時は19世紀も終わり頃。
一組の男女が、ロンドンの片隅で結婚式を挙げた。
男は中国人との混血の、召使いの子。女は仕えた先の令嬢。本来ならけして結ばれはしない間柄。
積極的だったのは女の方だった。両親に彼と結ばれなければ自殺をすると脅してみたり、周囲に仲を認めさせるための「既成事実」を作ってしまえばよいと迫ってみたり。
何れも女性は弱く慎ましくあるべきという、当時の倫理観からは考えられないことだが、それだけ彼女は一生懸命だったことの表れ。
それは実を結び、両親は渋々ながらふたりにささやかな結婚式を挙げさせ―使用人との結婚式など大々的に出来るものではない―やがて月満ちて女の子を授かった。
娘は愛らしく賢く、妻も幸せそうだった。ほんの数年の間。
娘が4歳の年、クリスマスを前に街中へ買い物へ一家で出かけた帰り、馬車の事故で妻と娘を一度に失った。
事故に対して、馬車の持ち主から雀の涙ほどの賠償金が支払われはしたが、口さがない世間は彼を放って置かなかった。
曰く、あのような身分違いの結婚などするから、早々に神に召されたのだ。
曰く、あの事故には賠償金が払われたそうだが、それを目当てにあの男が謀って妻子を殺したのではないか?
曰く、そういえばあの男が娼婦と立ち話をしているのを見た。
曰く、娼婦をはらませて離婚沙汰の最中だった…
どれもこれも聞くも馬鹿馬鹿しい井戸端会議の種、出鱈目なお笑い草に過ぎなかったが、彼の義両親はそうは受け取らず、激昂して彼を身一つで叩き出した。
馬鹿馬鹿しくなった彼も一切抗弁はせず、街から離れた森の中に小さな家を建てて、世を捨ててそこに篭もった。
手元に残された財産の幾何かで彼は、失った家族を再現しようとした。
機械仕掛け。
元々手先の器用だった男は、建具や時計の修理などお手の物だったから、材料さえ揃えば仕事はほぼ完璧だった。
そうして年月を重ね出来上がった女と、娘のからくり人形。
生きていればこれほどの年頃であったであろう、少女の人形と、生前の若々しさを湛えた女性の人形。
揃って金糸の髪に白磁の肌。瞳は翡翠で作られ、文字通り男の労力、頭脳、技術、金の全てが込められていた。
彼にその気さえあれば妻と娘に似せた機械仕掛けの“家族”たちと、それなりに満ち足りた生活が送れたかもしれない。だが―
男には金がなかった。“妻子”の部品を定期的にメンテナンスし、自らをも食わせる金が。すべてからくりを作るために使い果たした。
長く世を捨てていたため、世の動きにもついてゆけず、職もあるはずがない。
男が手っ取り早く手を染めたのは、盗み。
真夜中から明け方近く、客をそれなりに取ったであろう娼婦を狙って、小金をかすめ取る。
なぜ娼婦?当然だ。あんな女達さえいなければ、馬鹿馬鹿しい噂話など立たず、従って婚家も追い出されずに、経済的に窮することもなかったから。
あれは世の中のゴミだ。多少減っても誰も騒がない。
手先は器用だったから、女どもの喉を掻き切るのなんか簡単だった。
自分が女に近づくのが難しいときは“妻子”にやらせた。
さながら生きた人間のように滑らかな動きをする彼女たちを怪しむ女は居なかった。その度にからくりの白磁の肌は血に汚れた。
そして彼とその“妻子”が手に掛けた人間が二桁になろうかという頃、男は新聞を見て笑った。
「俺たちが“切り裂きジャック”と呼ばれているよ…お笑いだ」
もうその頃には男は、娼婦を殺すだけで金が取れなくても気にしなかった。噂されている切り裂きジャックは物盗りではないらしいから。
彼は操作を攪乱するために手紙を送りつけた。「俺は淫売どもに怨みがある」ああたしかに怨みがある。今度からはもっと酷く殺してやろうか。
彼はいつの間にか、何にでもなれる―それが医師でも、女でも、あるいはやんごとない身分の男でも―
その時一番「獲物を殺しやすい者」になることが出来た。
切り裂きジャックは医師とも、実は女であるとも、精神を病んだやんごとない身分の男、とも言われていたから。
一組の男女が、ロンドンの片隅で結婚式を挙げた。
男は中国人との混血の、召使いの子。女は仕えた先の令嬢。本来ならけして結ばれはしない間柄。
積極的だったのは女の方だった。両親に彼と結ばれなければ自殺をすると脅してみたり、周囲に仲を認めさせるための「既成事実」を作ってしまえばよいと迫ってみたり。
何れも女性は弱く慎ましくあるべきという、当時の倫理観からは考えられないことだが、それだけ彼女は一生懸命だったことの表れ。
それは実を結び、両親は渋々ながらふたりにささやかな結婚式を挙げさせ―使用人との結婚式など大々的に出来るものではない―やがて月満ちて女の子を授かった。
娘は愛らしく賢く、妻も幸せそうだった。ほんの数年の間。
娘が4歳の年、クリスマスを前に街中へ買い物へ一家で出かけた帰り、馬車の事故で妻と娘を一度に失った。
事故に対して、馬車の持ち主から雀の涙ほどの賠償金が支払われはしたが、口さがない世間は彼を放って置かなかった。
曰く、あのような身分違いの結婚などするから、早々に神に召されたのだ。
曰く、あの事故には賠償金が払われたそうだが、それを目当てにあの男が謀って妻子を殺したのではないか?
