『4seasons』そしてまためぐる季節/後より続く
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もしも魔法が使えたら
伊勢野あゆみ
こんなことを云うと馬鹿にされるかもしれませんが、今私は心の底から魔法使いになりたいと思っています。
どれみやさくら、うさぎやぽぷりみたいに魔法を使って誰かのことを助けられたなら、それはどんなにいいことだろうと私は思います。
アニメに出てくる心優しい魔法少女たち。
彼女たちは、いつだって誰かのために、その魔法の力を使ってきました。膝を抱えて落ち込んでいる友達のために、迷子になって泣きながら街を彷徨っている子供のために、夢破れて自暴自棄になっている誰かのために、あと一歩踏み出す勇気が持てない恋人たちのために。
彼女たちはいつだって他人のために、自分の正体を隠しながら魔法を使ってきました。
その作品ごとに違う様々な理由で、魔法少女たちは正体を隠し続けなければいけません。大抵の場合、もし正体がばれたなら酷い目に遭うようになっています。
それでも、彼女たちは魔法を使ってきました。
自分自身が危険な目に遭いながら、いつだって、誰かのために。
――わかっています。
本当は、わかっています。
彼女たち魔法少女が素敵なことができるのは、誰かのことを助けることができるのは、彼女たちがただ魔法を使えるからではないということを。
それはきっと、彼女たちが勇気を持っているからです。
もし失敗してしまったら酷い目に遭うことを知っていて、成功したところで自分の正体は明かせず誰もそれを褒めてくれないことをわかっていて、それでも歯をくいしばりながらステッキを握りしめるその勇気。
その勇気があるからこそ、彼女たちは誰かを助けることができる。ならばその勇気こそが、きっと魔法よりもなによりも尊い“力”なのだろうと思うのです。
――私には、それがありませんでした。
そうする勇気が、私にはありませんでした。
それでも。
いいえきっとだからこそ、私は魔法使いになりたいと思うのです。
もしも魔法が使えたら。
私は今度こそ、勇気が出せるかもしれません。誰かのためにその魔法が使えるかもしれません。
もしも魔法が使えたら。
あんなことが起きないように、私はきっと全力を尽くすでしょう。それが魔女の掟に触れたとしても、そのために魔力を無くすことがあっても、私はきっと魔法を使うでしょう。
もしも魔法が使えたら。
けれどそれは、考えるまでもなくただの夢です。魔法なんてお話の中にでてくるだけのもので、現実ではありません。
魔法の呪文を唱えても、玩具のステッキを振り回しても、時間を巻き戻すことはできません。
どれだけそれを願ったとしても、時間を巻き戻すことはできません。
――だから。
私たちが会うことは、もう二度とないでしょう。
どれみやさくら、うさぎやぽぷりみたいに魔法を使って誰かのことを助けられたなら、それはどんなにいいことだろうと私は思います。
アニメに出てくる心優しい魔法少女たち。
彼女たちは、いつだって誰かのために、その魔法の力を使ってきました。膝を抱えて落ち込んでいる友達のために、迷子になって泣きながら街を彷徨っている子供のために、夢破れて自暴自棄になっている誰かのために、あと一歩踏み出す勇気が持てない恋人たちのために。
彼女たちはいつだって他人のために、自分の正体を隠しながら魔法を使ってきました。
その作品ごとに違う様々な理由で、魔法少女たちは正体を隠し続けなければいけません。大抵の場合、もし正体がばれたなら酷い目に遭うようになっています。
それでも、彼女たちは魔法を使ってきました。
自分自身が危険な目に遭いながら、いつだって、誰かのために。
――わかっています。
本当は、わかっています。
彼女たち魔法少女が素敵なことができるのは、誰かのことを助けることができるのは、彼女たちがただ魔法を使えるからではないということを。
それはきっと、彼女たちが勇気を持っているからです。
もし失敗してしまったら酷い目に遭うことを知っていて、成功したところで自分の正体は明かせず誰もそれを褒めてくれないことをわかっていて、それでも歯をくいしばりながらステッキを握りしめるその勇気。
その勇気があるからこそ、彼女たちは誰かを助けることができる。ならばその勇気こそが、きっと魔法よりもなによりも尊い“力”なのだろうと思うのです。
――私には、それがありませんでした。
そうする勇気が、私にはありませんでした。
それでも。
いいえきっとだからこそ、私は魔法使いになりたいと思うのです。
もしも魔法が使えたら。
私は今度こそ、勇気が出せるかもしれません。誰かのためにその魔法が使えるかもしれません。
もしも魔法が使えたら。
あんなことが起きないように、私はきっと全力を尽くすでしょう。それが魔女の掟に触れたとしても、そのために魔力を無くすことがあっても、私はきっと魔法を使うでしょう。
もしも魔法が使えたら。
けれどそれは、考えるまでもなくただの夢です。魔法なんてお話の中にでてくるだけのもので、現実ではありません。
魔法の呪文を唱えても、玩具のステッキを振り回しても、時間を巻き戻すことはできません。
どれだけそれを願ったとしても、時間を巻き戻すことはできません。
――だから。
私たちが会うことは、もう二度とないでしょう。
決して、ないでしょう。
※ ※ ※
――ああ、また考えてる。
いつの間にか頭の中で繰り返されていた文章を、わたしはなんとかして心の片隅に追いやった。
開け放たれた窓から部屋に吹きこんでくる風は、春の匂いがする。もう少し風が強くなると、フィギュアが倒れないように窓を閉めないといけないなって思う。でも今吹いてくる風は強すぎず弱すぎず、暖かい湿り気を帯びた穏やかな風だった。
そうして窓の外に広がるのは鮮やかな青。ぽかぽかと降り注ぐ眩しい太陽。雲雀が春を告げて鳴く、ちゅんちゅんという可愛いらしい声。
こんな日には、いくら引きこもりのわたしだって、少しくらいは心が浮き立つというもんだ。
もう過ぎた昔のことなんて、考えてる場合じゃない。
――ましてや、これからかがみに会いに行くんだから尚更だ。
わたしはぶんぶんと頭を振って思い出の残り滓を振り払うと、ベッドの上であぐらを掻いて座り直した。そんなわたしの周りに広がっているのは、色とりどりの洋服だ。赤の、青の、緑の、黄色の。春めいた華やかな色彩の洋服が、花みたいにベッドの上で咲いている。
――うーん、何を着ていこうかな。
わたしは、かがみの部屋に着ていく服のことを、さっきからずっと考えていたのだった。
まだ気温は低いし、かがみが可愛いって云ってくれたポンポンがついたセーターにしようかな。それとも春らしくカットソーにジャケットを羽織っていこうかな。ボトムは何にしよう。パンツ? スカート? やっぱりわたしのイメージって云ったらパンツかな? かがみは結局どういうのが好きなのかな? どういうわたしが好きなのかな?
