京都観光データベース@ wiki内検索 / 「大日如来」で検索した結果
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大日如来
大日如来 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』、佐和隆研著『仏像図典(増補版)』(吉川弘文館・1990) 概略 大日如来(だいにちにょらい)は両界曼荼羅の本尊で大乗仏教?における如来のひとつ。空海の開いた真言宗?において最高絶対的存在で、大毘盧遮那成仏神変加持経(大日経)の教主、毘盧遮那如来でもある。不動明王は大日如来の化身、あるいはその内証(内心の決意)を表現したものであるとみなされている。 名称 サンスクリット語のマハー・ヴァイローチャナ(Maha Vairocana)の音訳のまま摩訶毘盧遮那となった。その光明が遍く照らすところから遍照如来とも呼ばれ、その智慧の光は日神(ひのかみ)の威力をはるかに上まわるところから、その意をとって大日如来と呼ばれるのが一般的。「大日」という漢訳は、インドの密教僧の善無畏とその弟子の一行の案出。な... -
明王
... 五大明王の中心で、大日如来の教令輪身として真言?行者守護の役割を担っている。火を観想して動じないというところからこの名がおこったと思われる。一面二臂で憤怒の形相、莎髻(しゃけい)とよぶ花形の髻か蓮華を頭に抱き、怒りによって逆巻く髪を辮髪にまとめ上げ、法具は極力付けず軽装で、法衣は片袖を破って結んでいる。右手には降魔の三鈷剣を、左手に羂索(けんじゃく=悪を縛り上げ、また煩悩から抜け出せない人々を救い上げるための投げ縄のようなもの)を握りしめ、背に迦楼羅焔(かるらえん=伝説の火の鳥「迦楼羅」の形をした炎)を背負う。粗岩の上に座して「一切の人々を救うまではここを動かじ」と決意する姿が一般的である。のちには天地眼(右眼を見開き左眼をすがめる、或いは右眼で天、左眼で地を睨む)、牙上下出(右の牙を上方、左の牙を下方に向けて出す)という、左右非対称の姿の像が増えるようになる。また日本では坐像の他... -
た
... 人物 仏像 大日如来(だいにちにょらい) 語句 大乗仏教?(だいじょうぶっきょう) -
祇王寺
...山号は高松山、本尊は大日如来。法然?の弟子、念仏房良鎮の建てた往生院の跡といい、明治期に白拍子祇王ゆかりの寺として再興された。晩秋の境内を埋め尽くす散り紅葉が美しい。 歴史 嵯峨野にある小倉山の東麓、竹林に囲まれた一画に建つ。境内は法然?の弟子の念仏房の創立と伝える往生院跡にあたるが、中世以降荒廃していた。明治28年(1895)に『平家物語』『源平盛衰記』の遺跡として往生院祇王寺と名付け、尼寺として復興。当時の府知事であった北垣國道が、祇王を偲んで嵯峨の別荘にあった茶室(庵)を寄進し、これを本堂にして現在の祇王寺がつくられた。『平家物語』巻1によると、白拍子祇王は平清盛の寵愛を受けたが、加賀の白拍子仏御前に寵愛を奪われた。その後不本意な召出しを受け「都の外へ出ん」と決心し、「嵯峨の奥なる山里に、柴の庵をひきむすび念仏してこそゐたりけり」と21歳で尼となったという。境内には清... -
慶派
...蔵 重要文化財 大日如来坐像 奈良・円成寺所蔵 国宝 金剛力士立像 奈良・東大寺所蔵 国宝 弥勒菩薩?坐像、無著菩薩・世親菩薩立像 奈良・興福寺北円堂所蔵 国宝 八大童子立像 和歌山・金剛峯寺所蔵 国宝 快慶(かいけい) 生没年不詳 康慶の弟子で、運慶と並び称される巧匠。安阿弥陀仏とも称し、「安阿弥様(あんなみよう)」と呼ばれる穏やかで理知的、絵画的で繊細な作風は慶派の中では異色の存在。三尺前後の阿弥陀如来像の作例が多く、在銘の現存作も多い。師康慶や運慶とともに、平氏の南都焼き討ちで壊滅的な被害を受けた東大寺や興福寺の復興造仏事業に携わる。東大寺大仏再興の大勧進(総責任者)であった俊乗坊重源と関係が深く、東大寺の僧形八幡神像や東大寺俊乗堂の阿弥陀如来立像など重源関係の造像を数多く手掛けた。兵庫・浄土寺の阿弥陀三尊像なども、重源が設置した東大寺別所... -
東寺
...るのに対し、講堂には大日如来をはじめとする21躯の密教?彫像が所狭しと安置されている。諸仏は空海没後の承和6年(839)に完成しているが、全体の構想は空海によるもので、堂内中央には五仏(五智如来)、堂内向かって右(東方)には五大菩薩、向かって左(西方)には五大明王を安置するほか、堂内の東西端には梵天・帝釈天像、壇上四隅には四天王像を安置する。これら21躯の仏像のうち、五仏のすべてと五大菩薩の中尊、金剛波羅蜜多菩薩像は後補であり、残りの15躯が国宝に指定されている(五仏は重要文化財に指定)。 食堂 空海没後、9世紀末から10世紀初めにかけて完成した。昭和5年(1930)の火災で焼失し、現在の建物はその後の再建。本尊の千手観音立像は火災で焼損したが、1960年代に修理され、現在は寺内の宝物館に安置されている。 五重塔 京都のシンボルともなっている塔である。高さ54.8... -
法観寺
...派。本尊は五智如来(大日如来、阿閦如来、宝生如来、無量寿如来、不空成就如来)。現在は五重塔と若干の建造物のみが残存し、塔は八坂塔(やさかのとう)の通称で知られる。 歴史 『山城州東山法観寺仏舎利塔記』によると、推古天皇の御世に聖徳太子が四天王寺建立のための材木を山城愛宕郡に求めたときに一寺を建立し、五層の宝塔を設け、仏舎利を奉安して法観寺あるいは八坂寺と称したことを起源としている。塔の周囲の発掘調査でも飛鳥時代の瓦が発見され、この時代の建立が確実視されている。天暦年間(947~57)に天台宗?の僧、浄蔵が入寺した。強盗数十人が押し寄せた時に霊験で強盗を拘束したという説話や、塔が宮中の方角に傾いていたのを、祈祷によって直したという説話で知られる。治承4年(1180)に雷火のため焼失するが、のちに源頼朝によって再建された。正応4年(1291)に清水寺の僧徒と祇園社の神人の争いが... -
