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サンマリノの関東地方植民

 関東植民戦争 (かんとうしょくみんせんそう)は、205年1月9日から209年5月20日にかけ、嫡流千葉大掾氏を主体とする現地勢力と、関東地方の植民地化を図るサンマリノによって行われた一連の軍事衝突、または低強度紛争。
 207年に一旦はサンマリノへ取り込まれた現地勢力だが、ヴィラン系勢力の伸張によりサンマリノが地中海、アフリカへ派兵せざるを得なくなったこと、サンマリノの傀儡と化した現状に不満を持つ水戸氏、上総氏の一派が武蔵千葉として現地勢力に寝返ったことなどから状況は一変し、209年のサンマリノ撤退まで追い込むことに成功した。


 戦争の背景───
 サンマリノはイタリアからの委任統治領や第四次ポエニ戦争による保護国の獲得により、勢力拡大に野心的となっていた。
 204年、当時の大評議会議長〇〇・〇〇の命で、新たな植民先として諸外国の支配が行き渡っていない関東が指定される。植民をより円滑に進めるべく現地勢力との協力体制も確立し、翌年1月9日に東京湾からの上陸が実行された。

 開戦───
 午後3時45分。上陸後、提携している現地勢力、上総氏に歓迎されるはずだったサンマリノ軍だが、待ち構えていたのは敵対勢力、千葉清胤率いる千葉軍の姿だった。上総氏は当時、財政難に陥っており、サンマリノからの支援を手っ取り早く受けるべく「万全な歓迎準備を整えた」という虚偽の報告をしていたのである。情報伝達を疎かにしていたサンマリノにこの事実は伝わらず、待ち伏せていた嫡流千葉との戦闘 (内湾会戦)に発展した。

 開戦後の推移───
 内湾会戦にて勝利したサンマリノであったが、この情報は関東一帯に知れ渡り、関東最大勢力、大掾氏と戦争状態 (第一次武蔵・大掾戦争)に陥る。一時は劣勢に立たされたサンマリノだが、戦力の逐次投入により207年、大掾氏を降伏まで追い込んだ。
 大掾氏の制圧後、第一次武蔵・大掾戦争での善戦により再評価された上総氏は、サンマリノの新たな保護国、木更津港国の共同統治権を獲得した。
 また、サンマリノでは、提携勢力として上総氏の嫡流である本坂東徳川氏、その譜代である水戸氏を新たに迎え入れた。
 大掾氏の降伏を受け、残る有力現地勢力 (嫡流千葉、佐竹宇都宮)は団結し、サンマリノの植民地支配に対抗する組織として南親同盟を立ち上げた。
 207年6月14日、南親同盟は武蔵地域のサンマリノ領内で大掾氏残党と共に武装蜂起し、第二次武蔵・大掾戦争が勃発した。軍民問わず多数の死傷者を出した上、戦闘は長期化し、翌年3月まで及んだが、サンマリノによる徹底した毒ガス攻撃やカルタゴ港国参戦の影響で、サンマリノ側の勝利に終わった。
 第二次武蔵・大掾戦争後、南親同盟の降伏によりサンマリノの支配下となった関東は、束の間の安寧を迎える。この時代は「異国秩序」と呼ばれ、サンマリノや上総氏の指揮の下、東京湾沿岸を中心に急速な欧化が進んでいった。
 また、異国秩序期に行われた植民地範囲の再定義により "上総氏領除く上総地域、安房地域、武蔵地域、甲斐地域、相模地域" をサンマリノ領、 "水戸氏領除く常陸地域北部、下毛野地域" をカルタゴ港国領、 "水戸氏領除く常陸地域南部、下総地域" を木更津港国領とした。
 208年9月、ヴィラン・ポエニなどのヴィラン系勢力が、容赦なき憤怒作戦の影響で拠点を地中海沿岸に移動し、海賊行為を開始した。サンマリノ本国ではこの海賊問題が深刻化し、関東に駐留していた部隊の大半をアフリカやヨーロッパへ移動せざるを得なくなった。この兵力低下が、後のサンマリノ撤退へ繋がることとなる。
 同年11月、サンマリノの兵力低下を好機と見た上総氏内の植民地支配反対派は、水戸氏内の同様の派閥と手を組み、千葉系国家「武蔵千葉」を名乗って蜂起する。兵力の不足によりサンマリノは対処できず、武蔵千葉の独立を許した。
 サンマリノの弱体化を実感した武蔵千葉は、潜伏を続ける真壁氏 (大掾氏残党)、南部同盟残党らを集め、武蔵同盟 (第二次南親同盟)を組織。209年1月17日、サンマリノに対して "関東諸勢力の主権回復" や "サンマリノの関東撤退" を訴え宣戦布告し、第三次武蔵・大掾戦争が開戦する。

 終戦───
 サンマリノに武蔵千葉を相手にするほどの戦力はおらず、下総-武蔵国境部での小規模な戦闘から14時間後、武蔵同盟の要求を飲んだ。上総氏、水戸氏、本坂東徳川氏や、一部のサンマリノ植民推進派を除いて、サンマリノ側の各勢力は将来・利益上の観点から植民地の放棄、関東からの撤退を選び (サンマリノ撤退)、5月20日までにサンマリノ関係者、カルタゴ港国関係者、木更津港国サンマリノ派関係者の撤退と、植民地範囲定義の無効化を完了させた。
 サンマリノの追放に成功した武蔵同盟参加勢力 (嫡流千葉、武蔵千葉、佐竹、宇都宮)は、主権を回復した大掾氏により「坂東屋形」の称号を与えられ、関東圏の秩序を守る存在として「坂東四屋形」と呼ばれるようになる。
 また、坂東四屋形にちなみ、異国秩序の崩壊以降を「四州秩序」と呼称するようになった。

 影響───
 サンマリノの支配から脱却し、坂東四屋形を中心とした現地勢力の手に再び渡った関東であったが、第二次武蔵・大掾戦争などで散布・遺棄された毒ガスの深刻な残留問題に苦しめられた。この問題は212年現在も解決しておらず、下毛野地域や武蔵地域を中心に居住地が限られる問題が生じている。
関東植民戦争
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戦争 関東植民戦争
年月日 205年1月9日 - 209年5月20日
場所 関東地方
(群馬除く)、山梨
結果 現地勢力の勝利
   交戦勢力
 大掾氏陣営
  大掾氏
    ・ 木更津国
    ・ 上常国

 南親同盟
   嫡流千葉
    ・  武蔵千葉
   佐竹
   宇都宮
 サンマリノ陣営
   サンマリノ
    ・  カルタゴ港国
    ・  木更津港国
   本坂東徳川氏
    ・ 水戸氏
    ・ 上総氏
   指導者・指揮官
  大掾忠幹
  大掾勇幹
   千葉胤次
   千葉胤熾
   千葉清胤
   上総常光 (千葉胤六)
   松平一斉 (千葉胤七)
   佐竹結義
   宇都宮綱房
   クラウディア・ロッシ
   ニコラ・チェッキ
   アントニオ・モレッティ
   イザベッラ・トンマーゾ
   ロレンツォ・ティンバロッティ
   カルロ・ロッシ
   上総常親
   徳川政吉
  松平斉定
  上総常形
   戦力
不明 不明
   損害
不明 不明
最終更新:2026年08月07日 00:12