――お洒落のことなんて、実はあんまりよくわからない。
可愛い物は好きだったけれど、ずっと見るの専門だった。可愛い物を見てるとほんわかした気持ちになれるけど、自分を着飾ることなんてあんまり考えていなかった。それが、自分でもちゃんとしようと思うようになったのはいつくらいからなんだろう。
バイトでコスプレを始めて、見られることを意識し始めてからかな。みんなで一緒に遊びにいったとき、わたしが変な格好してるとみんなも格好悪く見られちゃうんだと思ったときからかな。
かがみに恥を掻かせたくないと、そう思うようになってきてからかな。
そうかもしれないってわたしは思う。あの綺麗でしっかりした女の子が、わたしといるせいで低く見られてしまうこと。わたしはもしかしたら、それが許せなかったのかもしれない。
――かがみ。
ああ、やばい。
考えてしまった。思い浮かんでしまった。
かがみの顔。
あの凜と伸びた真っ直ぐな背筋。
桔梗色の優しい瞳。
すっきりと伸びた細い眉。
ぴょこぴょこと可愛らしく跳ねる藤色のツインテール。
ほれぼれするくらい格好いいのに、いつだってどこか可愛らしい。そんなかがみの見た目は、まるで内面をそのまま映し出しているみたいだって思う。
真っ直ぐで正直で、そうして融通が利かない不器用なかがみ。なのにびっくりするくらい照れ屋で、ちょっと褒めるだけで真っ赤になってしまう、可愛いかがみ。
そんな真っ直ぐなかがみの言葉には、いつだって誤魔化しってものがない。どこまでも正直に、どこまでも不器用に考え込んでしまうかがみの言葉は、だからいつだって正しい。
――なのになんで、ちょっと照れるだけであんな風になっちゃうんだろ。
茹で蛸みたいに真っ赤になりながら、バレバレな照れ隠しで誤魔化そうとするかがみの顔が思い浮かんで、思わず声を出して笑ってしまった。
押し殺したわたしの笑い声が耳に響いてきて。
けれど音を立てているのは笑い声だけじゃないって気がついた。
――胸が、うるさいくらいにどきどきと音を立てている。
わたしの心臓が今送り出しているのは、きっと血液じゃなくて甘い匂いのする何かなんだと思う。きっと桜の花弁みたいな形をした、麻薬にも似た何かだってわたしは思う。
きゅーっと心臓がすぼまる感触がして、わたしは余りの息苦しさに小さなため息を漏らす。背筋を伸ばしていられなくなって、そっと後ろの壁に身体をもたせかけた。
こつんって、頭が壁に当たる音がする。
そのままぽとりと身体を横たえて、風邪を引いたときみたいに熱っぽい身体で息を吐く。いてもたってもいられなくなって、じたばたと足をばたつかせながらごろごろと転がった。その先に丁度あったクッションを抱え込んで、わたしはそれをぎゅっと胸に押しつける。この鼓動を鎮めたい。そう思ってしたことだったけれど、どれだけぎゅっと押しつけても無駄だった。どくどくと跳ねる心臓の音が、より大きく聞こえるだけだった。
――恋。恋って云うんだって、この気持ち。
それを、かがみが教えてくれたんだ。
なんだか凄く不思議な気がする。
わたしみたいな出来損ないの女の子でも、そんな気持ちを持てることが、なんだか凄く不思議な気がする。
どこもかしこも成長不全な、男の子みたいな女の子。全然膨らまない胸。ほっそい身体。伸びない身長。性欲を、感じない心。
呪いみたいだって思っていた。
わたしがこんなに他人とはまるで違っていて、何もかも他人に足りなくて、まるでちゃんとした大人にはなれそうもないことは、何かの罰かも知れないって思ってた。何かわたしがいけないことをしたせいだって、心の片隅でずっと思ってきた。
だから、わたしなんかが誰かとつき合うなんてこと、もう二度としちゃいけないんだって思っていたのに。だから、アセクシュアルかもしれないって精神科のお医者さんが云ったとき、わたしは何の疑問も持たずに、自分は他人に恋なんてできないんだって受け入れてしまったのに。
――なのに、かがみは云ったんだ。
わたしはアセクシュアルだけど、レズビアンなんだってこと。
わたしは、性欲は感じないけれど同性に恋をできる、広義のアセクシュアルでレズビアンという存在なんだってこと。
――だから、もうこの気持ちを頑張って否定しなくてもいいんだって、かがみは云ってくれたんだ。
かがみの言葉じゃなかったら、きっとすぐには信じられなかったと思う。だって、子供のころからわたしは、この感情を否定され続けてきたのだから。恋っていうのは異性に対して抱く気持ちなんだって、ずっとそう云われ続けてきたのだから。
けれどいつだって正しいかがみの云うことだったから、わたしはそれを信じることができたんだ。
――かがみ。
それは、まるで魔法のようだった。
あの卒業式の日にかがみがしてくれたことは、どんな魔女っ子の魔法でも敵わないくらい、わたしにとって奇跡的なことだった。
あの日わたしたちの間には、まだ何重もの壁と沢山の障害があったはずなのに。かがみは光の矢みたいに真っ直ぐに突き進んできて、自分もボロボロになりながら、わたしのことを救い出してくれたんだ。
あの、FF IIIのラストダンジョンみたいな、長くて深い、暗闇に満ちた迷路から。
「魔法……か」
そんな一人言を呟いて。
いつのまにか、わたしの胸の中にあるのは甘いだけの気持ちじゃなくなっている。
開け放たれた窓から部屋に吹きこんでくる風は、春の匂いがする。もう少し風が強くなると、フィギュアが倒れないように窓を閉めないといけないなって思う。でも今吹いてくる風は強すぎず弱すぎず、暖かい湿り気を帯びた穏やかな風だった。
そうして窓の外に広がるのは鮮やかな青。ぽかぽかと降り注ぐ眩しい太陽。雲雀が春を告げて鳴く、ちゅんちゅんという可愛いらしい声。
こんな日には、いくら引きこもりのわたしだって、少しくらいは心が浮き立つというもんだ。
もう過ぎた昔のことなんて、考えてる場合じゃない。
――ましてや、これからかがみに会いに行くんだから尚更だ。
わたしはぶんぶんと頭を振って思い出の残り滓を振り払うと、ベッドの上であぐらを掻いて座り直した。そんなわたしの周りに広がっているのは、色とりどりの洋服だ。赤の、青の、緑の、黄色の。春めいた華やかな色彩の洋服が、花みたいにベッドの上で咲いている。
――うーん、何を着ていこうかな。
わたしは、かがみの部屋に着ていく服のことを、さっきからずっと考えていたのだった。
まだ気温は低いし、かがみが可愛いって云ってくれたポンポンがついたセーターにしようかな。それとも春らしくカットソーにジャケットを羽織っていこうかな。ボトムは何にしよう。パンツ? スカート? やっぱりわたしのイメージって云ったらパンツかな? かがみは結局どういうのが好きなのかな? どういうわたしが好きなのかな?
