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手繰るスパイダー・ウェブ

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手繰るスパイダー・ウェブ ◆02i16H59NY




――考えることだ。
戦場では、考えることを止めた者から死んでいった。
無謀な突撃の果てに、あるいは不可能な防衛に固執した挙句に、無為に死んでいった。
だから、考えろ。
死にたくなければ――考えろ。

――考えないことだ。
戦場では、余計なことを考えていた者から死んでいった。
無駄に時間を浪費し、あるいは咄嗟の判断に迷って、無慈悲な死神の鎌に刈り取られていった。
だから、考えるな。
死にたくなければ――考えるな。

どちらも正論。
どちらも真実。
どちらも確固たる実体験に基づく、絶対不変の真理。
だから。

いま、考えなければならないことは――何だ?
いま、考えても仕方のないことは――何だ?

おそらく、いままでのやり方ではダメだ。
おそらく、ここまでの自分たちは良くないパターンに陥っていた。
きっと考えなければならぬことを考えず、考えても仕方のないことに振り回されていた。
その代償が、この火傷。
その代償が、奪われた荷物1つ。
その代償が、こんな所での足止めで……しかし、それは同時に、頭を切り替える絶好の機会なのかもしれなくて。

彼は、そして迷う。
彼らしくもなく、迷う。

俺はいま、何を考えればいい?
俺たちはいま、何を考えることができる?

――そして放送が響き渡る。


     ※    ※    ※


『では、縁があったらまた会おう――』

「んっ……?」

リリアーヌ・アイカシア・コラソン・ウィッティングトン・シュルツは、何か聞こえたような気がして、身を起こした。
どうやら、ブティック内のカウンターに突っ伏したまま、寝てしまっていたらしい。
彼女はそして、口を開いた。

「明日はわたし、学校は休みだから」

虚空を見上げたまま、彼女はつぶやいた。ベゼル語だった。

「だけど、ママは空軍のお仕事だから、起こさなきゃ。――了解なのだ」

誰に聞かせるともなく声に出し、彼女は再びカウンターに崩れ落ちた。
そのまま、リリアーヌ・アイカシア・コラソン・ウィッティングトン・シュルツは、再び寝息を立て始める。
どうやら、寝言のようだった。


【C-5/市街・ブティック/一日目・日中】

【リリアーヌ・アイカシア・コラソン・ウィッティングトン・シュルツ@リリアとトレイズ】
[状態]:健康、深い深い哀しみ
[装備]:IMI ジェリコ941(16/16+1)、早蕨薙真の大薙刀@戯言シリーズ
[道具]:なし
[思考・状況]
基本:がんばって生きる。憎しみや復讐に囚われるような生き方してる人を止める。
0:睡眠中。どうせだからもうちょっとだけ寝る。
1:宗介を護る。
2:トラヴァスの行動について考える。トラヴァスの行動が哀しい。
3:トレイズが心配。トレイズと合流す――


     ※    ※    ※


「――ッ、じゃなくてっ!」

叫び声と共に、リリアーヌ・アイカシア・コラソン・ウィッティングトン・シュルツはガバッ、と身を起こした。
昼下がりの気だるい日差しの差し込む、薄暗いブティックの中だった。
太陽の位置が、僅かに動いている。
そして人の気配は、ない。
彼女はそのことに気づくと、慌てて傍らの薙刀を掴み立ち上がって、

「……宗介っ!?」
「――呼んだか?」
「ひゥッ!?」

背後から即座に答えを返されて、奇妙な裏返った声を漏らした。
振り返る。
思わず名を呼んだ同行者、相良宗介が、何やら遠くで作業をしていた。
見れば、店の裏口にも繋がる通路の方から、手の中の糸を繰り出しつつ、ゆっくりこちらに近づいてくるところだった。

「……何してんのよ」
「この店にあったモノを利用して、簡単なトラップを張っている。原始的な警報装置だが、それだけに解除や察知は困難だ。
 もし万が一、裏口から侵入する者があったとしても、この場に居ながらにして察知することができる」

言いながら糸を伸ばし続けた彼は、何やら結び目を作りながら、小さな糸巻きをカウンターの隅に置いた。
どんな衣料品店にでもありそうな、何の変哲もない糸巻きから、地味な黒い糸が長々と延びていた。

「滑車の原理を利用して、裏口のノブからここまで糸を張り渡した。裏口の戸が開けられたら、これが床に落ちる仕掛けだ。
 こうしておくことで、背後に気を張る必要が減る。あとは正面入り口だけ見張っていればいい。
 くれぐれも、間違って足を引っ掛けたりしないでくれ」

