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利根・房総紛争

 利根・房総紛争 (とね・ぼうそうふんそう)は、211年9月13日から212年2月28日まで、千葉茨城連盟政府の間で行われた、常陸地域を巡る紛争。
 千葉による千葉・常陸統一後、低強度紛争状態に入っていた常陸地域だが、水戸氏や上総氏、印旛/新治軍閥の残党による利根川以南侵攻を機に、本紛争として大規模な軍事衝突に至った。


 紛争の背景───
 サンマリノ撤退後、援助がなくなった後も人知れず、水戸氏や上総氏などのサンマリノ旧提携勢力が活動を再開していた。しかし、嫡流千葉の千葉・常陸統一により程なくしてそれら勢力は滅ぼされる。
 211年、常陸が千葉による圧政に苦しめられる中、宇都宮へ亡命していた水戸氏の老中、松平斉定ら一派が秘密裏に帰還。亡命中に西の本坂東徳川氏の援助にありついた斉定は、「常陸の奪取」を掲げ、水戸氏残党、上総氏残党、印旛/新治軍閥を集結させ茨城連盟政府を組織する。

 開戦───
 211年9月13日に水戸氏、15日に上総氏と印旛/新治軍閥が茨城連盟政府を称して下総-常陸国境部にて武装蜂起し、千葉本土への侵攻 (利根川以南侵攻)を開始する。利根・房総紛争開戦。

 開戦後の推移───
 万全な戦力を整えて蜂起した茨城だったが、坂東圏で一二を争うほどの軍事大国である千葉には歯が立たなかった。また、千葉胤熾千葉介の軍事介入要請には大中華、日ノ出、モスクワの3か国、武蔵千葉当主千葉国胤の要請にはファントム、青評連、みどない、ウルクイナの4か国が応え、千葉軍は大幅な戦力強化を受ける。
 茨城に勝機なしと見込んだ本坂東徳川氏は早々に援助を打ち切り、瞬く間に茨城は劣勢に立たされた。10月4日に土浦城、12月16日に小田城、翌年1月29日には水戸城など、重要拠点を多数失い、2月1日には水戸氏が降伏した。

 終戦───
 212年2月20日の小幡城陥落により上総氏、2月25日の下総連盟基地陥落により印旛/新治軍閥が降伏し、その後2月28日の木更津同盟協定によって正式に利根・房総紛争は終戦した。

 影響───
 木更津同盟協定により、茨城連盟政府に参加した勢力は復権禁止の処罰を受けた。茨城の首脳部を構成していたとされる人物のうち、松平斉定、斉邦、上総常形、佐賀七助は死刑、上総広信、印東吉正は終身刑となった。
 本紛争により、本坂東徳川氏は重要な譜代である水戸氏と上総氏を完全に失い、勢力に大きく制限がかけられた。また、この一件を通して千葉と徳川の関係が悪化し、対立は深まったとされる。
 その他、本紛争では武蔵千葉の戦果が比較的乏しかったことから、嫡流千葉の坂東圏における発言力が一層強まった。その一方で、武蔵千葉内部では一部派閥がこれに反発し、不満を募らせるなどの影響も生じた。
利根・房総紛争
展開した千葉空備軍のF-11S戦闘機
戦争 利根・房総紛争
年月日 211年9月13日 - 212年2月28日
場所 常陸地域南部、利根川
結果 千葉陣営の勝利、
嫡流千葉の発言力拡大
   交戦勢力
 千葉陣営
   嫡流千葉
    ・  武蔵千葉

 支援国
   大中華
   ファントム
   日ノ出国
   青評連
   みどない共和国
   モスクワ第二帝政
   ウルクイナ共和国
 茨城陣営
   茨城連盟政府
    ・ 水戸氏
    ・ 上総氏
    ・ 印旛軍閥
    ・ 新治軍閥
   指導者・指揮官
   千葉胤熾
   千葉大胤
   千葉胤進
   千葉清胤
   千葉越胤
   千葉国胤
   千葉胤六
   千葉胤七
   松平斉定
  松平斉邦
  上総常形
  上総常信
  印東吉正
  佐賀七助
   戦力
不明 不明
   損害
不明 不明
最終更新:2026年08月06日 00:15