Chapter 7-3 : 軌跡の片鱗

(投稿者:怨是)


 1945年9月2日。本日は快晴と呼ぶべき天候だ。アースラウグは車の窓から外の街道とその横を流れる水路を眺め、眩しさに目を細めた。
 ヨハネス・フォン・ハーネルシュタイン名誉大将、ならびにその近衛MAIDであるアドレーゼの誕生日である。黒に金色の装飾の施された車に、アースラウグ、アドレーゼ、ハーネルシュタイン、そして運転手の親衛隊員が乗っていた。帝都にある国民会館と呼ばれるホールへ向かっている。

「懐かしいな、アドレーゼよ。昨年のこの日、わしは皇帝陛下よりお前を賜ったのだ」

「えぇ」

 助手席に座るアドレーゼに、ハーネルシュタインは感慨深げに語った。厳かながらも優しさを感じさせる視線は、父と娘の関係を思わせる。護衛の車両がバックミラーより垣間見えるが、それさえ除けば互いの記念日を祝い合う姿に郷愁すら覚える。
 此処に至るまでの問題はまだ山積みだがまずはこの日、決意を新たにし、決起するのだ。旨い料理が沢山食べられる等と息巻いていた不届きなMAIDも居たが、彼女は今回の式典の重要性をきちんと理解しているのだろうか。

「今日の式典は全国放送されるのでしたか」

「その通りですぞ、アースラウグ様。わしはこのエントリヒ帝国を愛しておる。陛下が皇帝に即位した時から、ずっと仕えてきた。今の帝国は、陛下によってもたらされたものである。ルージア大陸戦争の時も、G襲来の時も、わしはずっとこの帝国を見てきた……」

 連綿と連なる歴史に立ち会った男、ハーネルシュタインは喜びも悲しみもその顔の皺に刻んできたのだ。英雄達が生まれ、そして散っていった瞬間を陰から見つめ、彼らの功績を讃え、支え続けてきた彼は、今年で75歳を迎える。それでも尚、精悍さが滲み出ているのは強い意志によるものだろう。

「不肖ハーネルシュタイン、この命の灯火は未だ消える訳には行きませぬ。アースラウグ様。わしは二代目軍神たる貴女が、我等が帝都を更なる栄華へ導いて下さるのを見届けたいのです」

「爺様……」

「わしとアドレーゼはその決意を国民に知って頂くべく、此度の式典を発案したのです。陛下は快諾して下さった。何と礼を申せば良いか……! さぁ、あれに見えるが今回の舞台。帝都ニーベルンゲ第12会館でございますぞ」

 黄金の装飾が施された、巨大な建築物。帝都ニーベルンゲ第12会館は300年前からあの場所にあった、歴史的な建築物の一つである。歴史に於いて幾度も輝かしい転機をもたらした事でも知られ、帝国の高い身分の者は皆、あの場所で結婚式を挙げるという。アースラウグはまだ、その建物に入った事が無い。果たして、どのような場所なのだろうか。

「!」

 感嘆していた所に、それは襲い掛かった。
 突如としてボンネットが拉げ、車は瞬く間に使い物にならなくなった。エンジンから煙が上がり、フロントガラス越しの視界は真っ白に塗り潰される。誰よりも早く危機的状況を察知したアドレーゼが、車のドアを押し開けて双剣を構えた。

「――何事であるか!」

 ハーネルシュタインも続いて、腰のホルスターから引き抜いた黄金の拳銃を片手で構えた。少し遅れる形で運転手の親衛隊員も短機関銃で警戒する。煙から大柄な鎧の姿が現れるよりも早いか、恐るべき速度で巨大な斧が振り下ろされた。アドレーゼが交差させた剣にその一撃はぶつかり、周囲に火花が飛び散る。

「何と、お前は!」

 車を破壊した張本人の姿に、誰もが驚愕を露わにした。テオドリクスと云えば如何なる任務も黙々とこなし、忠誠を尽くしてきたMALEの筈だ。ハーネルシュタインを狙う理由は何処にあるというのか。

「おのれ、逆臣め!」

 兜の奥からは、憎悪に満ちた声が漏れ出た。大気がビリビリと振動し、アースラウグの両足を硬直させる。ハーネルシュタインは敢然と立ち向かい、発砲する。7.65mmの拳銃弾は敵の分厚い鎧を貫くには至らなかったが、宣戦布告の証明として、敵の鎧にしっかりと刻んだ。

