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『4seasons』 冬/きれいな感情(第九話)

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匿名ユーザー

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『4seasons』 冬/きれいな感情(第八話)より続く
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

§16

 どんなに楽しいことであっても、やがて終わりはくるものだ。
 騒がしかったクリスマスパーティも終わり、今私たちは夜の街を歩いている。
 暖房の効いた泉家から足を踏み出した途端、凍えるような冬の寒さが襲ってきて、みんなの口からは悲鳴のような声が漏れ出した。だから私たちは身体を縮こまらせながら、自然と身を寄せ合うようにして歩いている。
 今にも雪が降ってきそうな空だった。けれど私たちの身体の奥のほうには、楽しかったクリスマスパーティの温もりが未だ残っていた。
 みんなまだまだ話し足りないことがあるようで、口々に色々なことを語り合っては弾けたような笑い声を上げている。女子高生が六人も集まれば、およそどんな話題であっても笑い合うことができるものだ。ましてやそれがクリスマスの夜ともなれば尚更だ。
 興奮冷めやらぬ様子でついさっき起きた楽しい出来事を口に出し、突っ込んだり云い訳したりからかったりして、そうしてまた笑う。まるで差し迫った受験やその後に控えた卒業のことなんて、どこにも存在しないかのように。
 あの後も、色々なことがあった。
 つかさのケーキは本当に美味しくて、みんなから褒められたつかさはケーキに乗ったイチゴみたいに顔を真っ赤に染めていた。 
 私がみんなに渡した手編みのミトンは、特に中学時代の私を知っているみさおにとっては大きなからかいの的に見えたらしく、散々弄られつづけたものだった。
 みゆきがこたつの中で居眠りしてしまい、額に落書きをしようと水性ペンを取り出したこなたと、それを阻止しようとするつかさ・私連合軍の間で熾烈な戦いが繰り広げられた。
 PS3のボードゲームでは誰かが面白いコマに止まる度に笑い、ネットの百科事典サイトで調べながらみゆきに問題を出していく、回答者が一人だけのクイズ大会で盛り上がり、あやのののろけ話を襟を正しながらみんなで拝聴し、こなたの長髪を色んな形に編み込んで遊んだ。
 眼を閉じるとそんな光景が思い浮かんできて、みんながかわしていた会話すら蘇ってくる。今夜はベッドの中で中々眠れずにすごすだろうと私は思った。
 気がつけば私とこなたは列の最後尾にいて、自然と楽しそうに話すみんなを眺める形になっていた。
 つかさとみゆきは隣り合わせで歩いている。つかさがみゆきの顔をのぞき込むようにして何かを云うと、それが楽しかったようで、みゆきも声を立てて笑った。私やこなたのことで、二人で話し合うことが多かったからだろうか。つかさとみゆきは、以前よりも更に仲よくなっている気がする。そこに変な感情などまるでない、本当にただ仲がいい親友同士。少し羨ましいなと私は思う。
 みさおは家から乗ってきた自転車を押しながら、あやのと話し込んでいる。あやののロングスカートで自転車に乗るのは大変そうだと思っていたけれど、案の定みさおの自転車の後ろに乗ってきたようだった。私の経験上、ロングスカートでペダルを漕ぐと、ひるがえったスカートがスポークに絡まって凄く危険だ。足を揃えたまま乗れる二人乗りならそこは大丈夫なのだけれど、今度は二人乗り自体の危うさが生じてきてしまう。
 だから私は二人のことを心配して、いつもみたいに小言を云う。
「仕方ないんだろうけど二人乗りは気をつけなよ。何かあったとき、あんた一人の被害じゃすまないんだからさ」
「へーきへーき。わたしにとっちゃあやの一人なんて荷物にもなんねーし。あ、でもかがみだったら重くて危ないかもしんねーな」
「な、なんだときさま! それはどういう意味だ!」
 けれどそんな私の気遣いは、みんなを爆笑させる面白ネタになって終わってしまった。
 ――ふと。
 こなたはさっきから余り喋っていないなと思う。
 私はそれが気になって、隣のこなたのことを盗み見る。さすがのこいつでもサンタ服のまま外を出歩くことはできなかったようで、昨日私が見たコーディネイトの上から、つかさと同じようなAラインのコートを羽織っていた。
 けれどこなたにとっての“サンタ服で外を出歩けない理由”が、果たしてそれが恥ずかしい格好だからなのか、それとも単に夜出歩くには寒い格好だからなのか、私には判断がつかなかった。
 首元が寒かったのだろう、マフラーを少し上に上げているこなたの手元を眺め見る。その手を見る度に、私の中で嬉しさと恥ずかしさが同居した不思議な気持ちがわき上がるのだった。こなたが今している手袋は、昨日私がプレゼントしたものなのだ。それを私とつかさだけが知っている。
