大和改

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大和改」を以下のとおり復元します。
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*CV
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竹達彩奈

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*史実情報
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1941年10月30日 公試中の「[[大和]]」。本艦の写真の中で最も有名なものである。

現在において、日本海軍を代表すると言っても過言ではない、日本人なら誰もが知っている軍艦。
それが戦艦[[大和]]だ。

 米海軍に量で劣る日本海軍は、質で上回ろうと前代未聞の46cm(18インチ)砲搭載の戦艦を建造する事を古くから考えていた。
 その18インチ砲搭載艦の嚆矢としてよく上げられるのが、八八艦隊計画における最終艦・一三号艦型巡洋戦艦であるのだが、どうも
これは後年に福井静夫造船官が予想したものであり、一三号艦の実際のスペックは計画されてすらおらず、そのため計画艦を含めても
名実ともに大和型こそが帝国海軍では最初で最後の18インチ砲搭載艦のようである。
(世界ではすでに英国の巡洋戦艦フューリアスがあるが、これは高速モニター艦のような運用を用いる艦隊戦を想定しない艦なので、
『実用的な』18インチ砲搭載艦としては大和が世界最初にして世界唯一である)
 18インチ砲搭載艦の建造計画が承認されたのは1936年度のことで、同年の国会にて新型戦艦『A-140F5』二隻の予算を通過させたのが
最初である。なお、この予算案では実際の建造数よりも新型駆逐艦([[陽炎]]型)の調達量を3隻分は多く見積もっており、これは予算から
大和型の大きさ、ひいては18インチ砲搭載艦という事を悟られないため、大和型の建造費をごまかすためのフェイクであった。

 『A-140F5』案の戦艦は、主機にタービンとディーゼルを併用した、速力30kt以上の性能が要求されていた。(30ktの速力性能の要求は、
老朽化著しい[[金剛]]型の置き換え用としても見られていたためだろう)設計陣も当初はこの要求通りの艦を建造しようとしたものの、
潜水母艦大鯨にてテスト中だった「[[大和]]」に搭載予定の艦本式ディーゼルが極めて不調であり、当初の計画出力を出せないこと。また、当時の
海軍艦政本部にて唯一戦艦の設計経験があり、設計現場で絶大な影響力を持っていた平賀譲造船官が、保守的な蒸気タービン機関の搭載を
推し進めたことなどから、あまり現実的なものではなかった『A-140F5』案は予算審議中に放棄され、代わりに現実的な蒸気タービン艦
『A-140F6』案が設定された。 この際、30ktの高速性能と言う要求も、艦体の大型化を招くとして放棄された。
 余談だが、平賀譲は大和設計の際に指導という名目で、実際に設計を行った若手設計陣に対して相当な干渉をしてきたようで、防水
隔壁数が水雷兵器の性能が低い時代に建造された長門型と同じである点をはじめとしたダメージコントロール部分の不備という大和の防護上
の欠点は、極めて保守的な平賀譲の影響に起因するものが多いのもまた事実だ。

 こうして設計現場での確執や紆余曲折はあったものの、最終的には速力を抑え、徹底した集中防御方式を用いたことで、全長263m、全幅38.9m
常備排水量64000tと、18インチ砲搭載艦としては小柄ながら、当時としては異例の超大型戦艦として『A-140F6』案は仕上がった。