そう言って彼は、溜息を吐きつつ小さな椅子に腰を下ろした。
その顔には、明らかな消耗の色がある。
荷物を引き寄せ、水のボトルを取り出してガブ飲みして、一息ついて改めて少女の方を向く。そして端的に言葉を放った。

「リリア。君のお陰で助かった。この傷の処置も退避の判断も、適切なものだった。感謝する」
「そんな、感謝なんて……」
「眠いのならば、もう少し寝ていてくれてもいい。どのみち、多少なりとも休息は取らざるを得ない状況だ」

上半身にシャツを羽織っただけの格好で、宗介は腹部をさする。
そこには包帯が巻かれていて、その所々にうっすらと赤いモノが滲んでいた。
火傷からの滲出液、それに、飛び散った破片で負った傷からの出血だった。正しい応急処置でも、すぐには止めきれるものではない。
彼が意識して多目の水分摂取を行っているのも、1つにはその対策だった。

「うん、ありがと……。でも、もう眠れる気はしないわ。それより宗介、もうこんな時間ってことは、」
「正午の放送は、1時間ほど前に終わった。心配せずとも、全て俺が聞いてメモを取っておいた。
 どうやら縁のある名前は、俺たちの敵であるガウルン1人のようだが……念のため、確認しておいてくれ」

宗介は紙を差し出した。黒い壁に関する戯言についての簡潔なまとめと、11人の名前が書かれていた。
リリアは眉をしかめる。

「確かに知ってる名前はないけど……多いわね」
「ああ。事態の推移は、思いのほか早いようだ」
「それに、これ何? 《空白(ブランク)》? 《落丁(ロストスペース)》?」
「俺にも意味はわからない。なので、言っていたとおり、聞こえたとおりに書いておいた」
「それにしても意外ね。すごくわかりやすいレポートじゃない。
 あのお面の人が『何を言いたかったのか』はよくわからないけど、お面の人が『何を言ったのか』はとってもよくわかるわ」
「状況の正確な把握と報告は、兵士には常に求められる技術だ。決して得意な分野というわけでもないが」

リリアの称賛に、宗介は誇るでもなく怒るでもなく、ただ淡々と応えた。
一通り読み終えてメモを返すリリアに、宗介はそして、

「ところでリリア」
「なによ」
「睡眠の続きを取らないのであれば、正確な状況把握をしておきたいことがある。報告を求めたいことがある」
「えっ……?」

メモを受け取りながら、改まった口調で問いかけた。

「俺が『敵』の攻撃で意識を失ってから、この建物に避難し傷の手当てをするまでの間――何が起こったのか、詳しく聞かせて欲しい」


     ※    ※    ※


自身も混乱するリリアの説明は、簡潔とはいいがたく、また、正確とも分かりやすいともいいがたいものだった。
それでも十数分の時をかけ、不足するピースをいくつもの質問で補うことで、宗介もおおまかないきさつを把握することができた。

「そうか、トラヴァス少佐が、か……」
「ほんと、なにがなんだか、わかんないわよ……」

リリアのぼやきに、湿った色が混じる。
最初の放送で、母の名前が呼ばれた。銃を向けてきたトラヴァスは、その母の恋人だ。
御伽噺の中の魔法遣いのように、「動くマネキン」を操り、それを爆発させ、宗介に怪我を負わせて――
思わせぶりな言葉だけ残して、立ち去った。
そこまでの状況を理解した宗介は、少し思案する素振りを見せた後、口を開く。

「改めて確認するが――そのトラヴァスという少佐。本来の職務は、大使館付きの駐在武官なんだな?」
「そう聞いてる」
「リリアの住んでいるロクシェ、だったか……ともかく、大陸の東側陣営の首都で仕事をしている」
「みたい」
「彼が所属する西側の国家連合と、リリアたちが住む東側の国家連合は、今は穏健な関係だが、少し前まで激しい対立状態にあった」
「ええ。戦争が終わったのは、わたしが生まれる前の話だけど」
「となると……仮説を立てることは、できるかもしれない」

相良宗介は、彼にしては珍しく、曖昧な言い方をした。

「どういうこと?」
「これから言うことは、全て俺の推測だ。断言も確定もできない。だが推測で言っていいのなら」
「うんうん」
「彼の本職は、『スパイ』の可能性がある」
「……へ?」
「そして、この場所でも、似たような『仕事』を行っている可能性が高い」


