武蔵

「武蔵」の編集履歴(バックアップ)一覧に戻る
武蔵」を以下のとおり復元します。
#image(No143.jpg)
#contents()
&autolink(id=wikibody)
//@wiki形式_艦娘新規テンプレ コピー作成すると捗る
//1行目の画像、75行目のコメントの書き換えお忘れなく。
----
*CV
----
声優さんの名前

----
*史実情報
----
史実情報
#ref(Musashi2.jpg)
1942年 竣工時期の「[[武蔵]]」。大和型の特徴である甲板のうねり、通称「大和坂」の様子がよく解る。

有名すぎる姉を持つゆえに、注目されない薄幸の優等生。
それが、戦艦「[[武蔵]]」である

※大和型建造の背景は「[[大和]]」の項を参照のこと。

*<建造>
「[[武蔵]]」は三菱長崎造船所で、1938年3月29日に起工した。計画名は「第二号艦」である。
本艦も機密保持には相当の注意を払っており、出入りする工員も密かに身辺調査をされた上で選抜されていた。
建造に当たり、呉工廠がドックを拡張したように、三菱も造船所の船台を拡張して対応している。
機密保持で最も苦労が払われたのは、建造が進むにつれて巨艦の姿が露わとなることだった。
造船所の対岸は市街地で、悪いことに外国の領事館もある。そこで三菱は全国から棕櫚縄を買い漁り、船台を覆う巨大なカーテンを張り巡らせた。
この為、日本中で棕櫚が枯渇して大騒ぎになったという。さらに領事館の視界を塞ぐべく、必要のない倉庫を建築。
さらには造船所を見渡す高台にあった物件を三菱が買い取るなど、相当の苦労が払われている。
また、呉で製造された主砲身を「運搬する為だけ」に、専用の輸送船として特務艦樫野が同造船所で建造された。
建造に関して、大和が工数管理とブロック工法で日数を稼いだのに対し、「武蔵」では行わなかったといわれている。

*<進水~就役>
1940年11月1日。二号艦は進水式を迎え、「[[武蔵[[」(当時の表記は&bold(){「武藏」})と名付けられた。
「[[武蔵]]」の式も、やはり機密保持の点から盛大なものとならず、関係者のみで秘密裏に行われた。
一号艦「[[大和]]」の進水と同様、当日は「防空演習」が実施されて住民の外出を禁じ、憲兵や警官、海兵団2000名余りが投入されている。
船台で建造された軍艦は、そのまま海面へと滑走して進水するのだが、「[[武蔵]]」の場合は艦体だけで3万トンという前代未聞のトン数である。
担当者たちはこの巨艦が無事に進水するよう、相当な苦労を払っており、無事に進水を終えたときには号泣したという。
なお、進水の影響で周辺の海岸に高波が発生。&bold(){周辺の河川は水位が30センチも上昇し、床上浸水の被害も報告された。}
「[[武蔵]]」進水の様子が撮影されたフィルムが存在したが、終戦時に焼却処分されている。
進水を終えた「[[武蔵]]」は客船・春日丸(後に徴用され、特設空母「大鷹」となる)に隠れて移動し、艤装工事に入った。
「[[大和]]」で判明した不具合の改善や、旗艦設備の充実を図ったため完成はやや遅れ、1942年8月5日にずれ込んだ。

