相国寺 - (2008/09/02 (火) 16:51:15) の1つ前との変更点
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか
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&sizex(5){&color(red){概略}}
&bold(){相国寺}(しょうこくじ)は、京都市上京区にある[[臨済宗]]相国寺派大本山の寺院。山号は万年山、本尊は[[釈迦如来]]、開基(創立者)は[[足利義満>足利氏]]、開山(初代住職)は[[夢窓疎石]]である。[[足利将軍家>足利氏]]ゆかりの禅寺であり、[[京都五山>五山制度]]の第二位に列せられている。五山文学の中心地でもあり、画僧周文や[[雪舟]]を輩出した。また、境内には13の塔頭寺院があり、[[鹿苑寺>金閣寺]]([[金閣寺]])、[[慈照寺>銀閣寺]]([[銀閣寺]])は相国寺の境外塔頭である。
&sizex(5){&color(red){歴史}}
室町幕府3代将軍[[足利義満>足利氏]]は、いわゆる「花の御所」の隣接地に一大禅宗伽藍を建立することを永徳2年(1382)に発願。竣工したのは10年後の明徳3年(1392)であった。寺名の相国は「国を相(たす)ける人」から来ており、中国では宰相、日本では太政大臣の意味になり、太政大臣にまで登りつめた[[義満>足利氏]]によって建てられたことが所以という。[[義満>足利氏]]は禅の師であった[[天龍寺]]の[[春屋妙葩]]に開山となることを要請したが、[[春屋>春屋妙葩]]はこれを固辞。師である[[夢窓疎石]]を開山とし、自らは第二世住職になる、という条件でようやく引き受けた。[[義満>足利氏]]が伽藍建立を発願する30年以上前に死去している[[夢窓疎石]]が開山とされているのは、このような事情による。[[春屋妙葩]]も相国寺伽藍の完成を見ずに嘉慶2年(1388)に没している。相国寺は京都最大の禅宗寺院のひとつとして、また五山文学の中心地として栄えたが、たびたび火災に見舞われた。伽藍完成からわずか2年後の応永元年(1394)に早くも全焼。直ちに再建に着手され、同6年(1399)には高さ360尺(約109m)におよぶ七重大塔が建立された。岡崎の法勝寺の塔にも勝るといわれ、落慶供養には千人の僧侶が招かれ、[[青蓮院]]門主尊道法親王が導師となり、御節会に準じて盛大に行われたという。しかし[[義満>足利氏]]没後の応永32年(1425)にも再度全焼、応仁元年(1467)には[[応仁の乱]]の細川方の陣地となったあおりで焼失。天文20年(1551)にも管領細川家と三好家の争いに巻き込まれて焼失する。天正12年(1584)、相国寺の中興の祖とされる西笑承兌(せいしょうじょうたい)が住職となり、復興を進めた。[[豊臣秀吉>豊臣氏]]は寺領として千三百余石を献上し、[[秀頼>豊臣氏]]は法堂を、[[徳川氏]]は三門を寄進した。後水尾上皇は旧殿を下賜して方丈と宝塔、開山塔を再興し、ようやく旧観に復するに至った。現存する法堂はこの時期に建立されたものである。その後も元和6年(1620)に火災があり、天明8年(1788)の「天明の大火」で法堂以外のほとんどの堂宇を焼失した。現存の伽藍の大部分は19世紀はじめの文化年間の再建である。
&sizex(5){&color(red){伽藍}}
***法堂(無畏堂)
慶長10年(1605)に[[豊臣秀頼>豊臣氏]]の寄進により再建された。入母屋造、本瓦葺で、正面約29m、側面約23m。日本にある法堂建築としては最古のもの。内部には正面に高い階段を三方にそなえた須弥檀があり、中央には本尊の[[釈迦如来]]像と迦葉(かしょう)・阿難両尊者が祀られている。天井に描かれている[[狩野光信>狩野派]]による「蟠龍図」は「鳴き龍」として有名。なお西の壇には達磨・臨済・百丈・[[夢窓疎石]]が、東の壇には大権修利菩薩・[[足利義満>足利氏]]像がまつられている。