 一番艦となる「[[大和]]」は、1937年11月4日、呉工廠で起工。
 かつて「[[赤城]]」や「[[長門]]」を建造した呉工廠の乾ドックは、大和建造の為に拡張工事が施された。
 機密漏えいを防ぐため、ドックが見えないよう倉庫を建て、ドックには屋根を付けた。棕櫚を日本中からかき集めたという逸話もある。
 建造に関しては、建造を容易とするブロック工法や、建造部門の担当者である西島亮二技術官の編み出した膨大かつ徹底した工数管理法が
功をなして、ブロック工法を用いなかった姉妹艦の武蔵に比べ工程数がほぼ二分の一にまで削減されている。大和でのブロック工法や西島式
工数管理法は戦中の量産型海防艦や松型駆逐艦、ひいては戦後の大型タンカーなどにも応用されたのである。
 また、大和の装備を作った企業としては、三菱(エレベーター)、東芝(冷蔵庫)、当時日本光学と呼ばれていた現在のニコン(測距儀レンズ)が挙げられる。
 また、大和は帝国海軍戦艦としては居住設備が非常に整っていたことも特筆すべき点であり、毒ガス戦対応のエアコンと弾薬庫の冷却装置を
流用した士官居住区の冷房、兵員用の鉄製三段ベッドや個人ロッカーなど、それまでの帝国海軍戦艦に比べれば天国のような環境であった。

1940年8月8日、「[[大和]]」は進水式を迎えた。盛大な祝い事となるはずの式も、機密保持のため秘密裏に、艦名も小さく聞こえないような声で
読み上げられたという。
工事は順調に進み、公試を終えた大和は1941年12月16日に竣工、翌42年には「[[長門]]」より聯合艦隊旗艦を継承する。

だが、海軍は大和を前線に出すことはなかった。
「[[大和]]」は日本海軍の虎の子、艦隊決戦の最終兵器であり、その役目は米戦艦部隊を撃滅することにある。
小さな戦いで損傷したり、ましてや沈没でもしては意味がない。加えて、7万トンの艦を動かすには大量の燃料を必要とする。
こうした背景から[[大和]]は&bold(){温存}され、トラック泊地に進出後も特に出撃せず、その巨体を泊地に浮かべ続けていた。
最新鋭艦なだけはあり、「[[大和]]」には冷房が備えられ寝床はベッド。食事も素晴らしく、聯合艦隊旗艦なので昼食時には軍楽隊が長官の為生演奏をする。
そんな様を、他艦の将兵たちは羨望と嫉妬を込めて「大和ホテル」と揶揄した。
とはいえ「[[大和]]」もただ惰眠を貪っていたわけではない。
1942年暮れから艦長を務めた松田千秋大佐は、各艦の士官を集めて砲術講義などを盛んに行っており、「大和大学」と呼ばれたという。
1942年夏には妹・[[武蔵]]が完成。聯合艦隊旗艦の座を譲っている。また、1943年には電探を装備し、舷側の副砲塔2基を撤去。高角砲と機銃の増強を行う。

1944年、差し迫った戦況から遂に「[[大和]]」も戦場へとその姿を見せることになる。
同年6月にはマリアナ沖海戦に参加し、空母の護衛部隊として行動した。特に損傷もなく、米機群に向けて主砲三式弾を発砲。敵に向けての初めての砲撃である。
続く10月には、レイテ沖海戦に第二遊撃艦隊の1隻として参戦。旗艦「[[愛宕]]」沈没後は艦隊旗艦となるが、シブヤン海で妹「[[武蔵]]」を失う。
[[大和]]」も爆撃を受け、第一主砲塔の天蓋に直撃を受けたが、強靭な装甲で弾き返している。
翌日、艦隊はサマール島沖で護衛空母艦隊と遭遇。距離3万2千メートルで、46センチ主砲が火を噴いた。大和の主砲が初めて、そして唯一敵艦に向けられた瞬間だった。
「[[大和]]」の発砲を皮切りに、重巡部隊が突撃を開始。「[[大和]]」も「[[長門]]」と共に「[[金剛]]」「[[榛名]]」に続いて突撃する。
「[[大和]]」の砲撃能力は素晴らしく、初弾から挟叉したという。しかし、敵艦が紙装甲だったため自慢の巨砲は威力過剰で、当たっても敵艦を穴だらけにするばかりだった。
さらに、「[[大和]]」は魚雷を回避した際、運悪く両舷を挟まれ十数キロを同航。敵艦隊から離れ、戦果を逃してしまった。
長年大和のはこの戦いで護衛空母ガンビア・ベイを撃沈したとされていたが、近年では「[[金剛]]」の戦果であることが解っている。
レイテ沖海戦から帰還後、「[[大和]]」は呉に入港。この戦いの大敗で、日本海軍には艦隊行動に足る艦船も、燃料もなくなってしまった。
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1944年10月24日 シブヤン海で空襲を受ける「[[大和]]」。一番砲塔傍に直撃弾を受けたが、被害はなかった。
艦中央部の副砲が撤去され、対空兵装が強化されているのが解る。