「テオドリクス……血迷ったか!」

「俺は武の他に道を知らぬ。ハーネルシュタイン! 貴様が奸計を企てていると知った以上、今ここで両断してくれる! 覚悟!」

 アドレーゼを強引に押し飛ばし、テオドリクスはハーネルシュタインへ向けて斧を振り上げた。寸での所でアドレーゼが剣を当て、その軌道を逸らす。斧は勢い良く石畳にめり込み、砕け散った破片がそこかしこへと転がった。

「何故にご乱心あそばれますか!」

「今申した通りだ! 退け、アドレーゼ! そやつは帝国に巣喰う寄生虫だ! 人心を弄び、私腹を肥やす豚だ!」

「なりません! 主人は、ハーネルシュタイン様は潔白にございます!」

「ならば、そやつの走狗たる貴様ごと潰すまでよ!」

 アドレーゼの悲痛な叫びは、テオドリクスの獰猛な咆哮に今にも握り潰されそうだった。絶対の暴力が、周囲を埋め尽くす。ハーネルシュタインは護衛に囲まれ、後方へと下がった。これで一先ず、国を支える一人の偉大な人物が、無慈悲なる斧に両断される心配は無くなった。歯車は奈落に落ちずに済むのだ。
 踏み留まれ。状況は見た目よりも有利だ。アースラウグはヴィーザルを車から取り出し、テオドリクスに向ける。

「テオドリクスさん、それが貴方の答えだと云うのならば……!」

「……アースラウグ」

「アースラウグ様、ここはわたくしにお任せを。アースラウグ様は他に敵が居ないか、ハーネルシュタイン様の近くで警戒して下さいませ」

 云われるままに、アースラウグは下がった。かつて母と戦場を共にしたというテオドリクスと、二代目軍神である自分の傍らを守るアドレーゼ。どちらも軍神に縁を持っていながら、対峙せねばならないのは何たる皮肉か。母であれば調停できたであろうこの戦いに於いて、アースラウグは傍観に徹する他、道は無かった。怨むべくは己の無力か、運命か。

「ここからはわたくしがお相手致しましょう」

「なるほど、盲目に忠義を尽くすといった目をしている。飼い主の清濁を無視した、忠犬の目だ」

「そう云う貴方は、仮面で何もかもを隠し、諦めている様に見えますわ。余りにも、孤独な武ではありませんか」

 刃と刃が当たり、火花が飛び散る。アドレーゼの刃の先には鋼線(ワイヤー)が取り付けられており、それが攻撃範囲を広くする。鋼線は切断に適した特性を持つが、防御には不安が残る。故に、アドレーゼはテオドリクスの一撃を受け流すか、回避しつつ牽制するという戦法に終始していた。

「ほざくな。たかが一年の生で、他者の感情を語れるものか」

「ずっと戦場に閉じ籠もっていた貴方とは違いますもの。(まつりごと)の世界にも、市民の世界にも、わたくしは接してきた。感情の機微を読み取る力は、充分に養ってきたつもりですわ」

 だからだろうか。テオドリクスは力ずくで破壊する事で解決を図るという遣り方を体現するかの様に、その攻撃の一つ一つがひどく荒々しい。対照的にアドレーゼは滑らかな動作で攻撃をいなし、テオドリクスの鎧に少しずつではあるが傷を付けている。

「ならば尚更、気に入らぬ。何故に貴様は、此処に至る迄の種々の悲劇を無視してきた! 放火事件の真相を、知らぬとは云わさんぞ!」

「真相ならば心得ておりますわ。黒旗がプロミナと手を結び、敵対者の、或いはその家族の家を焼いている。公安部隊の厳正な調査の結果でも、それは既に明らかにされています」

