『元気』。
その言葉の意味は、日本人なら誰でも知っている。
小学生ですら知っている。
だが今春から高校生になった小早川ゆたかの場合……知識として意味を「解って」はいるが、身をもって「感じた」ことはない。
小学生ですら知っている。
だが今春から高校生になった小早川ゆたかの場合……知識として意味を「解って」はいるが、身をもって「感じた」ことはない。
ゆたかがこれまで生きてきた15年程度の短い期間内にも、「子どもは風の子、元気な子」という有名なキャッチフレーズを耳にする機会は数え切れないほどあった。
実際、屋外でエネルギッシュに遊ぶ子どもの姿は、季節も場所も問わず目撃することができる。
しかし、同じ子どもであるはずのゆたか自身は……外遊びを楽しんだ記憶をほとんど持たない。
友人たちがプールでの水泳や雪だるま作りに大はしゃぎしている間、『元気』に欠けるゆたかだけはいつも布団の中で孤独を噛み締めていた。
実際、屋外でエネルギッシュに遊ぶ子どもの姿は、季節も場所も問わず目撃することができる。
しかし、同じ子どもであるはずのゆたか自身は……外遊びを楽しんだ記憶をほとんど持たない。
友人たちがプールでの水泳や雪だるま作りに大はしゃぎしている間、『元気』に欠けるゆたかだけはいつも布団の中で孤独を噛み締めていた。
(それでも)
保健室のベッドの上で、ゆたかは、ひとり、決意する。
(今年こそは、違うんだから!)
窓の外のグラウンドへ視線を向ければ、クラスメイトたちが楽しげにサッカーボールを奪い合っている様が見える。
ゆたかは、その輪の中に加わりたいという衝動を抑えきれない。
体育の時間が始まる直前、運動着に着替えている最中にいきなり襲いかかってきた頭痛はどうやら一過性のものだったらしく、こうして横になっていたら10分も経たずに治まってしまった。
新学期が始まった当初こそ、一度ダウンしてしまえば最低半日は起き上がることができなかったのだが、最近はやけに調子がいい。
こうして好ましい方向に変化しつつあるのは、きっと普段仲良くしてくれている仲間たちの影響だ。
みんなが当たり前のように持っている『元気』が、当たり前の存在ではない自分の中にもついに生まれようとしている……そんな予感が、ゆたかの胸を灼く。
「先生、あの」
保険医の天原に、おずおずと声をかける。
「ダメですよ」
先手。
どこか落ち着きなさげな様子を見ていれば、相手がこれから言わんとすることは容易に想像できる。
「無理はいけません」
せっかく起こした上体は、白い手により再びベッドに張り付けられた。
「私……だいじょぶ、です。ほら、さっき熱を計ったけど、35度8分しかなかったじゃないですか」
「高いのも困るけど、低いのも考え物ねぇ」
「むぐ」
「今のあなたは、体の免疫力が弱まってるんです」
ゆたかの両眉が「八」の字を描く。
「顔色も悪いままだもの。気持ちは分かるけど、がまん、がまん」
「……あと、どのぐらい寝てればいいですか」
少し拗ね気味に、ゆたかは口を尖らせた。
「最低でも、この体育の時間だけは休んでください」
「そんなぁ」
「病状を悪化させて早退するよりはマシだと思いますけど」
「はうぅ……」
今度は泣き出しそうな顔。
感情のおもむくまま目まぐるしく表情を変えるこの1年生を、天原は好ましく思っていた。
彼女は保健室の常連ではあるが、どんなに体調の悪い時でも、自分から「早退したい」と言い出すことは決してない。
手練手管を用いてズル休みを企てる不届きな学生が多い中、学校という場を純粋に愛し、病弱ながらも一日一日を大切に生きようとする健気さは、瞠目に値する。
ついでに付け加えるなら、あどけない寝顔が……もう最っ高にかわいい!