     ※    ※    ※


「俺にとっても縁遠い話なので、これはまた聞きの話になるのだが……
 駐在武官というのは大なり小なり、諜報員としての性質も持つそうだ。
 本来は同盟国同士の円滑な軍事協力と情報交換のために派遣される役職だが、現役軍人だけあって知識も経験も豊富だからな。
 相手国の様々な情報を探り、様々な工作活動をするのにも最適だ――それが合法的なものであれ、非合法的なものであれ。
 また通常、駐在武官というのは中佐、あるいは大佐クラスの人間が派遣されるものだと聞いている。
 『少佐』という肩書きは、僅かに低い。
 それだけに、偉すぎて目立つ者には不可能な、小回りの利く仕事を任されている可能性が高い」
「だ、だけど、もうロクシェとスー・ベー・イルの戦争はとっくに終わって……」
「だからこそ、なのかもしれない。
 平穏を維持するに当たっても、情報の力は馬鹿にならない。それがまだ危うい平和であれば尚更だ。
 俺の所属する〈ミスリル〉も、平和の樹立と維持を目的とした組織だ。
 作戦を実行するのは俺たち作戦部だが、その作戦立案に当たっては情報部の力が欠かせない。よく対立はするがな」

駐在武官、というものが何をする仕事なのかも知らなかったリリアは、宗介の言葉にただ頷くことしかできない。
宗介は水を一口含むと、言葉を続ける。

「そんな彼が、この地で何かをやるとして――その技術と経験を活かさないはずがないと思う」
「技術と経験、って……つまり、スパイをやる、ってこと?」
「そうだ。マネキン人形を動かし、爆破させる技術。これは彼自身ものではなく、他の誰かが所持していたものだと思われる。
 簡単に奪って使いこなせるような技術とも思えないから、トラヴァス少佐はその産物だけを首尾よく借り受けたのだろう」

一回目の放送で示唆された、魔法、超能力といった『少し普通ではない部分』。
なるほど、あの放送の直後は『もっと大事でショッキングなニュース』のせいで、深く検討する余裕がなかったが……
トラヴァスが人知れず『そういった技術』を秘匿していたと考えるより、『別の世界』の者が持っていた力だった、と考えた方がしっくりくる。

「つまり――彼は、ああいう特殊技術を持つ人物の信頼を得ることに成功し、現地運用を任されるほどの関係を築き上げた。
 そして、あるいは俺だけならば止めを刺されていたのかもしれないが――彼は、君の存在を確認して引くことにした」
「わたし、を……?」
「おそらく、マネキンを爆破した時点では、彼は君を君と認識できなかったのだろう。
 あの時の俺にも気づかれなかったということは、かなりの距離を置いて様子を窺っていたはずだ。だから、停戦が遅れた」

相良宗介とて、戦闘のプロだ。
マネキン人形による攻撃に、さらなる次の手があるだろうことはしっかりと予想していた。
追撃への警戒も怠ってはいなかったし、狙撃などが可能な位置はちゃんと把握し注意を払っていた。
逆に言えば……だからその時点では、トラヴァス少佐は相当に遠い場所に潜んでいた、という理屈になる。
向こうからこちらの見分けがつかなかったとしても、だから仕方が無いことだったろう。

ちなみに、警戒していたはずの彼が自爆攻撃を予想しきれなかったのは、むしろ彼の置かれた世界情勢に拠る所が大きい。
未だソビエト連邦が健在で、東西の冷戦がなお続くパワーバランスにあっては、どんな紛争のどんな勢力も、圧倒的な劣勢にはなりにくい。
なぜなら、仮に片方の超大国と敵対したとしても、もう片方の超大国の支援を取り付けるのが容易だからだ。
結果として、自爆テロのような『攻撃者自身の死』を前提に置くような攻撃は行われにくくなる。そこまで追い詰められることが少なくなる。
『死ぬつもりで頑張れ』と鼓舞することはあっても、『まず死んで来い』とまで言うことは滅多にないのだ。
だからあの攻撃は、相良宗介や、彼と歴史を共にする者たちにとって。
経験豊富なプロフェッショナルでさえも、いや、経験豊富なプロフェッショナルであればこそ、盲点となってしまうような攻撃だった。

