建仁寺 - (2008/09/16 (火) 13:36:47) の1つ前との変更点
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&sizex(6){&bold(){建仁寺}}
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか
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&sizex(5){&color(red){概略}}
&bold(){建仁寺}(けんにんじ)は、京都市東山区にある[[臨済宗]]建仁寺派大本山の寺院。山号を東山(とうざん)と号する。本尊は[[釈迦如来]]、開基(創立者)は源頼家、開山は[[栄西]]である。日本最古の禅寺であり、[[京都五山>五山制度]]の第三位に列せられている。特に漢詩の素養の高い禅僧を輩出したことから「建仁寺の学問づら」とも呼ばれた。
&sizex(5){&color(red){歴史}}
建仁寺は日本に[[臨済宗]]を正式に伝えた[[栄西]]が建仁2年(1202)に鎌倉幕府2代将軍源頼家の援助を得て、京都における[[臨済宗]]の拠点として建立した。寺名は当時の年号を朝廷から贈られている。伽藍は宋の百丈山に模して造営され、工事にあたっては有力御家人の佐々木定綱や畠山重忠らが協力したという。創建当時の建仁寺は[[天台>天台宗]]、[[真言>真言宗]]、禅の三宗並立であったが、これは当時の京都では[[真言>真言宗]]、[[天台>天台宗]]の既存宗派の勢力が強大だったことが背景にある。創建から半世紀以上経た正元元年(1259)に宋僧の蘭渓道隆(鎌倉建長寺の開山)が11世住職として入寺し、この頃から純粋禅の修禅道場となる。室町時代には[[京都五山>五山制度]]の第三位に列せられ、塔頭は60を数えたが、[[応仁の乱]]による焼失のほか、応永4年(1397)や文明13年(1481)の火災によって衰退し、のちに毛利家の外交僧である安国寺恵瓊によって復興された。また[[豊臣秀吉>豊臣氏]]の正妻、[[ねね>豊臣氏]]の菩提寺である[[高台寺]]や、八坂塔のある[[法観寺]]は建仁寺の末寺である。また[[栄西]]は中国から茶種を持ち帰り、栽培を奨励した茶祖としても知られ、生誕日である4月20日には開山忌の茶会「四つ頭茶会」が催されている。
&sizex(5){&color(red){伽藍}}
***勅使門
寺の南側に面した四脚門で切妻造、銅板葺。柱や扉に戦乱の矢の痕があることから「矢の根門」または「矢立門」とも呼ばれる。平教盛の館門(平重盛の館門とも)を[[応仁の乱]]後に移築したものと伝える。様式的には鎌倉時代末頃の建築である。
***三門(望闕楼)
大正12年(1923)に静岡県浜松市の安寧寺から移築したもので、江戸時代末期の建築。 「御所を望む楼閣」という意味で「望闕楼」と名づけられた。楼上には[[釈迦如来]]像と迦葉(かしょう)・阿難両尊者、十六羅漢像を安置するが、通常非公開。
***法堂
明和2年(1765)の建立。入母屋造、本瓦葺、裳階付の堂々とした禅宗様建築で「拈華堂(ねんげどう)」とも呼ばれる。須弥壇には本尊の[[釈迦如来]]坐像と脇侍である迦葉尊者・阿難尊者が安置されている。また平成14年(2002)には、建仁寺創建800年を記念して、畳108枚分の広さを誇る天井に日本画家小泉淳作によって双龍の絵が描かれた。
***方丈
室町時代に建てられた桁行27.6m、梁行20.7mの大建築で、入母屋造、銅板葺。安芸国(現広島県)の安国寺にあったものを安国寺恵瓊が慶長4年(1599)に移築した。昭和9年(1934)の室戸台風で倒壊し、昭和15年(1940)に修復された。本尊は[[東福門院>徳川氏]]寄進の[[十一面観音]]像。各室には[[海北友松]]の水墨障壁画があったが室戸台風により被害を受け、現在は襖から掛軸に改装されて京都国立博物館に寄託されている。代わりに[[橋本関雪]]による「生生流転(しょうじょうるてん)」の障壁画が設置された。前庭は白砂に巨石を配した[[枯山水庭園]]で昭和15年(1940)に作られた。百丈山の眺めを模したといわれ、百丈山が別名大雄山という事から「大雄苑(だいおうえん)」と呼ばれる。方丈北側には茶室「東陽坊」と安国寺恵瓊の首塚がある。
