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糜竺・糜芳の家は先祖代々の富豪であり、裕福な生活をしていた。
陶謙が病に倒れると、糜竺や陳登は劉備を後継者として擁立したが、当然糜芳もこれに賛同していたものと思われる。
 呂布の裏切りによって劉備が敗走すると、彼に惚れ込んでいた糜竺は私財を投げ打って貢献し、妹を劉備に嫁がせている。
 これによって糜芳も外戚となる。
 
 
その後、劉備は曹操を頼るが、このとき曹操は糜竺を太守、糜芳を城国の相に任じている。
要は曹操お得意のヘッドハンティングで、糜芳は曹操が欲しがるほどの能力があったと窺える。
 糜家は、糜竺だけでなく、糜芳もそれなりの知名度があったのだろうか。
 
 
ともかく、糜芳は兄と共にその誘いを蹴り、後に劉備が曹操に反逆した際は、官職を捨てて劉備に付く道を選んでいる。
 
 
その後に裏切った一点だけを見て、この糜芳の行動を
「どうせ単に兄について来ただけだろ」と的外れな意見が出ることもあるが
 ……そんな生半可な志で、その後二十年間、劉備の一番キツかった時期に付き従える訳ないだろう常考。
 曹操から別々に官職を与えられている以上、糜芳は自分だけでも曹操に仕える選択肢はあった。
 実際、陳登や陳葦など、同時期に劉備から曹操に乗り換えた人間はいた。
 それをしなかったのは、一重に劉備への忠義があったから、それ以外に考えようが無いと思うのだが、どうだろうか。
 
 
徐州を離れた後からの糜芳の記述は、例の関羽の所まで飛んでいる。
……が、これを見て
 「糜芳はその間何もしていなかった役立たず」と決め付けるのは、やはり早計だろう。
 陳到の紹介のときも述べたが、この時の劉備軍の資料はどうも少なかったようで、
 劉備放浪~赤壁~荊州平定戦のあたりは、殆ど劉備本人の動きしか書かれていない。
 例えば、荊州四英傑の記述も『降伏した』のみで、誰が誰を降したのかすらわからない有様。
 
 
陳到にしろ糜芳にしろ、関羽・張飛に次ぐ古参の軍人で、当時人員不足だった劉備軍に貢献していない筈が無いのだが、
如何せん動きが地味だったのか、今となってはそれを知る事は出来ない。
 
 
糜芳の不運は、益州戦線や漢中争奪戦に参加していなかったことだろう。
この頃になると、それぞれの武将の活躍も詳しく書かれてくるのだが、この時期の糜芳は、関羽と共に荊州の留守役を勤めていた。
 もちろん、当時ギクシャクした関係だった呉に備えた、重要な任務ではあるのだが。
 関羽が守る襄陽では、(楽進ら率いる)魏軍の侵攻があり、荊南においては、呉が長沙・桂陽・零領を奪うなどの争いがあった。
 しかし、糜芳が太守をしていた南郡(江陵)については、どうやら大きな戦闘は無かったようで、
 やはり糜芳の活躍の記述は残っていない。
 
 
……で、糜芳は果たして劉備に冷遇されていたのかという問題だが。
確かに、兄の糜竺は蜀平定時に孔明よりも上の地位を授けられているなど、厚遇されていたのと比べると、
 南郡太守として荊州都督である関羽の配下に組み込まれていた糜芳の扱いは、良くないように見える。
 が、この南郡太守は、蔡瑁・周瑜・程普といった面々が歴任していたものであり、その内の江陵は対呉の最前線と、むしろ重要拠点だった。
 
 
益州平定前は、関羽は襄陽太守だったという事も考慮すれば、決して低い役職ではないだろう。
劉備は、手元に置くよりも、糜芳に前線での活躍を期待していたのではないだろうか。
 一応、人を見る目では定評のある劉備だし。
 最古参の一人という事もあり、少なくとも劉備からは信頼されていたと見るべきだろう。
 ……そしてその信頼を得る程度の武功はあったと、個人的に推測している。
 
