彼女たちの向かう先は死を免れぬフォーティン ◆John.ZZqWo



「さて、そろそろ目覚めの時でしょうか。色々なものから、目覚める時間ですよ、喜多さん」

岡崎泰葉の前で喜多日菜子はすやすやと小さな寝息を立てて眠っていた。
ソファへ横たわる彼女の前にしゃがみ、岡崎泰葉は彼女の前髪を目からよけ、軽く頬を撫でる。

「どうしてあんなことをしたんですか? いつもの妄想ですか? 今日の妄想のテーマはなんです?
 助けを待つお姫様……じゃない? もしかして“私達”のプロデューサーを助ける秘密のエージェントだったりしたんですか?」

そう、岡崎泰葉と喜多日菜子は同じプロデューサーの元で活動するアイドルなのだ。
だからこそ彼女は喜多日菜子への対処をひとりで買って出たのだし、みんなも彼女に任せてここを立ったのだ。
そして彼女は喜多日菜子を“現実”へと帰還させる方法については手馴れているつもりだった。

「ねぇ、そろそろ起きてくれませんか?
 私もあなたを縛ったままなのは心苦しいんです。それに朝ご飯も用意しているんですよ」

ソファに囲まれたガラステーブルの上には菓子パンやおにぎり、スクランブルエッグ、カリカリのベーコンなんかが並んでいる。
皆のリュックの中に入っていた食料を持ち寄って、この事務所に備え付けられていた小さなキッチンで作ったものだ。
もうほとんどが手をつけられてしまっているが、しかしちゃんと喜多日菜子の分は残されている。
暴れる彼女を取り押さえてここまで来たわけだが、かといって彼女を放っておこうという子はいなかったし、岡崎泰葉も同じだった。

「ほら、目覚める時間ですよ」

ゆるく頬を撫でていた掌がパシパシと音を立てて頬を叩く。……しかし、なかなか彼女が起きだす気配はない。

「……………………」

パシパシと頬を叩きながら岡崎泰葉は事務所の壁にかかっている時計を確認する。もう時間は8時前だった。
およそ後2時間と少しでここら一帯が禁止エリアに指定されてしまう。
もし、そうなるまでに喜多日菜子が起きてこなければ、寝ている彼女を背負うなりして移動しなくてはならないことになる。

「二人はもう水族館でしょうか……」

ケーキ屋へと送り出した二人は結局ここには戻ってきていない。おそらくは打ち合わせの通りに水族館へ向かったのだと推測できる。
となれば、やはりここにいるのは自分ひとりで、タイムリミットが迫れば喜多日菜子を運ぶのはひとりだけでということになる。

「困りました……」

岡崎泰葉は喜多日菜子の頬を叩くのを止めると、自分のリュックを開いてその中から麻酔銃の取扱説明書を取り出した。
何度も確かめたことだがやはりそこに麻酔が切れるまでの時間は書いてない。書かれているのは銃を撃つ操作についてだけだ。
ため息をついて説明書をしまい、そして情報端末で正確な時間を確かめ、なにか方法はないかと彼女は考える。

「………………………………そうだ」

立ち上がると岡崎泰葉は事務所の出口へと向かい、そしてそのまま扉を開いて外へと出た。
別に喜多日菜子を見捨てたわけではない。ここへと来る途中、どこかで台車が置かれているのを見たことを思い出したのだ。
それがあればなんとか人間ひとりくらい運べるだろう。
無論、喜多日菜子自身が起きて歩いてくれるのが最上だが、最悪の場合を考えて彼女はそれを取りに行くことにした。

扉を閉める前に、岡崎泰葉はもう一度事務所の中を振り返る。
ソファの上の喜多日菜子はまだ幸せそうにすやすやと眠り、やはりすぐには起きてきそうにない。
眠ったまま一人にするのは躊躇われたが、他にいい案も浮かばない。少しの逡巡の後、岡崎泰葉は扉から離れ、港の中を走り始めた。