*<聯合艦隊旗艦となる>
#ref(musashi01.jpg)
トラック泊地に憩う大和型姉妹。右側が「武蔵」。艦中央の白いものは日よけの天幕。

[[「武蔵]]」は横須賀鎮守府に編入され、訓練と最終調整を行った。
1943年になると、空母「[[瑞鶴]]」「[[瑞鳳]]」、軽巡「[[神通]]」や駆逐艦と共に南方トラック諸島へ進出。
到着した「[[武蔵]]」は2月11日をもって聯合艦隊旗艦の任を大和より継承。山本五十六長官を艦上に迎える。
しかし、この僅か2か月後に山本長官はブーゲンビル島上空で戦死。4月23日、長官の遺骨が「[[武蔵]]」へと戻ってきた。
新長官・古賀峯一大将を迎えた「[[武蔵]]」は、5月17日に戦艦「[[金剛]]」「[[榛名]]」、空母「[[飛鷹]]」、重巡「[[利根]]」「[[筑摩]]」、他3個の駆逐隊を率いて横須賀へと帰還した。
この際山本長官の遺骨を日本を持ち帰っており、これが「[[武蔵]]」の初任務となった。
6月24日には昭和天皇が行幸。開戦以来、天皇陛下が軍艦に乗艦されるのは初めてのことであり、思わぬ栄誉に艦内は活気づいたという。
7月には再びトラックへ進出。この後は大和同様、出撃の機会も無くトラックに巨体を浮かべる毎日で、&bold(){「武蔵屋旅館」「武蔵御殿」}と揶揄される。
乗員の方も、食糧事情を改善すべく手の空いたものがトラック島で畑を耕し、野菜を作って暮らしていた。この畑は&bold(){「武蔵農園」}と呼ばれた。
10月にはマーシャル方面に米機動部隊出現の報を受けて出動、9日間も待機するが空振りに終わる。ただでさえ貴重な燃料を大量に消費し、&bold(){「聯合艦隊の大散歩」}と馬鹿にされた。
この後、「[[武蔵]]」は&bold(){甲板を黒に近いネズミ色に塗装}した。1944年1月の時点で既に甲板は黒く、甲板掃除を行わなくなったという複数の証言がある

年が明けた1944年2月。「[[武蔵]]」は一端横須賀に帰港して水戸の陸戦隊を乗せ、パラオへと向かった。
パラオ到着後、日本海軍は米軍のパラオ空襲を察知し、古賀長官は飛行艇でダバオへと移動した。
「[[武蔵]]」も退避を開始したが、この時米潜タニーの雷撃を受け左舷前部を損傷。しかし航行には全く支障なく、艦後部に居たものは被雷したことさえ気が付かなかった。
この損傷修復のため「武蔵」は行き先を変更して呉へ入港。損傷修理と対空兵装の増備、電探装備の工事を受けた。この時、両舷の副砲が撤去されている。

*<マリアナ・レイテの戦い>
改装を終えた5月4日。「[[武蔵]]」は聯合艦隊旗艦の任を軽巡「[[大淀]]」に移譲。「[[武蔵]]」が聯合艦隊旗艦を務めた最後の戦艦となった。
その数日後には呉を出港、一路タウイタウイ泊地を目指した。
この時トラック諸島は大空襲により基地機能を失っており、聯合艦隊は米艦隊との決戦に備え、同泊地に集結していた。
6月13日、艦隊はマリアナ沖に向け出撃するも、19日のマリアナ沖海戦は大敗に終わり、新鋭空母「[[大鳳]]」と歴戦の空母「[[翔鶴]]」、軽空母「[[飛鷹]]」を失った。
同海戦で「[[武蔵]]」は空母の護衛として前衛部隊に所属していたが、特に活躍の場はなかった。
「[[武蔵]]」はこの後一度日本に帰港し、7月8日に陸軍兵と物資を満載して呉を出港した。これが、最後の日本寄港だった。
16日にはリンガ泊地に到着。同泊地で猛訓練に明け暮れた。

10月、フィリピンへと上陸した米軍を撃破すべく、「捷一号作戦」が発動された。
「[[武蔵]]」ら主力艦隊に与えられたのは、レイテ湾の輸送船団および上陸部隊を撃滅することであった。
10月18日に艦隊はリンガ泊地を出港、ブルネイへと移動し出撃前の燃料補給を行った。この時、「武蔵」は艦体の塗り替えを行ったという。
22日に艦隊は旗艦「[[愛宕]]」に率いられてブルネイを出撃。パラワン水道、シブヤン海を経てレイテを目指す進路を取った。
しかし翌日早朝、艦隊はパラワン水道で米潜水艦の待ち伏せに遭い、「[[愛宕]]」と「[[摩耶]]」が被雷して轟沈。「[[高雄]]」大破という損害を被った。
「[[武蔵]]」は駆逐艦「秋霜」が救助した「[[摩耶]]」の乗員を収容している。