――お洒落のことなんて、実はあんまりよくわからない。
可愛い物は好きだったけれど、ずっと見るの専門だった。可愛い物を見てるとほんわかした気持ちになれるけど、自分を着飾ることなんてあんまり考えていなかった。それが、自分でもちゃんとしようと思うようになったのはいつくらいからなんだろう。
バイトでコスプレを始めて、見られることを意識し始めてからかな。みんなで一緒に遊びにいったとき、わたしが変な格好してるとみんなも格好悪く見られちゃうんだと思ったときからかな。
かがみに恥を掻かせたくないと、そう思うようになってきてからかな。
そうかもしれないってわたしは思う。あの綺麗でしっかりした女の子が、わたしといるせいで低く見られてしまうこと。わたしはもしかしたら、それが許せなかったのかもしれない。
――かがみ。
ああ、やばい。
考えてしまった。思い浮かんでしまった。
かがみの顔。
あの凜と伸びた真っ直ぐな背筋。
桔梗色の優しい瞳。
すっきりと伸びた細い眉。
ぴょこぴょこと可愛らしく跳ねる藤色のツインテール。
ほれぼれするくらい格好いいのに、いつだってどこか可愛らしい。そんなかがみの見た目は、まるで内面をそのまま映し出しているみたいだって思う。
真っ直ぐで正直で、そうして融通が利かない不器用なかがみ。なのにびっくりするくらい照れ屋で、ちょっと褒めるだけで真っ赤になってしまう、可愛いかがみ。
そんな真っ直ぐなかがみの言葉には、いつだって誤魔化しってものがない。どこまでも正直に、どこまでも不器用に考え込んでしまうかがみの言葉は、だからいつだって正しい。
――なのになんで、ちょっと照れるだけであんな風になっちゃうんだろ。
茹で蛸みたいに真っ赤になりながら、バレバレな照れ隠しで誤魔化そうとするかがみの顔が思い浮かんで、思わず声を出して笑ってしまった。
押し殺したわたしの笑い声が耳に響いてきて。
けれど音を立てているのは笑い声だけじゃないって気がついた。
――胸が、うるさいくらいにどきどきと音を立てている。
わたしの心臓が今送り出しているのは、きっと血液じゃなくて甘い匂いのする何かなんだと思う。きっと桜の花弁みたいな形をした、麻薬にも似た何かだってわたしは思う。
きゅーっと心臓がすぼまる感触がして、わたしは余りの息苦しさに小さなため息を漏らす。背筋を伸ばしていられなくなって、そっと後ろの壁に身体をもたせかけた。
こつんって、頭が壁に当たる音がする。
そのままぽとりと身体を横たえて、風邪を引いたときみたいに熱っぽい身体で息を吐く。いてもたってもいられなくなって、じたばたと足をばたつかせながらごろごろと転がった。その先に丁度あったクッションを抱え込んで、わたしはそれをぎゅっと胸に押しつける。この鼓動を鎮めたい。そう思ってしたことだったけれど、どれだけぎゅっと押しつけても無駄だった。どくどくと跳ねる心臓の音が、より大きく聞こえるだけだった。
――恋。恋って云うんだって、この気持ち。
それを、かがみが教えてくれたんだ。
なんだか凄く不思議な気がする。
わたしみたいな出来損ないの女の子でも、そんな気持ちを持てることが、なんだか凄く不思議な気がする。
どこもかしこも成長不全な、男の子みたいな女の子。全然膨らまない胸。ほっそい身体。伸びない身長。性欲を、感じない心。
呪いみたいだって思っていた。
わたしがこんなに他人とはまるで違っていて、何もかも他人に足りなくて、まるでちゃんとした大人にはなれそうもないことは、何かの罰かも知れないって思ってた。何かわたしがいけないことをしたせいだって、心の片隅でずっと思ってきた。
だから、わたしなんかが誰かとつき合うなんてこと、もう二度としちゃいけないんだって思っていたのに。だから、アセクシュアルかもしれないって精神科のお医者さんが云ったとき、わたしは何の疑問も持たずに、自分は他人に恋なんてできないんだって受け入れてしまったのに。
――なのに、かがみは云ったんだ。
わたしはアセクシュアルだけど、レズビアンなんだってこと。
わたしは、性欲は感じないけれど同性に恋をできる、広義のアセクシュアルでレズビアンという存在なんだってこと。
――だから、もうこの気持ちを頑張って否定しなくてもいいんだって、かがみは云ってくれたんだ。
かがみの言葉じゃなかったら、きっとすぐには信じられなかったと思う。だって、子供のころからわたしは、この感情を否定され続けてきたのだから。恋っていうのは異性に対して抱く気持ちなんだって、ずっとそう云われ続けてきたのだから。
けれどいつだって正しいかがみの云うことだったから、わたしはそれを信じることができたんだ。
――かがみ。
それは、まるで魔法のようだった。
あの卒業式の日にかがみがしてくれたことは、どんな魔女っ子の魔法でも敵わないくらい、わたしにとって奇跡的なことだった。
あの日わたしたちの間には、まだ何重もの壁と沢山の障害があったはずなのに。かがみは光の矢みたいに真っ直ぐに突き進んできて、自分もボロボロになりながら、わたしのことを救い出してくれたんだ。
あの、FF IIIのラストダンジョンみたいな、長くて深い、暗闇に満ちた迷路から。
「魔法……か」
そんな一人言を呟いて。
いつのまにか、わたしの胸の中にあるのは甘いだけの気持ちじゃなくなっている。
――こんなことを云うと馬鹿にされるかもしれませんが、今私は心の底から魔法使いになりたいと思っています。
最近は、よくあの文章を思い出す。
それは、陵桜に入ってしばらくの間、ずっと頭の中にこびりついていて離れなかった文章だ。中学の卒業文集に載っていた、祈りみたいなあの子の文章だ。
そうだった。
体力測定があった、三年前のあの春の日。かがみに初めて会ったあの日にも、頭の中でその言葉はぐるぐると回っていたんだっけ。
――懐かしいな。
学校から帰ってきて、なんとなく見に行った権現道の桜堤。
頭の上にできた海みたいな桜を眺めながら、わたしはお母さんのことを考えていた。
『――あの子は桜みたいに散っていったな』
いつだったか石川に里帰りしたとき、誰かがそんなことを云っていた。お祖父ちゃんがそんなロマンチックなことを云うとは思えないから、多分伯父さんだったんだと思う。