 @


「…………うぁッ!」

とうとう言うことを聞かなくなった足がもつれ、身体が灰色のアスファルトに叩きつけられる。
榊原里美は立ち上がろうとして、しかし諦め、倒れたままの姿勢で荒い息を吐き、朦朧とした頭で周囲とそして自分を観察する。

「……ぅ、……うぅ………………」

気づけば街の中にいた。見たこともない通りで、どこを辿ってここまでやって来たのかも思い出せない。
服はボロボロでいつの間にかにスカートが大きく裂けている。膝から下は泥だらけで、お気に入りの靴も乾いた泥で真っ白になっていた。
じくじくと痛むと思えば肘から血が滲んでいる。今転んだ時に擦り剥いたのかもしれないが、もっと前からだったのかもしれない。

「ハァ…………ハァ……………………」

貧血のような眩暈を覚えながら榊原里美はよろよろと立ち上がる。ガクガクと膝が笑っていた。足は文字通り棒のようだ。
暖かい陽の光さえ今は鬱陶しい。彼女はそれから逃げるようにふらふらと歩き出すと、すぐ傍にあった喫茶店の中へと入ってゆく。
重たいガラス戸を身体全体を使ってなんとか押し開け、薄暗い店内を奥へ奥へと進み、ボックス席の中へと倒れこんだ。

「ううぅ……、ううぅう……………………」

身体は限界を訴え、意識を手放せと繰り返すのに、しかしなぜか意識だけははっきりとしてて休むことができない。
寝転んだ革張りのソファはひんやりとしていて、初めは気持ちよかったが、冷たさが身体の芯にまで達すると、今度は震え出すほど寒い。
どうしてこんなことになっているんだろう? 混濁する記憶を手繰り寄せようとすると、途端に気持ち悪さが大きく膨れ上がった。

「うぉえ、ぅぅおぉおえぇぇえええええええええええええ…………ッ!」

胃がぐるりとうねり、喉が焼け、そして口から吐瀉物があふれ出し、床の上でびしゃびしゃと汚らしい音を立てる。

「えええぇぇぇぇ、…………げぇえ、…………おげっ、…………ハッ……ふ、…………ハァハァ…………、…………」

全てを吐き出してもしかし吐き気は治まらず、喉は繰り返し蛙の声のような濁った音を鳴らした。

「ごぇぇ……、…………ハ、…………ハァハァ……、ぅぅううぇ…………げぇ、…………」

榊原里美は身体を起こしソファの背に体重を預ける。そして口をわななかせ、涙で滲んだ瞳で自分の両の手を見つめた。
記憶の中にあったのはこの白い芋虫のような指で人の――まだ子供だった子の首を絞めて、そして、殺し、顔が真っ赤に――……

「うぇああああぁぁわあぁああああぁぁあぁぁああぁぁぁああああああああああっ!!!」

バンッ!と大きな音を立てて榊原里美は両手をテーブルに叩きつける。悲鳴をあげながら何度も何度も叩きつけた。

「ああっ! あぁぁぁぁああああああっ! あああっ! ああっ! ああああぁぁぁぁあああああっ!!」

爪が割れて血が流れても、痺れて痛みもなにも感じなくなるまで、気持ちの悪いそれが自分のものでなくなるまで何度も何度も叩きつけた。
そして気が済むと、糸が切れた人形のようにソファの中で崩れ落ち、そのまま吐瀉物が広がったままの床の上に落ちる。

「ヒュ…………、ハッ、ハッ…………助け……、誰か……、助けて……助けて…………助け、………………」

頭の中には怖くて気持ち悪いものしかなかった。
いくつも死体があって、何人も殺されて、血が流れていて、身体の中身が見えていて、死に顔は蒼く、赤黒く、気持ち悪かった。
出会う人は誰もが怖くて、嘘つきで、言うことを聞いてくれず、追い回し、置いてけぼりにして、嘲り、殺そうとする。
どこを歩いても安らぐ場所なんかなくて、暗くて、疲れて、どっちにいったらいいのかもわからず、知らない景色ばかり。