***東陽坊
草庵式二畳台目の茶席で、躙口を入った左手に台目床を設け、右に中柱を立てて二重棚を吊り、壁には下地窓や竹で出来た大小さまざまな窓を設けている。天正15年(1587)に[[豊臣秀吉>豊臣氏]]が催した北野大茶会で、[[利休>千家]]の高弟である真如堂東陽坊長盛が担当した副席という。茶室の西側には「建仁寺垣(横に渡した割り竹に約3cm幅に割った真竹を隙間無く並べたもの)」が設けられている。
***浴室
創建は寛永5年(1628)だが、平成14年(2002)に復元・移築された。内部は待合・浴室・土間に三分されている。内部は通常非公開。
***開山堂(護国院)
興禅護国院ともいい、[[栄西]]の墓所で明治17年(1884)に建てられた。礼堂と相の間、祠堂からなり、中央奥に[[栄西]]禅師像と源頼家像を安置する。江戸期作の楼門は入母屋造、本瓦葺で、鳴滝妙光寺から移築されたという。客殿は[[妙心寺玉龍院>妙心寺]]から移築したもので、客殿本尊は赤旃檀[[釈迦如来]]像。内部には加藤文麗筆「龍虎図」や原在中筆「松鶴波図」「白梅群禽図」の襖絵があり、杉戸には「孔雀図」などが描かれている。庭園の2本の菩提樹は[[栄西]]が宋から持ち帰ったものと伝わる。通常非公開。
&sizex(5){&color(red){主な塔頭}}
***両足院
建仁寺第35世龍山徳見和尚を開山とする。寺名となっている「両足」とは、仏の十の尊称のひとつ「両足尊」からとられている。[[薮内家>千家]]5代不住斎竹心紹智の指導により作庭されたと伝える約300坪の庭園は、[[枯山水>枯山水庭園]]の方丈前庭、方丈東庭と、方丈の東から北の書院にかけて広がる江戸時代中期(享保年間)作庭という[[池泉回遊式>池泉回遊式庭園]]の書院前庭からなる。北側にある茶席「水月亭」は織田有楽斎の名席として知られる「如庵」の写しと伝わる二畳半台目の茶室。水月亭の隣には昭和初期に白木屋(東急百貨店の前身)当主、大村彦太郎より寄進された梅軒好みの六畳席の茶室「臨池亭」がある。客殿は嘉永年間(1848~1854)の再建。また[[長谷川等伯]]筆「松に童子図」や[[伊藤若冲]]筆「雪中雄鶏図」なども所蔵する。拝観は要申込。
***久昌院
慶長13年(1608)に奥平信昌が三江紹益を開山として創建した奥平家の菩提寺。信昌は長篠の戦いの前哨戦である武田軍による長篠城攻めの際の城主で、城を死守した功により信長から一字を与えられ、もとの名の定昌から信昌と改めた。本堂には信昌の武勲をたたえた浮田一惠筆の「長篠合戦図」を安置する。茶室は三畳台目二畳の席。前庭は中央に池を設け、東山を借景とした[[池泉観賞式庭園>池泉回遊式庭園]]。墓地には信昌夫妻の霊屋をはじめ、建仁寺や[[南禅寺]]の住持を勤めた雪村友梅や播磨国守護赤松則村(円心)の墓がある。通常非公開。
***禅居庵
正慶2年(1333)に信濃国守護小笠原貞宗(小笠原流礼法の祖)が創建。開祖は建仁寺第23世清拙正澄。[[応仁の乱]]などで荒廃したが、天文16年(1547)に再建され、清拙自作と伝える摩利支尊天像を祀って開運、七難除けなどの庶民信仰を集める。摩利支天はインドの神でマリーチとも言い、陽炎や蜃気楼など捉えられないものを意味する。いつしか戦勝祈念の仏になり、転じて勝負事や賭け事の勝利を祈願する仏となった。この寺の摩利支天像は7頭の猪に乗った姿であるため、猪も摩利支天の使いとして信仰を受けた。境内には3組の「狛猪」が据えられている。