その時から、わたしの中で桜はお母さんの花になっていた。
それは、陵桜に入ってしばらくの間、ずっと頭の中にこびりついていて離れなかった文章だ。中学の卒業文集に載っていた、祈りみたいなあの子の文章だ。
そうだった。
体力測定があった、三年前のあの春の日。かがみに初めて会ったあの日にも、頭の中でその言葉はぐるぐると回っていたんだっけ。
――懐かしいな。
学校から帰ってきて、なんとなく見に行った権現道の桜堤。
頭の上にできた海みたいな桜を眺めながら、わたしはお母さんのことを考えていた。
『――あの子は桜みたいに散っていったな』
いつだったか石川に里帰りしたとき、誰かがそんなことを云っていた。お祖父ちゃんがそんなロマンチックなことを云うとは思えないから、多分伯父さんだったんだと思う。
その時から、わたしの中で桜はお母さんの花になっていた。
――だから、私たちが会うことは、もう二度とないでしょう。
――決して、ないでしょう。
――決して、ないでしょう。
これ以上ないくらい、明確な拒絶。
それは祈りっていうより、叫びだったのかもしれないって思う。 卒業文集を読んだばかりで、まだそのショックは抜けきっていなかった。何度も何度も読み返していたから、一字一句に至るまで覚えていた。気がつけば他のことを考えていても、いつのまにかあの文章が頭の中に浮かぶようになっていた。
――わたしとあの子が会うことは、二度とない。
――わたしとお母さんが会うなんて、決してできない。
『……こなちゃん?』
その時つかさの声が聞こえなかったら、わたしはそのまま桜に飲み込まれていたのかもしれないって思う。そんなことあるわけないのに、あの桜の下からわたしは出てこられなかったかもしれないって思う。
あの日に、仲良くなったばかりのつかさと、その隣にいたかがみと出会わなかったら。
――あれは強烈なツンデレだったよね。
あの日会ったかがみの、いっそすがすがしいほどのツンデレっぷりは、わたしが抱いていた感傷を残らず吹き飛ばしてしまったんだ。
顔を真っ赤に染めながら『そんなわけあるかー!』なんて叫んだあの日のかがみを思い出して、わたしはまた小さく笑い声をあげてしまった。
そうして気がつけば、胸の中がぐちゃぐちゃになっていた。
かがみに対する甘い感情と、お母さんのことを考えた時に感じる寂しさと、あの子のことを思い出して受ける痛みと。
何がなんだかわからなくなって、わたしはまた、クッションを抱えながらごろごろとベッドの上で転がった。
そのとき、コンコンと元気がいいノックの音が聞こえてきた。
「ほーい」
できるだけ脳天気な声を出して応えると、かちゃりとドアを開けてゆーちゃんが姿を顕わした。
「お姉ちゃん、お茶淹れようと思うんだけど、一緒にどうかな? って、わー、お洋服屋さんだ~」
「お、あんがと。いやー、何着ていったらいいか迷っちゃってねー」
なんでもないようにひらりとベッドから飛び降りて、わたしは両手でバランスをとりながらゆーちゃんに笑いかける。別に無理矢理笑ってるわけじゃないけれど、ちょっとだけ意識して出したしまりのない笑い顔。ゆーちゃんの前でなら、いや、大事な人たちの前でならいつだって浮かべられる、わたしが一番得意な笑顔だ。
「そだ、後でゆーちゃんにコーディネイト決めて貰おうかな?」
「え? え? わたしが?」
「うん。ゆーちゃんが考えるわたしのイメージに合わせて決めてくれればいいよー」
「あうぅ、責任重大だよぉ」
腕をぎゅっと胸に抱え込んでもじもじとするゆーちゃんのことが、本当に可愛いと思う。たかが従姉妹が着ていく服のことなんて適当に決めればいいのに、真剣に悩んでいるゆーちゃんの真面目さが、凄く愛らしいって思う。
とんとんと階段を昇っていく小さなかかとを見ながら、わたしは改めて、ゆーちゃんがこうしてここにいることは奇跡的なことなんだと思い出す。
今ゆーちゃんがわたしのためにお茶を淹れてくれて、小さな身体を動かして階段を昇ることができて、わたしに似合うコーディネイトを考えてくれること。それらは全部、できて当たり前のことではないはずだった。
それは祈りっていうより、叫びだったのかもしれないって思う。 卒業文集を読んだばかりで、まだそのショックは抜けきっていなかった。何度も何度も読み返していたから、一字一句に至るまで覚えていた。気がつけば他のことを考えていても、いつのまにかあの文章が頭の中に浮かぶようになっていた。
――わたしとあの子が会うことは、二度とない。
――わたしとお母さんが会うなんて、決してできない。
『……こなちゃん?』
その時つかさの声が聞こえなかったら、わたしはそのまま桜に飲み込まれていたのかもしれないって思う。そんなことあるわけないのに、あの桜の下からわたしは出てこられなかったかもしれないって思う。
あの日に、仲良くなったばかりのつかさと、その隣にいたかがみと出会わなかったら。
――あれは強烈なツンデレだったよね。
あの日会ったかがみの、いっそすがすがしいほどのツンデレっぷりは、わたしが抱いていた感傷を残らず吹き飛ばしてしまったんだ。
顔を真っ赤に染めながら『そんなわけあるかー!』なんて叫んだあの日のかがみを思い出して、わたしはまた小さく笑い声をあげてしまった。
そうして気がつけば、胸の中がぐちゃぐちゃになっていた。
かがみに対する甘い感情と、お母さんのことを考えた時に感じる寂しさと、あの子のことを思い出して受ける痛みと。
何がなんだかわからなくなって、わたしはまた、クッションを抱えながらごろごろとベッドの上で転がった。
そのとき、コンコンと元気がいいノックの音が聞こえてきた。
「ほーい」
できるだけ脳天気な声を出して応えると、かちゃりとドアを開けてゆーちゃんが姿を顕わした。
「お姉ちゃん、お茶淹れようと思うんだけど、一緒にどうかな? って、わー、お洋服屋さんだ~」
「お、あんがと。いやー、何着ていったらいいか迷っちゃってねー」
なんでもないようにひらりとベッドから飛び降りて、わたしは両手でバランスをとりながらゆーちゃんに笑いかける。別に無理矢理笑ってるわけじゃないけれど、ちょっとだけ意識して出したしまりのない笑い顔。ゆーちゃんの前でなら、いや、大事な人たちの前でならいつだって浮かべられる、わたしが一番得意な笑顔だ。