広隆寺
...聖徳太子半跏像 木造大日如来坐像(像高95.5cm) 木造大日如来坐像(像高74.5cm) 木造日光・月光菩薩立像 木造不動明王坐像 木造菩薩立像 木造千手観音坐像 木造五髻文殊菩薩坐像 木造多聞天立像 木造蔵王権現立像(像高100.4cm) 木造蔵王権現立像(像高96.4cm) 木造如意輪観音半跏像 鉄鐘 拝観情報 住所 京都市右京区太秦蜂岡町32 電話番号 075-861-1461 拝観時間 9:00~17:00(12月~2月は19:00~16:30) 拝観料 境内自由、新霊宝殿拝観700円、桂宮院拝観200円(現在拝観休止) アクセス 京都バス「太秦広隆寺前」下車すぐ 駐車場 無料駐車場あり 主な行事 1月1日 元旦祈願 1月2日 手斧(ちょうな)始め(開催未定) 2月22日 太子正当忌(一般非公開) 10月10日 牛祭(開催未定) 11... -
智積院
...ちょうさん)、本尊は大日如来、開基・開山は玄宥(げんゆう)である。川崎大師の通称で知られる平間寺や成田不動として知られる成田山新勝寺などを末寺に持つ。長谷川派による国宝の金碧障壁画を所蔵することで特に有名。 歴史 智積院の創建には、紀伊国(現和歌山県)にあった大伝法院と、豊臣秀吉が建立した祥雲寺という2つの寺が関係している。智積院はもともと根来山(ねごろさん)大伝法院の塔頭寺院である。大伝法院は真言宗?の僧覚鑁(かくばん)が大治5年(1130年)に高野山に創建したが、教義上の対立から覚鑁は高野山を去り、保延6年(1140年)に大伝法院を根来山に移して新義真言宗?を打ち立てた。南北朝時代に大伝法院の塔頭として真憲坊長盛が智積院を建立、根来山内の学問所という位置づけであった。近世には根来山は広大な伽藍と根来衆と称される鉄砲隊によって強勢を誇ったが、豊臣秀吉と対立し、天正13年(... -
清水寺
...建築物。初層内陣には大日如来像をまつり、四周の壁や天井、柱などには密教?仏画や飛天、龍などが極彩色で描かれている。内部は通常非公開。 子安塔 本堂の南、錦雲渓を隔てた丘上に建つ。江戸初期に再建。檜皮葺で高さ約15mと、やや小ぶりの塔。子安観音をまつり、安産や子育てに信仰を集める。もとは仁王門前にあったが、明治末に現在の場所に移築された。旧参道の「産寧坂(三年坂)」の名称は、この「産寧(安産)」の信仰にちなむものである。 音羽の滝 こんこんと流れ出る清水は古来から清めの水として尊ばれ、今日でも参詣者が列をなして柄杓に水を汲み、六根清浄や所願成就を祈る。滝の祠には不動明王と清水寺開祖の延鎮上人がまつられている。 主な塔頭・鎮守社 成就院 境内北方にある、清水寺の本坊。室町時代中期、文明年間(1469~1487)に願阿上人により創建された。現在の建物は寛永... -
青蓮院
...中で発見された石仏の大日如来を祀る。4,000坪の敷地には枯山水庭園や展望台があり、紅葉の名所として有名。春・秋には夜間拝観が実施される。境内にある将軍塚は、桓武天皇が平安京?遷都にあたり、王城鎮護のために甲冑と弓矢、太刀を持たせた将軍像(一説に征夷大将軍の坂上田村麻呂がモデルとも)を埋めたところといい、国家に異変が起きたときには激しく鳴動したという。展望台からは京都市街の見晴らしがよい。 文化財 国宝 絹本著色不動明王二童子像(青不動) 重要文化財(建造物) なし 重要文化財(美術工芸品) 金地着色浜松図 紙本墨書後光厳院宸翰御消息 紺紙金泥大灌頂光明真言 解深密経 門葉記 夜鶴庭訓抄 往生要集 観音応験記 八家秘録及び諸真言目録 慈円一期思惟記 青蓮院吉水蔵聖教類 円仁自筆書状 皇慶附嘱状・皇慶起請 円仁入唐請来書目録 慈円自筆四天王寺聖霊院願文... -
延暦寺
...焼失している。本尊は大日如来。本尊の両脇には向かって左から日蓮、道元、栄西、円珍、法然?、親鸞?、良忍、真盛、一遍の像が安置されている。 法華総持院東塔 昭和55年(1980)再建。多宝塔型の塔であるが、通常の多宝塔と異なり、上層部は平面円形ではなく方形をしている。下層内陣には胎蔵界大日如来、上層には仏舎利と法華経1,000部を安置。 戒壇院 授戒・説戒が行われる建物で、延宝6年(1678年)の再建。 3間四方、栩葺で宝形造。裳階があるため外観は二重屋根に見える。建築様式は桟唐戸や花頭窓を用いるなど禅宗様であるが、やや趣が異なり簡素な組物が使われている。 国宝殿 山内諸堂の本尊以外の仏像や絵画、工芸品、文書などを収蔵展示する。 無動寺明王堂 根本中堂から南へ1.5kmほど離れたところにあり、千日回峰行の拠点である。貞観7年(865)、回峰行の創... -
平等院
...川の岸辺近くにあり、大日如来を本尊としていたが、天喜元年(1053)には、西方極楽浄土をこの世に出現させたような阿弥陀堂(現・鳳凰堂)が建立された。また平等院には、鳳凰堂以外にも法華堂、多宝塔、五大堂、不動堂などの堂塔が建ち並んでいたのだが、建武3年(1336)の楠木正成と足利氏の軍勢による兵火をはじめ、度重なる災害により堂塔は廃絶し、鳳凰堂のみが奇跡的に災害をまぬがれて存続している。平安時代後期の京都では、平等院以外にも皇族・貴族による大規模寺院の建設が相次いでいた。藤原道長?は寛仁4年(1020)、無量寿院(のちの法成寺)を建立、また11世紀後半から12世紀にかけては白河天皇勅願の法勝寺を筆頭に、尊勝寺、最勝寺、円勝寺、成勝寺、延勝寺のいわゆる「六勝寺」が現在の岡崎あたりに相次いで建立された。しかし、歴史書に名をとどめるこれらの大伽藍も今は跡形もなく、平安時代の貴族が建立した寺院... -
薬師如来