天使のような、という形容を用いても決して誇張ではない表情を独占している間、天原の心は安らぎっぱなしだ。
「さあさあ。遠慮せずに、死んだように眠ってもらって結構ですから」
「うう、縁起の悪い言い方はやめてくださいよう」
ゆたかが顔の青白さをますます深めたその時、誰かが控えめにドアをノックする音が響いた。
「…失礼します」
やはり控えめな挨拶と共に入ってきたのは、保険委員の岩崎みなみだった。
体調を崩したゆたかを保健室に連れて来るのは、大抵の場合みなみの仕事である。
学校内ではいつも連れ添っている仲良しの2人だが、互いの性格は見事に対称的だ。
ゆたかの考えていることはそのまま顔に表れるが、みなみは逆に感情を面に出さない……と言うより、出せない。
自分の内面を他人に伝えるのが苦手であり、それゆえに常時寡黙である。
よって保健委員会の内輪では不名誉にも「冷たくて近づきがたいヤツ」というイメージを付与されてしまっているが、それはあくまで一見の印象であって(天原も最初のうちは「なんか付き合いにくそうな子ですねぇ」と思っていた)、実際は誰よりも深い思いやりの持ち主なのだ。
みなみの仕事ぶりは常に実直で、かつ献身的。
まだ顔を合わせてから数ヶ月しか経っていないものの、天原はいつのまにか、みなみに全面的な信頼をおくようになっていた。
「あら、どうしたの?」
「確認…するために」
何を?という疑問は、天原もゆたかも発しない。
先ほど体調不良の生徒を保健室に送り届けた保健委員が、少し時間を置いてから再度戻ってくる理由といえば、ひとつしかない。
「ごめんね、みなみちゃん。私やっぱり、体育はできないみたい」
「そう…」
「もう少し休めば、次の授業には出られるようになると思います。体育の先生と担任には、そのように伝えてください」
「…分かりました」
みなみは、必要最低限の言葉しか口にしない。
今回も、聞くべきことを聞いた後はさっさと退室しようとする。
「失礼しまし……」
「みなみちゃん!」
一礼してドアを閉めようとしたみなみを、ゆたかが病人らしからぬ大声で呼び止める。
自分のために手間を費やしてくれた相手に、陳謝と感謝の言葉をそれぞれ一言ずつでも贈っておきたかったのだ。
「何」
「あ、あの、えっと、ごめんね、また、迷惑、かけちゃって」
「……保健委員の仕事だから……」
「でも、サッカーやってる途中なのに邪魔しちゃったみたいで」
「気にすることはない。私の出番は…次の試合」
みなみがそう言い終えるのとほぼ同時に、窓ガラスを突き破って鋭いホイッスルの音が聞こえてきた。
それにつられて、保健室内の3人は一斉にグラウンドを見る。
「最初の試合、終わったかしら」
「そのようです……行かなくては……」
「色々ありがとう、みなみちゃん!」
「……いや」
「試合、頑張ってね」
「……失礼、しました」
みなみは伏し目がちに、保健室を後にした。
面と向かって礼を言われたり応援されたりすると、どうしても照れてしまう……
「先生。外、見ててもいいですか」
ほどなくして、グラウンドの中央に最初のチームとは別の男女が集まってきた。
さらにしばらくして、そこにみなみの姿も加わる。
「横になったままなら、構わないですよ」
「ありがとうございます」
寝顔鑑賞の機会が断たれたのは残念だが……憧れに輝く瞳でみなみの活躍を見守る様もまた、かなり微笑ましい。
的確なパス、意表をつくフェイント、力強いシュート、みなみは今日も絶好調だ。
保健室のベッドの上で、ゆたかは、ひとり、決意する。
(今年こそは、違うんだから!)