「そだ、後でゆーちゃんにコーディネイト決めて貰おうかな?」
「え? え? わたしが?」
「うん。ゆーちゃんが考えるわたしのイメージに合わせて決めてくれればいいよー」
「あうぅ、責任重大だよぉ」
腕をぎゅっと胸に抱え込んでもじもじとするゆーちゃんのことが、本当に可愛いと思う。たかが従姉妹が着ていく服のことなんて適当に決めればいいのに、真剣に悩んでいるゆーちゃんの真面目さが、凄く愛らしいって思う。
とんとんと階段を昇っていく小さなかかとを見ながら、わたしは改めて、ゆーちゃんがこうしてここにいることは奇跡的なことなんだと思い出す。
今ゆーちゃんがわたしのためにお茶を淹れてくれて、小さな身体を動かして階段を昇ることができて、わたしに似合うコーディネイトを考えてくれること。それらは全部、できて当たり前のことではないはずだった。
――小学校に上がるまで生きられないと、云われていたらしい。
ゆーちゃんは超未熟児として生まれた。
虚弱体質で、危険なくらいに免疫力が低かった。
ゆーちゃんは、わたしなんかよりずっとずっと弱くて小さくて、普通の人が持っていて当たり前の色んな可能性から見捨てられていた。元気に走り回ること。大きな声で叫ぶこと。友達と一緒に遊ぶこと。
ただ、生きること。
ただ生きる。そんな誰もが当たり前にできることすら、ゆーちゃんは奪われそうになっていた。
ゆーちゃんが生まれたとき、わたしは二歳半。そのころのことなんてあんまり覚えてないけれど、それでもなんとなく家に暗い印象があったことだけは覚えている。お父さんにしてみてもゆき叔母さんにしてみても、兄妹で二回も続けて出産に死のイメージがまとわりつくなんて、きっと凄く辛いことだっただろうなって思う。
わたしとゆい姉さんがゆーちゃんと遊んでいると、ゆき叔母さんは時々悲しそうな目でわたしたちのことを見つめていた。わたしたちが遊んでいるとき、いつだってゆき叔母さんかお父さんが一緒だった。ゆーちゃんが顔中をしわくちゃにして、けれどか細い声で泣いているところ。玩具みたいにちっちゃいゆーちゃんが這い這いしているところ。枯れ木みたいな脚をしたゆーちゃんが、懸命にわたしとゆい姉さんの後をついてくるところ。どんなシーンを思い出しても、すぐ近くにお父さんかゆき叔母さんがついていた。
――でも、今はもう、ゆーちゃんは自分ひとりで歩いていくことができる。
今わたしの前で階段を踏みしめて昇っていくゆーちゃんの脚は、細いけれどしっかりと筋肉がついている。
ゆーちゃんはもう、誰かの後をついて歩くだけの存在じゃない。誰かに見守られるだけの存在じゃない。その脚で、自分の行きたい方向に、自分の意志で向かうことができるんだ。
「……小父さんには声かけないほうがいいよね?」
階段を昇ったところで、ゆーちゃんが小声でわたしに問いかけた。
「あ、うん。今佳境みたいだから、勝手に部屋から出てくるの待ってた方がいいかもね」
根を詰め出すと寝食も忘れて没頭してしまうのは、どうやら世の創作者の常らしい。ちょっと前にパティと一緒にひよりんの手伝いに行ったときも、ひよりんはわたしたちがいるのも忘れた様子で机にかじりついていて、ああ、これはお父さんと同じだとわたしは思ったんだ。
――それにしても。
「……ゆーちゃんも随分お父さんの扱いに慣れたもんだね」
暖簾をくぐってリビングに入ると、声のトーンを戻してゆーちゃんに云った。
「えへへ、わたしだってもう一年もこの家で暮らしてるんだよ?」
「おお、頼もしいね。最初のころお父さんのトイレシーン見て固まってた子とは思えないセリフだー」
ニヤニヤと笑いながらそう云うと、ゆーちゃんの顔がぼしゅっと湯気を立てるように真っ赤に染まった。ぱたぱたと腕を振りながら、言い訳をするように慌ててまくし立てるゆーちゃんだった。
「あ、あうう…あ、あれはだって、絶対絶対小父さんが悪いんだもん!」
「いやもう、面目次第もありません。……ホントゆーちゃんが来てくれて助かったよ」
「そ、そうなの?」
「うん。年頃の娘さんがいるだけで、あのお父さんでも色々自重できるもんだね。ぷくく、前までは平気でフルチンで歩き回っていたのだよ~」
「フ、フルッ!……って、年頃の娘さんなら前からずっといたのに?」
「あー、わたしはほら、お父さんにとってはそういう存在じゃないからね」
「――ふーん?」
不思議そうに小首を傾げるゆーちゃんだったけれど、わたしがその先の言葉を繋げる様子を見せないでいると、諦めたようにキッチンへと向かっていった。
――この家でお父さんと二人きりで暮らしていたとき、わたしたちはほとんど二人で一人みたいになっていた。
泉家を作る、たった二人のわたしたち。
それはきっと、普通の親子関係とも違う、なにか別の関係だったんだって思う。人生の時間を二人で共有していくっていう、それはもしかしたら夫婦の関係に似たようなものがあったのかもしれない。
だから、ゆーちゃんが来てくれて本当によかったとわたしは思う。ゆーちゃんが居候に来てくれて、やっと私たちは普通の親子になれた。そんな気がする。
元気になってからのゆーちゃんはよく家に遊びに来てくれたけれど、やっぱり一つ屋根の下に暮らすということは、それまでとは全然違っていた。今となっては、わたしもゆーちゃんのことを本当の妹みたいに大事に思っている。
――あんまりわたしをゆーちゃんに近づけない方がいい。
その昔、まだゆーちゃんが長いこと生きられないだろうと思われていたころ、お父さんとゆき叔母さんはそう思っていたんだって、後でお父さんが教えてくれた。ただでさえお母さんを亡くしているわたしにとって、心を寄せていた子がいなくなることが酷いショックになるんじゃないかってことだった。
でも、わたしにとっては昔からゆーちゃんがいてくれたことが良い影響を与えてくれていたように思う。自分より弱い存在の面倒を見てあげることで、わたしは少しだけ自分に自信みたいなものを持つことができていた。そんな気がする。
――そうして、ゆーちゃんは生きた。
小学校に上がれるかどうかと云われていたゆーちゃんは、あるときを境にして、段々と元気になっていった。
何がよかったのかはまるでわからない。