 こなたは、私が皆にプレゼントしたものと自分がもらったものが違うことを、どう思っただろう。ふとそれが気になった。
 プレゼントを渡すとき、私はこなたの表情を見るのが怖くてなるべくそっちの方を見ないようにしていたから、わからなかったのだ。
 ――あれ?
 そんなことを思いながら見ていると、こなたの顔が部屋にいたときとは少し違うことに気がついた。
 唇の発色がいやに鮮やかだ。透明感のある桜色をしている。もしかしたらリップでも使っているのだろうか。そう思って見ていると、常夜灯を照り返して、下唇がきらりと光った。
 ――口紅に、グロスも塗っているのか?
 暗くてよくみえないのがもどかしい。
 少なくともクリスマスパーティーの最中はメイクなんてしていなかったはずだ。私たちを部屋から追い出しているうちに、着替えと一緒にしてきたのだろうか。確かにただ着替えるだけにしては、少し時間が掛かっていたような気がする。
 けれどちょっと出かけるだけなのにメイクをするこなたと云うのは、余り想像がつかない存在だ。出かけると云っても、ただみゆきを駅まで送ってくるだけのことなのだし、そもそもこなたがメイクをしているところなんて未だかつて見たことがない。
「――かがみってさ」
 いつの間にか、私はまじまじとこなたの顔を見つめていた。
「最近、何かっていうと私の顔見てるよねー」
 前を向いたまま、ぽつりとこなたが呟いて。
 瞬間的に私の顔に血が昇る。
「やっ、いや、ええ? そ、そんなことない、わよ?」
 しどろもどろになりながら、反論にもならない反論を並べ立てる私を正面から見て、こなたはからかうでもなく弄るでもなく、ただにっこりと笑った。
 その顔を丁度道路脇のお店から漏れる灯りが照らしていて、私にはこなたが口紅をつけていることがはっきりとわかった。
「――かがみは、きれいだね」
「……今さっきの私はもの凄くきれいじゃなかったと思うんだが」
 ふて腐れたようにそう云うと、今度は歯をむき出して笑った。漏れ出たような笑い声が白い息になり、こなたの顔の周りに浮かんで消えていく。
 こいつがこんな風に笑うのは珍しいなと思う。こなたの笑顔と云って思い浮かぶのは、大口を開けて笑い転げるところか、糸目になってニヤニヤするところ。こんな風にあけすけな子供みたいな笑い顔は、今まで一度も見たことがないように思う。三年間毎日のように顔を合わせてきたこなたの新しい顔を見て、私は胸に変な高鳴りを覚えていた。
 ガタンゴトンと、脇の線路を通って下り電車が駅に滑り込んでくる。もう、駅の目の前まで辿り着いている。もう、みんなと手を振って別れないといけないときが近づいてきている。
「かがみのきれいさは、そんなところにあるわけじゃないのだよ」
「――そ、そうなの?」
「そうなの。自分じゃわかんないんだろけどね」
 パッと両手を開いて、手袋を見せつけるようにしてこなたは云う。手首に巻かれた腕時計のバンドが、手袋の下からちらりと見えていた。それは去年の五月に誕生日プレゼントとしてこなたに上げた物で、こなたはずっとそれを身につけてくれていた。
「おーい、かがみたちどしたー?」
 駅舎の目の前で、みさおが振り返って私たちに云う。みんなもうそこに集まって話し込んでいて、私たちだけが随分遅れていた。みさおの顔は、駅舎が投げかける灯火が逆光となっていてよく見えなかった。
「あ、悪い――」
 みんなの所に向かおうとしたところで、こなたに手を引かれて止められる。
「かがみ」
 ――どうしたのよこなた。
 そう云おうとした私の言葉は、喉に引っかかったまま出てこない。
 こなたのその表情が、私からあらゆる言葉を奪っていた。
 ――今まで見たことがないような、真剣な表情をしている。
 それはあの夏の日に私と喧嘩をしたときのような、焦りと自己嫌悪に満ちてつり上がった眼差しとも違う。
 あの秋の海辺で浮かべていた、諦観によって形作られた穏やかな憂い顔ともまた違う。
 それは強い決意の元に何かの試練に立ち向かう人だけが浮かべる、凜とした眼差しだった。大きな物と対峙して自らの意志を貫こうとする、強い強い眼差しだった。
 見開かれた青竹色の瞳が、タクシーのヘッドライトに照らされてきらりと光っている。その瞳の中、大写しになって私がいる。ただ私の顔だけが、こなたの瞳に映っている。
 それが私に見えるのは、こなたの瞳に私だけが写っているのは、それだけこなたの顔が私の顔に近づいているからに他ならない。
 ――かがみ。
 もう一度、声に出さずに呟いた。グロスを塗られて艶めいた唇が、誘うように形を変えていく。私は、そんなこなたの唇を、痺れたような思いでただ呆然と眺めていた。
 そうしてこなたは、ずっと掴んでいた私の腕を引っ張って。
 私が考えたこともない原理に従って、私の身体はバランスを崩して倒れ込む。

