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月俣炭鉱

最終更新:

saionzi

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月俣炭鉱とは、1899年に操業を開始した炭鉱である。
1978年に閉山した。

一時は七浜国の大半の石炭を産出し、よく燃えるため非常に効率が良いと大人気だった。

架空国家世界遺産に「月俣炭鉱 -世界のTsukimata-」として登録されている。

概要


月俣高原の北東大竹山(おおだけさん)を中心とする埋蔵量45億トンの炭鉱。
年間60万トンを生産していた。
現在は完全に閉山されており、第43坑道を除く全ての坑道を見学することが可能である。
開発は主に湯畑財閥と筒金財閥が行っており、レンガ造の建物が多く残る。

歴史


操業開始まで


1700年代からこの周辺で石炭が取れることを地元住民は知っていた。

しかし当時は石炭があまり知られておらず、「なんか燃える石」という認識であった。

1897年、近代化によって石炭が必要になり、筒金財閥が里熊浜を中心に炭田の調査を行う。

1898年、月俣に巨大炭田があることが発覚し、炭鉱夫のための団地や鉄道を整備した。

小さな町だった月俣に一気に10万人以上の出稼ぎ労働者等が集まり、浜岡と月俣を結ぶ鉄道、月俣軌道月俣線もすぐ作られた。現在の熊将急行月俣線熊将急行浜岡線である。

操業開始


1899年、操業を開始する。

一年目から47万トンを生産し、その大半が七浜国各地へ輸出された。

1910年、坑道の数は35までに増え、毎年59万トンを産出。ww1で欧州各国が使用したと言われている(詳細はわかっていない。使われていないという見方が濃厚である)

般若山山火事事件


1952年、般若山山火事事件が起こる。A(仮名)とB(仮名)キャンプを行おうとした際、月俣炭鉱産の石炭を1かけら使用した。その結果(そんな強くないはずだが)落ち葉に引火し火は燃え広がり、わずか半日で山全体を焼いてしまった。また一部近隣住居にも延焼し、3名が重軽傷を負った。

この事件でAとBは逮捕されたが、この話は月俣炭鉱産の石炭がよく燃えることを証明し、購入者数が前年の2.6倍になった。

しかしその後AとBが直で石炭を置いて火をつけたことが発覚し、AとBの不注意が原因だったとして事件は終わった。

そのため1955年の購入者数は1952年の30%になり、一気に業績が悪化し始めた。

閉山まで

1960年代に入りエネルギー革命が起きると石炭の需要はなくなり、ついに赤字を出すように。

欧米諸国の植民地に輸出することによってなんとか黒字になった年もあったが、1961、63〜67、71〜74、76〜78年は赤字であった。

特に1977年は148億の大赤字を叩き出し、1978年に閉山。

79年の歴史に幕を閉じた。

空白の10年間

1978年から1988年の10年間、炭鉱夫が個人で勝手に採掘し売却を行ったり、団地の一部は老朽化が著しく崩落したりというような事態となった。

1988年、バブル7景気の中で月俣市にも遊園地を、ということで炭鉱跡が遊園地の建設にどうかという議論が行われ、遊園地のせず、保存して公園にするのはどうかという結果となり1988年から公園として整備が行われるようになる。

月俣炭鉱記念公園

1990年、月俣炭鉱は炭鉱記念公園となり、全ての坑道が公開された。

1992年8月25日22時ごろに大きな音を立てて第43坑道は崩落したため急遽他坑道の崩落対策を行い、3ヶ月間立ち入りを禁止した。

現在も第43坑道を除く旧炭鉱、炭鉱駅跡が公開されている。


坑道へは中学生以下200円、高校生以上の大人が500円必要である。

当時働いていた手帳がある場合は無料で見学ができる。
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