言葉に詰まっているのだろうと続きを待っていても、その口から出てくるのはため息だけなのだ。聞いている方が気が滅入ってくる、そんな有様だ。
結局ゼミが終わるまで、柊かがみはそうやって落ち込んでいたのである。
俺も含め、その日に本ゼミに参加した全てのゼミ生がそう思ったことだろう。
『将来にわたって子供ができる可能性がない同性パートナーシップに対する法的支援のありようについて』のレジュメを作成したのは、ぶっちゃけた話ほとんど柊かがみだったのだけれど、彼女は使い物にならないと判断したゼミ生たちの質問は俺に集中していった。
俺はしどろもどろになりながらなんとか返事を返していく。やろうと思えばなんとかなるものだ。作成しながら柊かがみが俺に説明してくれた話を、まんま覚えていただけだったのだが。
やがて討論の舞台もゼミ生同士やそれに対する教授のつっこみにシフトしていって、ようやく俺はほっと胸をなで下ろしたものだった。
けれどそうやって討論を進めながらも、教授も含めたゼミ生たちの意識の何割かは、確実に俺の隣にいる柊かがみに対して向けられていた。それほど彼女の様子は常と違うものだったのである。
――暗い。
とにかく暗い。
漫画なら額に垂直線が沢山描き込まれていそうなほど、見るからに落ち込んでいる様子なのだった。説明を求めてみても、ぼそぼそとやる気がないように喋ったかと思うと突然黙り込んでしまって、言葉に詰まっているのだろうと続きを待っていても、その口から出てくるのはため息だけなのだ。聞いている方が気が滅入ってくる、そんな有様だ。
結局ゼミが終わるまで、柊かがみはそうやって落ち込んでいたのである。
「――弁当を忘れてきたぁ?」
素っ頓狂な声で俺がそう云うと、柊かがみは泣きそうな顔でうなずいた。
ぐだぐだな感じで進行していって、うやむやな感じの結論を導いて、教授の鶴の一声で無理矢理纏めて終わらせたゼミの後、俺と柊かがみは教室に残って話し込んでいた。
なんだかみんなの俺を見る視線が冷たかった気がする。ひょっとして、俺が何かしでかしたとでも思われていたのだろうか。それともただ単にぐだぐだになってしまったゼミの責任を俺に押しつけていたのだろうか。それはわからないけれど、結局のところ俺はこうして柊かがみと二人で教室に残っていた。それはつまり、“とりあえずソレはお前がなんとかしろ”と言外に柊かがみを託されたからに他ならなかった。
「もう駄目、生きてく自信がないわ……」
そうしてその柊かがみは、力なく机に突っ伏していたのである。
――まるで意味がわからない。
「い、いや、大げさだろそれ。たかが弁当を家に忘れてきたくらいであんなに落ち込んでたのか?」
「たかがとか云わないでよね。私にとってはあのお弁当が日々の糧なのよ……」
まあ、そりゃ糧だろう。弁当だし。
突っ込んでおいたほうがいいのだろうか。止めておいたほうがいいのだろうか。正直まるで判断がつかなかった。弁当を忘れてきて落ち込むなんて、ぶっちゃけた話ギャグである。明らかに突っ込み待ちのボケである。
けれどこんな風に身体を張ったボケがありうるだろうか。いつでも全力全開で勉学に励む柊かがみが、本ゼミをまるまる一つ潰してまで繰り出す盛大なギャグ。
ありえない。
なんと云っても、柊かがみはボケじゃなくてツッコミなのだから。
そうしてそのツッコミのはずの柊かがみと云えば、「ごめんね、ごめんね」なんてぶつぶつと弁当に対する謝罪の言葉を口にしてうつぶせていた。信じられないことに、目尻には本当に涙まで浮かんでいるのである。
――やはりここは、不肖この俺が突っ込んでおいたほうがいいのだろうか。ぺしゃりと潰れた柊かがみを前にして、俺は真剣に考え込んでいた。
けれどそのとき、待望の救世主が現れたのである。
「こんにちは、かがみちゃん大丈夫? ってあらあら、やっぱり駄目なのね」
おっとりとそう云って教室に入ってきたのは、柊かがみの一番の友人たちである、例のマダムとめがねっ子の二人組なのだった。
「ああ、丁度いいところに、これ引き取っていってくれませんかね?」
「まあそのためにきたからね。ってかこれってゆーな」
めがねっ子はそう云って、鼻をつんと仰向けた。
――ほら、行くわよ。
――うう、はい……。
――もう、しっかりなさい。あなたがそんなんじゃ、あの子が悲しむわよ?
――そ、そうかな? あいつ、悲しむかな?