薬師如来 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか 概略 薬師如来(やくしにょらい)は、大乗仏教?における如来のひとつ。極楽往生を約束する仏である阿弥陀如来とともに、日本においてはもっとも信仰されてきた如来である。顕教系の如来であって、密教?の曼荼羅類には一切登場しない。薬師如来の縁日は毎月8日である。これは、薬師如来の徳を講讃する「薬師講」に由来すると考えられている。 名称 正式な尊名は薬師瑠璃光如来。東方浄瑠璃世界の教主であり、12の大願を発し、瑠璃光を以って衆生の病苦を救うとされている。無明の病を直す法薬を与える医薬の仏として信仰を集める。 像容 像容は、立像、坐像ともにあり、印相は右手を施無畏(せむい)印、左手を与願印とし、左手に薬壺(やくこ)を持つのが通例。持ち方は片手に乗せる、両手に乗せるの二通りがある。ただし... -
釈迦如来
釈迦如来 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか 概略 釈迦如来(しゃかにょらい)は、仏教の開祖である釈迦を仏(仏陀)として敬う呼び方。釈迦牟尼仏とも呼ばれる。数多い仏像の中でも唯一実在した人物をモチーフにしているため、他の仏像とは位置づけが異なる。小乗仏教?では、釈迦牟尼仏は現世における唯一の仏とみなされている。従って、修行者が到達できる境地も阿羅漢止まりで、如来(仏=仏陀)にはなれないと考えられた。大乗仏教?では、釈迦牟尼仏は十方(東南西北とその中間である四隅の八方と上下)三世(過去、未来、現在)の無量の諸仏の一仏で、現在の娑婆の仏である。 名称 釈迦(しゃか、シャーキャ)は釈迦牟尼(しゃかむに、シャーキャ・ムニ)の略で、釈迦牟尼世尊ともいい、略して釈尊(しゃくそん)とも呼ばれる。原語のシャーキャ・ムニは「釈迦族の聖者」の意味... -
阿弥陀如来
阿弥陀如来 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか 概略 阿弥陀如来(あみだにょらい)は、浄土教の中心をなす仏で、大乗仏教?における最も重要な仏のひとつ。西方極楽浄土の教主として最も人気があり、浄土思想?の発達とともに中国および日本で隆盛した。密教では五仏(五智如来)の一如来である。 名称 サンスクリット語ではAmitabha(無限の光明をもつもの、無量光)、Amitayus(無限の寿命をもつもの、無量寿)のふたつの名があり、音写によって「阿弥陀仏」「阿弥陀」と呼び、略して「弥陀」ともいう。中国では、阿弥陀と相並んで無量寿という意訳語がよく用いられたので、阿弥陀如来のことを無量寿如来とも呼ぶ。 像容 中国では4世紀にはすでに造像があったと伝えられ、6世紀以降から7世紀後半を頂点として彫像や阿弥陀浄土変相が盛んに制作された... -
清凉寺
清凉寺(嵯峨釈迦堂) 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか 概略 清凉寺(せいりょうじ)は、京都市右京区嵯峨にある浄土宗?の寺院。山号を五台山(ごだいさん)と称する。開基(創立者)は奝然(ちょうねん)、開山(初代住職)はその弟子の盛算(じょうさん)である。本尊は釈迦如来。嵯峨釈迦堂(さがしゃかどう)の名でも知られ、中世以来融通念仏?の道場としても知られている。宗派は初め華厳宗、後に浄土宗?となる。 歴史 この寺の歴史には、阿弥陀如来を本尊とする棲霞寺(せいかじ)と、釈迦如来を本尊とする清凉寺というふたつの寺院が関係する。この地には嵯峨天皇の皇子、左大臣源融の別荘、栖霞観(せいかかん)があった。源融の一周忌に当たる寛平8年(896)に、融が生前に造立発願して果たせなかった阿弥陀三尊像を子息が造り、これを安置した阿弥陀堂を棲霞寺と号... -
醍醐寺
醍醐寺 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか 概略 醍醐寺(だいごじ)は、京都市伏見区醍醐にある真言宗?醍醐派総本山の寺院。山号を醍醐山(深雪山とも)と称する。本尊は薬師如来、開基(創立者)は理源大師聖宝(しょうぼう)。伏見区東方に広がる醍醐山(笠取山)に200万坪以上の広大な境内をもち、伽藍は山上の上醍醐と山麓の下醍醐にわかれて建ち並んでいる。寺宝10余万点、うち国宝・重要文化財107件約4万点を所有する屈指の大寺院。古都京都の文化財の一部として世界遺産に登録されている。 歴史 寺伝によると、創建は貞観16年(874)、空海の孫弟子にあたる理源大師聖宝が霊感を得て笠取山に登り、准胝観音?並びに如意輪観音を造って祀ったのが最初という。聖宝は同山頂付近を「醍醐山」と名付けた。延喜7年(907)には醍醐天皇の御願寺となって飛躍的に発... -
永観堂
禅林寺(永観堂) 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか 概略 禅林寺(ぜんりんじ)は、京都市左京区永観堂町にある浄土宗?西山禅林寺派総本山の寺院。一般には通称の永観堂(えいかんどう)の名で知られる。山号を聖衆来迎山(しょうじゅらいごうさん)、院号を無量寿院と称する。本尊は阿弥陀如来、開基(創立者)は、空海の高弟の真紹僧都(しんじょうそうず)。古くより「秋はもみじの永観堂」と謳われた紅葉の名所である。 歴史 空海の高弟である真紹僧都が、都における実践道場の建立を志し、五智如来を本尊とする寺院を建立したのが起源とされる。真紹は仁寿3年(853)、歌人・文人であった故・藤原関雄?の邸宅跡を買い取り、ここを寺院とすることにした。10年後の貞観5年(863)、当時の清和天皇より定額寺としての勅許と「禅林寺」の寺号を賜わって公認の寺院となっ... -
泉涌寺