 ――だから、こなたは背伸びをする必要がなかったのだ。

 ふわりと、柔らかい物が唇に触れる。

 柔らかい。それはどこまでも柔らかい。
 指で自分の唇に触れたときとはまるで違う、唇が溶けていってしまいそうなその感触。
 唇は毛細血管が透けて見えるほど皮膚が薄いから、触覚がじかに伝わりやすい。そんな、どこかの少女漫画かローティーン向けのファッション誌で読んだ知識が、頭の中をふとよぎる。
 目の前の信じられないほど近くに眼を閉じたこなたの顔があって、こいつまつげ長いな、なんて私は人ごとのように思っていた。
 遅れて、気づく。

 私は、こなたとキスをしている。
 私の唇のその先にこなたの唇があって。そうしてそこで触れあっている。

 その事実がやっと頭の中で飲み込めて、私の頭は瞬間的に沸騰していった。電撃のような痺れが全身を駆けめぐり、心臓が爆発しそうに暴れ出す。
 思わず口から息を吸ってしまって、そうするとこなたの吐息が私の中に流れ込む。甘い甘いストロベリーケーキの味がする。
 私は、こなたとキスをしている。
 唇に触れた柔らかい感触。ふわりと漂うバニラエッセンスの香り。腕の中にある小さな身体。その暖かい温もり。
 何がどうしてこういうことになっているのか、まるでわからない。理由も過程も原因も目的も何もわからない。
 ただ、私はこなたとキスをしている。
 過程なんてどうでもいいと思った。理由なんて何でもいいと思った。ただ私はこなたとキスをしていて、そうしてその瞬間この世界にはこなたの唇だけが存在していた。
 それは、実際の時間にしたらきっとほんの数秒の出来事だっただろう。通行人のうち何人かはそれに気がついていたのかもしれない。けれどクリスマスムードに当てられた戯れだとでも思ったか、それともそんなことは今時珍しくもないのか、あるいはただ単に礼儀正しく顔を背けていただけか、特に騒ぎになるようなこともなく、その時間は過ぎていく。
 やがて私の唇からこなたの唇が離れていったとき、私は何か大切な物が引き裂かれていくように感じていた。唇がいぎたなくもこなたの唇を追っていこうとし、私は理性を総動員させてそれをなんとか押しとどめる。
 息を止めていたのだろう、こなたの口からため息のような吐息が漏れだして、私たちの間を冬の風が言葉もなく吹き抜けていく。
 私は呆然とこなたのことを見つめていた。緊張に固まったその顔を見つめていた。
 ――そうして。
 さっきまで私の唇と重なっていた、その桜色の唇。
 それが見る間にぷるぷると震えていったかと思うと、大きな瞳の縁からぽろりと一粒の雫が零れ落ちていく。

 ――涙?