「そうだとすれば何故、黒旗の提携企業の者の家まで焼く! 説明は出来るか!」

「提携するに際して都合が悪くなったからに他なりません! 如何でしょう。それに、貴方の謀反も黒旗の手引きによるものではないのですか!」

「知らんな……」

 テオドリクスの言葉が途切れた。両者の距離が離れ、戦場は硬直する。テオドリクスの猛攻はぴたりと止んだが、アドレーゼは油断せず、反撃に転じる隙を覗う。

「認めて頂けましたか。真実は変えられません。まして、貴方一人の身勝手な暴力で、歪められる訳には行かないのです!」

「頭目を潰されれば、然様な事も云って居られまい!」

 恐るべき瞬発力で走り出したテオドリクスに、アドレーゼはよじ登る。そのままテオドリクスの兜に、がっしりとしがみついた。

「行かせてなりますか!」

「ぬるいわ!」

 アドレーゼの足をテオドリクスが掴み、彼女を地面に叩き付けた。

「うぐ……ッ!」

 追撃の斧が迫る。アドレーゼは寸での所でそれを回避し、斧を両手で押さえる。地面に斧がめり込んだ。

「こ、の……ッ!」

「俺の力は、腐敗の助長の為ではない。軍神の遺志を継ぐ為にある! 貴様の空虚な忠誠心などで、この俺を打ち破る事は出来ぬ!」

「空虚! 貴方の武こそ、信念を見失った空虚な物ではありませんか! 軍神の御遺志は、アースラウグ様に引き継がれました! 都合良くねじ曲げた過去に縋り付く貴方こそ、空虚そのものです!」

「貴様にその過去の何が解る! 提示された内容を呑み込んだだけの貴様に、何が解るのか! 貴様に知識として注ぎ込まれた“歴史”こそ、奸臣どもが都合良くねじ曲げた情報の羅列に他ならぬわ!」

 テオドリクスの言葉は、アースラウグが何処かで聞いた内容だった。確か、スィルトネートも同じ事を云っていたか。テオドリクスとスィルトネートの両者に直接的な関係が有るとは思えないが、両者の発言の奇妙な一致はアースラウグの憤怒の火付けには充分だった。そしてアドレーゼもまた、テオドリクスの吐き出した不信感を許せない様に見えた。

「多くの方々に語り継がれている以上、それは真実でしょうに!」

 アドレーゼはテオドリクスが次の一撃を用意するより早く斧の柄を駆け上り、自身の踵に取り付けた刃でテオドリクスの兜を蹴る。兜もまた、堅牢であった。アドレーゼの渾身の蹴りは兜に凹みを作る事すらままならない。

「本質を見失うな! 語り手は都合の良い部分だけを語る! 何故それが理解出来ん!」

 テオドリクスは封じられた斧の代わりに、拳を握った。アドレーゼは剣を交差させて防ごうとしたが、全体重を乗せたテオドリクスの拳はその防御を容易く打ち破った。

「く、防ぎきれな――」

 紙切れの如く吹き飛んだアドレーゼは地面を転げ、仰向けに倒れた。そこにテオドリクスは迫り、斧を構える。

「仕舞いだ。血税を以て、己が蒙昧を恥じるがいい」

 横薙ぎに振り払おうとした斧を、アドレーゼを喰い殺さんとするあの憎悪の刃を、誰が見過ごすだろうか。

「させません!」

 気が付けば己の身体はヴィーザルを両手にテオドリクスの元へと駆け出し、半ば反射的に斧をヴィーザルで受け止めていた。両腕に衝撃が迸る。不思議と心が折れそうにはならなかった。アドレーゼの高い技術、速度を以てしても翻弄される程の強大な力を持つテオドリクスに対して勇猛果敢で居られるのは、勝ち負けを勘定に入れていないからか。
 否、そうではない。勝ち負け以前に、この魂が叫んでいるのだ。“テオドリクスからアドレーゼを守れ”と!

「アースラウグ様……!」

「アドレーゼさんは私の大切な仲間です。こんな戦いで、喪いたくありません」

「アースラウグ。お前とは戦いたくない。退け」

「退いてなるものですか。私は軍神を継ぐ者として、貴方を止めて見せます。母様ならそうした筈です!」

 火花を飛び散らせ、斧をヴィーザルから突き放す。周囲の空気がざわめいた。戦場は漸く動き出したのだ。無敗を誇る鋼鉄の男を打ち破るのは、母なる軍神の魂だけだ。テオドリクスは兜の奥から低い笑い声を響かせた。

