Behind 9-2 : Red VS Gray

(投稿者:怨是)


 ひどい悪夢だ。腹を、内蔵まで咬み千切られ、まだ生暖かい鮮血が滴り落ちているのを眺めながら、犬の姿をした奇怪な化け物達に為すがままにされているう夢だ。これが夢であるという自覚はあったが、シーアは何も出来なかった。
 その内、化け物の一匹が口から何かを吐き出した。一対の目玉だ。虹彩は緋色をしていて、それらが転がり、シーアと視線を合わせた。緋色、緋色……あの時確かに見た色だ。緋色の眼をしたMAIDに手を差し伸べた日は記憶に新しい。ああ、確かあの日も、こっぴどくやられたんだったな。すまない。私の力が及ばなかったばかりに。
 そこで夢が途切れ、銃創による断続的な痛みと共に目覚めを迎えた。夢も酷ければ、目覚めも最悪だった。

「――ッ、此処は……そうか。私はまた(・・)遣られたんだな」

 既に事切れているであろう兵士達を折り重ねた山から転げ落ち、シーアは毒突いた。呪詛じみた独白と共に、内蔵をやられて出て来た血も吐き出す。口から垂れ流されて水溜まりを赤く濁らせつつあるそれを、シーアは手の甲で静かに拭った。一面の曇り空が橙色に染まっている様子を見るに、今は夕方か。
 周囲にはまだ兵士が居た。幸いなのは彼らが黒旗ではなく、友軍たるエントリヒ帝国皇室親衛隊の面々だった事か。
 状況を整理しよう。もし今が作戦終了からそれほど時間が経っていなければ、この日はまだ1945年9月28日の筈だ。この日、黒旗の開発した毒ガス兵器の製造場所を突き止め、帝国の国防空軍と共に施設を爆撃する予定だった。爆撃ポイントへ向かう途中、アースラウグが黒旗のMAID部隊に包囲されていて、救援に向かった。それから、審判100号と名乗る巨漢のMALEに撃たれて……。
 やれやれ、今日はいつにも増して当たり所が悪いらしい。失血ですっかり血の気が失せてしまっているのが、自分でもよく解った。悪寒に背筋を撫でられ、軽く身震いすると、シーアは慎重に足を踏み出し、そしてよろけた。あわや灰色の石畳に接吻するかと思われた矢先、自分の薄い胸板に誰かの腕が触れていた。ふと、己の肋骨の感触が無い所がある事に気付いた。何本か遣られたのか。道理で息苦しい訳だ。
 首を回す。見覚えのあるMAIDだ。確か、シャルティといった。

「動くな! 今、手当てする」

 この神妙な面持ちのMAIDに、シーアはかぶりを振って応じた。

「いや、いい。この程度の傷なら何度か負った。貴国のイェリコ殿に比べれば、まだまだ行けるさ。それよりも、アースラウグは?」

 アースラウグの事を思い出し、シーアは急に胸騒ぎがした。彼女は、シーアが倒れるまでは動いていた。此処に居ないという事は、可能性は二つに一つ。彼女は死んだか、それとも此処から違う場所へ移動したか。

「衛生兵が運んでいる。お前も応急処置くらいはしていった方が……」

 その答えだけで、もう充分だった。彼女が死んでいたら衛生兵は手当ての為に運ばなかっただろう。制止しようとしたシャルティの手を、シーアは握り返す。手に力がまだ入らないが、掌から熱気を伝えると、シャルティはそれきり手を出そうとしなかった。

「大丈夫だ。ちょっと行ってくる」

「何処へ?」

 少し間を置いて、シャルティが問い掛けてくる。その両手は遠慮がちに差し出され、まだ此方を止める意思はあるが、これ以上は手出し出来ないという感情を表しているらしかった。

「……私の、戦場へ。淑女を傷付ける不躾な輩は、残らず仕置きをせねばな」

 シーアにはこれから、やらねばならない事が出来た。表向きに云った言葉の通りでは断じてない。顔の無い灰色のMAID達――ネルケ隊の隊長に会って、仮面を剥ぎ取るという、ある種の好奇心に基づいた目的だ。
 シーアがそこに拘るのは、歴とした理由があった。偽装MAIDの中に一人だけ混じっていた、やたら動きの良い彼女は、恐らく本物のMAIDだ。そして、曲がりなりにも帝国で他のエースと肩を並べつつあるアドレーゼを捕縛し、そのアドレーゼが主として慕っているアースラウグを倒した程の手腕を持つ彼女の素顔を、一目拝んでおきたい。正体不明の鉄仮面を勝手知ったる敵へと変えるには、素顔を見るしか手段が無い。黒旗が新しい戦力を仕入れたのか、それとも既存の戦力から割り当てたのかを確かめねばならないのだ。今まで散々こてんぱんにされたのだから、せめてそれくらいの情報を手土産に帰還しなければ、割に合わない気がした。
 この程度、深手に値するものか。動けよ、私の翼。白いシャツに赤黒い染みが広がって行くのにも構わず、シーアは飛翔した。降り注ぐ雨に混じって赤い雫が消えて行く。その雫が一滴一滴と流れ落ちる度に、五臓六腑が悲鳴を上げ、口の中に鉄臭い味が広がった。