***勅使門
境内の南正面に建つ四脚門で、木鼻や蟇股等の建築様式から桃山時代の遺構と見られる。普段は閉じられており、一般の出入りは東隣にある総門(薬医門)が使われている。
***開山塔
開山[[夢窓疎石]]を祀る堂で、桃園天皇の皇后、恭礼門院の御殿を文化4年(1807)に移築したもの。内部には[[円山応挙]]一派の筆になる襖絵がある。前庭は切石でふち取った地に白砂を敷き、石組を配した[[枯山水庭園]]。背後に築山を設け、その間を水が流れるようになっていた。この流れは今出川の一部で「龍渕水」と称し、開山堂を出てからの水路を「碧玉溝」という。
***方丈
文化4年(1807)の再建。桟瓦葺で桁行約25.5m、梁間約16m。内部には原在中筆「中国菩陀洛山図」「琴棋書画図」や[[土佐派]]による「吉野山桜図」などが飾られている。また方丈には前庭と裏庭のふたつの庭があり、前庭は白砂を敷き詰めた造りで、禅の根本である「本来無一物(執着すべきものはひとつもない)」を表す典型的な禅宗前庭。裏庭は深山幽谷を象った[[枯山水庭園]]で、苔が美しい。
***庫裏
天明の大火後の文化4年(1807)の再建。禅宗寺院特有の切妻造、本瓦葺の建物で、妻を正面とし、正面左寄りに唐破風に桟唐戸をつけて仏堂風とする。入り口の土間には大きな竈を設け、複雑に組まれた天井の巨材を通して上方に煙出しを設けている。
***経蔵
安政6年(1859)に相国寺第120世盈冲和尚の寄進により建立された。高麗版一切経が納められている。
***浴室(宣明)
平成14年(2002)6月に復元修復された。宣明とは「大唐五山諸堂図」の中で風呂を描いた「天童山宣明様」という図にあるように、浴室の別名。禅宗では「威儀即仏法」といい、日常の立ち居振る舞いすべてが修行であり、「心」と「体」の垢を落とすという意味で重要である。
***承天閣美術館
相国寺に加え、[[鹿苑寺>金閣寺]]([[金閣寺]])や[[慈照寺>銀閣寺]]([[銀閣寺]])などの関連寺院の文化財を収蔵展示する施設で、昭和59年(1984)に開館。[[伊藤若冲]]による[[鹿苑寺>金閣寺]]大書院の障壁画をはじめ鎌倉から江戸期にわたる墨蹟や絵画、工芸品など、国宝4点と重要文化財111点を含んだ数百点を収蔵する。
&sizex(5){&color(red){主な塔頭}}
***光源院
相国寺第28世元容周頌によって応永28年(1421)に創建された塔頭寺院。はじめは広徳軒と号していたが、永禄8年(1565)に室町幕府13代将軍[[足利義輝>足利氏]]の菩提寺となり、[[義輝>足利氏]]の法号(光源院殿贈一品左相府融山道圓大居士)により光源院と改称された。本堂襖12面には日本画家水田慶泉による龍虎、牛、馬、蛇などの十二支に因んだ動物が描かれている。また墓地には姫路藩主池田輝政の母善応院と、同家臣荒尾但馬守および相国寺の画僧維明周奎の墓がある。通常非公開。
***林光院
応永24年(1417)、[[足利義満>足利氏]]の第2子である[[足利義嗣>足利氏]]の菩提を弔うために、[[夢窓疎石]]を勧請開山として、西ノ京の紀貫之邸跡に創建された。[[秀吉>豊臣氏]]の時代に現在の地に移ったとされる。境内の鶯宿梅は「軒の紅梅」ともいい、名木のひとつに数えられている。方丈と庫裏は、近江国仁正寺(現滋賀県蒲生郡)藩主、市橋氏の邸宅を、大正7年(1918)に移築したもの。通常非公開。
***瑞春院
作家水上勉が小説「雁の寺」に描いた塔頭寺院で、今も雁の襖絵8枚が本堂上官の間(雁の間とも)に残っている。本尊は[[阿弥陀三尊>阿弥陀如来]]来迎像。南北ふたつの庭園があり、南庭は室町期の石組が残る[[枯山水庭園]]「雲頂庭」、北庭は[[夢窓疎石]]の作風をとりいれた[[池泉観賞式>池泉回遊式庭園]]で、[[表千家>千家]]の不審庵を模して造られた茶室「久昌庵」がある。水琴窟や大茶盛でも有名。拝観は要申込。