窓の外のグラウンドへ視線を向ければ、クラスメイトたちが楽しげにサッカーボールを奪い合っている様が見える。
ゆたかは、その輪の中に加わりたいという衝動を抑えきれない。
体育の時間が始まる直前、運動着に着替えている最中にいきなり襲いかかってきた頭痛はどうやら一過性のものだったらしく、こうして横になっていたら10分も経たずに治まってしまった。
新学期が始まった当初こそ、一度ダウンしてしまえば最低半日は起き上がることができなかったのだが、最近はやけに調子がいい。
こうして好ましい方向に変化しつつあるのは、きっと普段仲良くしてくれている仲間たちの影響だ。
みんなが当たり前のように持っている『元気』が、当たり前の存在ではない自分の中にもついに生まれようとしている……そんな予感が、ゆたかの胸を灼く。
「先生、あの」
保険医の天原に、おずおずと声をかける。
「ダメですよ」
先手。
どこか落ち着きなさげな様子を見ていれば、相手がこれから言わんとすることは容易に想像できる。
「無理はいけません」
せっかく起こした上体は、白い手により再びベッドに張り付けられた。
「私……だいじょぶ、です。ほら、さっき熱を計ったけど、35度8分しかなかったじゃないですか」
「高いのも困るけど、低いのも考え物ねぇ」
「むぐ」
「今のあなたは、体の免疫力が弱まってるんです」
ゆたかの両眉が「八」の字を描く。
「顔色も悪いままだもの。気持ちは分かるけど、がまん、がまん」
「……あと、どのぐらい寝てればいいですか」
少し拗ね気味に、ゆたかは口を尖らせた。
「最低でも、この体育の時間だけは休んでください」
「そんなぁ」
「病状を悪化させて早退するよりはマシだと思いますけど」
「はうぅ……」
今度は泣き出しそうな顔。
感情のおもむくまま目まぐるしく表情を変えるこの1年生を、天原は好ましく思っていた。
彼女は保健室の常連ではあるが、どんなに体調の悪い時でも、自分から「早退したい」と言い出すことは決してない。
手練手管を用いてズル休みを企てる不届きな学生が多い中、学校という場を純粋に愛し、病弱ながらも一日一日を大切に生きようとする健気さは、瞠目に値する。
ついでに付け加えるなら、あどけない寝顔が……もう最っ高にかわいい!
天使のような、という形容を用いても決して誇張ではない表情を独占している間、天原の心は安らぎっぱなしだ。
「さあさあ。遠慮せずに、死んだように眠ってもらって結構ですから」
「うう、縁起の悪い言い方はやめてくださいよう」
ゆたかが顔の青白さをますます深めたその時、誰かが控えめにドアをノックする音が響いた。
「…失礼します」
やはり控えめな挨拶と共に入ってきたのは、保険委員の岩崎みなみだった。
体調を崩したゆたかを保健室に連れて来るのは、大抵の場合みなみの仕事である。
学校内ではいつも連れ添っている仲良しの2人だが、互いの性格は見事に対称的だ。
ゆたかの考えていることはそのまま顔に表れるが、みなみは逆に感情を面に出さない……と言うより、出せない。
自分の内面を他人に伝えるのが苦手であり、それゆえに常時寡黙である。
よって保健委員会の内輪では不名誉にも「冷たくて近づきがたいヤツ」というイメージを付与されてしまっているが、それはあくまで一見の印象であって(天原も最初のうちは「なんか付き合いにくそうな子ですねぇ」と思っていた)、実際は誰よりも深い思いやりの持ち主なのだ。
みなみの仕事ぶりは常に実直で、かつ献身的。
まだ顔を合わせてから数ヶ月しか経っていないものの、天原はいつのまにか、みなみに全面的な信頼をおくようになっていた。
「あら、どうしたの?」
「確認…するために」
何を?という疑問は、天原もゆたかも発しない。
先ほど体調不良の生徒を保健室に送り届けた保健委員が、少し時間を置いてから再度戻ってくる理由といえば、ひとつしかない。
「ごめんね、みなみちゃん。私やっぱり、体育はできないみたい」
「そう…」
「もう少し休めば、次の授業には出られるようになると思います。体育の先生と担任には、そのように伝えてください」
「…分かりました」
みなみは、必要最低限の言葉しか口にしない。
今回も、聞くべきことを聞いた後はさっさと退室しようとする。