***正伝永源院
建仁寺第39世無涯和尚を開山として創建。もとは永源庵と称し肥後細川家の最初の菩提寺であったが、明治6年(1873)に廃寺となったため、織田有楽斎によって再興された正伝院を移して、名を「正伝永源院」に改めた。本尊は[[釈迦如来]]像。平成8年(1996)には有楽斎が正伝院に建てた名席「如庵」が復元された。寺宝は有楽斎に関する遺品が多く、また有楽斎と細川家歴代の墓がある。なお有楽斎の建てた正伝院書院と茶室如庵は、明治期に有楽苑(愛知県犬山市)に移築されている。通常非公開。
***大中院
興国3年(1342)に建仁寺第27世東海竺源が創建した境外塔頭のひとつ。[[応仁の乱]]で荒廃し、承応4年(1655)に雪窓霊玉によって再興された。現在の建物は文化年間(1804~1818)に景和・全室両僧によって再建されたもので、書院には[[海北友松]]筆「彩山水画」と水墨画「鷺図」がある。通常非公開。
***霊洞院
建仁寺第26世慈照高山を開山とするが、実際は高山の法嗣である海雲の開山になるもの。天文21年(1552)の兵火によって本山とともに焼失し、同23年に希三宗燦によって再興された。庭は書院の南から東へ矩形にひろがる[[池泉回遊式庭園]]で、約240坪の広さを持ち、国の[[名勝>名勝・特別名勝]]に指定されている。現在は専門道場(僧堂)となっており、通常非公開。
&sizex(5){&color(red){文化財}}
***国宝
紙本金地著色風神雷神図([[俵屋宗達]]筆)
#blockquote(){※国宝の風神雷神図は、金地の二曲一双屏風のそれぞれに風神と雷神が描かれたもので、[[俵屋宗達]]の代表作として名高い。原本は京都国立博物館に寄託されているが、複製の屏風および陶板が展示されている。}
***重要文化財(建造物)
方丈 勅使門
***重要文化財(美術工芸品)
絹本著色十六羅漢像 紙本墨画竹林七賢図 紙本墨画花鳥図 紙本淡彩琴棋書画図 紙本墨画雲竜図 紙本墨画山水図 紙本墨書明恵上人筆消息 一山一寧墨蹟 宋拓石橋可宜筆三自省 紙本墨画三教図(伝如拙筆、両足院所蔵) 紙本墨画松竹梅図([[海北友松]]筆、禅居庵所蔵) 絹本著色闡提正具像(大中院所蔵) 紙本淡彩琴棋書画図([[海北友松]]筆、霊洞院所蔵) 紙本墨書伏見天皇宸翰読漢書詩(霊洞院所蔵)
***名勝
霊洞院庭園
&sizex(5){&color(red){拝観情報}}
住所 京都市東山区小松町584
電話番号 075-561-6363(建仁寺)、075-561-3216(両足院)、075-561-7074(久昌院)、075-561-5556(禅居庵)
075-531-0200(正伝永源院)、075-561-4323(大中院)
拝観時間 10:00~16:00(4/20、6/5、11/15は本坊拝観不可)
拝観料 境内自由、本坊拝観500円
アクセス 市バス「東山安井」下車徒歩3分
駐車場 駐車場あり(60分500円、超過30分毎に250円)
&sizex(5){&color(red){主な行事}}
毎月第二日曜は坐禅体験有り(要予約)
&sizex(5){&color(red){その他}}
***京都検定出題
平成16年(2004)第1回京都検定2級出題
「建仁寺の風神雷神図屏風(国宝)の作者は誰か。 (ア)狩野永徳 (イ)狩野探幽 (ウ)俵屋宗達 (エ)伊藤若冲」
「寺院とその塔頭について誤っているものを選びなさい。 (ア)東福寺・光明院 (イ)建仁寺・両足院 (ウ)相国寺・玉鳳院 (エ)東寺・観智院」
平成17年(2005)第2回京都検定3級出題
「宋から喫茶の風習を持ち帰り、禅宗と共に茶を広めた栄西が開いた寺院はどこか。」
&sizex(5){&color(red){リンク}}
建仁寺オフィシャル http://www.kenninji.jp/
----
#amazon(text,image,4473034933)
