良い天気だと、
アースラウグは久々に思っていた。
どこまでも広がっていく爽やかな青空に、心地良い風が吹いていた。珍しく訓練もない非番の日である。
こんな日は、せっかくだから誰かと遊ぼうかとでも思っていたが、なかなか暇な仲間はいなかった。
メディシスは相変わらず多忙な日々を続けているし、ジークはジークで最近は何やら偉い人達に引っ張りだことされていた。アイゼナと
ベルゼリア、
プロミナはどこへ行ったかは分からない。
スィルトネートは、多分ギーレン宰相のところだろう。つまり、誰かと遊ぼうと思っても手頃な人物は誰もいなかったのだ。
そう考えると折角の非番の日だが、思ったより面白そうな事はなかった。
一人でいるということは、予想以上に暇なのだ。本でも読んでみようかと思ってもみたが、自分にはどうも合わない。
本を読むことの大切さなどは分かっているつもりだが、自分はどうしても興味がそちらに向かなかった。頭を働かせるより、身体を動かしていたほうが楽しい。強くなり、ジーク達の力になりたい。そして、強かった母親のようになりたい。
母様――
ブリュンヒルデはどうだったのだろうかと思うこともある。いくら考えても、答えが出るはずはないと知っていても、母親という存在である、ブリュンヒルデのことを考えないことはない。
自分は、周りから第二のブリュンヒルデであることを求められているからなのか。自身の目標として、ブリュンヒルデを目指しているからなのか。そのどちらかなのか。
――本当に、そうなのかな。
自分は、どうしてブリュンヒルデを目指そうとしているのか。いつから目指していたのか。本当にそこに自分が求めていたものはあるのか。
少しづつ生きていく内に、自分が何故ブリュンヒルデを目指していたのか分からなくなりつつある。
皆は、どう考えているのだろうか。ジークもメディシスも、自分にはブリュンヒルデになって欲しいと思っているのだろうか。
考えた所で答えが出ないのは分かっているのに、時々こうして考えてしまう。最近の悪い癖だ。
「どうしようもないのに」
呟く。気がつけば、いつのまにか薔薇園のところまで一人で歩いてきていた。
誰か一人ぐらい居そうなものであったが、休みなのはどうやら自分一人ぐらいしかいないらしい。
辺りを眺めてみれば、薔薇が見事なまでに咲き誇っている。風が吹くたびに赤い薔薇が青い空へと散っていき、雲の間を飛ぶように花びらが散っている。
少しばかり、それがとても幻想的な光景に映って、見つめていた。花びらが飛んでいく度に、視線をそちらと移す。よく見てみると、白い薔薇の花びらも混じって飛んでいることに気がついた。
ここには、赤い薔薇だけしか無いものだと思っていた。白い薔薇があるとは思ってもみなかった。どこにあったのだろうと思い、飛んできた方へと歩いていく。奥の方へと歩いていくと、確かに白い薔薇園が一つだけ見えた。
同時に、そこに意外な人物が立っているのが目に飛び込んできた。恐らく、その場には最も似つかわしくない人物だと言われてしまうであろう男。誰も想像していないであろう男。
「テオ、さん……?」
「アースか」
表情を読ませない面が、こちら側を向くように動いた。
「珍しいな」
正直、それはこっちが言いたい言葉だった。あの
テオドリクスが薔薇園に来ているなどと、誰が考えているだろうか。
全身を鎧で覆って、顔すらも分からないメールである。素顔を見たことがあるのは、今のところ知り合いには誰もいなかった。
「テオドリクスさんがいるほうが珍しいと思います」
「皆、そういうだろう。俺がいるなど、誰も考えまい」
微かに笑い声をあげて、テオドリクスは白薔薇の方へと目をやった。赤い薔薇園達の中に一つだけ、咲いている白い薔薇園。
「時々、来ているんですか?」
「誰もいない時を、見計らって来ていたのだがな」
確かに、普段はここでテオドリクスと会うことなどなかった。出会うのはいつも、稽古をしてもらう為に自分から練兵場に出向いたりした時や、戦場の時だった。
テオドリクスは、さっき自分がいるのが珍しいと言っていたが、アースはそう考えてはなかった。
皆は、どう思っているのかは知らないが、心優しい人物であるとアースは感じていた。少なくとも、自分に対してや、兵士達に対してはそうだ。
兵士達や、上官からは好かれている。無駄なことはせず己が何をすべきかをよく分かっているとか、話し掛けにくいが戦場において、さり気無く自分達を護ってくれてたという話は兵士の人々から聞かされた。
時折、自分で書物から戦術について学んでいる所もあったようで、その辺りは上官の方に好まれたのだろう。余計な事は言わないが、必要な事は言ってくれる。そういう軍人だと。
自分も、そういう事は感じられた。稽古をつけてもらっている時、テオドリクスは容赦がなかった。武器を落としても、容赦なく柄の方で急所ではない部分を突いてきたりして、休ませてはもらえなかった。
とにかく稽古中は必死にならなければ、痛みからは逃れられなかった。痛みから逃げる為に、アースは武器を離すまいと努力してきた。そうしていく内に、だんだんとテオドリクスの攻めを、受けていけるようになってきたのだ。
今では、武器を落とすことは無くなっていた。殆んど防戦一方ではあるが、たまに打ち込めるようにもなった。全部が全部ではないが、打ち込める場所が見えるようになるのだ。
もちろん、その感覚ははっきりとは言えない。けれども、自分が成長しているということは、実感できた。
厳しく教えているように見えたりして、優しいのだと思う。あれだけ厳しくしてるのは、アースが死なないように鍛えてやろうと思ってるからだ。