***慈照院
相国寺第13世在中中淹の塔所で、はじめ大徳院と称した。延徳2年(1490)に室町幕府8代将軍[[足利義政>足利氏]]の塔所となり、その法号をとって慈照院と改められた。本尊[[は十一面観音]]像。江戸初期の草庵風害院造である書院「棲碧軒(せいへきけん)」は寛永9年(1632)に桂宮家の御学問所を下賜されたものといわれ、茶室「頤神室(いしんしつ)」は[[千宗旦>千家]]が智忠親王のために創設した四畳半台目の席。席内には持仏堂があり、[[利休>千家]]の像を安置する。この像は当時、公然と[[利休>千家]]を祀れなかったため、機に応じて布袋の首と挿げ替えられる仕掛けになっている。院内墓地には八条宮智仁・智忠親王以下、桂宮家および広幡家累代の墓がある。拝観は要申込。
***大光明寺
暦応2年(1339)に後伏見天皇の皇后、広義門院を開基として、伏見に創建した皇室の御願寺。[[豊臣秀吉>豊臣氏]]の[[伏見城]]築城に際して相国寺内に移され、慶長19年(1614)に[[徳川家康>徳川氏]]によって相国寺塔頭として再興された。旧伏見宮家の菩提所として客殿に位牌を祀り、方丈には本尊普賢菩薩坐像を安置する。方丈前には石組で「心」の字を象ったという「心字の庭」と呼ばれる[[枯山水庭園]]がある。室町幕府9代将軍[[足利義尚>足利氏]]の塔所、常徳院を合併したため、墓地には[[義尚>足利氏]]の墓がある。
***大通院
応永23年(1416)、伏見宮栄仁親王が逝去ののち、伏見にあった大光明寺の境内に親王の謚号に因んで創建された。大光明寺が再興された際に大通院も相国寺山内に移転している。安永2年(1773)中興の祖として誠拙周樗が僧堂を開創し、文化元年(1804)に現在の選佛場(坐禅堂)が創建された。現在は相国寺専門道場とされている。通常非公開。
&sizex(5){&color(red){文化財}}
***国宝
無学祖元墨蹟(4幅)
***重要文化財(建造物)
法堂
***重要文化財(美術工芸品)
絹本著色十六羅漢像 絹本著色鳴鶴図 紙本墨画山水図 紙本墨画猿猴竹林図([[長谷川等伯]]筆) 絹本墨画淡彩鳳凰図 紙本墨書普広院旧基封境図 紙本墨書十牛頌 紙本墨書明主勅書 子元祖元高峰顕日問答語 異国通船朱印状 絹本著色[[妙葩和尚>春屋妙葩]]像(光源院所蔵) 絹本著色二十八部衆像(慈照院所蔵) 紙本墨画達磨像(慈照院所蔵) 絹本著色[[地蔵菩薩]]像(慈照院所蔵) 灰釉四脚壺(慈照院所蔵) 紙本墨書慈照院諒闇摠簿(慈照院所蔵) 絹本著色羅漢像(大光明寺所蔵) 紙本墨書竺仙梵僊墨蹟(大通院所蔵)
&sizex(5){&color(red){拝観情報}}
住所 京都市上京区相国寺門前町701
電話番号 075-231-0301
拝観時間 春季(3/23~6/4)と秋季(9/15~12/8)のみ10:00~16:00
拝観料 800円(拝観場所は法堂・方丈・浴室の3ヵ所)
アクセス 地下鉄烏丸線「今出川駅」下車徒歩5分
駐車場 駐車場あり(無料)
&sizex(5){&color(red){主な行事}}
&sizex(5){&color(red){その他}}
平成16年(2004)第1回京都検定3級出題
「相国寺境内に住んでいた狐が、お茶の宗匠に化けてお手前を披露したことから、( )と呼ばれた。 (ア)利休狐 (イ)宗淳狐 (ウ)宗旦狐 (エ)宗守狐」
平成16年(2004)第1回京都検定2級出題
「寺院とその塔頭について誤っているものを選びなさい。 (ア)東福寺・光明院 (イ)建仁寺・両足院 (ウ)相国寺・玉鳳院 (エ)東寺・観智院」
平成17年(2005)第2回京都検定1級出題
「相国寺の法堂天井に描かれている龍は「鳴き龍」として知られるが、この「蟠龍図」の作者は誰か。」
&sizex(5){&color(red){リンク}}
相国寺オフィシャル http://www.shokoku-ji.or.jp/
----
#amazon(text,image,4784213430)
&sizex(6){&bold(){相国寺}}
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか
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&sizex(5){&color(red){概略}}
&bold(){相国寺}(しょうこくじ)は、京都市上京区にある[[臨済宗]]相国寺派大本山の寺院。山号は万年山、本尊は[[釈迦如来]]、開基(創立者)は[[足利義満>足利氏]]、開山(初代住職)は[[夢窓疎石]]である。[[足利将軍家>足利氏]]ゆかりの禅寺であり、[[京都五山>五山制度]]の第二位に列せられている。五山文学の中心地でもあり、画僧周文や[[雪舟]]を輩出した。また、境内には13の塔頭寺院があり、[[鹿苑寺>金閣寺]]([[金閣寺]])、[[慈照寺>銀閣寺]]([[銀閣寺]])は相国寺の境外塔頭である。
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室町幕府3代将軍[[足利義満>足利氏]]は、いわゆる「花の御所」の隣接地に一大禅宗伽藍を建立することを永徳2年(1382)に発願。竣工したのは10年後の明徳3年(1392)であった。寺名の相国は「国を相(たす)ける人」から来ており、中国では宰相、日本では太政大臣の意味になり、太政大臣にまで登りつめた[[義満>足利氏]]によって建てられたことが所以という。[[義満>足利氏]]は禅の師であった[[天龍寺]]の[[春屋妙葩]]に開山となることを要請したが、[[春屋>春屋妙葩]]はこれを固辞。師である[[夢窓疎石]]を開山とし、自らは第二世住職になる、という条件でようやく引き受けた。[[義満>足利氏]]が伽藍建立を発願する30年以上前に死去している[[夢窓疎石]]が開山とされているのは、このような事情による。[[春屋妙葩]]も相国寺伽藍の完成を見ずに嘉慶2年(1388)に没している。相国寺は京都最大の禅宗寺院のひとつとして、また五山文学の中心地として栄えたが、たびたび火災に見舞われた。伽藍完成からわずか2年後の応永元年(1394)に早くも全焼。直ちに再建に着手され、同6年(1399)には高さ360尺(約109m)におよぶ七重大塔が建立された。岡崎の法勝寺の塔にも勝るといわれ、落慶供養には千人の僧侶が招かれ、[[青蓮院]]門主尊道法親王が導師となり、御節会に準じて盛大に行われたという。しかし[[義満>足利氏]]没後の応永32年(1425)にも再度全焼、応仁元年(1467)には[[応仁の乱]]の細川方の陣地となったあおりで焼失。天文20年(1551)にも管領細川家と三好家の争いに巻き込まれて焼失する。天正12年(1584)、相国寺の中興の祖とされる西笑承兌(せいしょうじょうたい)が住職となり、復興を進めた。[[豊臣秀吉>豊臣氏]]は寺領として千三百余石を献上し、[[秀頼>豊臣氏]]は法堂を、[[徳川氏]]は三門を寄進した。後水尾上皇は旧殿を下賜して方丈と宝塔、開山塔を再興し、ようやく旧観に復するに至った。現存する法堂はこの時期に建立されたものである。その後も元和6年(1620)に火災があり、天明8年(1788)の「天明の大火」で法堂以外のほとんどの堂宇を焼失した。現存の伽藍の大部分は19世紀はじめの文化年間の再建である。
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***法堂(無畏堂)
慶長10年(1605)に[[豊臣秀頼>豊臣氏]]の寄進により再建された。入母屋造、本瓦葺で、正面約29m、側面約23m。日本にある法堂建築としては最古のもの。内部には正面に高い階段を三方にそなえた須弥檀があり、中央には本尊の[[釈迦如来]]像と迦葉(かしょう)・阿難両尊者が祀られている。天井に描かれている[[狩野光信>狩野派]]による「蟠龍図」は「鳴き龍」として有名。なお西の壇には達磨・臨済・百丈・[[夢窓疎石]]が、東の壇には大権修利菩薩・[[足利義満>足利氏]]像がまつられている。
***勅使門
境内の南正面に建つ四脚門で、木鼻や蟇股等の建築様式から桃山時代の遺構と見られる。普段は閉じられており、一般の出入りは東隣にある総門(薬医門)が使われている。