《研究所はまだ見付からないか》

《こちらペルレ1――連中、生意気にも対空砲なんぞ使って来やがる。ルフトヴァッフェは無事か! 連中だけが頼みの綱だ!》

《黒の部隊が対処しているが、地上でも抵抗が激しい。座標を云うからそこに向かってくれ》

《ルフトヴァッフェは今の所唯一、あの忌々しいハエどもに太刀打ち出来る連中なんだ。弾丸なんざ恐くない筈だ! 俺達は――ペルレ爆撃機中隊は、少し待ってから突破する》

 シーアの胸は、傷とは別の理由で痛み始めた。今この瞬間にも、自らの職務を全うすべく戦っている兵士達が居る。その戦場で、自分は何を遣っているのかと云えば、上層部より受けた指示とは全く違う、私闘じみた暴走だ。解っては居ても、止めようとは思わなかった。それに、多少の余裕を持って戦力を投入している事を、シーアは知っていた。黒旗憎しと怒号飛び交うベーエルデー連邦国内情勢が、帝国への惜しみない協力を強いたのだ。

《……なぁ。連中には期待しすぎるなよ。今この戦場で彼女らが相手取っているのは、飯を喰う事しか頭に無いハエ共とは違う。人間だ。逃げもするし隠れもする。勝手が違いすぎるんだ》

《だそうですよ、隊長……俺も彼の云う事には賛成します》


 シーアは胸中にて祈り続けた。せめて一矢報いるまでは誰も墜ちてくれない様にと、そして更に我が侭を云えば誰もが無傷で生還して欲しいと、青ざめた指で十字を切った。次にシーアは懐中時計を取り出し、思い出した様に時刻を確認した。驚嘆すべき事に、撃たれてから30分も経過していない。これは僥倖だ。まだ連中は遠くへ行っていない事にもなるのだから。
 背負った通信機がピープ音を鳴らした。肩口から受話器を引き抜き、シーアは応答した。

「こちら赤の部隊隊長、シーアだ。何かあったのか?」

《それはこっちの台詞ですよ糞隊長さん》

 ルフェルだ。先程伸びている間に何度も熱烈なラブコールを掛けてくれたらしい。青の部隊や本部に置いてある最新鋭の通信機と違って、シーアが持っている旧式の通信機には受信履歴を表示するランプといった便利な代物は無い。

《カラヤ老がお怒りです。何度呼び掛けても応答しないし、さては居眠りでもしてやがりましたか? この糞忙しい時に》

「まぁ、大体そんなものさ。野暮用が出来た。それを済ませたらまた報告する」

 ――どうも、味方の兵まで騙すのは性に合わんな。
 生憎と、暫くは折り返しの連絡を入れてやるつもりは無かった。シーアは通信機に軽く口付けすると、そっと肩口のホルダーへと戻した。

「砲塔の潰れた戦車、灰色のヘルメット……さて、何処に居るかな……」

 豪雨と痛みに霞む視界の中、シーアは注意深く地上を観察した。あのまま何処かに廃棄していなければ、連中は無様にも砲塔を引き摺って敗走している筈だ。

「なるほど、神は慈悲深い」

 果たしてシーアの求める物は見付かった。愚かにも彼らは大通りのど真ん中を、堂々と、それでいてちんたらと進軍していた。おおかた、偵察と銘打ったストライキだろう。近くにまだ敵が居るかもしれないと偽の報告を入れて、散歩でも決め込んでいるのだ。シーアはその様子に奇妙な共感を抱いた。
 さて――戦闘開始だ。シーアはまだ痛む胸を押さえながら、地上へと急降下した。風に乗せられた雨が顔に当たり、刺す様な痛みが襲ってくるが、それ自体はさしたる問題ではない。本当の地獄はあのいけ好かない鉄仮面の小娘達が自分を――倒した筈の障害物を目の当たりにしてからだ。

「待ってくれたまえ。仮面の美少女よ」

 背後に降り立ち、銃を構える。空からやってきた突然の来訪者に対し、灰色の集団は予想通りびくつきながら振り返った。隊長クラスの金髪だけが、落ち着き払った調子で銃を向ける。しかしお嬢さん、内心の驚きまでは隠しきれていないみたいだよ。銃身を握る両手が微かに震えているのを、シーアは見逃さなかった。そんな彼女が、憎悪と恐怖に震えた声を絞り出す。