「なるほど。聞き分けの無い所はブリュンヒルデに似たな……果たしてアドレーゼとハーネルシュタインの両名を守りきれるか? 守護女神の教えを受けたお前は」

「守り通しましょう。もう訳も解らず頭を抱えて立ち止まるのは、やめにしたんです!」

「面白い、やってみせろ!」

 高鳴る鼓動を後押しする様に、追い風がアースラウグを鼓舞した。テオドリクスの斧の動きは既に見切っている。正対していたアドレーゼは見抜けなかった様だが、斧を持ち上げる際、この男は左足を僅かに後ろへと摺る癖がある。斧もそれに追従して動きが偏るものだ。懐へ飛び込み、ヴィーザルを突き立てる。
 しかし、テオドリクスは身体を反らして受け流し、ヴィーザルの先端は空を切った。ヴィーザルの柄が、テオドリクスの右手に握られる。急ぎ距離を取ろうとしたが、がっしりと握られてしまったヴィーザルは、びくともしなかった。

「勇ましい踏み込みは、確かに軍神の系譜を感じさせる。が、惜しいな。経験の壁か……太刀筋が鈍い」

「それでも、魂は受け継いでいます! 母様と貴方が戦場を共にした時、この槍も母様と共にあった!」

「……だがお前は、その光景を見ては居るまい」

 溜め息混じりに吐き出されたその一言には、侮蔑が込められているのだろうか。
 テオドリクスが急にヴィーザルを手放したせいで尻餅を突きそうになったが、どうにか踏み留まった。アースラウグは歯を喰い縛り、テオドリクスを睨み付ける。言葉の続きをアースラウグは待った。寡黙な彼が饒舌になる程の怒りの続きを聞いてやろう。

「お前は、二代目だ。幾ら名を背負おうと、武器を継ごうとも、お前の両目は軍神ブリュンヒルデのそれと同じ物では無い。母子という絆が無ければ、お前は軍神にすら成り得なかった、赤の他人に過ぎん」

「逆に云えば、母様との絆こそが私を軍神にしてくれたのではありませんか。私はそれを誇りに思っています」

「誇りと矜持は結構だが、それに見合う力をお前は持ち合わせているのか?」

 そうか、テオドリクスは疑っているのか。かつて共に戦った軍神の死を、そして、このアースラウグの軍神を継ぐ者としての資質を。彼は自らの育んだ猜疑心に、魂を喰い殺されそうになっている。怪物の養分となったのは恐らく、アースラウグが生まれる遙か以前より今へと連なる、戦場の記憶だ。
 立ちはだかるテオドリクスから漏れ出る闘志が蜃気楼となって周囲を圧倒した。距離が離れていても尚引き下がる兵士達に目もくれず、アースラウグはただ、ただ、前進した。

「絆が、魂が、母様と姉様の想いが、私に力をくれる……! それがあれば、どんなに強い相手でも、私は立ち向かえる!」

「そんなもので勝敗を決せるのならば、Gなど元よりこの地上から一掃されておるわ!」

 テオドリクスは緊迫した空気を一気に破裂させ、渾身の一撃を放つ。テオドリクスの斧は大きい。だがその巨大さこそが仇となる。柄が長すぎる。もう一度だ。もう一度アースラウグは懐へ攻め入った。次は脚を狙う。馬鹿げた速度で突進するこの男の、もう一つの武器である脚を、止めてしまえば或いは。勝利へ近づけるかもしれないのだ。

「あ――ッ!」

 地面を強く叩いた衝撃を利用して、テオドリクスは跳躍していた。非現実的な脚力で、自らの巨体を跳躍せしめた。上空より飛来する鋼の塊をアースラウグが受け止められる筈も無く、アースラウグは俯せになって踏み抜かれ、石畳を夥しい量の血で深紅に染めた。

「ぶ、ぐえぇ、げッ……」

 背骨と五臓六腑が悲鳴を上げ、視界が白む。今まで受けた痛みの中で、最大級のものだ。立ち上がれない。対G戦線ではワモン級に踏み潰されて内臓破裂するという死因が実は最多である、と耳にした事がある。これがその痛みなのだろうか。だとすれば、何と屈辱的な傷だろう。この戦場は人類を守る対G戦線ではない。テオドリクスという一人のMALEが突如として引き起こした謀反によって生まれた、忌々しき不正規戦闘だ。この帝都に於いて、こんな無様なやられ方で足を止めるとは。