けれど、ゆーちゃんの免疫機能は奇跡的に人並みのものへと回復していったらしかった。身体の小ささと虚弱体質は残ったけれど、でも、その命を脅かされることはなくなった。
魔法みたいな出来事を経て、ゆーちゃんは生きることができた。
だから、わたしもこうして生きてこられたのかも知れないって、そんなことを時々考える。
身長も体重も全然増えなくて、胸も膨らまないし女の子らしいところなんてまるでない。第二次性徴なんて、駆け足でどっかにいっちゃった。生理は凄い遅かったし、性格はだらしないしぐうたらだしなによりオタクだし。さらにはアセクシュアルなんていうものまで抱え込んだ、出来損ないの女の子、泉こなた。
そんなわたしでも、ゆーちゃんが心の底から願っても手に入れられなかった、健康な身体を持っている。
生まれつきのハンディを抱えながらも、どこまでも優しく暖かく、前向きな女の子に成長したゆーちゃん。そんなゆーちゃんがきっと喉から手が出るくらい欲しがっているだろう、人一倍健康な身体をわたしは持っている。
そう思うと、わたしが抱えてきた悩みなんて、まるでちっぽけなものに思えてしまうんだ。ゆーちゃんのことを考えると、自分のことをもっと大事にしないといけないって思うんだ。
ゆーちゃんの存在は、どうしても自分自身に価値が感じられないわたしにとって、いつだってわたしがここにいていい理由を与えてきてくれた。
“好き”っていう感情がよくわからなくて馬鹿にされたときも。
彼が血を流しながら悲しそうな目でわたしのことを見たときも。
あの子がわたしと眼を合わせてくれなくなってからも。
ゆーちゃんがこの世に生きているっていうことが、わたしにとってどれだけの支えになってくれていたことだろう。
――そうして、かがみがわたしのことを好きなんだと気がついてからの半年間も。
もしゆーちゃんがこの家にいて、その弱くて柔らかい身体で懸命に前向きに生きていなかったら、わたしもどこかで壊れていたかもしれないって思う。
かがみも辛かっただろうけれど、わたしだって辛かった。
わたしが一番好きな女の子が、わたしのせいで悩んでいること。ずっと傍にいたいと思っている大事な友達が、わたしのことを求めてくれているのに、それに応えることができないんだっていうこと。
それは生まれてきてから一番嬉しいできごとで。
そうして一番悲しいできごとだったんだ。
そんな正反対の気持ちの間で揺れながらも、なんとかいつも通りのわたしでいられたのは、ただ家に帰ればゆーちゃんがいたからに他ならない。
生きるっていう、でっかくて素朴で純粋な目標に向けて努力してきたゆーちゃんだから。その純真な瞳でじっと見られると、暗い感情なんていつまでも持っていられなくなってしまうんだ。
「――お姉ちゃん?」
「ん。なーにゆーちゃん」
わたしはリビングのテーブルに頬杖をつきながら、お茶の用意でいそいそと動き回るゆーちゃんのことを眺めていた。その動きを見ているだけで、わたしの目蓋は自然と落ちてきて目が細くなり、口元には笑みが浮かんでしまうんだ。
「え、えっと、わたしの顔に何かついてる~?」
「うん、ついてるよー」
「え? な、なんだろ?」
「目と鼻と口~」
意地悪な笑みを浮かべながらそう云うと、ゆーちゃんの顔がほんの少しだけ赤くなる。こんな他愛もないギャグ、かがみ相手には恥ずかしくて云えっこないんだけど。ゆーちゃん相手には照れもせずに云えてしまうのが不思議だ。
「えー! 何それ、お姉ちゃんのいじわるぅー」
「あはは、ごめんごめん」
ぷりぷりとわざとらしくほっぺを膨らませながら、ゆーちゃんはティーポットとお皿にのったお茶菓子をテーブルに置いた。お茶菓子は、この間遊びに来たみなみちゃんがお土産に持ってきてくれた、メープルパーラーの厚焼きクッキーだった。ちょっと高いけれど凄く美味しいこのお菓子を、みなみちゃんはよく差し入れにもってきてくれるんだ。
――みなみちゃんがゆーちゃんの親友になってくれて、どれだけほっとしたことだろう。
わたしも、お父さんも、ゆき叔母さんも、ゆい姉さんも。
みなみちゃん本人は気づいていないみたいだけれど、みんな凄く感謝している。ゆーちゃんを、身体が弱くて可哀想な子として面倒をみるのではなく、ただ純粋な親友として見てくれていることに対して。
みなみちゃんは、きっとゆーちゃんの性格の素直さを、自分にはない物として自然に尊敬してくれているんじゃないかって思う。
みなみちゃんはゆーちゃんが持てないものを沢山持っているけれど、でもきっとみなみちゃんにとっては、ゆーちゃんが持っている素直さが何よりも眩しい物として映っている。そんな気がした。
今までゆーちゃんには、そういう風に対等な友達ができたことはないようだったから。
それもきっと、奇跡みたいな出会いだったんだなって、わたしは思うんだ。
「――いい天気だねぇ」
自分の席に向かったゆーちゃんが、椅子の後ろにある窓をガラリと開けた。
藤色のカーテンが、春の風にふわりとひるがえる。ここからも遠くに見える権現道の桜堤は、未だ桜色に煙っている。まだ完全に散ってしまうには少し早い、三月の終わりの桜だった。
差し込んでくる陽射しが眩しくて、わたしは少しだけ目を細める。
窓から外を眺めるゆーちゃんの横顔に、わたしが見たこともない表情が浮かんでいた。
――ゆーちゃんも、もう高校二年生になるんだ。
突然そんな当たり前のことに気がついて、わたしはちょっとだけ驚いた。そんなことわかりきっているはずなのに、なぜだかわたしはそのことを実感をもって感じてはいなかった。
「ゆーちゃん?」
「ん、なーにお姉ちゃん?」
ゆっくりとふりむいて、ゆーちゃんは薄く微笑んだ。
「もしかして、ちょっと背、伸びた?」
「え? 一応まだ少しずつ伸びてるはずだよ? でもそんなに伸びたのかなぁ?」
それはただの錯覚なのかもしれないけれど。
でも、そのときわたしは少しだけ、その大人びた横顔にどきりとしたんだ。
虚弱体質で、危険なくらいに免疫力が低かった。
ゆーちゃんは、わたしなんかよりずっとずっと弱くて小さくて、普通の人が持っていて当たり前の色んな可能性から見捨てられていた。元気に走り回ること。大きな声で叫ぶこと。友達と一緒に遊ぶこと。
ただ、生きること。
