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吉山明兆
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吉山明兆
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか
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概略
吉山明兆(きつざんみんちょう)は、室町時代前・中期の画僧。破草鞋(はそうあい)とも号する。水墨画を専門にした最初の画僧といわれており、如拙、周文、雪舟らとともに日本の水墨画の成立と発展を担った。正平7年/文和元年~永享3年(1352~1431)
吉山明兆(きつざんみんちょう)は、室町時代前・中期の画僧。破草鞋(はそうあい)とも号する。水墨画を専門にした最初の画僧といわれており、如拙、周文、雪舟らとともに日本の水墨画の成立と発展を担った。正平7年/文和元年~永享3年(1352~1431)
人物史
淡路国(現兵庫県)生まれ。幼少時に淡路安国寺の僧、大道一以(だいどういちい)の弟子となり、一以が東福寺28世となったのに従い東福寺に入る。下位の僧にもかかわらず、画才が認められて専門の画僧となった。東福寺の殿司(建物の管理をする役職)を終生務めたため、兆殿司とも呼ばれる。水墨画は宋時代以降、中国の文化人や禅僧の間でもてはやされ、鎌倉中期の禅宗の移入に伴って中国の水墨画が渡来し、禅僧の修行の一環として描かれるようになった。梅、竹、道釈人物など簡単なモチーフが多く技法も拙稚だったが、次第に本格的な山水や花鳥が描かれるようになり、模倣から日本独自の水墨画が生まれた。題材と技法が成熟するにつれ、水墨画は禅僧の余技にとどまらず、専門の画僧が現れるようになった。室町時代は、足利将軍家が禅宗を保護したことから前代にもまして禅宗が盛んになり、水墨による羅漢図、観音図などがさかんに制作された。明兆はこの時代の代表的な画僧として、東福寺で仏画や頂相(ちんそう)の制作に関わり、禅林画壇に大きな影響を与えた。明兆について多くの逸話が残るが、東福寺の桜を切らしめた話は特に有名である。室町幕府4代将軍足利義持から「望むところがあれば何でも申し出るがよい」と持ちかけられた明兆が「金銭的な望みはないが、東福寺の衆徒が桜を愛するあまり境内に多くの桜の木を植えれば、後世おそらく遊興の場となろう。よって願わくばこれを禁じられたい」と申し出たという。
淡路国(現兵庫県)生まれ。幼少時に淡路安国寺の僧、大道一以(だいどういちい)の弟子となり、一以が東福寺28世となったのに従い東福寺に入る。下位の僧にもかかわらず、画才が認められて専門の画僧となった。東福寺の殿司(建物の管理をする役職)を終生務めたため、兆殿司とも呼ばれる。水墨画は宋時代以降、中国の文化人や禅僧の間でもてはやされ、鎌倉中期の禅宗の移入に伴って中国の水墨画が渡来し、禅僧の修行の一環として描かれるようになった。梅、竹、道釈人物など簡単なモチーフが多く技法も拙稚だったが、次第に本格的な山水や花鳥が描かれるようになり、模倣から日本独自の水墨画が生まれた。題材と技法が成熟するにつれ、水墨画は禅僧の余技にとどまらず、専門の画僧が現れるようになった。室町時代は、足利将軍家が禅宗を保護したことから前代にもまして禅宗が盛んになり、水墨による羅漢図、観音図などがさかんに制作された。明兆はこの時代の代表的な画僧として、東福寺で仏画や頂相(ちんそう)の制作に関わり、禅林画壇に大きな影響を与えた。明兆について多くの逸話が残るが、東福寺の桜を切らしめた話は特に有名である。室町幕府4代将軍足利義持から「望むところがあれば何でも申し出るがよい」と持ちかけられた明兆が「金銭的な望みはないが、東福寺の衆徒が桜を愛するあまり境内に多くの桜の木を植えれば、後世おそらく遊興の場となろう。よって願わくばこれを禁じられたい」と申し出たという。
作風と代表的な作品
彩色画、水墨画ともに多くの作品を遺す。元代の中国仏画の影響を強く受け、筆線や色調に力強い表現を用いるのが特徴。
彩色画、水墨画ともに多くの作品を遺す。元代の中国仏画の影響を強く受け、筆線や色調に力強い表現を用いるのが特徴。
その他
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