「――その血塗れの汚いツラを綺麗に消毒してから出直して下さいます?」

「つれないな。私は手負いの身体を引き摺ってまで、君に会いに来たというのに」

「うるさい。あたしは忙しいんだ。あっち行け!」

 隊長クラスの金髪が、ポーチから丸鋸の刃を取り出し、投げ付けてきた。ニトラスブルク区にて交戦したラセスといい、あの武器は黒旗のMAID達の間で流行っているのだろうか。兎に角、忌々しい刃がすぐそこまで迫ってきていたのを、シーアは翼ではたき落とした。

「断る」

「――ッ! 防いだ?!」

「暫く、死に目に遭いすぎた。死神も私に愛想を尽かしてしまったらしくてね。中々、どうして動いてくれるものだ。私の身体は」

 本来なら死んでも可笑しくはなかろう。無茶をしすぎたせいで、シャツの赤黒い染みはほぼ全身に行き渡り、ラピス商会から取り寄せた高級な白地のサイハイソックスも、赤と白のまだら模様となっている。絹製のキャミソールの内側では、臓物がこすれてざらざらとした痛みを放っていた。さっさと手当てせねば、明日には棺桶か死体処理場に詰め込まれているかもしれない。気力だけが、シーアの両足を地面に結びつけていた。

「御託は要らないんで、帰って下さいよ……あたしは忙しいんだ」

「帰らんよ。乙女の涙に報いる使命を、私は果たさねばならん」

「復讐に燃えるヒーローって奴ですかね。あんなマザコンにそこまでしてやる義理は何処にあるというのです?」

 云われてみれば、シーアが守ろうとしてきたのはプロミナであって、彼女を陥れた皇帝派が手駒として使っているアースラウグは、あくまで危機に陥ったから手を差し伸べただけの筈だ。瀕死の身体を引き摺ってまで躍起になる理由は眼前で悪口雑言を振りまくMAIDだけのつもりだったが……何故だろう。急に気掛かりになった。自分でも判然としていない部分があるのかもしれない。

「さぁな。或いは、若さ故の過ちかもしれん」

 シーアはそう云って上空へと飛び退き、直後に襲い来る火線を躱した。戦車を盾にする事も考えたが、まだ機関砲まで潰していなかった事を思い出し、それが得策ではない事を悟った。大通りの上空から建物の合間へと隠れる。半ば廃墟と化した建物のガラスが銃弾に貫かれ、耳をつんざく様な破裂音が響く。ガラス片は決してシーアに降り注ぐ事は無かったが、もしあれらが少しでも顔を掠ったらと思うと、翼が消えそうになった。
 逃げもするし隠れもする。だからこそ戦いが長引くのだろうなと、シーアは先程傍受した通信の内容を思い返した。
 路地に着地して、翼を畳む。浅く短い呼吸は、自身が万全な状態でない事を知らせてきた。辺りを見回す。潰れた装甲車、焼け焦げた死体。ニトラスブルクでの戦闘が脳裏を過ぎる。あの時と違うのは、夜ではない事、あの時よりも更に傷が深い事、幸いにも敵側は壁を蹴りながら追い掛けてくる程には身体能力に優れていない事……そして守るべきプロミナはもう此処ではない何処かで、別人になってしまった事。死体は、真っ黒に炭化した肌に雨が当たり、その表面に少しずつ穴を穿たれている。何か不吉な予感が胸中を埋め尽くす前に、この場所から離れねば。とりあえず屋上へ辿り着くだけの体力は回復できた。シーアはビルの影に挟まれた曇り空を見上げると、翼を再び開き、跳躍した。
 建物の反対側から屋上へよじ登り、フェンス越しに彼女らの出方を覗うと、程なくして弾幕がフェンスを掠める。彼女らが飛べない分、此方側が圧倒的に有利だ。但し、消耗戦に持ち込むだけの余力は残されては居ない。シーアは身を隠した瞬間、激痛に顔を歪めた。このまま遊んでいたら、じきに土産話も出来なくなるだろう。