宗介は問う。

「リリア。君のお母さんは、簡単に人に騙されるような人だったか?」
「……ううん。
 寝起きは悪いし、抜けてるとこも多いし、大雑把だし適当だし、かなりふざけたところもある人だったけど……
 それでも、ほんとうに大事なとこでは、すごく勘のいい人だった。ほんとうのところで、人を見る目はあったと思う」
「リリア。君から見て、トラヴァスという人は信頼に値する人物だったか?」
「……うん。
 正直言っちゃうと、娘として複雑な気持ちはあったけど……でも、ママは“英雄さん”のことを本気で愛してるように見えた。
 “英雄さん”も、ママとの付き合いは真摯だった。遊びとかには、見えなかった。
 あの人が家の中にいるっていうのに、すっごく無防備に、幸せそうな表情で昼寝していたママの寝顔は、忘れられない。
 ママはトラヴァス少佐を信じてた。そう思う。
 だから――わたしも、彼のことを信じる」
「そうか。
 なら――君は、彼のことを信じていい。
 彼を信じた、君のお母さんを信じていい。
 俺は、そう思う」

宗介はショーウインドーの外の青空を、見るともなく見上げながら、訥々とつぶやいた。

「現時点では、俺にも彼の真意は分からない。
 スパイのような振る舞いをして、他の者と協力体制を作って、それで最終的にどうする気なのか見当もつかない。
 ひょっとしたら、最後に全てを裏切って、効率よく自分1人だけ助かるつもりなのかもしれない。
 ひょっとしたら、彼はあの『人類最悪』と名乗った男が送り込んだスパイなのかもしれない。
 直接彼を知らない俺は、どうしたって彼の行動を疑わざるをえない。
 色々言ってはみたが、目的もわからない以上、警戒を緩めることはできない。
 きっと怪我を負わされた俺だけでなく、この場にいるほとんどの者にとってもそうだろう。
 アリソン・ウィッティングトン・シュルツ空軍大尉亡き今、彼を疑わない者の方が少ないはずだ。
 だが……上手くいえないが、俺は、それではあまりに寂しすぎると思う」

宗介の横顔に、どこか遠い孤独の色がよぎる。そして、微かな共感の色も。
彼もまた、時に親しい人にすら明かせぬような任務を背負うことのある身だ。その言葉には、不器用ながらも確かな説得力があった。
リリアは、小さく頷いた。
その口元に微かな笑みが浮かべて、どこか言い聞かせるような口調でつぶやいた。

「……わかった。トラヴァス少佐のことを、信じることにする。
 何するつもりなのか全然わかんないけど、見当もつかないけど――でも、わたしは信じることにする」
「そうか」

返答は、そっけなかった。
そっけなかったが、リリアを見守る宗介もまた、微かな笑みを浮かべていた。


     ※    ※    ※


「でもほんと、あの人は何をするつもりなのかしら」
「わからない。それが蜘蛛の糸のような救いであれば幸いだが、楽観してかかるのも危険だろう」
「信じろって言ったの、宗介じゃない。まったくもう……って、あれ?」

リリアは、ふと首を傾げた。

「そういえば、宗介。あのお面の人も最初に言ってた気がするけど……『蜘蛛の糸』って、何?」
「何、と言われても」
「ああ、いやもちろん、虫の蜘蛛は知ってるし、それが糸で巣を張るのは知ってるけど……そういう言い方、しないかな、って思って」
「なるほど。確かに、リリアが知らなくても無理はないか」

リリアの言葉に、宗介は納得したように頷く。

「これは確かに、日本独特の慣用表現かもしれない。宗教説話を元にした、有名な短編小説が元になっている。
 『蜘蛛の糸』という、そのままのタイトルだ。俺も一度読んだことがある」
「へぇ~、宗介の国の小説なんだ。……宗介が小説を読む姿って、ちょっと想像できないんだけど」
「肯定だ。確かに俺には、そういったものを読む習慣はない。だがある時、高校で読書感想文の課題が出てな」

変わらぬ仏頂面に僅かに眉を寄せて、宗介は腕を組む。

「それでまずは、ちょうど手元にあった、ASの戦術論に関する最新の本のレポートをまとめたところ、再提出だという。
 言われて見ればこれは俺が迂闊だった。現代文、つまり日本語の課題として出されているのに、英文の書物では確かに問題だ」
「あー、そういう次元の話じゃないような気がするんだけど……」
「しかし、あの国の書物で読むに値する資料というのは驚くほど少ない。雑誌でよければ技術関係で悪くないものもあるんだが。
 仕方なく散々頭を捻った挙句に、最新の防衛白書に関する私見をまとめてみたのだが、やはりダメだという。
 ならば何ならば良いのか、と教師に尋ねたところ、提示されたのが芥川龍之介の短編集だった」