 
ともかく、糜芳と関羽は同格とは行かないまでも、完全に主従関係にあった訳ではない。
ここに、糜芳を配下だと認識している関羽と、あくまで劉備の家臣のつもりの糜芳との間で、
 何らかの軋轢が生じるのは想像に難くない。
 
 
いずれにせよ、「士大夫に傲慢」と記される関羽と、糜芳・士仁の仲は険悪だった、と多くの資料に記されている。
いくら嫌いな士大夫だからって、仮にも外戚の関係にあるかつての恩人を軽んじる関羽ってどうなんだと思わないでもない。
 糜芳にその立場を笠に着る態度があったとでも言うならともかく、史書にはそんな記述は見当たらないし。
 
 
荊州においては、関羽が都督、糜芳が南郡太守、士仁は将軍として公安を守るという体制になっていた。
 
 
糜芳が関羽との間に起こしたとされるイザコザは、史書によってバラバラである。
関羽伝によれば、樊城攻めの際、糜芳・士仁が軍需物資を提供するのみで全力支援をしなかったため、
 関羽が「あいつら帰ったら殺す……」と発言し、糜芳・士仁はそれを恐れたとある。
 また呂蒙伝では、南郡城で火事が起こって兵器が消失し、関羽は糜芳(士仁の名前は無い)を激しく責め立て、
 これを理由に糜芳は呉に通じた、と記されている。
 
 
ただこれらの記述は、(恐らく)関羽サイドの見解であって、少なくとも糜芳・士仁は後方支援はきちんとしていた筈。
要は、関羽は「援軍よこせよ!」と言いたかったのだろう。ただ、隣接している呉の動きが不穏な以上、
 江陵の守備を任された糜芳が(後に劉封・孟達が関羽に援軍を送らなかったのと同じ理由で)兵は裂けないと判断しても、
 仕方が無いのではなかろうか。(糜芳は呂蒙に備えて南郡太守に任命された、とある)
 失火の件については、トップの糜芳が責任を取らされるのは当然だろうけど。
 ただ、不可解なことに、その後も関羽は糜芳・士仁をそのまま守備役に置いている。
 
 
正直、処罰したいほど憎んでいる相手に後方の守備を任せるというのは、理解しがたい。
「俺、この戦争が終わったら糜芳を処罰するんだ……」
 みたいな事を言っておいて、その糜芳に任せておけば後方は安心、と本当に思っていたのだとしたら
 関羽の脳内は相当「春ですよー」な事になるのではないか。
 もしくは、関羽には南郡の守備の重要性がわかっていなかったか。
 いくらなんでも、関羽がそこまでトンチキとは思いたくないのだが……。
 
 
個人的には、関羽と糜芳には決裂に到るほどの確執は無かった、と考えた方が、双方に角が立たず楽なんだけど。
 
 
その分、糜芳の守る南郡の防備は相当固かった様で、一計を案じた呂蒙は病気と称して帰還する。
代わりにまだ知名度の低い陸遜を派遣し、陸遜はひたすら関羽に遜(へりくだ)った為、
 油断した関羽は、江陵・公安の守備兵を前線に投入する。
 これを見るや、呂蒙は敵に悟られぬよう密かに兵を進め、一気に公安城下を包囲する。
 士仁は篭城したものの、戦力差は歴然で、虞翻の説得によって涙ながらに開城。
 江陵を守る糜芳も抗戦しようとしたが、士仁が呂蒙と共にいるのを見ると、どうにもならないと感じたのか、酒と肉を用意して降伏した。
 
 
……確かに糜芳と関羽は不仲だったが、彼があっさり降伏した最大の理由は、
江陵の守備の弱体化と、呂蒙の迅速な行軍の為、とてもマトモに戦える状態ではなかったから、ではないだろうか?
 (しかも、守備弱体化の原因は、関羽が前線に兵を引き抜いた事である)
 
