京都観光データベース@ wiki内検索 / 「広隆寺」で検索した結果
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広隆寺
広隆寺 出典 橋川正編纂『太秦広隆寺史』(京都太秦聖徳太子報徳会・1923)、追塩千尋『平安・鎌倉期広隆寺の諸相』(佐伯有清先生古稀記念会編『日本古代の祭司と仏教』吉川弘文館・1995)、林南寿『広隆寺の創建と移転』(『日本歴史』611・1999)『蜂岡寺と秦寺の本尊』(中央公論美術出版・2003)『太子信仰の寺への変貌』(『広隆寺史の研究』中央公論美術出版・2003)ほか 概略 広隆寺(こうりゅうじ)は、京都市右京区太秦にある寺院。山号は蜂岡山。現在、真言宗?御室派の別格本山。京都最古の寺院で、聖徳太子が建立した七大寺のひとつとされる。帰化人である秦氏の氏寺でもあり、古くは秦寺・大秦公寺・秦公寺・太秦寺・蜂岡寺・葛野寺・桂林寺などとも呼ばれた。創建当初は弥勒菩薩?を本尊としていたが、平安京?遷都前後からは薬師如来を本尊とする。現在の広隆寺本堂に当たる上宮王院の本尊... -
ページ別閲覧数
...慶派 (1654) 広隆寺 (1595) 今日の閲覧数 三十三間堂 (2) 平等院2003年夏 動画 (1) 昨日の閲覧数 三十三間堂 (2) 永観堂 (2) 春屋妙葩 (2) 明王 (1) -
こ
...寺(みょうしんじ) 広隆寺(こうりゅうじ) 岡林院(こうりんいん)→高台寺(こうだいじ) 興臨院(こうりんいん)→大徳寺(だいとくじ) 苔寺(こけでら) 孤篷庵(こほうあん)→大徳寺(だいとくじ) 金戒光明寺(こんかいこうみょうじ) 金地院(こんちいん)→南禅寺(なんぜんじ) 神社 城・御所離宮 地名・園池 人物 弘法大師(こうぼうだいし)→空海(くうかい) 小堀遠州(こぼりえんしゅう) 仏像 五大明王(ごだいみょうおう)→明王(みょうおう) 語句 五山制度?(ござんせいど) 五山の送り火?(ござんのおくりび) 古都京都の文化財(こときょうとのぶんかざい) -
大日如来
...の金剛界大日如来像、広隆寺の胎蔵界大日如来像などが平安時代の代表作例である。 日本における代表的な大日如来像 平安時代 広隆寺像2躯 重要文化財 清水寺像 重要文化財 奈良・唐招提寺像 重要文化財 滋賀・石山寺像 重要文化財 滋賀・向源寺(渡岸寺観音堂)像 重要文化財 大阪・金剛寺像 重要文化財 和歌山・金剛峯寺(観学院・大会堂・西塔)像 重要文化財 和歌山・金剛三昧院多宝塔像 重要文化財 福井・円照寺像 重要文化財 大分・臼杵磨崖仏大日如来像 国宝 鎌倉時代以降 教王護国寺(東寺)講堂像 重要文化財 康珍作 奈良・円成寺多宝塔像 国宝 運慶作 ※平安末期にあたる安元2年(1176年)の作だが、様式上こちらに分類した 大日如来の世界 -
四天王
...右手塔 東寺講堂・広隆寺(多聞天欠)・円成寺 (3)持国天左手揚げ、多聞天右手塔 当麻寺・東大寺法華堂(三月堂)・大安寺 (4)持国天交叉手、多聞天右手塔 唐招提寺・興福寺北円堂 (5)持国天交叉・両手下、多聞天左手塔 西大寺(多聞天後補) (6)持国天右宝珠、多聞天右手塔 興福寺東金堂・観世音寺 (7)二躯相称、一躯左手揚げ、多聞天左手塔右手揚げ(善水寺形式) 善水寺・観心寺・清凉寺 (8)二躯相称、一躯左手揚げ、多聞天左手塔右手揚げ 圓教寺・鶴林寺・禅定寺? (9)二躯相称、一躯右手揚げ、多聞天左手塔右手下げ 法隆寺講堂・浄瑠璃寺? (10)二躯右手揚げ、一躯左手揚げ、多聞天左手塔右手揚げ 六波羅蜜寺? (11)二躯相称、一躯手揚げず、多聞左手塔右手下げ 大乗寺・醍醐寺 (12)二躯相称、多聞天右手塔(鎌倉時代以降) 金剛峯寺 日本... -