 意味がわからなかった。
 わけがわからなかった。
 どうして、そんなに悲しそうな顔をするのだろう。どうして、そんなに涙を浮かべているのだろう。
 ぽろり。
 もう一雫、今度は右の瞳から。
 どうして。どうして。どうして。私の頭は硬直したように動かない。
 私からねだったわけじゃない。私から望んだわけじゃない。なんの前触れもなく、突然キスをしてきたのはこなたの方だ。
 なのに、どうしてこいつは勝手に泣いているんだろう。

 何よりもこの子に泣いて欲しくないと、それだけを願ってきたはずなのに――。

 私は、彫像のように立ち竦んでいた。喋ることも動くことも考えることもできなかった。
 そんな私の目の前で、こなたは少しだけうつむいて。流れ落ちる涙の雫をぐしぐしと袖で拭っていた。そうして顔を上げたときには、もう涙の余韻は少しだけ赤らんだ目元に残るだけになっていた。
「おーい!」
 口元に手を当てて、駅舎の前でたむろしているつかさたちに声を掛ける。何やら楽しそうに話し込んでいたつかさたちが、一斉にこちらを振り向いた。その様子からすると、先ほどの私たちのことには誰も気づいていないようだった。
「そんじゃわたし帰るから。今日は楽しかったよ! 受験勉強がんばろーね!」
 大声でそんなことを叫ぶこなただった。一旦集まってからみゆきを見送るつもりだったのだろう、みんなきょとんとした顔を浮かべていた。けれどすぐに笑顔になると、それぞれに別れの挨拶を口にする。
 こなたはそんなみんなに大きく手を振ると、最後にちらりと私の方を眺めて――。

 去っていった。

 ひるがえった青い髪と、駅の灯りを照り返して光る唇だけを私の網膜に残して。
 こなたは去っていった。
 一人取り残された私は、呆然としてその場に佇んでいた。相変わらず頭の芯が痺れたように動かなくて、思考を結ぶことができなかった。
 ――どうしたんだかがみ?
 ――なんだろうね?
 後ろで、みさおとあやのが不思議そうに呟く声がする。さすがに様子がおかしいと思ったのだろう、つかさとみゆきがぱたぱたと駆けてきた。
「――お姉ちゃん?」
 心配そうに訊ねるつかさの声が聞こえてくる。そちらに首を回すと、駆け寄ろうとしていたみさおとあやのに、みゆきが押しとどめるような仕草をしていた。私の様子を見て、“何か”があったと気がついたのだろう。相変わらず察しがいいな、なんて人ごとのように思う。
「――キス、された」
 私がそう呟くと、つかさとみゆきは眼を見開いて息を飲む。
 その言葉は、わざわざみさおたちに聞こえないように小声で云う必要はなかった。私の口からは、掠れたような声しか出てこなかったから。
「――でも……こなた、泣いてた……。なんでだろう、なんで泣くんだろう……」
 それがなんだか口惜しくて、私はぐっと唇を噛みしめた。その唇に、まだこなたが残していった感触が残っている。ふわりと溶けた優しいキスの感触が残っている。
 なのにどうしてこなたは泣いたのだろう。どうしてあんな風に、何かに耐えるような顔をしたのだろう。わからない。私には何もわからない。
「――がみさん」
 自分だけの思いに捕われていたそんな私の耳に、みゆきの声が聞こえてくる。
「――かがみさん?」
「え?」
 いつのまにかうつむいていたことに気がついて、私はハッと顔を上げる。目の前に、大写しでみゆきの顔がある。その顔は、なんだか怒っているように見えていた。
「それで、あなたはここで何をしているんですか?」
「――何? 何って……?」
 私はみゆきが何を云っているのかわからなくて、混乱した頭で聞き返す。
「しっかりしてください。そんなこと、ここで考えていてもわかるわけがないじゃないですか。今すぐこなたさんを追いかけて行ってください」
 そんな風に眉をつり上げてにらむみゆきなんて、今まで一度も見たことがなかった。今日は親友たちの珍しい顔を随分沢山見るな。そんなことを私は思う。
「追い、かける……?」
「そうです。追いかけて、聞けばいいんです」
 ――追いかけて、聞く。
 私は小首を傾げながらその言葉を心の中で繰り返す。
 こなたが何も云わずに逃げたから、追いかけて理由を聞いてくる。
 考えてみれば当たり前の話だ。そこには複雑な理由も、秘めた恋心も、同性愛という袋小路も何もない。
 そんな当たり前のことが、今まではどうしてもできなかった。素直に聞いてみたこともあったけれど、その答えはいつも韜晦だったり無言だったりごまかしだったりしてきた。
 けれど今ならどうだろう。今私が追いかけたらこなたはそれを教えてくれるだろうか。今私が訊ねたら、こなたは心を開いてくれるだろうか。
 そう思って私は、問いかけるようにみゆきの顔を見返した。
 ――みゆきは、私を力づけるようにうなずいた。
 そのまま、隣で真剣な顔をしているつかさの方に顔を向ける。
 ――つかさも、私を力づけるようにうなずいた。
「――わかった」
 口に出してそう云うと、混乱していた頭の中がすーっと透明になっていく。ぐちゃぐちゃになっていた思考回路が整理されていき、一つの目的に向けてぴたりと定まった。
 こなたを追いかけて、捕まえること。
 それだけでいい。そんなシンプルなことだけでいい。
 今はとりあえずそれだけ。それが私にできること全て。
「ありがとう」
 二人の顔を見渡しながらそういうと、つかさもみゆきもこれ以上ないくらいの笑顔を浮かべてくれた。
 その暖かさに胸が詰まる。その優しさに目頭が熱くなる。この二人がいるから私は頑張れるのだと、心の底からそう思った。
 だから私は、二人にくるりと背を向けて駆けだした。それ以上どんな言葉も必要ないと思った。それ以上、どんな励ましも必要ないと思った。
 けれど走り出してしばらくしたとき――。

