軍旗はためく空に

(投稿者:神父)


高空の黝い背景に、白熱する噴射焔が鮮やかに刻まれる。
ジョーヌが赤の部隊の速力に翻弄されていたのとは対照的に、ツィダはその尋常ならざる推力を以って黒の部隊と渡り合っていた。
ブラック・スリーことマシュー、カイア、ルテーガは完全に置いていかれ、突発的な襲撃をかろうじて回避し続けている。
チューリップは後方から追撃をかけているが、いかんせん射程距離が足りないために決定打を与えられない。

「遅い! ルフトヴァッフェの精鋭とやらもその程度か!」
「……!?」

これで何度目になろうか、刃を振り下ろせる位置まで追いついたチューリップの眼前からツィダの姿が掻き消えた。
唐突に腕を横へ振り出したところまでは目で追えたが、その後の動きが読めなかった。

実際に行われたのは能動的質量移動制御───空戦における基本的な姿勢制御である。
これは手足の慣性質量を使い、推進器を用いずに空中での方向転換を行うものだ。
推力を自在に制御できる狭義の空戦MAIDには無用であるが、ツィダはこれを活用しなければ機動力を十全に発揮できない。
ザトゥルンはその性質から言って推力を急激に絞る事が難しく、推力偏向にも限界がある。そのため本質的に旋回半径が大きくならざるを得ない。
だがSS技術部はその欠点を熟知しており、またその対策を練る時間は充分にあった。その結果が今のツィダの機動だ。

───目標を見失った事に気づいたチューリップが振り向くと、さも当然のごとく、ツィダが三人の部下へと襲いかかるところであった。
ランゲラウフからフルオートで吐き出された9mm弾がルテーガの大戦斧を乱打し、直後、ツィダ自身の飛び蹴りが彼女を襲った。

「くあっ!」
「ルテーガ!」
「……だ、大丈夫、まだ行ける」

これで戦斧は使用不能だ。ルテーガ自身はどうにか身を守る事に成功したようだが、次の保証はない。
下で待機する青の部隊員に合図を送ってから戦斧を捨て、恐るべき速度で旋回して突入の構えを見せるツィダを捕捉する。

「くそっ、あんなに速い奴がいるなんて聞いてないぜ……どうすりゃいいんだ」
「……いや、隊長はもっと速い。問題ない」
「馬鹿、俺らが墜とされたらどうすんだって話だ!」
「───また来た!」



32発を撃ち切り空になったスネイルマガジンを捨て、新しい弾倉を装填する───いちいち下界を心配するような事はない。
アイアンサイトを塞ぐように立ち上がっていたトグルが待機位置へ戻るのを確認し、ツィダは肩へ銃床を当て直した。

一人でも多く───」

小隊長を失った今、彼女にとって最も重要な事は、一人でも多く敵の戦力を削る事だった。
照星のはるか彼方に、互いを守ろうと固まった三人の敵が見える。彼女の速度域に追いつけないがために、そうせざるを得ないのだ。

「───落とさなければ」

だが、銃爪を絞ろうとした瞬間に彼女は背後の気流に異常を察して軌道を変えた。

「やらせにゃ……いっ!」

舌足らずの叫びと共に斧が振り下ろされる。チューリップだ。
しかし噴進焔の直撃を避けるためやや側方から接近していた事が災いし、一撃を与える事はかなわなかった。

「貴様、邪魔を!」

ツィダは身体をひねり、横薙ぎにランゲラウフを撃ちかける。
もっとも照準がいい加減で、しかも発射サイクルが低いため有効弾は望めない。実際、チューリップは全弾を回避ないし防御しきっていた。

「……すばしこい奴だ!」

背後から追われている状態では目の前の標的に集中できない。
やむなく彼女は優先順序を変える事にした──撃墜しやすいであろう部下三名ではなく、隊長を狙う事にしたのだ。
ブラック・スリーを狙った降下進路から水平飛行に遷移し、防御のために瞬間的に速度を落としたチューリップとの距離を稼ぐ。
彼女がちらりと燃料計を確認すると、燃油残量が半分を割っていた───凍りつくような高空の寒気がさらに冷え込むような錯覚を覚える。
この機敏な隊長格は隙を見せておらず、そのために彼女としては持久戦を覚悟せねばならない。
だが、当然ながら燃料が尽きれば彼女は飛ぶ事などかなわない。良くて不時着、悪ければ墜死だ。
そして彼女には、七分足らずでチューリップを捕捉し、撃墜しうるだけの自信がなかった。……ただ一つの方法を除いて。

(今か?)