右メニュー
... 妙心寺東林院 広隆寺 秋 正伝寺? 大徳寺高桐院 永観堂 冬 法観寺(八坂塔) ├1997年 春 哲学の道 |動画| 仁和寺 夏 詩仙堂 |動画| 相国寺 秋 東福寺 |動画| 冬 知恩院 |動画| ├1998年 春 勝持寺? 二条城 夏 大徳寺黄梅院 鞍馬寺 秋 泉涌寺 |動画| 冬 八坂神社 ├1999年 春 善峯寺 |動画| 夏 宝泉院? 秋 法然院? |動画| 冬 大徳寺大仙院 ├2000年 春 毘沙門堂 夏 萬福寺 秋 東福寺光明院 |動画| 冬 東寺 ├2001年 春 仁和寺 夏 南禅寺南禅院 清水寺 ... -
京都 歴史年表
飛鳥 603 推古11 秦河勝、太秦蜂岡寺(広隆寺)を建立 678 天武7 賀茂別雷神社(上賀茂神社)が創建されたという 奈良 711 和銅4 深草の秦氏によって伏見稲荷大社が創祀される 784 延暦3 乙訓郡長岡京?に遷都する 788 延暦7 最澄が現在の延暦寺の根本中堂となる一乗止観院を建立 平安 794 延暦13 桓武天皇が平安京?に遷都する 798 延暦17 延鎮を開基に坂上田村麻呂が清水寺を建立 823 弘仁14 朝廷より空海が東寺を賜る 869 貞観11 この頃祇園御霊会(祇園祭?)が始まったという 874 貞観16 聖宝が醍醐寺を開く 876 貞観18 大覚寺創建、八坂神社創祀 888 仁和4 宇多天皇が仁和寺を創建 905 延喜5 醍醐天皇の命により、紀貫之、紀友則、壬生忠岑、凡河内躬恒が古今和歌集を編纂 947 天暦1 北野天満宮?が造営される 9... -
如意輪観音
...像 重要文化財 広隆寺半跏像 重要文化財 善福寺本尊坐像 重要文化財 滋賀・園城寺(三井寺)坐像 重要文化財 鎌倉時代以降 大報恩寺(千本釈迦堂)立像 重要文化財 隨心院?坐像 重要文化財 奈良・東大寺大仏殿坐像 重要文化財 魅惑の仏像 如意輪観音―大阪・観心寺 (めだかの本) -
秦氏
...寺(はちおかでら・現広隆寺)を建立。奈良時代には官僚になったり、中央貴族と姻戚関係を結んだりするものもいた。桓武天皇は延暦3年(784)に長岡京?へ遷都を行ったが、秦氏は造宮長官藤原種継?の母が秦氏の娘であったため、造都に全面的な協力をしたといわれている。10年で廃された長岡京?のあとには平安京?が造られたが、そこでも新都建設に尽力し、秦氏の本拠地であった桂川一帯は建設に必要とする材木の陸揚げ基地となった。内裏?の紫宸殿前の「右近の橘」は秦河勝の邸宅にあったという伝承も残る。秦氏は遷都後も官僚として活躍し、主計寮・大蔵省・内蔵寮の役人として名が残っている。元慶7年(883)、秦氏は惟宗朝臣(これむねのあそん)に改姓し、明法家(世襲の法令専門家)を輩出する。東家、南家などは松尾大社?の社家に、西大路家、大西家などは伏見稲荷大社の社家となった。各地方には秦姓も多く、在庁官人や郡司として名... -
阿弥陀如来
...現在は霊宝館安置 広隆寺講堂坐像 国宝 平等院鳳凰堂坐像 国宝 定朝作 法界寺?阿弥陀堂本尊坐像 国宝 浄瑠璃寺?九体阿弥陀坐像 国宝 三千院阿弥陀堂三尊坐像 国宝 伝恵心僧都作 清凉寺(嵯峨釈迦堂)三尊像 国宝 ※霊宝館安置 鎌倉時代以降 兵庫・浄土寺阿弥陀堂三尊立像 国宝 快慶作 神奈川・高徳院銅像坐像(鎌倉大仏) 国宝 魅惑の仏像 阿弥陀如来―京都・平等院鳳凰堂 (めだかの本) -
千手観音
