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戦隊

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戦隊 03/11/06

  戦隊ものというジャンルの子供向け番組がある。

  手前もかつて見ていた記憶があるが、あれは大体毎年連綿と続いていて、しかし毎年微妙にタイトルが変わっているので「なにレンジャー」だったかは定かではない。これがアメリカに輸出されて変身前のシーンだけあちらの役者を使って再構成して放映されているという話もある。「ジュウレンジャー」の「ジュウ」がユダヤの蔑称であるから「パワーレンジャー」に変更されたとか女が一人では政治的に好ましくないからもう一人入れて六人編成になっているとかわけのわからない情報をどこで仕入れたのか覚えていないにも関わらず、すらすら出てくるのは我ながら気持ち悪い。

  最初に下らないドラマがあって、視聴対象の子供が感情移入出来るように子供が出てきて、色気でもなんでもないのに子供から見ると稚拙な背徳感を刺激する姐ちゃんがいて、そして何しろ制限時間があるから、やや強引に怪獣が出てくる。色々悪さをする怪獣を退治するために伸びの良さそうなポリエステル地の服に変身して、まあ、子供心にあんなもので変身とは呼べないとか、攻撃されたら普通破れるよなとか思わせる暇なく無理矢理話が展開してゆく。

  この手のヒーローものは必ず最後に正義が勝つことになっているが、その過程で必ず苦境に陥ることになっている。それだけ悪役が強くなければ怪獣一匹に集団で対抗するという話が成立しないわけだが、強いにしてはヒーロー側の最後の必殺技でわざとらしくあっさり爆発する。果たして怪獣は爆発する必要があるのだろうか。また爆発する能力があるのだろうか。

  他愛ないといえば他愛ない内容なのだが、実はこの戦隊ものが、「いじめ」の組織化・巧妙化・凶暴化を誘発助長しているという説がある。何にでも言い掛かりをつけて何か反応があれば「世の中を変えた」と自己満足に浸る究極の暇人が提唱したものではなくて、まともな人が「半分冗談半分もしかしたら」と出た話であるが、半分冗談としてもその仮説捨て難いのは何故だろうか。

  連帯や人の和を重視するなら五人で組んで悪に立ち向かう構図は大変好ましい。しかしあれの視聴対象の子供が悪を「先生」「親」ではなく、仲間外れの一人に設定することは、必要悪・巨悪の存在を知らない純真な心として当然の帰結である気もする。真似してみたい気持ちを満足させる為目の前にある手頃な対象を怪獣として、子供は遊びのつもりだ。

  大人が見ても一見ただの遊びにしか見えないところが怖い。怪獣役になってしまった子の心痛は如何ばかりであろうか。怪獣役が次々変わってゆくならまだ問題はなかろうが固定されてしまっている場合、それぞれどんな大人になるのだろう。

  子供はテレビの真似をする。子供は大人の真似をする。何故ならばそれしか世界を知らないものだから、それを世界のルールと思ってしまうのだ。大人でも知らないことは出来ないのだから、子供であればその傾向は当然加速される。「知らないことに挑戦してやり遂げること」を学んだ大人など、その辺には歩いていないし、子供にそれを学ばせるのは難しい。つまり日常大人の親の兄の姉の言動の中にも「いじめ」の構図や話・愚痴が無意識に出てはいないだろうか。

  親は子の鑑となるべきである。子は親の鏡なのだから。山本夏彦の言葉だった。

 
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