例えば、ガラスのコップを取り落としてしまったとき。
なんとか間に合ってキャッチできるときもあれば、落ちたのがシンクの中とかで、大した高さがなかったりして大丈夫なときもあると思う。
でも、そうじゃないとき。
キャッチするのも間に合わなくて、落下の距離も致命的なとき。そういうときって、だいたいわかるよね。手からこぼれたその瞬間に、実際に落ちて割れちゃう、たぶん一秒ぐらい前には。
ああ、これはもうどうしたって無理だな、って。
そんな感覚。
そんな、地味に取り返しのつかない感覚が、つるりと背筋を駆け抜けて。
背中に力が入らなくなったんだ。
冷たい脱力感。
背中から、腰と上腕。腰からひざ裏、上腕から手のひらへと。体温が抜けていく。
さらに、眉間の奥で何かが膨れ上がりながらぐらついて。
込み上げる。
なんとか間に合ってキャッチできるときもあれば、落ちたのがシンクの中とかで、大した高さがなかったりして大丈夫なときもあると思う。
でも、そうじゃないとき。
キャッチするのも間に合わなくて、落下の距離も致命的なとき。そういうときって、だいたいわかるよね。手からこぼれたその瞬間に、実際に落ちて割れちゃう、たぶん一秒ぐらい前には。
ああ、これはもうどうしたって無理だな、って。
そんな感覚。
そんな、地味に取り返しのつかない感覚が、つるりと背筋を駆け抜けて。
背中に力が入らなくなったんだ。
冷たい脱力感。
背中から、腰と上腕。腰からひざ裏、上腕から手のひらへと。体温が抜けていく。
さらに、眉間の奥で何かが膨れ上がりながらぐらついて。
込み上げる。
――ぱさっ。
筆入れの落ちる音が、妙に大きく反響する。
ああ、せっかく缶のやつから布製に変えたのに。あんまり意味がなかったかも。
「――ばやかわさ――?」
声。
と、視線。
たぶん、右からだと思う。
授業中。
落とした筆入れを拾おうともせずに俯く私は、それは奇妙に映るだろう。
「――ばやか――うした――?」
前からも。
先生、かな。
うん、先生だ。
返事?
ごめんなさい、ちょっと無理です。
久しぶりに、大きいのがきた。油断しちゃった。夜更かしなんかするんじゃなかった。
「――」
「――」
「――」
右と、前と――ううん。全方位が軽くざわついている。息を呑むような気配もした。
うん、たぶん、真っ青だろうからね。
全身が冷たいよ。
ああ、イヤだなぁ。
どうして私はこうなんだろう。
ああ、せっかく缶のやつから布製に変えたのに。あんまり意味がなかったかも。
「――ばやかわさ――?」
声。
と、視線。
たぶん、右からだと思う。
授業中。
落とした筆入れを拾おうともせずに俯く私は、それは奇妙に映るだろう。
「――ばやか――うした――?」
前からも。
先生、かな。
うん、先生だ。
返事?
ごめんなさい、ちょっと無理です。
久しぶりに、大きいのがきた。油断しちゃった。夜更かしなんかするんじゃなかった。
「――」
「――」
「――」
右と、前と――ううん。全方位が軽くざわついている。息を呑むような気配もした。
うん、たぶん、真っ青だろうからね。
全身が冷たいよ。
ああ、イヤだなぁ。
どうして私はこうなんだろう。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
謝りますから。
もうしませんから。
だから――そんなに、見ないで。
見降ろさないで。
笑わないで、ください。
ごめんなさい。
謝りますから。
もうしませんから。
だから――そんなに、見ないで。
見降ろさないで。
笑わないで、ください。
「――ゆたか」
じわり。
と、声とともに、温かい何かが背中に沁み込んだ。
温度だ。
とたんに、冷たさとは違う寒気が走って、背筋が一つ、小さく震えた。