「失礼しまし……」
「みなみちゃん!」
一礼してドアを閉めようとしたみなみを、ゆたかが病人らしからぬ大声で呼び止める。
自分のために手間を費やしてくれた相手に、陳謝と感謝の言葉をそれぞれ一言ずつでも贈っておきたかったのだ。
「何」
「あ、あの、えっと、ごめんね、また、迷惑、かけちゃって」
「……保健委員の仕事だから……」
「でも、サッカーやってる途中なのに邪魔しちゃったみたいで」
「気にすることはない。私の出番は…次の試合」
みなみがそう言い終えるのとほぼ同時に、窓ガラスを突き破って鋭いホイッスルの音が聞こえてきた。
それにつられて、保健室内の3人は一斉にグラウンドを見る。
「最初の試合、終わったかしら」
「そのようです……行かなくては……」
「色々ありがとう、みなみちゃん!」
「……いや」
「試合、頑張ってね」
「……失礼、しました」
みなみは伏し目がちに、保健室を後にした。
面と向かって礼を言われたり応援されたりすると、どうしても照れてしまう……
「先生。外、見ててもいいですか」
ほどなくして、グラウンドの中央に最初のチームとは別の男女が集まってきた。
さらにしばらくして、そこにみなみの姿も加わる。
「横になったままなら、構わないですよ」
「ありがとうございます」
寝顔鑑賞の機会が断たれたのは残念だが……憧れに輝く瞳でみなみの活躍を見守る様もまた、かなり微笑ましい。
的確なパス、意表をつくフェイント、力強いシュート、みなみは今日も絶好調だ。
みなみちゃんは凄いな、やっぱり。
あーあ、私もあのぐらい『元気』になれたらなぁ……
そりゃ、前に比べれば私も少しはマシになってきたけど……
でも、みなみちゃんに比べたら、まだまだだ。
背丈だって、相変わらず全然伸びていない。
どんな教科のどんなテストだって、いつも私よりみなみちゃんの方が高得点だ。
……私は、全てにおいてみなみちゃんに負けている。
それなのに、みなみちゃんは私に優しい。
分け隔てなく友だちとして振舞ってくれている。
そういう余裕のあるところも、凄い。
あーあ、私もあのぐらい『元気』になれたらなぁ……
そりゃ、前に比べれば私も少しはマシになってきたけど……
でも、みなみちゃんに比べたら、まだまだだ。
背丈だって、相変わらず全然伸びていない。
どんな教科のどんなテストだって、いつも私よりみなみちゃんの方が高得点だ。
……私は、全てにおいてみなみちゃんに負けている。
それなのに、みなみちゃんは私に優しい。
分け隔てなく友だちとして振舞ってくれている。
そういう余裕のあるところも、凄い。
凄いよね、敵わないよね。
どうして、みなみちゃんばかりあんなに恵まれてるんだろう。
私だって、『元気』さえあれば。
日の当たる場所で活躍できるのに……!
私だって、『元気』さえあれば。
日の当たる場所で活躍できるのに……!
「小早川さん?」
急に表情を曇らせたゆたかに、天原が声をかける。
返事はない。
「どうしました? また気分が悪くなったんですか?」
「せんせい……」
今度は蚊が鳴くような声が返ってきた。
「はい?」
「おなか、いたい」
「まあ!」
「早退、しても……いいですか?」
断る理由を、天原は持たない。
急に表情を曇らせたゆたかに、天原が声をかける。
返事はない。
「どうしました? また気分が悪くなったんですか?」
「せんせい……」
今度は蚊が鳴くような声が返ってきた。
「はい?」
「おなか、いたい」
「まあ!」
「早退、しても……いいですか?」
断る理由を、天原は持たない。
1時間目が終わって、本日最初の休み時間がやって来た。
「オオウ、ヒヨーリ。また遠い目になてマースヨ?」
「はっ!」
「て言うか、スゴークいやらしー目つきデース。カブキチョーのお店を渡り歩く中年エロオヤジみたいネー」
パトリシアにからかわれて、田村ひよりはようやく気付く。
己が無意識のうちに腐っていたことに。
「……とほー。表現がエグいね、パティさん」
ひどい言われようではあるものが否定することもできず、ひよりは臍を噛む。
ゆたかとみなみがいくら仲睦まじい様子を見せつけようとも、世間の大多数はそこに「友情」以外のものは見出さないだろう。