... 平安時代 広隆寺旧講堂立像 国宝 蓮華王院(三十三間堂)立像 重要文化財 ※創建時作の約120躯 教王護国寺(東寺)旧食堂立像 重要文化財 和歌山・道成寺本尊立像 国宝 鎌倉時代以降 清水寺本尊立像 清水寺奥之院本尊坐像 重要文化財 蓮華王院(三十三間堂)本尊坐像 国宝 湛慶作 蓮華王院(三十三間堂)立像 重要文化財 ※鎌倉期に後補の約880躯 奈良・興福寺旧食堂立像 国宝 魅惑の仏像 千手観音―奈良・唐招提寺 (めだかの本) -
明王
...像 重要文化財 広隆寺不動明王像 重要文化財 奈良・不退寺五大明王像 重要文化財 滋賀・石馬寺大威徳明王像 重要文化財 福井・明通寺降三世明王像 重要文化財 大分・臼杵磨崖仏不動明王像 国宝 鎌倉時代以降 浄瑠璃寺?不動明王及び二童子像 重要文化財 大阪・観心寺金堂愛染明王像 重要文化財 奈良・宝山寺五大明王像 重要文化財 湛海作 奈良・西大寺愛染堂愛染明王像 重要文化財 善円作 滋賀・延暦寺国宝殿五大明王像 重要文化財 滋賀・金剛輪寺不動明王坐像 重要文化財 不動明王―慈悲にあふれた如来の怒れる化身 (神仏のかたちシリーズ) -
永観堂
...堂 (エ)泣き弥勒と広隆寺」 リンク 禅林寺(永観堂)オフィシャル http //www.eikando.or.jp/ 新版 古寺巡礼京都〈7〉禅林寺 -
応仁の乱
...迦堂本堂、東寺宝蔵、広隆寺講堂、醍醐寺五重塔のみである。京都を追われた公家や民衆は、京都周辺の山科や宇治、大津、奈良、堺といった都市に疎開していった。文明11年(1479)に室町殿や内裏?の復興が開始されたものの、都市の荒廃による環境悪化によって、疫病や火災、盗賊、一揆などが頻発し、幕府による京都の再建は順調とは言えなかった。再興の真の立役者となったのは商人を中心とする新興の市民階層、町衆である。明応9年(1500)には彼らの手によって疫病平癒の祭、祇園祭?が再興される。煌びやかに飾り立てられて町を練り歩く山鉾は、京都の復興のシンボルであった。社会は真の実力者が支配階級を駆逐するという下克上の風潮が大勢を占め、力を失った守護大名は没落してゆく。下克上は全国に拡散され、日本は戦国の乱世に突入する。形骸化した室町幕府は乱終結から100年足らずで滅亡することになる。 応仁・文明の... -
泉涌寺
...堂 (エ)泣き弥勒と広隆寺」 リンク 泉涌寺オフィシャル http //www.mitera.org/ 今熊野観音寺オフィシャル http //www.kannon.jp/ 即成院オフィシャル http //www.mitera.com/ 新版 古寺巡礼京都〈27〉泉涌寺 -
釈迦如来
釈迦如来 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか 概略 釈迦如来(しゃかにょらい)は、仏教の開祖である釈迦を仏(仏陀)として敬う呼び方。釈迦牟尼仏とも呼ばれる。数多い仏像の中でも唯一実在した人物をモチーフにしているため、他の仏像とは位置づけが異なる。小乗仏教?では、釈迦牟尼仏は現世における唯一の仏とみなされている。従って、修行者が到達できる境地も阿羅漢止まりで、如来(仏=仏陀)にはなれないと考えられた。大乗仏教?では、釈迦牟尼仏は十方(東南西北とその中間である四隅の八方と上下)三世(過去、未来、現在)の無量の諸仏の一仏で、現在の娑婆の仏である。 名称 釈迦(しゃか、シャーキャ)は釈迦牟尼(しゃかむに、シャーキャ・ムニ)の略で、釈迦牟尼世尊ともいい、略して釈尊(しゃくそん)とも呼ばれる。原語のシャーキャ・ムニは「釈迦族の聖者」の意味... -
薬師如来