     ※    ※    ※


あらすじは、こうだ。

ある日、釈迦が極楽の池のほとりから地獄を覗いてみると、カンダタという悪人が苦しんでいる姿が見えた。
その男はありとあらゆる悪事をやってきた極悪人だったが、たった1つだけ、善行を成していたことに釈迦は気がついた。
それは、小さな蜘蛛を踏み殺そうとして、すんでのところで哀れに思い、思い留まった、というもの。
釈迦はこの男にも救われる価値はあると思い、細い蜘蛛の糸を遥か下の地獄に向かって垂らすことにした。

(ちょっと待って、宗介。シャカ? ゴクラクって?)
(ああ、釈迦というのは仏教という宗教の開祖と言われる聖人だ。俺たちイスラム教徒にとってのムハンマドみたいなものだな。
 極楽というのはまあ、天国と考えてよかったはずだ。俺にとっても異教の話なので、細かな違いは分からないが)
(ふーん……そのイスラムとかムハなんとかってのもよく分からないけど、まあとにかく、天国の偉い人なわけね)

一方地獄では、そのカンダタが血の池でもがき苦しんでいた。
その目の前に、蜘蛛の糸が垂れてきたから大喜び。彼は急いでそれを登り始める。
だが、地獄から極楽までは実に遠い。相当な高さまできたところで疲れて休憩を取ることにして、そして何の気もなしに、ふと下を見た。
するとカンダタが登っていた糸を伝って、無数の地獄の亡者たちが続々と登ってくるではないか。
ただでさえ細い蜘蛛の糸が、この人数に耐えられるはずがない。そう恐れたカンダタは叫ぶ。
『この糸は俺のものだ。誰に聞いて登ってきた。下りろ、下りろ』
その途端、カンダタの手元で蜘蛛の糸は切れて、後を登ってきた亡者たちもろとも、彼は地獄へと逆落としに落ちていった――

     ※    ※    ※


「へえ……。いろいろ考えさせるお話ね」
「あの『人類最悪』なる男も、この話が伝わっている国の古い民族衣装に身を包み、狐を模した伝統的な面を被っていた。
 おそらくあの男が最初に示唆した『蜘蛛の糸』の話も、この話を念頭においてのことだろう」

元々長い話でもなかったが、宗介の説明はまたも簡潔にして要点を押さえたものだった。
リリアは尋ねる。

「それで、宗介はそれを読んでどんな感想文を書いたの?」
「うむ。まずは、作中に登場する『蜘蛛の糸』の強靭さについて私見を述べた」
「…………は?」
「話を読む限り、この蜘蛛の糸はただそこに巣をかけていた蜘蛛の糸を手にとって投げただけのものであるらしい。
 それでいて成人男性の体重を支え、それどころか、大量の人間がぶらさがっても簡単には切れない。
 最後にはとうとう限界重量を超えてしまったようだし、その際の具体的な人数が記されていないのは痛恨だが、実に興味深い素材だ。
 おそらく、より合わせて軍用のロープにでも仕立てれば、世界中の軍が採用を検討することだろう。
 ロープというのは地味ながらも、使い道が多く重要な装備だ。強靭な繊維の新素材は、それだけで一級の軍事機密になる。
 話の蜘蛛の生息地などが明記されていないのが残念だが、あるいは争奪戦が起こるのを恐れ、筆者はあえて伏せたのかもしれない」
「…………あ、あのねぇ」
「続いて、カンダタなる男の登攀技術の高さについて称賛した。
 泥棒をしていた関係で心得があった、と作中にあるが、しかし、正規の訓練も受けずに見事なロープ登りだと言わざるをえない。
 なにしろ装備らしい装備もなく、血の池で溺れ続けて疲れきった状態で、それでも相当な高さまで登り詰めたんだ。
 おそらく相当に高い身体的素質の持ち主だったのろう。基礎訓練を1から叩き込む必要があるが、きっと優秀な兵士になる。
 そしてまた、異教の聖人とはいえ、このカンダタを天国にスカウトしようとした釈迦という人物の眼力は相当なものだと認めざるをえない。
 ……と、大体このようなことを書き上げて、きっちりと提出した」
「…………で、その感想文を読まされた先生の反応は?」
「うむ。何故か非常に疲れきった顔をして、『もう相良君はこれでいいです』とおっしゃって下さった。再々々提出は回避できた」
「先生も本気でうんざりしちゃったのね……」