そして運命の10月24日。シブヤン海に差し掛かった艦隊に、米機動部隊の艦載機が襲いかかった。
以降、箇条書きで記す。

#ref(musashi02.jpg)
激しい空襲に晒される「武蔵」

第一次空襲(10時25分~10時27分 17機来襲)
一番主砲塔天蓋に爆弾が命中するも、跳ね返し被害なし。至近弾により艦首水線下に僅かな浸水。被雷による浸水で右舷に5.5度傾斜し、衝撃で前部主砲射撃方位盤が故障。
注排水で傾斜1度まで回復したが、方位盤の故障で主砲斉射が不可能となり、砲塔側の各自砲撃のみとなる。
被弾1、被雷1、至近弾4。

第二次空襲(11時38~11時45分 16機)
250kg爆弾2発が左舷艦首と左舷煙突横の高角砲付近に直撃。後者は甲板を貫通して爆発し、第2機械室の蒸気管を破壊。四軸運転が不可能となり三軸運転・最大速力が22ノットとなる。
被雷による浸水で今度は左舷に5度傾斜。注排水により左舷1度に回復したが、艦首が2m沈降。速力を減じたことで、艦隊から落伍し始める。
被弾2、被雷3、至近弾5。

第三次空襲(12時17分 13機)
右舷中央部に被雷し、測程儀室ち測探儀室が破壊される。至近弾により艦尾クレーン支柱損壊。
被弾0、被雷1、至近弾3。

第四次空襲(12時23分 20機)
右舷艦首側に直撃弾。続けざまに両舷に被雷。右舷に大きく傾斜するも、注排水により回復。
最大速力16ノットに低下。艦隊より完全に落伍し、司令部から「付近の港に退避か浅瀬に乗り上げて応急処置せよ」の下命。
重巡「[[利根]]」、駆逐艦「浜風」「清霜」が護衛に付く。
被弾4、被雷4。

第五次空襲(13時15分 0機)
敵機は「[[大和]]」と「[[長門]]」に攻撃を集中。特に被害なし。

第六次空襲(14時45分~15時21分 75機)
集中攻撃を受け、上部構造物が大破し大火災。艦長が重傷を負ったほか、艦橋要員に死傷者多数。
これが最後の攻撃となった。
被弾10以上、被雷11以上、至近弾6以上  計被弾17以上、被雷20以上、至近弾18以上。

6度に渡る攻撃で「[[武蔵]]」は満身創痍となった。相次ぐ注排水により艦の沈降は著しく、一番砲塔左舷側まで波に洗われるほどだった。
しかし「[[武蔵]]」はこれでも沈まなかった。17時30分ごろには1軸運転が可能となり、6ノットを発揮することが出来るようになる。
艦隊司令部は「[[島風]]」に「[[摩耶]]」の生存者を移譲させると、駆逐艦2隻に引き続き護衛を命じて「[[利根]]」を復帰させ、「[[武蔵]]」にコロンへ向かうよう指示した。
いくら浮いているとはいえ、「[[武蔵]]」は満身創痍だった。そこで艦長はシブヤン海北岸に座礁させることを決意したが、浸水により機械が停止。遂に万策尽きてしまった。
19時15分には傾斜が左舷12度になり、沈没は時間の問題となった。艦長は総員退去用意を命じ、軍艦旗を降下。
19時30分、遂に傾斜が30度となり総員退艦が発令された。艦長は遺書と形見のシャープペンを託すと、一人艦長休憩室に閉じこもった。
5分後、「[[武蔵]]」は左に横転して艦首から沈み始めた。沈没によって凄まじい渦流が巻き起こり、まだ近くに浮いていた乗員たちの多くが巻き込まれた。
そして艦内で二度の爆発を起こしながら、「[[武蔵]]」は暗いシブヤン海に没していった。
#ref(Musashi sank.jpg)
駆逐艦「磯風」から撮影された「[[武蔵]]」の最期の写真。前方から沈みかけているが、煙突の煙から、機関は無事であることが分かる。
この後、機関も停止し、「[[武蔵]]」は沈没した。

