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愛 04/11/29

  愛とは何か。

  それが明確に理解出来るならば誰も苦労はしないわけで、有史以来文字の形で様々に紛糾してきた。明確な言葉で定義されたことがなく、この先も合理的に説明されないだろう「愛」とは一体何であるのか。

  狭義の愛は性欲を飾る言葉として使われるが、広義の愛は「慈しみ思い遣るあたりの心である」と焦点を甘く取って解釈の可能性が拡げられているのであって、明快な定義が不可能であることを間接的に告げている。そして一般論としての愛は溢れ返っている上で言い尽くされた挙句の結論として「人それぞれ」という便利な言葉で片付けられるのであり、数世紀を経て未だ合意されていない設問が解ける筈などない。

  ある何かに対しての愛と限定されるならば、その対象に尽くすことが具体的な愛の表現と考えられる。ただし「尽くすこと」の意味を自己犠牲と考えるか滅私奉公と考えるか、そこが愛と憎しみの分岐点であり、考え方次第で愛の指し示す範囲が伸縮することを示している。

  では再び、愛とは何か。普段は見たり聞いたり感じたりは出来ないが、文字通りの危機的状況に於いて意識無意識に関わらず何かを思ったり行動したりする対象が最も大切なものであり、そこに愛があると考えればよいのではないか。

  しかしながら始終危機的状況を仕組んでおいて常に愛の存在を確かめようとする傍迷惑な性格の人は愛されることが少ないわけで、無理に確かめようとして壊れる程度ならば贋物であるが、無理に確かめようとする行為に愛はないだろうと思える。では如何にして確かめればよいのかが問題になるが、確かめねばならない必然性は本当にあるのだろうか。

  必然性はない。ただし真実の愛を確かめる手段がいつまでも探せずにいるならば、愛とは何かをいつまでも悩み続けることになる。面倒だから「それも含めて愛なのさ」と言いたくなるが、それで誤魔化せる相手ならそもそも悩んだりはしない。その場合たとえ確かめる術を持たなくとも大切に思う心を持っているなら愛を捜す必要はなく、そして大切に思う心が感じられない場合そこに愛はないと考えればよいのだ。

  ただ手前の個人的な考えでは、対象や目的に関わらず「献身」がそのまま愛と呼んで差し支えないのではと思う。
 
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