そして自分自身ももう知らないうちに自分自身ではなくて、なにもかもがわからなくて、ただただ気持ち悪く、怖い。

まるで身体中のどこもかしこに毒をもった毛虫が詰まっているようだった。
頭はぐるりぐるりと回り、目の奥はズキズキと痛み、耳は聞こえているのかわからなく、鼻は冷たく、口の中が乾きすぎて舌が痛い。
青黒くなった指はじくじくと痛み出し、足は自分のものでないように言うことを聞かず、心臓は目覚ましのベルのように鳴り続けている。

「助けて…………、助け………………」

けど、誰に助けを求めればいいのか、もうそれすらもわからない。なぜなら、それはもう否定してしまっていたのだから。


榊原里美の声はただただ虚しく響く。






 @


「ん……、んんん…………」

頭の鈍い痛みに喜多日菜子はうめき声をあげ、そしてようやく目を覚ました。
身体はぐったりと疲労が溜まっており妙に重たい。
いったいなんでだろう? と疑問に思いながらも起き上がろうとして喜多日菜子は自分の手足が自由にならないことに気づく。

「なん……なんですかぁ、これぇ……?」

手足を縛られているのを確認し、寝転がったままに回りを見る。どうやら事務所の応接間のような場所に自分はいるらしい。
どうしてなのかはよくわからなかった。こんなことは今までになかったわけではないが、しかしいつもとはかなり違う気がする。
その時、ガチャリと扉が開く音が聞こえた。

「ふぅ……、どうやら間に合ったようですね」

ガラガラと音を立て、台車を押しながら入ってくる人物を見て喜多日菜子の頭の中で火花がバチバチと散った。
そして少しずつ記憶の断片が浮かび上がり、ひとつの形を成そうと組みあがり始める。

「起きて…………、……………………わ……………………か?」

入ってきた人物がなにか声をかけてくるが喜多日菜子にはよく聞き取れない。
誰なのか、知っている相手で、それもとてもよく知っている相手だった気はするが……、しかしどうにもはっきりしない。

「まだ………………、み……を…………………………」

その人物は寝ている喜多日菜子を抱え起こすと、テーブルの上にあったペットボトルを取ってその口を開いた。
そしてそれを喜多日菜子の口に当てると飲むように促してくる。喜多日菜子はまだよくわかっていなかったが、促されるままに従う。
水だ。そう理解すると液体はするりと喉を滑り落ちた。乾きが癒されることで次第に頭の中もクリアになってくる。

「朝食を用意してあるので食べててください。もうあまり時間もないですから手短に……ああ、そうだ。そのままじゃ食べられませんよね」

手首を縛っていたビニール紐がナイフを使ってぶちぶちと千切られていく。
喜多日菜子はナイフなんかが出てきたことにひどく驚いたが、そのおかげで自分が何者で今がどういう状況なのかを思い出した。

「コーヒーを淹れてくるんで少し待っててくださいね。…………砂糖2つとミルクでしたよね?」

喜多日菜子は頷き、そして離れていくその人物の背を見送る。
そしてその姿が壁の向こうに消え、コンロの火がつく音が聞こえたところで行動を開始した。
目の前に用意された朝食――菓子パンやおにぎり――に手をつけるのではなく、置きっぱなしになっていたナイフを素早く手に取る。
それで足を結んでいた紐を千切ると、音を立てないようゆっくりと立ち上がり、扉のほうへと歩き始める。

早くここから逃げなくてはいけない。早く、この“魔女の住処”から逃げ出さなくては自分は彼女らに食べられてしまう。

そういう風に喜多日菜子はこの状況を理解した。
自分はあの戦いの中で魔女らに敗れて囚われの身となり、餌を与えられ太らされ、しまいには食べられてしまうのだと。
もうあの聖剣は手元にない。だが他の魔女らの姿も見えない。これは千載一遇のチャンスだと喜多日菜子は魔女の住処からの脱出を試みる。
魔女がかがせた眠り薬のせいだろう、足は半分痺れているようでうまく動かせない。
それでも慎重に、間抜けな魔女がうっかりと置いたままにしたナイフを握り締め、外へとつながる扉へと向かう。