「――頑張れ!! 頑張れお姉ちゃん!!!!」

 そんな大きな叫び声が聞こえてきて、それが私の背中をぐんと押し出した。それはつかさの声だった。今まで一度も聞いたことがないような、つかさの大声だった。
 いつもぽやんとしていて、争いが苦手で、注目を浴びることが大嫌いで。
 そんなつかさが生まれて始めてお腹の底から出した大声は、何よりも私の足に力を与えてくれたのだ。

 周りの人が、何事かという顔でこちらを見ていたけれど。

 ――私はもう、振り返ることはなかった。


§17

 ――走る。
 ――走る。
 ――走る。

 十二月二十四日。冬の夜を私は走っていた。
 十二月二十四日。イブの夜を私は走っていた。
 商店街を抜け、大通りを駆け、裏路地を通る。
 破裂しそうな心臓を抱えて、くずおれそうな足にむち打って、私は走る。
 ほどなくして、こなたの後ろ姿が見えてきた。悄然として歩く、青い髪の後ろ姿。
 それはなんて小さくて。
 なんて細くて。
 なんて儚げな後ろ姿だろう。
 ――まるで、迷子の子供のようだった。
 その小さな肩は、重苦しく垂れ下がる暗い夜空に、今にも押しつぶされてしまいそうに見えた。
 こんな小さな身体で、こいつはこの世界を生きてきたんだ。そう思うとなんだか酷く切なくて、私はその身体を今すぐ抱きしめて上げたくなった。
「――こなた!!」
 荒げた息の間から懸命に声を振り絞って、その後ろ姿に声を掛ける。もう、肺も心臓も足も限界に近かった。
 私はこなたが振り返ってくれると思って、荒い呼吸を整えようとその場に立ち止まって息を吸う。心臓がバクバクと鳴っていて、視界が少しだけ暗くなる。今にも倒れそうな身体を、足に手を突いて支えていた。
 けれど、こなたは振り返ってはくれなかった。
 私の声を聞くとこなたはぴくりと立ち止まって、しばらくの間動きを止めていた。私が後ろにいることはわかっているはずだった。私の荒い呼吸音が聞こえているはずだった。
 ――なのにこなたは、そのまま振り返ることなく逃げ出した。
「こなた! 待ちなさい!」
 静止の声も振り切って、脱兎のごとく逃げ出した。
 ――くそ、あのばかっ!
 心の中で舌打ちをして、私もすぐに追いかけた。走り出すのが遅ければ遅いほどこなたとの距離が広がってしまう。悪態なんて吐いている場合じゃなかった。迷いなんて、とっくの昔につかさが粉々に吹き飛ばしてしまった。