<逸話>
○機密保持には細心の注意が払われたが、それでも設計図紛失事件などが起きている。
○大和型の識別点はかなり少なく、乗員ですら艦を間違えることが多々あった。
 ある日「大和」で点呼を取ったところ、人数が一人多い。所属の艦を問いただすと「武蔵」の者だったということがあった(艦名逆?)。
 なお、大和型の数少ない識別点の一つは「艦橋背部に設けられたラッタル(鉄階段)の踊り場の数」である。
○1944年2月にパラオへと向かう途中、「武蔵」以下の艦隊は台風に遭遇。護衛の駆逐艦が波に翻弄される中、「武蔵」は甲板を波に洗われながら平然としていた。
 駆逐艦が堪らず「ワレ同行デキズ」と信号すると、「武蔵」は「ワレ単独デ進行ス 後続セヨ」と返し一人さっさと進んでいったという。
○最後の出撃前に艦体を塗り替えた「武蔵」だが、「死に装束」「囮になるつもりだ」と不吉に思った者が多かった。
○「武蔵」が受けた損害は、軍艦史上最大である。しかも「撃沈」ではない。要因は多数あるが、軍艦としてはとんでもないタフさを発揮したことは確かである。
○実は「武蔵」の戦闘詳報は艦橋要員の死傷もあり疑問点も多く、生存者の証言もバラバラ。米軍は爆弾44発、ロケット弾9発、魚雷25本を命中させたとしており、日本側の記録よりも多い。
○大和型戦艦の写真は、「[[大和]]」が遠くから撮られたものが多い一方、「[[武蔵]]」は艦内から撮られたものが多く、全体像がハッキリした写真が少ない。
----
|>|>|艦歴|
|>|>|大日本帝国海軍|
|発注|1937年09月08日|第三次海軍軍備補充計画(マル3計画)第2号艦|
|起工|1938年03月29日|於三菱重工業長崎造船所|
|進水|194年11月01日|大和型戦艦二番艦“武蔵”と命名|
||1941年07月01日|佐世保に回航。主舵、推進器装備|
||1941年08月02日|長崎に帰着|
||1942年05月20日|第一水雷戦隊駆逐艦「暁」「響」に護衛され、呉に移動|
||1942年06月~07月| 佐田岬沖で公試。6月22日、27.5ノットを記録。「大和」より若干良成績|
|竣工|1942年08月05日|呉海軍工廠にて竣工。横須賀鎮守府籍に編入。|
||1942年10月15日|電探試験|
||1942年10月28日|実弾射撃演習。距離41,500mで射撃を行うが主砲発射の衝撃でレーダーが故障、調整を行う|
||1943年01月18日|呉を出港。空母「瑞鶴」「瑞鳳」、軽巡洋艦「神通」、駆逐艦4隻とトラック島泊地へ向かう|
||1943年02月11日|連合艦隊司令長官山本五十六が乗艦。連合艦隊の旗艦となる。東久邇徳彦王、武蔵を退艦|
||1943年04月18日|山本五十六長官が戦死(海軍甲事件)。23日、山本の遺骨と宇垣参謀長が戻る|
||1943年04月26日|古賀峯一大将、連合艦隊長官として武蔵に赴任|
||1943年05月17日|第三戦隊戦艦「金剛」「榛名」、第二航空戦隊空母「飛鷹」、第八戦隊重巡「利根」「筑摩」、&br()第六一駆逐隊、第二七駆逐隊、第二四駆逐隊とともに山本長官の遺骨を乗せてトラック島から横須賀へ帰還。|
||1943年05月22日|木更津沖に投錨。翌日、山本長官告別式|
||1943年06月24日|昭和天皇行幸。高松宮宣仁親王、木戸幸一内大臣以下32名が随行し、約3時間滞在|
||1943年07月31日|長崎沖から第五戦隊「妙高」「羽黒」、軽空母「雲鷹」、軽巡「長良」、駆逐艦「曙」と共にトラック島へ向かう。&br()同日、米潜水艦スティールヘッド (USS Steelhead, SS-280)が武蔵を雷撃するも失敗|
||1943年08月05日|トラック泊地到着。前線に出撃しないため『武蔵御殿』と揶揄された|
||1943年10月17日|マーシャル方面に米機動部隊出現の報告を受け、迎撃に出動。&br()だが9日間待機しても米機動部隊は出現せず、トラックに帰投。「連合艦隊の大散歩」と揶揄された。&br()この頃、不燃対策として家具を撤去し、甲板を黒に近いネズミ色に塗装した。|
||1944年02月10日|軽巡洋艦大淀、駆逐艦白露以下4隻と共にトラック泊地を出港。15日、横須賀に帰還|
||1944年02月24日|陸軍部隊輸送に参加。29日パラオに到着|