首を回して声の主を振り返る。
重たい。けど。
ちゃんと、動く。
「みなみ……ちゃん」
うなずきが一つ。
真剣な、綺麗な顔。
「保健室、行こう。立てる?」
静かで優しいのに、凛とした声。よく通る。
格好いいなぁ。みなみちゃん。
「うん……」
力の入らない足に、それでも無理やりに力をこめて、どうにかこうにか、立ちあがった。
「ぁ……」
ふらついた。
落ちそうになる寸前、脇の下に手が回されて、支えられる。
心強い体温。
全てを預けたくなる。
「……歩ける?」
「ん……」
ううん。ちょっと、無理かも。
と言いたいけれど、そうもいかない。
赤ちゃんじゃないんだから、せめて。歩くぐらいは自分で、しないと。
「だい、じょぅぶ……」
「……」
もたれかかった制服越しに、逡巡するような気配。
「岩崎、頼めるか?」
そんな隙間に、声。先生だ。
心配そうな、不安そうな。
あるいは、迷惑そうな。
周りからの視線に、足がすくむ。
「はい」
「ごめん、ね……?」
「……いい。ゆっくりで。……行こう」
頷き返して。
だけど、そこまでだった。
一歩踏み出した足が、膝が、積み木細工みたいに崩れる。
「あっ……!」
だけどまたしても、板張りの床に膝がしらが打ち付けられる寸前。
胴体に前後から腕が回されて、受け止められた。
「……気を付けて」
「ご、ごめ――」
「……大丈夫。慌てないで、いいから」
「あ、ぅ……」
情けない。
恥ずかしい。
それなのに、足に力が入らない。嫌な汗が背筋を伝う。
どうしてわたしの身体は、こうも思うように動いてくれないのだろう。みんなが見てるし、みなみちゃんにも迷惑をかけちゃうのに。焦れば焦るほどに、動かない。動かし方がわからない。
「……ゆたか」
「う……ご、ごめ――」
と、声とともに、温かい何かが背中に沁み込んだ。
温度だ。
とたんに、冷たさとは違う寒気が走って、背筋が一つ、小さく震えた。
首を回して声の主を振り返る。
重たい。けど。
ちゃんと、動く。
「みなみ……ちゃん」
うなずきが一つ。
真剣な、綺麗な顔。
「保健室、行こう。立てる?」
静かで優しいのに、凛とした声。よく通る。
格好いいなぁ。みなみちゃん。
「うん……」
力の入らない足に、それでも無理やりに力をこめて、どうにかこうにか、立ちあがった。
「ぁ……」
ふらついた。
落ちそうになる寸前、脇の下に手が回されて、支えられる。
心強い体温。
全てを預けたくなる。
「……歩ける?」
「ん……」
ううん。ちょっと、無理かも。
と言いたいけれど、そうもいかない。
赤ちゃんじゃないんだから、せめて。歩くぐらいは自分で、しないと。
「だい、じょぅぶ……」
「……」
もたれかかった制服越しに、逡巡するような気配。
「岩崎、頼めるか?」
そんな隙間に、声。先生だ。
心配そうな、不安そうな。
あるいは、迷惑そうな。
周りからの視線に、足がすくむ。
「はい」
「ごめん、ね……?」
「……いい。ゆっくりで。……行こう」
頷き返して。
だけど、そこまでだった。
一歩踏み出した足が、膝が、積み木細工みたいに崩れる。
「あっ……!」
だけどまたしても、板張りの床に膝がしらが打ち付けられる寸前。
胴体に前後から腕が回されて、受け止められた。
「……気を付けて」
「ご、ごめ――」
「……大丈夫。慌てないで、いいから」
「あ、ぅ……」
情けない。
恥ずかしい。
それなのに、足に力が入らない。嫌な汗が背筋を伝う。
どうしてわたしの身体は、こうも思うように動いてくれないのだろう。みんなが見てるし、みなみちゃんにも迷惑をかけちゃうのに。焦れば焦るほどに、動かない。動かし方がわからない。
「……ゆたか」
「う……ご、ごめ――」
「ごめん」
え?