殆んど褒めてはくれなかったが、初めて打ち込めた時の、見事だった、の言葉は今でも覚えている。本当に短い言葉だったが、なによりも温かみに満ちていた。
父親代わりのような人かもしれない。口には出せないが、アースとしてはそう感じている。
ここに来ているのも、そうした優しさからだろう。多分、自分の母親としての存在であるブリュンヒルデに対する、墓参りという意識。
「母様の、墓参りですか」
「お前には、分かるか」
やっぱりと思ったが、口には出さない。
「分かります」
「俺も、まだまだだな」
それとはまた話が別だろうと思ったが、やはり口には出さない。
「それとは、別の理由もあるが」
「どんな、ですか」
「墓参りは一緒だ。ただ、それが一人ではないということだ」
「一人、じゃないんですか」
「そうだ。……ずっと兜をつけていては、怒られるな」
「……あ」
テオドリクスが、兜を外した。初めて見る素顔。
精悍な面構えに、鋭い目線。しかし、猛々しさにどこか優しさが紛れているように、アースは感じた。
赤い薔薇園の中に、一つだけある白い薔薇園をテオドリクスは見ていた。どこか、悲しそうな眼に見える。
「レギン……姉さま?」
「ブリュンヒルデの妹のような者だった。少なくとも、俺は、そう見ていた。
二人とも気高く美しく、そして強かった。」
普段余計な事を喋らないテオドリクスが、言葉に熱を込めて語り続けている。その様子に、何か吸い込まれるように自分は聞き入っていた。
「だが、二人とも自分の背中に重たいものを背負いすぎた。そして、それに周りは気付かなかった。俺も含めてだ」
「周りが」
「そうだ。気づいた時には遅かった。ただ他の者達はブリュンヒルデを褒め、讃え、奴の身体の心配をしていなかった。それがどれだけの重圧となり、あの女を苦しめたか考えていなかった」
「それは」
「レギンレイヴも似たようなものだ。誰か一人でも気づいてやれば、まだ長く生きていられたかもしれん。もしかしたらお前とも顔を合わせていたかもしれん」
相変わらず、言葉をテオドリクスは吐き出していく。
「俺は、別に人間が俺たちをどう扱おうとも構わんつもりではあった。少なくとも戦場に立てれば、俺はそれで良かった。
しかし、長く生きるうちにいろいろと余計な事を考えるようになってしまった。
それを成長と呼ぶのかは知らん。悪いことかも良いことかもな」
いつのまにか、日が沈みかけて、空は透けるような青色から、濃い橙色と変わりつつある。
「今でも、俺がもう少し早く成長していれば、レギンレイヴやブリュンヒルデも生かせられたのではないかと考えることもある。驕りかもしれんがな」
「そんなことはありません」
「ある」
「テオドリクスさんは」
「一度レギンレイヴが、身体の限界に達している所を俺は見た。だがな、言葉しか掛けられなかった」
「それは」
「あの時、強引にでも止めていれば、俺は助けられた」
言葉を返すことが出来なかった。テオドリクスの顔に、ありありと後悔の表情が映し出されていたからだ。
二人とも、テオドリクスにとっては大事な人だったのだろう。母様についての話は聞いたことがあるが、レギンレイヴに関しての話をテオドリクスからは聞いたことが無かった。
「テオドリクスさん」
「……話はここまでだな」
「え?」
テオドリクスが、兜をまたつけた。そして、入り口の方へと視線を移す。自分も釣られてそちらへと移すと、女性――メードが一人立っていた。
美しい身体を見せ、特徴的な足音を鳴らしながら、こちらへと近づくその姿に、アースは見覚えがあった。
「随分と御喋りでありましたのですね。テオドリクス」
「盗み聞きとは、ヨハネス大将の部下とは思えんな」
「護衛ですから」
「お前の護衛は、どちらもか」
「ええ、そうです。さぁアース様、こちらへ」
はっきりその姿が見えてきた。
アドレーゼだ。なにか凄いえらい人の護衛のメードで、自分に良くしてくれるが、正直に言えば、余り好きにはなれないメード。
人形じみた微笑が、その理由の一つだと思った。本当に自分の事を考えてくれているのか。そうしてその笑みを向けているのか、分からない。
テオドリクスの方が優しさは伝わっていた。
「アース、行け」
「でも」
「行け」
テオドリクスが、強い口調で言い放つ。仕方なく、自分はアドレーゼの方へと向かったが、そのままアドレーゼの横を通りすぎていった。
そのまま入り口の奥のほうで二人を見る。
「あらあら、お元気ですこと」
「邪魔をするのが好きだな、お前は」
「ええ、ブリュンヒルデ様とレギンレイヴを同列に語るなど……レギンレイヴが功績を成したのは認めますが、ブリュンヒルデ様には到底及びませんわ」
「相変わらず頭の硬い上に物を知らぬ女だな、レギンレイヴをろくに知らぬのに。ブリュンヒルデもジークも、アースもお前のような女に好まれて、大変だな」
「そんなことは有りませんわ。皆、喜んでくれているはずです」
「お前の中ではな。……そこを退け。俺は、帰る」
「そうですか。それでは」
アドレーゼが道を退けた。テオドリクスがそこを通る。その時、鋭い音が響いた。金属と金属がぶつかり合う音。
テオドリクスは何事も無かったかのように歩いて、自分の傍を通り過ぎた。テオドリクスが、いつの間にか斧で背中を守っていた。斧には、微かにだが傷が付いている。
「テオドリクスさん」
返事はなかった。そのままテオドリクスが歩いていく。
アドレーゼへの方へと視線が動いた。刃が、いつの間にか握られていた。
自分は、アドレーゼの方へと行かずに、テオドリクスの方へと走った。
最終更新:2010年08月10日 00:39