――それはもう。自分のために落ち込んでるあなたを見たら嘆き悲しむわね。
――そ、そうよね。うん、がんばるわ。
そんなことを云いながら、柊かがみたちは去っていったのだった。
なんだったんだろう一体。一人になった教室で、俺は眩暈にも似たものを感じながら呆然と突っ立っていた。あいつ? あの子? どうして柊かがみがお弁当を忘れてきて落ち込むことが、そいつのために落ち込むことになるのだろう。
わからない。
いくら考えてもそれがわからない。わからないと云えば、教室を出て行こうとしためがねっ子が突然振り返って、俺に“イーッ”って歯をむき出した理由もよくわからない。
――まあ、とりあえずメシでも食いに行くか。
わからないことはわからないものと棚上げする。それこそが日々をぐうたらに過ごすための処方術なのである。
素っ頓狂な声で俺がそう云うと、柊かがみは泣きそうな顔でうなずいた。
ぐだぐだな感じで進行していって、うやむやな感じの結論を導いて、教授の鶴の一声で無理矢理纏めて終わらせたゼミの後、俺と柊かがみは教室に残って話し込んでいた。
なんだかみんなの俺を見る視線が冷たかった気がする。ひょっとして、俺が何かしでかしたとでも思われていたのだろうか。それともただ単にぐだぐだになってしまったゼミの責任を俺に押しつけていたのだろうか。それはわからないけれど、結局のところ俺はこうして柊かがみと二人で教室に残っていた。それはつまり、“とりあえずソレはお前がなんとかしろ”と言外に柊かがみを託されたからに他ならなかった。
「もう駄目、生きてく自信がないわ……」
そうしてその柊かがみは、力なく机に突っ伏していたのである。
――まるで意味がわからない。
「い、いや、大げさだろそれ。たかが弁当を家に忘れてきたくらいであんなに落ち込んでたのか?」
「たかがとか云わないでよね。私にとってはあのお弁当が日々の糧なのよ……」
まあ、そりゃ糧だろう。弁当だし。
突っ込んでおいたほうがいいのだろうか。止めておいたほうがいいのだろうか。正直まるで判断がつかなかった。弁当を忘れてきて落ち込むなんて、ぶっちゃけた話ギャグである。明らかに突っ込み待ちのボケである。
けれどこんな風に身体を張ったボケがありうるだろうか。いつでも全力全開で勉学に励む柊かがみが、本ゼミをまるまる一つ潰してまで繰り出す盛大なギャグ。
ありえない。
なんと云っても、柊かがみはボケじゃなくてツッコミなのだから。
そうしてそのツッコミのはずの柊かがみと云えば、「ごめんね、ごめんね」なんてぶつぶつと弁当に対する謝罪の言葉を口にしてうつぶせていた。信じられないことに、目尻には本当に涙まで浮かんでいるのである。
――やはりここは、不肖この俺が突っ込んでおいたほうがいいのだろうか。ぺしゃりと潰れた柊かがみを前にして、俺は真剣に考え込んでいた。
けれどそのとき、待望の救世主が現れたのである。
「こんにちは、かがみちゃん大丈夫? ってあらあら、やっぱり駄目なのね」
おっとりとそう云って教室に入ってきたのは、柊かがみの一番の友人たちである、例のマダムとめがねっ子の二人組なのだった。
「ああ、丁度いいところに、これ引き取っていってくれませんかね?」
「まあそのためにきたからね。ってかこれってゆーな」
めがねっ子はそう云って、鼻をつんと仰向けた。
――ほら、行くわよ。
――うう、はい……。
――もう、しっかりなさい。あなたがそんなんじゃ、あの子が悲しむわよ?
――そ、そうかな? あいつ、悲しむかな?