あの羊の子供はどうしたんだろう? もしかすれば、かわいそうなことにもう先に食べられてしまったのかもしれない。
そう考えながら扉を潜ると、喜多日菜子は陽の光に照らされる午前の港の中を走り出した。



喜多日菜子は走る。足の痺れは走り出すと少しずつ和らぎ、そのうちに気にならなくなった。
港にはいくつもの船が停泊している。大きな客船もあったが、一番多いのはクルーザーやヨットの類だった。
その中に逃げ込もうかと一瞬考える。だが乗り込んでも船を操縦した経験があるわけでもない。それではただの袋小路だ。

海に背を向けると喜多日菜子は急な石段を登り、幹線道路の上へと出る。
そして、そのまま道路を渡ると、喫茶店やそば屋などが立ち並ぶ通りに入り、未だに薄く黒煙が煙る街の西側へ向かい進んでいった。


 @


榊原里美はあれから床に寝転がったまま、自らが吐き出した汚物の上に横たわったまま、そこからただ外の明るさだけを見ていた。

あの明るさの下にはもう二度と立ちたくはなかった。もうずっと一生、暗がりの中で隠れ続けていたかった。
お兄様とだってずっと暗がりに秘めた関係だったなら、壊されはしなかったはず。
明るさが気持ちいいのは最初の一瞬で、明るさの中にい続ければ、それは全てを暴きズタズタに切り裂いてしまう。

アイドルとしての榊原里美には他のアイドルとは違う性質がひとつあった。
それは、榊原里美はスポットライトの当たるステージの上にいる時よりも、そこから舞台袖の暗がりに戻ることに幸せを見出していたこと。
暗がりの中で彼女を待つプロデューサー。彼の元へと続く、ステージから舞台袖までの数歩こそが彼女にとっての至福の時だった。

だから彼女はもうあの明るさの中には立たない。あそこから戻ってももう出迎えてくれる人はいないのだから。
そうならばもうずっと薄暗がりの中にいればいい。明るさの中に我が身を曝し無駄に傷つくこともない。

「どうして……、どうして取り上げるんですかぁ…………」

榊原里美は震える身体でただ時計の音だけを聞く。

「お兄様も……、あの人も……」

壁に掛けられた鳩時計の針は、今が9時半を過ぎていることを示している。

「私はそんなに悪い子でしたかぁ…………?」

答える者はいない。そして彼女自身、それを誰に問いかけているのかは定かではなかった。






 @


岡崎泰葉はそれに気づくと、火にかけたままの薬缶をそのままに自分の荷物だけを取って事務所を飛び出した。
港の中を走り、彼女の姿が見えないと知ると今度は石段を上がって街のほうへと出る。
だがどこにも喜多日菜子の姿はなかった。

「私としたことが……ッ」

焦りに眉間の皺が寄る。いくら相手がよく知った間柄だったとはいえ、あまりにも簡単なミスで、らしくない油断だ。
麻酔が残っていて朦朧としていたことをもう妄想が終わったのだと勘違いしたこと。
禁止エリアの発動までに時間がなくて、すぐにでも移動させたかったこと。
言い訳ならできるが、そんな言い訳で人の命は救うことはできない。

岡崎泰葉のしたことは、正気を失い人を殺そうとする人物をまた解き放ってしまったということに他ならない。そして――

「もう時間が……」

この失態で一番死ぬ可能性があるのは逃がしてしまった喜多日菜子自身だ。
彼女は放送を聞いておらず、また自分の荷物も置き去りにして出て行ってしまった。故にこの近辺が間もなく禁止エリアになることは知らないはずだ。
もし彼女が一目散にこの場を離れようと遠くに行ってるならばいいが、もしそうでなければ、彼女は首輪の爆発によって死んでしまう。