と、思う間もなく。
胸側に回されていた手が引っ込んで、背中の腕はそのままで、膝の裏に何かが触れて。
そうして、ふわりと。
何がどうとか、感じる暇すら差し置いて、急に体が軽くなったような、気がして。
わ。
うわー。
すげー。
そんな、気配のような声のような、があちこちから投げかけられて。
理解したときには、その形は完全に出来上がってしまっていた。
「え……」
「少し、我慢して」
片腕は、両膝を。
片腕は、胴体を両腕ごと。
それぞれ力強く支えている。
膝から下は浮き上がるように揺らめいて、おなかはなんとなく水平で、顔のすぐそばにみなみちゃんの肩がある。
いわゆる横抱き。
あるいは――お姫様だっこの体勢だった。
「み、みなみ、ちゃ……」
「ごめん。でも、急いだ方がいい」
「そ、そうじゃ……」
「大丈夫。軽い」
そうじゃ、なくて。
ああ。
顔はみなみちゃんの身体に軽く押しつけられるようになっていて、だから見えないけど。周りからも私の顔自体は見えにくいだろうけど。
見なくても、わかる。
教室にいる全員が呆気にとられたようにして、注目している。
奇妙に歓声めいたものまで聞こえてくる。
それなのに、だというのに、みなみちゃんはそれらの視線を意にも解さぬといった真剣な表情で、確かな足取りで、教室のど真ん中を突っ切っていく。
ああ。
すごい。
本当に。本当に、どうして。この人は。
これだけの視線を、こんなにもたやすく受け止めてしまえるのだろう。
と、思う間もなく。
胸側に回されていた手が引っ込んで、背中の腕はそのままで、膝の裏に何かが触れて。
そうして、ふわりと。
何がどうとか、感じる暇すら差し置いて、急に体が軽くなったような、気がして。
わ。
うわー。
すげー。
そんな、気配のような声のような、があちこちから投げかけられて。
理解したときには、その形は完全に出来上がってしまっていた。
「え……」
「少し、我慢して」
片腕は、両膝を。
片腕は、胴体を両腕ごと。
それぞれ力強く支えている。
膝から下は浮き上がるように揺らめいて、おなかはなんとなく水平で、顔のすぐそばにみなみちゃんの肩がある。
いわゆる横抱き。
あるいは――お姫様だっこの体勢だった。
「み、みなみ、ちゃ……」
「ごめん。でも、急いだ方がいい」
「そ、そうじゃ……」
「大丈夫。軽い」
そうじゃ、なくて。
ああ。
顔はみなみちゃんの身体に軽く押しつけられるようになっていて、だから見えないけど。周りからも私の顔自体は見えにくいだろうけど。
見なくても、わかる。
教室にいる全員が呆気にとられたようにして、注目している。
奇妙に歓声めいたものまで聞こえてくる。
それなのに、だというのに、みなみちゃんはそれらの視線を意にも解さぬといった真剣な表情で、確かな足取りで、教室のど真ん中を突っ切っていく。
ああ。
すごい。
本当に。本当に、どうして。この人は。
これだけの視線を、こんなにもたやすく受け止めてしまえるのだろう。
☆
養護教諭の天原先生にゆたかを預けて、倒れた時の状況をできる限り伝えて、ベッドに寝かせるのを手伝って。
そこで、私の役目は終わり。
「では……失礼します」
「はい。お疲れさま」
幸いにも、ただの貧血だろうとのことだった。
安堵の気持ちを胸に、保健室を辞して、廊下に一人。教室に戻る。
授業中の、廊下に特有の、中途半端な人の気配。すぐそばに大勢がいるのに誰も見えない。誰からも見えない。
ふと立ち止まって窓を見る。
運動場にも誰もいない。
窓に映る、自分を見る。
冷たい視線。
あまり好きじゃない、自分の視線が、無感情に見つめ返してきている。
目を逸らす。
また歩き出す。
視線に晒されるのは好きじゃない。
好きじゃないけど、別に害はない。
小さなころから、私は何故だか無駄に人目を引く存在だったらしいから。もう馴れてしまった。
見られるけど、見られるだけ。
嫌だけど、嫌なだけ。
気にしなければ、どうということもない。
なのに。
だというのに。
そこで、私の役目は終わり。
「では……失礼します」
「はい。お疲れさま」
幸いにも、ただの貧血だろうとのことだった。
安堵の気持ちを胸に、保健室を辞して、廊下に一人。教室に戻る。
授業中の、廊下に特有の、中途半端な人の気配。すぐそばに大勢がいるのに誰も見えない。誰からも見えない。
ふと立ち止まって窓を見る。
運動場にも誰もいない。
窓に映る、自分を見る。
冷たい視線。
あまり好きじゃない、自分の視線が、無感情に見つめ返してきている。
目を逸らす。
また歩き出す。
視線に晒されるのは好きじゃない。
好きじゃないけど、別に害はない。
小さなころから、私は何故だか無駄に人目を引く存在だったらしいから。もう馴れてしまった。
見られるけど、見られるだけ。
嫌だけど、嫌なだけ。
気にしなければ、どうということもない。
なのに。
だというのに。
――ありがとう、みなみちゃん……
「……」
彼女の、視線は。
眼差しは。
どうしてあんなにも――私を落ち着かなく、させるのだろう。
彼女の、視線は。
眼差しは。
どうしてあんなにも――私を落ち着かなく、させるのだろう。
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- すばらしい・・・。最近、こういうのが少なくなってるだけに、ひとしお感じる。 -- 名無しさん (2009-12-02 10:39:17)
- 相変わらずアナタは上手い。 -- 名無しさん (2009-09-30 23:38:33)