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか
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&sizex(5){&color(red){概略}}
&bold(){建仁寺}(けんにんじ)は、京都市東山区にある[[臨済宗]]建仁寺派大本山の寺院。山号を東山(とうざん)と号する。本尊は[[釈迦如来]]、開基(創立者)は源頼家、開山は[[栄西]]である。日本最古の禅寺であり、[[京都五山>五山制度]]の第三位に列せられている。特に漢詩の素養の高い禅僧を輩出したことから「建仁寺の学問づら」とも呼ばれた。
&sizex(5){&color(red){歴史}}
建仁寺は日本に[[臨済宗]]を正式に伝えた[[栄西]]が建仁2年(1202)に鎌倉幕府2代将軍源頼家の援助を得て、京都における[[臨済宗]]の拠点として建立した。寺名は当時の年号を朝廷から贈られている。伽藍は宋の百丈山に模して造営され、工事にあたっては有力御家人の佐々木定綱や畠山重忠らが協力したという。創建当時の建仁寺は[[天台>天台宗]]、[[真言>真言宗]]、禅の三宗並立であったが、これは当時の京都では[[真言>真言宗]]、[[天台>天台宗]]の既存宗派の勢力が強大だったことが背景にある。創建から半世紀以上経た正元元年(1259)に宋僧の蘭渓道隆(鎌倉建長寺の開山)が11世住職として入寺し、この頃から純粋禅の修禅道場となる。室町時代には[[京都五山>五山制度]]の第三位に列せられ、塔頭は60を数えたが、[[応仁の乱]]による焼失のほか、応永4年(1397)や文明13年(1481)の火災によって衰退し、のちに毛利家の外交僧である安国寺恵瓊によって復興された。また[[豊臣秀吉>豊臣氏]]の正妻、[[ねね>豊臣氏]]の菩提寺である[[高台寺]]や、八坂塔のある[[法観寺]]は建仁寺の末寺である。また[[栄西]]は中国から茶種を持ち帰り、栽培を奨励した茶祖としても知られ、生誕日である4月20日には開山忌の茶会「四つ頭茶会」が催されている。
&sizex(5){&color(red){伽藍}}
***勅使門
寺の南側に面した四脚門で切妻造、銅板葺。柱や扉に戦乱の矢の痕があることから「矢の根門」または「矢立門」とも呼ばれる。平教盛の館門(平重盛の館門とも)を[[応仁の乱]]後に移築したものと伝える。様式的には鎌倉時代末頃の建築である。
***三門(望闕楼)
大正12年(1923)に静岡県浜松市の安寧寺から移築したもので、江戸時代末期の建築。 「御所を望む楼閣」という意味で「望闕楼」と名づけられた。楼上には[[釈迦如来]]像と迦葉(かしょう)・阿難両尊者、十六羅漢像を安置するが、通常非公開。
***法堂
明和2年(1765)の建立。入母屋造、本瓦葺、裳階付の堂々とした禅宗様建築で「拈華堂(ねんげどう)」とも呼ばれる。須弥壇には本尊の[[釈迦如来]]坐像と脇侍である迦葉尊者・阿難尊者が安置されている。また平成14年(2002)には、建仁寺創建800年を記念して、畳108枚分の広さを誇る天井に日本画家小泉淳作によって双龍の絵が描かれた。
***方丈
室町時代に建てられた桁行27.6m、梁行20.7mの大建築で、入母屋造、銅板葺。安芸国(現広島県)の安国寺にあったものを安国寺恵瓊が慶長4年(1599)に移築した。昭和9年(1934)の室戸台風で倒壊し、昭和15年(1940)に修復された。本尊は[[東福門院>徳川氏]]寄進の[[十一面観音]]像。各室には[[海北友松]]の水墨障壁画があったが室戸台風により被害を受け、現在は襖から掛軸に改装されて京都国立博物館に寄託されている。代わりに[[橋本関雪]]による「生生流転(しょうじょうるてん)」の障壁画が設置された。前庭は白砂に巨石を配した[[枯山水庭園]]で昭和15年(1940)に作られた。百丈山の眺めを模したといわれ、百丈山が別名大雄山という事から「大雄苑(だいおうえん)」と呼ばれる。方丈北側には茶室「東陽坊」と安国寺恵瓊の首塚がある。
