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円山公園 - (2008/08/26 (火) 14:12:43) のソース
&sizex(6){&bold(){円山公園}} 出典: 田中緑紅『円山公園(緑紅叢書第31-32輯)』(京を語る会・1972)、『名勝地円山公園の沿革』(京都市・1996)ほか &ref(maruyamakouen.jpg) &ref(maruyamakouen2.jpg) &ref(maruyamakouen3.jpg) &sizex(5){&color(red){概略}} &bold(){円山公園}(まるやまこうえん)は、京都府京都市東山区にある公園。知名度の高い寺社の集積する東山にあり、庭園を囲んで料理屋が並び、花見席をはじめ四季折々の愉しみを有する、全国でも有数の優れた都市公園である。なお「円山」という山があるわけではなく、長楽寺山の中腹から西麓方面を円山と呼ぶ。この円山は安養寺の山号「慈円山」の略で、古くは「丸山」とも称された。札幌の円山公園は京都の円山公園をモデルにしている。 &sizex(5){&color(red){歴史}} 江戸末期の円山界隈は現在の風景とは大きく異なり、安養寺や[[長楽寺]]などの[[時宗]]寺院の境内で、特に安養寺のおいては急斜面を活かした庭園と建築をもつ6つの塔頭が建ち並び(六阿弥)、席貸を営んで文化活動のできる名所として知られていた。山辺の下部は、大きな境内を持つ[[祇園社>八坂神社]](現在の[[八坂神社]])が占めていた。明治4年(1871)正月に布告された上知令(全国の社寺に対し、境内を除くすべての領地と免租地の上知を命じた)によって、東山の景観が大きく変わり、[[祇園感神院>八坂神社]]の坊舎、祇園宝寿院以下、宝光院・神福院・竹坊・鳥居坊などの所謂「三院三坊」が廃され、寺領は官有地となった。さらに安養寺および塔頭の六坊、[[長楽寺]]、双林寺などの境内地もまた官有地となった。さらに明治6年(1873)に「京都に於ては八坂神社 [[清水>清水寺]]境内 [[嵐山]]の類を万人偕楽の地とし公園とする」旨が公布される。 明治12年(1879)に長崎の実業家、井上万吉によって円山の地に也阿弥ホテルが造営された。これは京都におけるホテルのはじまりといわれる。このホテルは、旧安養寺塔頭の多福院(也阿弥)ほかを買収し各部屋を洋風に改造したもので、照明には洋風の石油ランプを使用し、料理はすべて洋食だった。明治32年(1899)に焼失したのち、勝興庵(正阿弥)の土地も合併して、翌年には円山ホテルとして再建され、来遊の外国人を宿泊させた。明治39年(1906)に再び火災により全焼し、その後は公園地として買収されたため再建されなかった。 明治19年(1886)に京都府知事北垣國道から、内務大臣山縣有明、大蔵大臣松方正義に「公園地指定伺」を提出、認可された。名称を「京都円山公園」とし、桜数百本が植樹された。明治22年(1889)12月に、円山公園の所管を京都府から京都市参事会に移し、「京都市円山公園」が誕生した。明治41年(1908)には土地の買収もほぼ完了し、大正元年(1912)より東山一帯の改良工事に着手し、[[小川治兵衛]]によって[[池泉回遊式庭園]]に改造され、現在の景観となった。工事は大正3年(1914)に完成。 &sizex(5){&color(red){代表的な観光・観光施設}} ***円山公園庭園 造園家七代目[[小川治兵衛]](植治)によって作庭された[[池泉回遊式庭園]]で、86,600平方メートルの広さを持つ。桜の名所として知られ、池の西にある枝垂れ桜は特に有名。昭和6年(1931)に円山公園および公園内に存在する双林寺・西行庵・[[長楽寺]]・安養寺・本願寺別院境内が国の[[名勝>名勝・特別名勝]]に指定された。 ***枝垂れ桜 明治初期の医師で実業家でもあった明石博高が、円山に新築している吉水温泉の建築現場を見回りをしていた際、伐採されようとする桜を見かけ、問答の末、譲り受けることとなり、京都府に寄贈された。この桜はもと宝寿院の境内にあったものであるが、慶応2年(1866)の同院失火と、上知令によって多くの坊が廃されたため残されていたもので、伐採する手間が省けた桜は、そのままその位置に残されたという。これが後に円山公園の春の象徴となった枝垂れ桜である。幹周り4m、樹高12m、推定樹齢200年という古樹で、明治中頃には最盛期を迎えていたというが、大正に入ると衰えが目立ち始め、谷崎潤一郎の『細雪』においても「年々色あせていく」と嘆く様に描かれている。昭和22年(1947)に枯死したため、現在の桜は二代目で、昭和24年(1949)に桜守15代[[佐野藤右衛門]]によって初代の実から育てられた苗が植樹されたもの。 ***坂本龍馬・中岡慎太郎銅像 高知県民による昭和御大典記念事業として、昭和9年(1934)に建てられた。本山白雲作、高さ八尺五寸。戦争中に供出されたが、昭和37年(1962)に高知県人会により再建された。 ***ラジオ塔 枝垂桜の前にある塔で、昭和7年(1932)にNHKによって設置された。当時はこの前でラジオ体操が行われたという。昭和57年(1982)に復元され、現在に至る。道を挟んだ向かいの広場には昭和30年代には街頭テレビが設置されており、テレビ塔と呼ばれていた。 ***左阿弥 江戸時代初期、安養寺では六阿弥(左阿弥、春阿弥、弥阿弥、庭阿弥、正阿弥、連阿弥)と呼ばれる塔頭が貸座敷を営んでいた。明治期に弥阿弥が買収されてホテルとなり、他の塔頭も左阿弥を残して次々に弥阿弥に買収されて姿を消していったが、左阿弥は、嘉永2年(1849)に料亭となった後、そのまま現在に至っており、かつての六阿弥の面影を伝える唯一の存在である。有栖川熾仁親王や山縣有朋も立ち寄ったという。 ***長楽館 「たばこ王」と称された明治の実業家、村井吉兵衛が円山公園の一角に建てた別荘で、その名称は伊藤博文によって命名された。設計はアメリカ人技師ガーディナーで明治42年(1909)に竣工。建物は、1階、2階ともに中央の広間を中心としてそのまわりに各室が配され、1階には客間、球戯室(半地下)、書斎、サンルームと食堂が、また2階には喫煙室(中2階)、貴婦人室、美術室、客間3室などが置かれている。なかでも1階客間は、暖炉まわりや壁パネル、天井に植物文様のレリーフを飾るなど、ロココ様式を基調とした豪華な装飾がある。一方3階は和室で、とくに東北の2室は書院造風の斬新な意匠となっている。明治時代後期における和洋折衷の住宅建築の代表例として、昭和61年(1986)、家具30点を含めて京都市指定有形文化財に指定された。 &sizex(5){&color(red){観光情報}} 住所 京都府京都市東山区円山町 電話番号 075-222-3586(建設局緑地管理課)、075-531-0088(左阿弥)、075-561-0001(長楽館) アクセス 市バス「祇園」下車徒歩2分 駐車場 徒歩圏内(約1~10分)に市営及び私営駐車場あり &sizex(5){&color(red){その他}} 平成16年(2004)第1回京都検定2級出題 「円山公園には、明治期にロココ様式を取り入れて建てられた長楽館があるが、この長楽館を建てた煙草王として有名だった富豪は誰か。」 平成17年(2005)第2回京都検定2級出題 「明治初期、井上万吉が安養寺の塔頭を買収し、洋風に改造したホテルを何というか。」 &sizex(5){&color(red){リンク}} 左阿弥オフィシャル http://www8.ocn.ne.jp/~saami/ 長楽館オフィシャル http://www.chourakukan.co.jp/ ---- #amazon(text,image,B000CIWZAI)