「所詮はこの程度だ。軍神を名乗る者よ、そこで見ていろ」

「う……待ちなさい!」

「まだ立ち上がる気力はあるか。だが、俺を止められるまでは行かぬだろう」

 勝利を確信したテオドリクスは斧を片手に、標的たるハーネルシュタインの元へ緩慢に歩みを進める。彼を妨げる者は誰一人として存在し得ない。必死の形相で兵士達が弾幕を張るも、それらの悉くを頑丈な鎧は弾き返した。圧倒的な力を携えた死神、或いは死刑執行官は、己が手前勝手に定めた罪の下、歴史を形作った一人の男を断罪せんとする。
 突如、死神は立ち止まった。忘れ物でもしたかの様に、路地に目を向ける。

「そこに居るのはプロミナか」

 テオドリクスの呟きに、アースラウグはぎょっとして振り向いた。この祝うべき日に、罪人である彼女が招待されるとは思えない。未だに痙攣を続ける臓物に渇を入れ、アースラウグは問い掛ける。

「プロミナ、どうしてここに? それに、ゼクスフォルト上等兵まで!」

「卑しい身分の連中なんて関係ないだろ? お姫様」

 暗闇より嘲笑う声が響いた。こんな事があってたまるか。アシュレイはレンフェルクの一員であるが、最初に出会った時にエディと名を偽った経緯がある。精神の均衡を欠いた、忌むべき狂犬だ。あれがレンフェルクの理念に素直に従う筈が無い。アシュレイがプロミナの担当官となって更生の道を歩ませるという話を聞いた時、アースラウグは云い様の無い不安に駆られたものだ。
 案の定、テオドリクスが遠くから手を差し出し、悪魔の囁きをプロミナに聞かせているのを、アシュレイは黙って見ていた。

「お前も辛かろう。連中に利用され、架空の罪を背負わされ続ける必要はもう無い……俺と共に来い」

 アドレーゼが、テオドリクスとプロミナの間に立つ。

「……ッ! プロミナ、騙されてはなりません! わたくし達は貴女の罪を憎んでこそいますが、貴女を守りたいと思っています! わたくし達が必ず、貴女を正しき場所、然るべき役割へと導いて見せます! だから、彼の言葉に耳を貸しては――あぐッ!」

 プロミナに更生の道を説いたアドレーゼの腹部を、テオドリクスは無慈悲にも殴った。身体が満足に機能していれば、その暴挙を止められたというのに!

「貴様は黙っていろ! さぁ、プロミナ。お前はこの瞬間の闇を、皇帝派の裏側を知っている筈だ。力を示し、見せ掛けの正義を打ち破れ! さすれば道は、お前を選ぶ!」

「彼女をこれ以上の謀反に(いざな)うおつもりですか! ……プロミナ、この男を、早く!」

「……貴様、ただ殺すだけでは足りんのか。謀反に誘うたは、貴様らであろうに」

 悪意に満ちた声音で低く唸るテオドリクスは、あろう事かアドレーゼの片足を引っ掴み、何度も壁に叩き付けた。アドレーゼは為す術も無く、麻袋の如く振り回される。彼女の身体が壁に当たる度に、彼女は短く小さい呻き声を上げた。煉瓦にはヒビが入り、それがどれだけの勢いでテオドリクスが今の行為をしてしまっているのかを雄弁過ぎる程に物語っていた。
 ――最早、悪夢だ。何もかもが度を超している。

「やめなさい! テオドリクス!」

「事実を知ったる者こそが、勝者となり得る。軍神のなり損ないであるお前に、俺を止める術は無い」

 この場で動け、まともに相手をするに足りる者はプロミナだけだ。何の因果か、彼女の手には火炎瓶が握られていた。あの、群れで襲いかかるワモンをたった一発で十把一絡げに焼き尽くす火炎瓶を、彼女は握っているのに! 何故動かない!
 状況の打破には彼女の力が、魔法が必要だ。それを起こす機会は彼女のみが持っている。アースラウグはたった一つの賢明な手段を、プロミナに説く。

「プロミナ、火を」

「無理です! 味方だったのに、何故こんな事に……!」

 その味方が、アドレーゼを痛め付けている。怒りの余り忘我に至り、彼は獣と化している。誰に吹き込まれたかは知らないが、彼は歪められた事実に振り回されているのだ。

「ここで躊躇えば、それこそ多くの仲間達の命が危ぶまれます! 彼はきっと利用されている! その呪縛から解き放てるのは、貴女しか居ません!」

「そうだ、プロミナ。同士討ちの苦しみは一過性のものに過ぎないぜ。自分がどれだけ熱くなってるかを知れば、あいつの頭も少しは冷えるんじゃないか?」

「教官、アースラウグ……私は……!」

 プロミナは俯いて目を閉じる。葛藤しているのだろう。頑張れ、プロミナ。黒旗の尖兵にされ、己の意思とは無関係に火を放たねばならなかった屈辱の日々を思えば、同じ苦しみをテオドリクスが味わう前に、手を差し伸べる事が出来る筈だ。