「どこに…………?」

街の中へと入り小洒落た喫茶店の前で岡崎泰葉は唸る。
商店が立ち並ぶその通りは見通しがよかったが、しかし喜多日菜子の姿は見当たらない。通りはただただ無人だ。
だったら一軒一軒しらみ潰しに回るかと考え、だが彼女はすぐに首を振った。とてもそんなことをしている時間はない。
入れる店や建物の数は無数にある。通りの数も数え切れない。ひょっとすればまだ港に隠れているかもしれない。
なによりもう時間がない。情報端末に表示された時刻はタイムリミットまでもう20分もないと示している。

「嫌だ……絶対に死なせたくない」

ギリと歯を噛み締めると、岡崎泰葉は通りを西へと駆けはじめる。
当てはない。しかしそれでもギリギリまでこのエリアに残って彼女を探そうと決心していた。



禁止エリアの端のほうへと向かいながら岡崎泰葉は喜多日菜子の姿を探す。
交差点の真ん中で四方を確認し、また次の交差点へと走りそこから四方を確認する。だが彼女の姿は見つからない。
彼女ならどう逃げるだろう? 逃げたい人はどちらの道を選ぶのだろう? 考えながら道を選び、その度にその先に彼女がいると期待する。
しかし、やはり彼女の姿は見当たらない。そして情報端末を確認する度に残り時間は減っていく。

「後、5分…………」

呟いて、背筋に寒気が走った。もしかすれば、この5分後になにもしなくとも一人の人間が死んでしまうのだ。

「どうして……私は…………」

悔やむ。そして悔やみながら喜多日菜子の姿を探す。残り時間はもうない。
岡崎泰葉は自分も死んでしまわないよう、情報端末を見ながら禁止エリアの境界となるギリギリの位置を目指して走る。

大きなお皿の滑り台がある公園を通り抜け、二車線の道路を渡って、クリーム色の外壁のマンションの足元へと立つ。
そこがちょうど禁止エリアとなる『C-7エリア』とその隣の『C-6エリア』の境だった。

そして、その場所に喜多日菜子の姿はない。二度三度と回りを見渡し、禁止エリア境界のラインに沿って走るも彼女の姿は見えない。
残り時間は1分を切っていた。

「喜多さんが死んだら……私は……」

岡崎泰葉の顔から色が失われる。
アイドルとは何かを偉そうに説き、怖がっている者を脅しつけ、それでも生き残らせて、いつか笑顔にしてみせると言ったのにこれはなんだ。
結局はただの背伸びした子供でしかない。プライドばかり高く、その積み上げたプライドに足を乗せないと目線も合わせられない子供。

「いやだ……、私は『アイドル』でいたい」

情報端末の画面が涙で滲み、そしてその滲んだ画面の中で時計の表示が『09:59』から『10:00』と変化した。



――その瞬間、ピッという音がした。一度、あの教室で聞いたのと同じ音が岡崎泰葉の耳に届いた。






 @


聞こえた音に岡崎泰葉は顔を上げる。するとその正面、細い道路の先に探していた喜多日菜子の姿があった。

「あ…………ッ!?」

まだ、死んではいない。まだ彼女は死んでいない。禁止エリアの中で立ち止まっている彼女はまだ死んではいない。

「喜多さんッ! こっちにッ!」

ピピピピ……と音が断続的に鳴っている。それを聞いて岡崎泰葉は思い出す。首輪はスイッチが入ってから爆発までに猶予があったことを。
だが、その時間は長くなかったはずだ。せいぜいが30秒か、長くとも1分くらいしかなかったはず。

「こっちですッ! そこにいると死んじゃいますよッ!」

呼びかける。だが当の喜多日菜子はきょとんとしている様子だった。首輪が音を鳴らしていることの意味がわからないのかもしれない。
岡崎泰葉は大きな声で繰り返し呼びかける。両手を広げて、こちらに来てと大きな声で呼びかける。なのに――


「喜多さんッ!!」


彼女は背を向けた。


「あ…………………………」


背を向けてまた逃げ出そうとする。


ピピピピピピ……と音の間隔が少しずつ短くなってくる。猶予は後どれくらいあるのだろうか?