だが、常に漫画のネタを捜し求めているひよりの場合は違う。
彼女の眼鏡を通して見る2人の背景には、どうしても百合の花が繚乱してしまうのだ。
「マア、ヒヨリがドリーミィになる気持ちも分かりマース。ユタカとミナミのカラミ、ベリーベリースウィート!」
「しーっ! 絡みって言うな、はしたない」
「じゃ、マグワイ……」
「もっとヤバいっつーの!」
「ウープス、ニポンゴむずかしデース」
「いや、そういう言葉を知っている方がおかしいから」
教室の片隅でそんな生暖かいやり取りが繰り広げられていることにも気付かず、ゆたかとみなみは黒板掃除の仕事をせっせとこなしている。
今日はみなみが日直なのだが、「いつもお世話になっているから」という理由で、ゆたかが手伝いを申し出たのだ。
「……ううー」
届きそうで届かない位置にある二次方程式に向かって、ゆたかは精いっぱい腕を伸ばす。
あと3センチ……いや1センチ指が長ければ、なんとか消すことができるのだが。
「あ」
サッと、魔法のように目標が消えた。
ゆたかが消したわけではない。
やったのは、みなみだ。
みなみが、ゆたかの背後から、無言で黒板消しを走らせたのだ。
昨日の保健室で味わったものと同質の苦味が、胸の中に広がっていく。
「ご、ごめんね。私チビだから、あんまり役に立てなくて……」
ゆたかは、振り返りざま頭を下げた。
「……いい。もともと、私の仕事だから」
ゆたかの目元は至って涼やかだ。
こういう目で見つめられるのには慣れているし、ゆたかの外面と内面が別物であるということも重々承知している。
なのに。
その「クールさ」が、今日に限っては単なる「冷酷」にしか感じられないのはなぜだろう。
「あまり……無理はしないほうがいい」
「え?」
「昨日、早退して……その後、だいじょうぶだった?」
「うん、帰ってから今朝までぐっすり眠ったから。もう全然へーき」
「それでも……病み上がりは体調を崩しやすいから……気をつけて」
「……ん」
「オオウ、ヒヨーリ。また遠い目になてマースヨ?」
「はっ!」
「て言うか、スゴークいやらしー目つきデース。カブキチョーのお店を渡り歩く中年エロオヤジみたいネー」
パトリシアにからかわれて、田村ひよりはようやく気付く。
己が無意識のうちに腐っていたことに。
「……とほー。表現がエグいね、パティさん」
ひどい言われようではあるものが否定することもできず、ひよりは臍を噛む。
ゆたかとみなみがいくら仲睦まじい様子を見せつけようとも、世間の大多数はそこに「友情」以外のものは見出さないだろう。
だが、常に漫画のネタを捜し求めているひよりの場合は違う。
彼女の眼鏡を通して見る2人の背景には、どうしても百合の花が繚乱してしまうのだ。
「マア、ヒヨリがドリーミィになる気持ちも分かりマース。ユタカとミナミのカラミ、ベリーベリースウィート!」
「しーっ! 絡みって言うな、はしたない」
「じゃ、マグワイ……」
「もっとヤバいっつーの!」
「ウープス、ニポンゴむずかしデース」
「いや、そういう言葉を知っている方がおかしいから」
教室の片隅でそんな生暖かいやり取りが繰り広げられていることにも気付かず、ゆたかとみなみは黒板掃除の仕事をせっせとこなしている。
今日はみなみが日直なのだが、「いつもお世話になっているから」という理由で、ゆたかが手伝いを申し出たのだ。
「……ううー」
届きそうで届かない位置にある二次方程式に向かって、ゆたかは精いっぱい腕を伸ばす。
あと3センチ……いや1センチ指が長ければ、なんとか消すことができるのだが。
「あ」
サッと、魔法のように目標が消えた。
ゆたかが消したわけではない。
やったのは、みなみだ。
みなみが、ゆたかの背後から、無言で黒板消しを走らせたのだ。
昨日の保健室で味わったものと同質の苦味が、胸の中に広がっていく。
「ご、ごめんね。私チビだから、あんまり役に立てなくて……」
ゆたかは、振り返りざま頭を下げた。
「……いい。もともと、私の仕事だから」
ゆたかの目元は至って涼やかだ。
こういう目で見つめられるのには慣れているし、ゆたかの外面と内面が別物であるということも重々承知している。
なのに。