泉涌寺 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか 概略 泉涌寺(せんにゅうじ)は、京都市東山区泉涌寺山内町にある真言宗?泉涌寺派総本山の寺院。山号は東山(とうざん)または泉山(せんざん)。本尊は釈迦如来、阿弥陀如来、弥勒如来?の三世仏。平安時代の草創と伝えるが、実質的な開基(創立者)は鎌倉時代の月輪大師俊芿(がちりんだいししゅんじょう)である。東山三十六峰の南端にあたる月輪山の山麓に広がる寺域内には、鎌倉時代の後堀河天皇、四条天皇、江戸時代の後水尾天皇以下幕末に至る歴代天皇の陵墓があり、皇室の菩提寺として「御寺(みてら)」とも呼ばれている。 歴史 仁和寺、大覚寺などとともに皇室ゆかりの寺院として知られるが、草創の時期や事情についてはあまり明らかではない。伝承によれば、斉衡3年(856)、左大臣藤原緒嗣?(おつぐ)が、自らの山荘に神修... -
定朝
定朝 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか 概略 定朝(じょうちょう)は平安時代後期に活躍した仏師。彫りが浅く、平行して流れる衣文や瞑想的な表情などの作風は「仏の本様」と称せられる。のちに「定朝様」として日本の彫刻の規範とされ、定朝の表現を踏襲した作例が多く造られた。?年~天喜5年(?~1057) 人物史 初めて寺院から独立した工房を構え、有力貴族や寺院の造像を行った康尚の子といわれる。藤原道長?の法成寺の造像に加わり、道長?の没後は子の頼通?のもとで活躍する。永承3年(1048)には興福寺中金堂・南円堂の復興造像を手掛け、天喜元年(1053)には平等院鳳凰堂の阿弥陀如来像を造像するなど、藤原氏?一族の造仏に従事した。万寿3年(1126)には後一条天皇の中宮威子の御産御祈の等身仏の造像を手掛ける。その際、統率下に20人の大仏師と... -
神護寺
神護寺 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか 概略 神護寺(じんごじ)は、京都市右京区高雄にある高野山真言宗?別格本山の寺院。山号を高雄山と号する。本尊は薬師如来、開基は和気清麻呂である。京都市街の北西、 愛宕山(924m)山系の高雄山の中腹に位置する山岳寺院で、清滝川に架かる高雄橋から長い参道を歩いた先の山中に金堂、多宝塔、大師堂などの堂宇が建つ。空海が教王護国寺(東寺)や高野山の経営に当たる前に一時住した寺であり、最澄もここで法華経の講義をしたことがある。秋には6万坪の山内全域が錦秋に彩られ、紅葉の名所として特に著名。高雄(高尾)の神護寺、槇尾の西明寺、栂尾の高山寺を合わせ「三尾」とも呼ばれる。 歴史 神護寺は「神願寺」と「高雄山寺」というふたつの寺院が天長元年(824)に合併してできた寺である。神願寺は、和気清麻呂により... -
西明寺
西明寺 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか 概略 西明寺(さいみょうじ)は、京都市右京区梅ヶ畑槇尾(まきのお)町にある寺院。山号は槇尾山。本尊は釈迦如来、宗派は真言宗?大覚寺派。開基(創立者)は、空海の十大弟子のひとりで甥にあたる智泉大徳。高雄(高尾)の神護寺、槇尾の西明寺、栂尾の高山寺を合わせ「三尾」とも呼ばれる。春に咲く三つ葉つつじの群生と秋の紅葉の見事さで知られる。 歴史 西明寺は神護寺の別院として天長9年(832)に智泉大徳によって創建された。鎌倉時代には荒廃したが、建治年間(1275~1278)に和泉国槇尾山寺の自性上人が中興し、本堂、経蔵、宝塔などが建てられた。また、正応3年(1290)には「平等心王院」の号を後宇多法皇より賜わり、神護寺より独立することになる。永禄年間(1558~1570)に兵火によって伽藍を焼失... -
真如堂
真正極楽寺(真如堂) 出典 赤松俊秀『京都寺史考』(法蔵館・1972)、京都府教育庁文化財保護課編『京都府の近世社寺建築』(京都府教育委員会・1983)、『日本古寺美術全集』25(集英社・1981)ほか 概略 真正極楽寺(しんしょうごくらくじ)は、京都市左京区浄土寺真如町にある天台宗?の寺院で通称真如堂(しんにょどう)と呼ばれる。寺名は正真正銘の極楽の寺という意味で、真如堂はもともと本堂の呼び名であったという。山号は鈴聲山(れいしょうざん)、本尊は阿弥陀如来、開基(創立者)は戒算である。不断念仏の道場として念仏行者や庶民、特に女性の信仰を得てきた。紅葉の名所としても有名。 歴史 『真如堂縁起』によれば、永観2年(984)に一条天皇の母である東三条院(藤原詮子?)の御願により、延暦寺常行堂にあった阿弥陀如来像を神楽岡の東にあった女院離宮に移し、正暦3年(99... -
知恩院
知恩院 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか 概略 知恩院(ちおんいん)は、京都市東山区にある浄土宗?総本山の寺院。山号は華頂山。本尊は阿弥陀如来、開基(創立者)は法然?。浄土宗?の宗祖・法然?が後半生を過ごし、没した地に建てられた。東山三十六峰のひとつ、華頂山の麓の約7万3000坪におよぶ広大な寺域に、13ヵ寺の塔頭寺院を含めて大小100棟以上の堂宇が建ち並ぶ大寺院である。 歴史 知恩院は、浄土宗?の宗祖・法然房源空?が結んだ草庵をその起源とする。法然?は比叡山でも奥深い山中にある西塔黒谷の叡空に師事し、源光と叡空の名前の1字ずつを取って法然坊源空?と改名した。承安5年(1175)、43歳の時、唐時代の高僧・善導の著作『観経疏』を読んで「専修念仏」の思想に開眼し、浄土宗?の開宗を決意して山を下り、現在の知恩院勢至堂付近に草庵を... -
あ