「出て来い赤チビ! ヒス女のお小言はあんたの死骸を持って帰れば幾らか短く出来る!」

 勝手な事を喚いてくれる。ヒス女とやらが誰であるかをシーアは知らないが、MAIDの死体で喜ぶなら相当な野蛮人なのだろう。

「そう簡単に手土産になってやるものか」

 後は決定打を与えうる、絶対の好機を見出さねばならない。何か無いだろうか。銃弾の雨に身を晒さずとも、愛しの敵に近付ける、プロポーズの花束は。
 かといって、ベーエルデーの連中に野暮用と伝えてしまった手前、救援を要請する訳にも行かない。彼女らは友軍の爆撃機を進軍させる為に対空砲や出来合いの空挺部隊達の相手をするのに精一杯だ。任務の優先順位を考えたら、シーアも彼女らに加わるのが望ましいだろうが、どちらにしてもこの傷で参戦したら足手まといになるだけだ。赤の部隊、黒の部隊から、それぞれ半数以上がこの作戦に参加している。その上、青の部隊からも有能な空戦MAIDが参戦している。充分だ。ならばもう彼女らを案じるのは、生き延びる事が出来るか否かという一点のみにしよう。作戦の成否に頭を悩ませる必要は無い。いつだって、我々ルフトヴァッフェは目的を達成させてきたのだから。
 今この場では、彼女らの手を借りる訳には行かないという事だけが問題だ。冷静になれ、シーア。いつまでも此処に身を隠していれば、黒旗が屋上まで上ってくるかもしれない。

「ん?」

 ふと、シーアは屋上の隅にある観葉植物の鉢に目が留まった。これを使えば、或いは……
 そうと決まればシーアは早速、行動に移った。まずは鉢から観葉植物を取り出し、鉢だけを非常階段の近くに置く。なるべく非常階段側から見えない様に。次に翼を展開し、隣の建物へと飛び移る。連中は律儀にも大通りに留まっていた。初めから、此方が痺れを切らして現れるのを待っていたらしい。弾幕を避けて飛び回り、それから元の屋上へと戻ろうとする。そして、シーアはわざとその中の一発だけを肩に掠めさせ、翼を消し、屋上に墜落したふりをした。湿った音が腹部から響いたが、今はそれが勝利を祝福する賛美歌にも聞こえた。がくがくと震えた腕で上体を起こし、音を立てぬ様、慎重に非常階段まで這い寄る。

「さぁ来い、可愛い可愛いお嬢さん達」

 せわしない足音が聞こえてくる。非常階段を軍靴で踏み抜く、金属質の足音が。この建物は7階建てだ。建物の外にある非常階段は踊り場がある。折り返す音が13度聞こえた処で、シーアは観葉植物の鉢を蹴り落とした。咄嗟に反応出来なかった金髪の敵兵は見事に足を滑らせ、階段を転げ落ちた。連中が密集して動いていたせいで、他の隊員も巻き添えを喰らい、何発か虚空を撃ちながら倒れ、頭を強く打って動かなくなった。
 ――しめたぞ。
 シーアは脳震盪で動けないで居る“仮面の美少女”を戦車のある大通りまで抱えて飛んで行き、道路の真ん中へと仰向けに寝かす。

「私がキスをするまで、動かないでくれよ……」

 途中で動かれては困るので、馬乗りになってから、フリッツヘルムの顎紐を解く。それからヘルムを両手で掴み、少しずつ上へと脱がせた。彼女の髪が汗ばんでいる為に簡単に脱がせる事が出来たが、その鉄仮面の裏に潜んでいた顔に、シーアは本日この日に於いて何よりもぞっとさせられる事となった。

「……念願のツラが拝めて良かったね、色情魔。どんなキスをお望みで?」

 眉根を寄せて毒突いた彼女は、確かに美少女――とはいえシーアの外見年齢よりは少し上回っているが――だ。顔の作りは整っている筈だった。よくよく見ればプラチナブロンドの髪はそこいらの装飾品よりも綺麗で、よく手入れされている。陶磁器の如く白い肌は泥で汚れてこそいるが、シャワーで洗い流してやれば誰もが振り向く魅力的な潤いを見せるだろう。
 問題は黒々とした病的な隈に覆われた、生気の宿らぬ双眸だ。眼球は僅かに赤い筋を刻んでいる為に、辛うじて彼女が死人ではない事を教えてくれるが……エメラルドグリーンの虹彩は彼女の病んだ心を体現するかの如く淀みきっており、それらに囲まれた漆黒の瞳孔は重く沈んだ冷気を湛え、この世のありとあらゆる光を打ち消していた。
 日頃数多の女性を挨拶の如く口説いて回り、その度に視線を両目に向けてきたシーアだったが、今回ばかりは己のこの癖を何よりも強く後悔した。

「どうなっている……! 一体、どんな生き方をしたら、そんな目になる……!」

 薬物中毒者や不眠症患者でも、ここまでひどい隈は出来ない。危うくそれを言葉尻に付け足しそうになったが、シーアはそれを必死に堪えた。たとえ眼前の彼女が「ほっといてくれ」と突っぱねたとしても、黒旗に所属する憎むべき敵だとしても、内心にごく僅かな傷を残してしまうと考えると、その言葉だけは口にしてはならない気がした。彼女自身の責任でこうなった訳では、断じて無い筈なのだ。