 ――はあっ、はあっ、はあっ。
 息が荒い。心臓がうるさい。身体が重い。汗が気持ち悪い。足が震える。
 今の私はきっと、もの凄く醜いだろうと思う。全身汗だくで、メイクなんて流れ落ちていて、髪の毛も逆立っていて、服なんて乱れ放題で。
 それでも私は必死だった。こなたに追いつこうと、こなたを捕まえようと必死だった。そのためなら、どこまででも走れると思った。そのためなら、限界なんてないと思った。そう思いながら懸命に足を動かして、私はふと空を見上げる。

 ――雪が。

 ちらちらと雪が降ってきた。
 そんな雪を見て、それが余りにもできすぎていて、思わず笑ってしまった。思わず笑ってしまって、そうしてそのあとに、身体の底から何か熱い感情がふつふつと湧きだしてくる。
 その感情が、今にも攣りそうな足を支えていた。
 その感情が、今にも爆発しそうな心臓を動かしていた。
 どうして私たちが傷つかないといけないのか。どうしてこなたが泣かないといけないのか。どうして私はこなたへの想いを我慢しないといけないのか。
 そんな世界に対する理不尽な怒りが、私の身体を突き動かしていた。
 そうして私は思い出している。

 あの日あやのとかわした会話を。

 あの日つかさとかわした会話を。

 あの日みゆきとかわした会話を。

 今までこなたとかわしてきた、様々な会話を。

 ――やがて角を曲がると、公園が見えてきた。
 次々と空から落ちてくる雪が世界をほの白いグラデーションに染めていて、視界はどこまでも悪かった。けれどあの街灯の下に揺れている青い髪のことを私が見間違えるはずもない。公園の入り口で柵に手をついてうずくまっているのは、私が追いかけてきた相手、泉こなたに他ならない。大きく揺れている背中は、乱れた呼吸を整えようと深呼吸しているせいか。
 ――運動不足ね。
 こなたが慣れない受験勉強に身を入れていて助かった。おかげでこうしておいつくことができたのだ。

 ぐっと足に力を篭めてラストスパート。

 跫音で気づいたのだろう、こなたは観念したような表情でこちらを見上げている。
「――か、が、み」
 荒い息の間から、振り絞るようにして私の名を呼んだ。
 こなたは酷い有様をしていた。髪の毛はぐしょぐしょに濡れて額に張りつき、いつもピンと立っているアホ毛が見る影もない。頬を濡らしている液体は涙か汗か、それとも溶け出した雪だろうか。オフホワイトのカラータイツも、フェミニンなギャザーフレアスカートも、そこかしこに跳ねた泥がこびりついていて、とてもじゃないけどお姫様のようには見えなかった。
 きっと私の方も似たり寄ったりだろう。つかさが可愛いと云ってくれたコーディネートも乱れ放題で、今の私は思いきりみすぼらしいだろう。いつでもきれいでいたかったのに、こなたの前ではきれいな自分でいたかったのに。格好のことなんて、考える余裕もなかったのだ。
 ――今でもこなたは、こんな私を見てきれいだと云ってくれるだろうか。
 そんなことを思ったのも、けれど一瞬のことだった。
 ラストスパートで全ての力を振り絞った私は、こなたの元へと辿り着いた瞬間一歩も動けなくなってしまい、身体についていた勢いを殺すこともできずに倒れ込む。
「わぷっ」
 なんて慌てたような声が聞こえてきて、私はこなたと一緒に地面を転がった。せめてこなたが頭を打たないようにと、私は懸命にこなたの頭を抱え込んでいた。
 アスファルトが冷たい。指も膝も額も地面にこすってしまって、穿いていたストッキングはきっとびりびりに破けている。溶けた雪が服に染みこんできて、それが酷く気持ち悪かった。
 そうして気がつけば腕の中にこなたがいる。汗だくで、泥だらけで、雪まみれのぐちゃぐちゃになったこなたがいる。腕の中、脱力したように手足を投げ出したまま懸命に息を吸っていた。その度に小さな胸が大きく上下して、こなたがこのまま壊れてしまうんじゃないかと私は不安になる。
 けれどそんなこなたを抱え込みながら、私も人の心配をできるような状態じゃなかった。少しでも多くの酸素を取り込もうと、口を大きく開けてぜーぜーと息を吸う。もう、指先一つ動かす力もなかった。目の前を赤い斑点がちらちらと舞っている。全身が痺れていて、このまま気絶してしまうんじゃないかと思った。
 そうして二人で息を荒げながら。
 私たちは身動きもできないまま、しばらく地面に寝転がっていた。
 ――雪は降る。
 そんな私たちの上に、雪は降り積もっていく。
 いっそこのまま埋もれてしまいたいと私は思った。
 こなたと二人抱き合ったまま、雪の下に埋まってしまいたいと私は思った。
 雪の世界に閉じこめられたまま、いっそ物云わぬ氷の彫像となってしまえば、私たちはきっときれいになれるだろう。
 こんな風に惑ったり、怒ったり、傷つけあったりする必要なんてない。ただひたすらにきれいな二人になれるだろう。
 そう、思った。