寺院 化野念仏寺?(あだしのねんぶつじ) 神社 愛宕神社?(あたごじんじゃ) 城・御所離宮 地名・園池 嵐山(あらしやま) 人物 足利氏(あしかがし) 仏像 阿弥陀如来(あみだにょらい) 語句 葵祭?(あおいまつり) -
や行
寺院 八坂塔(やさかのとう)→法観寺(ほうかんじ) 山科聖天(やましなしょうてん)→毘沙門堂(びしゃもんどう) 善峯寺(よしみねでら) 神社 八坂神社(やさかじんじゃ) 城・御所離宮 地名・園池 人物 栄西(ようさい) 仏像 薬師如来(やくしにょらい) 語句 融通念仏宗?(ゆうずうねんぶつしゅう) -
三千院
三千院 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか 概略 三千院(さんぜんいん)は、京都市左京区大原?にある天台宗?の門跡?寺院。円融房、梨本門跡、梶井門跡などとも称する。青蓮院、妙法院?、曼殊院?、毘沙門堂とともに、天台五門跡?のひとつに数えられている。山号は魚山(ぎょざん)、本尊は薬師如来、開基は最澄。境内の往生極楽院は元来別の寺院で12世紀から大原?の地にあったもの。明治4年(1871)に三千院の本坊が移転した際に、その境内に取り込まれた。 歴史 三千院は天台五門跡?の中でも最も歴史が古く、最澄が延暦7年(788)に延暦寺を開いた時に、東塔南谷に「円融房」を開創したのがその起源という。円融房のそばに大きな梨の木があったため、後に「梨本門跡」の別称が生まれた。当時、比叡山内の寺院の多くは、山麓の平地に「里坊」と呼ばれる拠点をもって... -
苔寺
西芳寺(苔寺) 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』、重森千靑著『京の庭』(ウェッジ・2003)ほか 概略 西芳寺(さいほうじ)は、京都市西京区松尾にある臨済宗?の寺院。一般には通称の苔寺(こけでら)で知られる。山号を洪隠山(こういんざん)。開山は行基、中興開山は夢窓疎石である。古都京都の文化財の一部として世界遺産に登録されている。 歴史 寺伝によると西芳寺のある場所は聖徳太子の別荘であったものを、奈良時代の僧・行基が寺にしたもので、当初は西方寺と称し、阿弥陀如来を本尊とする法相宗の寺であったという。その後、空海、法然?などが入寺したと伝える。近くにある松尾大社?の宮司藤原親秀?は、暦応2年(1339)に当時の高僧であり作庭の名手でもあった夢窓疎石を招請して、すっかり荒れ果てていたこの寺を禅寺として再興した。もとの寺名「西方寺」は、... -
仁和寺
仁和寺 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか 概略 仁和寺(にんなじ)は、京都府京都市右京区御室にある真言宗?御室派総本山の寺院。山号を大内山と称する。本尊は阿弥陀如来、開基(創立者)は宇多天皇である。皇室とゆかりの深い寺で、出家後の宇多法皇が住したことから「御室御所」の別名があり、桜の名所としても知られる。徒然草に登場する「仁和寺にある法師」の話は著名。古都京都の文化財の一部として世界遺産に登録されている。 歴史 仁和寺は光孝天皇の勅願で仁和2年(886)に建て始められたが、同天皇は寺の完成を見ずに翌年死去した。遺志を引き継いだ宇多天皇によって、仁和4年(888)に落成し、年号をとって仁和寺と号した。宇多天皇は出家後、仁和寺伽藍の西南に御室と呼ばれる僧坊を建てて住んだため、「御室御所」の別称がある。なお、御室の旧地には現在、「... -
天龍寺
天龍寺 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか 概略 天龍寺(てんりゅうじ)は、京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町(すすきのばばちょう)にある、臨済宗?天龍寺派大本山の寺院。山号は霊亀山(れいぎざん)。寺号は正式に天龍資聖禅寺(てんりゅうしせいぜんじ)と称する。本尊は釈迦如来、開基(創立者)は足利尊氏、開山(初代住職)は夢窓疎石である。足利将軍家と後醍醐天皇ゆかりの禅寺として壮大な規模と高い格式を誇り、京都五山?の第一位とされてきた。古都京都の文化財の一部として世界遺産に登録されている。 歴史 天龍寺の地には平安時代初期、嵯峨天皇の皇后橘嘉智子が開いた檀林寺?があった。その後、荒廃していた檀林寺?の地に後嵯峨天皇とその皇子である亀山天皇が離宮を営み、「亀山殿」と称した。「亀山」とは、天龍寺の西方にあり紅葉の名所として知られた小倉山の... -
千本釈迦堂
大報恩寺(千本釈迦堂) 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』、『日本歴史地名大系』27(平凡社・1979)、竹内秀雄『天満宮』(吉川弘文館・1968)、『日本美術全集』10(講談社・1991)、『古写経』(京都国立博物館・2004) 概略 大報恩寺(だいほうおんじ)は、京都市上京区溝前町にある真言宗?智山派の寺院。俗に千本釈迦堂(せんぼんしゃかどう)、北野釈迦堂とも呼ばれる。山号は瑞応山、本尊は釈迦如来。本堂は旧京都市街に現存する本堂建築としては最も古く、また重要文化財の仏像19躯を有する中世彫刻の宝庫でもある。 歴史 承久3年(1221)に猫間中納言藤原光隆?の従者、岸高が藤原秀衡の孫にあたる僧、求法上人義空に土地を寄進し、小堂に仏像を安置したことに始まる。昭和26年(1951)の解体修理で発見された義空の願文によれば、上棟は安貞... -
建仁寺