とろんとした目で、リリアはつぶやいた。


     ※    ※    ※


「だけど……そう考えると、おかしいんじゃない?」
「何がだ?」

2人揃ってブティックの中で並んで座り、味気ないカンパンをつまみながら、リリアは首を傾げた。
一度は味気ない、と切り捨てた支給食料ではあったが、動き出すには多少の腹ごしらえは必要だ。
そしていまは、選り好みしつつ食料を探すだけの気力もない。
こればかりは事務室で見つけた紅茶のティーバッグを、同じく事務室で見つけたやかんで沸かしたお湯で入れて、マグカップで飲む。
本格的な食事には程遠い、しかしおやつにしてはやや重い、ちょっとした軽食タイムだった。

「だって、その『蜘蛛の糸』って、自分1人だけ助かろうとしたら報いを受けて結局助からない、ってお話でしょ?」
「……そういう話だったか?
 体力自慢の有望な人材を釈迦がヘッドハンティングしようとするも、ロープの強度不足で失敗する話だったと思ったが」
「そういう話なの! まったくもうっ!」

宗介の言葉に、リリアは怒ってカンパンの缶を叩いた。反動で2個ほど飛び出しかけて、ギリギリのところで缶の中に戻る。

「でも、だとしたらこれおかしくない? たった1人しか生き残れない、って話と、全く噛み合っていないじゃない」
「確かに……そうか。リリアの理解でも、俺の理解でも、あの状況で言い出すのはどこかおかしい」

 『そして、生き残ることができるのは一人だけ。
  蜘蛛の糸の話を知っているものはその顛末も知っているよな?
  欲をかくなよ。一人だけという条件は絶対に覆らない。』

「どう考えても、他人を蹴落とすことを奨励するお話じゃないわ。むしろ、『それだけはダメ』って言ってるようなものよ。
 それでいて、助かるのは1人きり、ってことは何度も強調してる。なんかおかしくない?」
「言われてみれば、あの男は一度たりとて『他の者を殺して減らせ』とは言っていなかったな……そう解釈しても当然の状況は整えたが」
「まあ、さっきまでのわたしとか、話の筋をすっかり勘違いしてた宗介みたいなのは仕方ないとしても、よ。
 確か、名簿の名前の感じでは、宗介と同じ国の人が沢山いるらしいのよね?
 その人たちは、そのほとんどが『蜘蛛の糸』の話を知ってるのよね?」
「ああ。日本人の比率は明らかに高い。
 そして、日本人ならば大抵知っている話だとも聞いた。俺のことはかなりの例外だと思ってくれていい」
「なら――」

リリアは言った。

「あの一言には、なにか意味があるわ。単純な言い間違いとか聞き間違いとかじゃない、きっと、深い意味が」


     ※    ※    ※


「――と言っても、すぐにその意味がわかるようなら苦労しないわよねえ」
「肯定だ」

2人がかりでつまみ続けたカンパンは、とうとう空になってしまった。さりとて、次の缶を開けるほどの空腹、というわけでもない。
未練がましく指を中で遊ばせながら、リリアは溜息をつく。

「だいたい、『蜘蛛の糸』ってことは、最後の1人が決まったら雲の上からロープでも垂らすつもりなのかしら。
 もし万が一、たった1人で生き残ったとしても、それだと助かりようがないわよ。わたしなんかだと」
「ああ。壁伝いならともかく、装備もなく足がかりもないロープ登りは、プロの兵士でも簡単なことではない。
 それが体力と技術のある兵士でも、それまでに受けた負傷の程度によっては困難だろうな」

リリアの弱音に、宗介も同意する。
ロープを利用した登攀は兵士にとって基本的な技術だが、それだけに何が可能で何が困難かの判断も下しやすい。
空から縄を垂らされただけでは、ほとんどの者が立ち往生してしまうだろう。最後の1人もそこで朽ち果てろ、と言っているに等しい。

「ただ――空から迎えが来る、というのはあながち間違ってもいないのかもしれない。
 もし地上から迎えが来るというなら、その予定ルートを逆に辿れば、こちらも『人類最悪』のところまで辿り着けることになってしまう。
 流石に、そこまで隙のある相手とは思えない」
「空からって? 飛行機で、ってこと?」
「飛行機では離着陸に際して滑走路の問題が発生してしまう。市街地では難しい。おそらく、ヘリコプターになるだろう」
「ヘリコプター、って……なによそれ。まだ机上の産物じゃない」
「リリアのところではどうだか知らないが、俺たちのところでは当たり前の乗り物だ」