 
たとえ士仁・糜芳が全力で抗戦したところで、長くはもたなかっただろうし、関羽が死ぬ結果には変わらなかったはず。
防備を薄くした時点で、糜芳が裏切る・裏切らないに関わらず、関羽の敗北は決まっていたのでは。
 
 
ともかく糜芳は呉に降り、関羽は死んだ。
これを恥じて兄が悶死した事については、糜芳は全力で反省すべきだろうが。
 
 
この争いの際に呉に降った糜芳・士仁・潘濬・郝普の四人について、
蜀将の活躍を記した『季漢輔臣賛』(要は、蜀の人間について書かれた蜀マンセー本)では、
 「私情で関羽を裏切って、蜀呉両方の笑い者になった」と記されている。
 ……が、この記述を鵜呑みにして
 「ほら見ろ! やっぱ糜芳は当時から叩かれてたんじゃねーか!」
 と決め付けるのは(ry
 そもそも、これが書かれた当時から、既に関羽の神格化は始まっていた。
 
 
そのため、この四将に対する記述も、著者の
「よくも関帝を裏切りやがったな! テメーらなんかボロカスに叩いてやる!」
 的な感情が入っていた可能性は、充分にあると思う。
 ……演義で、関羽の死に関わっていた人間が、酷い死に様に変えられていた様に。
 
 
特に、この内の一人、潘濬は、関羽の死後多くの人間が呉に降る中で一人出頭せず、
孫権にベッドごと連れて来られて泣く泣く降伏した、という忠義者のエピソードがあり、
 内政、反乱討伐に辣腕を振るい、丞相候補にまでなった名宰相。
 そんな人間が「私情で関羽を裏切り」、少なくとも「呉で笑い者になった」はずがない。
 ……そのため、この四将に対する評価は余り信用できないものと、個人的に判断している。
 
 
まあ、「潘濬は叩かれていないとしても、それが糜芳が叩かれていない証明にはならない」という意見もあるだろう。
それを裏付ける一つとして、呉の虞翻の糜芳に対する罵倒のエピソードがある。
 
 
時期は不明だが、糜芳が船に乗って虞翻と一緒に出かけたことがあった。
糜芳の船には人がたくさん乗っていたので、水先案内人が虞翻の船に「糜芳将軍の船を避けよ」と言うと、虞翻は
 「あ? テメーみたいな不義理者がどの面下げて殿に仕える気じゃボケ。お前なんぞ将軍を名乗る資格はねーよダラズ。
 (避けるんだったらテメーが避けろクズ)」(意訳)
 といきなり怒鳴りだした。糜芳は戸を閉ざして返答しなかったが、急いで虞翻の船を避けたという。
 
 
また別の時、虞翻が車に乗って出かけ、糜芳の営舎を通り抜けようとしたが、門が閉じていた事で車を通す事が出来なかった。
すると虞翻はまた怒って
 「テメー関羽裏切った時はあっさり門開けておいて、今俺が門通ろうとしてる時に限って閉めるとか馬鹿なの? 死ぬの?
 オラァ! とっと開けろや糜芳!」(意訳)と言うと、糜芳は慙愧の色を見せたと言う。
 ……糜芳の死因が心労だったらどうしよう。
 
 
とりあえずその裏切りの為、虞翻に嫌われていたのは確かなようだ。
ただ、虞翻は関羽に投降した干禁が呉に送還された際も、孫権が歓迎しているその横で
 「は? こんな負け犬の屑、丁重に取り扱う必要なんか無いっしょwww むしろブチ殺して見せしめにしましょうぜwww」(意訳)
 と言って孫権を不快にさせた真性のKYで、口の悪さには定評のある男。
 結局、余りにもアレな発言を繰り返して、とうとうキレた孫権に左遷されるという最後を迎えている。
 
 
干禁や糜芳に対する苛めも、裏切りに対する義憤と言うよりも、単純に罵倒したかったから、というように見えるのは穿ちすぎだろうか。
ともかく、虞翻が糜芳を嫌っていたからといって、呉全体が糜芳をそんな目で見ていたとは限らない。
 ……むしろコイツの意見が呉の総意だとしたら、もう呉は末期だろ。
 
