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吉山明兆 - (2008/08/27 (水) 15:35:22) のソース
&sizex(6){&bold(){吉山明兆}} 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか &ref(daruma-gamatekkaizu.jpg,,height=200) &ref(shoichikokushizo.jpg,,height=200) &sizex(5){&color(red){概略}} &bold(){吉山明兆}(きつざんみんちょう)は、室町時代前・中期の画僧。破草鞋(はそうあい)とも号する。水墨画を専門にした最初の画僧といわれており、如拙、周文、[[雪舟]]らとともに日本の水墨画の成立と発展を担った。正平7年/文和元年~永享3年(1352~1431) &sizex(5){&color(red){人物史}} 淡路国(現兵庫県)生まれ。幼少時に淡路安国寺の僧、大道一以(だいどういちい)の弟子となり、一以が[[東福寺]]28世となったのに従い[[東福寺]]に入る。下位の僧にもかかわらず、画才が認められて専門の画僧となった。[[東福寺]]の殿司(建物の管理をする役職)を終生務めたため、兆殿司とも呼ばれる。水墨画は宋時代以降、中国の文化人や禅僧の間でもてはやされ、鎌倉中期の禅宗の移入に伴って中国の水墨画が渡来し、禅僧の修行の一環として描かれるようになった。梅、竹、道釈人物など簡単なモチーフが多く技法も拙稚だったが、次第に本格的な山水や花鳥が描かれるようになり、模倣から日本独自の水墨画が生まれた。題材と技法が成熟するにつれ、水墨画は禅僧の余技にとどまらず、専門の画僧が現れるようになった。室町時代は、[[足利将軍家>足利氏]]が禅宗を保護したことから前代にもまして禅宗が盛んになり、水墨による羅漢図、観音図などがさかんに制作された。明兆はこの時代の代表的な画僧として、[[東福寺]]で仏画や頂相(ちんそう)の制作に関わり、禅林画壇に大きな影響を与えた。明兆について多くの逸話が残るが、[[東福寺]]の桜を切らしめた話は特に有名である。室町幕府4代将軍[[足利義持>足利氏]]から「望むところがあれば何でも申し出るがよい」と持ちかけられた明兆が「金銭的な望みはないが、[[東福寺]]の衆徒が桜を愛するあまり境内に多くの桜の木を植えれば、後世おそらく遊興の場となろう。よって願わくばこれを禁じられたい」と申し出たという。 &sizex(5){&color(red){作風と代表的な作品}} 彩色画、水墨画ともに多くの作品を遺す。元代の中国仏画の影響を強く受け、筆線や色調に力強い表現を用いるのが特徴。 紙本著色聖一国師像 [[東福寺]]所蔵 重要文化財 紙本著色四十祖像 [[東福寺]]所蔵 重要文化財 紙本淡彩達磨蝦蟇鉄拐図 [[東福寺]]所蔵(現京都国立博物館寄託) 重要文化財 紙本著色大涅槃図 [[東福寺]]所蔵 &sizex(5){&color(red){その他}} &sizex(5){&color(red){リンク}} ---- #amazon(text,image,4582921248)