「さぁね。生まれついた時からこんな顔だったし」

 一気に加速する鼓動と、滝の様に流れる冷や汗に焦心を募らせつつ、シーアは努めて冷静に彼女の病みきった眼差しを分析した。絶望や怒りといった感情が静かに、廃墟に積もり行く埃の様に、蓄積されてこうなってしまったのだろうか。
 それからゆっくりと、鼻、口、輪郭、髪、背丈を眺め回す。データベースにも載っているが、確かロナというMAIDが黒旗に所属している。目の前の彼女と特徴が見事に一致した。写真で見るよりも、その表情は幽鬼じみた弱々しさに彩られていて、それが何故か、いつの日かに出会ったプロミナや、バトロッホ市の礼拝堂で出会ったシスター・エミア――シュヴェルテを彷彿とさせた。彼女らもまた、あのまま病み続ければこんな眼差しをするのだろうか。何もかもを諦めた様な、井戸の底から闇夜を見上げる様な……

「……すまない」

「何です? いきなり謝られても……勝手にあたしの素顔を見て、勝手に驚いたのはあんたでしょ」

 ロナに訊かれて、シーアは初めて自分で思っていたよりも小さくない声で呟いていた事に気付いた。そうか。普通はロナに謝ったと思われるだろう。だが謝罪を意味する一言は決して、ロナらしきMAIDに向けたものではなかった。シーアはそれを自覚しつつも、呟かずには居られなかったのだ。
 ロナがこんなになる迄に何があったかを知る術は無いが、少なくともこれ以上悪化させない為に何らかの対策を講じる必要はあるだろう。死んだ魚の眼をした彼女を通して、シーアは改めて黒旗の中で渦巻いている得体の知れない闇を目の当たりにした。自分が考えていたよりも、黒旗を取り巻く環境は深刻なものであるに違いないと確信させられた。

「その、ね……私はつくづく傲慢な真似をやらかしてしまった事について、君に詫びねばならない」

「あぁ、そう……」

 くりっとしたつぶらな瞳は、雷鳴が彼女らを脅かそうとしても、頑としてシーアから逸らさなかった。それどころか、稲光に照らされた視線は、シーアより発せられた言葉が弱々しい響きを持っている事を即座に見抜き、何らかの勝機を見出そうとしている様だった。それからロナは、ぽつぽつと言葉を紡ぎ始めた。

「最初は鏡を見て驚いたんだけどね。いつの間にか、慣れちゃったんだ。どうかしてるのは、あたし自身もよく知ってる。でもね。両手を切り落とされて、義手を付けても、綺麗に元通りにはならないでしょ。同じだよ。一度狂ってしまったら、すっきりした頭に戻る事なんて、もう無いんだよ」

 突如、何者かに首根っこを掴まれた。万力の締め上げる様な音に驚き、シーアはロナから手を離した。きっとそれが拙かった。瞬く間に宙へと持ち上げられ、両足がぶらりと力無く揺れた。
 持ち上げた犯人が誰なのか直接見る事は叶わなかったが、稲光に反射して映った影が、見知ったシルエットを形作った。先程の大男――審判100号だ。

「あたしや、そいつみたいにさ! ふふ、ふひひ! ひゃははは! あははははは!」

 ロナは眉根を寄せつつも、口元が裂けそうになるまで吊り上げ、目を見開いて哄笑した。両目は此方を見ているとはとても思えず、シーアの向こう側に透けて見える何かを眺めている風にも見て取れた。
 ――くそ、何て歪な笑顔だ! もし幸運にも私が生存し、暖かいベッドで寝る事が出来たなら、彼女の顔が夢に出て来るに違いない。

「くたばっちまったかと思ってましたが、存外頑丈らしいですね?」

「勝負を棄てれば、生き存えるは容易き事よ」

 参った事に、翼が出せない。疲弊して、何も出来ない。感情は屈服を拒んでいたが、身体はとうに絶望し、抵抗を諦めている。シーアが熱を失った逡巡をしている間にも、ロナは背中や尻に付いていた泥をはたきながら立ち上がる。

「素直にケツ捲って逃げてきたって云えばいいのに、なんでそうやって勿体振った云い方しか出来ませんかねぇ」

「是非に及ばず。生まれた時からよ」

「それさっきのあたしの台詞だろ。ずっと盗み聞きしてました?」

 審判100号は低く笑った。内容と状況さえ違えば、彼らの会話はデートをする男女の他愛ない雑談にでも聞こえたのだろうか。現実味を持たない思考が無意味な妄想を形作っているのを、シーアには止める術が無かった。