――それはもう。自分のために落ち込んでるあなたを見たら嘆き悲しむわね。
――そ、そうよね。うん、がんばるわ。
そんなことを云いながら、柊かがみたちは去っていったのだった。
なんだったんだろう一体。一人になった教室で、俺は眩暈にも似たものを感じながら呆然と突っ立っていた。あいつ? あの子? どうして柊かがみがお弁当を忘れてきて落ち込むことが、そいつのために落ち込むことになるのだろう。
わからない。
いくら考えてもそれがわからない。わからないと云えば、教室を出て行こうとしためがねっ子が突然振り返って、俺に“イーッ”って歯をむき出した理由もよくわからない。
――まあ、とりあえずメシでも食いに行くか。
わからないことはわからないものと棚上げする。それこそが日々をぐうたらに過ごすための処方術なのである。
――大銀杏の下だった。
第一校舎を出た俺は、生協にでも行こうと中庭を歩いていた。
空は抜けるように青かった。ふわふわと浮かぶ雲はくっきりと白く輪郭線を強調していて、もう夏が近いんだなと思う。燦々と降り注ぐ陽射しは世界を白く染め上げていて、振り仰いで見れば眩しさに目がくらむ。歩いていれば肌が汗ばんで、けれど吹く風がそれを優しく冷ましてくれていて。
なんだか心がうきうきしそうな、思わずスキップの一つでも出てきてしまいそうな、そんな太陽の下、彼女に会ったのだ。
お昼時の大銀杏下ともなれば、それはもう沢山の人であふれかえっている。違う学部の友達同士と、他大学から遊びに来た誰かと、あるいはサークルの集まりなどで、待ち合わせをしている大学生たちで一杯だ。
そんな人々の間で、その子は一人だけ異彩を放っていた。
一見して、小学生だと思った。
どうしてこんなところに小学生がいるんだろう。けれどそう思って見直すと、今度はまるで小学生には見えなくなったのだ。
体つきは小学生そのものだ。身長は精々一四〇cmくらい。細い手足に、うっすらと膨らんだ薄い胸。少なくとも大学生にはまるで見えない、子供の体つきそのものだ。
浮かべた表情は中学生くらいのものだと思った。落ち着いた、けれども無邪気そうな顔。猫みたいな口。楽しそうに細められた目。目元の下の泣きボクロ。
着ている服を見ているうちに、やはり高校生くらいだろうかと思いなおした。黒いサロペットはボーイッシュな雰囲気と良く合っていた。合わせたプリント柄のTシャツは襟元が開いていて、少し陽に灼けた綺麗な肌が見えている。足下はブーツ風のボーンサンダルを履いていて、それなりに気を遣っている印象だ。
けれどそんな外見の彼女は、大学生だらけのこの場所にも気後れした様子はまるでなく、その落ち着いた物腰から俺は、ひょっとしたら大学生かもしれないと思ったのだった。
その年齢不詳の不思議な女の子は、たった今走ってきたばかりという様子で、目を細めたまま周囲をきょろきょろと眺め回している。その度に、シャギーの入った青色のショートカットが頭の周りで舞い踊るのだった。
――そうして、目が合った。
思いっきり俺と目があった。
それは確かにじろじろと無遠慮に眺め渡していた俺が悪いのかもしれないけれど、そんなにガン見しなくてもいいだろうと思う。けれどそのちびっ子は何を思ってか、じーっと俺のことを見つめているのだった。
ぱっちりと目を見開けば、その瞳が意外なほど大きなものだと気がついた。エメラルドグリーンの虹彩は、覗き込めば吸い寄せられそうな不思議な輝きを帯びていて、俺は視線を逸らすこともできずにじっとその瞳を見返していた。
そうして気がつけば、そのちびっ子は俺の目の前に立っていた。いつの間にか近づいていたのだろう。そんなことにも気がつかないほど、俺はその瞳に魅入られていたのである。
「あー、その、迷子なら南館のキャンパスエントランスに――」
その瞳が発する無言の圧力に耐えきれず、とりあえず何でもいいからと適当なことを口にした。このちびっ子の年齢はわからないまでも、一応高校生くらいまでならカバーできるような、そんな物云いをしてみたのである。
――けれどいきなり間違えた。
「ぬおっ、なんという子供扱い! これでもわたし、大学生なのですが?」
“わたし、ショックを受けました”とでも云うような芝居がかった仕草で飛び上がり、口を三角にしながらぎゅっと目をつぶるちびっ子なのだった。そうしてヨヨヨと泣き崩れると、涙を拭うような仕草で顔に手を当て始めたのである。
「あう、そ、その、すまん。ちょ、マジごめん」
「ううう、みんながわたしのことバカにするんだ……。チビとか飛び級とか小学生とか云うんだ……」