***開山塔
開山[[夢窓疎石]]を祀る堂で、桃園天皇の皇后、恭礼門院の御殿を文化4年(1807)に移築したもの。内部には[[円山応挙]]一派の筆になる襖絵がある。前庭は切石でふち取った地に白砂を敷き、石組を配した[[枯山水庭園]]。背後に築山を設け、その間を水が流れるようになっていた。この流れは今出川の一部で「龍渕水」と称し、開山堂を出てからの水路を「碧玉溝」という。
***方丈
文化4年(1807)の再建。桟瓦葺で桁行約25.5m、梁間約16m。内部には原在中筆「中国菩陀洛山図」「琴棋書画図」や[[土佐派]]による「吉野山桜図」などが飾られている。また方丈には前庭と裏庭のふたつの庭があり、前庭は白砂を敷き詰めた造りで、禅の根本である「本来無一物(執着すべきものはひとつもない)」を表す典型的な禅宗前庭。裏庭は深山幽谷を象った[[枯山水庭園]]で、苔が美しい。
***庫裏
天明の大火後の文化4年(1807)の再建。禅宗寺院特有の切妻造、本瓦葺の建物で、妻を正面とし、正面左寄りに唐破風に桟唐戸をつけて仏堂風とする。入り口の土間には大きな竈を設け、複雑に組まれた天井の巨材を通して上方に煙出しを設けている。
***経蔵
安政6年(1859)に相国寺第120世盈冲和尚の寄進により建立された。高麗版一切経が納められている。
***浴室(宣明)
平成14年(2002)6月に復元修復された。宣明とは「大唐五山諸堂図」の中で風呂を描いた「天童山宣明様」という図にあるように、浴室の別名。禅宗では「威儀即仏法」といい、日常の立ち居振る舞いすべてが修行であり、「心」と「体」の垢を落とすという意味で重要である。
***承天閣美術館
相国寺に加え、[[鹿苑寺>金閣寺]]([[金閣寺]])や[[慈照寺>銀閣寺]]([[銀閣寺]])などの関連寺院の文化財を収蔵展示する施設で、昭和59年(1984)に開館。[[伊藤若冲]]による[[鹿苑寺>金閣寺]]大書院の障壁画をはじめ鎌倉から江戸期にわたる墨蹟や絵画、工芸品など、国宝4点と重要文化財111点を含んだ数百点を収蔵する。
&sizex(5){&color(red){主な塔頭}}
***光源院
相国寺第28世元容周頌によって応永28年(1421)に創建された塔頭寺院。はじめは広徳軒と号していたが、永禄8年(1565)に室町幕府13代将軍[[足利義輝>足利氏]]の菩提寺となり、[[義輝>足利氏]]の法号(光源院殿贈一品左相府融山道圓大居士)により光源院と改称された。本堂襖12面には日本画家水田慶泉による龍虎、牛、馬、蛇などの十二支に因んだ動物が描かれている。また墓地には姫路藩主池田輝政の母善応院と、同家臣荒尾但馬守および相国寺の画僧維明周奎の墓がある。通常非公開。
***林光院
応永24年(1417)、[[足利義満>足利氏]]の第2子である[[足利義嗣>足利氏]]の菩提を弔うために、[[夢窓疎石]]を勧請開山として、西ノ京の紀貫之邸跡に創建された。[[秀吉>豊臣氏]]の時代に現在の地に移ったとされる。境内の鶯宿梅は「軒の紅梅」ともいい、名木のひとつに数えられている。方丈と庫裏は、近江国仁正寺(現滋賀県蒲生郡)藩主、市橋氏の邸宅を、大正7年(1918)に移築したもの。通常非公開。
***瑞春院
作家水上勉が小説「雁の寺」に描いた塔頭寺院で、今も雁の襖絵8枚が本堂上官の間(雁の間とも)に残っている。本尊は[[阿弥陀三尊>阿弥陀如来]]来迎像。南北ふたつの庭園があり、南庭は室町期の石組が残る[[枯山水庭園]]「雲頂庭」、北庭は[[夢窓疎石]]の作風をとりいれた[[池泉観賞式>池泉回遊式庭園]]で、[[表千家>千家]]の不審庵を模して造られた茶室「久昌庵」がある。水琴窟や大茶盛でも有名。拝観は要申込。