曰く、そういえばあの男が娼婦と立ち話をしているのを見た。
曰く、娼婦をはらませて離婚沙汰の最中だった…
どれもこれも聞くも馬鹿馬鹿しい井戸端会議の種、出鱈目なお笑い草に過ぎなかったが、彼の義両親はそうは受け取らず、激昂して彼を身一つで叩き出した。
馬鹿馬鹿しくなった彼も一切抗弁はせず、街から離れた森の中に小さな家を建てて、世を捨ててそこに篭もった。
手元に残された財産の幾何かで彼は、失った家族を再現しようとした。
機械仕掛け。
元々手先の器用だった男は、建具や時計の修理などお手の物だったから、材料さえ揃えば仕事はほぼ完璧だった。
そうして年月を重ね出来上がった女と、娘のからくり人形。
生きていればこれほどの年頃であったであろう、少女の人形と、生前の若々しさを湛えた女性の人形。
揃って金糸の髪に白磁の肌。瞳は翡翠で作られ、文字通り男の労力、頭脳、技術、金の全てが込められていた。
彼にその気さえあれば妻と娘に似せた機械仕掛けの“家族”たちと、それなりに満ち足りた生活が送れたかもしれない。だが―
男には金がなかった。“妻子”の部品を定期的にメンテナンスし、自らをも食わせる金が。すべてからくりを作るために使い果たした。
長く世を捨てていたため、世の動きにもついてゆけず、職もあるはずがない。
男が手っ取り早く手を染めたのは、盗み。
真夜中から明け方近く、客をそれなりに取ったであろう娼婦を狙って、小金をかすめ取る。
なぜ娼婦?当然だ。あんな女達さえいなければ、馬鹿馬鹿しい噂話など立たず、従って婚家も追い出されずに、経済的に窮することもなかったから。
あれは世の中のゴミだ。多少減っても誰も騒がない。
手先は器用だったから、女どもの喉を掻き切るのなんか簡単だった。
自分が女に近づくのが難しいときは“妻子”にやらせた。
さながら生きた人間のように滑らかな動きをする彼女たちを怪しむ女は居なかった。その度にからくりの白磁の肌は血に汚れた。
そして彼とその“妻子”が手に掛けた人間が二桁になろうかという頃、男は新聞を見て笑った。
「俺たちが“切り裂きジャック”と呼ばれているよ…お笑いだ」
もうその頃には男は、娼婦を殺すだけで金が取れなくても気にしなかった。噂されている切り裂きジャックは物盗りではないらしいから。
彼は操作を攪乱するために手紙を送りつけた。「俺は淫売どもに怨みがある」ああたしかに怨みがある。今度からはもっと酷く殺してやろうか。
彼はいつの間にか、何にでもなれる―それが医師でも、女でも、あるいはやんごとない身分の男でも―
その時一番「獲物を殺しやすい者」になることが出来た。
切り裂きジャックは医師とも、実は女であるとも、精神を病んだやんごとない身分の男、とも言われていたから。
ここに、「切り裂きジャック」という都市伝説となった、一人の男の人生が完結した。
END