建仁寺 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか 概略 建仁寺(けんにんじ)は、京都市東山区にある臨済宗?建仁寺派大本山の寺院。山号を東山(とうざん)と号する。本尊は釈迦如来、開基(創立者)は源頼家、開山は栄西である。日本最古の禅寺であり、京都五山?の第三位に列せられている。特に漢詩の素養の高い禅僧を輩出したことから「建仁寺の学問づら」とも呼ばれた。 歴史 建仁寺は日本に臨済宗?を正式に伝えた栄西が建仁2年(1202)に鎌倉幕府2代将軍源頼家の援助を得て、京都における臨済宗?の拠点として建立した。寺名は当時の年号を朝廷から贈られている。伽藍は宋の百丈山に模して造営され、工事にあたっては有力御家人の佐々木定綱や畠山重忠らが協力したという。創建当時の建仁寺は天台?、真言?、禅の三宗並立であったが、これは当時の京都では真言?、天台?の既存... -
高山寺
高山寺 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか 概略 高山寺(こうざんじ)は、京都市右京区梅ヶ畑栂尾(とがのお)町にある寺院。山号は栂尾山。本尊は釈迦如来、宗派は真言宗?御室派系の単立である。創建は奈良時代と伝えるが、実質的な開基(創立者)は、鎌倉時代の明恵上人である。高雄(高尾)の神護寺、槇尾の西明寺、栂尾の高山寺を合わせ「三尾」とも呼ばれる。国宝7件、重要文化財50件を所有し、指定を受けている典籍の総数は1万点を超える。古都京都の文化財の一部として世界遺産に登録されている。 歴史 高山寺のある栂尾は、紅葉の名所として知られる高雄山神護寺からさらに奥に入った山中に位置し、古代より山岳修行の適地として、小寺院が営まれていたようである。平安時代には、近隣の神護寺の別院とされ、「神護寺十無尽院(じゅうむじんいん)」と称されていた。これ... -
鹿王院
鹿王院 出典 京都府教育委員会編『鹿王院文書目録』(京都府教育委員会・1997)、鹿王院文書研究会編『鹿王院文書の研究』(思文閣出版・2000)、『国史大辞典』、『京都市の文化財 記念物』(京都市文化観光局文化部文化財・1992)ほか 概略 鹿王院(ろくおういん)は、京都市右京区嵯峨北堀町にある臨済宗?系の単立寺院。 山号は覚雄山、本尊は釈迦如来、開山(初代住職)は春屋妙葩、開基(創立者)は室町幕府3代将軍である足利義満。 歴史 鹿王院は、康暦2年(1380)に足利義満が建立した大福田宝幢寺の開山塔として創建されたことに始まる。開山の春屋妙葩は夢窓疎石の俗甥にあたり、貞和元年(1346)より天龍寺雲居庵の塔主となった。夢窓の没後、春屋妙葩は義堂周信とともに夢窓門下の中枢として天龍寺・臨川寺焼失後の復旧に尽力するなど活躍したが、応安2年(1369)に延暦寺衆... -
善峯寺
善峯寺 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』、井上光貞著『日本浄土教成立史の研究』(山川出版社・1956)、京都府教育庁文化財保護課編『京都府の近世社寺建築』(京都府教育委員会・1983)、『王朝の仏画と儀礼』(京都国立博物館・1998)ほか 概略 善峯寺(よしみねでら)は、京都市西京区大原野小塩町にある天台宗?系単立の善峯観音宗の寺院。山号は西山、本尊は千手観音、開基(創立者)・開山は恵心僧都の高弟、源算。西国三十三箇所観音霊場の第20番札所で、桜や紫陽花、紅葉の名所としても有名。 歴史 草創は寺伝によると天台宗?の僧、源算が長元3年(1030)に伽藍を建立した(長元2年(1029)とも)のが始まりという。源算は因幡国(現鳥取県)の人で、出家して比叡山で授戒した。源算が比叡山を降り、西山に道場を建立しようとしたところ、霊夢に助成の... -
金戒光明寺
金戒光明寺 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか 概略 金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)は、京都市左京区黒谷町にある黒谷浄土宗?の寺院。山号は紫雲山、本尊は阿弥陀如来、開基(創立者)は法然?。知恩院・清浄華院?・百万遍知恩寺?とともに浄土宗?大本山のひとつとして高い格式を誇り、「黒谷(くろだに)さん」の俗称でも知られる。幕末には会津藩主松平容保が京都守護職の本陣を置いて家臣と共に駐屯した。 歴史 寺伝によれば、承安5年(1175)に法然?が比叡山の黒谷を下り、草庵を結んだのがこの寺の始まりであるとされる。草庵の地はもと延暦寺の寺領であり、この地にあった白河禅房を法然?が師より譲りうけて念仏道場とした。なお比叡山の黒谷(元黒谷)に対して新黒谷と呼ばれたが、現在は新黒谷は使われず単に黒谷と呼ばれる。寺号の紫雲山は、法然?がこの地に... -
東福寺
東福寺 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか 概略 東福寺(とうふくじ)は、京都市東山区本町にある臨済宗?東福寺派大本山の寺院。山号は慧日山(えにちさん)、本尊は釈迦如来、開基(創立者)は九条道家?、開山(初代住職)は聖一国師?、円爾弁円?(えんにべんねん)である。京都五山?の第四位の禅寺として中世、近世を通じて栄え、特に巨大な建造物群を有したことから「東福寺の伽藍づら」とも呼ばれた。また『元亨釈書』の著者である虎関師錬(こかんしれん)や、室町時代に画僧として活躍し、その後の仏画や水墨画に多大な影響を及ぼした吉山明兆ら多くの名僧も輩出する。寺名は奈良の東大寺、興福寺の二大寺から1字ずつ取っている。 歴史 東福寺が建つ地には、延長2年(924)に藤原忠平?によって建てられた藤原氏?の氏寺、法性寺?の巨大な伽藍があった。嘉禎2年(1... -
し