ヘリコプター。
垂直に離着陸でき、空中で停止するなどの器用な運用が可能になる――、と考えられている飛行機械だ。
ただし、リリアたちにとってはまだ空想上の乗り物。もちろん各地で試作はされているのだろうが、まだ使い物になる段階ではない。
ヘリコプターの実用化には、複数のローターの絶妙な回転数の調整が欠かせない。つまり技術的に高い水準が要求される。
そしてロクシェもスー・ベー・イルも、いまはまだ、普通の飛行機を飛ばすのが精一杯、といった段階なのだ。
名前や概念だけでも知っていたのは、リリアの母が最新鋭航空機のテストパイロットをしていたから、という要素が大きい。

「うーん、でも、宗介の国じゃ、大きな人の形をした機械が普通に歩いてるんだもんね。ヘリコプターくらいはあってもおかしくないか」
「入手が可能であれば、〈ミスリル〉でも使っている〈ペイブ・メア〉のような機体、つまり、ECS搭載型の大型輸送ヘリが望ましいだろう。
 あれなら仮に最後に残った参加者がまかり間違って攻撃を考えたとしても、ギリギリまで安全な接近を図れる」
「? ECSって?」
「電磁迷彩システムの略称だ。可視光をも含めた、あらゆる光学的探知を欺瞞することができる最新鋭のステルス装置だ。
 素人にも分かりやすく言えば――まあ、丸ごと透明になるようなものだ。すぐそこに居たとしても、まずそこに居るようには見えない」
「……とことん進んでるのねぇ……」

リリアは呆れる。
進みすぎた技術は、まるで魔法のようなもの――とは言うが、事実上の透明化に近いステルス技術とは。流石にこれは呆れるしかない。
呆れついでにショーウィンドー越しに空を見上げて、彼女はつぶやく。

「そうすると、ひょっとしてあのお面の人も、今も空の上に居たりするのかしら。その、見えないヘリコプターにでも乗って」
「どうだろうな。ローター音と強風の隠蔽には限界がある。目には見えずとも、音や風で察知されてしまう。
 また仮に高々度飛行をしていたとしても、いつまでも浮かんではいられない。今まさにそこにヘリがいる、ということはないだろう」

宗介は首を振る。
リリアにとっては未来のテクノロジーとも言えるヘリコプターではあるが、飛び続けるには当然、燃料が必要になる。
つまり、浮いていられる時間にも限界はあるということだ。
もちろん、簡単に尽き果てるようなものではないが、それでも、3昼夜もの間、宙にあり続けることはできないだろう。
空中給油を繰り返せば似たような真似も不可能ではないが、今度はその給油用の航空機をどこから飛ばすのか、という話になってしまう。

「――だが」
「?」
「リリアにとって俺の知る技術が規格外であるように、俺などには推し測れないような超技術が存在する可能性もある。
 たとえば、マネキンを動かし起爆させるような技術は、俺には想像することすらできなかった」
「それも……そうよね」
「大きな音を立てず、72時間程度であれば無理なく連続しての飛行・滞空が可能な技術。
 それももし可能なら、ヘリコプターよりも大型な、飛行空母のようなものが望ましい。ヘリ程度ではやはり、居住性に難がある。
 そこにECSのような高度な可視光ステルス機能を合わせれば――おそらく、この催しを管理するには、最適な観測所が確保できる。
 それが現実問題として可能かどうかは、俺には判断がつかないが」


     ※    ※    ※


「でもそうなると、飛行場の飛行機に燃料が入ってなかったのが残念よね。あればダメ元で飛んでみたのに。
 ……あ、でもひょっとして、『そのために』わざわざ全部抜いておいたのかしら。だとしたら、なんともご苦労様って感じだけど」
「可能性はあるな。機体内のタンクが空だったことはともかく、飛行場ならあってしかるべき備蓄分もなくなっていたのは不自然だ」
「どこかに燃料、ないかなー。あれば給油作業はできるんだけど」
「そうだな……少し探してみるか。危険も伴うが、自動車用の燃料を試してみるのも手かもしれない。
 ジェット機にただの灯油を注ぐのは危険極まりないが、旧世代のプロペラ機なら冗長性も高い。
 航空ガソリンに組成が近いハイオク燃料なら、短時間であればなんとか飛ばせるかもしれない。
 最新鋭の〈ガーンズバック〉より旧式の〈サベージ〉の方が粗雑な整備でも動いてくれるのと、似たような理屈だな」