「……………………ッ」


待ってと言おうとして喉が詰まる。そんなことを言っても逆効果だ。では、だったらなにを言えば、なにをすればいいんだろう?
走って捕まえて引きずってこようか? そんなことできるはずがない。二人とも死んでしまうに決まっている。
じゃあ、どうすればいいんだろう?


じゃあ、どうすればいいんだろう……?


私になにができるんだろう?


背を向けた彼女の向こうに太陽が見えて――


その眩しい光が、あの夏をここに呼び戻す。


岡崎泰葉は息を吸い、そして――……






 @


延々と走ってきた喜多日菜子はフェンスに身体を寄せると激しい息を整え、少しそのまま身体を休めた。
走り続けてきたせいで身体中から汗が吹き出して服がぐっしょりと濡れている。それに喉がカラカラに乾いていた。
しかし逃げてくる際に自分の荷物を忘れてきてしまったせいで、持っているのは一本のナイフだけだ。

このままでは砂漠で迷った旅人のように喉を嗄らして死んでしまうかも。
どこかにオアシスはないかと喜多日菜子はまた歩き始め、その先にお皿の滑り台がある公園を見つけた。
公園の中なら水飲み場があるはず。そう考え、そこに向かおうとして彼女はその道の先に“魔女”が立ちふさがっていることに気づいた。

すると、どこからかピッという音がする。

それはどこからなのか? すぐ近くから聞こえて、気づいてみればそれは自分に嵌められた首輪から鳴っている音だった。
そして、音が鳴ると同時に“魔女”の両目が自分を捉える。

これは罠だ。

喜多日菜子はそう考え、水場に未練を残す身体を反転させて逃げ出そうとする。一歩二歩、踏みしめるたびに音の間隔は短くなってゆく。
そして、三歩目を踏み出した時――


       不安な気持ち 隠してついた ウソさえ好きと 伝わる距離


――歌が聞こえた。


       果てしない闇を 抜けて出会った 僕らは二度とは 離れないよ


振り返ると、そこに“岡崎泰葉”が立っていた。


       悲しい時に 笑って 嬉しい時に 泣くんだ


喜多日菜子のよく知る岡崎泰葉が道の先で手を広げて歌を歌っていた。


       閉ざされた 日々にだって 君の光が 差すんだ


「ああ、そっか……」と理解して、彼女はその胸の中に向かって走る。


       目を閉じて ねぇ 感じるよ 二人の鼓動を


ピピピピピピピピピ……と首輪が鳴る。


       わすれまいと わすれまいと 何度も 胸に刻む


首輪の音が急き立てる。


       過ぎ行く時の 終わりに 二人出会えた 奇跡を


一心不乱に自分の足で走る。


       想うでしょう 想うでしょう


すでに疲れきった身体は悲鳴をあげて、でもそれは自分自身の痛みで、


       キラめく笑顔も こぼれる涙も


きっとそれは妄想の中の快楽より心地よかった。


       全てつながって ステキな未来は続く






 @




――そして首輪は爆発した。




 @


「ハァハァ、ハァハァ、ハァハァハァハァ……、ハァハァ…………」
「よかった……、喜多さん……よかった。よかった……よかった…………」
「……ッハ、…………泰葉、ちゃん…………泰葉……ちゃん……泰葉ちゃん! 泰葉ちゃん!」
「うん! うん……! よかった……よかったぁ…………」

禁止エリアの境界線上――そのわずかに十数センチの向こう側で、
岡崎泰葉と彼女に向かって飛び込んできた喜多日菜子は勢いのままに路上に倒れこみ、そのまま抱き合って喜んでいた。
喜多日菜子の首輪はギリギリのところで爆発はしなかったし、岡崎泰葉が彼女の死を目の当たりにすることもなかった。