腰のベルトに備えられた制御弁や計器類に混じって、一つのスイッチがある。
プレパラートで保護され、「注意( ベアハトゥンク )」と赤く書き込まれた金属板に彩られた小さなスイッチは、
控えめな見た目とは裏腹に極めつけの危険性を秘めていた……過給圧制御を停止し、燃焼圧をどこまでも上昇させるのだ。

(全開六十秒で燃焼室を終わらせる( ・・・・・ )戦闘時緊急出力……一瞬の音速……)

「……だが音速は音速、嘘偽りなし───!」

ツィダの左手がガラス板を砕き、スイッチを完全に押し込んだ。
青白く輝く火焔が一際強く吹き上がり、追いつきかけていたチューリップにヴェイパー・コーンの一撃が浴びせられる。
スクランブルブーストの発動を示すけたたましい咆哮が紺碧の空を叩き割った。

速く飛べば飛ぶほど傷つき、疲労はさらに深く刻まれてゆく。
それでも速く飛ばなければ生まれてきた意味がない。
彼女は、その領域で生きているMAIDなのだ。



「こらあかんわ副隊長。止めても行くで、俺は」

第三小隊が見事なまでに空中分解し、残ったレイリとツィダがそれぞれ地上と上空へ消えたのを見届けたハルキヨが呟いた。
関節が白くなるほど強くスコップを握り締め、歯を噛み合わせた様はまさに闘犬である。

「先行したらまず間違いなく落とされるけど、それでもいいのかなあー?」
「せやかてこれ以上黙って見てられるかい。パチェ、あと頼むわ!」

言うが早いかハルキヨは韋駄天の如く飛び出していった───ノインがちらりとゼッケの顔をうかがい、諦め顔でいるのを見ると、その後に続いた。
ピアチェーレは落ち着き払った様子で手を振って見送り、指を三本立ててゼッケに向けた。

「第三小隊の二の舞になる、に3マクスで。副長さん、いくら賭けます?」
「あのな、ピアチェーレ……」
「冗談です。でもまあ、そうですねー、敵さんも数減ってますし、そこそこ善戦するんじゃないでしょうかー」
「しかし、最後には結局墜ちると」
「私たちが追いつくのとどっちが先でしょうねー」
「……」

ゼッケがばりばりと髪をかきむしった。この状況ではただ急行するより他にする事がない。
文句を並べる事さえ鬱憤を晴らす手段にはなりえない……むしろピアチェーレが相手では余計に苛立たされるだけだろう。

「あ」

演習が終わったら全員説教責めにしてやる、全員、必ずだ、などと考えていると、唐突にピアチェーレが前方を指差した。

「何だ───」

遠く霞んだ大気の先に、際立って青白く鋭い軌跡が描き出されようとしていた。
そして十数秒を置いて、鈍く重く、ハンマーを振り下ろすような衝撃音が届いた。

「……本気なのか、ツィダは」
「みたい、ですね」

珍しく、ピアチェーレも神妙な顔でその光景を眺めていた。
たかが演習で、とは二人ともに共通する思いではあったが、しかし、空戦MAIDに対するツィダの偏執ぶりは尋常ではなかった。

一万フィートの距離を置いてもわかっていた。彼女は間違いなく、命を賭けてルフトヴァッフェに一矢報いるつもりだと。



一切の特殊能力を持たず、ただ単にヴァルターロケットを与えられたというだけのMAIDにとって、成層圏は地獄にも等しい。
とりわけその飛行速度が音速に達しているとなれば、大気は恐るべき勢いで体温と水分を奪い尽くす。
眼球は乾燥を通り越して凍りつき、指先は秒単位で凍傷から壊死へ到り、肺はその用を成さなくなる。
いや、そもそも風防すら持たずにラム圧を受けながら呼吸しようとする方がどうかしているのだ。

「が……あ……」

黒く狭まりゆく視界と意識の中で、ツィダは口の端から血の泡が溢れ、即座に凍結・乾燥して飛び散ってゆくのを感じていた。
その一方で、頭のどこか冷静な一部分では、スクランブルブーストの残り時間を計時していた───残り四十秒。

(間に合え!)