「語る口は持たぬ。さて、此奴を殺すぞ」

「とまぁ、そういう訳なんですよ。解りましたかレッド・バロン。死神は愛想を尽かした訳じゃない。そろそろプロポーズの指輪を受け取ってあげましょうよ」

 ロナは拳銃を取り出し、慣れぬ手付きで安全装置を外した。そういえばデータベースでも、彼女は滅多に銃器を使わないという記述があったかな。死を覚悟し、走馬燈の如く押し寄せる記憶から、彼女について分析した。あと数秒もしない内にこの命は終わる。思えば呆気ない幕引きだ。
 目を閉じたシーアの横合いから声が聞こえる。知らない声だ。

「やれやれ、仕事が一段落するかと思っていたら、とんだ巡り合わせですね」

「……!」

 審判100号の兜の奥から、くぐもった呻き声が漏れた。それに気付いていたのはシーアだけではなかったらしい。ロナも首を傾げて尋ねる。

「誰です? 審判100号、あんたのお友達?」

「審判100号……あぁ、其方、軍正会ではそう名乗られているのですね、テオドリクス。自己紹介が遅れました。私はバルドル。そこの御仁の旧友に御座います」

 視線を横に遣ると、漆黒に金色の装飾を施された鎧の男が、仰々しい仕草で一礼しているのが見えた。何だこいつは。ブロードウェイのスターか何かか。それとも新しく出来た銀行の支配人か。さもなくばサーカスを始める前のピエロだろうな。滑稽な様子は噴き出してしまいそうなほどにシーアの心を刺激したが、他の二人は全く面白そうではなかった。審判100号――この場ではテオドリクスと呼び直すべきだろうか。周囲の反応を見るに、彼の本当の名らしいから――に至っては、喉から痰の絡まった様な音を出して、憤怒の声を形作っていた。

「……失せろ。まだ会うべき時では無い筈だ」

「予定が狂ってしまっただけですよ。本来なら私も、貴方と二人きりで話せたらと思って、此処まで追い掛けてきたのですが……参りましたね。迂闊でした。まさか思わぬ客人をお連れだったとは」

 ――それにしても、テオドリクスか。私もよくよく運の無いMAIDだ。
 その名前は知っている。図書館事件の折、シュヴェルテがプロミナと共に地下牢から連れ出したMALEだ。今こうして首根っこを掴んで居る奴がテオドリクスなのか。だとしたら、プロミナの件について礼を云わねばならないのに、危うく殺される所だったじゃないか。シュヴェルテは黒旗のふりをしていた。あくまでその名を利用するだけに留めていた。それが今度は何だ。テオドリクスは本当に黒旗になってしまっていた。今日ほど幸運と不幸を目まぐるしく体験する日は無いだろう。

「テオドリクス。プロミナについて、礼を云わせてくれ。あの子を救ってくれてありがとう」

 そら、云えた。遣ることリストの丁度半分が、これで片付いた計算になる。首の骨を締め上げる冷たい手甲の感触が、僅かに緩んだ様に感じたのは果たして気のせいなのだろうか。

「……」

「シュヴェルテから聞いたよ。君が、あの子の脱出を手助けしてくれたのだろう? 君が地下牢から脱出していなければ、プロミナが逃げる道中も、さぞや心細いものとなっていただろう。何度でも礼を云う。本当に、ありがとう」

 実際にシュヴェルテからそう聞かされた訳ではない。半分は推測だ。が、背後にはきっと、彼の助力もあるという確信を持っていた。首の圧迫感が更に弱まる。思った程には、テオドリクスは黒旗に染まっては居ない。しかし、彼は思い悩みつつもそれを断ち切ろうとしているらしかった。ロナが心許なげに目配せし、拳銃を構え直す。

「俺は黒旗だ。歪みは正さねばならぬ。ロナ……やれ」

「テオドリクス、待ちなさい」

 双方の陣営が持っている通信機が同時にピープ音を鳴らす。応答を必要としない、全体への通信を示す青色のランプが点灯していた。

《ペルレ爆撃機中隊より各員へ! やったぜ! 黒旗の糞ったれ研究所は粉々だ! これで忌々しい毒ガスともおさらばだ! お前等、アースラウグの為にもブランデーかワインを用意しろ、それからアツアツのローストチキンを――》