ただ生きる。そんな誰もが当たり前にできることすら、ゆーちゃんは奪われそうになっていた。
ゆーちゃんが生まれたとき、わたしは二歳半。そのころのことなんてあんまり覚えてないけれど、それでもなんとなく家に暗い印象があったことだけは覚えている。お父さんにしてみてもゆき叔母さんにしてみても、兄妹で二回も続けて出産に死のイメージがまとわりつくなんて、きっと凄く辛いことだっただろうなって思う。
わたしとゆい姉さんがゆーちゃんと遊んでいると、ゆき叔母さんは時々悲しそうな目でわたしたちのことを見つめていた。わたしたちが遊んでいるとき、いつだってゆき叔母さんかお父さんが一緒だった。ゆーちゃんが顔中をしわくちゃにして、けれどか細い声で泣いているところ。玩具みたいにちっちゃいゆーちゃんが這い這いしているところ。枯れ木みたいな脚をしたゆーちゃんが、懸命にわたしとゆい姉さんの後をついてくるところ。どんなシーンを思い出しても、すぐ近くにお父さんかゆき叔母さんがついていた。
――でも、今はもう、ゆーちゃんは自分ひとりで歩いていくことができる。
今わたしの前で階段を踏みしめて昇っていくゆーちゃんの脚は、細いけれどしっかりと筋肉がついている。
ゆーちゃんはもう、誰かの後をついて歩くだけの存在じゃない。誰かに見守られるだけの存在じゃない。その脚で、自分の行きたい方向に、自分の意志で向かうことができるんだ。
「……小父さんには声かけないほうがいいよね?」
階段を昇ったところで、ゆーちゃんが小声でわたしに問いかけた。
「あ、うん。今佳境みたいだから、勝手に部屋から出てくるの待ってた方がいいかもね」
根を詰め出すと寝食も忘れて没頭してしまうのは、どうやら世の創作者の常らしい。ちょっと前にパティと一緒にひよりんの手伝いに行ったときも、ひよりんはわたしたちがいるのも忘れた様子で机にかじりついていて、ああ、これはお父さんと同じだとわたしは思ったんだ。
――それにしても。
「……ゆーちゃんも随分お父さんの扱いに慣れたもんだね」
暖簾をくぐってリビングに入ると、声のトーンを戻してゆーちゃんに云った。
「えへへ、わたしだってもう一年もこの家で暮らしてるんだよ?」
「おお、頼もしいね。最初のころお父さんのトイレシーン見て固まってた子とは思えないセリフだー」
ニヤニヤと笑いながらそう云うと、ゆーちゃんの顔がぼしゅっと湯気を立てるように真っ赤に染まった。ぱたぱたと腕を振りながら、言い訳をするように慌ててまくし立てるゆーちゃんだった。
「あ、あうう…あ、あれはだって、絶対絶対小父さんが悪いんだもん!」
「いやもう、面目次第もありません。……ホントゆーちゃんが来てくれて助かったよ」
「そ、そうなの?」
「うん。年頃の娘さんがいるだけで、あのお父さんでも色々自重できるもんだね。ぷくく、前までは平気でフルチンで歩き回っていたのだよ~」
「フ、フルッ!……って、年頃の娘さんなら前からずっといたのに?」
「あー、わたしはほら、お父さんにとってはそういう存在じゃないからね」
「――ふーん?」
不思議そうに小首を傾げるゆーちゃんだったけれど、わたしがその先の言葉を繋げる様子を見せないでいると、諦めたようにキッチンへと向かっていった。
――この家でお父さんと二人きりで暮らしていたとき、わたしたちはほとんど二人で一人みたいになっていた。
泉家を作る、たった二人のわたしたち。
それはきっと、普通の親子関係とも違う、なにか別の関係だったんだって思う。人生の時間を二人で共有していくっていう、それはもしかしたら夫婦の関係に似たようなものがあったのかもしれない。
だから、ゆーちゃんが来てくれて本当によかったとわたしは思う。ゆーちゃんが居候に来てくれて、やっと私たちは普通の親子になれた。そんな気がする。
元気になってからのゆーちゃんはよく家に遊びに来てくれたけれど、やっぱり一つ屋根の下に暮らすということは、それまでとは全然違っていた。今となっては、わたしもゆーちゃんのことを本当の妹みたいに大事に思っている。
――あんまりわたしをゆーちゃんに近づけない方がいい。
その昔、まだゆーちゃんが長いこと生きられないだろうと思われていたころ、お父さんとゆき叔母さんはそう思っていたんだって、後でお父さんが教えてくれた。ただでさえお母さんを亡くしているわたしにとって、心を寄せていた子がいなくなることが酷いショックになるんじゃないかってことだった。
でも、わたしにとっては昔からゆーちゃんがいてくれたことが良い影響を与えてくれていたように思う。自分より弱い存在の面倒を見てあげることで、わたしは少しだけ自分に自信みたいなものを持つことができていた。そんな気がする。
――そうして、ゆーちゃんは生きた。
小学校に上がれるかどうかと云われていたゆーちゃんは、あるときを境にして、段々と元気になっていった。
何がよかったのかはまるでわからない。
けれど、ゆーちゃんの免疫機能は奇跡的に人並みのものへと回復していったらしかった。身体の小ささと虚弱体質は残ったけれど、でも、その命を脅かされることはなくなった。
魔法みたいな出来事を経て、ゆーちゃんは生きることができた。
だから、わたしもこうして生きてこられたのかも知れないって、そんなことを時々考える。
身長も体重も全然増えなくて、胸も膨らまないし女の子らしいところなんてまるでない。第二次性徴なんて、駆け足でどっかにいっちゃった。生理は凄い遅かったし、性格はだらしないしぐうたらだしなによりオタクだし。さらにはアセクシュアルなんていうものまで抱え込んだ、出来損ないの女の子、泉こなた。
そんなわたしでも、ゆーちゃんが心の底から願っても手に入れられなかった、健康な身体を持っている。
生まれつきのハンディを抱えながらも、どこまでも優しく暖かく、前向きな女の子に成長したゆーちゃん。そんなゆーちゃんがきっと喉から手が出るくらい欲しがっているだろう、人一倍健康な身体をわたしは持っている。
そう思うと、わたしが抱えてきた悩みなんて、まるでちっぽけなものに思えてしまうんだ。ゆーちゃんのことを考えると、自分のことをもっと大事にしないといけないって思うんだ。
ゆーちゃんの存在は、どうしても自分自身に価値が感じられないわたしにとって、いつだってわたしがここにいていい理由を与えてきてくれた。