寺院 慈照院(じしょういん)→相国寺(しょうこくじ) 慈照寺(じしょうじ)→銀閣寺(ぎんかくじ) 詩仙堂(しせんどう) 地蔵院?(じぞういん) 寂光院(じゃっこういん) 聚光院(じゅこういん)→大徳寺(だいとくじ) 春光院(しゅんこういん)→妙心寺(みょうしんじ) 相国寺(しょうこくじ) 丈山寺(じょうざんじ)→詩仙堂(しせんどう) 勝持寺?(しょうじじ) 成就院(じょうじゅいん)→清水寺(きよみずでら) 聖澤院(しょうたくいん)→妙心寺(みょうしんじ) 正伝永源院(しょうでんえいげんいん)→建仁寺(けんにんじ) 正伝寺?(しょうでんじ) 青蓮院(しょうれんいん) 神護寺(じんごじ) 真珠庵(しんじゅあん)→大徳寺(だいとくじ) 真宗本廟(しんしゅうほんびょう)→東本願寺(ひがしほんがんじ) 真如堂(しんにょどう)(真正極楽寺(しんしょうごくらくじ)) 神社 地主神社(じしゅじん... -
東本願寺
東本願寺(真宗本廟) 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか 概略 東本願寺(ひがしほんがんじ)は、京都市下京区にある浄土真宗?の一派、真宗大谷派の本山寺院。「お東さん」の愛称でも呼ばれるが「東本願寺」は通称であり、正式名称は真宗本廟(しんしゅうほんびょう)。本尊は阿弥陀如来、開基(創立者)は教如(本願寺光寿)。徳川家康より本願寺(現在の西本願寺)の東側に寺領を与えられて創建された。近接する飛地境内地の渉成園も管理する。 歴史 浄土真宗?の宗祖親鸞?の末娘覚信尼によって興った本願寺が、越前国(福井県)吉崎から京都の山科、大坂の石山と各地を移転しながら発展。石山での織田信長との10年間のわたる抗争・和睦を経て、天正19年(1591)に豊臣秀吉からの土地の寄進を受け、京都市下京区堀川六条に移転する。本願寺11世顕如の死後、長男の教如と... -
恵心僧都
恵心僧都(源信) 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)ほか 概略 源信(げんしん)は平安時代中期の天台宗?の僧で、延暦寺の横川(よかわ)にある恵心院で修行したため、恵心僧都(えしんそうず)、横川僧都(よかわそうず)とも呼ばれる。浄土真宗?が言うところの七高僧の一人で、鎌倉時代の浄土教?や民衆仏教に大きな影響を与えた。源信の作と伝わる仏像も数多い。天慶5年~寛仁元年(942~1017) 人物史 大和国(現奈良県)当麻生まれ。父は卜部氏、母は清原氏。父の死後、信仰心の篤い母の影響により9歳で延暦寺中興の祖である良源(元三大師)の門に入り、止観業、遮那業を学ぶ。学識豊かな論議の名手として知られ、15歳のとき、村上天皇により法華八講の講師のひとりに選ばれたが、母の教えに従って人目に立つことを避け、比叡山横川の恵心院に籠もる。その後は学問と念仏... -
龍安寺
龍安寺 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』、重森千靑著『京の庭』(ウェッジ・2003)ほか 概略 龍安寺(りょうあんじ)は、京都府京都市右京区にある臨済宗?妙心寺派の寺院。山号は大雲山。本尊は釈迦如来、開基(創立者)は細川勝元、開山(初代住職)は義天玄承である。古都京都の文化財の一部として世界遺産に登録されている。 歴史 龍安寺は、室町幕府の管領、守護大名で応仁の乱の東軍総帥でもあった細川勝元が宝徳2年(1450)に創建した禅寺である。衣笠山山麓に位置する龍安寺の所在地は、藤原北家?の流れを汲む徳大寺実能?以来、徳大寺?家の山荘であったところを、細川勝元が譲り受けたもの。初代住職として妙心寺第5世住持の義天玄承(玄詔)を迎えた。龍安寺の開山は実質的にはこの義天玄承とされているが、義天自身は2世に退き、自分の師の日峰宗舜を開山に立て... -
十一面観音
十一面観音 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか 概略 十一面観音(じゅういちめんかんのん)は、仏教の信仰対象である菩薩のひとつ。サンスクリットではエカーダシャムッカといい「11の顔を持つもの」の意である。観音菩薩の変化神のひとつであり、六観音のひとつでもある。十一面観音はその深い慈悲により衆生の中から一切の苦しみを抜き去る功徳を施す仏であるとされ、女神のような官能的な容姿に造られたものが多い。 名称 日本語では「十一面観音」、「十一面観世音菩薩」などさまざまな呼び方があるが、国宝、重要文化財等の指定名称は「十一面観音」に統一されている。 像容 玄奘訳の「十一面神咒心経」にその尊容が明らかにされている通り、本体の顔以外に11の顔を持つ菩薩である。多くの十一面観音は、頭部正面に阿弥陀如来の化仏(けぶつ)をいだき、頭上には... -
南禅寺
南禅寺 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか 概略 南禅寺(なんぜんじ)は、京都市左京区南禅寺福地町にある臨済宗?南禅寺派大本山の寺院。山号は瑞龍山、寺号は正式に「太平興国南禅禅寺」と称する。本尊は釈迦如来、開基(創立者)は亀山法皇、開山(初代住職)は無関普門?(大明国師?)である。皇室の発願になる禅寺としては日本最初のもので、京都五山?の上位(第一位の天龍寺よりさらに上に位置する)の別格扱いの寺院として、最も高い格式を誇る。 歴史 正応4年(1291)、亀山法皇は禅林寺殿を寺にあらため、当時80歳の無関普門?を開山として「龍安山禅林禅寺」と名づけた。伝承によれば、この頃禅林寺殿に夜な夜な妖怪変化が出没して亀山法皇を悩ましたが、無関普門?が弟子を引き連れて入り、座禅をしただけで妖怪は退散したので、法皇は無関?を開山に請じたという... -
西本願寺