明けて1945年3月、「[[大和]]」は呉空襲を避けて徳山沖に移動。3月28日は次の作戦に向け、第二水雷戦隊を指揮下とする第二艦隊を編成した。
4月になると「[[大和]]」の沖縄行きが決まる。沖縄の海岸に座礁し、上陸した米軍を主砲で撃滅するのが目的だ。
が、実際のところは「海軍の辻信政」の呼び名でお馴染み、“神がかり”神重徳参謀の主張による、海上特攻作戦だった。
4月5日。聯合艦隊参謀長草加龍之介中将は大和を訪れると、集まった第二艦隊司令部、各艦艦長に特攻作戦の実施を伝える。
話を聞いた第二艦隊は大いに反対するも、「一億総特攻の魁となってほしい」という言葉に、遂に納得した。
こうした背景はあるものの、海軍は「[[大和]]」に「死に場所」を与えようとしていた感は否めない。

4月6日。「水上艦隊の伝統を守り後世に伝えるべく」、「[[大和]]」は軽巡[[矢矧]]以下、駆逐艦8隻の二水戦と共に出撃。
出撃に際して、第二艦隊各艦は残り僅かな重油をタンク満タンに給油。大井篤海上護衛司令が激怒したことは有名である。
この僅か10隻からなる艦隊が、日本海軍最後の水上部隊となった。
沖縄に向かう「[[大和]]」は片道分の燃料しか積んでいなかった、と長年信じられていたが、先のように現在では否定されている。
また「[[大和]]」には沖縄で戦う人々の為、大量の医薬品や生活必需品、現金が積まれていたという。
米軍は偵察で「[[大和]]」の出撃を把握。司令官スプルーアンス中将は戦艦部隊での迎撃を考えるも、最終的に空母部隊での攻撃を決めた。
もしもスプルーアンス中将が戦艦部隊を送り込んでいたら、「[[大和]]」の評価は違ったものになっていたかもしれない。
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近年発見された、出撃直前の「[[大和]]」を写した一葉。おそらく唯一のカラー写真。

4月7日12時34分。米艦載機による反復攻撃が始まる。米軍は昨年の武蔵攻撃で得られた戦訓を元に、「[[大和]]」に対し周到な攻撃を仕掛ける。
「[[大和]]」以下、第二艦隊の対空兵装が唸りを挙げるも、敵航空機を防ぐことは出来ず、大和は集中攻撃を受ける。
この日は曇天で雲が低く、主砲による三式弾射撃は敵わず、他の対空兵装にとっても不利な状況だった。
米軍は爆撃と雷撃を同時に仕掛けており、「[[大和]]」の回避行動は困難を極めた。そして、魚雷が左舷に命中したことで、米軍は「[[大和]]」の左舷側を集中攻撃。
爆弾や魚雷だけなく、機銃掃射やロケット弾までもが「[[大和]]」に向けて放たれる。「[[大和]]」は傷つきながらも戦い続けた。
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応急注排水装置と水密防御区画が最大機能するも、左舷に計9本の魚雷を受けたことで限界を迎え、遂に航行不能となる。
午後2時23分、「[[大和]]」は左に横転しながら沈没した後、弾火薬庫が爆発。巨大な黒煙を吹き上げ、史上最大最強の戦艦は海中へと没した。
(余談だが、[[大和]]の被弾数は爆弾数発・魚雷10本が一般的だが、日米の記録・証言は食い違いが激しく、
 海底の[[大和]]には戦闘詳報にない被雷の跡が4か所確認されるなど正確な数字はハッキリしない。)
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「[[大和]]」沈没の瞬間。キノコ雲は高度600mの高さに達した。