 けれどやがて呼吸も整っていくと、そんな熱に浮かされた思考も段々と冷静になっていく。このまま抱き合っているのもいいけれど、風邪を引いてしまったら困るな、なんて現実的な思いもちらと忍び寄ってくる。
「――ぷっ」
 そのとき、腕のなかでこなたが小さく吹き出した。
 私の腕の中のこなたは、手足を大の字に投げ出したまま、ぷるぷると身体を震わせている。
「――こなた?」
 さっきまで泣いていたように思うのに。こなたは自然とこみあげてくる笑いを押し殺せない様子で、その口角が少しずつ上がっていく。
「あは、あははは、あははははは」
 やがて、大口を開けて笑い出した。それは心から楽しそうな自然な笑みだった。
「あ、あはははは、か、かがみ顔酷い! かがみ顔ぐちゃぐちゃ!」
「なっ、ちょっ、おまっ、誰のせいでこうなってると思ってんだ!」
 慌ててそんなことを云ってみたけれど、こなたの顔だって本当に酷い物だった。あちこちに泥はこびりついてるし、涙袋はほの黒く腫れ上がっている。しなやかな青い長髪も、泥と共に張りついてしまえば普段のようにきれいなものだとはとても云えなかった。
 けれどその顔でこなたは笑っている。ぐちゃぐちゃな顔で満面の笑みを浮かべている。
 そんなこなたの顔を眺めているうちに、私もなんだか楽しくなってきてしまった。
「ちょ、ぷっ、笑うなってばもう、あは、あははははは」
 私が笑い出すとそれがまた笑いの琴線に触れたようで、私の顔を指さしながらこなたはより大きな笑い声を上げていく。

 雪の中、泥だらけになりながら笑い転げる私たち。
 その姿はきっときれいなんてものではないだろう。

 泥臭くて。
 必死で。
 不器用で。

 それでも、私はそれで構わないと思った。
 今このときだけは、こんな私で構わないと思った。

 厚くたれ込めた雲に一筋の切れ目ができていて、そこから月光がこぼれ落ちている。

 ただ私たちだけを照らすように、こぼれ落ちている。

 そんな月の光に照らされて、私たちは飽きることなく笑い転げていたのだった。

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  • 凄くどきどきした。電車の中で号泣しそうた。 -- 名無しさん (2008-07-14 17:56:32)
  • 次で完結しちゃうのかな少し寂しい… -- 名無しさん (2008-07-13 07:46:35)
  • すごいの一言。完結したらここの住人みんなで作者を胴上げしたい気分です、、 -- 名無しさん (2008-07-13 04:24:26)
  • 次が最大の山場、なのかな? -- 名無しさん (2008-07-12 19:03:57)
  • もう言うことなど何も無い…全力で完結を!! -- 名無しさん (2008-07-12 18:31:47)
  • ラストかな……(´・ω・`)
    まさかここに繋がってるとは・・・・ -- 名無しさん (2008-07-12 17:57:03)

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