その「クールさ」が、今日に限っては単なる「冷酷」にしか感じられないのはなぜだろう。
「あまり……無理はしないほうがいい」
「え?」
「昨日、早退して……その後、だいじょうぶだった?」
「うん、帰ってから今朝までぐっすり眠ったから。もう全然へーき」
「それでも……病み上がりは体調を崩しやすいから……気をつけて」
「……ん」
分かってる。
みなみちゃんは、優しいだけ。
決して、見下したり哀れんだりしているわけじゃ……
みなみちゃんは、優しいだけ。
決して、見下したり哀れんだりしているわけじゃ……
「4時間目に、また体育がある」
淡々とした口調で、みなみが言う。
「昨日はサッカーだったけど、今日はドッヂボール」
「あ……そうだったね、確か」
「激しく動き回る競技ばかり続いている。今回も休ん……」
「やるよっ!」
みなみが最後まで言う前に、ゆたかは勢い良く答えていた。
「ちょっとぐらい運動しても、平気だもん」
「だけど……」
「本当にだいじょーぶだって!」
ガッツポーズをとり、覇気をアピールする。
挑むような視線で、みなみを射抜く。
それが自分に心配をかけまいとしての虚勢ではないかと疑うみなみもまた、ゆたかの顔色をじっくりと確認する。
2人を包む時間が、しばし、流れを止めた。
「……分かった」
みなみの微かな首肯が、再び時を動かす。
「でも、少しでも気分が悪くなったらすぐに言って」
「心配ないよ!」
ゆたかは、にっこりと笑った。
柔和な表層の向こうに、薄く野心の色が透けている笑顔だった。
だが、それを見るみなみの無表情が崩れることはない。
淡々とした口調で、みなみが言う。
「昨日はサッカーだったけど、今日はドッヂボール」
「あ……そうだったね、確か」
「激しく動き回る競技ばかり続いている。今回も休ん……」
「やるよっ!」
みなみが最後まで言う前に、ゆたかは勢い良く答えていた。
「ちょっとぐらい運動しても、平気だもん」
「だけど……」
「本当にだいじょーぶだって!」
ガッツポーズをとり、覇気をアピールする。
挑むような視線で、みなみを射抜く。
それが自分に心配をかけまいとしての虚勢ではないかと疑うみなみもまた、ゆたかの顔色をじっくりと確認する。
2人を包む時間が、しばし、流れを止めた。
「……分かった」
みなみの微かな首肯が、再び時を動かす。
「でも、少しでも気分が悪くなったらすぐに言って」
「心配ないよ!」
ゆたかは、にっこりと笑った。
柔和な表層の向こうに、薄く野心の色が透けている笑顔だった。
だが、それを見るみなみの無表情が崩れることはない。
4時間目。
太陽の照る下、校庭の砂塵を無駄に巻き上げながら、ゆたかは大い体育を楽しんでいた。
いつだったか体育館の中でドッヂボールを行った時と同様、体育教師はゆたかを外野に配置しようとしたが、当のゆたか本人がそれに異を唱えた。
「外野は前にもやりました! 今度は内野がいいです!」
おいおいマジかよ、という陰口が周囲から聞こえるのも構わず、ゆたかは己の主張を貫き通した。
その結果が、今の状況だ。
ゆたか側の陣地に残っているのは、ゆたか自身、ひより、とある男子の合計3名。
対して、敵側は唯一みなみを残すのみ。
そのひとりを、3人はどうしても倒すことができない。
この3対1の構図が出来上がるまでに、ゆたかは何度も心地良いスリルを味わっていた。
飛んでくるボールを、かわす。
ただそれだけの単純な動作の繰り返しが、ゆたかには面白くて面白くてしかたがなかった。
避けるたびに、自分の身が意外と敏捷であったことに驚く。
そして、普段はマイナス面として捉えていた背の低さが、ここでは逆に狙いのつけにくさという利点として機能していることに、喜ぶ。
敵も味方も次々と倒れていく中で、ゆたかは意外なしぶとさを発揮していた。
流れる汗を拭うのも忘れ、肩で息をしていても全く苦しさを感じないほど、今のゆたかは幸せだ。
昨日の不本意な早退も、今日の『元気』を養うためのものだったのだと考えれば、無駄ではなかった。
「このおっ!」
ゆたかチームの男子が、外野からまわされたパスを豪速の弾丸に変えてみなみに打ち込む。
「……っ!」
ずばん。
少年の全力は、少女の両手が小気味のいい音と共に難なく吸い込んでしまった。