戦中、海軍は大和型の存在を徹底的に秘匿したため、国民は大和姉妹のことを全く知らされていなかった。
生地呉では、なんだか大きな艦が完成したという認識はあったというが、それ以上の情報は皆無であった。
海軍の情報秘匿は功を奏し、米軍は戦後に主砲が四六センチと知って大いに驚いたという。とはいえ、戦後関係者の多くが行き過ぎた機密保持だったとも述懐している。

この他、大和は大きさに関する話題には事欠かず、
 ・米軍がレーダーに映った「[[大和]]」を島だと思った
 ・「[[長門]]」と航行しているのを見た偵察機が、「戦艦1、重巡1」と報告した
 ・新人の為艦内オリエンテーリングを実施したら、朝9時に始めたのに一番遅い奴が戻ったのは深夜だった
 ・敵潜水艦の魚雷を食らった際、誰も被雷に気付かず艦が傾斜したことで初めて判った
という逸話が残っている。

戦後の情報開示によりその存在が知れると、「[[大和]]」はゼロ戦や紫電改と並び子供たちのヒーローになった。
細かいことはさて置き、「[[大和]]」の生涯は日本人好みの「滅びの美学」であり、様々なメディアで取り上げられていく。
中でも1960年代の戦記ブーム、1973年の「宇宙戦艦ヤマト」の爆発的ヒットにより、大和の知名度は飛躍的に上昇した。
こうしたブームに後押しされる形で、海底調査が一大プロジェクトとして数回行われており、沈没場所や現状も広く知られるようになった。
「[[大和]]」の人気は今も衰えることはなく、数々の架空戦記、アニメや漫画などで、時には姿形を変えて登場し続けている。


ところで、今日では「[[大和]]」を「無用な長物」と揶揄する人もいる。
確かに山本五十六長官のように、航空機の発展を見越して建造に反対した者もいる。結果として、山本長官の言葉が正しかったのは事実である。
しかし、航空機の有用性が示された真珠湾奇襲攻撃は大和就役のたった数日前の出来事であり、予算決議から起工・建造中は戦艦こそが主力
艦という考えが多数であり、それは米国を始めとした世界各国でも同じであった。その証拠としてアメリカも真珠湾奇襲後にサウスダコタ級
戦艦4隻、アイオワ級戦艦4隻をそれぞれ就役させている。
さらに言えば真珠湾奇襲自体が、それまで帝国海軍が前提として艦隊を整備しつづけた、漸減作戦による艦隊決戦とは全く別の性格を持つ、
山本長官独自の立案作戦であるため、無用論を論じれば大和型どころか漸減作戦による艦隊決戦を前提とした帝国海軍連合艦隊そのものが無用の長物と化すのである。
(米軍も航空論よりではあったが戦艦が至上という考えに変わりはなく、太平洋戦争開戦以前の建造艦は空母より
戦艦のほうが多いくらいで、あの怒涛のエセックス級はほとんどが真珠湾攻撃後に建造されたものだったりする。米帝マジチート)
そのため、大和不要説は真珠湾第二波攻撃や栗田ターンと同じく、後知恵で歴史を語るという、あまり褒められない行為に帰する訳である。

それに、考えてみてほしい。ペリーの黒船に国の根幹を揺るがされるほど衝撃を受けた後進国が、僅か70年後にはかような艦を生み出したのである。
当時戦艦が国家の象徴であった事を考えれば、「[[大和]]」はまさに日本の技術の集大成だったことは疑いの余地はない。
その日本の技術力が、戦後様々な分野で復興と発展を支え、今日の日本を作り上げたのだ。
そう考えれば、「[[大和]]」の誕生を無駄と断ずることは出来ないのではないだろうか。