《水銀17号より各員に告ぐ! 作戦は失敗、拠点を失った。速やかに戦闘を中止し、ポイント・レッドへ急行せよ! 繰り返す。ポイント・レッドへ――》

 それから通信機が沈黙を守ったのはほんの少しだけだった。僅かな間を置いて、けたたましく鳴り続ける。

《研究所のお偉いさんの死体はレンフェルク直轄部隊ツァーデンの手柄だ。焼却炉にぶち込む日が待ち遠しいね。まずは、このクソ野郎の頭の中身を――》

《ポイント・レッドへの道が塞がれている! 我々は地下水路から撤退するぞ! 大通りには近付くな、罠が――》

《おい、誰かF6地点に救援部隊を寄越してくれ。生存者が瓦礫の下敷きになってるんだ。三人――》

《捕虜はアドレーゼだ。あのクソジジイめ、ざまあみろ! 空挺部隊、輸送機を一機寄越してくれ。トラックで運ぶよりも冴えた遣り方を――》

《貴様等、さっさと追撃しろ! 車を停めさせるんだ! あの中にはまだハーネルシュタイン名誉上級大将の大切なMAIDが――》

《くそ、なめやがって! 研究所だけじゃ飽き足らず、俺達のケツまで狙うってか! おい、カレン! さっき剥ぎ取った爆弾があったろ! そいつを後ろに放り投げてやれ! 俺達のケツからひりだした糞はとびきり臭ぇって事を教えて――》

《ようニルフレート! 俺達の勝ちだ! 逃げ惑うあいつらを鴨撃ちの的にしてやるのも魅力的じゃないか? おいおい、恐い顔すんなって――》

《対空砲の弾はきちんと持って帰るぞ、あんな、忌々しいひび割れマント共にくれてやるな! これ以上あいつらに手土産を――》

 勝利者と敗北者、それぞれの周波数に乗せられて、戦場が何度も交差する。この場に居る全員が顔を見合わせ、それから力無く頷いた。ただ一人、微動だにしないバルドルを除いて。

「……テオドリクス。無益な戦闘は貴方の本意ではない筈だ。シーアを解放しなさい」

「……黒旗に属する以上、殺さぬ訳には行かんのだ。赦せ、バルドル」

「私が赦すか赦さないかの問題ではありません。私や貴方の目的が遠ざかってしまう事を危惧しているのです」

「此奴が俺の目的に? 何の関係がある?」

「悪を正すというのなら、協力者は沢山居るに越した事はありますまい」

 テオドリクスはひとしきり何か呪詛めいた言葉をもごもごと口にした後に、漸く手放してくれた。膝を強く打ったシーアは、全身の痛みのせいで暫く起き上がれなかった。よろよろと立ち上がり、シーアはやっとの思いでバルドルの足下へと辿り着くと、彼の金属製のブーツに寄り掛かる。その後、直前の彼の言葉を思い出して、咄嗟に彼の顔を見上げた。相変わらず、バルドルの表情は何ら熱を持たない、無感情そのものだった。

「待ってくれ。私が黒旗に手を貸すだと? 笑えん冗談だ」

「何も軍正会に手を貸せとは申しません。これからやろうとしている“私達”の盛大な悪戯に、プロミナを貶めた連中の鼻を明かす事に協力して欲しいという事です。私は本気ですよ、レッド・バロン」

 ――なるほど、魅力的な提案だ。が、せめてそれを云ってくれた奴が私の見知った顔であったなら……。
 シーアは返答を渋りながら、やるせない気分になった。あの闇夜にてプロミナを追い回した黒旗と、そうなる運命に追い込み、それから黒旗を利用して更に追い詰めた皇帝派……吐き気を催す屑共を成敗してやらねばならない。とは云っても、バルドルを信用して良いものなのだろうか。上手く口車に乗せられて、眼前の敵との対話を先延ばしにするのは、何よりもシーアの矜持が咎める。

「それとも無益な戦闘を長引かせますか? 小さな不死鳥さん。私と致しましては賛同出来かねますが」

「一発殴ってでも、目を覚まさせねば」

「殴った所で、貴女の気が晴れるとは思えません。研究所は無事に爆破されました。それで充分ではありませんか」

 充分だと? 奥底に追い遣っていた感情が、今更、堰を切って溢れ出してきた。手土産だけが目的ではない。本当は、奥歯の一本か二本をフッ飛ばし、涙ぐんだ声で懇願する様を見てやりたかった。何よりテオドリクスがあの黒旗と同類になってしまった事が、どうしても許せなかった。

「……まだだ。まだ終わらんよ。否、終える訳には行かんのだ。奴等はプロミナや、その親友を死の淵に追い遣った。それだけじゃない。キルシー……私の大切な後輩だって……!」