「うそ、だろ……あがっ!」
目を疑う暇もなく、彼は猛反撃の餌食となる。
みなみの投げるボールは、試合序盤に比べれば流石に勢いを鈍らせつつあるものの、それでもまだ常人の反射神経を上回るほどには強烈だ。
残り、2人。
倒れた男子の傍から、ひよりの方へとボールが転がっていく。
「……恐るべきは岩崎さん、だね」
真正面から立ち向かったところで、玉砕するだけだ。
ならば奇策で勝負をかけるしかないだろう。
「ぬふふふふふ」
羽団扇をあおぐ孔明のごとく不敵に微笑みながら、ひよりはゆっくりとボールを拾い上げ……すぐ横に立つゆたかの方を向いた!
「はぁーい、パスいくよパス」
「え、え? ええっ?」
戸惑うゆたか。
そりゃそうだ、内野から内野にパスなんて手、聞いたこともない。
「ほーらほら投げるよ、いち、にーぃの……」
慌てふためきながらも、ゆたかは顔の前に手を構える。
しかし、当然ひよりはそちらの方へボールを投じるつもりはない。
真の標的は、センターラインの向こうで、ゆたか同様呆気に取られているであろう……
「さぁんっ!」
急激な勢いで腰を半回転させ、持てるエナジーの全てを右腕に注ぎ込み、さらに
(WRYYYY! 勝ったっ! どうだこの目くらましはっ! 死ねい!)
そんなセリフを頭の中で叫んで、ひよりは一世一代の投擲を行った。
「……甘い」
「あ、あれ?」
「……せいっ」
「ごぶぇ!」
小細工は、相手の油断の上に立って始めて効果を奏するもの。
常に冷静沈着な相手には、通用しない。
「やれやれ……だぜ」
そう言い残して、ひよりは崩れ落ちた。
ざわついていた周囲が、一斉に口をつぐむ。
誰にとっても意外な展開だった。
クラスで1、2を争うアスリートと、クラスで最もか弱い存在が、何の間違いか対峙してしまっているのだ。
だがコート内の当人たちだけは、まるで「こうなって当たり前」とでも言いたげな顔をしている。
太陽の照る下、校庭の砂塵を無駄に巻き上げながら、ゆたかは大い体育を楽しんでいた。
いつだったか体育館の中でドッヂボールを行った時と同様、体育教師はゆたかを外野に配置しようとしたが、当のゆたか本人がそれに異を唱えた。
「外野は前にもやりました! 今度は内野がいいです!」
おいおいマジかよ、という陰口が周囲から聞こえるのも構わず、ゆたかは己の主張を貫き通した。
その結果が、今の状況だ。
ゆたか側の陣地に残っているのは、ゆたか自身、ひより、とある男子の合計3名。
対して、敵側は唯一みなみを残すのみ。
そのひとりを、3人はどうしても倒すことができない。
この3対1の構図が出来上がるまでに、ゆたかは何度も心地良いスリルを味わっていた。
飛んでくるボールを、かわす。
ただそれだけの単純な動作の繰り返しが、ゆたかには面白くて面白くてしかたがなかった。
避けるたびに、自分の身が意外と敏捷であったことに驚く。
そして、普段はマイナス面として捉えていた背の低さが、ここでは逆に狙いのつけにくさという利点として機能していることに、喜ぶ。
敵も味方も次々と倒れていく中で、ゆたかは意外なしぶとさを発揮していた。
流れる汗を拭うのも忘れ、肩で息をしていても全く苦しさを感じないほど、今のゆたかは幸せだ。
昨日の不本意な早退も、今日の『元気』を養うためのものだったのだと考えれば、無駄ではなかった。
「このおっ!」
ゆたかチームの男子が、外野からまわされたパスを豪速の弾丸に変えてみなみに打ち込む。
「……っ!」
ずばん。
少年の全力は、少女の両手が小気味のいい音と共に難なく吸い込んでしまった。
「うそ、だろ……あがっ!」
目を疑う暇もなく、彼は猛反撃の餌食となる。
みなみの投げるボールは、試合序盤に比べれば流石に勢いを鈍らせつつあるものの、それでもまだ常人の反射神経を上回るほどには強烈だ。
残り、2人。
倒れた男子の傍から、ひよりの方へとボールが転がっていく。
「……恐るべきは岩崎さん、だね」
真正面から立ち向かったところで、玉砕するだけだ。
ならば奇策で勝負をかけるしかないだろう。
「ぬふふふふふ」
羽団扇をあおぐ孔明のごとく不敵に微笑みながら、ひよりはゆっくりとボールを拾い上げ……すぐ横に立つゆたかの方を向いた!