「ハァ……ハァハァ、ありがとう。泰葉ちゃん…………」
「もう、いつも……、目を覚まさせるほうのことも考えてくださいよ……まったく……」
「うん……、ごめんなさい。そして……“ただいま”」
「………………………………はい、“おかえりなさい”」

喜多日菜子の瞳から大粒の涙が落ち、岡崎泰葉の頬の上で彼女の涙と混じる。

「私の好きな歌、覚えてくれてたんですねぇ~」
「そうしないと……、もう無理だと思いましたから……」
「いつもは引っ叩くだけなのにぃ、今日はずいぶんとやさしいんですね。むふふ♪」
「なんなら、今から叩いてもいいですよ? いえ、叩かせてください。どれだけ迷惑したか――」

きゃあと悲鳴をあげて喜多日菜子は立ち上がって岡崎泰葉から離れる。岡崎泰葉も立ち上がり彼女を追って、しかし叩きはしなかった。
今度は岡崎泰葉が喜多日菜子を抱きしめる。

「ありがとうございます」
「……? なにがですか……?」
「私を『アイドル』でいさせ続けてくれたことです」
「おかしなことを言いますねぇ。泰葉ちゃんはずっとアイドルだったじゃないですか」
「ええ。でもそれを今は失いかけてたから」
「ふむ♪ まぁいいです」

どれほど抱き合っていたのか、しばらくして身体を離すと岡崎泰葉は喜多日菜子の手を取って歩き始める。

「あれれ? どこに行くんですか?」
「水族館です。そこで待ち合わせの約束をしているんで」
「ああ、そういえば泰葉ちゃんの他にもいっぱいいたような……」
「みんなと合流したらちゃんと“落とし前”とってもらいますから、覚悟しててくださいよ」
「そんな、巴ちゃんみたいなぁ~……」

喜多日菜子の泣き声に岡崎泰葉はくすりと笑う。

「それよりも喉がカラカラなんですけどぉ……」
「コーヒーを飲んでいかなかったからですよ……」

そして喜多日菜子もつられて笑う。


それは、『岡崎泰葉』の笑顔であり、『喜多日菜子』の笑顔だった。






【C-6・マンション近く/一日目 昼】

【岡崎泰葉】
【装備:スタームルガーMk.2麻酔銃カスタム(10/11)、軽量コブラナイフ】
【所持品:基本支給品一式×1】
【状態:疲労(大)】
【思考・行動】
基本方針:『アイドル』である者への畏敬。『アイドル』でない者への憎悪。
0:もう知りません。
1:水族館へと移動し、皆と合流する。
2:今井加奈を殺した女性や、誰かを焼き殺した人物を探す。
3:佐城雪美のことが気にかかる。
4:古賀小春小関麗奈とも会いたい。

※サマーライブにて複数人のアイドルとLIVEし、自分に楽しむことを教えてくれた彼女達のことを強く覚えています。

【喜多日菜子】
【装備:無し】
【所持品:無し】
【状態:疲労(大)】
【思考・行動】
基本方針:
0:意地悪言わないでぇ~。
1:岡崎泰葉について行く。
2:羊の子(仁奈)がどうなったか気になる。

※喜多日菜子の荷物(基本支給品一式×1、不明支給品x0-1)は港の客船乗り場受付事務所の中に放置されています。






 @


そこにはもう誰もいなかった。

結局、彼女が言うように、あるいは彼女が全てを否定したからこそ、彼女を救う者はそこに現れなかった。
最後の瞬間になにがあったのだろう。
カウンターの上に並べられていたシュガーポットやグラスは散乱し、椅子は蹴倒され、テーブルには血の手形がいくつも残っている。
そして床には吐瀉物が撒き散らされており、その上に首を失った死体と、壁に首だった赤色が張り付いているだけだった。

暗がりの中に隠れ潜み、そしてそのまま消えてしまった彼女。


もう誰も彼女のことを見ることはできないし、護ることもできない。







【榊原里美 死亡】


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喜多日菜子
榊原里美 死亡
榊原里美補完エピソード:sweet&sweet holiday

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最終更新:2014年02月27日 21:03