 それまで平坦な表情を保っていたバルドルが、急に冷徹な仏頂面を形作った。眉間に寄せた皺、下方へ苦々しく歪めた口元から察するに、怒りか、侮蔑かのどちらかだろう。

「――阿呆。6年の歳月を生きていながら、この程度も理解できませんか」

「解っているさ。私のこの感情が、子供じみている事だって」

 だからこそ今まで蓋をしてきた。必死に、復讐心を誤魔化してきた。

「貴女のそれは、解ったふりをして、周囲に大人として見られたいだけの矮小な虚栄心に過ぎない。目的を果たすならば、欲張りすぎない事です。さもなくば、ビスケットに群がった鳥たちは皆、猟師に撃ち殺されてしまう」

 忸怩たる思いに駆られ、シーアは顔を伏せた。眼前の男の語る内容はご尤もだが、感情がそれを認めようとしない。その葛藤が、無意味で恥ずべきものだとしても、やめられなかった。故に、シーアは己の持ちうる語彙から反論を絞り出した。

「理解に苦しむな。基地に帰ったら詩篇でも詠まねばならないか?」

「その必要はありません。貴女はご自身で思っている通り、皆には聡明な兵士として映り、時として正義感の強い先輩でもある。ですが、それ故に危うい。内なる声による要求を安請け合いし、それを成就させる為なら、如何に暴力的な提案であろうと貴女は実践しようとするでしょう」

 話を続けながらも、バルドルは決して警戒を解かなかった。お陰でロナもテオドリクスも、何もせずにじっとしている。長話に付き合うのはうんざりするが、体力を回復させるには時間稼ぎが必要だ。

「……思うに貴女は数多くの仲間達に強く慕われている。先のライールブルク襲撃は記憶に新しい」

 その件は確か帝国の上層部と連邦の議会が三日三晩話し合い、最終的に“無かった事にした”筈だ。キルシーはその決定にひどくむくれていたが、シーアにとってみれば、一部隊の暴走と見られるよりは、実体を伴った悪夢という曖昧な事のままである方が有り難かった。彼女らがシーアの為に戦ってくれた事は少しだけ嬉しかったが、実を云うと複雑な心境でもあった。そんな事をする必要は無いと感じていたし、それに、彼女らが行動した結果、その中の誰かが欠けてしまったらと思うと、背筋も凍る様な思いに苛まれた。

「私の部下が領土侵犯という粗相をしてしまった事については謝る。すまなかった」

「構いません。私は一国の主でもなければ、熱狂的な愛国者でもない。その件で責め立てるつもりは毛頭御座いません。軍正会の見解は無論、違うでしょうけれども。ただ……私からも、忠告だけはせねばならない。貴女の部下達がライールブルクへ攻め入った事からも解る様に、貴女の行動如何で仲間達も巻き添えにしてしまう。同じ事を繰り返させるのは、聡明な貴女らしからぬ失態ではありませんか?」

「……解ったよ。ビスケットとは私の目的の事で、猟師とは黒旗の事だろう?」

「概ね正解です。仲間の所へ戻る準備をなさい。さて――テオドリクス」

 シーアにとってですら永遠に感じられるこの会話を黙って聞いていたテオドリクスもまた、まさか自分が呼ばれるとは思っても見なかったらしい。返答の準備が出来ていないといった様相で、沈黙したままバルドルに顔を向けた。

「……」

「この件は内密にする事」

「……心得た」

 歯切れは悪かったが、この巨漢のMALEはバルドルには逆らえないらしい。声音には僅かな消沈が含まれていた。

「ロナ。貴女も、上司からの小言をお望みではないでしょう」

「えぇ。よく解ってるじゃないですか」

「宜しい。では本日のお茶会は此処でお仕舞いにしましょうか」

 さらりと纏めてしまった。テオドリクスの反応を見るに、バルドルは議論の場に於いて、どうやら只ならぬ手腕をお持ちらしい。良く出来た調停者だ。斯くして敵部隊は呆気なく退散し、シーアもバルドルに抱えられて帰路に着いた。ローラーの付いたブーツで坂道を滑り降りるバルドルはまた、出会った時の涼しい表情へと戻っていたが、固く閉ざされた口からは何も読み取れなかった。
 運ばれている間、シーアは幾つもの心配事を心中にて列挙した。テオドリクスとロナは上手い云い訳をきちんと思い付いて、先程の望ましくない邂逅を隠蔽してくれるのだろうか。彼らに捕らわれ、捕虜となったアドレーゼの命は無事か。アースラウグは手当てを受けて回復してくれるのだろうか。作戦を終えたルフトヴァッフェは誰も欠けていないだろうか。まどろむ意識に歯止めを掛け、シーアは深く息を吸い込んだ。そうとも。まだくたばる訳には行かないのだ。

 基地に戻り、医療MAID達から入念に治療され、医務室でお偉方からの叱責をひとしきり受けた後、シーアはまだ残る傷の痛みも忘れて瞼を閉じた。その夜は、夢を見なかった。


最終更新:2013年02月05日 16:31
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