余談だが、宇宙戦艦ヤマトのヒットが今日のアニメ大国日本の基礎をなしたと考えれば、艦これが生まれたのもまた「[[大和]]」のおかげ、なのかもしれない。

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*台詞一覧
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|状況    |台詞|関連する史実や元ネタ、解説など|
|自己紹介|大和型戦艦、一番艦、大和。推して参ります!||
|秘書クリック会話①|提督、なんでしょう?||
|秘書クリック会話②|ホテルですって?ち、違います!|あまりに出撃しない事と、他艦にはない快適装備を持つことから「大和ホテル」と揶揄された|
|秘書クリック会話③|あのー? そんなに気になります? やっぱり副砲がちょっと多いの?|竣工時3連4基12門をもっていた「大和」の副砲は、最終時3連2基6門となった|
|戦績表示時|大本営からの通信ですか?|大本営は戦時に設置される、帝国軍の最高司令部|
|編成選択時|戦艦大和、連合艦隊、出撃です!|「大和」は連合艦隊旗艦を努め、1943年2月に「武蔵」にその座を譲った|
|装備時①|改造ですね?ありがとうございます!||
|装備時②|あ、ありがとうございます!||
|装備時③|行くわ!||
|>|>|(マップ選択・資材発見・修復剤使用・装備開発と装備時③は共通)|
|補給時|ありがたく頂きます。||
|ドック入り|ちょっとお風呂に行ってきます。||
|ドック入り(重傷)|イッタッタ~ ごめんなさい、私がここまでやられるなんて~|COLOR(white):いやいや、シャレにならないから!|
|建造時|||
|艦隊帰投時|お疲れ様です。艦隊、帰投しました。||
|出撃時|戦艦大和、推して参ります。||
|戦闘開始時|さぁ、やるわ!砲雷撃戦、用意!||
|攻撃時|第一・第二主砲、制射、始め!||
|夜戦開始時|戦艦大和、夜戦を敢行します!||
|夜戦攻撃時|||
|MVP時|大和が一番ですか。少し晴れがましいですね。次の海戦もお任せ下さいね。|「大和」は文字通り日本の象徴である(当時は長門型姉妹であったが)|
|被弾小破①|||
|被弾小破②|||
|被弾カットイン|||
|撃沈時(反転)|COLOR(white):また…逝くのね…総員…最上甲板…武蔵…信濃…あとは頼みます…|COLOR(white):残念ながら妹達は先に沈んでいる|


|時間|台詞|関連する史実や元ネタ、解説など|
|00:00|マルマルマルマル。深夜ですね。||
|01:00|||
|02:00|提督?まだ寝なくて大丈夫ですか?現在時刻マルフタマルマルです。||
|03:00|||
|04:00|||
|05:00|||
|06:00|朝です。マルロクマルマル。提督、朝は本当に御早いですね。||
|07:00|マルナナマルマル。朝食の時間。大和ホテルの自慢のコンソメ御飲みになります?|COLOR(white):あんたホテルじゃないって言ってたじゃないですか…|
|08:00|現在時刻マルハチマルマルです。連合艦隊旗艦としてそろそろ動きますね。||
|09:00|||
|10:00|||
|11:00|||
|12:00|||
|13:00|||
|14:00|||
|15:00|ヒトゴーマルマル。提督、ラムネでも飲まれますか?|帝国海軍では巡洋艦以上の艦艇に、消火装置の炭酸ガスを応用したラムネ製造機を積んでいた&br()価格は今の感覚で1本100円|
|16:00|||
|17:00|||
|18:00|||
|19:00|ヒトキュウマルマル。艦隊執務はここまでにして、お夕食にしましょう。||
|20:00|フタマルマルマルです。ディナーはフルコースですよー、なんたって大和ホテルの…|聯合艦隊旗艦となると、長官の為に1流シェフが食事を作った|
|21:00|||
|22:00|||
|23:00|時刻はフタサンマルマルです。提督、今日も一日、本当にお疲れ様でした。||
|放置時|ん……あ、提督ごめんなさい。主砲ちょっと邪魔ですか?|主砲の大きさは世界最大で、砲塔の大きさだけでガンタンクを上回る|


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