「いや、申し訳ない。一応大学生かもしれないとは思ったんだが……ほんと悪かったって」
「ん。悪いと思うならちょっとつき合ってもらえないかな?」
そう云って顔を上げた彼女はまるで泣いているような様子もなく、からっとした顔で目を細めてニマニマと笑っていた。
――なんだこいつは。
出会った瞬間振り回されている。
喋った瞬間主導権を握られている。
この、小学生じみた中学生のような高校生に見える大学生に。
でも、それがなんだか面白いと思ってしまった俺は、きっとマゾなのだろうと思うのだ。
「あー、いいけど、どこにつき合えばいいんだろう」
「ありがと。えっとね、北校舎ってどっちかわかるかな」
「北校舎? 北館じゃなくて?」
俺がそう云うと、彼女は慌てた様子でケータイを取り出した。画面を開いた瞬間、そこに藤色の何かがちらりと見えた気がした。
「あ、ほんとだ。ごみん、北館だったよ」
「それならこっち入ってそのまま北だよ。ついてきてくれ」
「わーい、あんがとキョンくん」
「はぁ? 誰のことだそれは」
「もちろんキミのことさ」
「俺はそんな名前じゃないぞ」
「いやいや、キミは生まれついてのキョンくんなのだよ」
――意味がわからない。
まるでわからない。
なんだろうこれは、突っ込み待ちなのだろうか。一応突っ込んでおいたほうがいいのだろうか。けれど突っ込むにしてもネタが何なのかさっぱりわからない。その上、変なことを云ってしまって、さっきのように泣かれてしまっては大変だ。いや、まあ、あれはどうやら嘘泣きだったようだけれど。
そんなことを考えながら歩いていると、隣のちびっ子が突然ぷぷぷと吹き出した。
「んんー、やっぱりキミって、聞いてた通りの“いい人”だねー」
「――は? おまえ、俺のこと知ってるのか?」
「さあ、どーかなー?」
ニマニマと笑いながらはぐらかすようにそう云って、ちびっ子は植え込みの煉瓦の上に飛び乗った。サンダル履きの癖にふらつくような様子もなく、随分運動神経が高いようだと俺は思った。なにかスポーツでもやっているのだろうか。そんなことを考えながら、突然目の前に現れたかもしかのようにしなやかな足から必死で目をそらしていた。
ちびっ子はそんな俺の視線に気づかない様子で、煉瓦の上で背伸びをしながら植え込みの向こうの建物を眺めやる。
「ねね、あれが噂の図書館旧館?」
「そうそう、案内でもするか? 演説館もあるぞ、遠いけど」
「んーん。遊びにきたわけじゃないし、いいよー。あ、でもあんがとね」
そう云って、ちびっ子は塀の上でくるりと回った。
――危ないだろ。
そう云おうとした俺は、けれど目に入ったそれに驚いて、その言葉を飲み込んだ。
ちびっ子が桜色のトートバッグと一緒に肩から提げているそれは、見覚えがある瑠璃色のお弁当袋だったのだ。
「あれ? それって――」
けれどそれについて訊こうとしたそのとき、俺の頭に思い浮かんでいたその子が丁度道の向こうからやってきた。
問い詰めるようにめがねっ子に顔を向けた柊かがみと、それをなだめるようにしているマダムの三人組。北館のカフェに行くと云っていたのに、どうして北館からこちらに向かってくるのだろうと俺は思った。
――そう思ったそのときに、隣から一陣の風が吹いたのだ。
煉瓦塀からもの凄い勢いでジャンプしたちびっ子が、俺の背丈も飛び越えて軽々と宙を飛んでいた。強い陽射しに逆光となって、ちびっ子はその輪郭線を煌めかせながら飛んでいく。その構図に、俺は昔見たアニメ映画のポスターを思い出していた。
――待ってられない未来がある。
そう云って未来へ向けて駆けだした主人公と同じように、ちびっ子はふわりと地面に降り立つと、柊かがみに向かって一目散に駆けだしたのである。
「かっがみーーん!!」
その声に、柊かがみが弾かれたように振り向いた。
彼女が驚愕の表情を浮かべたのは、しかし一瞬のことだった。
柊かがみは、駆けてくるちびっ子の姿を目に留めると、みるみるうちにその表情を崩れさせていくのであった。目尻も眉尻もふにゃりと下がり、口元は何かを我慢するようにぷるぷると震えていた。
喜色満面というのもおこがましいほどに笑み崩れたその表情は、柊かがみがいつも浮かべているきりりとした顔とはまるで違うものだった。
そうして叫ぶ。
「こなたーー!!」
――いつもの凛々しさなんて欠片もない。
――教授と正面から討論する威厳なんて微塵もない。
まるでアイドルに出会った女子高生のように華やかな嬌声を上げたかと思うと、柊かがみも一直線にちびっ子の方へ駆けてきて。