西本願寺(本願寺) 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか 概略 西本願寺(にしほんがんじ)は、京都市下京区にある浄土真宗?の寺院で浄土真宗?本願寺派の本山。「西本願寺」は通称で正式名称は本願寺である。本尊は阿弥陀如来、開基(創立者)は親鸞?の末娘の覚信尼。宗門の地方寺院数は約10,000箇寺、在籍僧侶数は約30,000人を数える。現在も創建以来の数多くの名宝を有し、古都京都の文化財の一部として世界遺産に登録されている。 歴史 浄土真宗?の宗祖親鸞?の入滅後、末娘の覚信尼が文永9年(1272)に現在の知恩院の崇泰院あたりに廟堂を営み、遺骨を安置したのが本願寺の発祥である。その後、廟堂は内紛のため破壊されたが、3代覚如が再建し専修寺と号し、さらに本願寺と改称した。その後8代蓮如が本願寺を大教団に育てた。当時の本願寺は天台宗?の末寺と... -
相国寺
相国寺 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか 概略 相国寺(しょうこくじ)は、京都市上京区にある臨済宗?相国寺派大本山の寺院。山号は万年山、本尊は釈迦如来、開基(創立者)は足利義満、開山(初代住職)は夢窓疎石である。足利将軍家ゆかりの禅寺であり、京都五山?の第二位に列せられている。五山文学の中心地でもあり、画僧周文や雪舟を輩出した。また、境内には13の塔頭寺院があり、鹿苑寺(金閣寺)、慈照寺(銀閣寺)は相国寺の境外塔頭である。 歴史 室町幕府3代将軍足利義満は、いわゆる「花の御所」の隣接地に一大禅宗伽藍を建立することを永徳2年(1382)に発願。竣工したのは10年後の明徳3年(1392)であった。寺名の相国は「国を相(たす)ける人」から来ており、中国では宰相、日本では太政大臣の意味になり、太政大臣にまで登りつめた義満によって建て... -
大覚寺
大覚寺 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』、大覚寺史資料編纂室『大覚寺文書』上・下(大覚寺・1980)、中村直勝監修『大覚寺』(主婦の友社・1975)、『日本古寺美術全集』14(集英社・1982)、『日本美術絵画全集』12(集英社・1981)ほか 概略 大覚寺(だいかくじ)は、京都市右京区嵯峨大沢町にある真言宗?大覚寺派の大本山の寺院。山号は嵯峨山、本尊は不動明王を中心とした五大明王、開基(創立者)は嵯峨天皇、開山(初代住職)は淳和天皇の第2皇子恒寂入道親王である。嵯峨天皇の離宮を寺に改めた皇室ゆかりの門跡?寺院で、後宇多法皇が院政を行ったため嵯峨御所とも称された。嵯峨天皇に始まるという華道の嵯峨御流を今に伝える。 歴史 空海、橘逸勢と並んで三筆に数えられた嵯峨天皇の離宮であった嵯峨院に、嵯峨天皇の信任を得ていた空海が五大明王を安... -
大徳寺
大徳寺 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか 概略 大徳寺(だいとくじ)は、京都市北区紫野にある臨済宗?大徳寺派大本山の寺院。山号を龍宝山と称する。本尊は釈迦如来、開基(創立者)は宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう)。茶の湯の文化と縁が深いことから「大徳寺の茶づら」とも呼ばれた。境内には仏殿、法堂をはじめとする中心伽藍のほか、20ヵ寺を超える塔頭寺院が建ち並び、建造物、庭園、障壁画、茶道具、書画など多くの文化財を今に伝えている。 歴史 開祖である宗峰妙超は、鎌倉の高峰顕日(こうほうけんにち)や京の南浦紹明?(なんぽじょうみん)に参禅し、徳治2年(1307)には師から印可を得る。播磨国(現兵庫県)守護・赤松氏の家臣である浦上(うらのえ)家の出身であった縁で、正和4年(1315)、赤松則村(円心)の帰依を受け(元応元年=1319説も)... -
八坂神社
八坂神社 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』、『八坂神社の研究』(臨川書店・1974)、『重要文化財八坂神社本殿修理工事報告書』(京都府教育委員会・1964)、『国宝・重要文化財大全』12(毎日新聞社・2000)、京都府教育庁文化財保護課編『京都府の近世社寺建築』(京都府教育委員会・1983)、京都国立博物館編『祇園・八坂神社の名宝』(八坂神社・2002)ほか 概略 八坂神社(やさかじんじゃ)は、京都市東山区祇園町北側にある神社。素戔嗚命(すさのをのみこと)、櫛稲田姫命(くしいなだひめのみこと)、八柱神子神(やはしらみこがみ)を祀る。神仏分離以前は祇園感神院・祇園社と称していたため「祇園さん」の愛称で呼ばれる。二十二社のひとつで、旧社格は官幣大社。疫病退散・無病息災・家運長久・商売繁昌などのご利益があるとされ、朝廷や幕府、京の市民の信仰を集... -
萬福寺
萬福寺 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか 概略 萬福寺(まんぷくじ)は、京都府宇治市にある黄檗宗?大本山の寺院。山号は黄檗山、開山は隠元隆琦(いんげんりゅうき)、本尊は釈迦如来。日本の近世以前の仏教各派の中では最も遅れて開宗した、黄檗宗?の中心寺院で、中国・明出身の僧隠元を開山に請じて建てられた。建物、仏像、儀式作法から精進料理に至るまですべて中国風で、日本の一般的な仏教寺院とは全く異なった雰囲気を持ち、普茶料理、煎茶道、唐様書道など、隠元のもたらした中国文化は日本の文化全体に大きな影響を与えた。なお「万福寺」と表記されることもあるが、宗教法人としての名称は「萬福寺」である。 歴史 隠元隆琦は中国明時代の万暦20年(1592)、福建省福州府に生まれた。29歳で仏門に入り、46歳の時、故郷の黄檗山萬福寺の住職となる。隠元が招か... - @wiki全体から「大日如来」で調べる