***東陽坊
草庵式二畳台目の茶席で、躙口を入った左手に台目床を設け、右に中柱を立てて二重棚を吊り、壁には下地窓や竹で出来た大小さまざまな窓を設けている。天正15年(1587)に[[豊臣秀吉>豊臣氏]]が催した北野大茶会で、[[利休>千家]]の高弟である真如堂東陽坊長盛が担当した副席という。茶室の西側には「建仁寺垣(横に渡した割り竹に約3cm幅に割った真竹を隙間無く並べたもの)」が設けられている。
***浴室
創建は寛永5年(1628)だが、平成14年(2002)に復元・移築された。内部は待合・浴室・土間に三分されている。内部は通常非公開。
***開山堂(護国院)
興禅護国院ともいい、[[栄西]]の墓所で明治17年(1884)に建てられた。礼堂と相の間、祠堂からなり、中央奥に[[栄西]]禅師像と源頼家像を安置する。江戸期作の楼門は入母屋造、本瓦葺で、鳴滝妙光寺から移築されたという。客殿は[[妙心寺玉龍院>妙心寺]]から移築したもので、客殿本尊は赤旃檀[[釈迦如来]]像。内部には加藤文麗筆「龍虎図」や原在中筆「松鶴波図」「白梅群禽図」の襖絵があり、杉戸には「孔雀図」などが描かれている。庭園の2本の菩提樹は[[栄西]]が宋から持ち帰ったものと伝わる。通常非公開。
&sizex(5){&color(red){主な塔頭}}
***両足院
建仁寺第35世龍山徳見和尚を開山とする。寺名となっている「両足」とは、仏の十の尊称のひとつ「両足尊」からとられている。[[薮内家>千家]]5代不住斎竹心紹智の指導により作庭されたと伝える約300坪の庭園は、[[枯山水>枯山水庭園]]の方丈前庭、方丈東庭と、方丈の東から北の書院にかけて広がる江戸時代中期(享保年間)作庭という[[池泉回遊式>池泉回遊式庭園]]の書院前庭からなる。北側にある茶席「水月亭」は織田有楽斎の名席として知られる「如庵」の写しと伝わる二畳半台目の茶室。水月亭の隣には昭和初期に白木屋(東急百貨店の前身)当主、大村彦太郎より寄進された梅軒好みの六畳席の茶室「臨池亭」がある。客殿は嘉永年間(1848~1854)の再建。また[[長谷川等伯]]筆「松に童子図」や[[伊藤若冲]]筆「雪中雄鶏図」なども所蔵する。拝観は要申込。
***久昌院
慶長13年(1608)に奥平信昌が三江紹益を開山として創建した奥平家の菩提寺。信昌は長篠の戦いの前哨戦である武田軍による長篠城攻めの際の城主で、城を死守した功により信長から一字を与えられ、もとの名の定昌から信昌と改めた。本堂には信昌の武勲をたたえた浮田一惠筆の「長篠合戦図」を安置する。茶室は三畳台目二畳の席。前庭は中央に池を設け、東山を借景とした[[池泉観賞式庭園>池泉回遊式庭園]]。墓地には信昌夫妻の霊屋をはじめ、建仁寺や[[南禅寺]]の住持を勤めた雪村友梅や播磨国守護赤松則村(円心)の墓がある。通常非公開。
***禅居庵
正慶2年(1333)に信濃国守護小笠原貞宗(小笠原流礼法の祖)が創建。開祖は建仁寺第23世清拙正澄。[[応仁の乱]]などで荒廃したが、天文16年(1547)に再建され、清拙自作と伝える摩利支尊天像を祀って開運、七難除けなどの庶民信仰を集める。摩利支天はインドの神でマリーチとも言い、陽炎や蜃気楼など捉えられないものを意味する。いつしか戦勝祈念の仏になり、転じて勝負事や賭け事の勝利を祈願する仏となった。この寺の摩利支天像は7頭の猪に乗った姿であるため、猪も摩利支天の使いとして信仰を受けた。境内には3組の「狛猪」が据えられている。
***正伝永源院
建仁寺第39世無涯和尚を開山として創建。もとは永源庵と称し肥後細川家の最初の菩提寺であったが、明治6年(1873)に廃寺となったため、織田有楽斎によって再興された正伝院を移して、名を「正伝永源院」に改めた。本尊は[[釈迦如来]]像。平成8年(1996)には有楽斎が正伝院に建てた名席「如庵」が復元された。寺宝は有楽斎に関する遺品が多く、また有楽斎と細川家歴代の墓がある。なお有楽斎の建てた正伝院書院と茶室如庵は、明治期に有楽苑(愛知県犬山市)に移築されている。通常非公開。