薬師如来 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか 概略 薬師如来(やくしにょらい)は、大乗仏教?における如来のひとつ。極楽往生を約束する仏である阿弥陀如来とともに、日本においてはもっとも信仰されてきた如来である。顕教系の如来であって、密教?の曼荼羅類には一切登場しない。薬師如来の縁日は毎月8日である。これは、薬師如来の徳を講讃する「薬師講」に由来すると考えられている。 名称 正式な尊名は薬師瑠璃光如来。東方浄瑠璃世界の教主であり、12の大願を発し、瑠璃光を以って衆生の病苦を救うとされている。無明の病を直す法薬を与える医薬の仏として信仰を集める。 像容 像容は、立像、坐像ともにあり、印相は右手を施無畏(せむい)印、左手を与願印とし、左手に薬壺(やくこ)を持つのが通例。持ち方は片手に乗せる、両手に乗せるの二通りがある。ただし... -
清凉寺
清凉寺(嵯峨釈迦堂) 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか 概略 清凉寺(せいりょうじ)は、京都市右京区嵯峨にある浄土宗?の寺院。山号を五台山(ごだいさん)と称する。開基(創立者)は奝然(ちょうねん)、開山(初代住職)はその弟子の盛算(じょうさん)である。本尊は釈迦如来。嵯峨釈迦堂(さがしゃかどう)の名でも知られ、中世以来融通念仏?の道場としても知られている。宗派は初め華厳宗、後に浄土宗?となる。 歴史 この寺の歴史には、阿弥陀如来を本尊とする棲霞寺(せいかじ)と、釈迦如来を本尊とする清凉寺というふたつの寺院が関係する。この地には嵯峨天皇の皇子、左大臣源融の別荘、栖霞観(せいかかん)があった。源融の一周忌に当たる寛平8年(896)に、融が生前に造立発願して果たせなかった阿弥陀三尊像を子息が造り、これを安置した阿弥陀堂を棲霞寺と号... -
大覚寺
大覚寺 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』、大覚寺史資料編纂室『大覚寺文書』上・下(大覚寺・1980)、中村直勝監修『大覚寺』(主婦の友社・1975)、『日本古寺美術全集』14(集英社・1982)、『日本美術絵画全集』12(集英社・1981)ほか 概略 大覚寺(だいかくじ)は、京都市右京区嵯峨大沢町にある真言宗?大覚寺派の大本山の寺院。山号は嵯峨山、本尊は不動明王を中心とした五大明王、開基(創立者)は嵯峨天皇、開山(初代住職)は淳和天皇の第2皇子恒寂入道親王である。嵯峨天皇の離宮を寺に改めた皇室ゆかりの門跡?寺院で、後宇多法皇が院政を行ったため嵯峨御所とも称された。嵯峨天皇に始まるという華道の嵯峨御流を今に伝える。 歴史 空海、橘逸勢と並んで三筆に数えられた嵯峨天皇の離宮であった嵯峨院に、嵯峨天皇の信任を得ていた空海が五大明王を安... -
東福寺
東福寺 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ほか 概略 東福寺(とうふくじ)は、京都市東山区本町にある臨済宗?東福寺派大本山の寺院。山号は慧日山(えにちさん)、本尊は釈迦如来、開基(創立者)は九条道家?、開山(初代住職)は聖一国師?、円爾弁円?(えんにべんねん)である。京都五山?の第四位の禅寺として中世、近世を通じて栄え、特に巨大な建造物群を有したことから「東福寺の伽藍づら」とも呼ばれた。また『元亨釈書』の著者である虎関師錬(こかんしれん)や、室町時代に画僧として活躍し、その後の仏画や水墨画に多大な影響を及ぼした吉山明兆ら多くの名僧も輩出する。寺名は奈良の東大寺、興福寺の二大寺から1字ずつ取っている。 歴史 東福寺が建つ地には、延長2年(924)に藤原忠平?によって建てられた藤原氏?の氏寺、法性寺?の巨大な伽藍があった。嘉禎2年(1... - @wiki全体から「広隆寺」で調べる