「はぁーい、パスいくよパス」
「え、え? ええっ?」
戸惑うゆたか。
そりゃそうだ、内野から内野にパスなんて手、聞いたこともない。
「ほーらほら投げるよ、いち、にーぃの……」
慌てふためきながらも、ゆたかは顔の前に手を構える。
しかし、当然ひよりはそちらの方へボールを投じるつもりはない。
真の標的は、センターラインの向こうで、ゆたか同様呆気に取られているであろう……
「さぁんっ!」
急激な勢いで腰を半回転させ、持てるエナジーの全てを右腕に注ぎ込み、さらに
(WRYYYY! 勝ったっ! どうだこの目くらましはっ! 死ねい!)
そんなセリフを頭の中で叫んで、ひよりは一世一代の投擲を行った。
「……甘い」
「あ、あれ?」
「……せいっ」
「ごぶぇ!」
小細工は、相手の油断の上に立って始めて効果を奏するもの。
常に冷静沈着な相手には、通用しない。
「やれやれ……だぜ」
そう言い残して、ひよりは崩れ落ちた。
ざわついていた周囲が、一斉に口をつぐむ。
誰にとっても意外な展開だった。
クラスで1、2を争うアスリートと、クラスで最もか弱い存在が、何の間違いか対峙してしまっているのだ。
だがコート内の当人たちだけは、まるで「こうなって当たり前」とでも言いたげな顔をしている。
……絶対に狙わないようにしていたら……
…………最後まで残ってしまった…………
…………………どうしよう…………………
…………最後まで残ってしまった…………
…………………どうしよう…………………
もちろん、みなみちゃん相手に勝てるとは思ってない。
でも、せっかく最後まで残れるようにがんばったんだもん。
結果はどうあれ、せめて、私だって『元気』になれるってことだけは……知ってほしい!
でも、せっかく最後まで残れるようにがんばったんだもん。
結果はどうあれ、せめて、私だって『元気』になれるってことだけは……知ってほしい!
ひよりと男子が外野に去るのを見送ってから、ゆたかはボールを手に取った。
直射日光を浴びすぎたせいで、頬が燃え出しそうなぐらい熱い。
足元もふらついている。
だが、そんなことは最早どうでもいい。
これは、長い期間を待ち続けて、ついに掴んだ貴重な機会。
ならば悔いの残らぬよう、自分の全てをぶつけるだけだ。
「私、本気で投げる。だから、みなみちゃんも……」
みなみは答えない。
珍しく動揺しているようだった。
直射日光を浴びすぎたせいで、頬が燃え出しそうなぐらい熱い。
足元もふらついている。
だが、そんなことは最早どうでもいい。
これは、長い期間を待ち続けて、ついに掴んだ貴重な機会。
ならば悔いの残らぬよう、自分の全てをぶつけるだけだ。
「私、本気で投げる。だから、みなみちゃんも……」
みなみは答えない。
珍しく動揺しているようだった。
みなゆた喧嘩もの 2話に続く