第一校舎を出た俺は、生協にでも行こうと中庭を歩いていた。
空は抜けるように青かった。ふわふわと浮かぶ雲はくっきりと白く輪郭線を強調していて、もう夏が近いんだなと思う。燦々と降り注ぐ陽射しは世界を白く染め上げていて、振り仰いで見れば眩しさに目がくらむ。歩いていれば肌が汗ばんで、けれど吹く風がそれを優しく冷ましてくれていて。
なんだか心がうきうきしそうな、思わずスキップの一つでも出てきてしまいそうな、そんな太陽の下、彼女に会ったのだ。
お昼時の大銀杏下ともなれば、それはもう沢山の人であふれかえっている。違う学部の友達同士と、他大学から遊びに来た誰かと、あるいはサークルの集まりなどで、待ち合わせをしている大学生たちで一杯だ。
そんな人々の間で、その子は一人だけ異彩を放っていた。
一見して、小学生だと思った。
どうしてこんなところに小学生がいるんだろう。けれどそう思って見直すと、今度はまるで小学生には見えなくなったのだ。
体つきは小学生そのものだ。身長は精々一四〇cmくらい。細い手足に、うっすらと膨らんだ薄い胸。少なくとも大学生にはまるで見えない、子供の体つきそのものだ。
浮かべた表情は中学生くらいのものだと思った。落ち着いた、けれども無邪気そうな顔。猫みたいな口。楽しそうに細められた目。目元の下の泣きボクロ。
着ている服を見ているうちに、やはり高校生くらいだろうかと思いなおした。黒いサロペットはボーイッシュな雰囲気と良く合っていた。合わせたプリント柄のTシャツは襟元が開いていて、少し陽に灼けた綺麗な肌が見えている。足下はブーツ風のボーンサンダルを履いていて、それなりに気を遣っている印象だ。
けれどそんな外見の彼女は、大学生だらけのこの場所にも気後れした様子はまるでなく、その落ち着いた物腰から俺は、ひょっとしたら大学生かもしれないと思ったのだった。
その年齢不詳の不思議な女の子は、たった今走ってきたばかりという様子で、目を細めたまま周囲をきょろきょろと眺め回している。その度に、シャギーの入った青色のショートカットが頭の周りで舞い踊るのだった。
――そうして、目が合った。
思いっきり俺と目があった。
それは確かにじろじろと無遠慮に眺め渡していた俺が悪いのかもしれないけれど、そんなにガン見しなくてもいいだろうと思う。けれどそのちびっ子は何を思ってか、じーっと俺のことを見つめているのだった。
ぱっちりと目を見開けば、その瞳が意外なほど大きなものだと気がついた。エメラルドグリーンの虹彩は、覗き込めば吸い寄せられそうな不思議な輝きを帯びていて、俺は視線を逸らすこともできずにじっとその瞳を見返していた。
そうして気がつけば、そのちびっ子は俺の目の前に立っていた。いつの間にか近づいていたのだろう。そんなことにも気がつかないほど、俺はその瞳に魅入られていたのである。
「あー、その、迷子なら南館のキャンパスエントランスに――」
その瞳が発する無言の圧力に耐えきれず、とりあえず何でもいいからと適当なことを口にした。このちびっ子の年齢はわからないまでも、一応高校生くらいまでならカバーできるような、そんな物云いをしてみたのである。
――けれどいきなり間違えた。
「ぬおっ、なんという子供扱い! これでもわたし、大学生なのですが?」
“わたし、ショックを受けました”とでも云うような芝居がかった仕草で飛び上がり、口を三角にしながらぎゅっと目をつぶるちびっ子なのだった。そうしてヨヨヨと泣き崩れると、涙を拭うような仕草で顔に手を当て始めたのである。
「あう、そ、その、すまん。ちょ、マジごめん」
「ううう、みんながわたしのことバカにするんだ……。チビとか飛び級とか小学生とか云うんだ……」
「いや、申し訳ない。一応大学生かもしれないとは思ったんだが……ほんと悪かったって」
「ん。悪いと思うならちょっとつき合ってもらえないかな?」
そう云って顔を上げた彼女はまるで泣いているような様子もなく、からっとした顔で目を細めてニマニマと笑っていた。
――なんだこいつは。
出会った瞬間振り回されている。
喋った瞬間主導権を握られている。
この、小学生じみた中学生のような高校生に見える大学生に。
でも、それがなんだか面白いと思ってしまった俺は、きっとマゾなのだろうと思うのだ。
「あー、いいけど、どこにつき合えばいいんだろう」
「ありがと。えっとね、北校舎ってどっちかわかるかな」
「北校舎? 北館じゃなくて?」