||1944年03月29日|パラオ空襲から事前退避する途中、米潜水艦タニー(USS Tunny, SS/SSG/APSS/LPSS-282)が武蔵を雷撃。17時45分、魚雷1本が並走するように武蔵の左舷艦首部に命中。&br()艦後部にいた者は魚雷命中に気付かず、武蔵は24ノットに増速して退避した。浸水2630t、戦死者7名、負傷者11人の被害を出して4月3日に呉に到着。&br()直径7-8mの破孔が開いたが損傷は限定的であり、修理は順調に進んだ|
||1944年04月22日|呉で対空戦闘の為の改装工事完了。25mm三連機銃18基増設|
||1944年05月04日|軽巡「大淀」に連合艦隊旗艦を譲る|
||1944年05月11日|第二航空戦隊空母「隼鷹」「飛鷹」「龍鳳」、第三航空戦隊空母「千歳」「千代田」、第十戦隊第四駆逐隊、第二駆逐隊と共に日本を離れる|
||1944年05月16日|タウイタウイ泊地に到着|
||1944年06月10日|ビアク島に上陸した米軍を迎撃する第三次渾作戦に参加、「大和」と共に出撃|
||1944年06月12日|ソロン沖バチャン泊地に集結する|
||1944年06月15日|あ号作戦(マリアナ沖海戦)に参加|
||1944年06月24日|日本に戻り、桂島錨地に停泊|
||1944年07月08日|陸軍兵と資材を艦体が2m沈下するほど搭載し、南方へ向かう。16日、リンガ泊地に到着|
||1944年10月18日|リンガ泊地を出港し、20日ブルネイに入港|
||1944年10月22日|捷一号作戦(レイテ沖海戦)に参加すべく、ブルネイを出撃|
||1944年10月23日|パラワン水道にて重巡「摩耶」の乗組員769名を救助|
|沈没|1944年10月24日|米軍機の集中攻撃により、推定魚雷20本、爆弾17発、至近弾20発以上を受け、シブヤン海にて沈没。&br()戦死者は猪口敏平艦長以下1023名、生存者1376名|
|除籍|1945年8月31日|除籍|
----
*台詞一覧
----
|状況    |台詞|関連する史実や元ネタ、解説など|
|自己紹介|フッ、随分待たせようだな……。大和型戦艦2番艦、武蔵、参る!|ドロップ時の文面では「待たせ『た』」が抜けている|
|秘書クリック会話①|よろしくな||
|秘書クリック会話②|どこを見ている?私はここだぞ?||
|秘書クリック会話③|フッ、おいで?遊んで欲しいのかい?||
|戦績表示時|通信を報告する。心して聞け||
|編成選択時|この戦、武蔵に任せてもらおうか!||
|装備時①|うーん、悪くないな||
|装備時②|そうか。さらに強くなるのだな||
|装備時③|えらいぞ!||
|>|>|(マップ選択・資材発見・修復剤使用・装備開発と装備時③は共通)|
|ドック入り|ちょっと、汚れを落とすかな||
|ドック入り(重傷)|さぁ、ひとっ風呂浴びてくるか||
|建造時|新しい娘が来たようだ。いってやれ||
|艦隊帰投時|作戦完了。艦隊、帰投だ||
|出撃時|旗艦武蔵、出撃する!||
|戦闘開始時|この武蔵の主砲、伊達ではないぜ!|大和同様46cm三連装砲が積まれていたが一度も使わずに沈んでしまった|
|航空戦開始時|-||
|攻撃時|遠慮はしない、撃てぇ!||
|夜戦開始時|あっはは!面白いなぁ。逃げられるとでも?||
|MVP時|私は大和型。その改良二番艦だからな。当然か。しかし、礼は受け取ろう|「大和」の不具合改善の他、旗艦機能が強化されている|
|被弾小破①|そんな攻撃、蚊に刺されたような物だ!|大和型にとって1~2本の魚雷は大したものではない|
|被弾小破②|くっ、いいぞ、当ててこい!私はここだ!|「武蔵」もまた、被害担当艦となった|
|被弾カットイン|まだだ…まだこの程度で、この武蔵は…沈まんぞ!|推定雷撃20本、爆弾17発、至近弾20発以上という軍艦史上最多・空前絶後の損害を受けたにも関わらず9時間以上浮き続け米軍を驚かせた|
|撃沈時(反転)|COLOR(white):みんなの分まで、この武蔵が攻撃を受け止められたのなら…まぁ、私は…満足だ…。|COLOR(white):レイテ沖海戦直前に明るい色に塗り替えた為連合国軍側から目立ち、実質「栗田艦隊被害担当艦」として連合国軍の攻撃を一手に負い沈んでいった|