「プロミナ、火を!」

 意を決したプロミナは閉じていた両目を見開き、テオドリクスを見据えた。

「……テオドリクスさん、許して下さい!」

 それから先は、実に電光石火と呼ぶべき所作だった。プロミナはテオドリクスへの距離を瞬く間に詰め、火炎瓶を背中から叩いて割った。燃焼力はプロミナの力によって何十倍にも増幅され、テオドリクスを火達磨へと変えた。そこへ更にプロミナは炎を放ち、威力を上乗せする。

「くそ、不覚! 熱い……!」

 一瞬の灼熱に、テオドリクスはアドレーゼを解放した。アドレーゼは地を転がって延焼を防ぎ、そのまま仰向けに寝転がった。あれだけの痛手を受けても尚、冷静に危険を回避できる判断力は、数多くの兵士にとって模範となろう。アースラウグはアドレーゼに駆け寄り、介抱した。アドレーゼは弱々しく息をしながらも、アースラウグの顔を見て微笑んだ。

「やり、ましたね……」

「皆の力が、あってこそです」

「プロミナは、正しい選択をしました……後で、彼女も褒めてあげましょうね……」

「……はい」

 まだ釈然とはしない。幾つもの巡り合わせの末、彼女がアドレーゼの命を救った。そうせざるを得なかった。が、何故彼女は此処に現れたのか。それを特定するには判断材料が余りにも足りない。アシュレイ・ゼクスフォルトが手引きしたのだろうか。そうであるとしたら、彼は何を考えて此処へ連れて来たのか。
 逡巡するアースラウグの眼前では、テオドリクスが赤熱した鎧に苦しみ、のたうち回っていた。反撃する余裕も失う程の熱さなのだから、想像を絶するのだろう。

「斯くなる上は……!」

 テオドリクスが付近の水路に身を投げると、その周囲の水から湯気が立ち上った。これがプロミナの炎の力か。改めてプロミナの火炎操作能力の凄まじさを目の当たりにしたアースラウグは、これが二度と薄汚い欲望に使われない事を願った。
 難を逃れたハーネルシュタインが水路と道路とを隔てる柵へ歩んだのを見て、アースラウグは訪ねた。

「爺様、テオドリクスの処遇は如何致しましょう」

「逆賊とはいえ、歴戦を戦い抜いております。やはり斬り殺すよりも、二代目軍神たる貴女の御威光を以て説得するが、器の大きさも示せる良策であるかと」

「解りました」

 ヴィーザルを天高く掲げ、川岸に這い上がったテオドリクスを見下ろす。たった一人のMALEの反逆に終止符を打つべく、宣告せねばなるまい。

「逆賊テオドリクスに告ぎます! 兜を脱ぎ、投降しなさい! さすれば、貴方の罪は軍神の名の下に赦されましょう!」

 テオドリクスは黙りこくったまま兜に手を掛ける。兜はヒビ割れ、兜の左右に付けた角もろとも急激な温度変化で崩れた。

「ブリュン、ヒルデ……」

 無精髭に包まれた口元で、テオドリクスは軍神の名を呟く。両目には大粒の涙を湛え、それが陽光を反射して煌めいた。

「……俺は、()けたよ」

 ついに彼は折れた。暴力の気配は消え失せ、つい先程まで反逆者であったというだけの、只のMALEに戻ったのだ。斯くして汚濁を宿した二つの力は、真っ赤に彩られ、消毒された。プロミナとテオドリクスの罪は清算されたのだ。プロミナはテオドリクスを裁く事で。そして、テオドリクスは己の仮面を鎧ごと焼かれ、軍神に抱いた邪な幻想と決別する事で。

「母様、見ていますか、私は……母様の旧友を、陰謀から救い出しました」

 勝利を手にした軍神の子は、晴れ渡る空の下で呟いた。亡き母を思う心が、臓物の痛みを消し去ってくれた。


最終更新:2011年05月18日 14:07
ツールボックス

下から選んでください:

新しいページを作成する
ヘルプ / FAQ もご覧ください。