第6-41章.
(バガヴァッド・ギーター、第十七章)
アルジュナは言った、「クリシュナよ、聖典の定めを捨てて、信仰に裏打ちされた犠牲を捧げる者は、どのような状態にあるのか。それは善の状態なのか、情熱の状態なのか、闇の状態なのか?
アルジュナは言った、「クリシュナよ、聖典の定めを捨てて、信仰に裏打ちされた犠牲を捧げる者は、どのような状態にあるのか。それは善の状態なのか、情熱の状態なのか、闇の状態なのか?
聖なる御方は言われた、『具現化された(被造物の)信仰には3つの種類がある。それは(また)彼らの(個々の)本性から生まれる。それは善であり、情熱であり、闇である。これらを聞きなさい。バーラタよ、ある者の信仰は、彼自身の本性に適合したものである。ここにいる存在は信仰に満ちており、自分の信仰が何であれ、人はそれさえもそうである。善の資質を持つ者は神々を崇拝し、情熱の資質を持つ者はヤクシャとラクシャを崇拝し、闇の資質を持つ者は亡霊とブータの群れを崇拝する。経典に定められていない厳しい修行を行い、偽善と高慢に溺れ、執着と暴力の欲望に満たされている者、分別のない者、(その)体の器官群を苦しめ、(その)体の中に座っている我をも苦しめる者は、悪魔的な決意の持ち主であることを知るべきである。万人にとって大切な食物は3種類ある。いけにえ、懺悔、贈物も同様に(3種類ある)。その区別を次のように聞きなさい。生命の周期、エネルギー、力、健康、幸福、喜びを増大させる種類の食物で、香ばしく、油性で、栄養価が高く、心地よいものは、神に好まれる。苦いもの、酸っぱいもの、塩辛いもの、熱すぎるもの、刺激的なもの、乾燥したもの、火傷のようなもの、痛み、悲しみ、病気をもたらすものは、情熱的な者に好まれる。冷たく、香りがなく、悪臭を放ち、腐敗し、ごみでさえあり、不潔である食物は、暗闇の人に好まれる。儀式によって定められた犠牲は善であり、それは(その)実を切望することなく、またその実行が義務であると(信じて)心を決めることなく、人によって実行される。しかし、実りを期待し、誇示のためにさえ行われる犠牲は、バーラタの子らの長よ、その犠牲が情熱の性質であることを知れ。戒律に反し、食物を配らず、マントラ(聖句)を欠き、補助するブラフマナへの報酬を払わず、信仰を欠いた犠牲は、闇の質であると言われる。神々、再生者、戒師、知識のある人々への敬意、清らかさ、高潔さ、バラモンの修行、傷害を避けることは、肉体の懺悔を構成すると言われる。動揺を招かない、真実であり、好意的で有益な話し方、ヴェーダを熱心に学ぶことは、話し方の懺悔であると言われる。心の静けさ、優しさ、寡黙さ、自制心、純粋な気質、これらは心の懺悔と言われる。この三重の懺悔は、完全な信仰心によって、実りを望まず、献身的に行われるものであり、善の性質を持っていると言われる。敬意、名誉、尊敬を得るために、偽善をもって行う懺悔、不安定で一過性の懺悔は、情熱の質であると言われる。欺かれた信念のもとに、自己を責め、他者を破滅させるために行う懺悔は、闇の質であると言われる。贈るべきものだから贈るのであって、それに対して何の奉仕も返せない人に、適切な時に、適切な人に贈るものは、善の質であると言われる。しかし、(過去の、あるいは期待される)奉仕の見返りを求めて、あるいは果実を求めて、不本意ながら贈られるものは、その贈物は激情の質に属すると言われる。ふさわしくない場所で、ふさわしくない時に、ふさわしくない対象に対して、敬意を払わず、軽蔑してなされる贈り物は、闇の質であると言われる。OM、TAT、SAT、これは梵天の3つの呼称であると言われている。それ(ブラフマー)によって、ブラフマーナ、ヴェーダ、そして生贄は古くから定められていた。したがって、OMという音節を口にすると、梵天のすべての発音者の、儀式によって定められた犠牲、贈り物、苦行が始まる。TATと唱えれば、犠牲、懺悔、贈物のさまざまな儀式が、実りを期待することなく、救済を望む者たちによって行われる。SATは存在と善を表すために用いられる。同様に、プリター(クンティー)の息子よ、SATという言葉はあらゆる吉祥な行為に用いられる。犠牲、懺悔、贈物における不変もSATと呼ばれ、そのための行為もSATと呼ばれる。 どんな捧げ物も、どんな贈物も、どんな懺悔も、どんな行いも、信仰がなければ、プリター(クンティー)の子よ、SATの反対であると言われる。'