俺がそう云うと、彼女は慌てた様子でケータイを取り出した。画面を開いた瞬間、そこに藤色の何かがちらりと見えた気がした。
「あ、ほんとだ。ごみん、北館だったよ」
「それならこっち入ってそのまま北だよ。ついてきてくれ」
「わーい、あんがとキョンくん」
「はぁ? 誰のことだそれは」
「もちろんキミのことさ」
「俺はそんな名前じゃないぞ」
「いやいや、キミは生まれついてのキョンくんなのだよ」
――意味がわからない。
まるでわからない。
なんだろうこれは、突っ込み待ちなのだろうか。一応突っ込んでおいたほうがいいのだろうか。けれど突っ込むにしてもネタが何なのかさっぱりわからない。その上、変なことを云ってしまって、さっきのように泣かれてしまっては大変だ。いや、まあ、あれはどうやら嘘泣きだったようだけれど。
そんなことを考えながら歩いていると、隣のちびっ子が突然ぷぷぷと吹き出した。
「んんー、やっぱりキミって、聞いてた通りの“いい人”だねー」
「――は? おまえ、俺のこと知ってるのか?」
「さあ、どーかなー?」
ニマニマと笑いながらはぐらかすようにそう云って、ちびっ子は植え込みの煉瓦の上に飛び乗った。サンダル履きの癖にふらつくような様子もなく、随分運動神経が高いようだと俺は思った。なにかスポーツでもやっているのだろうか。そんなことを考えながら、突然目の前に現れたかもしかのようにしなやかな足から必死で目をそらしていた。
ちびっ子はそんな俺の視線に気づかない様子で、煉瓦の上で背伸びをしながら植え込みの向こうの建物を眺めやる。
「ねね、あれが噂の図書館旧館?」
「そうそう、案内でもするか? 演説館もあるぞ、遠いけど」
「んーん。遊びにきたわけじゃないし、いいよー。あ、でもあんがとね」
そう云って、ちびっ子は塀の上でくるりと回った。
――危ないだろ。
そう云おうとした俺は、けれど目に入ったそれに驚いて、その言葉を飲み込んだ。
ちびっ子が桜色のトートバッグと一緒に肩から提げているそれは、見覚えがある瑠璃色のお弁当袋だったのだ。
「あれ? それって――」
けれどそれについて訊こうとしたそのとき、俺の頭に思い浮かんでいたその子が丁度道の向こうからやってきた。
問い詰めるようにめがねっ子に顔を向けた柊かがみと、それをなだめるようにしているマダムの三人組。北館のカフェに行くと云っていたのに、どうして北館からこちらに向かってくるのだろうと俺は思った。
――そう思ったそのときに、隣から一陣の風が吹いたのだ。
煉瓦塀からもの凄い勢いでジャンプしたちびっ子が、俺の背丈も飛び越えて軽々と宙を飛んでいた。強い陽射しに逆光となって、ちびっ子はその輪郭線を煌めかせながら飛んでいく。その構図に、俺は昔見たアニメ映画のポスターを思い出していた。
――待ってられない未来がある。
そう云って未来へ向けて駆けだした主人公と同じように、ちびっ子はふわりと地面に降り立つと、柊かがみに向かって一目散に駆けだしたのである。
「かっがみーーん!!」
その声に、柊かがみが弾かれたように振り向いた。
彼女が驚愕の表情を浮かべたのは、しかし一瞬のことだった。
柊かがみは、駆けてくるちびっ子の姿を目に留めると、みるみるうちにその表情を崩れさせていくのであった。目尻も眉尻もふにゃりと下がり、口元は何かを我慢するようにぷるぷると震えていた。
喜色満面というのもおこがましいほどに笑み崩れたその表情は、柊かがみがいつも浮かべているきりりとした顔とはまるで違うものだった。
そうして叫ぶ。
「こなたーー!!」
――いつもの凛々しさなんて欠片もない。
――教授と正面から討論する威厳なんて微塵もない。
まるでアイドルに出会った女子高生のように華やかな嬌声を上げたかと思うと、柊かがみも一直線にちびっ子の方へ駆けてきて。
――そうして、がっしりと抱き合った。
柊かがみは、そのまま彼女の胸に飛び込んでいったちびっ子を空中で抱きとめて、頬ずりしたままくるくるとその場で回り出していた。
「やだ、うそー! どうしてこんなところにいるのよ!」
「ふふん、かがみんがお弁当忘れてったから、今頃落ち込んでると思って持ってきてあげたのだよ」
「や、そんな、ご、ごめんねこなた、あんたが心を込めて作ってくれたのに……」
「んーん。昨日も遅くまで勉強してたし、仕方ないよ。それより大丈夫だった? ちゃんとゼミこなせた?」
「だ、大丈夫に決まってるじゃないの。そりゃ落ち込んだけど、自分がやらなきゃいけないことくらい、ちゃんとやれたわよ」
「むふー。無駄な抵抗するかがみん萌え。こちらにはちゃーんとスパイがいるのだ」