|時間|台詞|関連する史実や元ネタ、解説など|
|00:00|この武蔵が深夜0時をお知らせする||
|01:00|1時か…。こんな時間まで、熱心な物だ||
|02:00|2時だ。その集中力、立派な物だ||
|03:00|提督よ、3時だ。この武蔵…うたた寝などは…||
|04:00|4時か。今日は、提督は寝ずの番なのか?||
|05:00|5時になったなぁ。朝は、嫌いではない||
|06:00|6時か。明るくなり始めたか||
|07:00|7時だ。提督よ、朝も元気だな||
|08:00|提督は提督だったな。失礼、現在、時刻は8時だ||
|09:00|9時だな。そういえば、大和はこの艦隊にもういるのか?||
|10:00|10時、大和もいるならそれはすごい。奴は案外、恥ずかしがり屋だからな。なかなかでてこないだろう|大和型は国家機密であり存在自体が秘匿された=箱入り娘?|
|11:00|11時だ。何か問題か?大丈夫。この武蔵に、全て任せておけ||
|12:00|昼飯の時間だな。…何だ?皿うどんとかたべたいな。ああ、懐かしいな|皿うどんとは武蔵の故郷である長崎県の郷土料理である|
|13:00|午後1時だ。最近は、やたらでかいハンバーガー?とやらも流行っているそうだな。食べてみたいもんだ|佐世保バーガーは佐世保鎮守府跡に進駐した米海軍から広まったのが始まり|
|14:00|午後2時、午後の仕事を始めるぞ||
|15:00|3時か。間宮に、カステラとか、作ってもらっても、いいかも…|長崎はカステラの本場である|
|16:00|午後4時か。よし、まだまだいけるな||
|17:00|午後5時だ。夜に目を慣らしておけ|夜戦は帝国海軍のお家芸|
|18:00|午後6時か…。チッ、そろそろアクセスが増えてくるぞ。覚悟しとけ|COLOR(white):メタ発言①|
|19:00|午後7時だ。おう提督よ、夕飯はどうするんだ?一緒するか?||
|20:00|午後8時か。摩耶のやつ、ちゃんとやってるかい?|「武蔵」は「摩耶」の生存者を収容している|
|21:00|午後9時。何だ?島風よ。私は無事だぞ?|「島風」は「武蔵」から「摩耶」生存者を引き継いだ|
|22:00|午後10時、後かたづけも、作戦の内だ!||
|23:00|午後11時か、・・・夜戦も程々にな||
|放置時|提督よ、忙しいなら、ブラウザを閉じるのもまた、提督のあり方だ。なに?次の戦略を考えているだと?それはすまなかった|COLOR(white):メタ発言②|

----
*コメント
最新の30コメントを表示しています。
#comment_num2(num=30,disableurl,log=コメント/武蔵)

----
*タグクラウド
#tag_cloud(sort=num)

----
*関連ページ
#related(sort=timestamp)

----


▼wikiレンタル代価広告

復元してよろしいですか?