 
……というか、士仁を説得して裏切らせ、糜芳が降伏する原因を作ったのは、他ならぬ虞翻なのだが。
果たして虞翻に糜芳を貶す資格があるのやら。
 
 
その後223年に、賀斉の配下として船団を率いて、晋宗の討伐に赴いている。
この晋宗は、呉から魏に寝返った将で、たびたび呉に侵攻を繰り返し、孫権をイラつかせていた厄介な相手だったが。
 賀斉配下として、糜芳は鮮干丹・劉召と共に晋宗を襲撃し、難なく生け捕りにしたと記されている。
 
 
この当時の糜芳の官職的な立場だが。
賀斉は異民族討伐で活躍し、後将軍・徐州牧の座についている孫呉でもトップクラスの将軍、ていうか神。
 上官の立場なのは当然だろう。
 劉召は、後に曹休との戦いで活躍したとある。鮮干丹は、夷陵の戦いの際、朱然や韓当達と共に陸遜の配下として名を連ねている武将。
 この面々の部下・同僚というのは、悪いポジションではない。
 
 
糜芳の呉での爵位は不明だが。
虞翻のエピソードで、少なくとも将軍職についている事が分かるので、呉における糜芳の地位はそれなりにあったと推測できる。
 少なくとも、重臣の虞翻といっしょに出かけられるぐらいには。
 
 
没年は不明。
演義では夷陵の戦いの際、士仁と共に返り忠を企てて、劉備に許されず処刑されているが、当然捏z……創作。
 実際は、この時賀斉配下として魏と呉の国境付近にいたはずなので、夷陵の戦いに参加することは物理的に不可能だっただろう。
 
 
あの江陵の一件の際、糜芳が抗戦して城を枕に討ち死にしていれば、現在における彼の評価は全く違ったものになっていただろう。
 
 
ただ、こちらは勝てる見込みが全く無く、上司からは「帰ったら処罰」と脅され、その危機の原因を作ったのも上司の行動、
さらに同僚は殆ど戦わず降伏。
 正直この状況で糜芳に「関羽のために頑張って死ね!」と言うのは、あまりに酷では無かったか。
 
 
まあ、どんな理由があろうと裏切りは裏切り。それ自体は非難されても仕方が無い事。
……が、そうなると他にも命惜しさに投降した割りに、大して非難されていない武将なんていくらでもいるわけで。
 
 
魏で言えば張郃、徐晃。蜀では三国鼎立後も王平や姜維など、こういった名将でもあっさりと裏切った経緯がある。
にもかかわらず、あんまり非難されていない。
 「生姜の裏切りは綺麗な裏切り、糜芳の裏切りは汚い裏切り」と言うのは無いだろう。
 
 
とは言え、糜芳にとって不幸だったのは、裏切った相手が後に神に祭り上げられた事だろう。
ここまで糜芳が卑劣漢扱いされるのは、関羽が死後神になったからに他ならない。
 歴史とは不公平と言うかなんと言うか……。
 
 
何十年も主君に仕えた古参の降伏、関羽との関連性、虞翻に罵倒されたりと、こうして見ると干禁と糜芳は似ているような気がする。
勿論、功績では干禁の方が上だが。
 まあ、末路が悲惨だった干禁に比べれば、活躍の記録が残ってる糜芳はまだマシだろう。
 
 
呉で大活躍だった潘濬に比べると見劣りするものの、
降ってからの記述が一切無い士仁、後に自殺に追い込まれた郝普に比べれば、相当恵まれている。
 劉備・曹操・孫権から一定の評価を受けており、中々面白い人生を送ったとも言える。
 
 
グダグダ語ったけど、結論としては、
裏切りを卑劣と見るかは個人の判断に任せるとして、決して一般的なイメージほど無能ではないという事を考慮してもらえば幸いです。
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