そう云って、ちびっ子は隣で眺めていためがねっ子に掌を向ける。ニコニコしながら二人の様子を見ていた彼女が元気よく片手を上げると、柊かがみの顔がイチゴみたいに真っ赤に染まっていく。
「う、裏切りものー!!」
顔中を口みたいにして叫ぶ柊かがみだった。ちびっ子はニマニマと笑いながら、そんな彼女の綺麗なおでこをペシペシと叩いていた。
「ぷくく、今日もツンデレごちそうさまでした」
「だから私はツンデレじゃないって! ってかおでこ叩くなばかっ」
「いやいや、デコキャラはツンデレが基本だよ?」
「知るかっ、あんたがこれにしてくれって云ったんだろっ!」
「うんうん、よく似合ってて今日も可愛いよ」
「――なっ。も、もう、ばか……」
――誰だ。
――あれは誰だ。
デレデレと頬を緩ませながらちびっ子と言葉の応酬をしているあの女の子は、少なくとも俺が知っている柊かがみではありえなかった。あの居眠りしているときですらぴんと伸びていた背筋も今はだらだらと緩みきり、張り詰めた雰囲気などまるでない。どこもかしこも隙だらけで、ちびっ子に何かを云われる度に動揺して頬を染めていた。
「――だから云ったじゃん、あなたに望みなんて一ナノミクロンもないってさ」
なんだか厭に不機嫌そうな声が後ろから聞こえてきて、そうしてふりむけばそこにともこがいた。どうしてこいつはいつもこういうタイミングで現れることができるのだろうと、俺は少しだけ不思議に思った。
「おまえ、知ってたのか、あれのこと」
「そりゃね、少しでもかがみと親しい子なら、みんな知ってるわよ」
「それにしても……恋人はいないんじゃなかったのか……」
「誰もそんなこと云ってないでしょ。“彼氏なんていない”って云ったのよ」
「なんだよその叙述トリックは」
「やだ、うそー! どうしてこんなところにいるのよ!」
「ふふん、かがみんがお弁当忘れてったから、今頃落ち込んでると思って持ってきてあげたのだよ」
「や、そんな、ご、ごめんねこなた、あんたが心を込めて作ってくれたのに……」
「んーん。昨日も遅くまで勉強してたし、仕方ないよ。それより大丈夫だった? ちゃんとゼミこなせた?」
「だ、大丈夫に決まってるじゃないの。そりゃ落ち込んだけど、自分がやらなきゃいけないことくらい、ちゃんとやれたわよ」
「むふー。無駄な抵抗するかがみん萌え。こちらにはちゃーんとスパイがいるのだ」
そう云って、ちびっ子は隣で眺めていためがねっ子に掌を向ける。ニコニコしながら二人の様子を見ていた彼女が元気よく片手を上げると、柊かがみの顔がイチゴみたいに真っ赤に染まっていく。
「う、裏切りものー!!」
顔中を口みたいにして叫ぶ柊かがみだった。ちびっ子はニマニマと笑いながら、そんな彼女の綺麗なおでこをペシペシと叩いていた。
「ぷくく、今日もツンデレごちそうさまでした」
「だから私はツンデレじゃないって! ってかおでこ叩くなばかっ」
「いやいや、デコキャラはツンデレが基本だよ?」
「知るかっ、あんたがこれにしてくれって云ったんだろっ!」
「うんうん、よく似合ってて今日も可愛いよ」
「――なっ。も、もう、ばか……」
――誰だ。
――あれは誰だ。
デレデレと頬を緩ませながらちびっ子と言葉の応酬をしているあの女の子は、少なくとも俺が知っている柊かがみではありえなかった。あの居眠りしているときですらぴんと伸びていた背筋も今はだらだらと緩みきり、張り詰めた雰囲気などまるでない。どこもかしこも隙だらけで、ちびっ子に何かを云われる度に動揺して頬を染めていた。
「――だから云ったじゃん、あなたに望みなんて一ナノミクロンもないってさ」
なんだか厭に不機嫌そうな声が後ろから聞こえてきて、そうしてふりむけばそこにともこがいた。どうしてこいつはいつもこういうタイミングで現れることができるのだろうと、俺は少しだけ不思議に思った。
「おまえ、知ってたのか、あれのこと」
「そりゃね、少しでもかがみと親しい子なら、みんな知ってるわよ」
「それにしても……恋人はいないんじゃなかったのか……」
「誰もそんなこと云ってないでしょ。“彼氏なんていない”って云ったのよ」
「なんだよその叙述トリックは」
――そうか。
そんな自分の発言で、俺は唐突に思い出していた。
それは昨日の出来事だ。あの茜差す図書館旧館四階での出来事だ。
それは昨日の出来事だ。あの茜差す図書館旧館四階での出来事だ。
『私はどうしても、ウェディングドレスを着たいの』
柊かがみはそう云った。どんな夢のために頑張っているのかと訊ねた俺に、頬を染めながらそう云った。