2人は荷物をまとめながら、立ち上がる。
休息は取った。軽い食事も取った。とりあえずの目的も、見つかった。あとは、歩き出すだけ。
漠然とした、手掛かりすらない、今は雲を掴むような人探しと平行して――まずは飛行機を飛ばしてみる。その手段を探すのだ。
仮説の上に仮説を重ねた、本人たちにも実入りがあるとは思えない作戦ではあったが、しかし、ただ右往左往を続けるよりはいい。

「それにしても……宗介。なんか、吹っ切れた?」
「……そう見えるか?」
「うん。なんか、ウジウジしてない。負けて怪我して凹んじゃうのかな、ってちょっとだけ思ったのに」

リリアは小首を傾げる。
宗介は真顔のまま答える。

「大したことではない。会いたくもなかった知り合いに会って笑われて、逆に開き直っただけだ」
「??」
「よく考えたら、あの男は、たとえ死んでも素直な警告を善意でしてくれるような奴ではない――下手に焦っても、奴を喜ばせるだけだ。
 ここでリリアを置いて走り出しても、人探しがスムーズに行く保障などないし、何より、リリアがいたからこそ俺も一命を取り留めた。
 考えても仕方ないことを考え続けても、意味はない。そう悟っただけだ」
「なんだかよくわからないけど……ま、いいわ。辛気臭さが少し減ったようだし」
「辛気臭い……俺が?」

リリアはニコッと微笑むと何も答えず、大薙刀を肩にブティックから出る。口には出さないが、何か気に入ったらしい。
宗介も、返してもらった拳銃を懐に、2人で1つしか残っていないデイパックを肩に、その後を追う。

何気なく2人で見上げた空は、どこまでも青かった。
空を飛ぶ影も、レンズを通したような歪みも、どこにも見当たらなかった。


【C-5/市街・ブティック前/一日目・午後】

【リリアーヌ・アイカシア・コラソン・ウィッティングトン・シュルツ@リリアとトレイズ】
[状態]:健康
[装備]:早蕨薙真の大薙刀@戯言シリーズ
[道具]:なし
[思考・状況]
基本:がんばって生きる。憎しみや復讐に囚われるような生き方してる人を止める。
1:飛行機を飛ばしてみる。
2:宗介と行動を共にする。
3:トラヴァスを信じる。信じつつ、トラヴァスの狙いを考える。
4:トレイズが心配。トレイズと合流する。

【相良宗介@フルメタル・パニック!】
[状態]:全身各所に火傷及び擦り傷・打撲(応急処置済み)
[装備]:IMI ジェリコ941(16/16+1)、サバイバルナイフ
[道具]:デイパック、支給品一式(水を相当に消耗、食料1食分消耗)、確認済み支給品0~1個、予備マガジン×4
[思考・状況]
1:飛行機を飛ばしてみる。空港へ行って航空機を先に確保する? 航空機用の燃料を探す? 自動車の燃料で代用を試してみる? 
2:まずはリリアを守る。もうその点で思い悩んだりはしない。
3:リリアと共に、かなめやテッサ、トレイズと合流する。



     ※    ※    ※


 彼は、知らない。
 彼女も、知らない。
 まだ、知ることができていない。

 いま、2人が辿りついた、その仮説。
 いまの2人だからこそ辿りつけた、その仮説。
 いまだ、他の誰も思いつけず辿りつけずにいる、その仮説。
 それを聞く者が聞いたら、きっと、ある『名前』に思い至ったことだろう。
 瞬時に、ある存在を思い浮かべたことだろう。

 それは、宝具だった。
 それは、世界でも最大級の代物だった。
 それは、2つで1組として造られたものだった。

 陽と陰。
 昼と夜。
 陽光と星空。
 互いに相反し、互いに相補う名を冠された『それ』。

 音もなく天に浮かび、姿を隠し気配を隠し、決してそれがそこにあると知られることのない、城砦と称しても過言ではない代物。


 『天道宮』――あるいは、『星黎殿』。


 それが、『それ』に与えられた名前であった。
 彼も彼女も、まだ、その名前を知らない。いまはまだ、辿りつけていない――。




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