“好き”っていう感情がよくわからなくて馬鹿にされたときも。
彼が血を流しながら悲しそうな目でわたしのことを見たときも。
あの子がわたしと眼を合わせてくれなくなってからも。
ゆーちゃんがこの世に生きているっていうことが、わたしにとってどれだけの支えになってくれていたことだろう。
――そうして、かがみがわたしのことを好きなんだと気がついてからの半年間も。
もしゆーちゃんがこの家にいて、その弱くて柔らかい身体で懸命に前向きに生きていなかったら、わたしもどこかで壊れていたかもしれないって思う。
かがみも辛かっただろうけれど、わたしだって辛かった。
わたしが一番好きな女の子が、わたしのせいで悩んでいること。ずっと傍にいたいと思っている大事な友達が、わたしのことを求めてくれているのに、それに応えることができないんだっていうこと。
それは生まれてきてから一番嬉しいできごとで。
そうして一番悲しいできごとだったんだ。
そんな正反対の気持ちの間で揺れながらも、なんとかいつも通りのわたしでいられたのは、ただ家に帰ればゆーちゃんがいたからに他ならない。
生きるっていう、でっかくて素朴で純粋な目標に向けて努力してきたゆーちゃんだから。その純真な瞳でじっと見られると、暗い感情なんていつまでも持っていられなくなってしまうんだ。
「――お姉ちゃん?」
「ん。なーにゆーちゃん」
わたしはリビングのテーブルに頬杖をつきながら、お茶の用意でいそいそと動き回るゆーちゃんのことを眺めていた。その動きを見ているだけで、わたしの目蓋は自然と落ちてきて目が細くなり、口元には笑みが浮かんでしまうんだ。
「え、えっと、わたしの顔に何かついてる~?」
「うん、ついてるよー」
「え? な、なんだろ?」
「目と鼻と口~」
意地悪な笑みを浮かべながらそう云うと、ゆーちゃんの顔がほんの少しだけ赤くなる。こんな他愛もないギャグ、かがみ相手には恥ずかしくて云えっこないんだけど。ゆーちゃん相手には照れもせずに云えてしまうのが不思議だ。
「えー! 何それ、お姉ちゃんのいじわるぅー」
「あはは、ごめんごめん」
ぷりぷりとわざとらしくほっぺを膨らませながら、ゆーちゃんはティーポットとお皿にのったお茶菓子をテーブルに置いた。お茶菓子は、この間遊びに来たみなみちゃんがお土産に持ってきてくれた、メープルパーラーの厚焼きクッキーだった。ちょっと高いけれど凄く美味しいこのお菓子を、みなみちゃんはよく差し入れにもってきてくれるんだ。
――みなみちゃんがゆーちゃんの親友になってくれて、どれだけほっとしたことだろう。
わたしも、お父さんも、ゆき叔母さんも、ゆい姉さんも。
みなみちゃん本人は気づいていないみたいだけれど、みんな凄く感謝している。ゆーちゃんを、身体が弱くて可哀想な子として面倒をみるのではなく、ただ純粋な親友として見てくれていることに対して。
みなみちゃんは、きっとゆーちゃんの性格の素直さを、自分にはない物として自然に尊敬してくれているんじゃないかって思う。
みなみちゃんはゆーちゃんが持てないものを沢山持っているけれど、でもきっとみなみちゃんにとっては、ゆーちゃんが持っている素直さが何よりも眩しい物として映っている。そんな気がした。
今までゆーちゃんには、そういう風に対等な友達ができたことはないようだったから。
それもきっと、奇跡みたいな出会いだったんだなって、わたしは思うんだ。
「――いい天気だねぇ」
自分の席に向かったゆーちゃんが、椅子の後ろにある窓をガラリと開けた。
藤色のカーテンが、春の風にふわりとひるがえる。ここからも遠くに見える権現道の桜堤は、未だ桜色に煙っている。まだ完全に散ってしまうには少し早い、三月の終わりの桜だった。
差し込んでくる陽射しが眩しくて、わたしは少しだけ目を細める。
窓から外を眺めるゆーちゃんの横顔に、わたしが見たこともない表情が浮かんでいた。
――ゆーちゃんも、もう高校二年生になるんだ。
突然そんな当たり前のことに気がついて、わたしはちょっとだけ驚いた。そんなことわかりきっているはずなのに、なぜだかわたしはそのことを実感をもって感じてはいなかった。
「ゆーちゃん?」
「ん、なーにお姉ちゃん?」
ゆっくりとふりむいて、ゆーちゃんは薄く微笑んだ。
「もしかして、ちょっと背、伸びた?」
「え? 一応まだ少しずつ伸びてるはずだよ? でもそんなに伸びたのかなぁ?」
それはただの錯覚なのかもしれないけれど。
でも、そのときわたしは少しだけ、その大人びた横顔にどきりとしたんだ。
――ゆーちゃんは、ちゃんと大人になっていく。
小学校に上がるまで生きられないかもしれないって云われていたゆーちゃんが、わたしたちが後にしたあの学校で、大人になっていく。
もしかしたらわたしよりずっと。
わたしより誠実な、ちゃんとした大人に。
もしかしたらわたしよりずっと。
わたしより誠実な、ちゃんとした大人に。
それは考えてみればやっぱり奇跡みたいな出来事で。
けれどもしかしたらこの世界は、そんな出来事で満ちているのかもしれないって思う。
そう、きっと魔法みたいに思えることだって、他にも沢山あるはずだ。
けれどもしかしたらこの世界は、そんな出来事で満ちているのかもしれないって思う。
そう、きっと魔法みたいに思えることだって、他にも沢山あるはずだ。
メープルパーラーの厚焼きクッキーは、いつも通り凄く美味しくて、わたしはかがみがここにいたらどうしていたかなって思う。
お腹を鳴らしながら我慢したりするのかな。それとも少しくらいいいよねなんて言い訳をして、少しずつ大事に囓っていくのかな。あるいはもう完全に開き直って、眉を吊り上げながら一つ二つと平らげていったりして。
そんなことを考えているうちに、少しだけ笑いが漏れてしまったのかもしれない。
お腹を鳴らしながら我慢したりするのかな。それとも少しくらいいいよねなんて言い訳をして、少しずつ大事に囓っていくのかな。あるいはもう完全に開き直って、眉を吊り上げながら一つ二つと平らげていったりして。
そんなことを考えているうちに、少しだけ笑いが漏れてしまったのかもしれない。
ふと顔を上げると、ゆーちゃんが優しい瞳でわたしを見つめて笑っていた。