俺はと云えば、そんなことが夢であるということがよくわからず、その夢をかなえるために法学の道を突き進んでいる彼女のことがよくわからず、そうして何も云えずに黙りこんだのだ。
俺はと云えば、そんなことが夢であるということがよくわからず、その夢をかなえるために法学の道を突き進んでいる彼女のことがよくわからず、そうして何も云えずに黙りこんだのだ。
けれどそう、今はその夢がよくわかる。あんな風に何もかも満ち足りたような顔をして、同性のちびっ子と頬を寄せ合って笑っている彼女を見れば、それがよくわかる。
そうして否応なく気づかされてしまうのだ。彼女が抱いているその夢を実現することの困難さにまでも。
高槻教授が推進する『ドメスティック・パートナー』の制度は、婚姻ではないがゆえに受け入れられやすく、その実現可能性は高い。けれど彼女がそうでなく結婚を望んでいるならば、恋人と共にウェディングドレスを着ることができる婚姻を望んでいるならば、それは茨の道だった。
そうして否応なく気づかされてしまうのだ。彼女が抱いているその夢を実現することの困難さにまでも。
高槻教授が推進する『ドメスティック・パートナー』の制度は、婚姻ではないがゆえに受け入れられやすく、その実現可能性は高い。けれど彼女がそうでなく結婚を望んでいるならば、恋人と共にウェディングドレスを着ることができる婚姻を望んでいるならば、それは茨の道だった。
憲法が、その道を阻むのだ。
日本国憲法第二四条――“婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない”
両性の本質的平等を定めるために記述された条文が、今は同性同士の婚姻を阻んでいる。同性婚を認めさせるには、まず憲法を改正させることが必須なのである。
――数年、なんていうスパンではないだろう。十数年、下手したら何十年。それは長い長い道のりだ。茨と陥穽と地雷に満ちた、それは困難な道のりだ。
そうして彼女がそんな道を選ぶというならば。恋人と共に手を取り合って、一歩一歩その道を歩むというならば。確かに今している努力なんて、当たり前のことのように感じるものだろう。
両性の本質的平等を定めるために記述された条文が、今は同性同士の婚姻を阻んでいる。同性婚を認めさせるには、まず憲法を改正させることが必須なのである。
――数年、なんていうスパンではないだろう。十数年、下手したら何十年。それは長い長い道のりだ。茨と陥穽と地雷に満ちた、それは困難な道のりだ。
そうして彼女がそんな道を選ぶというならば。恋人と共に手を取り合って、一歩一歩その道を歩むというならば。確かに今している努力なんて、当たり前のことのように感じるものだろう。
――夢、か。
確か、俺もそれを持っていたはずだった。今となってはもうその夢を思い出すこともできなかったけれど、少なくともこの大学の門を潜ったその日には、希望も願いもこの胸に溢れていたはずだった。
確か、俺もそれを持っていたはずだった。今となってはもうその夢を思い出すこともできなかったけれど、少なくともこの大学の門を潜ったその日には、希望も願いもこの胸に溢れていたはずだった。
――まずは、もう一度それを探してみようかな。
両手を恋人つなぎにして見つめ合う二人を眺めていると、この世界もまだまだ捨てたもんじゃないなと思うのだ。
「ところで、おまえもうメシ食った?」
「まだよ。食べに行こうとしたところでバカップルが抱き合いながらくるくる回ってるところに出くわしたってわけ」
「じゃ、一緒に食いに行かね?」
「いいわね、当然おごりでしょ」
「ああ、もう。いい、いい。生協でよかったらなんでもおごるよ」
そう云って、俺はともこと一緒に歩きだす。けれど数歩歩いたところでともこはちらと後ろを振り返り、『見てよあれ』とでもいいたげな苦笑を俺に投げかけた。
「まだよ。食べに行こうとしたところでバカップルが抱き合いながらくるくる回ってるところに出くわしたってわけ」
「じゃ、一緒に食いに行かね?」
「いいわね、当然おごりでしょ」
「ああ、もう。いい、いい。生協でよかったらなんでもおごるよ」
そう云って、俺はともこと一緒に歩きだす。けれど数歩歩いたところでともこはちらと後ろを振り返り、『見てよあれ』とでもいいたげな苦笑を俺に投げかけた。
そうして俺が振り向くと。
『光陰矢のごとし』と書かれた大時計の下で、ちびっ子が柊かがみのほっぺにちゅーをしていたのであった。
(了)