***慈照院
相国寺第13世在中中淹の塔所で、はじめ大徳院と称した。延徳2年(1490)に室町幕府8代将軍[[足利義政>足利氏]]の塔所となり、その法号をとって慈照院と改められた。本尊[[は十一面観音]]像。江戸初期の草庵風害院造である書院「棲碧軒(せいへきけん)」は寛永9年(1632)に桂宮家の御学問所を下賜されたものといわれ、茶室「頤神室(いしんしつ)」は[[千宗旦>千家]]が智忠親王のために創設した四畳半台目の席。席内には持仏堂があり、[[利休>千家]]の像を安置する。この像は当時、公然と[[利休>千家]]を祀れなかったため、機に応じて布袋の首と挿げ替えられる仕掛けになっている。院内墓地には八条宮智仁・智忠親王以下、桂宮家および広幡家累代の墓がある。拝観は要申込。
***大光明寺
暦応2年(1339)に後伏見天皇の皇后、広義門院を開基として、伏見に創建した皇室の御願寺。[[豊臣秀吉>豊臣氏]]の[[伏見城]]築城に際して相国寺内に移され、慶長19年(1614)に[[徳川家康>徳川氏]]によって相国寺塔頭として再興された。旧伏見宮家の菩提所として客殿に位牌を祀り、方丈には本尊普賢菩薩坐像を安置する。方丈前には石組で「心」の字を象ったという「心字の庭」と呼ばれる[[枯山水庭園]]がある。室町幕府9代将軍[[足利義尚>足利氏]]の塔所、常徳院を合併したため、墓地には[[義尚>足利氏]]の墓がある。
***大通院
応永23年(1416)、伏見宮栄仁親王が逝去ののち、伏見にあった大光明寺の境内に親王の謚号に因んで創建された。大光明寺が再興された際に大通院も相国寺山内に移転している。安永2年(1773)中興の祖として誠拙周樗が僧堂を開創し、文化元年(1804)に現在の選佛場(坐禅堂)が創建された。現在は相国寺専門道場とされている。通常非公開。
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***国宝
無学祖元墨蹟(4幅)
***重要文化財(建造物)
法堂
***重要文化財(美術工芸品)
絹本著色十六羅漢像 絹本著色鳴鶴図 紙本墨画山水図 紙本墨画猿猴竹林図([[長谷川等伯]]筆) 絹本墨画淡彩鳳凰図 紙本墨書普広院旧基封境図 紙本墨書十牛頌 紙本墨書明主勅書 子元祖元高峰顕日問答語 異国通船朱印状 絹本著色[[妙葩和尚>春屋妙葩]]像(光源院所蔵) 絹本著色二十八部衆像(慈照院所蔵) 紙本墨画達磨像(慈照院所蔵) 絹本著色[[地蔵菩薩]]像(慈照院所蔵) 灰釉四脚壺(慈照院所蔵) 紙本墨書慈照院諒闇摠簿(慈照院所蔵) 絹本著色羅漢像(大光明寺所蔵) 紙本墨書竺仙梵僊墨蹟(大通院所蔵)
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住所 京都市上京区相国寺門前町701
電話番号 075-231-0301
拝観時間 春季(3/23~6/4)と秋季(9/15~12/8)のみ10:00~16:00
拝観料 800円(拝観場所は法堂・方丈・浴室の3ヵ所)
アクセス 地下鉄烏丸線「今出川駅」下車徒歩5分
駐車場 駐車場あり(無料)
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&sizex(5){&color(red){その他}}
***京都検定出題
平成16年(2004)第1回京都検定3級出題
「相国寺境内に住んでいた狐が、お茶の宗匠に化けてお手前を披露したことから、( )と呼ばれた。 (ア)利休狐 (イ)宗淳狐 (ウ)宗旦狐 (エ)宗守狐」
平成16年(2004)第1回京都検定2級出題
「寺院とその塔頭について誤っているものを選びなさい。 (ア)東福寺・光明院 (イ)建仁寺・両足院 (ウ)相国寺・玉鳳院 (エ)東寺・観智院」
平成17年(2005)第2回京都検定1級出題
「相国寺の法堂天井に描かれている龍は「鳴き龍」として知られるが、この「蟠龍図」の作者は誰か。」
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相国寺オフィシャル http://www.shokoku-ji.or.jp/
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