卿とは、
天子及び
諸侯に仕える臣。
公・卿・
大夫・
士の序列の第二位の身分とされる。
周王の制度では、最高位にある
公(
三公)は政事の実務を執らないと説かれ、諸侯は「公」の身分自体を持たないので、
卿が属官を持って執務を司る大臣に相当した。
六卿、
九卿等とも称されるが、
秦以降の「卿」は必ずしも特定の六人、九人のみを示す称号ではなく、高位の職官・爵位グループを示す総称となった。漢代以降の
秩石にして中二千石に相当する。
周(経書における)
秦
秦の爵制にも「卿」(正卿)及び
客卿なる身分があり、それは
二十等爵制での第十級
左庶長と第九級
五大夫の間に存在したという。
客卿は、その名の通り秦の高官の推薦を受けて秦に入って来た「客」であり、その身分のままで秦の軍事に参与することもあった。功績を挙げて認められれば「(正)卿」となって、相応の爵位や官位を得ることが出来た。
前漢
と、漢王朝の臣のうち一つのグループを示すものとして認められている。
文帝元年には、
「もろもろの朕に従いし六人、官みな
九卿に至らせよ」
と、官吏中の特定グループとしての「九卿」の名称が既に見られる。しかし、「
主爵都尉と為り、九卿に列す(汲黯伝)」、「九卿に至り、
右内史と為る(鄭當時伝)」に見られるように、前漢での「九卿」は必ずしも「九人の卿」を指すものではなく、
秩石中二千石の官吏グループを指す総称だったことがわかる。
また、
景帝後元年、
吏の
秩石中二千石の者に
右庶長(第十一級)の爵が賜られる。これは
武帝期以降、
立太子の折の定例になる。「官制の卿」と「爵制の卿」との連動だが、あくまでも前漢代を通じて数度のものであり、官位と爵位は必ずしも同調するものではなかった。
後漢初
後漢以降
尚書らを用いて皇帝が下部の諸官を直属的に扱う傾向を強めると、後漢・魏晋において「九卿」の政務上の権限は低下を続ける。しかし一方で、
晋武帝太康四年に至っても「九卿の
礼秩を増」して「給九卿の朝す車駕を四、及び
安車を各一乗を給」した記事があるように、儀礼序列に於いては
三公と共にその威儀を守り続けた。
魏晋において、
尚書や
録尚書事、
将軍、
都督といった官が台頭し政事軍事の実権を握る一方で、彼らを儀礼秩序の中に位置づけ、権威を与え、引いてはその上位にある天子の権威をいや増すためにも、古官である公・卿の地位と威儀は確固としたものでなければならなかったのである。
例えば
魏明帝曹叡が
征南将軍の位が高く任が重いことからその儀礼上の地位を
特進に準じようとした際に
高堂隆が反対して、
秩の中二千石に比す者、その朝に入り覲えては、宜しく卿の執羔に依るべし。金紫将軍は中二千石を秋わり、卿と同じい。
と、卿及び中二千石を基準にして征南将軍が高位に昇ることを阻止した。魏晋においては言わば実務官と儀礼官の分化が進み、天下の統治と、それを行う官吏・諸侯の秩序構築を相輔する形で進めようとしたのである。
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関連項目・人物
参考
小林聡氏『西晋における礼制秩序の構築とその変質』(『九州大学東洋史論集』30)
楯身智志氏『秦・漢代の「卿」--二十等爵制の變遷と官吏登用制度の展開』(『東方学』116)
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最終更新:2015年02月27日 22:37