チューリップと充分に距離を取った事を確認してから左腕を振り出し、空中で姿勢を反転させる。
耳障りな音を立てて肩の関節が外れたが、もう片腕が健在ならばそれで充分だ。
正面に捉えたチューリップがひどく驚いた顔をしたが、もう遅い。
銃爪を絞ろうとし───あまりの高加速度に歪んで壊れた事に気づき、棍棒のように握り直す。

それから起こった事は、一瞬と言うにも短かった。

ツィダの振り下ろした一撃は、間違いなく目標を捉えていた。彼女は気力を振り絞り、凄惨な笑みを浮かべすらした。
だが、チューリップは胸の前で戦斧を交差させ、その一撃をかろうじて防ぎ止めた───撃墜判定ではない。

(馬鹿な! あの一瞬の隙で───それだけで───)

あと一歩が足りなかった。拳銃さえ壊れなければ、その隙も生まれなかったはずだった。
彼女は戦斧に叩きつけられて折れ曲がった拳銃を握り直そうとし、右手の指が五本とも折れている事を悟った。

「もう……い……度」

もはや限界だった。ターボポンプが熔け落ち、エンジンブロックのパネルが一枚、爆ぜ飛んだ。
背中を殴られたような衝撃にツィダは喀血し、呼吸不全が急速にその意識を遠のかせた。

(またしても敗れたのか、私は、失敗作だと言うのか、何故勝てない、何故、何故、何故、何故───)

閉じてゆく意識の最奥に、一人のMAIDの姿が映った。
地道な飛行試験を繰り返しているツィダを尻目に帝国の空に突如として現れ、そして暴力を撒き散らしたあのMAID。
いまや押しも押されぬ帝都防空飛行隊の長として君臨する、恐るべき空戦MAID。
いつか殺してやると何度心に誓った事か、だが今この時ばかりは彼女以上に頼るべき者などありはしなかった。
ツィダは血を吐きながら、最後の呼気を絞り出し叫んだ───

「後……を、頼む……、……イェリコ───ッ!」

それが彼女の最後の足掻きとなった。
乾き切った眼は涙を流す事すらかなわず、しかし、飛散する血と機械部品がその代役を果たした。
それはあまりに無残で露骨な、そして死を想起させすぎる代用品であった。



「……」
「隊長! 無事ですか!」

背負ったエンジンから火を噴いて落ちてゆくツィダを見下ろしながら、チューリップは黙然と空中に佇んでいた。
割り込もうにも割り込めなかった三人が、ようやっと機会を得てその下へ集まる。

「隊長……あの、血が」
「え?」

マシューが狼狽した様子でハンカチを差し出した。
チューリップが目顔で問うと頬を指差すので、擦ってみると乾燥した血液がぱりぱりと音を立てて剥がれ落ちた。
それを見て、ルテーガがかっと頭に血を上らせた。

「あの野郎、よりによって隊長の顔に……!」
「いや、よく見ろ」
「なに?」

じっとチューリップの顔を見ていたカイアが、ぼそりと指摘した。
言われた通りに二人がよく見ると、確かに血はついていたが、傷跡らしきものはいっさい見当たらなかった。

「こ……れは、あのMAID自身の……血、です」
「そんなになるまでして……戦っていたのか?」
「……馬鹿な奴もいたもんだ」

マシューが吐き捨てると、チューリップがきっと振り返り、何かを言おうと口を開き……そして、唇を噛んでそれを押し殺してから、言い直した。

「ここかりゃ、ここか……ら、は、正面から来、る、残敵をれい、れ……迎撃しましゅ。いいでし……す、か?」
「あ、ああ、わかった、隊長」
「合点承知だ」
「……諒解」

チューリップが先頭に立つと、それに従って三人も菱形編隊を組んだ。

「……」

彼女は痺れの残る手を握り締め、震えを抑えようと努めた。
あのMAID、ツィダは本当に、掛け値なしの全力を賭けて彼女に挑み……そして敗れた。
最後の一撃をあえて受けていれば良かったのだろうかと自問したが、答えは否定的なものだった。
彼女はきっと最後に手を抜いた事を見抜き、さらに執念を積もらせただろう。
あのMAIDは一介の、まったく凡庸なMAIDであってなお、空戦MAIDという特別な存在に優りうるという事を証明したかったのかも知れない。

恐ろしく無謀な挑戦だが、いつかそれが証明される日が来るだろう……その時、彼女の命があるかどうかは別として。










最終更新:2010年02月09日 00:25
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