***大中院
興国3年(1342)に建仁寺第27世東海竺源が創建した境外塔頭のひとつ。[[応仁の乱]]で荒廃し、承応4年(1655)に雪窓霊玉によって再興された。現在の建物は文化年間(1804~1818)に景和・全室両僧によって再建されたもので、書院には[[海北友松]]筆「彩山水画」と水墨画「鷺図」がある。通常非公開。
***霊洞院
建仁寺第26世慈照高山を開山とするが、実際は高山の法嗣である海雲の開山になるもの。天文21年(1552)の兵火によって本山とともに焼失し、同23年に希三宗燦によって再興された。庭は書院の南から東へ矩形にひろがる[[池泉回遊式庭園]]で、約240坪の広さを持ち、国の[[名勝>名勝・特別名勝]]に指定されている。現在は専門道場(僧堂)となっており、通常非公開。
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***国宝
紙本金地著色風神雷神図([[俵屋宗達]]筆)
#blockquote(){国宝の風神雷神図は、金地の二曲一双屏風のそれぞれに風神と雷神が描かれたもので、[[俵屋宗達]]の代表作として名高い。原本は京都国立博物館に寄託されているが、複製の屏風および陶板が展示されている。}
***重要文化財(建造物)
方丈 勅使門
***重要文化財(美術工芸品)
絹本著色十六羅漢像 紙本墨画竹林七賢図 紙本墨画花鳥図 紙本淡彩琴棋書画図 紙本墨画雲竜図 紙本墨画山水図 紙本墨書明恵上人筆消息 一山一寧墨蹟 宋拓石橋可宜筆三自省 紙本墨画三教図(伝如拙筆、両足院所蔵) 紙本墨画松竹梅図([[海北友松]]筆、禅居庵所蔵) 絹本著色闡提正具像(大中院所蔵) 紙本淡彩琴棋書画図([[海北友松]]筆、霊洞院所蔵) 紙本墨書伏見天皇宸翰読漢書詩(霊洞院所蔵)
***名勝
霊洞院庭園
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住所 京都市東山区小松町584
電話番号 075-561-6363(建仁寺)、075-561-3216(両足院)、075-561-7074(久昌院)、075-561-5556(禅居庵)
075-531-0200(正伝永源院)、075-561-4323(大中院)
拝観時間 10:00~16:00(4/20、6/5、11/15は本坊拝観不可)
拝観料 境内自由、本坊拝観500円
アクセス 市バス「東山安井」下車徒歩3分
駐車場 駐車場あり(60分500円、超過30分毎に250円)
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毎月第二日曜は坐禅体験有り(要予約)
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***京都検定出題
平成16年(2004)第1回京都検定2級出題
「建仁寺の風神雷神図屏風(国宝)の作者は誰か。 (ア)狩野永徳 (イ)狩野探幽 (ウ)俵屋宗達 (エ)伊藤若冲」
「寺院とその塔頭について誤っているものを選びなさい。 (ア)東福寺・光明院 (イ)建仁寺・両足院 (ウ)相国寺・玉鳳院 (エ)東寺・観智院」
平成17年(2005)第2回京都検定3級出題
「宋から喫茶の風習を持ち帰り、禅宗と共に茶を広めた栄西が開いた寺院はどこか。」
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建仁寺オフィシャル http://www.kenninji.jp/
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